Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ ぶんちょう たに 谷 文晁浮世絵師名一覧
〔宝暦13年(1763)9月9日 ~ 天保11年(1840)12月14日・78歳〕
 ☆ 寛政四年(1792)    ◯「識語集」〔南畝〕⑲710(寛政四年一月十七日明記)  〝「二水七画画巻」  (巻首)近世所謂書画会従此始也。文化庚午孟夏 遠桜山人。   (巻末)右柳橋万屋宴集、画人席上所題、集以為巻。時寛政四年壬子春正月十七日也。杏花園〟    〈巻首は文化庚午七年四月の書入れ。料亭での書画会の始りは、寛政四年正月十七日、谷文晁の柳橋万屋の書画会だと     南畝は言う〉     ◯『壬子東下霞害掌録』〔百花苑〕④76(頼春水記・寛政四年)   (頼春水、江戸滞在中の記事)   〝谷文五郎一家風流、其父ハ麓谷ト云詩人、ソノ妻林氏其妹舜媖ミナ畫ヲヨクス。ソノ書画楼ヲ写山楼ト    云。近来白川侯手書シ玉ヘリ〟    ☆ 寛政年間(1789~1800)    ◯『増訂武江年表』2p18(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「寛政年間記事」)   〝画家 高嵩谷、谷文晁、董九如、長谷川雪嶺、鈴木芙蓉、森蘭斎〟    ☆ 享和二年(1802)    ◯『霞関掌録 一』〔百花苑〕④188(頼春水記・享和二年)   (頼春水、江戸滞在中、十月十五日記事)   〝倉成ガ米沢ノ五色洞ニ得タル盆石ヲ栗山先生ノ後赤壁ノ宴集ニ携至リシヲ、直ニ奪ヒ取テ盆ニカザリ、    小赤壁ト名テ衆客ト愛玩シテ楽シメルコト甚シ。主人ノ意高爽明潔仰グベク愛スベシ。善卿ハ憮然タル    ニ似タリ。主人コレヲ文晁ニ命ジテ其石ノ髣髴ヲ写サセ、且七言長篇ヲ賦シテ贈レリ。其詩傑作ト云ベ    シ。白川侯マタ文晁ニ命ジテ鶴ト月ト画キ、ソノ間ニ月白風清ノ四字ヲ隷書シテ旭峯題ストシテ栗山翁    ニ玉ハリシモノニヤ、善卿ガ家ニアリ〟    〈「倉成」は中津藩教授、倉成子成(字善卿)。「栗山」は儒官・柴野栗山。「白川侯」は松平定信。「後赤壁」とは、     蘇東坡の「後赤壁賦」に擬した船遊びで、七月十六日の「赤壁遊」を受けて行われた〉    ◯『霞関掌録 二』〔百花苑〕(頼春水記・享和二~三年)   ◇(頼春水、江戸滞在中、享和二年暮の記事か)④190   〝山崎闇齋画像白川侯ニアリシヲ谷文晁摹セリ〟    ◇(頼春水、江戸滞在中、享和二年暮の記事か)④198   〝尾張家ノ外山ノ荘ハその広大ヲ極メラレタルモノナリ。谷文晁ヲ召シテ、五月ヨリ十月ニ至リ其図ヤヽ    ナルト云フ。栗山先生ソノ跋アリ。其粉本ヲカリ吾公庫ニ一副本ヲ写シ得ラレタリ〟     ☆ 文化元年(享和四年・1804)     ◯「絵本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇絵本(文化元年刊)    谷文晁画『名山図譜』三冊 谷文晁画 河村元善編 西村宗七板〔目録DB〕   ◯『南畝集 十四』〔南畝〕④311(文化一年三月二〇日賦)(漢詩番号2710)  〝暮春廿日谷文晁約諸友展観古画于南泉寺 南泉精舎借簷楹 詩自無声画有声 乍見雲煙眼前起 還聞百鳥耳辺鳴〟    〈日暮里の南泉寺においてどのような古画を鑑賞したのか記述は見当たらない。また「諸友」も未詳〉    ☆ 文化二年(1805)    ◯『南畝集 十五』〔南畝〕④392(文化二年七月下旬賦)(漢詩番号2706~7)  〝和清人銭徳位吉題谷文晁二画韻  安座罷牛背 飄風何律々 村笛雑樵歌 如従金石出  右牧童  半日芦中客 長江雨後天 得魚還買酒 帰去楽天然  右漁夫〟    〈南畝の長崎赴任中(文化一、二年)、来日中の清人のうちもっとも親しく交遊したのは、医師胡兆新と船頭・張秋琴     とこの銭位吉であった。長崎まで持参した文晁画に銭位吉の詩を請うて、それに南畝が和したのである。銭位吉の詩     は分からない。また揮毫したかどうかも分からないが、参考までに取り上げた〉    ☆ 文化五年(1808)   ◯『一話一言 巻二十八』〔南畝〕⑭59(文化五年五月二十七日明記)     〈小石川百間長屋前、幕臣青木久右衛門宅に南畝、文晁、飯田茗陽と古書画を見る。董其昌、探幽等あり。これは五月七    日に続いての鑑賞。