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☆ えいざん きくかわ 菊川 英山浮世絵師名一覧
〔天明7年(1787) ~ 慶応3年(1867)6月16日・81歳〕
 ※①〔目録DB〕〔国書DB〕:「日本古典籍総合目録」「国書データベース」国文学研究資料館   ②〔早稲田〕:『早稲田大学所蔵合巻収覧稿』    〔漆山年表〕  :『日本木版挿絵本年代順目録』 〔狂歌書目〕:『狂歌書目集成』    〔国文研・艶本〕:「艶本資料データベース」   〔白倉〕  :『絵入春画艶本目録』       ◎は表示不能文字  ☆ 文化三年(1806)    ◯「艶本年表」〔白倉〕(文化三年刊)    菊川英山画    『会本枕地気志』墨摺 半紙本 三冊 腎沢山人序 文化三年頃     (白倉注「初板は彩色摺で墨摺は後摺本らしい。取合本の可能性大」)  ☆ 文化七年(1810)    ◯「合巻年表」(文化七年刊)    菊川英山画    『鶉権兵衛俠気話』「菊川英山筆」式亭三馬作 鶴喜板 ②    『傾城貞操亀鑑』 「菊川英山画」橋本徳瓶作 西与板 ②     〈補注に「版元永寿堂口上」の引用があり、そこには次のようにある〉    〝此本の作者画工両人ともいまだ若年ものゝ義にござりますれば、甚ミじゆくがちにハ候へども、お江     戸根おひのものどもにござりますれば、いく/\ハ上手のかづにも入候やう、御ひいきのほどねがひ     上ます。ことにきく川ゑい山義、当年初ぶたいの画工にござりますれば、別して御取たてのほど、ひ     とへにこひねがひあげたてまつります〟     〈菊川英山は江戸生まれ。合巻の初筆は文化七年ということになる。作者の橋本徳瓶は千代春道〉    『忠孝大鶏塚』  「菊川英山筆」竹塚東子作 西与板 ①    ☆ 文化八年(1811)    ◯「合巻年表」(文化八年刊)    菊川英山画『小夜中山嫐話』「英山画」橋本徳瓶作 西与板 ①    ☆ 文化九年(1812)    ◯「合巻年表」(文化九年刊)    菊川英山画    『黒船染姉川頭巾』 菊川英山画 橋本徳瓶作  西与板 ①〈板元は文化九年新刊目録による〉    『浮楽鏡忠義見通』「英山画」  感和亭鬼武作 西与板 ①    『人孝奇談讃実録』「英山画」  竹塚東子作  西与板 ①    ◯『狂歌波津加蛭子』〔江戸狂歌・第八巻〕宿屋飯盛編・文化九年(1812)刊    挿絵「英山画」    ☆ 文化十年(1813)    ◯「合巻年表」(文化十年刊)    菊川英山画『復仇大鳥塚』菊川英山作 竹塚東子作 板元未詳(注:日本小説年表による)①    ◯『馬琴書翰集成』⑥323 文化十年(1813)「文化十年刊作者画工番付断片」(第六巻・書翰番号-来133)
   「文化十年刊作者画工番付断片」    〈書き入れによると、三馬がこの番付を入手したのは文化十年如月(二月)のこと〉    ☆ 文化十二年(1815)    ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕(文化十二年刊)    菊川英山画『絵合錦街抄』色摺 大判 十二枚          序「乙亥のはる 道楽山人誌」    ☆ 文化十一年(1814)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文化十一年)   「英山筆」(常盤橋御門前の橋上に婦人と梅鉢を肩に担う小僧)〔都立図書館〕    「いく千代の竹橋梅のかほりきて枝ふる松の常盤はしかな 楠窟亭好名」    〈前帯に大の月〉  ☆ 文化十四年(1817)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文化十四年)   ⑧「英山筆」Ⅲ-5「小原女と黒牛」(薪を頭に載せて黒牛を牽く小原女)    「五葉亭鞠丸」戯文〈戯文に大の月を織り込む〉    ◯「艶本年表」(文化十四年刊)    菊川英山画    『回談情の山入』色摺 中本 四冊〔日文研・艶本〕            序「此道陰志述」見返し「文化十四年頃 菊川英山筆 四巻」    『恋模様』   大錦 十二枚組物 文化十四年頃〔白倉〕     (白倉注「英山の二大「大錦組物」の一つ。