Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ えいせん けいさい 渓斎 英泉浮世絵師名一覧
〔寛政3年(1791)~ 嘉永元年(1848)7月22日・58歳〕
 ☆ 享和三年(1803)  ◯『黄表紙總覧』後編(棚橋正博著・日本書誌学大系48・昭和六十一年)   ◇黄表紙(享和三年刊)※角書は省略    渓斎英泉画『子宝山』署名「英泉画」「十返舎一九しるす」泉市・鶴屋金助合板    〈従来享和三年刊とされるが、備考は天保七年頃の刊行と推定。疱瘡見舞いの本〉    ☆ 文化六年(1809)    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(文化六年刊)    渓斎英泉画『艶本麻倉雛形』三冊 渓斎英泉画〔目録DB〕    ☆ 文化九年(1812)    ◯「絵本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇絵本(文化九年刊)    渓斎英泉画『源氏物語五十四帖絵尽』袖珍本 渓斎英泉画 和泉屋市兵衛板〔目録DB〕      ◯「艶本年表」(「国文研・艶本」は「艶本資料データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(文化十二年刊)    渓斎英泉画    『絵本美多礼嘉見』色摺 半紙本 三冊〔国文研・艶本〕             序「四渓 淫乱斎誌」序「◎初春 強淫漢 好亭主人誌」    『満倉表紙』三冊 渓斎英泉画? 開亭好人作〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)  ☆ 文化十三年(1816)  ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(文化十三年刊)※角書は省略    渓斎英泉画『桜曇春朧夜』(画・著)渓斎英泉画作 丸屋文右衛門板〔東大〕          摺付表紙「国春楼英泉画作」〈〔書目年表〕は一筆庵可候作・画とする〉    ☆ 文化十四年(1817)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇絵本(文化十四年刊)    渓斎英泉画『俳諧百人一句集』一冊 渓斎英泉 洞秀◯舟筆〔漆山年表〕    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(文化十四年刊)    渓斎英泉画『葉男婦佐草紙』三冊 英泉画 柳之門人三ッ彦作 文化十四年頃刊〔目録DB〕           (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ☆ 文化年間刊(1804~1817)    ◯「絵入狂歌本年表」(〔狂歌書目〕は『狂歌書目集成』・〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇狂歌(文化年間刊)    渓斎英泉画『画賛狂歌集』一冊 英泉・英信画 六樹園撰 五側社中板〔狂歌書目〕    ☆ 文政元年(文化十五年・1818)  ◯『洒落本大成』第二十六   ◇洒落本(文化十五年刊)    渓斎英泉画『廓宇久為寿』署名「渓斎白水画」鼻山人作    ◯「人情本年表」(〔事典〕は『人情本事典』)   ◇人情本(文政元年刊)    渓斎英泉画『由佳里の月』二冊 渓斎英泉画 鼻山人作〔目録DB〕     〈〔目録DB〕の分類は洒落本。〔事典〕は人情本とし、画工未詳、文政二年か天保二年の刊行とする〉    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇洒落本(文政元年刊)    渓斎英泉画『由佳里の月』渓斎英泉画 鼻山人作    〈『改訂日本小説書目年表』は人情本に分類するが、「日本古典籍総合目録」は洒落本とする。但し『洒落本大成』に     なし〉    ☆ 文政三年(1820)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(文政三年刊)    渓斎英泉画『一心常安録』一冊 英泉画〔漆山年表〕    ◯「読本年表」   ◇読本(文政三年刊)※角書は省略    渓斎英泉画『斯波遠説七長臣』渓斎英泉画 梅暮里谷峨作〔目録DB〕  ◯『洒落本大成』第二十八巻   ◇洒落本(文政三年刊)    小泉画『遊子娯言』署名「小泉画」鶯蛙楼主人作    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(文政三年刊)    渓斎英泉画『艶本重以誌』三冊 渓斎英泉画〔目録DB〕    ◯「人情本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇人情本(文政三年刊)    渓斎英泉画    『建久酔故伝』二冊 渓斎英泉画 近松門左衛門作〔目録DB〕     〈高木元氏の『江戸読本の研究』第二章「中本型の江戸読本」によると、寛政六年刊『教訓いろは酔故傳』(振鷺亭作)      の改題改刻本。英泉の口絵を新刻の由〉  ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇滑稽本(文政三年刊)    渓斎英泉画『花暦八笑人』初編 渓斎英泉・歌川国直画 滝亭鯉丈作 大島屋伝右衛門板〔目録DB〕  ☆ 文政四年(1821)  ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』)   ◇合巻(文政四年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『花柳街寄恋白浪』(画)渓斎英泉(著)一筆庵可候 鶴屋喜右衛門板〔東大〕    『桃花流水』前編(画)英泉  (著)可候    鶴屋喜右衛門板〔東大・追補〕          後編(画)渓斎英泉(著)一筆庵可候 鶴屋喜右衛門板〔東大・追補〕  ◯「読本年表」   ◇読本(文政四年刊)※角書は省略    渓斎英泉画『園の梅』渓斎英泉画 梅園主人作〔目録DB〕    〈享和三年刊『雪炭奇遇』の改題本、寛政九年『邂逅物語』の改題三版本〉  ◯『洒落本大成』二十七巻   ◇洒落本(文政四年刊)    淫斎画?『青楼胸の吹矢』署名?口絵の屏風に「淫斎」序者一山四文の安作者某作?    〈この淫斎は渓斎英泉か〉    ◯「人情本年表」(〔事典〕は『人情本事典』)   ◇人情本(文政四年刊)    渓斎英泉画    『所縁の藤波』前編 渓斎英泉画  十返舎一九作〔事典〕           後編 北尾よし麿画 十返舎一九作〔事典〕    『松の操物語』三冊 一筆庵主人画・作〔事典〕    『玉散袖』  五冊 渓斎英泉画 東里山人(鼻山人)作〔事典〕    ◯「艶本年表」(「国文研・艶本」は「艶本資料データベース」)   ◇艶本(文政四年刊)    渓斎英泉画『筑紫琴』曲取主人編 色摺 半紙本 四冊〔国文研・艶本〕          序「曲取主人好色外史 辛巳之春清明之日於艶好堂南窓下」見返し「淫斎白水戯筆」           〈好色外史は花笠文京。辛巳は文政四年〉     <二月 看々踊り 葺屋町河岸>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「看々踊之図」錦絵 英泉画    ☆ 文政五年(1822)     ◯「絵本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇絵本(文政五年刊)    渓斎英泉画『真情指南』渓斎英泉画(注記「挿絵節用による」)〔目録DB〕    ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(文政五年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『小町琴柱誂差込』(画)渓斎英泉(著)東里山人 和泉屋市兵衛板〔東大〕    『家桜継穂鉢植』 (画)上 歌川豊国・下 渓斎英泉(著)上山東京伝・下山東京山補 和泉屋市兵衛板〔東大〕     〈山東京伝の絶筆。文化十三年、京伝は前編三巻まで執筆して死亡、そのあと山東京山が後編を補綴してなる〉    『女阿漕夜網太刀魚』渓斎英泉画 曲亭馬琴作 和泉屋市兵衛板〔目録DB〕    『照子池浮名写絵』 渓斎英泉画 曲亭馬琴作 森屋治兵衛板 〔早大〕    『北里花雪白無垢』 渓斎英泉画 山東京山作 岩戸屋喜三郎板〔早大〕    ◯「読本年表」(〔中本型読本〕は「中本型読本書目年表稿」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇読本(文政五年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『紀文大盡全盛葉南志』英泉画 駒人序      〔中本型読本〕    〈寛政期かと推定される振鷺亭作『風流夕霧一代記』の改題再刻本〉    『江戸堅木浪華梅』  渓齋英泉画 梅暮里谷峨作 〔中本型読本〕    『瞿麦草紙』     渓斎英泉画 南仙笑楚満人作〔目録DB〕    ◯「人情本年表」(〔事典〕は『人情本事典』)   ◇人情本(文政五年刊)    渓斎英泉画    『江戸気質浪華梅』三冊 渓斎英泉画 梅暮里谷峨作 〔事典〕    『明烏後正夢』  二編 渓斎英泉画 滝亭鯉丈・為永春水作〔事典〕    『軒並娘八丈』  初編 渓斎英泉画 南仙笑楚満人作〔事典〕    『幽賞雲間月』  二冊 渓斎英泉画 普米斎玉粒作 〔事典〕    『水佳賀見』  初後編 渓斎英泉画 十返舎一九作 〔事典〕    『花街鑑』   上下巻 白水漁人画 鼻山人作(壬午序)〔事典〕    ◯「艶本年表」(「国文研・艶本」は「艶本資料データベース」)   ◇艶本(文政五年刊)    渓斎英泉画    『春野薄雪』色摺 間判 十二図 〔国文研・艶本〕      序「是はたまらぬ睦言を、白水主人の絵に写し」「文政五ッのとし 壬午太郎月 西早斎謹言」      二冊目第一図落款「渓井(◯中に「泉」の印)」金鶏の狂歌あり       跋「淫乱斎」      〈「国文研・艶本」の書誌データは序の「西早斎」を大田南畝と見なし、序・本文とも大田南畝とする。「西早」を       覃と見たか〉    『閨中紀聞枕文庫』二編 色摺 半紙本 二冊〔国文研・艶本〕      見返し「淫斎泉画図」艶好堂蔵      序  「画之者誰、淫斎主人也。言之者誰、好色外史也」〈好色外史は花笠文京〉      凡例 「艶好市隠 淫斎誌」      署名 「淫斉白水編述」    ☆ 文政六年(1823)    ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(文政六年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『大内山月雪花誌』(画)前編 歌川国直・後編 渓斎英泉(著)東里山人 岩戸屋喜三郎板〔東大〕                表紙 英泉画    『海道茶漬腹内幕』渓斎英泉画 東里山人作〔目録DB〕    『昔製諭近道』  勝川春好画 東里山人作〔目録DB〕             表紙 英泉画〔書目年表〕    ◯「読本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇読本(文政六年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『情之二筋道』渓斎英泉画 尚古老人作   〔目録DB〕    『総猨僭語』 初篇 渓斎英泉画 瀬川如皐作〔目録DB〕    『鼎臣録』  渓斎英泉画 瀬川如皐作   〔目録DB〕    ◯「人情本年表」(〔事典〕は『人情本事典』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇人情本(文政六年刊)    渓斎英泉画    『契情意味張月』初二編 渓斎英泉画 鼻山人作 〔事典〕    『八重霞春夕映』 初編 渓斎英泉画 南仙笑楚満人作   〔事典〕    『明烏後正夢』  三編 渓斎英泉画 滝亭鯉丈・為永春水作〔事典〕    『全盛葉南志』  三冊 渓斎英泉画 駅亭駒人作〔目録DB〕    ◯「艶本年表」    (「国文研・艶本」は「艶本資料データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」〔白倉〕は『絵入春画艶本目録』)   ◇艶本(文政六年刊)    渓斎英泉画    『交合雑話』色摺 中本 上下巻の内上巻 〔国文研・艶本〕      序「淫乱斎が佳作の草紙をいらぬおせゝによごすものは 柳原堤下の好男子色道指南所の宗匠艶示        楼上に筆を採て   鳳来山人」    『地色早指南』 色摺 中折本 二冊 〔国文研・艶本〕      序「今流行の好色本は、弥(イヨイヨ)奇(キ)を愛(メ)で、珍らしきを弄ぶ事を旨として、春情発動する        情状をばしるさず。鎧櫃に納めがたき不吉のことを専らとす。されば俗にいふ笑本も怪談めき        ておそろしく、委(コトゴト)く意を失ふて、人情の不義不実を明白に誌せるものとはなりゆきぬ。        往昔(ワウワウ)土佐の某が感情の画巻(エマキ)ものに、何某の君が詞書を添へ給ひしなんどは情深く、        見るにおかしく愛でたきことのみいとおほかりし。東山殿の愛で給ひし袋僧の画巻、朝顔の巻        なんど、実(ゲ)にうべなりと思ふぞかし。探幽斎が曲取(キヨクトリ)の絵は華本(クワホン)の素女伝        (ソヂヨデン)によりて写し出(イダ)せしものならんか。肉蒲団・金瓶梅・淘月艶の文によりて、        諸名家筆を震ひしより遥に後、浮世絵師吉田半兵衛・菱川吉兵衛なんど、好色本を板行して、        艶書軌範・床談義・好色訓彙・玉簾・近世大全・色双子・旅つゞら、かぞへ挙るにいとまあら        ず。その後、浪華の西川祐信が百人美女の好色本いよ/\世上に流行して、貞享天和の枕草紙        を画組を換て再板せり。されば各(オノオノ)二本あれども、却て元板(ゲンハン)むかしめきて、詞書        もひなびたり。夫より中興月岡丹下、好色本に妙を得て、求る者の多かりしとぞ。この比まで        は画師の名印(ナイン)を顕(アラハ)にせり。流行広大なるゆゑに数百巻の艶本(ワラヒホン)唐本(タウホン)通        俗話解(ワゲ)別伝、各争ひ発市なすほどに、勝川元祖春章初め鳥居庄兵衛・喜多川歌麿(ウタマロ)、        交接(トボシ)の絵組に奇妙を尽し、享和の頃まで発行せしは皆是世人の知る所也。されども今の        流行ほど奇怪(キクワイ)を画くことは稀也。そは左(ト)もあれ、此草紙は密に淫を弄ぶ田舎人の楽        (タノシミ)のたよりともならんかと、地色早指南と題して、先に出板せしは交接かたのこゝろ得(エ)、        色事の弁用(ベンヨウ)を誌したり。残れるを次(ツギ)て二編とす。されども紙数に限りありて、九        牛が一毛をあらはし、猶三編四編に至て委く淫術早指南の事を誌し尽す。発兌の時をまち得て        看給へ。交接の術には男のこゝろ得をのみしるせども、女の心得をしるしたるは這(コノ)一書に        限(カギ)[ママ(カギル)カ]ものならん歟(カ)         淫乱翁白水誌」    『閨中紀聞枕文庫』三編 色摺 半紙本 二冊〔国文研・艶本〕      見返し「淫斎白水輯録并画/嬌訓亭主人校訂」深房御戦第一書      序  「素化米珍賢(「淫斎」印)(鼎に「KO6」の文字)」      叙  「文政六っのとし卯月中浣、嬌訓亭主人」      署名 「東武 淫斎主人白水輯録/嬌訓亭主人校訂」      奥付 「江戸 画工 淫斎主人白水輯録          江戸 作者 嬌訓亭主人校訂          江戸 筆者 紀行成浄書          【閨中紀聞】枕文庫第四輯 全二冊          画入婬道通鑑 全二冊 近日出来申候          【ゑいりひらかな】通俗如意君伝 全本五冊 出来          艶史制所 珍宝館秘蔵」    『相生交合』 二冊 色摺 豆本 渓斎英泉画 署名「好色斎」序「色山人」(十字亭三九)〔白倉〕    『万寿嘉々見』三冊 渓斎英泉画 文政六頃刊〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『夢多満佳話』三冊 渓斎英泉画 好色外史作〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)              〈好色外史は花笠文京〉    ◯『馬琴書翰集成』①136 文政六年(1823)正月九日 殿村篠斎宛(第一巻・書翰番号-23)   〝(『南総里見八犬伝』の出版について、版元と彫師にトラブルがあって)人を以板木とり戻し、外へ誂    候へども、昨冬十一月比の事ニ候へバ、諸方ニて受取不申候。埒もなき仁ニほらせ候上、只管ニ急ギ候    ニ付、甚しくほり崩し、一向よめぬ様ニしちらし申候。其上、画工柳川ハ、当春より上京ニて、四の巻    より末は、いまだ画も出来不申候。去冬十月に及び、画工英泉に画せ、絵ハ早速出来致候得ども、板木    之方、右之仕合故、画も甚しくほり崩し申候〟    〈これは「八犬伝」の五輯のトラブル。挿絵は柳川重信他に渓斎英泉が担当した。重信の上京は文政五年春〉       〈文政十年の『馬琴日記』には英泉に関する記事が非常に多い。ここでは直接会った時の記事を中心に載せ、仕事上の     事務連絡等に関する記事については省略した。なお『馬琴日記』および『馬琴資料』の方には全て載せている〉    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇滑稽本(文政六年刊)    渓斎英泉画    『宝船七福話』一冊 渓斎英泉画 岡固存作 〔目録DB〕    『和合人』  初編 渓斎英泉画 滝亭鯉丈作〔目録DB〕    ☆ 文政七年(1824)    ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」))   ◇合巻(文政七年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『釣狐花の俤』(画)渓斎英泉(著)東里山人 岩戸屋喜三郎板〔東大〕    『金毘羅船利生纜』初編 渓斎英泉画 曲亭馬琴作 和泉屋市兵衛板〔目録DB〕    『女帯糸織八丈』 渓斎英泉画 東西庵南北作 和泉屋市兵衛板〔目録DB〕    『開運菊一文字』 渓斎英泉画 十返舎一九作 伊藤与兵衛板 〔目録DB〕    『園の雪花魁』  渓斎英泉画 南杣笑楚満人作〔目録DB〕    ◯「読本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇読本(文政七年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『菟道園』五冊 渓斎英泉画 桑楊庵光作 鶴屋金助他板〔目録DB〕(成立年「寛政四年刊」とあり)    ◯「人情本年表」(〔事典〕は『人情本事典』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇人情本(文政七年刊)    渓斎英泉画    『仮名佐話文庫』初二編 渓斎英泉画 南仙笑楚満人・駅亭駒人作〔事典〕    『貞烈竹の節談』 三冊 渓斎英泉画 南仙笑楚満人・駅亭駒人作〔事典〕     〈〔目録DB〕文政十二年刊。文政三年刊『松操物語』の二編とする〉    『合褄雪古手屋』前後編 渓斎英泉画 南仙笑楚満人作〔事典〕    『八重霞春夕映』 二編 渓斎英泉画 南仙笑楚満人作〔事典〕    『藤枝恋情柵』  初編 渓斎英泉画 南仙笑楚満人作・駅亭駒人合作〔事典〕    『明烏後正夢』 四五編 渓斎英泉画 滝亭鯉丈・為永春水作〔事典〕    『軒並娘八丈』 二三編 渓斎英泉画 南仙笑楚満人作〔事典〕    『かりの婦美』  三巻 渓斎英泉画 教訓亭(為永春水)・柳山人作〔目録DB〕     〈〔事典〕は画工不明とする〉    『津多加津羅』  三冊 渓斎英泉画 二酔亭佳雪作・花山亭笑馬作〔目録DB〕     〈〔事典〕は前後二編、刊年不記載〉    『仇競恋浮橋』  三冊 渓斎英泉画 東里山人(鼻山人)作〔目録DB〕    『菊廼井草紙』  四冊 渓斎英泉画 為永春水作〔目録DB〕    『契情七小町』  三冊 渓斎英泉画 瀬川如皐作〔目録DB〕〈〔事典〕文政年間刊とする〉    『勧善松之月』  前編 渓斎英泉画 駅亭駒人作  〔事典〕    『霧籬物語』   前編 渓斎英泉画 玉川亭調布稿本〔事典〕    『蘭蝶記』  初~三編 渓斎英泉画 鼻山人作 〔目録DB〕〈〔事典〕画工名は不記載〉    『朧月夜』    初編 渓斎英泉画 十返舎一九作〔事典〕    『園曙』     三冊 渓斎英泉画 梅暮里谷峨作〔事典〕     〈文政五年刊『江戸気質浪華梅』の後編〉    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(文政七年刊)    渓斎英泉画    『艶本婦◎(フジ)のゆき』三冊 渓斎英泉画  〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    『閨中紀聞/枕文庫』 三編 渓斎英泉画・作〔目録DB〕      (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『満倉妣男形』三冊 淫斎主人白水画 嬌訓亭主人作〔目録DB〕      (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『手久多之数』三冊 英泉画?〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇滑稽本(文政七年刊)    渓斎英泉画    『楊弓一面大当利』三冊 渓斎英泉画 岡山鳥作 伊勢屋忠右衛門他板〔目録DB〕    『牛島土産』三冊 渓斎英泉画 滝亭鯉丈作 鶴屋金助他板〔目録DB〕    『麻疹癚語』一冊 渓斎英泉画 乍昔堂花守作〔目録DB〕    ◯『戯作者小伝』〔燕石〕②47(岩本活東子編・嘉永二年頃)   (岡山鳥著述)〝如月初午 三 英泉 堺国 文政七〟〈〔目録DB〕記載なし。堺国は板元堺屋国藏か〉    ☆ 文政八年(1825)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(文政八年刊)    渓斎英泉画『料理通』二編 一冊 北斎改為一筆 抱一筆 文晁筆 渓斎筆 鳴門 赤子筆                    鵬斎興序 八百善跋 甘泉堂板〔漆山年表〕    ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(文政八年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『初霞江戸の竪入』(画)渓斎英泉(著)東里山人  和泉屋市兵衛板〔東大〕    『月娥眉尾花振袖』(画)渓斎英泉(著)山東庵京山 森屋治兵衛板 〔東大〕    『誂染由縁紫』  (画)渓斎英泉(著)山東庵京山 丸屋文右衛門板〔東大〕    『金毘羅船利生纜』二編 渓斎英泉画 曲亭馬琴作 和泉屋市兵衛板〔目録DB〕    『出謗題無智哉論』三編 渓斎英泉画 東里山人作 岩戸屋喜三郎板〔目録DB〕    『帰咲故郷之錦絵』渓斎英泉画   南仙笑楚満人二世(為永春水)〔目録DB〕    『其俤錦絵姿』  渓斎英泉画   東里山人作 岩戸屋喜三郎板 〔目録DB〕    『蘆仮寐物語』  渓斎主人英泉画 南仙笑楚満人二世(為永春水)〔目録DB〕    ◯「読本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇読本(文政八年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『松風村雨物語』後編 渓斎英泉画 文東陳人作〔目録DB〕〈文東陳人は昇亭岐山〉    『忠孝比玉伝』 渓斎英泉画 岡野養拙庵作  〔目録DB〕    ◯「絵入狂歌本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇狂歌(文政八年刊)    渓斎英泉画『狂歌婦人今様姿』一冊 渓斎英泉画 梅廼屋鶴子編(文政8か)〔目録DB〕    ◯「人情本年表」(国文学研究資料館)   ◇人情本(文政八年刊)    渓斎英泉画    『仮名佐話文庫』三編 渓斎英泉画 南仙笑楚満人・駅亭駒人作〔事典〕    『園雪三勝草紙』六冊 渓斎英泉画 南仙笑楚満人作〔目録DB〕〈〔事典〕は画工不明とする〉    『菊廼井草紙』初二編 渓斎英泉画 為永春水作〔事典〕    『風俗粋好伝』前後編 渓斎画 亀山人作   〔事典〕    『藤枝恋情柵』 二編 渓斎英泉画 南仙笑楚満人作・駅亭駒人合作〔事典〕    『新製艶油舗』 三冊 渓斎英泉画 瀧亭鯉丈・南仙笑楚満人作  〔事典〕    『契情肝粒志』 初編 渓斎英泉画 鼻山人作〔目録DB〕〈〔事典〕は画工菱川政信〉    『軒並娘八丈』 四編 渓斎英泉画 南仙笑楚満人作〔事典〕    『三日月阿専』前編? 渓斎英泉画 為永春水作〔目録DB〕<     〈序に文政七年評判になった両国広小路の駱駝の見世物記事あり。後編は同九年参照〉    『時雨の袖』一~三編 渓斎英泉画 瀬川路考作〔事典〕    『寝覚繰言』 初二編 渓斎英泉画 為永春水作〔事典〕    『霧籬物語』  後編 渓斎英泉画 玉川亭調布稿本(文政八年序)〔事典〕    『朧月夜』   後編 渓斎英泉画 著者不明〔事典〕    ◯「艶本年表」(「国文研・艶本」は「艶本資料データベース」)   ◇艶本(文政八年刊)    渓斎英泉画    『狂哥題恋の道草』色摺 大錦 十枚組物〈文政八年頃〉    『浮名の重似月』 色摺 小判組物   〈文政八年頃。