この両日に見た古書画の詳細は『一話一言 巻二十九』⑭一二七に所収の「青木氏所蔵書画目」に    あり〉    ☆ 文化七年(1810)    ◯『滝沢家訪問往来人名録』上p52(曲亭馬琴記・文化七年一月十二日)   〝(庚午(文化七年)春処々発会覚 ◯印ハ出席)◯正月十二日 居宅 文晁    〈下谷の文晁宅で行われた発会。馬琴は出席〉    ◯『南畝集 十七』〔南畝〕⑤173(文化七年九月上旬賦)(漢詩番号3403)  〝河世寧寛斎集 同天民五山谷文晁賦  怪石疎松不受塵 小山書屋宴嘉賓 酔郷何憾封侯晩 盤有嘉魚席有珍〟    〈市河寛斎宅の詩会。寛斎の主宰した江湖詩社から輩出した大窪天民と菊池五山、そして文晁と南畝の賦〉    ☆ 文化八年(1811)    ◯「年譜」〔南畝〕⑳268(文化八年?)  〝此の年、文晁に寿像を描かるか〟   (出典は東京国立博物館蔵「名家肖像図巻」)    〈ただしそれには〝文化五壬午六十三年寿像〟とある由。これだと文化五年は戊辰だから干支が合わない。「全集」の     年譜は南畝の年令に信をおき、文化八年の作としたようだ〉    ☆ 文化九年(1812)    ◯「書簡 192」〔南畝〕⑲253(文化九年五月五日付)   (壺天楼主人宛書簡)   〝今夕は文晁子初幟によばれ〈云々〉〟    〈初節句に呼ばれるというのは相当親密な仲といってよいのであろう。おそらく言祝ぎの狂歌くらいは詠んでいそうな     ものである〉    ☆ 文化十年(1813)    ◯『一話一言 巻四九」〔南畝〕⑮292(文化十年四月二十七日明記)  (南畝所蔵の「南朝賸粉図」について、文晁が行った考証を写す。考証、略)   〝南朝賸粉図一幅、崎陽春孫二郎所恵蔵于家    右写山楼谷文晁所考也     文化癸酉孟夏念七甲子写于緇林楼中 杏花園〟    〈文晁の考証によると、この絵は明末南京の名妓・李香の肖像画の由。南畝は長崎在住の会所役人・春孫二郎という人     からこの絵を贈られたのである。緇林楼・杏花園は南畝の住居名と別号〉    ◯『南畝集 十八』〔南畝〕⑤296(文化十年十月頃賦)  〝題写山楼主人図  曾為筑石行 有嶺字寒水 今見写山図 覚世彼山似〟    〈文化二年十月十四日、長崎からの帰路、南畝は筑前の「寒水嶺(冷水峠)」を越えた。文化十年の今、その景色が文     晁画から彷彿として蘇ってくると言うのだ。やはり文晁の山水画は胸中の山水ではなくて、写実的な山水なのである〉    ☆ 文化十一年(1814)    ◯『南畝集 十八』〔南畝〕⑤310(文化十一年二月賦)(漢詩番号3877)  〝東叡山看花邂逅谷文晁諸子  放衙偸得片時閑 独往看花東叡山 山上偶逢同好士 有樽可酌有荊班〟    〈役所を退出して独り上野の花見に行くと、文晁の一行とばったり。次いで飲に及んだ〉    ◯『武江扁額集』(斎藤月岑編・文久二年(1862)自序)   ◇文化十一年(1814)三月奉納   (画題記さず。絵柄は犬二匹)    落款 〝抱一揮真筆〔印章「文詮」〕〟       〝文化十一年甲戌三月吉祥日 願主 八百屋善四郎〟    識語 「西新井大師堂額 横壹間余 嘉永五年縮図」    〈蜀山人、文化十二年三月の詠に〝詩は五山役者は杜若傾はかの芸者はおかつ料理八百善〟という狂歌がある。当時全     盛を誇ったものを詠み込んだものだが、この八百善の主人がこの扁額の願主。山谷の料亭。本HP「浮世絵事典」の     「流行」及び「八百善」を参照のこと。狂歌は『大田南畝全集』第十九巻「書簡」p279〉
    『武江扁額集』(犬二匹)抱一筆     (国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」)    ☆ 文化十二年(1815)    ◯『七々集』〔南畝〕②279 (文化十二年十一月二十一日明記)      〈狂文『後水鳥記』より。この日千住にて酒戦あり。酒井抱一・亀田鵬斎・文晁・南畝等、どういう縁で結ばれたものか    立会人となった。ひたすら呑んで酒量を競うというこの実にたわいもない無駄に、江戸を代表する錚々たる文人が参加    したのだ。無駄とはいえ賭けるエネルギーは相当なものである。ところでこの酒戦には先蹤があった。慶安二年(1649)、    川崎の池上太郎左衛門底深と地黄坊樽次との酒戦がそれで、様子は『水鳥記』に記されている。千住の酒戦記を「後水    鳥記」としたのはそれに倣ったからである。