ともに華麗な彩色で知られる」)    ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   「麹町 浮世画」〝英山 号菊川 六町目 佐花屋万吉〟  ☆ 文化年間(1804~1818)    ◯「艶本年表」〔目録DB〕(文化年間刊)    菊川英山画    『婦多葉能栄え』三冊 菊川英山画? 文化頃刊(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『春の山』   三冊 菊川英山画? 文化頃?(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ◯『増訂武江年表』2p58(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文化年間記事」)   〝浮世絵 葛飾戴斗、歌川豊国、同豊広、同国貞、同国丸、蹄斎北馬、鳥居清峯、柳々居辰斎、柳川重信、    泉守一(渾名目吉)、深川斎堤等琳、月麿、菊川英山、勝川春亭、同春扇、喜多川美丸〟     ☆ 文政二年 己卯(1819)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文政二年)   ③「英山」(桶に注連飾り・破魔弓・鉄網)1-18/23     賛なし(木札に大小とうさぎ)  ☆ 文政四年(1821)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政四年刊)    菊川英山画    『新曲撰狂歌集』狂歌 初編 千春 北渓 英山 山川白酒画 春青斎画 素羅園写 勢砂筆                  狂蝶子文丸画 清澄画 六樹園序    ◯「艶本年表」〔白倉〕(文政四年刊)    菊川英山画『春情年中好志撰』間錦 十二枚組物 英山か 文政四年頃  ☆ 文政五年(1822)    ◯「艶本年表」〔白倉〕(文政五年刊)    菊川英山画    『江戸之紫』 色摺 半紙本 三冊 文政五年頃     (白倉注「英山には珍しい三冊本だが、いかにも彼らしい佳麗な色彩が目に付く」)  ☆ 文政八年 乙酉(1825)     ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文政八年)   ⑧「英山」Ⅱ-9「七福神の宝引き」(弁財天が胴元で他の六神がそれぞれ紐をもつ)    「博多入住」狂歌賛「文政八つの春 大の月」〈狂歌に大の月を詠み込む〉  ☆ 文政十年(1827)    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB画像〕(文政十年刊)    菊川英山九画    『狂歌波津加蛭子』一冊 一向舎・一九・英山画 六樹園飯盛編(『狂歌毎月集』寛政十二年刊の解題本)    ☆ 文政十二年(1829)     ◯「文政十二己丑日記」②84 五月十一日(『馬琴日記』第二巻)   〝画工英山と申者、英泉方より参候よしニて、来ル。不逢。右ハ武家方より文を被頼候間、作文いたしも    らひ度よし、申之。此節、多用ニ付、急ニは出来かね候趣ヲ以、及断。お百、とり次也〟    〈この英山は英泉の師匠菊川英山〉    ☆ 天保四年(1833)    ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③315(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝菊川英山【文化、文政ノ比】     俗称為五郎、市谷ノ産、居麹町ニ住、号重九斎、名俊信。    