組物の一枚とあり〉    『四季の名所』  色摺 小判組物 一図〈文政八年頃〉(以上三点〔国文研・艶本〕)    ☆ 文政九年(1826)     ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(文政九年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『鎌田又八強力譚』(画)渓斎英泉(著)墨川亭雪麿 丸屋甚八板〔東大〕    『金毘羅船利生纜』三編 渓斎英泉画 曲亭馬琴作 和泉屋市兵衛板 〔目録DB〕    『奇妙々糸屋恋壻』渓斎英泉画 東西庵南北作〔目録DB〕    『繋馬七勇婦伝』初後編(画)渓斎英泉(著)南仙笑楚満人 西村与八板〔東大〕〔目録DB〕    『四ッ家会談』  (画)一筆庵英泉(著)尾上梅幸・花笠文京代作 若狹屋与市板〔東大〕       (備考、表紙、巻末の画工表示は「渓斎英泉画」)    『児鑑東孝経』  (画)渓斎英泉 (著)東里山人 和泉屋市兵衛板〔東大〕    『褄重思乱菊』  渓斎英泉画 関亭伝笑作 若狹屋与一板〔目録DB〕    ◯「読本年表」   ◇読本(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)(文政九年刊)※角書は省略    渓斎英泉画『堀川清談』英泉画 楚満人作〔目録DB〕    ◯「人情本年表」(〔事典〕は『人情本事典』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇人情本(文政九年刊)    渓斎英泉画    『八重霞春夕映』四編 渓斎英泉画 南仙笑楚満人作〔事典〕〈三編は刊年不明〉    『園雪三勝草紙』後編 渓斎英泉画 南仙笑楚満人作〔目録DB〕     〈〔事典〕は画工不明とする。前編は同七年刊〉    『藤枝恋情柵』 三編 渓斎英泉画 南仙笑楚満人作・駅亭駒人合作〔事典〕    『三日月阿専』 後編 渓斎英泉画 南仙笑楚満人作〔事典〕     〈〔早大・古典籍DB〕本の奥書の署名は「一筆菴英泉画」〉    『花街寿々女』 三冊 渓斎英泉画か 鼻山人作〔事典〕     〈〔目録DB〕は白水漁人(英泉)画。文政五年刊『花街鑑』の続編〉    『寒紅丑日待』 後編 (口絵)渓斎英泉・(挿画)泉蝶斎英春 南仙笑楚満人画〔事典〕     〈解題によると、前編は振鷺亭作・英泉画で文化十三年刊の由〉    『梓物語』   前編 渓斎英泉画 玉楼花紫作(文政九年序)〔事典〕    『廓雑談』 前後三編 画工不記載 鼻山人作〔事典〕     〈〔目録DB〕は画工・渓斎英泉〉    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(文政九年刊)    渓斎英泉画『三ツ組盃』三冊 淫乱斎(英泉)画〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ☆ 文政十年(1827)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(文政十年刊)    渓斎英泉画『職人尽』一冊 画英泉 十返舎一九序 森屋治兵衛板〔漆山年表〕            〈〔目録DB〕の分類は合巻、画工は広重である〉     ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(文政十年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『通人料理かしくの献立』(画)英泉 (著)東西庵南北 和泉屋市兵衛板〔東大〕    『四ッ家怪談後日譚』(画)一筆庵英泉(著)尾上梅幸・花笠文京代作 若狹与市板〔東大〕     (備考、文政九年刊『四ッ家怪談の後編)    『三日月太郎物語』 (画)渓斎英泉 (著)東里山人作・松本幸四郎補助 岩戸屋喜三郎〔東大〕     (備考、本書は『三日月お専物語』(東里山人作・渓斎英泉画・文政十年刊)の後編とする)    『繋馬七勇婦伝』三編(画)一筆庵英泉(著)南仙笑楚満人(二世)西村屋与八板〔東大〕     (備考、巻末の画工表記は「渓斎英泉画」)    『傾城恋三味線』  (画)渓斎英泉 (著)墨川亭雪麿 丸屋甚八板〔東大〕    『金毘羅船利生纜』四編 渓斎英泉画 曲亭馬琴作 和泉屋市兵衛板〔目録DB〕    『結縁日浮世雛形』渓斎英泉画 瀬川路考作 〔目録DB〕    『犬著聞傾城亀鑑』渓斎英泉画 墨川亭雪丸作〔目録DB〕    『三日月お専物語』渓斎英泉画 東里山人作 〔目録DB〕    ◯「読本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」〔中本型読本〕は「中本型読本書目年表稿」)   ◇読本(文政十年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『幼婦孝義録』渓斎英泉画 為永春水作   〔目録DB〕    『総猨僭語』 二篇 渓斎英泉画 瀬川如皐作〔目録DB〕    『千代物語』 渓斎英泉画 鼻山人作    〔中本型読本〕    『玉廼露』  渓斎英泉画 小枝繁作    〔目録DB〕    ◯「艶本年表」(「国文研・艶本」は「艶本資料データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(文政十年刊)    渓斎英泉画    『風流東飛那かた』色摺 小折帖 八図〔国文研・艶本〕          第一冊目「作者 正徳亭好成」「画工 一物斎雁高」「筆耕 陰妻産腎」              「彫工 元来助米」「摺師 開四亭」    『花野家満』三冊 渓斎英泉画 鼻山人編〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇人情本(文政十年刊)    渓斎英泉画    『玉川日記』初~三編 英泉・英笑画 為永春水画    『朧月夜』 四・五編 渓斎英泉画  十返舎一九作    『北里通』 英泉・泉寿画 鼻山人作〈文政九年刊『廓雑談』の後編〉    ◯「文政十年丁亥日記」①39 文政十年(1827)正月廿七日(『馬琴日記』第一巻)    〝日本橋名張や竹芳・尾張町英泉・芝神明前泉市、片門前豊広・かゞ町ミのや甚三郎・すきやがし真顔方    へ、為年始祝儀として(ママ)罷越候処、甚三郎・真顔は他行のよし、泉市も同断、(以下略)〟    〈この日、年始と祝儀のために廻ったのは、浮世絵師の渓斎英泉・歌川豊広、狂歌師の鹿津部真顔、板元の和泉屋市兵     衛、美濃屋甚三郎。名張屋竹芳は未詳。馬琴はこの春、読本『南総里見八見伝』六輯(板元・美濃屋)と合巻『金毘     羅船利生纜』四編(板元・泉市)を英泉の挿画で、読本『朝夷巡島記』六編(板元・須原屋茂兵衛)を豊広画で出版     していた〉    ◯「文政十年丁亥日記」①45 文政十(1827)年二月九日(『馬琴日記』第一巻)   〝宗伯ヲ以、尾張町英泉方へ、端午かけ物料あやめ兜の図画稿壱枚、うら打唐紙、并ニ絵の具代等、もた    せ遣ス。八時比出宅、薄暮帰宅。但、武具訓蒙図会>一ノ巻、英泉へかし遣ス〟    〈宗伯は嫡男。馬琴は英泉に端午の節句用掛軸「あやめ兜」の絵を依頼したのである。武具訓蒙図会に拠って兜の図柄     を指示したものであろうか。武具訓蒙図会は『武具訓蒙図彙』(貞享元(1684)年・湯浅得之編)であろう。同月一日     に〝武具訓蒙図彙五冊、入用ニ付、携かへる〟とあり〉    ◯「文政十年丁亥日記」①73 文政十年(1827)三月廿二日(『馬琴日記』第一巻)   〝画工英泉来ル、二月中たのミ置候あやめ兜の画本出来、持参。且、国貞雑(ムシ二字不明)之事、勧解    被申述。右之意味合、予も申述おく。其後、帰去〟    〈「勧解」とは和解の意味であるが、仲裁したのは英泉か。すると国貞と馬琴との間の紛争ということになるが、この     あと国貞が来訪して、忰孝貞の名弘書画会への参加を要請しているところをみると、そうでもなさそうである〉    ◯「文政十年丁亥日記」①119 文政十年(1827)六月十一日(『馬琴日記』第一巻)   〝今日、五雲箋百枚、おみちへ遣ス。是は英泉よりおくられしもの也〟    〈五雲箋は最高級の雁皮紙。おみちは後に失明する馬琴の代筆をした嫡男宗伯の妻の路(みち)。この三月二十七日に     結婚式をあげたばかりである〉    ◯「文政十年丁亥日記」①170 文政十年(1827)八月六日(『馬琴日記』第一巻)   (馬琴、明日の床上の祝。病気見舞いに訪れた人々に対して赤飯による返礼の記事あり。浮世絵師として    は唯一英泉の名があがる)    〈当時英泉は馬琴の合巻『金毘羅船利生纜』(泉屋市兵衛板)の画工を担当していた〉    ◯「文政十年丁亥日記」①172 文政十年(1827)八月十日(『馬琴日記』第一巻)   〝英泉来る。御床上げ為御祝儀、醤油切手持参。    〈英泉の馬琴に対する病気見舞い等の心遣いは浮世絵師の中ではきわだっている〉    ◯「文政十年丁亥日記」①176 文政十年(1827)八月廿日(『馬琴日記』第一巻)   〝大坂屋半蔵来ル。昨日英泉方ぇ罷越、委細談候由。且、英泉ぇ貸被遣候石魂録前編持参、返ル〟    〈「石魂録」とは『松浦佐用媛石魂録』。前編は文化五(1808)年、歌川豊広画、板元鶴屋喜右衛門で刊行。後編は来春     文政十一(1828)年正月出版、英泉画、大坂屋半蔵はその板元である〉    ◯「文政十年丁亥日記」①183 文政十年(1827)九月四日(『馬琴日記』第一巻)    〝英泉来ル。石魂録壱之巻さし画弐丁写本出来、持参〟
  〝英泉近所之貸本屋弟ニて、筆工いたし候者有之、過日鶴喜申上候者ニ御座候。今明日中上り候間、御教    諭、御取立被成下候様、申之〟    〈「石魂録」とは『松浦佐用媛石魂録』後編。八月廿日参照〉     〝筆工仙吉来る。鰹節一連持参。被為遊御逢、書体一々御教諭、石魂録筆工被仰付候間、節句前後参り候    様、被仰遣〟    〈この仙吉(仙橘)は、八犬伝の第七輯の筆工に筑波仙橘、第八輯に墨田仙橘として出てくる。「滝沢家訪問往来人名     簿」に〝丁亥九月四日初テ来ル 山下御門外筑波町河岸通り紺屋ト酒やの間の裏ニて 筆工書 本屋 丸屋吉右衛門      弟 仙橘〟とある。また天保四年(1833)成立の英泉著『無名翁随筆』(別名『続浮世絵類考』)では〝渓斎英泉門人     【俗称仙吉、向島、中本多ク、画作ヲ出セリ、筆耕ヲ業トス】〟と出ている〉    ◯「文政十年丁亥日記」①185 文政十年(1827)九月七日(『馬琴日記』第一巻)   〝英泉使来ル。過日御約束御座候六樹園訳本排悶録三冊被見せ、銅板煙草入地壱枚、被恵。石魂録さし画    清水舞台之所不安(ママ)内、認兼候間、そのゝ雪拝借之事、頼来ル。則、二之巻壱冊、御貸被遣候〟    〈「六樹園訳本排悶録」とは、清人・孫洙著『排悶録』の原本に六樹園の訳と英泉画を加えた『通俗排悶録』のこと。     翌文政十一年、十二年に刊行される。英泉は馬琴の読本『松浦佐用媛石魂録』の画工を担当していたが、清水の舞台     の挿絵に手こずっている様子、その時「そのゝ雪」の二之巻に同舞台の挿絵があることを思い出したのであろうか、     その作者馬琴に、同図を参考にしたい旨申し出たのである。その英泉の清水舞台の挿絵は「後集巻之二」に載る。そ     のもとになった読本『園の雪』の清水舞台は北斎画で、版元角丸屋甚助・文化四年(1807)刊。なお英泉は同月十一日     返却している〉    ◯『滝沢家訪問往来人名録』 下p117(曲亭馬琴記・文政十年十月十一日)   〝丁亥(文政十年)十月十一日初入来英泉紹介 榊原遠江守殿家臣湯嶋七軒町(上)中やしきに在り 雪麿    事 田中源治〟
  (貼紙)   〝口上 雪麿    先達而画工英泉御宅ぇ罷出候節 御話申上候志賀随翁の手紙為御一覧持参仕候 己(ママ)上〟
  (貼紙・馬琴筆)   〝随翁手帋伝来 牧野新左衛門ひまご 當時 牧野新介    同 持主ハ 岡嶋但見    榊原遠江守殿家臣 雪丸事 田中源治〟    〈通常、馬琴は未知の人には面会をしないが、雪麿には英泉の紹介があった。ただ馬琴が英泉を通して雪麿に面会を許     したのは、雪麿に興味があったというより、雪麿が仲介できる志賀随翁の真跡に関心があったからだと思われる。英     泉は馬琴の興味関心のアンテナ役を果たしたのである〉    ◯「文政十年丁亥日記」①210 文政十年(1827)十月廿七日 (『馬琴日記』第一巻)   〝画工英泉来ル。氷砂糖壱曲、被恵之。八犬伝口絵御注文。御要談数刻、帰去〟    〈この年、英泉も重信と共に『南総里見八犬伝』第七輯の挿絵を担当していた〉    ◯「文政十年丁亥日記」①216 文政十年(1827)十一月九日(『馬琴日記』第一巻)   〝画工英泉来る。石魂録五丁之下巻さし画壱丁、直し出来、指越〟    ◯「文政十年丁亥日記」①217 文政十年(1827)十一月十一日(『馬琴日記』第一巻)   〝雪麿事田中源治来ル。先達而、英泉より、志賀随翁真跡所持之人有之、同藩雪麿ト申者持参、入御覧度    旨、私迄頼候間、罷出候ハヾ、御逢被下候様申上候ニ付、今日逢有之〟    〈雪麿は戯作名墨川亭雪麿。「滝沢家訪問往来人名簿」には〝丁亥十月十一日初入来英泉紹介 榊原遠江守殿家臣湯嶋     七軒町(上)中やしきに在り 雪麿事 田中源治〟とあり、ちょうど一ヶ月前に英泉の紹介で対面したばかりである。     雪麿が持参した「志賀随翁真跡」の随翁は、大田南畝の『一話一言』巻四十九に〝春毎に松のみどりの数そひて千代     の末葉のかぎりしられず 藤恕軒志賀氏随応行年百有余歳〝と書き留められた長寿で有名な人であった〉    ◯「文政十年丁亥日記」①237 文政十年(1827)十二月廿日(『馬琴日記』第一巻)   〝(お路を以て、お遣いの帰路)尾張丁英泉ぇ、御書翰被遣。所要は、殺生石さし画注文也。使、昼前帰    来。英泉今日此方ぇ罷越候趣、御返事不来〟      〝英泉来る。為手土産、白砂糖一袋・かも折詰、持参。於御書斎、御逢。殺生石さし画御示談後、薄暮帰    去〟    〈合巻『殺生石後日怪談』の初編は初代豊国画で文政七年の刊行。豊国は文政八年に没しているから、英泉に画工の仕     事が回ってきたのである。「殺生石」の出版経緯については『馬琴日記』第一巻の十一月十三日の記事参照〉    ◯『馬琴書翰集成』①206 文政十一年(1828)正月三日 鈴木牧之宛(第一巻・書翰番号-40)   〝『雪譜』之事、此節彫刻いたし度と申板元、有之よし、去冬十二月中、画工英泉参り、被申述候。板元    たしかなるものニ候ハヾ、追々可致す相談旨、申談じ置候〟    〈渓斎英泉も『北越雪譜』(鈴木牧之著・初編・天保七(1836)年刊)出版の引き受け先を探していたのである。しかし     これも不調に終わる〉    ☆ 文政十一年(1828)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(文政十一年刊)    渓斎英泉画    『画本錦之囊』一冊 東都絵師渓斎英泉画 文華堂板〔漆山年表〕    『絵本勇見袋』二冊 渓斎英泉画 十返舎一九作 和泉屋市兵衛板〔漆山年表〕    ◯「合巻年表」   (〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔早大〕は「古典籍総合データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(文政十一年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『裾模様沖津白浪』前編(画)歌川国貞・五亀亭貞房(著)鶴屋南北 和泉屋市兵衛板〔東大〕     (備考、下編一丁表のみ「英泉画」の由)    『色三味線仇合弾』(画)渓斎英泉(著)瀬川路考  若狹屋与一板〔東大〕    『御婢子育桂川鮎』(画)渓斎英泉(著)墨川亭雪麿 川口正蔵板 〔東大〕    『杜若紫再咲』  (画)渓斎英泉(著)岩井粂三郎(一筆庵可候代作)蔦屋吉蔵板〔東大〕     (備考、巻末に「一筆庵英泉戯画」の記載あり)    『東街道四ツ家怪談』渓斎英泉画 尾上梅幸作・花笠文京代作〔目録DB〕    『黒雲太郎雨夜譚』 渓斎英泉画 乾坤坊良斎作・市川三升校 蔦屋吉蔵板〔早大〕    『入船帳忠義之湊』 渓斎英泉画 墨川亭雪麿作〔目録DB〕    『鹿子紋娘道成辞』 渓斎英泉画 山東京山作 丸屋甚八板 〔目録DB〕    『初時雨矢口渡』  渓斎英泉画 十返舎一九作 山本平吉板〔早大〕    『絵本勇見袋』   渓斎英泉画 十返舎一九作 和泉屋市兵衛板〔目録DB〕    『杜若紫再咲』   一筆庵英泉戯画 岩井粂三郎作 蔦屋吉蔵 〔目録DB〕    ◯「読本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇読本(文政十一年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『松浦佐用媛石魂録』後編 渓斎英泉画 曲亭馬琴作〔目録DB〕    『江戸自慢飜町育』 渓斎英泉画 東西庵南北作  〔目録DB〕    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇不明(文政十一年刊)    渓斎英泉画『可祝六三八重霞』渓斎英泉画 為永春水著(注記「挿絵節用による」)〔目録DB〕    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(文政十一年刊)    渓斎英泉画『玉加津羅』三冊 英泉画 文政十一序〔目録DB〕(注記「多満佳津良の改竄本。日本艶本目録(未定稿)による」)    ◯「文政十一戊子日記」①255 正月十七日(『馬琴日記』巻一)   〝去冬、八犬伝さし絵為見合せ之、英泉ぇ御貸被遣候越後闘牛之図、昨日、美濃屋甚三郎を以、被致返上、    被遊御請取候〟    〈この越後闘牛之図は『北越雪譜』で知られる越後の鈴木牧之が馬琴に寄せたもの。八犬伝第七輯巻之五に「越後州古     志郡二十村闘牛図」〝原図北越鈴木牧之筆 渓斎英泉縮図〟とある〉    ◯「文政十一戊子日記」①257 正月廿二日(『馬琴日記』巻一)   〝画工英泉、為年始祝義、来ル。家君御対面。雑談暫、帰去。殺生石口絵、さし画二十丁之内、七丁出来、    持参。御請取被為置候〟    〈『殺生石後日怪談』の英泉画は二編で、文政十二年刊。初編は初代豊国と国貞画で文政七年の刊。初編から二編の間     に五年の隔たりがあるのは、文政八年正月の初代豊国逝去と文政十年の板元山口屋藤兵衛とのトラブルが影響してい     るのだろうか。昨年十一月十三日記事参照〉    ◯『藤岡屋日記 第一巻』p399(藤岡屋由蔵・文政十一年(1828)正月記)   〝当春肥後国熊本の産大空武左衛門廿三才ニて、身丈七尺余、但やせ形ちニて、たとわゞ日陰の木の如し、    頭少し小サシ。    去ル年秋の頃、細川家御屋敷へ来り居、去冬当春角力場へも不出、土俵入角力も取不申、錦絵ニ多く出    ル也。    手の形を押たる図出ル也、尤大き成者ニて、往来馬上の人とあたま同じ様なり。      大小      九州の肥後二むまれて江戸十二       四らぬ人七きおほおと小なり〟
    渓斎英泉画「大空武左衛門」(山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵)    ◯「文政十一年戊子日記」①371 八月八日(『馬琴日記』第一巻)   〝画工英泉来る。予、対面。彼仁親類に不埒のもの無(ママ)之、借財等引請、甚困窮の上、大坂書林河内や    茂兵衛と談じ置候事、間違、河茂今以江戸へ不来候に付、弥難儀のよし。彼是長談、みのや甚三郎噂等、    聞之。其後帰去〟    〈英泉は親類の不埒な者のせいで借財を抱えるなど経済的な苦境に陥っている様子。今年の正月、大坂の河内屋茂兵衛     は英泉の絵本『画本錦之嚢』を出版していた。そのことと関係があるのか不明であるが、英泉は河茂をアテにしてい     るのような書きぶりである。なお翌九月廿五日、英泉と河内屋が同道して馬琴の許を訪れる記事あり、そこでが新た     な話が持ち上がっている〉    ◯「文政十一年戊子日記」①385 八月廿七日(『馬琴日記』第一巻)   〝今日、英泉書画会のよし、金兵衛申之。この方へ、沙汰無之に付、祝義不及遣。宗伯病中、遠慮被致候    もの歟〟    〈英泉の書画会。馬琴は招待状の来ざることを、病中の宗伯を抱える滝沢家に対する、英泉の遠慮と感じているようだ〉    ◯「文政十一年戊子日記」①407 九月廿五日 (『馬琴日記』第一巻)   〝画工英泉、大坂書林河内や茂兵衛同道ニて来ル。予対面。著述のたのミ雪譜並ニよミ本等の事也。相談    数刻、則帰去、英泉も来月中旬出立のよし也〟    〈「雪譜」とは鈴木牧之の『北越雪譜』であろう。本文執筆を馬琴に頼んだのであろう。しかし馬琴はなかなか筆をと     らなかった。この出版は曲折をたどり、後年の天保七年(1836)、馬琴とは犬猿の仲の山東京山の刪定、山東京水百鶴     の挿絵で、丁子屋平兵衛と河内屋茂兵衛から出版されることになる。さて、河内屋茂兵衛の江戸入りを待ちかねてい     た英泉、着いた途端に今度は突然大坂行きだという。どんな事情があってそういう仕儀に至ったものであろうか>    ◯「文政十一年戊子日記」①430 十月廿六日(『馬琴日記』巻一)   〝画工英泉来ル。転宅并大坂へ罷越候事も、いまだ治定しがたきよし也。雑談数刻、帰去〟    〈一ヶ月ほど前には、十月中旬には大坂へ立つ予定であったが、何か支障が生じているらしい〉    ☆ 文政十二年(1829)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(文政十二年刊)    渓斎英泉画『神事行燈』三編 一冊 渓斎筆〔英泉之印〕〔漆山年表〕    ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔早大〕は「古典籍総合データベース」)   ◇合巻(文政十二年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『黒雲太郎雨夜譚』二編(画)渓斎英泉(著)乾坤坊良斎 市川団十郎校合 蔦屋吉蔵板〔東大〕    『殺生石後日怪談』二編(画)渓斎英泉(著)曲亭馬琴    山口屋藤兵衛板〔東大〕    『博多小女郎物語』  (画)渓斎英泉(著)十返舎一九   和泉屋市兵衛板〔東大〕    『繋馬七勇婦伝』   (画)渓斎英泉(著)為永春水    西村屋与八板 〔東大〕    『七種薺物語』    (画)英泉  (著)雪麿 東里山人 和泉屋市兵衛板〔東大〕    『昔語忠義之朱達満』   渓斎英泉画 一筆庵戯作 川口正蔵板    〔早大〕    『金毘羅船利生纜』五六編 渓斎英泉画 曲亭馬琴作   和泉屋市兵衛板〔早大〕    『紅粉画売昔風俗』    渓斎英泉画 墨川亭雪麿作  佐野屋喜兵衛板〔早大〕    ◯「読本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇読本(文政十二年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『金鈴橘雙史』渓斎英泉画 全亭正直作〔目録DB〕    『都鄙物語』 渓斎英泉画 鼻山人作 〔目録DB〕    ◯「絵入狂歌本年表」(〔狂歌書目〕は『狂歌書目集成』)   ◇狂歌(文政十二年刊)    渓斎英泉画『金石狂歌仮名手本』一冊 英泉画 臥竜園撰 花園連〔狂歌書目〕    ◯「艶本年表」    (〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」〔国文研・艶本〕は「艶本資料データベース」〔白倉〕は『絵入春画艶本目録』)   ◇艶本(文政十二年刊)    渓斎英泉画    『葉名茂見誌』三冊 英泉画 嬌訓亭(為永春水)訳〔目録DB〕      〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『秋の寝覚』色摺(合羽摺) 半紙本 四冊 淫斎白水画 嬌訓亭主人述〔国文研・艶本〕〔白倉〕      (〔白倉〕初版は合羽摺で後摺本は墨摺のみ、文政12年頃刊とする)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇人情本(文政十二年刊)    渓斎英泉画    『貞烈竹節談』渓斎英泉画 為永春水・白頭子柳魚(駅亭駒人)作〈文政三年刊『松操物語』の二編〉    『玉川日記』 四・五編 英泉・英笑・国丸 為永春水作     『寝覚繰言』 初・二編 渓斎英泉画 南仙笑楚満人(為永春水)作〈文政七年刊『明烏後の正夢』の続編〉    『梓物語』  後編 渓斎英泉画 玉楼花紫作    ◯「文政十二己丑日記」②51 三月十一日(『馬琴日記』第二巻)    〝画工英泉来ル。当月廿四五日比出立ニて、大坂へ旅行のよし、申之。依之、紹介状被頼候。右に付、大    坂河太諸勘定之事、并に河茂潤筆わたり等の事、申談じくれ候様、頼之。尤、河太取引之義、一向不行    届候趣、あらまし示談〟    〈河太は河内屋太助、河茂は河内屋茂兵衛。共に大坂の版元。馬琴は英泉の紹介状を書くとともに、これらの版元に対     して勘定や執筆等の交渉をするよう依頼したのである。大坂行きは昨年から計画されていたのであるが……〉    ◯「文政十二己丑日記」②57 三月十九日(『馬琴日記』第二巻)   〝大坂や半蔵来ル。