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☆ えいざん きくかわ 菊川 英山浮世絵師名一覧
〔天明7年(1787)~ 慶応3年(1867)6月16日・81歳〕
 ☆ 文化七年(1810)    ◯「合巻年表」(〔早稲田〕は『早稲田大学所蔵合巻収覧稿』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(文化七年刊)※角書は省略    菊川英山画    『鶉権兵衛俠気話』署名 「菊川英山筆」式亭三馬作・鶴屋喜右衛門板〔早稲田〕    『傾城貞操亀鑑』 絵題簽「菊川英山画」橋本徳瓶作・西村屋与八板 〔早稲田〕     〈補注に「版元永寿堂口上」の引用があり、そこには次のようにある〉    〝此本の作者画工両人ともいまだ若年ものゝ義にござりますれば、甚ミじゆくがちにハ候へども、お江     戸根おひのものどもにござりますれば、いく/\ハ上手のかづにも入候やう、御ひいきのほどねがひ     上ます。ことにきく川ゑい山義、当年初ぶたいの画工にござりますれば、別して御取たてのほど、ひ     とへにこひねがひあげたてまつります〟     〈菊川英山は江戸生まれ。合巻の初筆は文化七年ということになる。作者の橋本徳瓶は千代春道〉    『忠孝大鶏塚』 菊川英山画 竹塚東子作〔目録DB〕    ☆ 文化八年(1811)    ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(文化八年刊)※角書は省略    菊川英山画『小夜中山嫐話』菊川英山画 橋本徳瓶作〔目録DB〕      ☆ 文化九年(1812)    ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(文化九年刊)※角書は省略    菊川英山画    『人孝奇談讃実録』菊川英山画 竹塚東子作 〔目録DB〕    『浮楽鏡忠義見通』菊川英山画 感和亭鬼武作〔目録DB〕    『黒船染姉川』  菊川英山画 橋本徳瓶作 〔目録DB〕    ◯『狂歌波津加蛭子』〔江戸狂歌・第八巻〕宿屋飯盛編・文化九年(1812)刊    挿絵署名「英山画」     ☆ 文化十年(1813)    ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)    ◇合巻(文化十年刊)※角書は省略    菊川英山画『復仇大鳥塚』菊川英山作 竹塚東子作〔目録DB〕    ◯『馬琴書翰集成』⑥323 文化十年(1813)「文化十年刊作者画工番付断片」(第六巻・書翰番号-来133)
    「文化十年刊作者画工番付断片」      〈書き入れによると、三馬がこの番付を入手したのは文化十年如月(二月)のこと〉    ☆ 文化十二年(1815)    ◯「艶本年表」(「国文研・艶本」は「艶本資料データベース」)   ◇艶本(文化十二年刊)    菊川英山画『絵合錦街抄』色摺 大判 十二枚〔国文研・艶本〕          序「乙亥のはる 道楽山人誌」    ☆ 文化十四年(1817)    ◯「艶本年表」(「国文研・艶本」は「艶本資料データベース」)   ◇艶本(文化十四年刊)    菊川英山画『回談情の山入』色摺 中本 四冊〔国文研・艶本〕          序「此道陰志述」見返し「文化十四年頃 菊川英山筆 四巻」    ☆ 文化年間(1804~1818)    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(文化年間刊)    菊川英山画    『婦多葉能栄え』三冊 菊川英山画? 文化頃刊〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『春の山』   三冊 菊川英山画? 文化頃?〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ◯『増訂武江年表』2p58(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文化年間記事」)   〝浮世絵 葛飾戴斗、歌川豊国、同豊広、同国貞、同国丸、蹄斎北馬、鳥居清峯、柳々居辰斎、柳川重信、    泉守一(渾名目吉)、深川斎堤等琳、月麿、菊川英山、勝川春亭、同春扇、喜多川美丸〟     ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   (「麹町」合い印「浮世画」)   〝英山 (号)菊川  六町目  佐花屋万吉〟    ☆ 文政四年(1821)      ◯「絵本年表」(漆山又四郎著『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(文政四年刊)    菊川英山画    『新曲撰狂歌集』狂歌 初編 千春 北渓 英山 山川白酒画 春青斎画 素羅園写 勢砂筆                  狂蝶子文丸画 清澄画 六樹園序〔漆山年表〕    ☆ 文政十年(1827)    ◯「絵入狂歌本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇狂歌(文政十年刊)    菊川英山九画    『狂歌波津加蛭子』一冊 一向舎・一九・英山画 六樹園飯盛編(『狂歌毎月集』寛政十二年刊の解題本)〔目録DB画像〕    ☆ 文政十二年(1829)     ◯「文政十二己丑日記」②84 五月十一日(『馬琴日記』第二巻)   〝画工英山と申者、英泉方より参候よしニて、来ル。不逢。右ハ武家方より文を被頼候間、作文いたしも    らひ度よし、申之。此節、多用ニ付、急ニは出来かね候趣ヲ以、及断。お百、とり次也〟    〈この英山は英泉の師匠菊川英山〉      ☆ 天保四年(1833)    ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③315(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝菊川英山【文化、文政ノ比】     俗称為五郎、市谷ノ産、居麹町ニ住、号重九斎、名俊信。    始め父英二に業を学びたり(英二に関する割書、略、菊川英二参照)北渓は幼年以来の友なりしかば、    其画法を慕ひ、北斎流の画をかけり、古歌麿歿故して、後自立して歌麿の画風に似せて一家をなし、板    刻の美人画を出せり、大に世に行れたり、豊国、春扇と並び行れて、浮世美人絵中興一家の祖となり、    始めは役者絵も書けり、【文化三四年ノ頃、堀江町ノ団扇問屋、故有テ悉ク豊国ノ新板絵ヲ不出、一年    英山ノ役者画ノ団扇バカリ出セシ事アリ、其翌年ノ頃ヨリ、国貞モ、ハジメテ歌右衛門ガ猿回シノ与次    郎ノ画ノウチハヲカキシナリ、夫ヨリウチハ画、年々□(ママ)英山ハ役者画ヲヤメテカゝズ、美人画ヲ多    く出セリ、国貞ヨリ二三年モ早ク世ニ行レタリ、錦画、麹町三河屋伝左衛門ト云絵双紙問屋版元ニテ、    始メテ英山ノ画ヲ出シ、大ニ売レシト云、歌麿歿シテ美人画絶タリ、時ニ逢シモノナリ】役者画は豊国、    美人画は英山と並び行れ【豊国ノ役者画ノ上表紙ニ、一陽斎ノ画像ヲ英山画シ、英山ノ画ニ、豊国寄合    書キ等アリ、交深ク、タガヒニ懇意ナリシカバ、諸侯方ヘモ二人ヅヽ、席画ニモ出、絹地彩色画モ両人    ヘ命ゼラレタリ、年ノ字、年菊の字、菊織物煙草入ナドヘチラシニ付タルヲ持リ、現ニ在リ、英山ハ南    嶺ノ門人ナリ、能ク写意ヲ学べり】草双紙四五種あり、【竹塚東子作、三馬作、大雞塚、板元西村是ハ    ジメナリ、橋本徳瓶作、二三年続テ出タリ】読本は不画、美人浮世風俗は、狂言振と不似、やはらかに、    当時の風俗をかき、遠国迄も名高き一時の妙手なり、錦絵は夥敷開板せり、世に知る処也、文政の末よ    り業に廃せられて、多く板下を不画、門人多し、菊川流と改む     菊川英山門人      英章【錦画、浅野氏、ウチハアリ】  英泉【別ニ記ス】      英里【錦画アリ、冬木氏】      英信【スリモノ画多シ、安五郎】      光一英章【春画本アリ、狂言作者ナリ、名章三】      英蝶【スリモノ画アリ】     其外数十人あれども、板刻の画をかゝざるものは、爰にのせず。    因に云、英山は画才あれども、読本、草双紙を画く事には甚疎し、十返舎一九の貧福論のさしゑは、此    人の画なり、草双紙も徳瓶が作の姉川頭巾と云し双紙の画は、豊国の人物の中に、自己が女画を書加へ    しゆへ、其頃評判もよかりしゆへ、北嵩も是に倣て画し草双紙、よみ本、多くありしなり〟    〈一九の「貧福論」とは文化九年刊の滑稽本『世の中貧福論』前編、「国書基本DB」は一九画とする。