なお蛇足を言えば、「水鳥」とは〝水の酉〟つまり酒のことだ〉    ◯『骨董集 上編下之巻』〔大成Ⅰ〕(山東京伝著・文化十二年十二月刊)   (「古制雛図」の項)   〝古製雛又一種 写山楼所蔵”    ◯『巴人集 拾遺』〔南畝〕②491(文化十二年頃?賦)  〝写山楼の祝に  鶴亀期千寿 亀齢約万秋 蓬瀛与方丈 併属写山楼〟    ☆ 文化十三年(1816)    ◯『芦荻集』〔江戸狂歌・第十巻〕紀真顔著・文化十三年(1816)刊   (紀真顔詠)   〝谷文兆(ママ)子のかける毬栗の画に      谷の戸の名高き枝のいが栗はゑみぬる殻に人このみけり〟         ◯『松屋棟梁集』〔大成Ⅰ〕③178(高田与清著・文化十三年序・跋)   「富士」の名義に関する考証 (模写あり)   〝古き扇の画に書たる鎌倉の頼朝大将軍、富士野狩の図 文晁うつす〟   〝其二 富士野仮屋の図 文晁写 幸若舞の草子、夜討曽我の段を考合すべし〟    ◯『丙子掌記』〔南畝〕⑨596(文化十三年九月三日明記)  〝白川老侯、白川へ湯治にゆき給ひし比、谷文晁、木犀一本を鉢植して奉りければ(九月三日御発途ト云)  月かげをうつす桂の一枝は名だたる山の玉とこそみれ 楽翁〟    〈文晁と松平定信との交渉を示す一断片である〉    ☆ 文化十四年(1817)    ◯『紅梅集』〔南畝〕 ②315(文化十四年十一月詠)  〝沢村源平が名を源之助と改るを祝して、文晁の寒菊の画にかきて贈る  寒菊の花のかほみせ霜月の春まつ曽我の源之介成〟    〈南畝の手許にはいつも文晁画があったのであろうか〉    ☆ 文化年間(1804~1817)    ◯「書簡」⑳62〔南畝〕(文化年間 九月十八日付)   〝秋冷罷成候へども弥御清福被成御座珍重奉存候。然ば柳橋星池子、此度二階新居出来一会いたし候に付、    来廿九日、小連にて一会いたし候由、私より此段御序申上くれ候様被相頼候間申上候。御繁多に候はゞ    御子息様にも御出まち入候。私にも参申候。尤廿八被は大会いたし候由、廿九日之方は文晁其外小連之    由申候。早々     以上        九月十八日認置      筆丹様      蜀山人〟    〈宛名の「筆丹様」は未詳。九月二十九日に行われる書家・秦星池の二階新築祝の案内。南畝、文晁も参加の由〉    ◯『増訂武江年表』2p57(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文化年間記事」)   〝画 狩野伊川院法印、同晴川院法印、同素川彰信、抱一君、谷文晁、同文一、依田竹谷、英一珪、長谷    川雪旦、鈴木南嶺、大岡雲峯、春木南湖。     筠庭云ふ、竹谷などを出して雨潭を出さず。其の外も猶あり〟    ☆ 文政元年(文化十五年・1818)    ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   (「下谷」相印「画家」)   〝文晁  名文晁 字文晁(又号)写山楼  二丁目     谷文五郎〟        麓谷子 画学斎    ◯『南畝集 二十』〔南畝〕⑤443(文化十五年一月下旬)(漢詩番号4333)  〝田安府の中村子寅、歴代名公画譜を恵む。云ふ、是れ其の君の賜なりと     歴代名公各擅場 千秋画手有余光 密分恩賜佳公子 七十侯生仰大梁〟    〈『国書総目録』によれば、文晁の「歴代名公画譜」は明・顧画黯の編を模写したもので、寛政十年の成立とある。詩     題によると当初は田安家の所蔵だったらしい。それが家臣の中村子寅に下賜され、そして密かに南畝へ贈られたよう     である。詩は南畝を「七十侯生」に、また田安家を「大梁」に擬したのだろう。ただし南畝の蔵書目録にはない。中     村子寅(荷堂)は田安家の儒臣で『東京掃苔録』には文政四年、四十二才没とある。南畝とは享和の頃から交遊があ     る。北斎が護国寺にて大達磨像を画いた様子を南畝に伝えたのはこの人である。北斎の項参照〉    ◯「年譜」〔南畝〕⑳303(文化十五年一月二十五日)  〝擁書楼発会。文晁・北馬・鶴陵・岸本由豆流・京山・山崎美成等と会す〟    〈「年譜」は高田与清の「擁書楼日記」よりとった。擁書楼は蔵書家・高田与清の書庫のこと。この会には考証学の学     者および愛好者がたくさん集まっていたようである。