板木師方へ罷越候留守中、英泉罷越、美少年録さし画、国貞方いかゞ相成候哉、もし    ふり替、英泉へ画せ候ハヾ、上方行出立延引いたし候ても、間ニ合可申旨申候よし、老母が申置ニ付、    われら方より英泉へたのミ候哉と存、問合せ、相談之為来候よし也。われら方より英泉へ頼候事ハ無之    候。国貞方いまだ何とも決着無之故也。英泉いかゞ心得候哉、間違ニ可有之候旨、申聞。且又、国貞方    え之かけ合手段等、くハしく申聞候へば、承知之上、早々帰去。大半決着なく、板木師等にそゝのかさ    れし故也〟    〈作画に手間取っている国貞に代わって『近世説美少年録』の挿絵を担当しようという英泉の申し出、それは上方行き     を延期してまでもという強い意欲を伴ったものであった。それを聞いた板元大半こと大坂屋半蔵、それが馬琴の意向     によるものかどうかを確かめに来たのである。無論、前日大坂に発つ英泉に諸事を託した馬琴がそんなことをするは     ずはない。結局のところ、英泉は板木師等の唆しに踊らされたものらしい。また、そうされるべき遺恨が英泉と板木     師と版元との間にあったようである。四月廿三日、五月朔の日記参照〉    ◯「文政十二己丑日記」②58 三月廿日(『馬琴日記』第二巻)   〝大坂や半蔵来る。昨日、国貞方え美少年録稿本とり戻しニ遣候処、他行のよし。今朝も又、人遣候処、    板木師御家人原吉十郎へかけ合置候事故、吉十郎参候はゞ、可渡旨、申来り候。いづれむつかしく候間、    とり戻し、外画工え頼可申候間、依之、且、昨日、英泉も大半方へ罷越、為永長次郎噂にて承候故、    右之画かき申度旨、申候よし。依て、かけ引等之心得、くはしく及示談。数刻之後、帰去〟    〈国貞と板木師と板元の間にどのような問題が生じているのかよく分からないが、大坂屋半蔵は他の画工に依頼する意     向を持っているらしい。それを為永長次郎(春水)から噂として聞いた英泉が大坂行きを延引してまで自ら画こうと     申し出たものらしい〉    ◯「文政十二己丑日記」②59 三月廿一日(『馬琴日記』第二巻)    〝(大火)芝居も、三芝居とも類焼といふ。懇意の板元、つるや・西村や・もりや・山口や・大坂や半蔵    等、皆、類焼なるべし。すきやばし辺延焼のよしに付、みのや甚三郎・画工英泉・芝神明前泉市も類焼    せしか、未知之。はま丁伊藤半平・甚左衛門町芝や文七・小あみ町西野や幸右衛門・十軒店英平吉も大    かたやけたるべし〟    〈文政十二年三月の江戸大火である。神田佐久間町より出火、南北約一里余、東西二十余町、日本橋、京橋、新橋に至     る江戸の中心街を焼き尽くし、千九百余人の死者を出したとされる。鶴屋喜右衛門・西村屋与八といった地本問屋を     代表する大どころの板元も類焼し、尾張町(今の銀座)住の英泉も焼け出された〉    ◯「文政十二己丑日記」②61 三月廿三日(『馬琴日記』第二巻)   〝今日、やけ場方角付うりニ来ル。かひ取、見候処、深川ハ恙なし。西ハかまくらがし迄、東ハ両国まで、    南ハ土橋ニてやけとまる。英泉いづれへ立退候哉、未詳〟    〈「やけ場方角付」とは、この火事で初めて登場したという江戸絵図の上に焼失範囲を書きこんだ「かわら版」のこと     であろう。英泉の避難先がまだ分からない〉    ◯「文政十二己丑日記」②63 三月廿七日(『馬琴日記』第二巻)   〝今日昼前、門前脇ニて、お百、英泉ニあひ候よし。今日、根津縁者方へ罷越、当分罷在候ニ付、荷物、    船ニて筋違御門外までつミみつけ候よし、申之。近日罷出べき旨、申候よし也〟    〈お百は馬琴の妻。この「門前脇」とはどこであろうか〉    ◯「文政十二己丑日記」②70 四月十二日(『馬琴日記』第二巻)    〝画工英泉来ル。先月中之餞別并類焼見舞、答礼也。芝浜松丁へ行居候処、尚又勝手ニ付、根津七軒町へ    引移候よし、申之〟    〈類焼に遭った英泉はいったん芝の浜松町に避難し、その後根津へ移ったのである。紹介状まで認めて貰った英泉の大     坂行はどうなったのであろうか〉    ◯「文政十二己丑日記」②75 四月廿三日(『馬琴日記』第二巻)    〝大坂屋半蔵来ル。過日申遣候画工之事也。其後、原田吉十郎を以、国貞方へ両三度かけ合候処、とかく    決着いたしかね候間、乃断候。然ル処、英泉義も、石魂録後集画せ候節、義絶同様之手紙差越候ニ付、    今更たのミ候事難儀の趣、申之。いづれ花山方、北渓事問に遣し、かけ合之上、何レとも取極可申間、    四五日見合せ可然旨、及相談〟    〈大坂屋半蔵は国貞を断念する。しかし何が原因かよく分からないが、大坂屋は英泉とも『松浦佐用媛石魂録』後編     (文政十一年(1828)刊)で義絶状態にあり、今更頼み難いとする。そこで北渓の起用を考えたようである。ただ、ど      うして花山こと渡辺崋山経由で問い合わせるのか、不思議である〉   ◯「文政十二己丑年四月二十七日」『戯作六家撰』〔燕石〕②83(岩本活東子編・安政三年成立)   (「曲亭馬琴」の項)   〝文政十二己丑年卯月すゑの七日、渓斎英泉、予が家に訪来て、物語のついでにいはく、在下いぬる日、 曲亭翁が元にいたりし時、翁の申さるゝは、(以下、長文にのため、要旨のみ。昨日、自家製の奇応丸 を購入した者で、今春出版の『近世説美少年録』を誉める一方『傾城水滸伝』を謗る内容の封書を置い ていった者があったこと。また『傾城水滸伝』において、日本にありもしない「蒙汗薬」(痺れ薬)を 趣向として使うのは不審だとする投書があったこと。それに対して、そもそも「蒙汗薬」なるもの、    『水滸伝』の宋代にも存在しない、原本でさえ作者のこしらえ物、したがって日本においても憚ること    なし、その非難は当たらないとして、一笑に付した)と翁のいはれしとて、渓斎ものがたりき〟    〈ここの「予」は『戯作六家撰』の編者岩本活東子ではなくて、その原本となった『戯作者撰集』の石塚豊芥子である。     英泉の『無名翁随筆』は天保四年の成立、曲亭馬琴の『近世物之本江戸作者部類』は天保五年、そして石塚豊芥子の     『戯作者撰集』は天保末年以降の成立とされている。それらに先立つ文政十二年の記事である。英泉は『浮世絵類考』     『浮世絵類考追考』の典拠を持っている、馬琴は出版界での体験や見聞が豊富な上に抜群の記憶力を誇っている。ま     た、豊界子は『稗史通』(墨川亭雪麿、文化十年成立)や北斎の聞き書きを典拠としている。こうした出会いがもたら     した影響はどのようなものであったのだろうか。因みに、英泉は曲亭馬琴の七作品に挿画を画いている〉    ◯「文政十二己丑日記」②79 五月朔日(『馬琴日記』第二巻)   〝画工英泉来ル。三月類焼前遣し置候ふろしき一枚、被返之。美少年録二輯さし画の事、板木師原吉、英    泉に宿恨有之、板元大坂や一致、彼是意味有之に付、右のさし画、北渓えたのみ候趣申聞ヶ、尚又、已    来大坂河茂板さし画の事抔、心得の為、内々及示談〟    〈英泉は板木師原田吉十郎とも絶縁状態のようだ。これも原因はよく分からない。大坂の河内屋茂兵衛は馬琴作・英泉     画の『松浦佐用媛石魂録』(文政十一年)後編の板元であった〉     〝大坂や半蔵来ル。過日、北渓に引付ケ遣し候謝礼也。(中略)且、英泉事、今日罷越候ニ付、画ハ北渓    えたのミ候段申聞〟    ◯「文政十二己丑日記」②98 六月五日(『馬琴日記』第二巻)   〝画工英泉来ル。金ぴら船七編の画、ゑがき様相談の為のよし。今日、泉市へ罷越候よしに付、同書五よ    り八迄稿本四冊、右同人えわたし、今日、泉市へ届くれ候様、たのみ遣す〟    〈合巻『金毘羅船利生纜』(初編・文政七年(1824)~八編・天保二年(1831)迄。七編は文政十三(天保元年刊)すべ     て英泉が担当している〉    ◯「文政十二己丑日記」②115 七月五日(『馬琴日記』第二巻)    〝山口や藤兵衛より使札。殺生石後日三編の口画之事、画工英泉、今日迄之約束ニ付、取ニ罷来候処、無    拠用事出来、未画候よし、申之。段々延引ニ及候間、是より手紙遣しくれ候様、申来ル。四五日過、尚    又さいそくいたし可然旨、返事申遣ス〟    〈板元山口屋藤兵衛より馬琴の方が英泉に対する影響力があるのだろうか〉    ◯「文政十二己丑日記」②126 七月廿一日(『馬琴日記』第二巻)    〝中川金兵衛来ル。右ハ、昨日英泉方より差越候よしニて、金ぴら船七編二・三の巻十丁、画被為見之。    此内、画工心得ちがひいたし、二の巻の内、八戒を岩さきに画キ候処有之。其外、不宜処一二ヶ処有之〟    ◯「文政十二己丑日記」②132 七月廿八日(『馬琴日記』第二巻)    〝画工英泉、昼前来ル。予、対面。金ぴら船七編五より八迄画出来、見せらる〟
  〝白砂糖壱斤被恵之。外に、頼み置候筆五本、持参(中略)北斎画水滸伝百八人像、過日英平吉よりかひ    取置候全一冊、今日、英泉え遣之〟    〈馬琴が北斎画を英泉に遣わしたのは参考にせよという意味であろうか〉     〝(『近世説美少年録』板元大坂屋半蔵)七月中より不出来ニて、打臥罷在候よし。右ニ付、美少年録二    輯さし画、北渓方より画キ不参、并ニ、板木師も埒明不申ニ付、其義のミ苦労ニいたし、病中日々申く    らし候よし。同人内儀申候趣、告之。并ニ、山口や藤兵衛方へ立寄、申付候口状申述候処、英泉方へハ    さし画折々催促ニ遣し候へ共、出来不申故、及(ママ)不覧ニ及び候よし。此方出来三之巻、両三日中、使    ヲ以、請取ニ参り候筈、藤兵衛申候趣、告之〟
  〝大坂や半蔵、病中、画工不埒明事苦労ニ致候趣、きのどくニ付、渡部花山方まで其段申遣し、北渓方へ    伝へさせ、一日も(ママ)出来候様いたし遣し度思ひ候間、手紙認、今日、清右衛門へ申付、花山方へ届候    様談じ、もたせ遣す〟    〈板元にとって、国貞、英泉、北渓、なかなか意のままにならない存在のようだ。最も画工すべてがそういう訳でもな     さそうで、このころ、やはり馬琴作の合巻『風俗金魚伝』『漢楚賽擬選軍談』『傾城水滸伝』を担当した歌川国安は     順調に進行しているのか、督促記事は見あたらない〉    ◯『滝沢家訪問往来人名録』 下p119(曲亭馬琴記・文政十二年)   〝己丑(文政十二年)三月廿一日類焼ニ付 当分芝浜松町三町め家主伊兵衛方同居 画工英泉
  〝同(己丑)四月ヨリ 根津七軒町自身番隣家主利介 画工英泉
  (翻刻者・柴田光彦注記〝森銑三「著作堂を訪うた人々」(昭和九年一月)によれば巻頭に英泉の短簡、    「大坂中屋伊三郎より細工人銅板摺煙草入地此度新製仕候よし、昨日到来仕候に付、御慰に奉御覧ニ入    候。御一笑可被下候、以上。英泉、上」の一通が貼付されているとあるが、今は亡佚してない〟由)    ◯『馬琴書翰集成』①244 文政十二年(1829)八月六日 河内屋茂兵衛宛(第一巻・書翰番号-52)   〝画工英泉ハ類焼後、根津の縁者方へ参り居、片辺土ニて不都合の上、いろ/\俗事出来のよしニて、外    々の画も一向出来かね候。且、筆工書千吉抔は、何方ニ居候哉、今以しかとしれかね候〟    〈「類焼」とはこの年の三月二十一日の大火のことである。千吉は仙橘とも書く。英泉の口利きで馬琴の筆工に起用さ     れた〉    ◯「文政十二己丑日記」②141 八月九日(『馬琴日記』第二巻)   〝森や次兵衛来る。予、対面。金魚伝後編催促也。且、国安事、当分本所三ツめニ在宅、遠方、且、こみ    合出来かね候故、画ハ英泉ニ可致哉之旨、不(ママ)及相談、初編を国安ニ画せ候事故、国安しかるべし。    英泉とても、画埒明かね候趣、申聞おく〟    〈国安は当時本所三ツ目に住んでいた。板元森屋次兵衛は、国安の住居が遠方で画稿等の遣り取りに効率が悪いこと、     加えて画注文が混み合っているという理由で、金魚伝の画工に英泉の起用をもちかけたのである。これを見ると、英     泉は板元に重宝がられているようである。しかし初編が国安であること、また英泉では〝埒明かね候〟と推測して、     馬琴は国安を選らんだ。ここのところの英泉の遅筆が馬琴の判断に影響したのだろうか。結局、文政十二年から天保     三年まで刊行された『風俗金魚伝』は国安が単独で画工を担当することになる〉    ◯「文政十二己丑日記」②155 八月廿七日(『馬琴日記』第二巻)   〝画工英泉来ル。金ぴら船七編表紙外題の画写本出来、持参。一覧の処、画がら不宜候へ共、本写本かき    立候事故、その内少々直し候様、談之〟    〈〝画から不宜候へ共〟とあるが〝少々の直し〟で妥協したようだ。画工に対する要求の厳しい馬琴にしては珍しい〉    ◯「文政十二己丑日記」②173 九月十八日(『馬琴日記』第二巻)   〝画工英泉来ル。泉市より被頼候金ぴら船初編より五編、袋入いだし候ニて、袋画稿乞ニ来ル。即刻、五    通り略絵稿筆之、英泉へわたし遣ス。今日、英泉、真書筆十一本持参。かねて頼置候故也。過日之【七    月廿八日なり】五本と共に五百三十二文。此代金壱朱と百廿文、今日、英泉へわたし遣ス。右両度分筆    代皆済也〟    ◯「文政十二己丑日記」②184 九月廿九日(『馬琴日記』第二巻)    〝鶴屋嘉兵衛来ル。傾城水滸伝十編下帙稿本催促也。并ニ、根岸ニ売家二ヶ所有(二字ムシ)、過日英泉    申候よし、告之。此方清三郎地面地面借地之事、大抵規定、明日弥取極可申趣、申聞候へども、先、英    泉方へ罷越、承り合せ可然旨、達而申ニ付、嘉兵衛同道ニて、即刻英泉方へ差越シ、承り合せ候処、先    方世話人壱人松山稲荷へ参詣の留守のよし。又一ヶ処の定かならず、これハ、世話人池之端罷在候人之    よし。今夕、英泉実否可承旨、申候由也。左様ニ延々にハいたしがたく候故、不及其義旨、申断候よし。    夕七時過ニ宗帰宅、告之。嘉兵衛ハ門前より別去。尤無益之事也〟    〈明日には転居先を取り決めようという際どいタイミングで、英泉が売り家の話を持ちかけて来たのであった。馬琴は     なぜかそれに応じて、宗伯を英泉の許に遣わした。ところが世話人が留守であったり場所が不明であったりで埒が明     かない、英泉は夕刻再確認しようと言うのだが、これ以上は待てないということで、英泉の斡旋は断ったのである。     〝尤無益之事也〟とは馬琴の感慨であるが、しかし馬琴はどうして英泉を受け入れるのであろうか不思議でならない。     英泉は英泉で、どうして馬琴の世話をこんなにまで買って出るのであろうか〉    ◯「文政十二己丑日記」②185 九月晦日(『馬琴日記』第二巻)    〝英泉来ル。昨日鶴屋嘉兵衛同道ニて、宗伯罷越、問合せ候根岸売居之事、昨夕池の端某方へ罷越、承糺    し候処、根岸百姓惣兵衛と申者より、某も承候よしニて、定からず(ママ)、一向ニ浮たる事ニ付、もはや、    土岐村借地之事、今日規定の積りニて、宗伯先方へ罷越候ニ付、かさねて承糺しくれ候に不及旨、及示    談〟    〈昨日の根岸の売り家の件、取次の必要なしと、馬琴は英泉に断りを入れる一方、この日、地主林清三郎の許に宗伯を     遣わし、手付け金十両を渡して普請の打ち合わせをさせた。しかし実はこの転居騒動、意外な方向に展開してゆく。     とても一件落着したわけではなかったのである。原因は馬琴の占いに対する強いこだわりにあった〉    ◯「文政十二己丑日記」②187 十月 三日(『馬琴日記』第二巻)    〝英泉来ル。頼置候泉市潤筆前借之義、泉市承知の趣、并、根津七軒町かし寮之事、云云被報之。かし寮    の事、尚又、問合せくれ候様、たのみおく。今夕先方可申入旨申候而、帰去〟    〈根岸新宅の方角を占ったところ「太歳の憚り有り」ということで〟着工が延期になり、今度は英泉紹介の根津七軒町     「かし寮」の話が持ち上がった。しかしこの物件も方角が悪く取り下げになる〉    ◯「文政十二己丑日記」②189 十月 四日(『馬琴日記』第二巻)    〝宗伯七軒丁へ罷越候節、英泉物語ニ、池の端の弁天より先の池畔にかし家有之、家ちん月壱両ニて、高    料ニハ候へ共、彼処にてハ、御宅よりとちがひ、方位異なるべく候へバ、御考之上、方位宜候ハヾ、か    り請進じ候様可仕旨、被申候よし〟    〈馬琴は方角占いから、神田にいたまま根岸の新宅を普請することが出来ないので、方位の叶った処に一時的に借宅を     設ける必要があった。最初、英泉紹介の根津七軒町の貸寮を検討したが、やはりこれも方角がよくなかった。また鶴     屋紹介の亀戸の売地も候補の一つにあがったが、嵩月が依然関心を示しているらしいこと、そしてまたこの住居では     宗伯が仕えている松前家への往来に難儀するという事情があって断念した。とはいえ根岸の新宅への手付金は既に渡     してある。いつまでも宙ぶらりんのまま着工を伸ばすわけにもいかないのである。そこへ英泉、今度もまた際どいタ     イミングで、上野池之端の貸家を紹介したのである。馬琴はこの池之端の貸家話にのる。ところが、六日になると、     根岸の家作は来年二月より取りかかったほうが〝年月の干支、宗伯生年ニ逆ハず、年月庚寅己卯、生年戊午甲寅也。     彼是ニ都合よく〟ということになって、結局、池之端借家は来年になると方位に支障があるということでご破算にな     るのであった〉    ◯「文政十二己丑日記」②207 十月廿三日(『馬琴日記』第二巻)   〝先日、英泉噂に、通徳類情、岡田やニ有之、代金壱両弐分のよし申ニ付、右の本とりよせ候ハん為、ふ    ろしきもたせ、遣ス。然ル処、右通徳類情ハ代金弐両弐分のよし。直段相違ニ付、本不遣旨、返書ニ申    来ル。(中略)類情の代金ハ、英泉聞ちがへなるべし〟    〈『通徳類情』は中国清代の占い書。これも転宅の吉凶を卜するのであろう。英泉は馬琴の転居に全面協力だが、書籍     の代金を一両も聞き違えるなど、いささか心許ない〉    ◯「文政十二己丑日記」②221 十一月七日(『馬琴日記』第二巻)   〝英泉来ル。予、対面。転宅延引之事物がたり、八犬伝七編四冊視之、且、ミのや甚三郎事等噂に及ぶ。    英泉、四大奇書之内、西遊記・三国志、払物のよしにて、一帙携来て、見せらる。西遊記は入用に候間、    泉市に申すゝめ、かひとらせ、此方差越し候様いたし度旨、談じおく。又、通鑑借書之事等も頼みおく〟    〈英泉は『南総里見八犬伝』七編の挿絵を柳川重信とともに担当していた。八犬伝は一昨日売り出されたが、その際、     板元美濃屋甚三郎は馬琴の校正を経ないまま無断で販売してしまった。その〝言語同断〟〝不埒〟(二日記)なる美     濃屋の振る舞いが話題になったのであろう。「四大奇書」とは『水滸伝』『三国志演義』『西遊記』『金瓶梅』。     「通鑑」は『資治通鑑』。英泉、今度は漢籍の斡旋である〉    ◯『真佐喜のかつら』〔未刊随筆〕⑧311(青葱堂冬圃著・嘉永~安政頃成立)   〝唐藍は蘭名をヘロリンといふ、この絵の具摺物に用ひはじめしは、文政十二年よりなり。(中略)    藍紙の色などは光沢の能き事格別なる故、狂歌、俳諧の摺物は悉く是を用ひぬ、されど未だ錦絵には用    ひざりしが、翌年堀江町弐丁目団扇問屋伊勢屋惣兵衛にて、画師渓斎英泉【英山門人】画きたる唐土山    水、うらは隅田川の図をヘロリン一色をもつて濃き薄きに摺立、うり出しけるに、その流行おひたゞし    く、外の団扇屋それを見、同じく藍摺を多く売出しける、地本問屋にては、馬喰町永寿堂西村与八方に    て、前北斎のゑがきたる富士三十六景をヘロリン摺になし出板す、これまた大流行、団扇に倍す、その    ころほかのにしき絵にも、皆ヘロリンを用る事になりぬ〟    ☆ 文政年間(1818~1829)    ◯『洒落本大成』第二十八巻   ◇洒落本(文政年間刊)    小泉画『妓娼◎子』署名「小泉画」鶯蛙山人作    〈「日本古典籍総合目録」は『妓娼精子』の書名。ただし文化十四年の成立とする〉    ◯「絵入狂歌本年表」(〔狂歌書目〕は『狂歌書目集成』・〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇狂歌(文政年間刊)    渓斎英泉画    『狂歌美人歌僊集』三冊 英泉・国直画 年々斎等撰 紅林堂〔狂歌書目〕    『狂歌人名録』  一冊 渓斎英泉画 西来居未仏編 花月堂〔狂歌書目〕     〈〔目録DB〕によると英泉画は続編か〉    『狂歌願の糸』  一冊 北渓・英泉画 四方真顔編〔目録DB〕    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(文政年間刊)    渓斎英泉画    『新梓枕文庫』一冊 淫乱斎画・作 文化初年刊〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『婦多津枕』 三冊 英泉画 艶好房(猿猴坊月成)作 文政頃刊〔目録DB〕      (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇人情本(文政年間刊)    渓斎英泉画    『松竹梅三組盃』渓斎英泉画 楚満人二世(為永春水)作・駅亭駒人(後編)作    『紅葉伊達染』 渓斎英泉画 楚満人二世作    『萩の枝折』  渓斎英泉画 楚満人二世作    『夜半雪』   渓斎英泉画 楚満人二世作    ☆ 天保元年(文政十三年・1830)    ◯「合巻年表」   (〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔早大〕は「古典籍総合データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(天保元年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『殺生石後日怪談』三編(画)英泉(著)曲亭馬琴 山口屋藤兵衛板〔東大〕    『繍絵雙白澐』  二編(画)渓斎英泉(著)尾上梅幸 丸屋甚八板〔東大〕    『金毘羅船利生纜』七編 渓斎英泉画 曲亭馬琴作 和泉屋市兵衛板〔早大〕    『大島台婚礼盃』 渓斎英泉画 墨川亭雪麿作〔早大〕    『摺針太郎豪傑譚』渓斎英泉画 尾上梅幸作・為永春水代作 丸屋甚八板〔目録DB〕    『蝶◎二枚屏風』 渓斎英泉画 尾上梅幸・瀬川路考作〔目録DB〕    ◯「読本年表」(〔中本型読本〕は「中本型読本書目年表稿」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇読本(天保元年)※角書は省略    渓斎英泉画    『小説坂東水滸伝』英泉・國安・泉晁画 教訓亭主人作〔中本型読本〕    『嫩髻蛇物語』  初編 渓斎英泉画 金亭主人作  〔目録DB〕    『水滸太平記』  初編 渓斎英泉画 岳亭丘山作  〔目録DB〕    『仁行録』    渓斎英泉画 作者名記載なし   〔目録DB〕    ☆ 天保二年(1831)    ◯「合巻年表」   (〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔早大〕は「古典籍総合データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(天保二年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『富士裾うかれの蝶鵆』(画)英泉  (著)柳亭種彦 蔦屋吉蔵板  〔東大〕    『殺生石五日怪談』四編(画)渓斎英泉(著)曲亭馬琴 山口屋藤兵衛板〔東大〕    『歌枕偽物語』渓斎英泉画 尾上梅幸作・松亭金水校 丸屋甚八板   〔早大〕    『月廼夜神楽』二編 国貞?国芳?英泉? 市川三升作・五柳亭徳升代作〔目録DB〕    ◯「読本年表」〔〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」〕   ◇読本(天保二年刊)※角書は省略    渓斎英泉画『十杉伝』二編 国芳・英泉画 為永春水作〔目録DB〕    ◯「絵入狂歌本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇狂歌(天保二年刊)    渓斎英泉画    『狂歌詞廼玉水』一冊 英泉画 便々館・竜廼屋編  〔目録DB〕    『狂歌松の林』 一冊 英泉画 の庵漢江編 漢江社中〔目録DB〕    ◯「天保二年辛卯日記」②463 十月十五日(『馬琴日記』第二巻)   〝画工英泉来ル。殺生石後日五編壱の巻さし画、やう/\出来、見せらる。且、手みやげ贈らる。筆工、    金兵衛へ持参のよしニ付、直ニかへし遣ス。あとさし画の事、早々出来候様、示談〟
  〝丁子や平兵衛手代、英泉は此方へ不参候哉と、問ニ来ル。過刻罷帰候金兵衛方へ罷越候よしに候へども、    時刻移り候間、馬喰丁山口やぇ参候哉、難斗旨、及返事〟    ◯ 天保二年(1831)十月二十六日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-19)②78   〝『殺生石』ハ五編にて、当年大尾ニ成候故、第一ばんニ書遣し候へ共、板元素人同然のものゝの上、画    工英泉画師をやめ、あしなる渡世をいたし候故、何分画にさしつかえ、只一冊ならでハ画が出来不申、    『水滸伝』より手おくれニ成候故、全冊出板ハ心もとなく候〟    〈『殺生石後日怪談』は二編~四編(文政十二年(1829)~天保二年(1831))まで渓斎英泉が担当。天保二年には「英泉     画師をやめ、あしなる渡世をいたし」とある。斎藤月岑編『増補浮世絵類考』(天保十五年(1844)序)で補うと〝天     保の頃より筆を止て云、盛なれば心衰ふ、人に哢られんより、人を哢るに不如と、需るに不応して、根岸の時雨の里     に隠る(根津花街等に娼家をせし事もあり)後年俗事に苦心して志をとげず、遺憾といふべし。因にこゝにこれを記     す〟ということになる。もっとも完全に筆を捨てたわけではなく、一時的である。国文学研究資料館の「日本古典籍     総合目録」によると、天保六~七年あたりから刊行件数が増えてくる。「あしなる渡世」とは「娼家」をいうのであ     ろうか。なお「殺生石」五編の画工は歌川国安である。板元は山口屋藤兵衛〉    ◯「天保二年辛卯日記」②478 十一月八日(『馬琴日記』第二巻)   〝山口や藤兵衛来ル(中略)殺生石五編、当年は並合巻ニいたし度旨、申に付、ふくろの画稿二枚、則、    表紙に用い、国芳ニ画せ候様、示談。英泉にては間に不合故也。五編下帙は画未出来、とても当暮うり    出しの間ニ不合候間、去(ママ)年に延し候様、是又示談。尤、来年は二年子(ママ)有之ニ付、山口やぇは    新著休之趣、申聞おく〟    〈英泉の遅筆の余波が国芳に及んだかたちだ。十一月十二日には国芳画の表紙外題が出来、馬琴の許に届いている。結     局、英泉画は五編の上までで、天保四年刊、五編の下は国安、表紙は国貞の担当に変わった。日記上からみると、歌     川国貞、国安への督促は殆どないが、英泉と北渓の遅筆は常態化している。また、八犬伝の柳川重信もそうで、八月     十八日には、版元丁字屋同道の上、今後滞り無なく画くことを馬琴に誓約していた〉    ◯「天保二年辛卯日記」②201 十二月十日(『馬琴日記』巻二巻)   〝谷中辺并ニ根津辺、二ヶ処出火有之(中略)根津は天明ニ火鎮ル。英泉類焼〟