「姉川頭巾」     とは文化九年刊の合巻『黒船染姉川頭巾』〉    ◯『【江戸現在】公益諸家人名録』二編「キ部」〔人名録〕②86(天保十三年夏刊)   〝画 英山【名俊信、字重九斎】四谷裏御箪笥町 菊池万五郎〟    ☆ 天保十五年(弘化元年(1844))    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)     〝菊川英山 文化文政の頃     俗称 万五郎  市カ谷の産  麹町に住す     号  重九斎  名 俊信 (英山、南嶺門人にもなりしと云)    始父英二に業を学びたり(英二は狩野流の門人東舎と云人の門人なり。板刻の画はかゝず。菊川一家の    浮世絵師なり。造り花を業として近江屋といふ)北渓は幼年よりの友なりしかば、其画法を慕ひ、北斎    流の画をかけり。古歌麿歿してより後、歌麿の画風に似せて板刻の美人画を出し、行れたり。其比、豊    国、春扇とともに行れたり。始は役者絵も書り(文化三四年の頃、堀江町の団扇問屋、故有て悉く豊国    の新板画を不出、一年英山の役者画の団扇ばかり出せし事有、其翌年の頃より、国貞も始て歌右衛門が    猿回しの与次郎が画の団扇を出したり、夫よりうちは画、年々英山は役者を止てかゝず、美人画を多く    かけり。国貞より二三年も早く世に行れたり。麹町三河屋伝左衛門と云、絵双紙屋は英山の画を出し、    大に売れしと云、豊国の役者絵に、上表紙へ一陽斎の画像を英山画し、英山の画に豊国寄合書き等あり、    交り深く、互に懇意なりしかば、諸侯方へも二人つゝ席画にも出、花押年の字、菊の字、織もの煙草入    などへちらしに付たるを持り。英山文政の末より多く板下を不画)    読本は不画、草双紙四五種あり(英山画才あれども、読本草紙を画く事は甚疎しと云々)      英山門人(此外数十人あれども、板本をかゝざるものは爰にのせず)       英章(錦画 団扇有 浅野氏)     英泉(末に記)       英里(冬木氏 錦画あり)       英信(安五郎 摺物画多し)       光一英章(章三 狂言作者也 春画あり)英蝶(摺物画あり)〟    〈(末に記)とは英泉の項目を設けてそこに記すという意味〉      ☆ 弘化二年(1845)    △『戯作者考補遺』p447(木村黙老編・弘化二年序)   〝英山 かうし町六丁目 佐花や万吉〟    ☆ 嘉永三年以降(1850~)    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   ◇中p1367   〝英山【女ノ画、麹町、今老不出来】〟    〈「今老不出来」の今とはどの時点をいうのであろうか〉      ◇中p1412   〝菊川英山 文化中〟    ☆ 刊年未詳    ◯「艶本年表」(「国文研・艶本」は「艶本資料データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(刊年未詳)    菊川英山画    『艶本葉男婦舞喜』三冊 菊川英山画 〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    『画本女六哥仙』 三冊 菊川英山画?〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    『恋能秘男婦喜』 三冊 菊川英山画?〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『艶本恋の操』  三冊 英山画   〔目録DB〕    ☆ 没後資料      ☆ 文久三年(1863)       ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇絵本(文久三年刊)    菊川英山画『江戸大節用海内蔵』二冊 菊川英山翁図画 高井蘭山増輯・中井経年補輯〔漆山年表〕              〈〔目録DB〕成立年「宝永元刊、天保四増補、文久三補刻」〉     ☆ 慶応四年(明治元年・1868)    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「菊川氏系譜」の項 ⑪186 