始め父英二に業を学びたり(英二に関する割書、略、菊川英二参照)北渓は幼年以来の友なりしかば、    其画法を慕ひ、北斎流の画をかけり、古歌麿歿故して、後自立して歌麿の画風に似せて一家をなし、板    刻の美人画を出せり、大に世に行れたり、豊国、春扇と並び行れて、浮世美人絵中興一家の祖となり、    始めは役者絵も書けり、【文化三四年ノ頃、堀江町ノ団扇問屋、故有テ悉ク豊国ノ新板絵ヲ不出、一年    英山ノ役者画ノ団扇バカリ出セシ事アリ、其翌年ノ頃ヨリ、国貞モ、ハジメテ歌右衛門ガ猿回シノ与次    郎ノ画ノウチハヲカキシナリ、夫ヨリウチハ画、年々□(ママ)英山ハ役者画ヲヤメテカゝズ、美人画ヲ多    く出セリ、国貞ヨリ二三年モ早ク世ニ行レタリ、錦画、麹町三河屋伝左衛門ト云絵双紙問屋版元ニテ、    始メテ英山ノ画ヲ出シ、大ニ売レシト云、歌麿歿シテ美人画絶タリ、時ニ逢シモノナリ】役者画は豊国、    美人画は英山と並び行れ【豊国ノ役者画ノ上表紙ニ、一陽斎ノ画像ヲ英山画シ、英山ノ画ニ、豊国寄合    書キ等アリ、交深ク、タガヒニ懇意ナリシカバ、諸侯方ヘモ二人ヅヽ、席画ニモ出、絹地彩色画モ両人    ヘ命ゼラレタリ、年ノ字、年菊の字、菊織物煙草入ナドヘチラシニ付タルヲ持リ、現ニ在リ、英山ハ南    嶺ノ門人ナリ、能ク写意ヲ学べり】草双紙四五種あり、【竹塚東子作、三馬作、大雞塚、板元西村是ハ    ジメナリ、橋本徳瓶作、二三年続テ出タリ】読本は不画、美人浮世風俗は、狂言振と不似、やはらかに、    当時の風俗をかき、遠国迄も名高き一時の妙手なり、錦絵は夥敷開板せり、世に知る処也、文政の末よ    り業に廃せられて、多く板下を不画、門人多し、菊川流と改む     菊川英山門人      英章【錦画、浅野氏、ウチハアリ】  英泉【別ニ記ス】      英里【錦画アリ、冬木氏】      英信【スリモノ画多シ、安五郎】      光一英章【春画本アリ、狂言作者ナリ、名章三】      英蝶【スリモノ画アリ】     其外数十人あれども、板刻の画をかゝざるものは、爰にのせず。    因に云、英山は画才あれども、読本、草双紙を画く事には甚疎し、十返舎一九の貧福論のさしゑは、此    人の画なり、草双紙も徳瓶が作の姉川頭巾と云し双紙の画は、豊国の人物の中に、自己が女画を書加へ    しゆへ、其頃評判もよかりしゆへ、北嵩も是に倣て画し草双紙、よみ本、多くありしなり〟    〈一九の「貧福論」とは文化九年刊の滑稽本『世の中貧福論』前編、「国書基本DB」は一九画とする。「姉川頭巾」     とは文化九年刊の合巻『黒船染姉川頭巾』〉    ☆ 天保十三年(1842)  ◯『【江戸現在】公益諸家人名録』二編「キ部」〔人名録〕②86(天保十三年夏刊)   〝画 英山【名俊信、字重九斎】四谷裏御箪笥町 菊池万五郎〟    ☆ 天保十五年(弘化元年・1844)    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   〝菊川英山 文化文政の頃     俗称 万五郎  市カ谷の産  麹町に住す     号  重九斎  名 俊信 (英山、南嶺門人にもなりしと云)    始父英二に業を学びたり(英二は狩野流の門人東舎と云人の門人なり。板刻の画はかゝず。菊川一家の    浮世絵師なり。造り花を業として近江屋といふ)北渓は幼年よりの友なりしかば、其画法を慕ひ、北斎    流の画をかけり。古歌麿歿してより後、歌麿の画風に似せて板刻の美人画を出し、行れたり。其比、豊    国、春扇とともに行れたり。始は役者絵も書り(文化三四年の頃、堀江町の団扇問屋、故有て悉く豊国    の新板画を不出、一年英山の役者画の団扇ばかり出せし事有、其翌年の頃より、国貞も始て歌右衛門が    猿回しの与次郎が画の団扇を出したり、夫よりうちは画、年々英山は役者を止てかゝず、美人画を多く    かけり。国貞より二三年も早く世に行れたり。麹町三河屋伝左衛門と云、絵双紙屋は英山の画を出し、    大に売れしと云、豊国の役者絵に、上表紙へ一陽斎の画像を英山画し、英山の画に豊国寄合書き等あり、    交り深く、互に懇意なりしかば、諸侯方へも二人つゝ席画にも出、花押年の字、菊の字、織もの煙草入    などへちらしに付たるを持り。