南畝・屋代弘賢・菊池五山・岸本由豆流・谷文晁・京伝・京山・     山崎美成等の名が見える。もっともこの日の会合に京伝はいない。既に故人となっていた〉    ☆ 文政二年(1819)    ◯『紅梅集』〔南畝〕②362(文政二年三月下旬)    〝助六狂言ありし時、文晁の画る桜の扇に  花の雲鐘は上野か浅草の風情なりけるけしきなりけり〟    ◯『紅梅集』〔南畝〕②386(文政二年十月二十二日)  〝文政三年庚辰大小をしる句  二八そば極ひきさげて十五文 小月  此年、市令より市中に令して、よろづの直段を下よといへる事によりてなるべし。己卯の小春廿二日の    夜、写山楼主人の話也〟    〈月の大小を示す句にも、世知辛く世相は反映するらしい〉   ◯『半日閑話 次五』〔南畝〕⑱204(文政二年十月記)  (杉本茂十郎旧宅、恵比寿庵所蔵書画、一蝶の項参照)  〝十畳 福禄寿の間 文晁筆       襖は皆芭蕉布張。銀雲スナゴ 秋野に鹿〟    ◯『著作堂雑記』219/275(曲亭馬琴・文政二年(1819)記)   〝狂題文晁画達磨    浙江のあしのひと葉は、水なぶりの章にもしられ、葱嶺の履かた/\は、草履かくしの鬼をも度すべし、    面壁の春永くして、九年母の尻くされ、伝灯の光あきらかにして、廿八祖は頭とおばる、吁是教化別伝    の大禅機、何ぞ起あがれ小法師といはんや〟    〈この記事は前後の年次から文政二年(1819)のものと推定される〉    ◯『妙々奇談』〔大成Ⅲ〕⑪373(周滑平先生著・文政二年成立)   (「紫石写三を糺す」の項)   〝(編者注、宋紫石)書画相撲番付といふものを一枚得て是を見るに、大関写三、谷聞(文)五郎、字文趙、    麓穀聞十郎(麓谷文十郎)が子、画家下谷と記しあるを見て、さらば此人を糺し吟味せんと、或日下谷に    至り写三楼を訪ひける。聞五郎幸ひ在宿にて、一間に通し、何方より御出と尋ければ、不佞はかねて御    存及ばれたる宋紫石にて候といふを聞て、聞五郎威儀を改め、坐を下りて、これは/\思ひも寄らざる    御来臨、いか成ことにて候哉。紫石曰、されば別儀にあらず。近来大雅堂諸葛、その外異様の画を書し    唐画と名付し事、唐宋の古人不審いたされ、我と南蘋二人よりその風起りたりとの疑黙止がたく、此地    へ来り唐画の名目を相糺さんとの事也。抑唐画と名付られしは、いか成訳にて候やと言れて、聞五郎、    されば我国の画と申は、雪州家、狩野家、土佐家、是を国画と申、又日本画と称して朝鮮へも遣はさる    事也。この三家に似せず画き候を、日本ならぬ故、是を唐を申候也と答ふ。紫石曰、左もあるべし。然    らば全く唐宋の方を伝へ学びて、唐と申儀にてはなく候哉。文五郎、その儀はと云んとするを押へて、    イヤ言訳は承るまじ、いかにとなれば、唐宋の古人及び我等に至るまで、皆精神を主とすれども必ず法を    略する事なく、尤も写意に至て自然に格をはなれて格を出ず。且つ又謝礼の多少に依てなぐり書をする    事なし。然るに其元達の画の如き、その大概をいはゞ、人物の手足は擂木の如く、衣帯は綴れの如く、    山水は焼山に似たり。水辺は地獄の如く、水鳥を画せ申せば首足長短揃はず、口嘴各違いあるを知らず。    樹に集る鳥は飴細工のごとく、草花は花と葉とつり合ず。大なるべきは小く、小なるべきは却て大きく、    只不二を画く事は自身写三と名乗るほどありて先よし。併しこの景は我等のしらざる物にして、此国の    名物なれば、さして論ずるに及ばず。それもたま/\あしらひあれば、松は丁字頭の如く、鶴は燈心細    工に似たり。衣冠高位の国人を画せば、下襲足らずして法に叶はず。斯の如き自放不埒の画法、我唐国    には曾てなしと、まくしかけて言立られ、聞五郎(文晁)暫く口を閉て心におもふは、扨は金銭の礼も    取れず、壱樽一種位の事にて頼まれ、心ならずなぐり書にしたるを、先生(紫石)に見られしならんと、    羞悪の心四体にみち、頭をたれて赤面す〟    〈これは、宋紫石が文晁画を評して、富嶽の絵はさておき、それ以外は「自放不埒の画法」と糾弾した文である。『妙     々奇談』は非をあげつらって難詰すること自体が目的の戯文であるから、信を置くわけにはいかないが、文晁にこの     ような評価を下す向きのあったことは窺えよう。