  〝(山口屋藤兵衛談)画工英泉、今晩類焼ニ付、罷越候処、殺生石後日下五編下帙稿本は恙なく候間、と    り戻し候よし、告之〟    ☆ 天保初年(1830~)
 ◯『江戸現存名家一覧』〔人名録〕②309(天保初年刊)   〝東都画 池田英泉・鳥居清満・立斎広重・勝川春亭・葛飾北斉(ママ)・歌川国貞・歌川国芳・歌川国直・        柳川重信・柳川梅麿・葵岡北渓・静斎英一〟    ☆ 天保三年(1832)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(天保三年刊)    渓斎英泉画    『熱海温泉図彙』一冊 画図岩瀬京水・渓斎英泉・歌川国安 京山百樹編 山口屋藤兵衛板〔漆山年表〕     ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(天保三年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『殺生石後日怪談』五編一~二(画)英泉 表紙国芳(著)馬琴 山口屋藤兵衛板〔東大〕    『花桜木春夜語』 渓斎英泉画 柳亭種彦作 天保三序〔目録DB〕    ◯「絵入狂歌本年表」(〔狂歌書目〕は『狂歌書目集成』)   ◇狂歌(天保三年刊)    渓斎英泉画『狂歌詞廼玉水』一冊 英泉画 便々館・龍の屋撰 玉水連〔狂歌書目〕    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(天保三年刊)    渓斎英泉画『拾遺枕文庫』四編 渓斎白水画 嬌訓亭主人作〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇人情本(天保三年刊)    渓斎英泉画    『桐の一葉』池田英泉画 文狂亭綾丸作    『和哥紫』 初編 英泉・国直画 喜久平山人作   ◇滑稽本(天保三年刊)    渓斎英泉画『的中新話』三冊 渓斎英泉画 岡山鳥作 河内屋直助板〔目録DB〕    ☆ 天保四年(1833)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(天保四年刊)    渓斎英泉画『絵本武智袋(雪見袋后編)』二冊 渓斎英泉画図 十返舎一九文解 和泉屋市兵衛板〔漆山年表〕    ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(天保四年刊)※角書は省略    渓斎英泉画『絵本武智帒』渓斎英泉画 十返舎一九作〔目録DB〕         (注記「絵本勇見袋の後編」)    ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③316(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) 〝英泉【文化、文政ヨリ天保ニイタル】     俗称善次郎、後里介、居住江戸数ヶ所ニ転宅シテ、住所不定、始番町、後根岸新田村、姓藤原、本姓     池田氏、【江戸産、池田氏男也】名義信、一ニ茂義、号渓斎、一号一筆庵、別号無名翁、可候、戯作     ノ名ナリ、戯作ノ草双紙、中本、春画本等アリ、 始め幼年の頃、狩野白桂斎の門人となりて画を学ぶ、【白桂斎ハ赤松某侯ト云ヘリ、狩野栄川法印ノ高    弟也】後独立して、浮世絵をかけり、【国春楼、又北亭ト云リ】青雲の志ありて、仕官に在りしが、壮    年にして流浪す、従来宋明の唐画を好み、書を読の一癖あり、通宵眠る事を忘る、戯作を楽みとして、    近世、草双紙、中本、春画、好色本を多く出せり【薄彩色摺ノ春画ニ工風セリ、画作ノ枕文庫勝レテ行    レタリ】当時流行の絵風に傚て、浮世美人絵を多く画き、一時大ひに世に行れたり、北斎翁の画風を慕    ひ、画則、骨法を受て、後一家をなす、青楼【新吉原を云】遊女の姿を写すに委く、其家家の風俗、襖    姿を画くに、役者の狂言振に似せず、時世の形体を新たに画しは、此人に起れり、近頃、国貞も傾城画    は、英泉の写意に似せて画し者也、役者絵はかゝず、浮世絵師の見識を慕しと見ゆ、草双紙、合巻、中    本、繍像、読本、数十部を画く、此人僅文化の末より文政の間大に行れたれども、筆する処の読本、錦    画、夥敷板刻せり、【団扇画モ多シ、近世藍摺ノ錦画ハ此人の工風ヨリ流行ス】京、大坂の書肆より、    読本多く出板す、三都の刻本を、江戸に在住して画しは、北斎と此人のみ也、門人も多くありし、      浮世画譜【画手本】自初編至十編 尾州名古屋本町一丁目、書林東壁堂永楽屋東四郎板      容艶画史【美人画ノ画則也】 江戸書肆合刻      錦袋画叢【諸職ノ画手本】 大坂心斎橋博郎町北へ入、群玉堂河内屋茂兵衛板      絵本初心画譜 馬喰町二丁目 西村屋与八永寿堂板      画本 芝神明前 甘泉堂和泉屋市兵衛板     此他数本あるべし、枚挙するに遑あらず、別記に出す
    渓斎英泉門人      英春 【俗称大木氏、小石川、春画、錦画多シ】     【初メ春川五七門人】英笑 【京ノ人也、在江戸歿ス、草双紙、錦画ナリ】     【米花斎】英之 【俗称源次郎、麹町、中本、読本ニ多ク出セリ】     【英斎】泉寿 【俗称伊三郎、錦画、中本、ヨミ本多クアリ、浪花ニ在住シテ名ヲ改ム】     【貞斎】泉晁 【俗称吉蔵、霊岸島、草双紙、錦画多クアリ】     【紫領斎】泉橘 【俗称仙吉、向島、中本多ク、画作ヲ出セリ、筆耕ヲ業トス】      泉隣 俗称井村氏、桜田、中本サシヱアリ     【嶺斎】泉里 【俗称弥吉、麹町、中本サシヱアリ】    板刻の画を見ざるは、爰にのせず、英の字を画名とする浮世絵師夥あり、英山門人と混同す、一時の人    なれば也、    是より漢文    略伝に云、一筆庵英泉は星岡の産也、父母存在の中は遠不出、【父ハ池田茂晴、援山不言斎ノ門人ニテ 書ヲ能ス、読書ヲ好ミ俳諧ヲ嗜ミ、千家ノ茶ノ湯ヲ楽シム、不白抔ト友ナリ】母は泉六歳の時歿す、継 母なりしが、更に其心なく、双親に仕て至孝なり、尤家貧しかりけり、文化の始め、父は夏歿し、母は 冬歿す、幼き妹三人を養育せしに、讒者の舌頭にかゝり流浪の人となる、水野家に血族多くして、撫育 せられしが、世のなりゆきを歎じ、志を廃して浮世絵師となり、戯場狂言初代篠田金治【後並木五瓶也】    の門に入り、千代田才市を名を続て作者となりしが、再画工菊川英二が家に寓居す、【英二ハ英山ノ実 父也、其頃英山行レテ、諸侯ノ召ニ応ジ、彩色画多クアリシガ、肥州侯命ゼラレ、門人不残ノ画ヲ集給 フ、其列ニ入テ英泉ト画名ヲシルシ出セシヨリ、是ヲ名トス、英山門人ト云フ始メナリ】元より名を不 好、飄々として住所を不定、酔るが如く凧を画き、羽子板、幟絵を彩り、需に従て辞することなし、 【此頃凧ヲ画クモノハ一日二百文ナリシヲ、英泉七匁五分ヅゝ取シナリ、是ヨリ以後、他人モ今ニ至テ 三匁ト定リシト云、職分筆ノ達者ノ人ハ二人分ヲナス】板刻の画を半かきて行所を知らず、発客迷惑し て行所を尋れば、娼門酒楼に酔て死せるが如し、漸に其後を画て是を与ふ、芝金杉の浜に碇屋六兵衛と 云し魚問屋有、【是後ニ巴屋仁兵衛ト云ル板元ナリ】此人、従来錦絵其外の板元を業とする事を好むが 故に、泉を携て家に養ふ、泉衣類を借着して出て不帰、主人漸に行所を知て尋れば、人の衣類を酒食に 換て、酔て本性なし、虎鰒を生ながら蝶【〔傍注〕鰈カ】と共に煎て是を喰ひ、猪を好て喰し、羽(本ノ    ママ)のを戛し、下駄をはき、近辺に出しと思へば、夜船に乗じて上総木更津に至る、【木更津ヨリ五里 程入、周准郡ニ池田シノ苗家アレバナルベシ】かゝる放蕩無頼の人といへども、更に是を不悪、人衆の 板元のすゝめにより、居を新橋宗十郎町に定めたり、食客を集て、昼夜門に錠を不用、家主後難を恐れ て、大いに迷惑す、如此の行状なれども、親族、他人に金銀を少しも不惜、只己が業により其あたへを 取て、捨る如くに遣ふのみ、其後妻をむかへ、子無が故に一女を養ふ、是より後、人に帰りて、板刻の 絵に精を抽て夜を不寝、昼夜門外に不出、拾有余年の間、彫刻発市の絵本、錦絵、衆人に勝れて筆する 事夥く、世に発市す、爰にをいて一家をなし、門人を多く置て業とするに、苦心して志をとげず、遺憾 と云べし、因て是に記す〟    ☆ 天保四~五年(1833-34)
 ◯『【銀鶏一睡】南柯廼夢』〔大成Ⅱ〕⑳358(平亭主人(畑銀鶏)著・天保六年刊)   「連月廿五日於平亭書画会諸先生入来之図」    (天保四~五年頃、畑銀鶏は毎月廿五日、書画会を主催していた。これはその参加者を歌川貞広が画いたもの)   〝岩井紫若・市川白猿・文雪先醒・可中先醒・歌川国直・歌川国平・梅月先醒・令裁先醒・立兆先醒・松    嵐先醒・花笠魯助・鐵鶏・轍外先醒・雲渓先生・豊明先醒・抱儀先生・稼堂先醒・焉馬先醒・雲山先生    ・鶏雨先醒〟   〝会主銀鶏・梅翁先醒・万年橋先生・折違親玉・琴台先生・山鳥先醒・竹谷先生・樸々先生・英泉大人〟   〝政徳先生・江山先生・櫟斎先醒・五山先生・四妍先生・大内先醒・薫烈先生・北峰先生・南溟先生・    (一字不明)斎先醒・方外先醒・杏所先生・城南先醒・常行軒先生・研斎先醒・五車亭大人・楽水先醒    ・緑陰先生・文雄先醒・雪麿大人・梅子先醒〟    ☆ 天保五年(1834)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇人情本(天保五年刊)    渓斎英泉画    『梅香情史鶯袖』渓斎英泉画 笠亭仙果閲    『お玉ヶ池』  初編 渓斎英泉画 鼻山人作    ◯「日本経済新聞」「夕刊文化」2011/2/1日、夕刊記事    天保五年八月十六日 両国柳橋・河内屋にて、花笠文京主催、浮世絵師の「画幅千枚かき」書画会    参加絵師、香蝶楼国貞・一勇斎国芳・渓斎英泉・歌川豊国・前北斎為一    (被災した花笠文京を支援するための書画会)
    画幅千枚がき(引札)    ☆ 天保六年(1835)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇絵本(天保六年刊)    渓斎英泉画    『永楽百人一首千載艸』一冊 英泉画 東壁堂板〔漆山年表〕    『絵本なぞなぞ合』  一冊 一筆庵英泉画  〔目録DB〕    『みやびのしをり』  一折 渓斎英泉画 須原屋茂兵衛他板〔漆山年表〕    ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(天保六年刊)※角書は省略    渓斎英泉画『洗鹿子紫江戸染』渓斎英泉画 墨川亭雪麿作 佐野屋喜兵衛板〔目録DB〕    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇人情本(天保六年刊)    渓斎英泉画『園の花』初編 渓斎英泉画・教訓亭補綴    ◯『噺本大系』巻十六「所収書目解題」(武藤禎夫編・昭和五四刊)   ◇咄本(天保六年刊)    渓斎英泉画『東海道中滑稽譚』署名「渓斎英泉画」花山亭笑馬撰(板元名なし)    ◯ 三月以降(合巻『也字結恋之弶天』下巻末・墨川亭雪麿作・渓斎英泉画・天保七年刊)   〝此本のさうかうなりしころハ、しのばずの弁天かいてう◎し/\にぎハひ給へるを、ぐわこう英泉がべ    つそうのたかどのよりのぞみ見たる事のあり、そのづをこの半丁のうめくさとし、ひさしぶりにてさく    しやとゑしのいけどりをお目にかけるハ、しつかい山下のくわてう茶屋のもゝんぢいにちがねへと、コ    レわるくちをいひつこなし、めでたい/\/\/\〟    (柱に「従渓斎楼上眺望不忍池」とあり)    〈『武江年表』によると、不忍池の弁財天の開帳は天保六年の三月十日から。英泉の二階建ての別荘は上野山下の界隈、     近くには珍しい鳥獣を見せる花鳥茶屋があったようだ。その縁から、作者と画工の自分たちを「もゝんぢい(珍獣)」     に見立てたのである。なお雪麿の像に「雪丸」とある。雪麿は「ゆきまる」と称したのであろう〉
    『也字結恋之弶天』 渓斎英泉画(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)    ☆ 天保七年(1836)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(天保七年刊)    渓斎英泉画    『秀玉百人一首小倉栞』一冊 江都渓斎英泉画図 東籬亭悠翁編 須原屋茂兵衛か〔漆山年表〕    『英雄画史』     一冊 池田義信(英泉)編・画 東條琴台序 須原屋佐助板〔漆山年表〕    ◯「合巻年表」(〔早大〕は「古典籍総合データベース」)   ◇合巻(天保七年刊)※角書は省略    渓斎英泉画『也字結恋之弶天』渓斎英泉画 墨川亭雪麿作 佐野屋喜兵衛板〔早大〕    ◯「読本年表」   ◇読本(天保七年刊)※角書は省略    渓斎英泉画『草話風狸伝』渓斎英泉画 一口泉老人編〔目録DB〕    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇人情本(天保七年刊)    渓斎英泉画    『花名所懐中暦』初・二編 渓斎英泉画 教訓亭主人(為永春水)作    『いろは文庫』 初編   渓斎英泉画 為永春水作    『春色恵の花』 渓斎英泉画 教訓亭主人作    『お玉ヶ池』  二・三編 渓斎英泉画 鼻山人作    『処女七種』  初編 英泉・英一画 為永春水作           〈『改訂日本小説書目年表』は初~五編まで天保七年刊とする〉    『錦廼袿』   二~四編 渓斎英泉画 松亭金水作    『園の花』   二編   渓斎英泉画 教訓亭補綴    ◯「艶本年表」(「国文研・艶本」は「艶本資料データベース」)   ◇艶本(天保七年刊)    渓斎英泉画『古能手佳史話』色摺 半紙本 三冊〔国文研・艶本〕      見返し「淫斎白水画図」      序「古能手佳史話の和印(ワジルシ)ハ画図(グワト)と塡詞(テンシ)をかきわけて、述作(サク)と絵筆の        二役かねて裏と表の早替り(中略)于時天保内[ママ]のとし 好色外史」        〈好色外史は花笠文京〉    ◯『馬琴書翰集成』④183 天保七年(1836)六月二十二日 殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-49)   〝六月一日、西久保熊野権現の祭礼の大行燈の画も八犬士のよし、畳翠君、近習の画キ候者ニ写させて、    書くれられ候。これハ英泉筆のよしニ御座候。又、鍛冶橋外髪結床の長暖簾へも、貞秀画ニて、芳流閣    組打の処を画キ候よし。かやうのもの、処々ニ有之候趣、聞え候〝    〈「八犬伝」流行は歌舞伎から祭礼の灯籠や髪結床の暖簾にまで及んだのである。これらに英泉や貞秀らが起用されて     いる。浮世絵師の仕事は木版画に留まらない。こうした祭礼用から日常調度用まで請け負って画いたのである。これ     らは一過性のもの或いは消耗品であるが、浮世絵師の仕事の中でも重要な分野であろうと思われる。しかしその性格     上、現代に伝わらないのが難点で、評価のしようがないは残念である。畳翠君とは三千石の旗本である石川左金吾。     殿村篠斎、小津桂窓、木村黙老等とともに、馬琴作品の批評仲間で、馬琴四友の一人とされる〉    ◯『馬琴書翰集成』④221 天保七年(1836)八月十四日 馬琴、古稀の賀会、於両国万八楼   (絵師の参加者のみ。天保七年十月二十六日、殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-65)④221参照)   〝画工 本画ハ      長谷川雪旦 有坂蹄斎【今ハ本画師になれり】 鈴木有年【病臥ニ付名代】      一蛾 武清 谷文晁【老衰ニ付、幼年の孫女を出せり】 谷文一 南溟      南嶺 渡辺花山    浮世画工ハ      歌川国貞【貞秀等弟子八九人を将て出席ス】 同国直 同国芳 英泉 広重 北渓 柳川重信      此外、高名ならざるものハ略之〟    ◯『【江戸現在】公益諸家人名録』初編「イ部」〔人名録〕②34(天保七年)   〝画 渓斎【名英泉、字混聲、号無名翁、一号一筆庵】下谷池之端 池田善次郎〟    ☆ 天保八年(1837)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇絵本(天保八年刊)    渓斎英泉画『源氏物語絵尽大意抄』一冊 渓斎英泉画 李園主人(再版、元板は文化九年)〔漆山年表〕     ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』)   ◇合巻(天保八年刊)※角書は省略    渓斎英泉画『総累赤繩取組』(画)渓斎英泉 表紙 国貞(著)楽亭西馬 山本平吉板〔東大〕    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇人情本(天保八年刊)    渓斎英泉画『錦廼袿』二~四編 渓斎英泉画 松亭金水作    ☆ 天保九年(1838)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇人情本(天保九年刊)    渓斎英泉画    『祝井風呂時雨傘』渓斎英泉画 為永春水作    『花名所懐中暦』 初・二編 渓斎英泉画 教訓亭主人(為永春水)作    『春色恋白波』  初編   渓斎英泉画 為永春水作    『園の花』    三・四編 渓斎英泉画・教訓亭補綴   ◇俳諧(天保九年刊)    渓斎英泉編『俳諧はゝき草』一冊 英泉編 天保九年序〔目録DB〕    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(天保九年刊)    渓斎英泉画『春情指人形』三冊 淫斎白水画・作 天保九頃刊〔目録DB〕    ◯『馬琴書翰集成』⑤30 天保九年(1838)六月二十八日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-6)   〝(「八犬伝」九輯下帙、筆工金川、多忙の由にて一向に出来ず、代わりに音成という筆工に依頼するも)    何分ニも字をしらず、大杜撰人ニて、毎行悞字多く、且脱字脱文も多く、此板下校合ニ七八日のいとま    を費し、やう/\無疵ニいたし候。(中略)画も重信ハ多病、且不実等閑の本性ニて出来かね候間、半    分ハ英泉ニ画せ候。画ハ両面ニてもよろしく候へ共、筆工ニハこまり果候事ニ御座候〟    〈九輯下帙の筆工は谷金川の他に白馬台音成。画工も従来の二代目柳川重信の他に渓斎英泉が担当した。なお、天保九     年七月朔日、小津桂窓宛((第五巻・書翰番号-8)⑤39)に同記事あり〉    ☆ 天保十年(1839)    ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(天保十年刊)※角書は省略    渓斎英泉画『豊年武都英』渓斎英泉作 手前翰謂喜作〔目録DB〕    ◯「読本年表」   ◇読本(天保十年刊)※角書は省略    渓斎英泉画『南総里見八犬伝』九輯下帙下の上編 柳川重信・渓斎英泉画 曲亭馬琴作〔目録DB〕  ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇人情本(天保十年刊)    渓斎英泉画    『貞操婦女八賢誌』二編 渓斎英泉画 為永春水作    『いろは文庫』  二編 英泉画・英一画 為永春水作    『園の花』    五編 渓斎英泉画・教訓亭補綴    ☆ 天保十一年(1840)    ◯「読本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇読本(天保十一年刊)※角書は省略    渓斎英泉画『好文士伝』渓斎英泉画 為永春水作〔目録DB〕    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇人情本(天保十一年刊)    渓斎英泉画    『以登家奈幾』初~四編 歌川国直・渓斎英泉画 為永春水作    『処女七種』 四編   英泉・英一画 為永春水作    『園の花』  六編   渓斎英泉画・教訓亭補綴    ☆ 天保十二年(1841)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(天保十二年刊)    渓斎英泉画『菓子話舩橋』初編一冊 渓斎英泉筆 花川外史校訂 和泉屋市兵衛〔漆山年表〕    ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(天保十二年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『熊野御前花見車』 (画)渓斎英泉 表紙 国貞(著)馬舎春鳥 蔦屋吉蔵板〔東大〕    『一対若衆梅桜樹』  渓斎英泉画 美図垣笑顔作〔目録DB〕    『児雷也豪傑譚』二編(画)香蝶楼国貞(著)美図垣笑顔 和泉屋市兵衛板〔東大〕              (袋画工 国貞 英泉 国芳)    ◯「読本年表」   ◇読本(天保十二年刊)※角書は省略    渓斎英泉画『南総里見八犬伝』九輯下帙下の下編の上 柳川重信・渓斎英泉画 曲亭馬琴作〔目録DB〕    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇人情本(天保十二年刊)    渓斎英泉画    『いろは文庫』四編 英泉・五風亭貞虎画 為永春水作    〈三編(英泉画・春水作)の刊記なし。五編以降十七編まで刊記なし。明治五年刊十八編(歌川虎種画・春水二世     作)にて完結〉    『春色袖之梅』初~三編 渓斎英泉画 教訓亭主人(為永春水)作    ◯『馬琴書翰集成』⑤315 天保十二年(1841)十月朔日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-91)   〝(「八犬伝」九輯)さし絵ハ柳川重信、家内病難ニ付出来兼候間、英泉ニ絵がゝせ、末壱丁、小子肖像    ある所ハ国貞ニ画かせ、右さし画板下共、昨今不残出来、追々彫立候事ニ御座候〟    〈文化十一年(1814)から続いた『南総里見八犬伝』は、天保十三年(1842)正月の「結局編」と同年三月の「結局下編」     をもって漸く終幕を迎える。最終巻「巻之五十三下」「囘外剰筆」において、馬琴は二十八年間を振り返って感慨や     ら楽屋話などをかたる。そして最後の挿絵には香蝶楼国貞の筆になる馬琴自身の肖像を掲載して締めくくったのであ     った。同日付、小津桂窓宛にも同記事あり(第五巻・書翰番号-93)〉    ◯『馬琴書翰集成』⑤322 天保十二年(1841)十一月十六日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-94)   〝(「八犬伝」九輯)画工も此度ハ重信・英泉両人ニて、小子画わりいたし、注文書のミにて画せ候事故、    不如意之所も可有之候得共、是又見候事成難候間、無心許存候のミに御座候〟    〈馬琴は失明してなお言葉で画割りを画工に注文していたのである〉    ☆ 天保十三年(1842)    ◯「絵本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(天保十三年刊)    渓斎英泉画    『地ぐち行燈』一冊 渓斎英泉画 百庵花笑編〔目録DB〕    『絵本柳樽』 一冊 英泉画 松亭主人序  〔漆山年表〕    『蕙斎麁画』 五篇 渓斎英泉画 天保壬寅夏日 張州小笠漁者序 永楽屋東四郎〔目録DB〕     (「フリーア美プルヴェラー」本の書誌注記「最終図の裏に「渓斎画(英泉画印)」とあり『蕙斎麁画』は様々の絵師が      担当しているものらしい。鍬形蕙斎の「麁画」より発しているのでそう命名したか」とある)    ◯「読本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇読本(天保十三年刊)※角書は省略   渓斎英泉画『南総里見八犬伝』九輯下帙下の下編の下 柳川重信・渓斎英泉画 曲亭馬琴作〔目録DB〕    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇俳諧(天保十三年刊)    渓斎英泉『俳諧夫木集 発句之部初篇』二冊 渓斎編 天保十三年序 丁字屋平兵衛他板〔目録DB〕    ◯『馬琴書翰集成』⑥30 天保十三年(1842)六月十九日 殿村篠斎・小津桂窓宛(第六巻・書翰番号-6)   〝中本一件落着之事、六月十五日、清右衛門罷越、実説初て聞知り候。九日より三日うちつゞき御呼出し、    御取しらべニて、十一日ニ落着致候。板元七人并ニ画工国芳、板木師三人ハ過料各五〆文、作者春水ハ    尚又咎手鎖五十日、板木ハ不残手斧にてけづり取、或ハうち砕き、製本ハ破却之上、焼捨被仰付候。是    にて一件相済候。右は北奉行所遠山殿御かゝり御裁許に候。