英山文政の末より多く板下を不画)    読本は不画、草双紙四五種あり(英山画才あれども、読本草紙を画く事は甚疎しと云々)      英山門人(此外数十人あれども、板本をかゝざるものは爰にのせず)       英章(錦画 団扇有 浅野氏)     英泉(末に記)       英里(冬木氏 錦画あり)       英信(安五郎 摺物画多し)       光一英章(章三 狂言作者也 春画あり)英蝶(摺物画あり)〟    〈(末に記)とは英泉の項目を設けてそこに記すという意味〉    ☆ 弘化二年(1845)    △『戯作者考補遺』p447(木村黙老編・弘化二年序)   〝英山 かうし町六丁目 佐花や万吉〟    ☆ 嘉永三年(1850)    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   ◇中p1367   〝英山【女ノ画、麹町、今老不出来】〟    〈「今老不出来」の今とはどの時点をいうのであろうか〉      ◇中p1412   〝菊川英山 文化中〟    ☆ 文久三年(1863)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文久三年刊)    菊川英山画『江戸大節用海内蔵』二冊 菊川英山翁図画 高井蘭山増輯・中井経年補輯  ◯『江戸大節用海内蔵』(国書データベース)    口絵および巻末の七福神図「英山」    奥付「宝永元甲申年元版 天保四年癸巳年増補 文久三癸亥年補刻       撰者 高井蘭山翁增輯 中村経年翁補輯 画工 菊川英山翁図画       彫工 宮田六左衛門 江川僊太郎 全刀」  ☆ 元治元年(文久四年・1864)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(元治元年刊)    菊川英山画「上毛藤岡名勝寿語録」桑樹園玉世著    「菊川英山画」板元未詳「元治元甲子年十二月」②    ☆ 慶応元年(元治二年・1865)    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(元治二年刊)    菊川英山画『御家 百人一首千歳文庫』挿絵・肖像 菊川英山画〔跡見327〕    猪瀬尚賢書 嵩山房小林新兵衛 奥付「于時 元治二年三月望日也(中略)猪瀬尚賢」    〈画工名は書誌に拠る〉  ☆ 慶応三年(1867)(六月十六日没・八十一歳)  ☆ 刊年未詳    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(刊年未詳)    菊川英山画   「江戸のはな役者すこ六」「英山筆」  加賀屋吉右衛門 ②   〔諸芸遊山双六〕    「菊川英山画」若狭屋与市   ② 三笑亭可上作    ◯「おもちゃ絵年表」〔本HP・Top〕(刊年未詳)    菊川英山画〔おもちゃ絵牛若丸〕「英山画」板元未詳 江戸後期 ⑥    ◯「艶本年表」〔目録DB〕   ◇艶本(刊年未詳)    菊川英山画    『艶本葉男婦舞喜』三冊 菊川英山画 (注記「艶本目録による」)    『画本女六哥仙』 三冊 菊川英山画?(注記「艶本目録による」)    『恋能秘男婦喜』 三冊 菊川英山画?(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『艶本恋の操』  三冊 英山画    ☆ 没後資料  ☆ 慶応四年(明治元年・1868)    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「菊川氏系譜」の項 ⑪186 