「蛆蠅奇詩を作る」の項には〝谷聞五郎儀悪画を以て人を迷はし、     金貪り候段不届に付、古屏風に張付申付るもの也〟ともある〉    ☆ 文政三年(1820)    ◯「絵入狂歌本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇狂歌(文政三年刊)    谷文晁『あさくさくさ』一冊 文晁 鈴木南嶺 玉渓 春華 蹄斎画 万歳逢義編〔目録DB画像〕        ◯『戯作六家撰』〔燕石〕②69(岩本活東子編・安政三年成立)   (「式亭三馬」の項、文政三年三月明記)   〝(鳥文斎栄之の書画会にて)狂歌堂真顔翁、傍におはしけるが、我も流行に     はおくれじとて文晁翁が蝶のかた画たる扇に  真顔     今はやる人のかきたる絵扇は蝶々静に腰へさしこめ〟    〈真顔の狂歌賛は当時流行した「てふ/\しづかにさしこめ」という囃子を踏まえたもの〉    ☆ 文政四年(1821)    ◯『あやめ草』〔南畝〕②85-6(文政四年六月中旬詠)  〝文晁のかける鬼箭のゑに  一筋に思ふ心は目にみへぬ鬼の箭ながらたつる錦木〟  〝文晁の画がけるかんかんおどり  かんかんの踊をみても本つめのむかしの人の名こそわすれね 文晁の故妻幹々といふ、唐画をよくせり〟    〈「かんかん踊り」は文政四年の春より流行の唐人踊り。翌年春には禁止される。なお文晁の妻・幹々の唐画に寄せた     南畝の題・賛の類は見当たらない〉    ◯『南畝集 二十」〔南畝〕⑤823(文政四年八月下旬賦)(漢詩番号4614)  〝題谷文晁山水画  曾伝院画風 後入南蘋局 酔墨淋漓中 時々見本色〟    〈文晁は清の南蘋派に学んだが、山水画だと宋の院画風が現れると南畝は見ているようだ〉    ◯『南畝集 二十』〔南畝〕⑤524(文政四年九月上旬賦)(漢詩番号4618)  〝題谷文晁画山水  数間茅屋両三松 雖有柴門不見蹤 金殿玉楼何足羨 南窓寄傲膝堪容〟    ◯『懐寶日礼 十四』〔百花苑〕③279(小宮山楓軒記・文政四年)   〝友部正介曰、鵬齋義士ノ碑ヲ銘セルハ、其人ヲ慕ヒテノコトニアラズ。初メ、鵬齋、多紀安長ノ碑ニ銘    セルニ、コレヲ摺シテ売ルモノアリテ、利ヲ得タリ。サレド、官醫ノ墳ナレバ、コレヲ摺ルコト頗ル難    シ。故ニ泉岳寺ノ僧ニ談ジテ、義士ノ碑ヲ建テ、コレヲ搨シテ売ランコトヲ謀リシナリ。然ルニ、其碑    鵬齋ノ宅ニテ刻成リシ時、門人等多クコレヲ搨シテ知己ニ與ヘシユヘニ、殆ド江戸ニ遍クナリテ、摺売    ヲ謀リシモノ、利ヲ得ルコトアタハズ。彼是ト云コトアリシユヘニ、鵬齋怒リテ、其碑ヲ砕カント云ヘ    ルヲ、文晁聞テ、其碑ヲ請受テ、品川ノ海ニ投ズ。サレド潮涸ルゝトキハ、碑アラハル。殆ド瘞鶴ノ銘    ノ如シト、潮来村尚一郎来リ話セリ〟   ◯『杏園集』〔南畝〕⑥264(年月日なし)  〝谷文晁画賛   于以結網 于以垂綸 得魚則止 不肯売人 漁夫    采薪々々 可以代酒 富貴巧名 於吾何有 樵夫〟    〈南畝の文晁との交渉は文化年間から始まる。関係は親密で、南畝肖像画の存在はそれを如実に示していよう。また清     人の題画を貰うべく長崎まで文晁画を持参したらしいことは、南畝の文晁評価の高さを物語るものでもあろう〉    ◯『武江扁額集』(斎藤月岑編・文久二年(1862)自序)   (文政四年(1821)九月奉納。月岑の識語に「河津股野相撲之図」とあり)    落款 〝文晁筆〟〝文政四年辛巳九月穀旦 上州屋藤八敬具〟    識語 「神田社額堂所掛、河津股野相撲之図 谷文晁筆」「竪五尺余、巾弐尺余」         「嘉永五子年縮図之」    「此図は鶴ヶ岡若宮八幡宮の宝前の懸る所の図をそのまゝにうつされし也。但し鶴ヶ岡に掲る所は寛永年     中也」    「願主上州屋藤八は三河町三丁目裏町の◯◯◯にて、文政中額堂新建の時〈*「翌年」の添え書き〉さゝ     げたるなり」          「按るに、寛永中、鎌倉鶴ヶ岡若宮八幡の社へかくる所のうつし也」