春画本も右同断の由ニ候。寛政のしやれ本    一件より、板元ハ軽相済候。春画中本之画工ハ、多く国貞と重信ニ候得ども、重信ハ御家人、国貞ハ遠    方ニ居候間、国芳壱人引受、過料差出し候。春画之板元ニ成候板木師、并ニ中本之板木師ハ、こしらへ    者ニ候間、過料ハ丁平差出し候半と存候。右一件ハ相済候へ共、又丁子屋とかり金屋を南町奉行へ被召    出、当春板元無名ニて売出し候、ドヽイツぶしの中本之御吟味有之由聞え候。是ハ去年中、深川遊処ニ    て男芸者之うたひ候、ドヽイツといふさハぎ歌流行ニ付、春水夫ヲ集メ、深川芸者之名ヲ記、画を英泉    ニ画せ、中本ニ致、板元無名ニて売出し候所、よく売候由聞え候間、此御吟味ニて、丁子屋・雁がね屋    被召出候由聞え候へ共、是ハ風聞のミにて、虚実ハ未ダ不詳候。前文之役者似㒵、遊女・芸者之画、不    相成候ニ付、地本屋・団扇屋等致当惑、内々日々寄合致、生娘を板し候事、御免ヲ願候半歟抔申候由聞    え候。左様之義願出候ハヾ、又御咎ヲ蒙り候半と、苦々敷存候。『田舎源氏』重板致候者有之由聞え候    得ども、是も売候事成間敷候。『八犬伝』ヲ合巻ニ致、春水ニ綴らせ、森屋・丁子屋合板にて、近日出    来之由聞え候得ども、長篇之続キ物御禁制ニ候へバ、是も売候事成間敷候〟    〈中本(人情本)一件の決着は、遠山北町奉行の裁許で、作者為永春水は手鎖五十日。画工歌川国芳は過料五貫文。春     画と中本の画は歌川国貞と柳川重信の手になるものが多いが、「重信ハ御家人、国貞ハ遠方ニ居候間、国芳壱人引受     過料差出候」とあり、なぜか重信と国貞はお咎めなしのようである。御家人と亀戸居住は江戸町奉行の管轄外という     ことなのであろうか。春水編・英泉画の「ドヾイツぶしの中本」とは「日本古典籍総合目録」に『度々一図会』とあ     るものであろうか。この板元らしい丁子屋・雁金屋が召喚されたようだが、これも風聞のみで真偽不明。『八犬伝』     を合巻化したという春水の作品は未詳〉    ◯『【江戸現在】公益諸家人名録』二編「イ部」〔人名録〕②66(天保十三年夏)   〝画 渓斎【名義信、字英泉、以字行、一号一筆菴、無名翁】茅場町植木店 池田善二郎〟    ◯『馬琴書翰集成』⑥50 天保十三年(1842)九月二十三日 殿村篠斎宛(第六巻・書翰番号-10)   〝当地之書肆伊賀屋勘右衛門、当夏中猿若丁両芝居之普請建前之錦絵をもくろミ候所、役者似顔絵停止ニ    成候間、其人物の頭ハ入木直しいたし、「飛騨番匠棟上の図」といたし、改を不受して売出し候所、其    絵ハ人物こそ役者の似面ならね、衣ニハ役者之紋所有之、且とミ本・ときハず・上るり太夫の連名等有    之候間、役者絵ニ紛敷由ニて、売出し後三日目に絶板せられ、板元勘右衛門ハ御吟味中、家主ぇ被預ケ    候由ニ候。又、本郷辺之絵双紙や某甲の、改を不受して売出し候錦絵ハ、似面ならねど役者之舞台姿ニ    画き候を、人形ニ取なし候て、人形使の黒衣きたるを画き添候。是も役者絵ニ似たりとて、速ニ絶板せ    られ候由聞え候。いかなれバこりずまニ、小利を欲して御禁を犯し、みづから罪を得候や。苦々敷事ニ    存候。是等の犯人、合巻ニもひゞき候て、障ニ成候や。合巻之改、今ニ壱部も不済由ニ候。然るに、さ    る若町の茶屋と、下丁成絵半切屋と合刻にて、猿若町両芝居之図を英泉ニ画せ、四五日以前ニ売出し候。    是ハ江戸絵図の如くニ致、両芝居を大く見せて、隅田川・吉原日本堤・田丁・待乳山・浅草観音抔を遠    景ニ見せて、人物ハ無之候。此錦絵ハ、館役所ぇ改ニ出し候所、出版御免ニて売出し候。法度を守り、    後ぐらき事をせざれバ、おのづから出板ニ障り無之候を、伊賀屋の如き者ハ法度を犯し、後ぐらき事を    せし故ニ、罪を蒙り候。此度出板の両芝居の錦絵ハ高料ニて、壱枚四分ニ候。夫ニても宜敷候ハヾ買取    候て、後便ニ可掛御目候〟    〈馬琴記事の「飛騨番匠棟上の図」と「似面ならねど役者之舞台姿ニ画き候を、人形ニ取なし候て、人形使の黒衣きた     る」図とは、その板元名から『藤岡屋日記』の国芳画「飛騨内匠棟上ゲ之図」と国貞画「菅原操人形之図」に相当す     ると考えられる。これらについては国芳・国貞の項を参照されたい。役者似顔絵にとっては受難の時代が続くなか、     九月下旬には、英泉画の「猿若町両芝居之図」が館市右衛門の改めを通して出回るようになったが、これは人物像の     ない鳥瞰図のようなものであり、依然として役者絵の出版に関しては、厳しい警戒が必要であったのだ。英泉の「猿     若町芝居之略図」は、大々判錦絵、板元、中野屋五郎右衛門・三河屋善治郎、文花堂庄三郎である〉
    「猿若町芝居之略図」渓斎英泉画(東京都立中央図書館東京資料文庫所蔵)    ◯『藤岡屋日記 第四巻』p206(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   (記事は嘉永三年のものだが、英泉画の琉球使節の番付の出版は天保十三年(1842))   ◇琉球人参府、番付一件   〝十一月、琉球人行列付、一件之事                  北八丁堀鍛冶町新道      願人               品川屋久助                  芝神明前      相手               若狭屋与市     右番附ハ、先年天保十三寅年十一月参府之節ハ、神明前丸屋甚八板元ニて英泉画出板致し候処ニ、此    度ハ同処若狭屋与市、薩州屋敷へ願ひ、重久画にて出板致し、十月晦日琉球人到着の日ニ御免ニ相成売    出し候(以下略)〟    ☆ 天保十四年(1843)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇絵本(天保十四年刊)    渓斎英泉画    『諸国名所風景発句集』初編 池田英泉画 田喜庵護物編〔目録DB〕    『意見早引大善節用』 一冊 画工渓斎善次郎 為永長次郎作 山崎屋清七他板〔漆山年表〕    『諸国名所画譜』二編 渓斎英泉画 菅原定理輯 永楽屋東四郎板〔目録DB〕    『童子早学問』 一冊 池田善次郎画 細川並輔校合 和泉屋市兵衛板〔漆山年表〕    『隅田川往来』 一冊 池田善次郎画 細川並輔校合 和泉屋市兵衛板〔漆山年表〕    ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(天保十四年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『意見早引大善節用』渓斎英泉画 為永春水作 三河屋・藤屋・山崎屋板〔目録DB〕    『心学図会』    渓斎英泉画 古賀兵蔵閲 青木屋嘉助板〔目録DB〕    ◯「読本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇読本(天保十四年序)    渓斎英泉画『報仇高尾外伝』渓斎英泉画 楚満人二世作〔目録DB〕〈天保十四年序〉    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇往来物(天保十四年刊)    渓斎英泉    『女庭訓宝文庫』一冊 渓斎英泉画 池田善次郎編 和泉屋市兵衛板 〔目録DB〕    『女大学教草』 一冊 池田善次郎画・編 和泉屋市兵衛板〔目録DB〕   ◇辞書(天保十四年刊)    渓斎英泉『正字玉篇大全』池田義信編 細川並輔校 和泉屋市兵衛板〔目録DB〕   ◇雑俳(天保十四年刊)    渓斎英泉画『風流柳樽』二冊 渓斎英泉画 万亭応賀編 吉田屋文三郎板〔目録DB〕     <三月>  ◯『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」第一七件 五八 p105   「卯三月廿九日、佐兵衛月番之節画師共相呼、近頃絵柄風俗不宜候ニ付厳敷申渡、証文取置候事」    〈佐兵衛は村田佐兵衛、新両替町名主、絵草紙掛り。以下、絵師連名の請書〉   〝私共儀錦絵・艸双紙絵類重立相認候ニ付、今般左之通被仰渡候    一 禁忌・好色本之類    一 歌舞妓役者ニ似寄候類    一 遊女・女芸者ニ似寄候類    一 狂言趣向紛敷類    一 女子供踊大人ニ紛敷類    一 賢女烈婦伝・女忠節之類    右の廉々、其筋渡世之者又ハ素人より頼請候共、賢女烈婦伝之類、絵柄不相当今様姿ニ一切書申間敷候、    其外都て男女入交り風俗ニ拘り候絵は勿論、聊ニても役者・女芸者ニ紛敷躰無之様、厚心附可申旨被仰    渡奉畏、為後日仍如件     天保十四年卯三月廿九日               坂本町壱丁目 太右衛門店 英泉事 画師 善次郎(印) 家主 太右衛門(印)               田所町久兵衛店      国芳事 画師 孫三郎(印) 家主 久兵衛 (印)               亀戸町友三郎店      国貞事 画師 庄 蔵(印) 家主 友三郎 (印)               同町金蔵店        貞秀事 画師 兼次郎(印) 家主 金 蔵 (印)               大鋸町長七店       広重事 画師 徳兵衛(印) 家主 長 七 (印)               柳町鉄右衛門店 亀次郎伜 芳虎事 画師 辰二郎(印) 家主 鐵右衛門(印)     〈以下は「下ヶ札」〉   〝錦絵類并団扇絵共近頃不宜風俗画候間、当三月、私月番節画師共相呼、本文之通證文取置申候、然ル処、    当四月月番品川町名主(竹口)庄右衛門・同五月月番高砂町名主(渡辺)庄右衛門改済之絵柄不宜候間、    掛り名主共一同申合売買差留、右掛り館市右衛門方え差出置申候   名主 佐兵衛〟     〈好色本や役者や遊女・芸者の似顔絵など風俗に拘わるものはもちろん、賢女烈婦伝や女忠節の類も当世風に画かないこ    とを誓約させられた。英泉・国芳・国貞・貞秀・広重・芳虎、六人連名の証文である。しかし「下ヶ札」をみると、四    月、五月の改(アラタメ)(検閲)済みのものにも依然として絵柄の宜しからざるものがあり、それらを売買禁止にしたとあ    る。『大日本近世史料』の頭注に「前ニ請書ヲ取ルモナホ宜カラザル品」とあり、絵師を咎めるような文面である〉    ☆ 天保年間(1830~1843)    ◯「絵本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇絵本(天保年間刊)    渓斎英泉画    『増補風月往来』一冊 池田善次郎画 細川並輔校(頭書「龍田詣一巻附」)〔目録DB〕    『風流今戸人形』一冊 渓斎英泉が 天保末〔目録DB〕    『絵本忠臣蔵』 一冊 渓斎英泉画 永樂屋東四郎板〔目録DB〕    『心学図会』  一冊 英泉画 古賀兵蔵序    〔目録DB〕    『浮世画譜』 初二編 渓斎英泉画 和泉屋市兵衛板〔目録DB〕    ◯「絵入狂歌本年表」(〔狂歌書目〕は『狂歌書目集成』・〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇狂歌(天保年間刊)    渓斎英泉画    『狂歌正流鯉鱗集』一冊 英泉画 緑樹園撰 五側社中〔狂歌書目〕     〈〔目録DB〕は天保六年刊・法橋光一画とする〉    『五百題狂歌集』 四冊 英泉画 芍薬亭撰 菅原連〔狂歌書目〕    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(天保年間刊)    渓斎英泉画    『はるのあそび』一冊 渓斎英泉画 天保頃刊〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『文のたより』 一冊 英泉画 陽気山人作 〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『枕文庫』発端 〔目録DB〕(注記「発端は「和合淫覧録」の改題本、日本艶本目録(未定稿)による」)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇人情本(天保年間刊)    渓斎英泉画    『いろは文庫』三編 英泉画 為永春水作    『処女七種』 五編 英泉・英一画 為永春水作〈四編は天保十一年刊〉    『春雨日記』 渓斎英泉画 為永春水作    『春の月』  渓斎英泉画 為永春水作   ◇滑稽本(天保年間刊)    渓斎英泉画    『大学笑句』 一冊 一筆庵主人画 教訓亭主人作 英文蔵板〔目録DB〕    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(天保十五年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『国姓爺将棊合戦』(画)渓斎英泉(著)万亭応賀 太田屋佐吉板〔東大〕    『教訓浮世眼鏡』渓斎英泉画 万亭応賀作 太田屋佐吉板〔目録DB〕    『其昔忍捩摺』 渓斎英泉画 松亭金水作(天保一五序)〔目録DB〕    『誰身の小槌』 渓斎英泉画 一筆庵作 川口屋宇兵衛板〔目録DB〕    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇滑稽本(弘化元年刊)    渓斎英泉画『箱根草』初二編 渓斎英泉画 滝亭鯉丈作〔目録DB〕    ◯ 天保十五年(1844)正月十五日 小津桂窓宛(第六巻・書翰番号-25)⑥90   〝去ル子年(天保十一年)、黙老同籓之御家族半俗退士作合巻六冊物、『拍掌奇譚品玉匣』と云新板もの、    老人より被頼候て芝泉市ニ彫せ、丑(同十二年)冬致彫刻候へども、節気ニ成候間、寅(同十三年)冬    売出し候半とて致延引候所、寅六月より新板物六ヶ敷相成、寅卯(同十四年)両年改ニ出し候得共、売    買御さし留ニて、仕入れ徒ニ相成、泉市大困ニ候。此合巻物、甚古風なる趣向ニて、御趣意ニ称候半歟    と奉存候所、夫すら改不済、板元困じ候て、仕入候分、内々ニて田舎へ而已売候由聞え候。江戸ニてハ    一部も不売候得共、田舎ぇ遣し候由ニ候間、其冊子御地へも廻り、被成御覧候半や、難斗候へども、此    段内々得御意候。若可被成御覧思召候ハゞ、後便ニ可被仰越候。内々泉市ぇ申遣し、取よせ候て掛御目    候様可仕候。画ハ英泉ニ御座候〟    〈改革の余波は、木村黙老が家老を務める高松藩士、半俗退士作の合巻をも弄んだ。「日本古典籍総合目録」には渓斎     英泉画、弘化二年(1835)刊とある。これは改めが済んで、江戸にて売り出されたものであろうか。改革は泉屋市兵衛     などの板元にとっては大打撃だったのである〉     <十月 見世物 菊細工 巣鴨・染井>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「春こまこまとよき事を 菊寿すご六」錦絵三枚続 署名「英泉戯画」蔦屋吉蔵板    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   〝渓斎英泉 文化文政より天保〈弘化〉にいたる     俗称 善次郎 後里介  居住〈江戸数ヶ所に転宅して住所不定 始番町 後根岸新田村                     根津 池之端 坂本一丁目〉     姓 藤原  名 義信 一に茂義  本姓 池田氏  江戸産     号 一筆庵 別号 無名翁 可侯(戯作の名也 草双紙中本等あり)    幼年の時、狩野白桂斎の門人となり(白桂斎ハ赤松某侯と云り、狩野栄川法印の高弟也)後独立して、    浮世絵をかけり(国春楼、又北亭といへり)青雲の志ありて仕官せしが、壮年にして流浪す。従来宋明    の画を好み、書を読むの癖ありて、通宵〈よもすがら〉眠る事を忘る。又戯作を楽みとし〈多く〉作出    せり。(渓斎英泉と同名の人下総にありしが、又上州にもありしとて、告来るものありしと、又渓斎と    云人、江戸にも有、画風同く板下をかゝず)当時の流行に傚て、美人絵多く画り。北斎翁の画風をも取    り一家をなす(英泉が工風の色ざし、亦は巧たる画風の新たなる事を、国貞が学びて出せしもの多し。    画を学ぶ人にあらざれば不知べし)吉原遊女の姿を写すに、悉く其家々の風俗襖〈うちかけ〉姿を画く    に、役者の狂言振に似せず、時世の形をあらたに画しは、此人也)近頃、国貞も傾城画は、英泉の写意    に似せて画し也。草双紙合巻画入読本数十部を画り(役者画はかゝず)(団扇絵も多し、藍摺の山風は    此人の工風なり。京大坂の読本をも江戸に在て画り)      浮世画譜  (画手本 自初編至五十編 尾州名古や本町七丁目 永楽屋東四郎板)      容艶画史  (美人画の画則なり)      錦袋画叢  (諸職の画 大坂心斎橋河内や茂兵衛板)      絵本初心画譜(西村や与八板)      画本錦之嚢 (一冊 和泉や市兵衛板)      武勇魁図会 (二冊)    此外多くあり枚挙に遑あらず。      渓斎英斎門人        英春  俗称 大木氏  小石川住  錦画多し
      英蝶  初春川五七門人、京の人在江戸歿す  草そうし錦画を書         欄外(英蝶 初春川五七門弟 京の人 江戸住す 錦画草双紙在)
      英之  俗称 源二郎 米花斎 よみ本多し
      泉寿  俗称 伊三郎 英斎  浪花に在住して名を改む 錦画中本よみ本多し  
      泉晁  俗称 吉蔵  貞斎  霊岸島 草双紙錦画多し
      泉橘  俗称 仙吉  紫領斎 向島  中本多く画作あり 筆耕を業とす
      泉隣  井村氏    山斎  桜田  中本多し
      泉里  俗称 弥六  嶺斎  麹町  中本あり         欄外(文斎  磯野氏  名 信春  長崎住)
      英一  静斎
   板刻の画を見ざるは爰にのせず。英の字を画名とする浮世絵師夥数あり。英山門人と混同す。一時の人    あれば也。     略伝に云、一筆庵英泉は星岡の産なり。父母存生の中は遠不出(父は池田茂晴、援山不言葊の門人に    て書を能す。読書を好み俳諧茶事をこのめり)母は泉六歳の時歿す〈父并〉継母に仕へして孝あり。其    家まづしかりし、文化の始、父母一年の内に歿す。幼き妹三人を養ひしに、讒者の舌頭にかゝりて流浪    し、志を廃して浮世絵師となれり。又戯場狂言作者(初代)篠田金治(後並木五瓶)の門に入、千代田    才市を名を続て作者となりしが、再画工菊川英二が家に寓居す(英二は英山の実父なり)土佐の門に入    てより、近国を編歴する事三四年にして東都に帰れり(其頃英山世に行れて、諸侯の召に応じ、彩色画    多くなりしが、肥州侯に命ぜられ、門人不残の画を望給ふ。其列に入て英泉と画名を記し出せしより、    是を名とす。英山門人といふはじめなり)もとより名を不好、飄々として住所を不定、凧を画き羽子板、    幟の絵を彩り、需るに従て辞する事なし。(職分筆の達者二人分をなす)板刻の画本をかきかけて行所    を不知。板元(書林)迷惑して所在を尋しに、娼門に酔て死るが如し。漸にして其跡を画て是を与ふ。    芝金杉の浜に碇屋六兵衛と云し魚問屋あり(後に巴や仁兵衛と云板元也)従来錦画其外の板元を業とす    る事を好むが故に、泉を携て家に養ふ、泉衣類を借着して出て不帰、主人漸に行処を知て尋しに、其の    衣類を酒に換て、酔て本性なし。虎鰒を生ながら蝶と共に煎て是を喰ひ、猪を好て喰し、羽折を着し下    駄をはき、近辺に出しと思へば、夜船に乗じて上総木更津に至る(木更津より五里程入、周堆郡に池田    氏の旧家あればなるべし)かゝる放蕩無類の人といへども、人是を不悪。居を宗十郎に定めてより食客    を集て、夜中門戸に錠を不用、家主後難を恐れて迷惑す。如此行状なれども、親族他人に金銀を借らず。    己が業により価を得て、捨る如くに遣ふのみ。後妻を迎へ、子無きが故に一女子を養ふ、是より後、人    に帰りて、板刻の絵に精を抽〈ぬきん〉で昼夜を不寝画り。天保の頃より筆を止て云、盛なれば必衰ふ、    人に弄られんより、人を弄るに不如〈しかじ〉と、需るに不応して、根岸の時雨の里に隠る(根津花街    等に娼家をせし事もあり)後年俗事に苦心して志をとげず、遺憾といふべし。因にこゝにこれを記す。    〈月岑云、英泉が伝自身に己が行状を誌せり。世に聞人の伝数多あれども、己が伝を作りたるを聞かず。     根津門前木村長右衛門が判を盗て押し 事露んとしたる時、亡命〈カケオチ〉したる事を漏せり。惜     しむべし〉     欄外〈嘉永元申の秋歿せり〉〟    ◯「【当世名人】芸長者華競」(番付・弘化元~二年刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝万画 北斎 卍    稀人 曲亭馬琴〟   〝浮世 香蝶楼 〈国貞〉    程吉 一勇斎〟〈国芳〉   〝画景 一立斎広重    画作 一筆庵英泉    〈この番付には「甲乙なし」とあるが、字の大きさや配置からすると、一番格上なのが北斎、次ぎに香蝶楼国貞と一     勇斎国芳、そして広重・英泉のようである。英泉は作画の他に一筆庵可候名の戯作も評価されていたのである〉    ☆ 弘化二年(1847)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇絵本(弘化二年刊)    渓斎英泉画    『幼稚絵解古状揃』一冊 一筆庵英泉画作 一筆葊漁翁序 甘泉堂板〔漆山年表〕    『教訓謎々春の雪』一冊 一筆庵英泉画 布袋屋市兵衞板〔目録DB〕    『名誉三十六佳撰』五冊 四郎兵衛事 歌川国直画図 善次郎事 渓斎英泉画図〔漆山年表〕                長次郎事  勧善堂春水選 大嶋伝左衛門    『庭訓往来講釈』 一冊 作者画工 渓斎善次郎 亀屋文藏他板〔漆山年表〕    『滑稽道戯問答』 一冊 東都一筆葊漁翁画作 永楽屋丈助板〔漆山年表〕    『新工夫目附絵』 一冊 渓斎英泉画 東里鼻人考〔目録DB〕    『革◎図考』   一折 江戸池田源義信編輯〔漆山年表〕〈◎の読みは「ぜん」〉    ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔早大〕は「古典籍総合データベース」)   ◇合巻(弘化二年刊)※角書は省略    渓斎英泉画『拍掌奇譚品玉匣』上編(画)渓斎英泉(著)半俗退士 和泉屋市兵衛板〔東大〕〔早大〕    ◯「読本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇読本(弘化二年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『報仇高尾外伝』渓斎英泉・英笑画 楚満人二世作〔目録DB〕    『水滸太平記』 二編 渓斎英泉画 岳亭丘山作 〔目録DB〕    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇滑稽本(弘化二年刊)    渓斎英泉画    『魂胆夢輔譚』初二編 一筆庵主人画・作〔目録DB〕    『和合人』  四編 渓斎英泉画 為永春水作〔目録DB〕   ◇地誌(弘化二年刊)    渓斎英泉画『楓鎧古跡考』一冊 渓斎英泉画・著〔目録DB〕   ◇教訓(弘化二年刊)    渓斎英泉『民家必用条目』一冊 池田義信著 本屋又助板〔目録DB〕    ☆ 弘化三年(1846)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(弘化三年刊)    渓斎英泉画『菊花壇養種』初輯 渓斎英泉画 管井菊叟著 和泉屋市兵衛板〔漆山年表〕    ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(弘化三年刊)※角書は省略    渓斎英泉画『絵本膝栗毛』初編 渓斎英泉画 十返舎一九作〔目録DB〕    ◯「咄本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇咄本(弘化三年刊)    渓斎英泉画『臍茶番』英泉画 一筆庵作〔目録DB〕    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇滑稽本(弘化三年刊)    渓斎英泉画    『近郷道中膝栗毛』一冊 渓斎英泉画  為永春水作〔目録DB〕    『善悪道中記』  二編 一筆庵主人画 一筆庵主人作 頂恩堂板〔目録DB〕    『稽古三味線』  三冊 一筆庵主人(渓斎英泉)作 歌川国貞画〔目録DB〕   ◇往来物(弘化三年刊)    渓斎英泉『千字文余師絵抄』一冊 楓川市隠(英泉)著 山崎屋清七板〔目録DB〕    ◯『大日本近世史料』「市中取締類集」十九「書物錦絵之部」第七二件 p4   (弘化三年四月、絵草紙掛り名主の町年寄・館市右衛門宛伺書)   〝錦絵と唱、歌舞伎役者・遊女・女芸者等を壱枚摺ニ致候義、風俗ニ拘候筋ニ付、以来決て売買致間敷旨、    去ル寅年(天保十三年)六月中、被仰渡有之、猶又、去々卯年(天保十四年)五月中、総て商ひ物其外    何品ニよらず、歌舞伎役者名前・紋所ヲ付候義不相成旨被仰渡候、然ル処、猿若町役者共名前書顕シ候    絵図、内分ニて摺立売買致候趣承り候間、密々為買取候処、人呼子鳥若三町と申標題ニて、役者共名前    ・住所等巨細ニ書顕彩色入ニ摺立、帙上包え役者紋所是又彩色入ニ有之候間、元方取調候処、左之名前    者共彫刻・売買仕候趣相分り候間、板木・摺溜取上ヶ置申候、今般之儀は、仕来り之通り私共立合板木    削取、以来右体無改之品彫刻・売買致間敷旨申渡、証文取置候様可仕哉                     坂本町壱丁目  太左衞門店 善次郎事 浮世画 英泉                     浅草茅町弐丁目 平八店       狂言作者 露助     右之者共儀、懇意之者え当正月年玉ニ相配り候心得ニて彫刻致候趣申立候得共、絵草紙屋其外之者共     え売捌候趣ニ御座候                       小石川富坂町代地 利八店      古本糴売 半兵衛                     鎗屋町      勇蔵店      古本糴売 忠蔵     右半兵衛儀は、右絵図買取重板彫刻致、忠蔵儀、絵草紙屋其外え売捌候趣ニ御座候                                                           堺町家主              板摺   喜三郎                     元大坂町代地  彦右衛門店 絵草紙屋(上州屋)重蔵     右喜三郎儀は、前書露助より被相頼摺立候節、下之方狂歌ヲ抜キ自分摺致シ、重蔵其外之者え売捌候     趣ニ御座候    右は、市中絵草紙屋其外素人え手広ニ売捌候趣ニ相聞申候、無改之品と乍存重板致、又は抜摺等致候は、    全私共手限取扱候儀と見居、此上外品迄も追々増長可仕哉奉存候、依之右摺立絵図三枚相添、此段法伺    候、以上     (弘化三年)午四月         絵草紙掛り名主共〟     筆禍「呼子鳥若三町」三枚続の絵図(「呼子鳥和歌三町」か)      処分内容 ◎制作者 英泉・露助 残品没収、板木削除、再犯せざる旨の請書の提出      処分理由 禁制違犯(役者の紋所・名前を入れたこと。