   「菊川英山系譜」     ◇「菊川英山」の項 ⑪206   〝菊川英山    名俊信、号重九斎、俗称万五郎、市ヶ谷の産、麹町に住す。父栄二に業を学びたり。〔割註 英二は狩    野流の門人東舎と云人の門人なり。板刻の画はかゝず。菊川一家の浮世絵師なり。造り花を業として近    江屋といふ〕北渓は幼年よりの友なりしかば、其画風を慕ひ、北斎流の画をかけり。故歌麿歿してより    歌麿が画風に似せて、板刻の美人画を出し行れたり。其頃豊国春扇ともに行れたり。始は役者も画り。    文化三四年頃、堀江町の団扇問屋故有て悉く豊国の新板画を不出、一年英山の役者絵の団扇計り出せし    事有。英山、豊国の両人交り深く、豊国の役者絵の上表紙へ一陽斎の画像を英山画き、英山の画に豊国    の寄合書等あり。諸侯方へも二人づゝ席画に出しとぞ。読本は不画、草双紙四五部あり。文政の末より    多く板下を不画〟    ☆ 明治年間(1868~1911)    ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)   〝文化 菊川英山    豊春に学び美人画を能くし、刻板の摺絵大に行る〟    ◯『日本美術画家人名詳伝』下p445(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)   〝菊川英山    江戸ノ人、名ハ俊信、通称為五良、重九斎ト号ス、始メ父英二ニ業ヲ学ベリ【英二ハ狩野ノ門人東舎ト    云人ノ門人也、板刻ノ画ハカヽズ、菊川一家ノ浮世絵師ナリ、造リ花ヲ業トス、近江屋トイフ】幼ヨリ    北渓ノ画法ヲ慕ヒ、北斎流ノ画ヲカケリ、哥麿歿故シテ後チ、自立シテ哥麿ノ画風ニ似セテ一家ヲナシ、    板刻ノ美人画ヲ出セリ、大ニ行レタリ、豊国・春扇ト並ビ立テ浮世美人絵中興一家ノ祖ナリ〟    ◯『古代浮世絵買入必携』p17(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)   〝菊川英山    本名〔空欄〕   号 重九斎   師匠の名〔空欄〕   年代 凡七十年前より九十年迄    女絵髪の結ひ方 第十図・第十一図・第十二図 (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    絵の種類 大判、中判、小(*一字未詳)、細絵、長絵、二枚つぎ、摺物、肉筆    備考  〔空欄〕〟    ◯『浮世絵師便覧』p228(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝英山(ザン)    菊川氏、名は俊信、重九斎と号す、俗称萬五郎、風俗美人画、◯享和〟  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(52/103コマ)   〝菊川英山【享和元~三年 1801-1803】    名は俊信、通称万五郎、一に為五郎、重九斎と号す、市ヶ谷に生れて、麹町に住めり、はじめ画を父英    二に学びしが、後に南嶺の門弟となりて、美人絵を多く画けり、葵岡北渓は幼年よりの友なりしかば、    其の画風を慕ひ、北斎流の絵を画けり、喜多川歌麿の没してより後、其の画風に似せて、板刻の美人絵    を出せりといふ、初めは俳優をも画けりとぞ、当時豊国、春扇と並びて世に行はれたりし人なり〟    ◯『浮世画人伝』p100(関根黙庵著・明治三十二年(1899)五月刊)  〝 菊川英山(ルビきくかはえいざん)   菊川英山、名は俊信(トシノブ)、通称は佐花屋万吉また万五郎を云ひ、重九斎と号す、江戸の人にして麹町   六丁目に住したりき。英山、幼にして画を父英二に学べり。英二は狩野家の門人東舎の弟子にして、終身   板下を画かず。一家の浮世絵師たり。造花を本職として家号を近江屋と云ふ。英山、後年鈴木南嶺の門に   入りぬ、又魚屋北渓とは竹馬の友たるをもて、自然北渓の師北斎の画風を慕ふの心起れり。喜多川歌麿の   死後、其画風を模範として、美人を描けり。英山殊に団扇画に妙を得て、文化三四年頃、最も行はれたり。   麹町三河屋と云へる絵草紙屋は英山の画を出して、世評頗(スコブ)る宜く大利を博せりと云ふ。併し俳優の   似顔は英山の長所にあらざりしとぞ。英山は初代豊国と交際最も親密にして、諸藩主より席画の招きにも   両人席を同じうせし事屢々(シバシバ)なりしとなん、又両人合作の板行あり、殊に両人の徽章を織模様にし   たる一対の煙草入を持料とせしが如きは、其親密のなみ/\ならぬを知るに足るべし〟