    『武江扁額集』「河津股野相撲之図」右図谷文晁筆 (国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」)    ☆ 文政五年(1822)    ◯『寐ぬ夜のすさび』〔新燕石〕(片山賢著)   ◇「文晁の銅印」の項 ⑦229(文政五年二月下旬記)   〝(文政五年二月廿日ころ、片山賢、画印の彫刻を依頼せんと白馬台の幹斎を訪う、幹斎曰く)画師文晁    がよく用ふる所の印に、(一字印字不能)かくの如くなるあり、是はかれが庭の土中よりほり出したる    印なりとぞ、銅印にて、至てふるきものにて、雅なりければ、己が印となしぬ。文字はかれも読み得ず    とぞ、いと興あることなり、とかたれり〟     ◇「文晁」の項 ⑦233(文政五年七月二日記事)   〝七月二日、旧家に遊ぶ、画談、大人曰、今文晁専ら探幽以上の和画を愛すと、是かれが高尚一変せしな    らん、思ふに、今高尚なるもの、其古きを愛すれど、其なす所の画は甚器用なり、これ真の高尚にあら    ず、源鱗いへる事あり、今専ら古きを尚び、米芾、董其昌などを愛するもの多し、是たゞ漢国を愛する    のみ、真の古雅なるものは、此国の古しへにあり、日本三筆の中、二王に似たるあり、と華人のいへる    など是なり、必しもから国にのみ癖することなかるべしと、誠に確論なり、文晁も、元明などの古き所    は、かきて/\かきつくし、終にこの国の古しへに高きありなどゝ心づきて、今専ら是をなすならん、    かれが修行は論ずべからず、元は画の器用なる事をなして、終にこゝを見やぶりて今の所をなす、其高    きことまことに尚ぶべし、しかれども、今画をならふもの、文晁の真似をなしては、其儘和画をならふ    がごとし、論るに足らず、是をなすものは、誠に文晁一人にとゞまるべし、といへり、又曰、汝今より    心をつけて、名利の二つのものを忘るべからず、しかれども、汝に文晁が才なく、文晁が修行なく、文    晁が勇なし、三つのものみなかく、是名を求るとも及ぶべからず、しからば、利を求むるにしかず、名    を欲して能はずんば、利を得て富貴なる事をおもへ、其利を得んことを欲せば、人の不意に出す所の鷹    よく画く歟、或ひは美人を真の美人に画くか、この二つなるべし、是甚つたなく卑き計のごとくなれど    も、その中に高みあり、もし其真の美人の類を画かば、画をなすものは甚だ笑はん、俗者必ずよろこば    ん、よし画師に笑はるゝ共、笑はゞわらへ、俗によろこばれて、利を得て富貴なる、是も又こゝろよか    らずや、といへり〟    〈源鱗は書家・沢田東江のことか〉    ☆ 文政六年(1823)    ◯『寐ぬ夜のすさび』〔新燕石〕(片山賢著)   ◇「文晁」の項 ⑦244(文政六年三月十一日記事)   〝文政六年三月十一日、きのふ、雲渓【名永年、村田氏、通名正助、小石川たんす町に住す】不忍弁天の    別当にて、書画の会を開しき、余も其席につらなる、ある人文晁に画をたのみしに、折ふし、ゑのぐつ    きて座右にあらざりければ、側にありし杯盤の煮肴の汁にて、うす赤き水隈をとりぬ、頼める人これを    得て甚だよみし、誠に奇にして雅なりなどのゝしりき、さすがの文晁なれども、あまり洒落にすぎたり    といふべし、これをよろこぶ人の心は我はしらず〟    ☆ 文政七年(1824)    ◯『耽奇漫録』   ◇「耽奇会」参加(初集・文政七年五月十五日)     他の参加者、山崎美成(号北峯)・西原梭江(号松羅館)・関思亮(号海棠庵)・戸田美濃守(号梅園)     ◇「耽奇会」参加(二集・文政七年六月十三日)     他の参加者、美成・松羅館・海棠庵・梅園・屋代弘賢(号輪池)     ◇「耽奇会」参加(三集・文政七年七月十三日)     他の参加者、美成・松羅館・海棠庵・梅園・輪池・荻生維則(号蘐園)      ◇「耽奇会」参加(四集・文政七年八月十三日)     他の参加者、美成・松羅館・海棠庵・梅園・輪池・蘐園      ◇「耽奇会」参加(五集・文政七年閏八月十三日)     他の参加者、美成・松羅館・海棠庵・梅園・輪池・蘐園     ◇「耽奇会」参加(六集・文政七年九月十三日)     他の参加者、美成・松羅館・海棠庵・梅園・輪池     ◇「耽奇会」参加(七集・文政七年十月十三日)       他の参加者、美成・松羅館・海棠庵・梅園・輪池・蘐園・中村仏庵・谷文二(文晁長子)            ◇「耽奇会」不参加(八集・文政七年十一月十四日)     この日の参加者、美成・松羅館・海棠庵・梅園・輪池・蘐園・仏庵・文二・曲亭馬琴     ◇「耽奇会」不参加(九集・文政七年十二月八日)        この日の参加者、美成・松羅館・海棠庵・梅園・輪池・蘐園・仏庵・馬琴    ☆ 文政八年(1825)      ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(文政八年刊)    谷文晁画『料理通』二編 一冊 北斎改為一筆 抱一筆 文晁筆 渓斎筆 鳴門 赤子筆                   鵬斎興序 八百善跋 甘泉堂板〔漆山年表〕    ◯『耽奇漫録』   ◇「耽奇会」不参加(十集・文政八年一月二十日)     この日の参加者、美成・松羅館・海棠庵・輪池・蘐園・馬琴。