無断出版・売買)      処分内容 ◎制作者 半兵衛・忠蔵 上に同じ      処分理由 禁制違犯(英泉・露助制作の絵図の重板を無断出版・売買)      処分内容 ◎制作者 喜三郎・上州屋重蔵 上に同じ      処分理由 禁制違犯(英泉・露助制作の絵図から狂歌を抜いた類板を制作・売買)    〈禁じられている歌舞伎役者の紋所・名前を露わにした「人呼子鳥若三町」なる錦絵が、改(アラタメ)(検閲)を受けない     で出版され、摘発を受けた。画工は英泉、作者は露助。当初、これを正月の年玉として配るつもりで制作したと、英     泉たちは弁解したのだが、調べてみると、実際には絵草紙屋等に売り捌いていた。それを古本糴売りの半兵衛が買い     取って重板を作り、他の糴売りや絵草紙屋に、これまた売り捌いた。一方、板摺の喜三郎なるものは、作者の露助に     摺りを頼まれた時に、狂歌を抜いた類板を摺って上州屋重蔵ほかに売った。絵双紙掛りの名主はとりあえず残品と板     木を差し押さえた上で、この絵図は禁制違反だから、慣例通り、名主立ち合いのもとに、板木は削り取り、今後改印     のないものは彫刻および売買しない旨の証文を取りたいと、町年寄に伺いを出した〉    〈この伺いを受けて、町年寄・館市右衛門は次のような「ヒレ(添え書き)」を付けて、町奉行所の判断を仰いだ〉     〝書面之通絵双紙掛り名主共申立候、去ル寅年(天保十三年)八月、猿若町割絵図売板相願候者有之候節、    役者共名前書顕シ、番附之類とは差別有之難成旨可申渡段、北御役所ニて被仰渡、下絵相下ケ候、此度    之品、兎の角も其筋掛之者改も不受彫刻・売買仕候段、不束ニ付、名主共申立候通取計候様可申渡哉ニ    奉伺候      午四月              館市右衛門〟    〈この手の出版には前例があるとし、天保十三年(1842)の八月、「猿若町割絵図」なるものの出版許可願いが出された     が、役者の名前を明記するのは、これは役者番付とは違うのだから認められないとして、北町奉行が却下したことが     ある。今回の絵図については、その上に改(アラタメ)無視の出版販売であるから、名主たちの提案通りしてはどうか、と     の伺いを立てた。これは奉行所の「市中取締懸かり」も受け入れたから、確定したのであろう。     さて、上記「人呼子鳥若三町」とはどのようなものか、町年寄・館市右衛門が天保八年の「猿若町割絵図」の例をあ     げているところからみると、三座のある猿若町を絵図面にしたものと考えられる。ネット上を探したら「呼子鳥和歌     三町全図」という絵図が出ていた。英泉が制作した紋所・名前入りの錦絵「人呼子鳥若三町」と同じものとも思えな     いが、参考のため下に引いておく。     また、天保十三年、出版不可になったという「猿若町割絵図」についても、いかなる絵図か詮索しておこう。同年の     出版に「猿若町芝居之略図」なるものがある。面白いことにこの略図を画いていたのがやはり英泉。曲亭馬琴に記事     によると、この絵図は同年九月中旬、改を通って出版された。当然、役者の紋所や名前はない。(『馬琴書翰集成』     ⑥50 天保十三年(1842)九月二十三日 殿村篠斎宛(第六巻・書翰番号-10)本HP、英泉の天保十三年の項目     参照)同年八月、館市右衛門が伺いをたてたとき、前例としてあげた「猿若町割絵図」とは、画工がおなじ英泉だか     ら、あるいは「猿若町芝居之略図」と同様の図柄であった可能性が高い。推測になるが、八月に、紋所と名前を入れ     て却下されたから、九月にはそれを削除して出版したのかもしれない。     ところで、この名主の伺書には次のような「下ケ札(付箋)」がついていた〉     〝本文英泉義、去十二月類焼後、当時千住小塚原町旅籠町ニて、若竹屋と申者方ニ罷在候趣ニ御座候〟    〈この「十二月類焼」とは、『武江年表』によれば、弘化二年「十二月十一日夜、坂本町より出火、茅場町表裏薬師境     内焼亡」とある火事であろう。斎藤月岑の『増補浮世絵類考』(天保十五年成立)に英泉の〝居住・坂本一丁目〟と     あり、曲亭馬琴の日記、嘉永元年八月三日付に英泉の死亡記事中に〝居宅、茅場町ニあり〟とある。してみると、焼     け出されて一時的に避難した先が千住小塚原の「若竹屋」ということなのだろう。この若竹屋、関根黙庵の『浮世絵     画人伝』によれば、英泉はかつて若竹屋理助の名で根津の妓楼の主人をしていたというから、寄宿先の若竹屋は縁者     なのである〉     参考画像 「呼子鳥和歌三町全図」無款(東京大学総合図書館「南葵文庫」)              「猿若町芝居之略図」渓斎英泉画(東京都立中央図書館東京資料文庫所蔵)    ◯『著作堂雑記』264/275(曲亭馬琴・弘化三年(1848)記)   〝(弘化三年八月、市村座において馬琴の旧作読本に拠った桜田治助作の狂言「青砥稿(あおとぞうし)」    が大評判になる。その時、当の馬琴の承諾を得ず、看板や番付に「曲亭馬琴子」の文字を使用したこと    に、馬琴がクレームを付けた。その結果「近来高名家」と書き改められるというトラブルがあった。そ    のときに詠まれた落首)      桜田は青砥不実な摸稜案馬琴の責にあたり狂言    此歌はやく市村座の楽屋へも聞えて、俳優等絶倒したりといふ、書肆文渓堂が話なり、或は云、右の歌    は画工英泉の手より出たりと、他が口ずさみたるならん【丙午十月五日聞く所なり】〟    〈文渓堂は板元の丁子屋平兵衛。この芝居は『青砥稿』だが、馬琴は英泉詠の落首ではないとみていたようだ。一勇斎     国芳画「青砥左衛門藤綱」役の「中村歌右衛門」をあげておく〉
    一勇斎国芳画「青砥左衛門藤綱」(早稲田大学「演劇博物館浮世絵閲覧システム」)    ☆ 弘化四年(1847)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(弘化四年刊)    渓斎英泉画『神事行燈』五編 江戸一筆葊英泉戯画 小笠老樵識〔漆山年表〕    ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔早大〕は「古典籍総合データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(弘化四年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『婦美車田舎艸紙』歌川豊国画 一筆庵主人作〔目録DB〕(注記「日本小説年表による」)    『女郎花五色石台』初編上帙(画)一陽斎豊国(著)曲亭馬琴 和泉屋市兵衛板〔東大〕                    袋 英泉画    『新編金瓶梅』十集 (画)国貞改豊国 後豊国(著)馬琴 和泉屋市兵衛板〔東大〕                 見返し 英泉画    『其由縁鄙俤』初二編 一陽斎豊国画 一筆庵可候作 鶴屋喜右衛門板〔早大〕    『誂織博多譚』二編  歌川豊国画  一筆庵主人作〔目録DB〕(注記「日本小説年表による」)    『翁草千歳盃』四巻  池田英泉画 万花亭応山作 上州屋重蔵板〔目録DB〕    ◯「読本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇読本(弘化四年刊)※角書は省略    渓斎英泉画 『勧善夜話』前編 渓斎英泉画 大蔵永常作〔目録DB〕    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇俳諧(弘化四年刊)    渓斎英泉『ふしそめ集』一冊 渓斎〔目録DB〕    ☆ 弘化年間(1844~1848)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)    ◇絵本(弘化年間刊)    渓斎英泉画『武勇魁図会』二編 渓斎英泉画 弘化年間?〔目録DB〕   ◇滑稽本(弘化年間刊)    渓斎英泉画『心学浮世目鏡』一冊 渓斎英泉画 万亭応賀作 山静堂板〔目録DB〕 ◯『岡場遊廓考』〔未刊随筆〕①85(石塚豊芥子著・成立年未詳)   (「男色の部」「根津」記事)   〝焼亡已前、青楼ニ松栄楼中田屋ト云にて、きりこ燈籠をつるせし事あり、草花の画にて渓斎英泉の筆な    り、美事にてありし〟     ◯『かくやいかにの記』〔未刊随筆〕④231(長谷川元寛編・成立年未詳)   〝一筆齋英泉が〔夢輔譚〕【中形本弘化年間出版】は、黄表紙本の〔金々先生栄華夢〕を翻案なせしか、    この〔栄花夢〕は八文字舎【自笑】が〔栄花男〕をもちひなるべし、〔栄花男〕は正徳三年[花鳥風月]    をもちひなるべしと柳亭足薪翁の説なり〟    ☆ 嘉永元年(弘化五年・1848)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(嘉永元年刊)    渓斎英泉画    『秀雅百人一首』一冊 画工渓斎英泉 柳川重信 一陽斎豊国 一勇斎国芳 前北斎卍老人〔漆山年表〕                緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板    『諸職必用紋切形』初編 英泉画 楓川市隠序 本屋又助板〔漆山年表〕    ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』)   ◇合巻(弘化五年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『女郎花五色石台』二編上帙(画)一陽斎豊国 袋 英泉画(著)曲亭馬琴 和泉屋市兵衛板〔東大〕    『児雷也豪傑譚』 八編(画)一陽斎豊国(著)美図垣笑顔 和泉屋市兵衛板〔東大〕                  見返し 門人国麿画 序 一筆葊主人戯て誌             九編(画)一陽斎豊国(著)美図垣笑顔 和泉屋市兵衛板〔東大〕                  見返し 国麿画 序 一筆庵主人誌     〈備考、八・九編とも作者は美図垣になっているが、実際の作者は序者の一筆葊(渓斎英泉)という〉    ◯「読本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇読本(嘉永元年刊)※角書は省略    渓斎英泉作『義士銘々伝』一筆庵主人著〔目録DB〕〈分類は「実録」〉    ◯「艶本年表」(〔国文研・艶本〕は「艶本資料データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(嘉永元年刊)    淫斎白水作    『偽紫女源氏』色摺 半紙本 三冊 歌川国貞画 弘化五年頃〔国文研・艶本〕      序「物理小識を云書に曰く、春宮の図を籠底書と謂、是世に云春画(まくらえ)なり、蠧(しみ)を      辟(さく)るの厭(まじなひ)なり。今書(ほん)筥(ばこ)毎に入置し事は唐土(からくに)に例あり。      されば衣(きぬ)櫃(ひつ)具足櫃に入るは厭勝(まじなひ)なるべきに、秘戯図(まくらさうし)を鎧      櫃に入るは、勝絵(かちえ)と唱へる故の祝詞に◎寄(より)軍中の鬱(うつ)の慰(い)するの為なり      とは好色(すきなおかた)の手前考(かん)、然れど生とし活る者、有情は勿論非情迄、陰陽男女必      (かならず)あり、色に迷(まよは)ぬ者もなく、苦虫(にがむし)翁(おやぢ)も交接(とぼし)の談(は      なし)に莞尓(につこり)笑ふも和合の道ハ人の大倫なる故なり、焼野の雉子(きゞす)比翼の鳥、妻      乞ふ鹿や猫の恋、連理の枝の夫婦(めうと)松、移(うつり)香ゆかし夜の梅に、まだ床なれぬ鶯も      初寐に春の心発動(うごき)、嗚呼(ああ)美快(いゝ)画組に梓木(じやうき)して情(きの)発(わかく)      なる閨(ねや)の栞(しをり)長譚(ながものかたり)も、奇嬉(きゝ)快談、月老(むすぶの)神(かみ)      の縁の糸口、初編を爰に繙きて書賈(ふみや)の為に、瑶銭樹(かねのなるき)を栽培(つちかい)せ      んと言事しかり     淫斎白水謾誌」    渓斎白水作    『満久羅者古』初編三冊 歌川豊国三世画 渓斎白水作〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)     ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇人情本(嘉永元年刊)    渓斎英泉画    『朧月花廼栞』初編 一筆庵主人(英泉)画・作   ◇滑稽本(嘉永元年刊)    渓斎英泉画    『人心覗機関』後編  渓斎英泉画 梅亭金鵞作〔目録DB〕    『善悪道中記』三編  一勇斎国芳画 一筆庵主人作〔目録DB〕    『魂胆夢輔譚』四五編 一筆庵主人画・作〔目録DB〕    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p246(藤岡屋由蔵・嘉永元年(1848)記)   〝当春中、泉岳寺開帳之節も、義士の画色々出候へ共、何れも当らず、其内にて、堀江町二丁目佐兵衛店、    団扇問屋にて、海老屋林之助板元ニて、作者一筆庵英泉、画師国芳ニて、誠忠義士伝と号、義士四十七    人之外ニ判官・師直・勘平が亡魂、并近松勘六が下部の広三郎が蜜柑を配り候処迄、出入都合五十一枚    続、去未年七月十四日より売出し、当申ノ三月迄配り候処、大評判にて凡八千枚通り摺込也、五十一番    ニて紙数四十万八千枚売れるなり、是近来の大当り大評判なり。           誠忠で小金のつるを堀江町              ぎし/\つめる福はうちハや〟    〈『【江戸時代】落書類聚』「誠忠で黄金のつるを堀江町義士/\つめる福は団扇屋」(中p245)2011/02/15追加〉
    「誠忠義士伝」 一筆葊誌・一勇斎国芳画(Kuniyoshi Project)      〈五十一枚組の「誠忠義士伝」が八千セット(合計すると四十万八千枚)。上記貞秀画「富士の裾野巻狩之図」三枚組     72文で計算すると、一枚当たり24文が408000枚であるから、総計で9792000文。これを前項同様、1両6500文の相     場で換算すると1506両になる。因みに次項の国芳画「亀奇妙々」三枚続60文を参考に一枚20文とすると、8160000     文で1255両となる。いずれにせよ前年の七月からこの年の三月まで、約八ヶ月でこれだけの売り上げである〉    ◯「嘉永元年戊申日記」④396 八月三日(『馬琴日記』第四巻)   〝画工渓斎英泉居宅、茅場町ニあり。両三年以来、胸痛の病折々起り候所、先月廿二日之夜、頻りニさし    こみ、竟ニ死ス。亨(ママ)年五十七歳也。妻のミにて、子なし。養女壱人、新吉原町ニあり。此義、今日、    泉市の話也〟    〈馬琴と英泉との交渉は、天保十二年(1841)の『南総里見八犬伝』第九集「結局編」の挿画が最後となった。英泉の死     亡は嘉永元年七月二十二日の由、板元泉屋市兵衛の話である。信憑性は高い〉     ◯『戯作者撰集』p254(石塚豊芥子編・天保~弘化年間成立)   〝一筆斎可候 画名渓斎英泉 嘉永元戊申年七月廿三日終る 五十九才     辞世 色どれる五色の雲に法の道心にかゝるくま取もなし〟     〈『戯作者撰集』を受け継いだ『戯作者考補遺』(木村黙老編・弘化二年序)は五十八歳としている〉    ◯『増訂武江年表』2p114(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「嘉永元年」)   〝八月(二十六日)、浮世絵師英泉終る〟    ◯『名聞面赤本(なをきけばかおもあかほん)』一冊 渓斎英泉画 英魯文作〔目録DB画像〕    〈野崎左文の「仮名垣魯文伝」によると、この摺本は英魯文(後の仮名垣魯文)の戯号披露の摺物で、本来は嘉永元     年(1848)の頒布を予定していたが、資力不足で延引、刊行は同二年の春の由。(明治28年2月刊『早稲田文学』81     号所収)したがって弘化四年(1847)の詠と思われる〉   〝一筆庵英泉 両の手に桃と桜を持ちそへて花の大枝さける片腕〟      〈浮世絵師で歌と句を寄せた人々は以下の通り〉    柳川重信・葵岡北渓・朝桜楼国芳・墨川亭雪麿・為一百翁(北斎)・香蝶楼豊国    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「稗史年代記の一部」所収、嘉永二年(1849)刊『名聞面赤本』   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   ◇p144   〝(嘉永元年、仮名垣魯文は戯作名を和堂珍海から英魯文へと改号する。翌二年春、魯文は諸家の寄せた    吟詠に諸家の小伝を添えた『名聞面赤本(ナヲキイテカホモアカホン)』なる摺物を制作して、その改号披露を行った)    表題の絵は渓斎英泉に頼み版下の筆耕は田端松軒に托して剞劂師の手にゆだねし(以下略)〟    〈英泉は嘉永元年(1848)七月二十二日の歿である。英泉はこの表紙の他に狂歌を寄せている。p153に「五月頃」とあ     るから、英泉最晩年の作品ということになる〉     ◇p153   〝 両の手に桃とさくらを持添へて花の大枝さけるかた腕   一筆庵    魯曰、画名渓斎英泉、作号一筆庵可候、元来水野壱岐守侯の藩士にて後(ノチ)町家(チヤウカ)に下り画作を    以て営業とす、通称池田屋善次郎諱(イミナ)は義信、壮年画を菊川英山に学び又一度三代目並木五瓶が未    だ篠田金次といひし頃その弟子となり、狂言作者の徒に入りて千代田才市と呼びたりとぞ、余が此作名    披露の刷帖(スリモノ)の表紙画と両の手云々の狂歌は嘉永戊申年五月頃認(シタタ)めて文京が許に送り越した    るが、同年八月廿六日病みて歿す、生年五十九、その墓所(或は云ふ四谷福寿院なりと)法名を知らず〟    〈仮名垣魯文は嘉永元年和堂珍海から英魯文へと改号した。『名聞面赤本』はそれを披露するため諸家から狂歌・発句     を集めて配った小冊摺物で、嘉永二年春の刊行。「魯」は仮名垣魯文。魯文は歌や句を寄せた戯作者・絵師の小伝を     記している。嘉永戊申は嘉永元年(1848)。魯文は英泉の死亡日を八月二十六日とするのだが、何に拠ったのであろう     か。魯文はこのとき同年十一月六日には亡くなってしまう最晩年の曲亭馬琴にも一首を請うべく、師匠花笠文京に随     って四谷信濃坂を訪問していた。七月頃だと云う。その馬琴の様子を魯文は「老眼衰耗して瞽者の如く」と記してい     る。その馬琴の方は、版元泉屋市兵衛の談として、英泉の死を七月二十二日と書き記していた。仮名垣魯文瞽者に如     かずである。花笠文京は東条琴台の兄で、安政七年(1859)三月三日歿、享年七十六歳〉    ☆ 刊年未詳    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇絵本・絵画(刊年未詳)    渓斎英泉画    『寿賀多百人一首小倉錦』一冊 渓斎英泉画 和泉屋市兵衛板〔目録DB〕    『花鳥百人一首』一冊 渓斎英泉画 〔目録DB〕    『契情秘話』  一帖 渓斎英泉画?〔目録DB〕    ◯「絵入狂歌本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇狂歌(刊年未詳)    渓斎英泉画    『狂歌英勇人物誌』一冊 署名「画工 渓斎英泉」催主松栄子二葉〔目録DB画像〕    『俳諧古今雛歌集』五巻 渓斎英泉・魚屋北渓・歌川豊広画 狂歌堂真顔編〔目録DB〕    『東都名所婦人遊』一冊 渓斎英泉画〔目録DB〕    『狂歌節用集』  一冊 岳亭定岡・英泉画 六樹園等編〔目録DB〕    ◯「艶本年表」(「国文研・艶本」)   ◇艶本(刊年未詳)    渓斎英泉画     『閨中女悦笑道具』色摺 小判 四枚  〔国文研・艶本〕    『あづまみやげ』 二冊 英泉画 月成作〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    『星月夜糸之調』 三巻 白水画    〔目録DB〕(注記「ウキヨヱ内史による」)    『艶本恋濃手枕』 三冊 渓斎英泉画  〔目録DB〕    『艶本婦多津枕』 三冊 渓斎英泉画  〔目録DB〕    『天のうきはし』 三冊 英泉画    〔目録DB〕    『絵本ひよく枕』 一帖 英泉画    〔目録DB〕    『画図玉藻譚』     淫斎主人白水画 嬌訓亭主人編〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    『春色閨の栞』  三冊 淫斎白水作 豊国画〔目録DB〕      (注記「改題本に「偽紫女源氏」あり、日本艶本目録(未定稿)による」)    『偽紫女源氏』  三巻 豊国画 淫斎白水作〔目録DB〕      (注記「春色閨栞の改題本、日本艶本目録(未定稿)による」)    『恋の嘉男女』     英泉画?好亭主人作〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)     『地色早指南』  二巻 淫乱斎白水(英泉)〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『徒間佳佐寝』  三冊 英泉画 鼻山人作 〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『奈留美賀多』  三冊 一筆庵可候画?  〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『開談百陰語』  一冊 英泉画 好斎大馬作〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    『艶本美図遊』     淫乱斎(英泉)  〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    『きくがさね』  三冊 池田英泉画〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    『さよあらし』  三巻 渓斎英泉画〔目録DB〕(注記「ウキヨヱ内史による」)    『艶色深道鏡』  一冊 渓斎英泉画〔目録DB〕    『絵本三世相』  三冊 渓斎英泉画〔目録DB〕    『艶本美女競』  三冊 渓斎英泉画〔目録DB〕    『志の婦寿』 三巻三冊 渓斎英泉画・作〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)      『交合雑話』 初編二冊 淫斎白水編  〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『春野薄雪』   二冊 淫乱斎画   〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『水阿其美』   色摺 横本 一冊 序「淫斎誌」 〔国文研・艶本〕    『筑紫琴』  五巻五冊 淫乱斎白水画 大鼻山人 曲取主人好色外史作〔目録DB〕      (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『月雪花』    三冊 英泉画? 〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『庭退霞』    一冊 英泉画  〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『開好記』    三冊 渓斎英泉画〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    『色の媒』    三冊 英泉画  〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    『色指南』    二冊 英泉画  〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    ☆ 没後資料    ☆ 嘉永二年(1849)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(嘉永二年刊)    渓斎英泉画    『百人一首女訓抄』一冊 広重画 口画八丁 外五十一丁半(英泉画歟)本屋又助板〔漆山年表〕       『英泉画譜』   初編 呉午喘月 山外山樵序 永楽屋東四郎板〔漆山年表〕     ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔早大〕は「古典籍総合データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(嘉永二年刊)※角書は省略    渓斎英泉画    『釣華生梅廼三日月』四巻 渓斎英泉画 墨川亭雪麿作〔目録DB〕    『絵本膝栗毛』   九編 渓斎英泉画 十返舎一九作〔目録DB〕    一筆庵(渓斎英泉)作    『児雷也豪傑譚』 十編(画)一陽斎豊国(著)美図垣笑顔 和泉屋市兵衛板〔東大〕            十一編(画)一陽斎豊国(著)美図垣笑顔 和泉屋市兵衛板〔東大〕      (備考、十・十一とも作者は美図垣になっているが、実際の作者は序者の一筆葊(渓斎英泉)という)    『其由縁鄙俤』四・五編 一陽斎豊国画 一筆庵可候作〔早大〕    『青陽石庁礎』  二編 一陽斎豊国画 一筆庵可候作〔早大〕    『歌枕二世譚』  四巻 歌川豊国画  一筆庵可候作〔目録DB〕    ☆ 嘉永二年(1849)    ◯「絵入狂歌本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇狂歌(嘉永二年刊)    渓斎英泉画『名聞面赤本(なをきけばかおもあかほん)』一冊 渓斎英泉画 英魯文作〔目録DB画像〕    〈嘉永元年、戯作者・和堂珍海(後の仮名垣魯文)は英魯文に改名。この『名聞面赤本』は諸家の狂歌・発句を     募って祝福した改名披露の摺物。魯文の師匠は花笠文京〉     〝一筆庵英泉 両の手に桃と桜を持ちそへて花の大枝さける片腕〟    〈浮世絵師で歌と句を寄せた人々は以下の通り〉     柳川重信・葵岡北渓・朝桜楼国芳・墨川亭雪麿・為一百翁(北斎)・香蝶楼豊国    〈野崎左文の「仮名垣魯文伝」によると、この摺本、本来は嘉永元年(1848)の頒布を予定していたが、資力不足で延     引、刊行は同二年の春の由。したがってこの詠は弘化四年頃と思われる(明治28年2月刊『早稲田文学』81号所収)20     17/11/13追記〉    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇狂歌(嘉永二年刊)    渓斎英泉画『名聞面赤本』一冊 渓斎英泉画 英魯文作〔目録DB〕    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p457(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   〝当春錦絵の出板、当りハ    一 伊勢太神宮御遷宮之図、  三枚ツヾき、   藤慶板。    一 木下清洲城普請之図、   三枚続、     山本平吉。    一 羽柴中国引返し尼崎図、  足利尊氏ニ書、  同人。    一 姉川合戦真柄十郎左ヱ門討死、是を粟津合戦今井四郎ニ書。    当春太閤記の絵多く出候ハ、去年八月蔦吉板元にて今川・北条との富士川合戦、伊藤日向守首実検の図、    中浦猿之助と書、村田佐兵衛の改ニて出たり、此絵ハ首が切て有故に不吉なりとて、余り当らず候得共、    是が太閤記の絵の最早ニて、当年ハ色々出しなり、又夜の梅の絵も、去年の正月蔦吉の板ニて夜の梅、    三枚続出て大当り也、夫故に当春ハ夜の梅の墨絵三枚ツゞき凡十番計出たり、是皆々はづれなり。      太閤記の画多く出板致けれバ       小田がいに摺出しけり太閤記         羽柴しまでも売れて豊とミ       夜るの梅昼は売れなひものと見へ〟    〈この記事は嘉永二年のものであるが、「梅の絵も、去年の正月蔦吉の板ニて夜の梅、三枚続出て大当り也」の「夜の     梅」は、嘉永元年正月の出版である。板元・蔦屋吉蔵で三枚続きとあるから、この「夜の梅」は渓斎英泉のものと思     われる。英泉は嘉永元年七月に亡くなるから「夜の梅」は最晩年の作品といえようか。これは大当たりであったが、     翌二年のものははずれに終わった〉