   「菊川英山系譜」    ◯「集古会」第五十三回 明治三十八年(1905)五月 於青柳亭(『集古会誌』乙巳巻之四 明治38年9月刊)   〝早川久三郞(出品者)歌かるた 菊川英山画 一組〟  ◯「集古会」第五十七回 明治三十九(1906)年三月 於青柳亭(『集古会誌』丙午巻之三 明治39年5月)   〝大橋微笑(出品者)菊川英山筆 観花図(錦絵帖ノ内)一帖〟  ◯「集古会」第六十六回 明治四十一年(1908)一月 於青柳亭(『集古会誌』戊申巻二 明治41年10月刊)   〝村田幸吉(出品者)菊川英山画 諸芸遊参双六 三笑亭可上作〟  ◯『浮世絵画集』第一~三輯(田中増蔵編 聚精堂 明治44年(1911)~大正2年(1913)刊)   「徳川時代婦人風俗及服飾器具展覧会」目録〔4月3日~4月30日 東京帝室博物館〕   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇『浮世絵画集』第一輯(明治四十四年七月刊)    (絵師)   (画題)  (制作年代) (所蔵者)    〝菊川英山  「桜狩図」  享和頃    春名高義〟   ◇『浮世絵画集』第三輯(大正二年(1913)五月刊)    〝菊川英山  「三美」   享和頃    九鬼光子〟  ☆ 大正年間(1912~1825)  ◯『浮世絵』第二十五号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正六年(1915)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「菊川英山筆夏装美人之図」翠陰舎主人(22/26コマ)   〝(文化末~文政初めと目される上記美人図の解説あり)    近頃まで其生没年月は明かでなかつたが、現存せる木版彫刻師宮田六左衛門氏は、英山晩年の作を彫つ    た人で、同家所蔵の大黒天の肉筆画に「文久四甲子年正月二十二初甲子七十八翁英山写之」とあつて    其の年齢も判り、慶応三年八十一歳で没したことも明かになつた〟    〈宮田六左衛門は前年文久三年刊『江戸大節用海内蔵』(英山画)の彫を担当している。文久三年参照〉  ◯「集古会」第百四十一回 大正十二年(1923)三月(『集古』癸亥第三号 大正12年月刊)   〝浅田澱橋(出品者)英山 玉楼若紫〟  ☆ 昭和年間(1926~1987)    ◯『狂歌人名辞書』p29(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝菊川英山、東都の浮世絵師、名は俊信、通称近江屋万五郎、初め画を南嶺に学び、後ち北斎の画風を慕    ひ歌麿の歿後はまた歌麿風の美人画を描けり、慶応三年歿す、年八十一〟    ◯『浮世絵師伝』p13(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英山    【生】天明七年(1787)  【歿】慶応三年(1867)-八十一    【画系】英二の男     【作画期】文化~文久    江戸市ヶ谷に生る。菊川氏、名は俊信、重九斎と号す、通称を近江屋万五郎と云ひ、代々造り花屋を営    む(後に四谷箪笥町、麹町六丁目等に転居す)、父英二は狩野派の東舎といへる者に学びしが、版画は    描かず、且つ純然たる浮世絵師にあらざれば、姑く英山を以て菊川派の祖とす。    英山は初め父に就て画を学び、後ち鈴木南嶺の門に遊ぶ、又、北渓とは夙に親交あり、ひそかに其の画    風を慕ひて、多少北斎流を折衷せしとぞ。彼は早熟の人にして、享和年間十六七歳の時に初作(役者絵)    を発表し、文化四年即ち二十一歳の頃には一流の版画家となれり、描く所は美人画最も多く、殊に小児    を題材にしたるもの尠からず、其が文化初期に於ける美人画は、初代歌麿晩年の風に酷似し、時好亦こ    れを迎ふる所あり、且つ其の頃より天保中期に亘りて、田舎土産として非常に流行せし掛物絵(大判竪    二枚つぎ)は、実に彼によりて流行の端を開きしなり。