(戸田梅園は以降不参加)     ◇「耽奇会」不参加(十一集・文政八年二月一日)     この日の参加者、美成・松羅館・海棠庵・輪池・仏庵・馬琴     ◇「耽奇会」参加(十二集・文政八年三月十三日)        他の参加者、美成・松羅館(最後の参加)・海棠庵・輪池・仏庵・馬琴・文宝堂(亀屋久右衛門)     山崎美成と曲亭馬琴との「けんどん」論争は、この日、文宝堂が出品した「大名けんどん」が発端     ◇「耽奇会」参加(十三集・文政八年四月十三日)     他の参加者、美成・海棠庵・・輪池・馬琴。仏庵は出品のみ。        ◇「耽奇会」不参加(十四集・文政八年五月十三日)     この日の参加者、美成・海棠庵・輪池・仏庵・馬琴・文宝堂。青季庵(未詳)は出品のみ。     ◇「耽奇会」不参加(十五集・文政八年六月十三日)     この日の参加者、美成・海棠庵・輪池・文宝堂・滝沢琴嶺(馬琴長子)     ◇「耽奇会」参加(十六集・文政八年七月八日)     他の参加者、美成・海棠庵・文晁・輪池・文宝堂・龍珠館(未詳)。     ◇「耽奇会」参加(十七集・文政八年八月二十四日)          他の参加者、美成・海棠庵・輪池・文宝堂・青季庵・琴嶺。     ◇「耽奇会」参加(十八集・文政八年九月十三日)     他の参加者。美成・海棠庵・輪池・蘐園・文宝堂・琴嶺・龍珠館。     ◇「耽奇会」不参加(十九集・文政八年十月十三日)     この日の参加者。美成・海棠庵・輪池・文宝堂・青季庵・琴嶺・清水赤城(兵学者)         ◇「耽奇会」参加(二十集・文政八年十一月十三日)下634     他の参加者、美成・海棠庵・輪池・文二・馬琴・文宝堂・龍珠館。   (「草木花実写生」の項)   〝草木花実写生二十巻    装(一字不明)して巻とするもの八巻。未だ装せざるもの八巻。藁のまゝなるもの四巻。先人其寧一花    一草得に随て谷寫山及其門人武清朗卿敬信等に托して真写する所凡二千余種集て廿巻とす。漢名和名は    小野蘭山の鑑別なり。奇といふにあらねど、今日しも会の終なれば、とう出て諸賢の清(一字不明)に    呈す。珍花奇草も亦自らに其中に在らんかし〟    〈出品者は海棠庵(関思亮)。「先人其寧」とは書家・関南楼(寛政十二年没)のことであろうか。海棠庵の祖父にあ     たる。「武清」は喜多武清。「朗卿」は台東区下谷真源寺所蔵の「絹本着色朝顔・蜻蛉図」の秋草を描いた人と思わ     れる。この絹本、「朝顔」を二世歌麿、「蜻蛉」を窪俊満が描き、酒月米人・蜀山人・麦藁笛成・窪俊満・鹿都部真     顔・六樹園・三陀羅法師・浅草市人・山東京伝・曲亭馬琴の狂歌を配している。インターネット上の解説では文化五     ~十一年の作画とされている。「敬信」は未詳〉      ☆ 文政九年(1826)      ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(文政九年刊)    谷文晁画    『狂歌雅友集』一冊 雲峰 大峰 文晁 閑林 富川房信 五湖亭貞景               貞景門人貞吉 北渓 葵岡渓栖〔漆山年表〕     『狂歌の集』一冊 北渓 西山 文晁 南湖 閑林 国貞 蹄斎 抱一 国直 嶌蒲 桜川慈悲成賛              辰斎 為一筆 六十翁雲峰 六樹園序 徳成蔵板〔漆山年表〕      ◯「文政九年丙戌日記抄」①11 文政九年(1826)二月十四日(『馬琴日記』第一巻)   〝谷文二来る。七半時比、文晁并に門人乾堂来る〟    〈谷文二は文晁の実子。