    「夜の梅」 渓斎英泉画     (「森宮古美術*古美術もりみや」提供)     ◯『藤岡屋日記 第三巻』p543(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849))   「嘉永二己酉年 珍説集【七月より極月迄】」   〝十月      田舎源氏草双紙一件     文政十二年正月、油町鶴屋喜右衛門板ニ而諺(偐)紫田舎源氏といへる表題ニて、柳亭種彦作、哥川国    貞の画ニて出板致し候処、男女の人情を書し本ニて、女子供のもて遊びニて枕草紙の笑本同様ニて、大    きに流行致し、天保十二年ニハ三十八篇迄出板致し、益々大評判ニて売れ出し候処ニ、天保十三年寅春    ニ至リ、御改正ニ而高金之品物売買之義差留ニ付、右田舎源氏も笑い本同様ニて、殊ニ表紙も立派成彩    色摺故ニ絶板被仰付候ニ付、鶴喜ニて金箱ニ致し置候田舎源氏の板けづられ候ニ付、通油町鶴喜、身代    退転(二字欠)候、然る処夫より六年過、弘化四年未暮、少々御趣意も相ゆるミ候ニ付、田舎源氏(一    字欠「表?」)題替ニて相願ひ、其ゆかり雛(鄙)の面影と云表題ニて改刻印出候得共、鶴喜ハ微禄ニて    出板自力ニ不及、依之神田鍛冶町(一字欠)丁目太田屋佐吉の両名ニて、雛の面影初篇・二篇と出し、    是田舎源氏三十九篇目故ニ、三十九じやもの花じやものといへる事を口へ書入、又々評判ニて、翌申    (嘉永元年)暮ニハ三篇・四篇を出し、作者は一筆菴英泉、画ハ豊国なり、当酉年(嘉永二年)春五篇    も出し候処ニ、板木ハ両人ニて分持分居り候処ニ、鶴喜ハ不如意故ニ右板を質物ニ入候ニ付、一向ニ間    ニ合申さず候ニ付、当秋太田や一人ニ而又々外題を改、足利衣(絹)手染の紫と云題号ニ直し、鶴喜の株    を丸で引取、雛の面影六篇と致配り候ニ付、十日鶴喜(文字数不明欠)致し、太田やへ押懸り大騒動ニ    及びて喧嘩致し候得共、表向ニ不相成、六篇目ハ両方ニて別々に二通り出ル也、太田屋ハ足利衣手染の    紫、作者一筆菴、鶴屋は其ゆかり雛の面影、作者仙果、右草紙ニ、仙果ハ師匠種彦が書残置候写本故ニ    此方が源氏の続なりと書出し、一筆菴ハ此方が源氏の後篇なりと書出し、是定斎屋の争ひの如くなれば、      本来が諺(偐)紫で有ながら        あれが諺だの是が本だの      田舎から取続きたる米櫃を        とんだゆかりの難に太田や〟    〈『偐紫田舎源氏』(初編~三十八編・柳亭種彦作・歌川国貞(三代豊国)画・文政十二年(1829)~天保十三年(1842)     刊)。『其由縁鄙俤』(初編~六編・一筆庵可候(英泉)作・一陽斎豊国(三代)画・弘化四年(1847)~嘉永三年     (1850)刊。英泉は嘉永元年没)。『足利絹手染紫』(六編(『其由縁鄙俤』五編の改題続編)笠亭仙果作・三代歌川     豊国画・嘉永三年刊)。天保改革の余波で『偐紫田舎源氏』が絶版になり家運傾く鶴屋喜右衛門と新興の太田屋佐吉     (神田鍛冶町二丁目)とが、それぞれ英泉と仙果を立てて、柳亭種彦亡き後の後継争いを演じたのである。絵師はと     もに三代豊国が担当したのであるが、仙果は戯作専門であるからともあれ、英泉は自ら絵師である、はたしてどんな     思いでこの合巻を書いていたのであろうか。おそらく『偐紫田舎源氏』では、国貞(三代豊国)画のはたす役割があ     まりにも大きかったので、読者は無論のこと板元にも豊国以外の起用など思いも及ばなかったのだろう。英泉自身も     あるいはそれを認めていたのであるまいか。定斎屋(ジョウサイヤ)〉は行商の薬売り。鶴屋と太田屋の後継争いを薬屋の     本家争になぞらえたのである〉    ◯『【現存雷名】江戸文人寿命付』初編〔人名録〕②350(嘉永二年刊)   〝渓斎英泉 鶏がなくあづまうまれの浮世絵は外に類なき君が全盛 大極上々吉、寿千載、下谷池之端〟     ☆ 嘉永三年(1850)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇絵本(嘉永三年刊)    渓斎英泉画    『名所発句集』初二編 画工渓斎英泉画 永楽屋丈助板〔漆山年表〕           〈〔目録DB〕は初編天保十四年刊、二編嘉永三年刊とする〉    『松亭漫筆』二冊 无名翁画 英泉歟 金水道人 河内屋茂兵衛他板〔漆山年表〕    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇咄本(嘉永三年刊)    渓斎英泉画『一口ばなし』渓斎英泉画    ◯『松亭漫筆』〔大成Ⅲ〕⑨294(松亭金水(中村定保)編・嘉永三年序)     (挿絵。諺「群盲象を撫ず」を説く挿絵に〝无名翁〟の署名)    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1412(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝渓斎英泉 字混聲、号無名翁、一号一筆庵、住下谷池之端、称池田善次郎、広益諸家人名録、    嘉永元年八月死、武江年表〟    ☆ 嘉永五年(1852)     ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇俳諧(嘉永五年刊)    渓斎『方南餞別』渓斎 百古編〔目録DB〕    ◯『歌舞伎年表』⑥565(伊原敏郎著・昭和三十六年刊)   (「嘉永五年(1852)」の項。七月十九日、河原崎座『児来也豪傑譚話』興行記事)   〝絵入読本「児来也物語」十冊。鬼武作、北馬画。文化四年、浪花にてしくみ、三代の団蔵大当り。是よ    り団蔵家のものとなりしを、其後天保十年、和泉屋市兵衛より美図垣笑顔、此作意を仮りて、自来也を    「田舎源氏」の光氏の優姿になし出版せしに大当り。無程、笑顔死去し、嗣へん渓斎英泉筆を取しに、    是も亦流行し、嘉永三年春、種員嗣作して盛に行はる〟    〈感和亭鬼武作・葛飾北馬画の読本『自来也説話(ジライヤモノガタリ)』は文化三年(1806)刊。美図垣笑顔作の合巻『児雷也     豪傑譚』の初編は天保十年(1839)刊。渓斎英泉作は弘化三年(1846)の六編から嘉永二年(1849)の十一編まで。画工は     初編から天保十三年の四編まで香蝶楼国貞。五編の弘化三年から十五編の嘉永四年までが「二代豊国」とあるが、香     蝶楼国貞を改名した三代豊国。英泉は嘉永元年七月二十三日死去であるから、死の直前までこの合巻を著作していた     のである〉    ☆ 没後資料    ☆ 嘉永年間(1848~1853)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇人情本(嘉永年間刊)    渓斎英泉画『朧月花廼栞』二・三編 一筆庵主人(英泉)画・作    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(嘉永年間刊)    白水山人作    『花の露』三冊 麿丸画 白水山人(渓斎英泉)作〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ☆ 安政元年(嘉永七年・1854)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(安政元年刊)    渓斎英泉画『英雄画史』初編 渓斎翁編輯并画 琴台老人東條耕題〔漆山年表〕〈初版は天保七年刊〉    ☆ 安政三年(1856)
◯『戯作者小伝』〔燕石〕②49(岩本活東子編・安政三年成立)   〝一筆庵英泉    名義信、字英泉、渓斎と号し、又無名翁と号す。通称池田善次郎といふ、茅場町植木店に住居す、画を 善くす、また戯作をなして、一筆庵の号あり、嘉永元戊申年七月二十三日没す。年五十九〟    ◯「絵入狂歌本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇狂歌(安政三年刊)    渓斎英泉画    『花街百人一首』一冊 英泉 花笠文京撰〔狂歌書目〕    ☆ 安政六年(1859)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇人情本(安政六年刊)    渓斎英泉画『所縁の藤波』後編 渓斎英泉画 十返舎一九三世(三亭春馬)作     ☆ 安政年間(1854~1859)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(安政年間刊)    渓斎英泉画『器財集』一冊 一勇斎国芳 渓斎英泉 柳川画 梅ノ屋撰〔漆山年表〕    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(安政年間刊)    渓斎英泉画『封文恋情紋』一冊 淫斎(英泉)画 慕々山人(仮名垣魯文)作 安政頃刊〔目録DB〕           (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ☆ 成立年未詳
 ◯『椎の実筆』〔百花苑〕⑪317(蜂屋椎園著)   (「一九の墓并英泉の墓」の項)   〝麹町十三丁目福寿院に、画工渓斎英泉の墓あり、     渓斎英泉 俗名善次郎義信    嘉永元申七月十三日、としるし、辞世の歌あり。     色どれる五色の雲に法の道心にかゝるくまどりもなし 一筆庵     春 帰る雁花を見すてゝ名残かな     夏 蚊屋ごしにうき世の月をみはてけり     秋 世の業も秋を限りや気草臥     冬 石塔の下や今年の冬ごもり〟     〈馬琴の「嘉永元年戊申日記」には七月二十二日の死亡とあり〉     ◯『馬琴書翰集成』年不詳十二月十九日 馬琴宛・渓斎英泉(第六巻・書翰番号-来57)⑥275   〝(馬琴朱書「画工英泉」)〟
  〝以手紙啓上仕候。甚寒之砌御座候へども、御揃被遊、益御機嫌克、奉恐悦候。然ば、此品誠軽少之至御    座候へども、寒中御機嫌奉伺候印迄、奉御覧ニ入候。御笑納可被下候。段々御厚情御取立被下置候段、    誠外聞旁、難有仕合ニ奉存候。右御礼、推参仕可奉申上奉存候処、久々不快ニ而、御不音仕候段、奉恐    入候仕合ニ御座候。何分右之段急御取斗、 先生ぇ被仰上可被下候様、偏奉願上候。委細近日推参仕、    万々奉申上候。右之段申上度、如此御座候。以上      十二月十九日       滝沢様                        英泉         御取次中様〟    〈馬琴の「御厚情御取立」に対して、英泉は直接お礼を云うべく訪問する予定であったが、「不快」のため延期したい     という内容の手紙である。この「御厚情御取立」の内容は分からない〉    ◯『江戸風俗総まくり』(著者・成立年未詳)〔『江戸叢書』巻の八 p28〕   (「絵双紙と作者」)   〝美人絵は、前後喜多川歌麿が筆にとゞめ、永子(ママ)も二の舞にて後世あれまさるものを、今は英泉美女    を絵がけど歌麿が上にたゝんはかたし〟    〈永子は栄之の誤記であろう〉    ◯『鳴呼矣草』〔大成Ⅰ〕⑲274~83(大坂書林、河内屋茂兵衛出版目録・年代未詳)  ◇「大阪書林 河内屋茂兵衛梓」の広告 ⑲275   〝渓斎英泉画/画本錦之嚢/全一冊    葛飾戴斗画/万職図考/【初篇 二篇 三篇 四篇 五篇】全五冊    此絵本は金銀銅鐵、象眼、居物彫物師、堂塔宮殿の彫物、根付、櫛、笄、釵、諸金具、飾師、陶器錦絵、    沈金蒔絵、あるひは煙管張、花布(サラサ)糊置、上絵、染物形、幟画その外諸職にあつかふ図絵、山水、人    物、花鳥、虫獣等もつはら職巧の写真をもとむる。万家大に益ある絵手本なり〟    〈「国書基本DB」によると、英泉の『画本錦之嚢』は文政十一年刊。葛飾戴斗(これは二代目)の『万職図考』は初     ~三篇は天保六年刊、四~五編は嘉永三年の序〉     ◇「浪華書肆 河内屋茂兵衛蔵板」の広告 ⑲283   〝六樹園大人訳 前篇六冊/通俗排悶録/渓斎英泉画 後篇六冊    此の書はもろこしの公事明断奇だんをあつめし誠に珍説といふ書なり”    〈「国書基本DB」『通俗排悶録』文政十一~十二年の刊行とする〉    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「菊川氏系譜」⑪185 
    「菊川英山系譜」     ◇「渓斎英泉」の項 ⑪206   〝渓斎英泉    姓藤原、本姓池田氏、名義信、一に茂義、俗称善次郎、後里介、江戸の産、父母存在の中は遠不出。    〔割注 父は池田義晴、環山不言菴門人にて書を能す。読書を好み、俳諧茶事を好めり〕幼年の時狩野    白珪斎の門人となる。〔割注 白珪斎は赤坂某侯といへり。狩野栄川法師の高弟なり〕母は英泉六歳の    時歿す。父并継母に仕へて孝あり。其家まづしかりし。文化の始め、父母一年内に歿す。幼き妹三人を    養ひ、青雲の志ありて士官せしが、讒者の舌頭にかゝり、壮年にして流浪す。故に志を廃して浮世絵師    となれり。又戯場狂言作者初代篠田金治(後並木五瓶)の門に入り、千代田才市の名を継て作者となり    しが、再び画工菊川英二が家に寓居す。土佐の門に入てより、近国を遍歴する事三四年にして京都に帰    り、又宋明の画を好み、書を読むの癖ありて通宵眠る事を忘る。又戯作を楽みとして草双紙の作多く有。    〔割註 渓斎英泉と同名の人、下総にありしが、又上州にもありしと告来るものありしと。渓斎と云人、    江戸にも在、画風同じく板下をかゝず〕当時流行に傚て美人絵多く画り。又北斎翁の画風をも取り一家    となす。〔割註 其頃英山世に行れて、諸侯の召に応じ彩色画多くありしが、肥州侯に命ぜられ、門人    残らずの画を望たまふ。其列に入て英泉と画名を記し出せしより是を名とす。英山門人といふ始也〕是    一筆菴無名翁、国春楼北亭といふ。一筆菴は戯作の名なり。居を替るの癖ありて、始め番町後根岸新田    村根津池の端坂本一丁目、其外江戸数ヶ所に転宅して在所定まらず。吉原遊女の姿を写すに、悉く其家    々の風俗、襖姿を画くに役者の狂言振に似せず。今時世の形もあらたに画きしは此人なり。近頃国貞も    傾城画は英泉の写真に似せて書きしなり。又春画も有り。〔割註 団扇絵も多し。藍摺の山水は此人の    工夫なり。京大坂の読本をも江戸に在て画けり〕もとより名を好まず。凧を画き、羽子板幟の画に彩り、    需に従て辞する事なし。〔割註 職分筆の達者二人分をなす〕板刻の画本をかきかけて行所を知らず。    板元迷惑して所在を尋しに、娼門に酔て死るが如し。漸々にして其跡を画て是を与ふ。花金杉の浜に碇    屋六兵衛と云し魚問屋あり。〔割註 後に巴屋仁兵衛といふ板元なり〕従来錦絵其外の板元を業とする    事を好むが故に、泉を携て家に養ふ。泉衣類を借着して出て帰らず。主人漸々行所を知て尋しに、其衣    類を酒に換て酔て本性なし。虎蝮を生れながら鰈共々煮て是を喰ひ、猪を好て食し羽織を着し下駄をは    き、近辺に出しと思へば夜船に乗じて上総木更津に至る。〔割註 木更津より五里程入り周准郡より池    田氏の旧家あれば成べし〕かゝる放蕩無頼の人といへども是を悪まず。居を宗十郎町に定めてより、食    客を集て夜中門戸に錠を用ひず。家主後難を恐れ迷惑す。如此行状なれども、親類他人に金銭を借らず。    己れが業により価を得て捨るが如く遣ふのみ。後妻を迎へ子無きが故に一女子を養ふ。是より後人に帰    りて、板刻の絵に精を抽て昼夜寐ずして画り。天保の頃より筆を止め云、盛りあれば衰ふ。人に哢られ    んより哢るにしかじと、需るに不応して根岸時雨里に隠れ、根津花街等に娼家をせし事もあり。又根津    門前なる木村長右衛門が判を盗んで押し事あらはれんとしたる故亡命せしとぞ。壮年の行状すべてかく    の如し。嘉永申秋歿せり。     浮世画譜 自初編至十編 尾張永楽屋  錦袋画叢    大坂河内屋  武勇魁図会 二冊永楽屋     容艶画史       美人画の則也  絵本初心画譜  西村屋与八  画本錦之嚢   河内屋     通俗排悶録 十二冊     六樹園  松風村雨物語 十冊文東陳人  絵本応仁記   蘭山作     金鈴橘草紙  五冊      全亭  嫩髪蛇物語  五冊  全亭  水滸太平記   岳亭作     好文士伝         為永春本  総猿潜語    瀬川如皐作  開巻驚奇侠客伝 馬琴作    此外多くあり。枚挙に遑あらず〟    ☆ 明治十九年(1886)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十九年刊)    渓斎英泉画『弁慶一代記』挿絵・表紙 渓斎英泉 自作自画 鍋野長三郎版(11月)    〈見開き7丁1冊、販売価格3銭5厘の子供向け絵本。鍋野長三郎は名古屋の版元であるが、どのような経緯で英泉の自作自画を     この時期に出版したのか不明〉  ☆ 明治二十一年(1888)  ◯ 日本美術協会美術展覧会〔4月10日~5月31日 上野公園列品館〕   『明治廿一年美術展覧会出品目録』1-5号 松井忠兵衛・志村政則編 明治21年4~6月刊    (国立国会図書館デジタルコレクション)   「古製品 第一~四号」   〝栄(ママ)泉 小妓展簡図 一幅(出品者)若井兼三郎〟〈英泉〉    ☆ 明治二十二年(1889)  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)   〝文政 池田英泉    始め一筆斎と号す。後蕙斎に学び、渓斎と改む、嘉永元歿す〟     ☆ 明治二十五年(1892)  ◯『日本美術画家人名詳伝』上p18(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)   〝池田英泉    通称善四郎(又善次郎)名ハ義信(又ハ茂義)渓斎一筆庵国春楼、北豪涇斎、無名翁ノ号アリ、初メ狩    野白桂ノ門ニ入リテ画法ヲ学ビ、後チ一格ヲ出シテ浮世絵ヲ画ケリ、読本絵本数品ヲ画ケリ、尤武者画    ヲ善クス、嘉永元年八月十六日歿ス〟    ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『古代浮世絵買入必携』(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)   ◇「渓斎英泉」の項 p14   〝渓斎英泉    本名〔空欄〕  号〔空欄〕  師匠の名〔空欄〕  年代 凡五十年前より七十年迄    女絵髪の結ひ方 第十二図・第十三図 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)    絵の種類 並判、中判、小判、細絵、長絵、二枚つぎ、絵本、肉筆    備考  〔空欄〕〟
  ◇「図柄」p21   〝花鳥及び景色は凡て美人其の他の風俗画に比して凡(オヨ)そ半額くらい廉価なり。又広重、国芳、英泉、    及び国貞の如きは風景、花鳥の方却って高価なり〟     ◯『浮世絵師便覧』p228(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝英泉(セン)    渓斎と号す、名は義信、一に茂義、字は混聲、俗称善次郎、後に里介、一筆庵、旡名翁、国春楼、北亭    等の数号あり、戯作者を可候といふ、藍摺の山水画は、此の人の工夫なり、◯英山門人〟  ☆ 明治二十七年(1894)     ◯『名人忌辰録』上巻p4(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊)   〝池田英泉 一筆庵    通称池田善次郎、後里介と改む。号渓斎。小説家にして画を能くす。嘉永元申年八月廿六日歿、歳五十    七。四谷福寿院に葬る。辞世「色どれる五色の空に法の道こゝろにかゝるくまどりもなし」〟     ☆ 明治二十八年(1895)  ◯『増補 私の見た明治文壇2』「仮名反故」2p245   (野崎左文編・原本明治二十八年(1895)・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝 仮名反故叙    物の本を編みて潤筆料を得ることを始めたる者は山東京伝なり、然れば此人を小説家中興の祖とし馬琴、    種彦、一九、三馬、京山、春水那(ナン)どいふ有名の著者輩出し、当時小説の盛んなる、読本、合巻、酔    書に論なく、年々梓(アヅサ)に上(ノボ)るもの牛に汗し棟(ムナギ)に充(ミ)てり、故に此人々を大先輩とし、    第二の先輩者たる者は、柳下亭種員、二代目種彦(仙果)松亭金水、楽亭西馬、一筆庵英泉、美図垣笑    顔、万亭応賀等なり〟    〈野崎左文編の「仮名反故」は明治二十七年に亡くなった仮名垣魯文の追善集。この「叙」は採菊山人の手になるもの。     採菊山人は條野氏、山々亭有人とも号す。明治五年、落合芳幾らとともに東京日日新聞社を創立。絵師・鏑木清方の     父。明治の半ば頃まで、英泉は浮世絵師としてばかりではなく、文筆家としてのイメージをも併せ持っていたものと     思われる〉  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯ 明治美術会展(創立十年記念・明治三十一年三月開催・於上野公園旧博覧会跡五号館)   (『明治期美術展覧会出品目録』所収)    葛飾北斎  橋下ノ図     木版    有阪北馬  富士山      水彩画    池田英泉  不忍ノ景     木版    歌川豊春  山水       木版    歌川国長  山水       銅鐫    北寿    三股川ノ景    木版    一立斎広重 雪景       墨画    一勇斎国芳 唐土二十四孝ノ内 木版          唐土二十四孝画帳 木版    鮮斎永濯  弁慶       水彩画    小林清親  人物山水(十三面)木版    ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『浮世画人伝』p102(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)   ◇「菊川英山系譜」   〝英泉 英山門人 号渓斎〟