(口絵第五十二図參照)    然るに、彼には実子無かりし爲めか、晩年は甚だ憐むべき境遇に陥り、辛くも高田の植木屋彦兵衛(英    山の弟子)方に寄食し、其の間『江戸大節用海内藏(エドオホセツヨウカイダイグラ)』二册(文久三年完成)の    挿画を描きて、彼が一世一代とも称すべき老筆の蹟をとゞめたり、これ歿年に先だつ四年、即ち七十七    歳の時なりき、門人数名中、渓斎英泉最も著はる〟    ◯『近世文雅伝』三村竹清著(『三村竹清集六』日本書誌学大系23-(6)・青裳堂・昭和59年刊)   ◇「夷曲同好筆者小伝」p444(昭和六年九月十六日記)   〝英山 菊川俊信、幼称万吉改万五郎、称近江屋、家売造化、住四谷裏御箪笥町、学画父英二及鈴木南嶺、       号重九斎、慶応三年没、享年八十一【麹町六丁目佐花屋万吉(方角分)】〟  ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「文政四年 辛巳」(1821)p196   〝此年、北渓・英山・沖一峨・岳亭・千春等の画ける『新曲撰狂歌集』出版〟     ◇「慶応三年 丁卯」(1867)p143   〝菊川英山歿す。行年八十一。(英山は渓斎英泉の師なり。名俊信、俗称は近江屋万五郎、重九斎の号あ    り。錦絵に美人を画けるを見れども、図書には稀に見るところにして、文久三年七十七の高齢を以て画    来たる『江戸大節用海内蔵』といへる大本二冊あり)〟    ◯「集古会」第二百回 昭和十年三月(『集古』乙亥第三号 昭和10年5月刊)   〝中沢澄男(出品者)英山画 錦絵 花魁道中図 一枚〟  △『増訂浮世絵』p245(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝菊川英山    英山は長寿であつて、製作期も長い間に亘つた人である。文政の末までは、数多い作品を出し、その後    一時期製作を中止して、更に後年になつて、節用集などに挿絵を作つた。版画、肉筆絵共に美人画を多    く作つて居る。名は俊信、通称を近江屋万五郎と云ひ、家は造花を業とした。重九斎の別号がある。江    戸市ヶ谷の人。父英二は初め狩野派の画家東舎に学びて、後に浮世絵を画いた人である。英山も最初は    父に就いて絵を習つたが、後には鈴木南嶺に師事したことがあつた。北斎の門人北渓の仲のよい友達で    あつたので、北斎風の影響をうけて居る。また英山は豊国とも親しく、合作の錦絵もある。従つてその    作風に亦豊国と相似た所がある。英山の筆はやゝ軽快の趣があつて、早い時代のものは、錦絵黄金時代    の諸家の作風に倣つたものがある。かくて、英山一流の絵が出来たのであるが、美人の外に役者もかき、    錦絵には相当に見るべきものがある。また草双紙の挿絵も画いた。    英山は晩年を不遇に終つた。慶応三年八十一歳の高齢で没したのである。彼の美人は英泉に比べると寧    ろ柔か味があつて、情趣に富んだものである。顔の表情など艶な所もあり、快い感じを見せて居る。挿    絵にした風流七小町の通小町図の如き美人の姿もよく、英山の作としては優れたものである。    英山の門人     門下の秀才は英泉である。次いで、英章(或は笑)、英里、英信、英蝶、英秀、英柳、英賀、英子、英    重、英嶺、英真、英徳、英玉、英龍、英亀などがあるが、世に知られない〟  ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔菊川英山画版本〕     作品数:18点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:英山・菊川英山    分 類:合巻8・艶本6・遊女評判記2・狂歌1・節用集1    成立年:文化7~10(8点)(文化年間合計10点)        文政4~5年(1点)        文久3年  (1点)    〈文久三年(1863)の一点は節用集の『江戸大節用海内蔵』〉