    「菊川英山系譜」     ◇「菊川英山」の項 ⑪206   〝菊川英山    名俊信、号重九斎、俗称万五郎、市ヶ谷の産、麹町に住す。父栄二に業を学びたり。〔割註 英二は狩    野流の門人東舎と云人の門人なり。板刻の画はかゝず。菊川一家の浮世絵師なり。造り花を業として近    江屋といふ〕北渓は幼年よりの友なりしかば、其画風を慕ひ、北斎流の画をかけり。故歌麿歿してより    歌麿が画風に似せて、板刻の美人画を出し行れたり。其頃豊国春扇ともに行れたり。始は役者も画り。    文化三四年頃、堀江町の団扇問屋故有て悉く豊国の新板画を不出、一年英山の役者絵の団扇計り出せし    事有。英山、豊国の両人交り深く、豊国の役者絵の上表紙へ一陽斎の画像を英山画き、英山の画に豊国    の寄合書等あり。諸侯方へも二人づゝ席画に出しとぞ。読本は不画、草双紙四五部あり。文政の末より    多く板下を不画〟    ☆ 明治年間(1868~1911)    ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)   〝文化 菊川英山    豊春に学び美人画を能くし、刻板の摺絵大に行る〟    ◯『日本美術画家人名詳伝』下p445(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)   〝菊川英山    江戸ノ人、名ハ俊信、通称為五良、重九斎ト号ス、始メ父英二ニ業ヲ学ベリ【英二ハ狩野ノ門人東舎ト    云人ノ門人也、板刻ノ画ハカヽズ、菊川一家ノ浮世絵師ナリ、造リ花ヲ業トス、近江屋トイフ】幼ヨリ    北渓ノ画法ヲ慕ヒ、北斎流ノ画ヲカケリ、哥麿歿故シテ後チ、自立シテ哥麿ノ画風ニ似セテ一家ヲナシ、    板刻ノ美人画ヲ出セリ、大ニ行レタリ、豊国・春扇ト並ビ立テ浮世美人絵中興一家ノ祖ナリ〟    ◯『古代浮世絵買入必携』p17(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)   〝菊川英山    本名〔空欄〕   号 重九斎   師匠の名〔空欄〕   年代 凡七十年前より九十年迄    女絵髪の結ひ方 第十図・第十一図・第十二図 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)    絵の種類 大判、中判、小(*一字未詳)、細絵、長絵、二枚つぎ、摺物、肉筆    備考  〔空欄〕〟    ◯『浮世絵師便覧』p228(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝英山(ザン)    菊川氏、名は俊信、重九斎と号す、俗称萬五郎、風俗美人画、◯享和〟    ◯『浮世画人伝』p100(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)  〝 菊川英山(ルビきくかはえいざん)   菊川英山、名は俊信(トシノブ)、通称は佐花屋万吉また万五郎を云ひ、重九斎と号す、江戸の人にして麹町   六丁目に住したりき。英山、幼にして画を父英二に学べり。英二は狩野家の門人東舎の弟子にして、終身   板下を画かず。一家の浮世絵師たり。造花を本職として家号を近江屋と云ふ。英山、後年鈴木南嶺の門に   入りぬ、又魚屋北渓とは竹馬の友たるをもて、自然北渓の師北斎の画風を慕ふの心起れり。喜多川歌麿の   死後、其画風を模範として、美人を描けり。英山殊に団扇画に妙を得て、文化三四年頃、最も行はれたり。   麹町三河屋と云へる絵草紙屋は英山の画を出して、世評頗(スコブ)る宜く大利を博せりと云ふ。併し俳優の   似顔は英山の長所にあらざりしとぞ。英山は初代豊国と交際最も親密にして、諸藩主より席画の招きにも   両人席を同じうせし事屢々(シバシバ)なりしとなん、又両人合作の板行あり、殊に両人の徽章を織模様にし   たる一対の煙草入を持料とせしが如きは、其親密のなみ/\ならぬを知るに足るべし〟
    「菊川英山系譜」    ☆ 昭和年間(1926~1987)    ◯『狂歌人名辞書』p29(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝菊川英山、東都の浮世絵師、名は俊信、通称近江屋万五郎、初め画を南嶺に学び、後ち北斎の画風を慕    ひ歌麿の歿後はまた歌麿風の美人画を描けり、慶応三年歿す、年八十一〟    ◯『浮世絵師伝』p13(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英山    【生】天明七年(1787)   【歿】慶応三年(1867)-八十一    【画系】英二の男      【作画期】文化~文久    江戸市ヶ谷に生る。