    「菊川英山系譜」     ◇「渓斎英泉」の項 p102   〝 渓斎英泉(ルビけいさいえいせん)    渓斎英泉、姓は藤原、名は茂義(シゲヨシ)、通称は池田善次郎、後年里介と改名す。一筆庵、国春楼、無    名翁、北花亭の数号あり。寛政二年、江戸に生れ、父は池田茂春と称し、瓊山と号す、不言庵の門に入    りて、俳諧茶事を楽み、又書をよくす。池田氏の宗家は、上総国周准郡に在り、渓斎、幼にして、狩野    白桂斎の門に入りて、狩野家の画風を学び、其他土佐家を窺ひ、北斎を慕ひ、英山に就き、遂に一家の    画風を創意し、頗(スコブ)る意匠の嶄新(ザンシン)を以て名ありき。当時世上に最も高評を得しは、菊川英    山の画なりき。或時細川肥州侯英山に命じて、其門人等の画を呈せしむ、そが中に茂義も加はりて、英    泉と落欵せり、これ其画号を用ひし始めなりと云ふ。画家は紙鳶(イカノボリ)羽子板(ハゴイタ)幟(ノボリ)の如    きものに描くを恥辱となし、少しく其名を知られたるものは、更にこれ等に描く事なし、されども英泉    は品の何たるを撰ばす、手に従うて描かずと云ふことなし。筆力極めて神速にして、立どころに画を為    し、敏腕の聞え高りき、英泉、藍を以て山水を画き、俗にべろ摺と称して、一時に大に行はれたり、こ    れ英泉が創意にかゝるものなり。偖(サテ)又英泉得意なるは遊女を描くにあり、当時遊廓大楼の風として、    各楼娼妓の服色装飾を異にせり、されば如何(イカ)なる高手(コウシュ)なりと雖(イエド)も、一々これを描き    わけ、着るものをして、直ちにこれは何楼の風なりと、知らしむるは難し、然るに英泉独り能くこれを    為し、精々細々描得て、甚だ分明なりき。蓋(ケダ)し彼れは常に遊里に遊びて、能く其風俗を精察し得    ればなるべし。高手の国貞と雖も、遊女を描くに於ては、常に英泉の画意に傚へりと云ふ。英泉また文    字の人なるを以て、遠く元明の古画を味ひ、能く其意を得たりき。英泉、中頃業を転じ、後年復業し、    菊川英山の父英二が家に寓居し、京伝、馬琴、春水等が稗史の挿画を作れり、天保の末年自ら揮毫を謝    し、人盛なれば必ず衰ふ、衰へて人に棄てられむよりは、寧(ムシ)ろ人を棄るに如(シカ)ずとて、各板元の    請求を拒み、根岸時雨の里に隠れしが、晩年に再び旗を板本町植木店に掲げて、画道に従事したりき。    英泉深く、文学を好み読書夜を徹すと雖も、更に厭倦せざりきと云ふ。稗史の著述少なからず、また暫    らく本業を廃して、狂言作者篠田金治(二代目並木五瓶)が門弟となり、千代田才市と称し、狂言作者    となりたることありき。或時は四谷門外に住せる、妹婿弥十郎なるものと組合ひ、己れ若竹屋理助と称    し、根津に於きて妓楼の主人となりし事さへあり。英泉幼時父母に仕へて孝なり、実母は英泉が六才の    時没し、爾後(ジゴ)継母(ケイボ)に仕へて、孝心更にかはることなし、文化の初め年を同うして、父母共    に世を去れり。英泉貧窮の裡に、三人の幼妹を養育し、具(*ツブ)さに艱苦を嘗(ナ)め、漸くにして仕官    の途を得しかど、幾何(*イクバク)もなく讒者(*ザンシャ)の舌頭(ゼツト)にかゝりて、再び流浪惨憺の状に陥    り、断然仕官の念を棄て、遂に浮世絵師となりしなり、三四年間近国を遊歴して、江戸に帰りしよりは、    剛胆粗放自ら恣(*ホシイママ)にし、暴飲暴食甚しきは、河豚の臓腑を去らずして喰(クラ)ひ、酩酊すれば、    如何なる業務の急を告ぐるあるも、筆を抛(*ハナ)ちて遊里に数日を消し、更に意に介せざるものゝ如し。    或は羽織を着け木履を穿(ウガ)ちし儘(ママ)、飄然として船に乗じ、上総国木更津港に赴き、旧故を訪ふ    など、近隣の友人を訪ふよりも、猶(ナオ)易(ヤス)きものゝ如し。或時芝金杉(※一字未詳、濱?)の魚    問屋仁兵衛なるもの(【家号碇屋、後に錦絵稗史の板元となりて巴屋と云ふ】)絵画を好むを以て、英    泉を食客とせり。一夜英泉主人の衣服を借着し、外出せし儘、数日を経れども帰り来らず、漸く其在所    を捜索し得て、到り見れば衣服は既に売却して酒料に充て暴飲泥酔して、精神蕩尽(トウジン)し、殆ど己    れの居所も忘れたるものゝ如し。又新橋宗十郎町に、借家せし時の如きは、夜間門を鎖さず、食客を集    めて放蕩を事としければ、家主は後難を恐れて、大に迷惑せしと云ふ、されども親戚朋友に金銭を借ら    ず、自ら得たる金を以て、塵芥の如くに消費し去り、磊々落々只心のまに/\、挙動(フルマ)ひける、老    後(ロウゴ)子なきを以て、一女児を養ひしより、品行大(オオイ)に修り、父母在世の時の如くなりきと云ふ。    今叙してこゝに至り顧みて、英泉が一世の行路を概観し来れば、何ぞ其英蝶(*ママ)の経歴に似るたるの    甚しきや、一蝶は画家にして文学者を兼ねたりき。これも亦(マタ)然り、一蝶は親に仕へて孝なりき、こ    れも亦然り而(シコウ)して、其花街柳巷にさまよひて、浮世絵師伝記中放蕩無頼の烙印を留むるは、共に    同一轍(テツ)たり、若(*モ)し夫れ時を隔てゝ浮世絵師の二幅対を索めなば、此二家は其最も恰好の者な    らん歟。英泉は嘉永元年八月廿六日没す、年五十九、其辞世に曰く      かぎりある命なりせばをしからで唯かなしきは別れなりけり       又      色どれる五色の雲にのりの道こゝろにかゝる隈どりもなし〟    ☆ 大正年間(1912~1825)
 ◯『梵雲庵雑話』p123「淡島屋のかるやき袋」(淡島寒月著・大正五年(1916)一月『浮世絵』第八絵号)   〝何故昔はかるやき屋が多かったかというに、疱瘡(ホウソウ)、痲疹(ハシカ)の見舞には必ずこの軽焼(カルヤキ)と    達磨(ダルマ)と紅摺画(ベニズリエ)を持って行ったものである。このかるやきを入れる袋がやはり紅摺、疱    瘡神を退治る鎮西八郎為朝(チンゼイハチロウタメトモ)や、達磨木菟(ミミズク)等を英泉国芳(クニヨシ)等が画いて    いるが、袋へ署名したのはあまり見かけない。他の家では一遍摺(イッペンズリ)であったが、私の家だけは、    紅、藍(アイ)、黄、草など七、八遍摺で、紙も、柾(マサ)の佳(ヨ)いのを使用してある。図柄も為朝に金太    郎に熊がいたのや、だるまに風車(カザグルマ)、木菟等の御手遊(オモチヤ)絵式のものや、五版ばかり出来て    いる〟    ☆ 昭和年間(1926~1987)
 ◯「日本小説作家人名辞書」(山崎麓編『日本小説書目年表』所収、昭和四年(1929)刊)   ◇「一口泉老人」p705   〝一口泉老人    渓斎英泉、即ち一筆庵可候の匿名か。「草話風狸伝」(天保七年(1836)刊)    〈「日本古典籍総合目録」は『草話風狸伝』、一口泉老人編・柳亭種彦校訂・渓斎英泉画・天保七年刊とする〉     ◇「一筆庵可候」p706   〝一筆庵可候    姓は藤原氏、池田義信、通称善次郎、後里介と改む。無名翁、国春楼、桜北亭、千代田才市、渓斎英泉    等の号がある。茅場町植木店に住み、後根津に転じ、更に所々住所を変へた。画を狩野白桂斎の門人に    入りて学び、渓斎英泉と号し、又二世並木五瓶の門に入つて、狂言作者となり、千代田才市と号した。    一筆庵可候の号は、彼の私淑した北斎の作号、時太郎可候によつたのであらう。寛政四子年(1792)生、    嘉永元年(1848)七月二十三日歿、享年五十九。四谷福寿院に葬る。「稽古三味撰」(弘化二年(1845)    刊)等の作者〟    〈「日本古典籍総合目録」『稽古三味線』滑稽本・一筆庵主人作・歌川国貞画・弘化三年刊、とある〉     ◇「手前翰謂喜」p793   〝手前翰謂喜(てまへかんいふき)    渓斎英泉の匿名であらう。「豊年武都英」(天保十年(1839)刊)の作者〟
  ◇「半俗退士」p816   〝半俗退士    伝未詳、或は渓斎英泉の匿名か。「拍掌奇譚品玉匣」(弘化二年(1845)刊)の作者〟    ◯『狂歌人名辞書』p29(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   ◇「渓斎英泉」の項 p29   〝渓斎英泉、通称池田善次郎、東都の浮世絵師、傍ら戯作に従事し、一筆庵可候と云ひ、又狂言作者とな    りて千代田才市の名を襲ぐ。(初代可候を看よ)〟
  ◇「一筆庵可候」の候 p38   〝一筆庵可候、通称池田善次郎、浮世絵師にて渓斎英泉と号す、戯作を好みて草双紙数種を作る、嘉永元    年八月廿六日歿す、年五十九、四ッ谷福寿院に葬る〟    ◯『浮世絵師伝』p1(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英泉    【生】寛政二年         【歿】嘉水元年七月二十二日-五十九    【画系】狩野白珪及び菊川英山門人【作画期】文化~嘉永    藤原姓、池田氏、名は茂義、後に義信(今按ずるに、こは英山の諱俊信の信と彼れが諱茂義の義とを結    合せしものか)字は混声、俗称善次郎、一時里介と改む、渓斎・涇斎・无名翁・国春楼・北亭(或は北    花亭)・淫斎白水(春画号)・一筆庵可候(戯作名)・楓川市隠等の数号あり。    彼の自伝(『続浮世絵類考』所載)及び其他を參考するに、彼は江戸星ヶ岡に生れ、父は池田茂晴とい    ひ、猨山不言斎の門人にて書を能くし、また独書俳諧を好み、茶湯の嗜みありて不白などの友なりし由、    母は彼が六歳の時に他界し、やがて文化の初めには父及継母の喪にあひ、こゝに自ら幼妹三人を養育す    る身とはなれり、彼は幼年の頃狩野白珪斎の門に入りて画を学び、稍長じて青雲の志を懐きて仕官せし    が、偶ま讒に遭ひて浪人となり、志を転じて画を以て世に立たむことを欲し、英山の父菊川英二が家に    寄寓して、初めて浮世絵を画くに至りき、又一時は、狂言作者篠田金治(二代目並木五瓶)の門人とな    りて千代田才市と称せしこともあり、或は土佐派に就て学ぶ所もありしと云ふ。    彼が英泉といへる画名は、凡そ文化六年頃より用ゐしものゝ如く、当初の作品には「菊川英泉筆」とし    たる例あり、また文化五年頃の洒落本二三種の挿画に「渓斎小泉」と落款せるものは、恐らく彼が前名    或は臨時名と解し得べきが如し。彼は、錦絵及草双紙の挿画などを画きつゝ、其の間淫斎白水の号を以    て数多の春画を描き頗る妖艶の趣を恣にせしものあり、又一筆庵可候と号して戯作数種を著せり。    中年以後、彼の行状は甚だ奔放不覊なりしが如く、鯨飲暴食の状伝へて諸書にあり、曾て、天保の初め    頃には若竹屋理助と称して、根津の遊廓に娼楼を営みし由、其処は類焼の厄にあひしかば、一時根岸時    雨岡に仮寓し、幾ばくもなくして下谷池の端に移りき、それより前に宗十郎町、更に遡つては番町に住    みしこともありしと云ふ、転居数度に及びしが、晩年には坂本町二丁目即ち茅場町俗称植木店(天保十    三年版『廣益諸家人名録』二編所載)に住し、其処にて身を終りしなり。    彼の美人画に於ける実感の豊かなるは、正に非凡の名手たりし事を証するに余りあり、其の一面に、宋    明の古画を好み、且つ先輩北斎に私淑する所ありしと云ひ、又かの藍摺絵(濃淡数度摺)を創案せしと    いふ事など、苦心の跡を察すべき点多し、殊に彼の自伝にも「青楼遊女の姿を写すに委く、其家々の風    俗裲姿を画くに役者の狂言振に似せず、時世の形体を新たに画きしは此人に起れり」と云へるは、蓋し    特筆に値すべき所ならむか。彼が研究的態度を示せしものは、単に作画上のみに止まらず、天保四年に    撰みし『无名翁隨筆』(一名『続浮世絵類考』)、天保〈一字分空白〉年版の『革〈穴冠+充〉図考』、弘    化二年版の『楓川鎧之渡古跡考』などを見ても、頗る考証に熱心なりしことを知るに足るべし。    彼が美人画の佳作は甚だ多し、而して尚ほ風景画に傑作と認むべき若干図あり、例へば「月夜の山水」    (大錦二枚つぎ掛物絵)、「雪中の山水」(同上)、阿蘭陀文字枠江戸名所数図(大横)、略筆雪中風    景(藍摺横画)、「江戸八景」(大判横画)、「東都名所」の数図(同上)、「木曾街道六十九次」    (内二十四図)中の日本橋(曙雪)・蕨(渡場)・深谷(夜景)・板鼻(雪景)・沓掛(風雨)・野尻    (渓流)・河渡(鵜飼)等の如きそれなり。(口絵第六十二図參照)以上は天保年間の作に属す。    彼が忌辰及び年齢に就いては三説あり、一は嘉水元年七月二十二日歿、五十九歳(写本『戯作者小伝』)、    二は同年八月十六日歿、五十七歳(『浮世絵師系伝』)、三は同年同月二十六日歿、五十九歳(『浮世    画百家伝』)、往年斎藤荘逸楼氏は彼が菩提所に就きて過去帳閲覽の結果を発表(雑誌酒井版『浮世絵』    第一号所載)されしが、即ち第一の説と符合せるを以て今それに従ふことゝせり。墓所は四谷箪笥町    (或は伊賀町)、縮寿院(禪宗)なるが、往年其の寺と共に府下杉並町字高円寺といふ所に移されたり。    因に、最近に於ける英泉研究の発表は、小島鳥水氏の「渓斎英泉伝校註」(雑誌『浮世絵志』二、十一、    十二号)あり、本稿亦これを參考して頗る便益を受けたり。     英泉の姿絵    茲に提げた渓斎英泉の姿は、一勇斎国芳の筆に成る墨摺絵本『大日本畸人画像風俗高名略伝』の最終丁    に、一陽斎豊国と国芳自身の後姿と共に画かれて居るものである。該書は半紙判二册物で、吾が邦にて    古来有名なる勇士美女画家俳人など一道一芸に秀でたるもの総べて百七十人の姿を描いたもので、毎丁    の組合せは年代順でなく美女と法体と勇士とを巧みに配するといふ調子で、一々の人物に就いて深く考    証したのでもないから実際とは相違して居らうが大体の形は可なり面白く描かれて居る。比の絵も英泉    の酒に親しむ樣を巧に描いてある。そして毎画面に出てゐる人物の事蹟を簡単に書き列ねた文句を添え    てある。花笠文京の序文があつて書名を『勇美畸人物』と記してゐる〟     ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「文化一三年 丙子」(1816)p189   〝此年、渓斎英泉処女作『桜曇春朧夜』出版〟    〈この合巻は英泉の自画作〉     ◇「文化一四年 丁丑」(1817)p190   〝正月、渓斎英泉の画ける『俳諧百人一句集』出版〟
  ◇「文政九年 丙戌」(1826)p202   〝前年文政八年より冬にかけて疱瘡流行せしかば、渓斎英泉の画ける『疱瘡軽口ばなし後編子宝山』(軽    口ばなしは享和三年の出版にて貞之の画なり)といへる紅摺の絵草紙出版せり、世に疱瘡絵と称するも    のこれなり〟
  ◇「文政一一年 戊子」(1828)p205   〝正月、渓斎英泉の画ける『画本錦之囊』『絵本勇見袋』出版〟
  ◇「文政一二年 己丑」(1827)p207   〝四月、大石真虎・歌芳(ママ)・英泉等の画ける『神事行燈』三編〟    〈『神事行燈』の画工「歌芳」は二編を担当した歌川国芳〉     ◇「天保四年 癸巳」(1833)p211   〝此年、渓斎英泉、『無名翁随筆』一名『続浮世絵類考』を著せり〟
  ◇「弘化二年 乙巳」(1845)p224   〝正月、国直・英泉等の画ける『名誉三十六佳撰』出版〟
  「弘化四年 丁未」(1847)   ◇〝四月、渓斎英泉の画ける『神事行燈』五編出版〟
  ◇「嘉永三年 甲戌」(1850)p228   〝正月、渓斎英泉と一立斎広重の画ける『名所発句集』出版〟
  ◇「安政元年(十二月五日改元)甲寅」(1854)p233   〝正月、渓斎英泉の画ける『英雄画史』出版〟     △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「杉並区」福寿院(高円寺三ノ三一二)曹洞宗(旧四谷箪笥町)   〝池田英泉(画家)名義信、通称善次郎、渓斎と号す。菊川英山門人に入り、最も遊女を描くことを得意    とせり。また戯作を好み一筆庵可候と号し、桃花流水、昔語忠義智達磨、花街寄恋白浪等の作あり。嘉    永元年七月二十二日歿。年五十七。渓斎英泉居士。     辞世 色とれる五色の雲に法の道こゝろにかゝるくまどりもなし        かぎりある命なりせば、惜しからで唯かなしきは別れなりけり〟     〈『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」は享年を五十八歳とする〉    △『増訂浮世絵』p245(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝渓斎英泉    文化の半ばから、嘉永の初めに亘る、四十余年の長い間、製作に従事したのが、渓斎英泉である。版画、    肉筆絵共に、その作例が多数遺存して居る。    英泉は、寛政二年、江戸に生れた。氏は池田、名は義信、字は泥声、通称を善次郎といふた。幼時、狩    野白珪斎に就いて画技を学び、後に浮世絵に志して、渓斎、無名翁、国春楼、北花亭と号した。一筆庵    可候と号して製作を試みた。北斎と同じく、屡々転居する癖あり、又奇行ある人であつた。広重と合作    の木曾街道六十九駅の図では、その内二十三を画きて、風景画の伎倆を示してゐる。挿図にしたのは、    その一例で、岐阻路駅河渡長柄川鵜飼の図は有名なものであり、広重の風景画ともその特色を異にする    所がある。竪二枚継の雪景山水は山水絵として頗る面白い作品である。また月下橋上図なども名高い。    英泉は錦絵、草双紙の挿絵を勿論、行燈絵や紙鳶絵などをも画き、非常に労作してゐる。    一時、放埒に身を持ち崩し、或は戯作者となり、或は狂言作者となり、根津にて娼家を経営してゐた頃    は、放逸にて私印盗用の事にて罪に問はれやうとした位であつたが、日本橋坂本町に移つてからは素行    一変して、地名に因み楓川市隠と号して閑かに一生を送つた。嘉永元年七月二十二日、享年五十九にて    没した。四谷福寿院に葬つたが、今では、その寺が杉並区高円寺に移転したので、そこに墓石が移され    てゐる。    英泉はもと英山の父の英二の家に居た。文化八年二十二歳の時、楠里亭其楽作の読本忠孝二見浦の挿絵    を画いたのが始めであるといはれて居る。英泉の美人画は、草双紙の挿絵や、作例の沢山ある竪二枚継    掛物型の作で判る通り、一種の硬い感じがあり、皆時の典型に捕はれたものではあるが、一方には自ら    の特色があつて、芸術的に観るべき点が無いでもない。    英泉は文章の才があつたので、浮世絵類考を増補して、無名翁随筆といふものを作つた。参考となる所    が多い。また英泉の筆には、絵本小説の挿絵を画いたものが頗る多く存在する。文政天保の間を盛時と    して居る。    英泉の門人    門人は多いが、英一、泉晁、英得などが名を得た。英一は静斎と号す。英泉門中では優れて居る。泉晁    は貞斎又は青蔦亭称し、英得は一陽軒といふた。その外のものでは英寿、小泉、英春、英之、泉寿、泉    橘、泉隣、泉里、文斎、英松、英暁などがあるといふけれども、技術は拙い〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔渓斎英泉画版本〕    作品数:374点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:池田・義信・善次郎・英泉・渓斎・渓斎英泉・渓斎小泉・渓斎義信・渓斎善次郎        渓斎主人英泉・池田英泉・池田義信・池田善次郎・一筆庵・一筆庵英泉・一筆庵主人        一筆庵可候・一筆庵漁翁・白水・白水漁人・白水山人・渓斎白水・楓川市隠・淫斎        淫斎義信・淫乱斎・淫斎白水・淫乱斎白水・淫斎主人白水・淫斎主人英泉・渓淫乱斎    分 類:合巻84・人情本63・艶本56・読本32・絵本25・滑稽本23・絵画12        往来物12・洒落本9・狂歌9・教訓8・遊戯7・咄本6・俳諧6・地誌4・和歌3        雑俳2・歌謡(都々逸)2・黄表紙1・伝記1・評判記1・実録1・風俗1    成立年:寛政4・10年  (2点)        享和3年     (1点)        文化6・9~14年(15点) (文化年間合計16点)        文政1~12年  (151点)(文政年間合計154点)        天保1~14年  (80点) (天保年間合計88点)        弘化1~4年   (40点)        嘉永1~3・5年 (24点) (嘉永年間合計25点)        安政6年     (4点)  (安政年間合計5点)    〈寛政の英泉画作品は不審。享和三年は一九作の黄表紙『子宝山』だが、英泉は十二歳であり、これも不審である〉     (一筆庵英泉名の作品)    作品数:8    画号他:一筆庵英泉    分 類:合巻3・遊戯(謎々)2・往来物1・滑稽本1・歌謡1    成立年:文政10・12年(2点)        天保8年    (1点)        弘化3・4・5年(4点)        嘉永2年    (1点)    〈合巻『児雷也豪傑譚』の六編(弘化三年(1846)刊)から十一編(嘉永二年(1849)刊)まで自作自画。また、弘化二     年刊の往来物『幼稚絵解古状揃』では一筆庵漁翁名で編集している〉   (一筆庵主人名の作品)    作品数:14    画号他:一筆庵主人    分 類:滑稽本6・合巻2・人情本2・読本1・教訓1・遊戯1・実録1    成立年:文化頃      (1点)        文政3~4・6~7(2点)        天保5・15   (2点)(天保年間合計3点)        弘化2~5年   (6点)        嘉永1~2    〈滑稽本『善悪道中記』の初編(天保十五年(1844))から四編(嘉永二年(1849))まで、一筆庵主人名で自作自画。     但し作画は初編と二編。また、滑稽本『魂胆夢輔譚』も、弘化二年(1845)から嘉永元()年まで全五編、やはり一筆     庵主人名での自作自画。それ以外の四点もすべて自作。そのうち三点は合巻二点と滑稽本一点であるが、画工は歌川     国貞(三代豊国)が担当している。のこりの一筆庵主人名作品一つは『義士銘々伝』という実録。いずれにせよ、一     筆庵主人の署名は著作に対して使われたものでものであろう〉   (一筆庵可候名の作品)    作品数:7    画号他:一筆庵可候    分 類:合巻5・艶本1・咄本1    成立年:文政4年  (2点)        弘化4~5年(2点)        嘉永2~3 (3点)    〈一筆庵可候名の作品は一筆庵主人名の作品同様専ら著作名として使われた。七点のうち自作自画が三点。著作のみ三     点、画工はすべて三代豊国。なお、艶本は一筆庵可候?となっている〉    (渓斎主人英泉名の作品)    作品数:1    画号他:渓斎主人英泉    分 類:合巻1    成立年:文政8年    〈『蘆仮寐物語』合巻・南仙笑楚満人二世作・渓斎主人英泉画・文政八年(1825)刊〉   (池田善次郎名の作品)    作品数:4    画号他:池田善次郎    分 類:往来物4    成立年:天保14年(3点)    〈四点のうち二点に池田善次郎名で作画している〉   (渓斎善次郎の作品)    作品数:1    画号他:渓斎善次郎    分 類:往来物1    成立年:弘化2年    〈『庭訓往来講釈』往来物・渓斎善次郎・弘化二年(1845)刊〉   (池田英泉名の作品)    作品数:20    画号他:池田英泉    分 類:往来物3・絵画3・読本2・合巻2・絵本2・艶本1・教訓1・園芸1・滑稽本1・        人情本1・咄本1・俳諧1・川柳1    成立年:文政11年       (1点)        天保3・7・14~15年(6点)        弘化3~4年      (3点)        嘉永1・3年      (3点)   (渓斎義信名の作品)    作品数:1    画号他:渓斎義信    分 類:絵画    成立年:記載なし    〈「渓斎浮世絵画譜」絵画・渓斎義信〉   (渓淫乱斎名の作品)    作品数:1    画号他:渓淫乱斎    分 類:艶本    成立年:文化11年頃   (淫乱斎名の作品)    作品数:9    画号他:淫乱斎6・淫乱斎白水2・渓淫乱斎1    分 類:艶本    成立年:文化11頃~12年(3点)        文政初年・9   (2点)   (白水名の作品)    作品数:15    画号他:白水2・白水漁人1・渓斎白水2・淫斎白水5・淫斎主人白水2・淫乱斎白水2・        白水山人1    分 類:艶本13・洒落本1・人情本1    成立年:文政1・5~7・9年(4点)        天保3・9年    (2点)        嘉永1年      (1点)(嘉永年間合計2点)        元治1年      (1点)    〈自作自画二点。作画のみ七点。戯作のみ五点。画工は豊国三代三点、麿丸(歌川国麿)・一ぼゝ斎愚にちか(豊原国     周)それぞれ一点〉     (池田義信名の作品)    作品数:5    画号他:池田義信    分 類:絵画1・武具1・教訓1・辞書1    成立年:天保4・14序~15年(3点)        弘化2年       (2点)    〈絵画とあるのは『浮世絵類考(無名翁随筆)』。いずれも著作で池田義信名の作画はないようだ〉   (楓川市隠名の作品)    作品数:4    画号他:楓川市隠    分 類:教訓1・往来物1・占卜1・絵画1    成立年:弘化2~3・5年(4点)    〈弘化五年刊の『紋切形』は「楓川市隠著・渓斎英泉画」とあるので楓川市隠は著作名であろう〉    ◯「渓斎英泉作品略目録」〈ネット上で公開されているので紹介しておきたい〉
    「渓斎英泉(1791-1848)作品略目録」     (「酔雲の資料部屋 渓斎英泉作品略目録」)
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