菊川氏、名は俊信、重九斎と号す、通称を近江屋万五郎と云ひ、代々造り花屋を営    む(後に四谷箪笥町、麹町六丁目等に転居す)、父英二は狩野派の東舎といへる者に学びしが、版画は    描かず、且つ純然たる浮世絵師にあらざれば、姑く英山を以て菊川派の祖とす。    英山は初め父に就て画を学び、後ち鈴木南嶺の門に遊ぶ、又、北渓とは夙に親交あり、ひそかに其の画    風を慕ひて、多少北斎流を折衷せしとぞ。彼は早熟の人にして、享和年間十六七歳の時に初作(役者絵)    を発表し、文化四年即ち二十一歳の頃には一流の版画家となれり、描く所は美人画最も多く、殊に小児    を題材にしたるもの尠からず、其が文化初期に於ける美人画は、初代歌麿晩年の風に酷似し、時好亦こ    れを迎ふる所あり、且つ其の頃より天保中期に亘りて、田舎土産として非常に流行せし掛物絵(大判竪    二枚つぎ)は、実に彼によりて流行の端を開きしなり。(口絵第五十二図參照)    然るに、彼には実子無かりし爲めか、晩年は甚だ憐むべき境遇に陥り、辛くも高田の植木屋彦兵衛(英    山の弟子)方に寄食し、其の間『江戸大節用海内藏(エドオホセツヨウカイダイグラ)』二册(文久三年完成)の    挿画を描きて、彼が一世一代とも称すべき老筆の蹟をとゞめたり、これ歿年に先だつ四年、即ち七十七    歳の時なりき、門人数名中、渓斎英泉最も著はる〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「文政四年 辛巳」(1821)p196   〝此年、北渓・英山・沖一峨・岳亭・千春等の画ける『新曲撰狂歌集』出版〟     ◇「慶応三年 丁卯」(1867)p143   〝菊川英山歿す。行年八十一。(英山は渓斎英泉の師なり。名俊信、俗称は近江屋万五郎、重九斎の号あ    り。錦絵に美人を画けるを見れども、図書には稀に見るところにして、文久三年七十七の高齢を以て画    来たる『江戸大節用海内蔵』といへる大本二冊あり)〟    △『増訂浮世絵』p245(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝菊川英山    英山は長寿であつて、製作期も長い間に亘つた人である。文政の末までは、数多い作品を出し、その後    一時期製作を中止して、更に後年になつて、節用集などに挿絵を作つた。版画、肉筆絵共に美人画を多    く作つて居る。名は俊信、通称を近江屋万五郎と云ひ、家は造花を業とした。重九斎の別号がある。江    戸市ヶ谷の人。父英二は初め狩野派の画家東舎に学びて、後に浮世絵を画いた人である。英山も最初は    父に就いて絵を習つたが、後には鈴木南嶺に師事したことがあつた。北斎の門人北渓の仲のよい友達で    あつたので、北斎風の影響をうけて居る。また英山は豊国とも親しく、合作の錦絵もある。従つてその    作風に亦豊国と相似た所がある。英山の筆はやゝ軽快の趣があつて、早い時代のものは、錦絵黄金時代    の諸家の作風に倣つたものがある。かくて、英山一流の絵が出来たのであるが、美人の外に役者もかき、    錦絵には相当に見るべきものがある。また草双紙の挿絵も画いた。    英山は晩年を不遇に終つた。慶応三年八十一歳の高齢で没したのである。彼の美人は英泉に比べると寧    ろ柔か味があつて、情趣に富んだものである。顔の表情など艶な所もあり、快い感じを見せて居る。挿    絵にした風流七小町の通小町図の如き美人の姿もよく、英山の作としては優れたものである。    英山の門人     門下の秀才は英泉である。次いで、英章(或は笑)、英里、英信、英蝶、英秀、英柳、英賀、英子、英    重、英嶺、英真、英徳、英玉、英龍、英亀などがあるが、世に知られない〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔菊川英山画版本〕     作品数:18点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:英山・菊川英山    分 類:合巻8・艶本6・遊女評判記2・狂歌1・節用集1    成立年:文化7~10(8点)(文化年間合計10点)        文政4~5年(1点)        文久3年  (1点)    〈文久三年(1863)の一点は節用集の『江戸大節用海内蔵』〉    
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