乾堂は未詳〉    ☆ 文政十年(1827)      ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(文政十年刊)    谷文晁画    『酔墨帖』一帖 抱一・春暁斎・豊彦・景文・孔寅・文晁・真虎・皓月永春・公長他            七十五翁六樹園序〔漆山年表〕     ◯「文政十年丁亥日記」①69 文政十年(1827)三月十六日(『馬琴日記』第一巻)   〝今日、文晁も(山王社地土御門家旅宿へ)被招候而、文二同道、席画有之候よし也〟    〈谷文晁、文二父子が土御門(春親か)の山王社内宿舎に招かれておこなった席画である〉    ☆ 文政十一年(1828)    ◯「文政十一年戊子日記」①363 七月廿五日(『馬琴日記』第一巻)   〝日雇人足ヲ以、文晁子へかけ物品々見せに遣す。右の内、雪舟山水并に常信竹雀は贋物也。常信の方は    新井甚之介などにて、名印は後人のわざなるべきよし也。常信の枯蓮ニ鶺鴒ハ正筆、又、探幽騎馬人物    も宜候。但、一両時其筋之粉本ニて有之候を、後ニ印を押候物歟。印ハ正印のよし也。又、雪山の山水    も宜候。これも印ハ後人の押候ものゝよし、返書に申来る〟    〈谷文晁は馬琴も信頼を置く鑑定家なのであろう。新井甚之助は未詳〉      〝(経師屋に馬琴の付けた値段を示す)雪山山水金百疋・探幽騎馬金百疋・常信せき鴒三朱ニ成候ハヾ、    求可申旨、申遣す〟    〈「金百疋」は一両の四分の一、「三朱」は一両の十六分の三〉      ◯「文政十一年戊子日記」①438 十一月七日(『馬琴日記』巻一)   〝小ぶすま四枚、谷文晁方為(ママ)持遣し、画之事頼ミ手紙并ニ画料、遣之〟    〈小襖絵は十一月十五日完成、文晁方から届く。絵柄に言及なし〉    ☆ 文政十二年(1829)    ◯「絵入狂歌本年表」(〔狂歌書目〕は『狂歌書目集成』)   ◇狂歌(文政十二年刊)    谷文晁画『新玉集』一帖 文晁・惟旭・椿年等画 燕栗園撰 燕門連〔狂歌書目〕      ☆ 文政年間(1818~1829)    ◯「絵入狂歌本年表」(〔狂歌書目〕は『狂歌書目集成』)   ◇狂歌(文政年間刊)    谷文晁画『狂歌書画帖』一冊 文晁・南湖等画 福廼屋編 七宝連〔狂歌書目〕     ☆ 天保元年(文政十三年・1830)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(天保元年刊)    谷文晁画『書画帖』一帖 文晁・文一・法橋雪旦・杏斎雪堤・雲峰・為一・其一・武清・蹄斎・崋山等画                 大窪詩仏序〔漆山年表〕    ☆ 天保初年(1830~)    ◯『江戸現存名家一覧』〔人名録〕②309(天保初年刊)      〈当時現存の「画家」として名があがる〉    ☆ 天保二年(1831)      ◯「天保二年辛卯日記」②275 正月 元日(『馬琴日記』巻二巻)   〝(宗伯年礼)松前下やしきへ罷出、老公へ御礼相済、家中廻勤。帰路、谷文晁・関忠蔵・屋代太郎殿等    ぇ年慶申入、夕七半時比帰宅〟    〈老公とは松前道広。屋代太郎は国学者にして蔵書家として知られる屋代弘賢〉    ☆ 天保三年(1832)    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝文晁 文一、文二、馬孟煕付    谷文晁 字は文晁、写山楼と号す。又、画学斎と号す。初め加藤某を師とし、後、宋元の諸家に出入し    て、山水規傚〈ものまね〉を事とせず、自ら胸臆に率(シタガ)ひ、揮灑縦横、雲烟浮動の態、自然筆端に    現ず。膏潤秀逸、自ら機軸を出(イダ)す。他の元格を尺祝〈礼拝〉する者と異なり、誠に豪なるかな。兼    て青緑山水に長ず。結搆緊密、設巴古雅、殆ど明人と席を争ふ。人物花禽、又、一種の風致有り。晩年    に及びて、技益々超邁たり。義子文一、山水花鳥を善(ヨク)す。惜(オシイ)かな早世す。実子文二、山水に    長ず。沖澹潤沢、又、人物花鳥に工(タクミ)なり。嶄然として頭角を見る。馬孟煕なる者有り、多く元明    の摸本を儲(タクハ)ふ。蓋(ケダ)し谷氏に於いては先輩と為す。     梅泉曰く「或人云ふ、写山楼父子姉妹、皆深く意を絵事に留む。蓋し、其の父、鹿谷学を好み、詩を     工し、風流雅事を以て、生涯を終ふ。其れ子を教へ〈訓読できず〉、亦、其の好む所に随ふか。写山楼     に至て、遂に絵事を以て家を興す。兄弟姉妹名を芸林に擅(ホシイママニ)す。盛事と謂ふべし〟(原漢文)    ◯『書画薈粋』初編〔人名録〕④460(畑銀雞編・天保三年九月刊)   〝画家【名文晁、字文晁、号写山楼、又号画学斎、下谷二蝶町 谷文晁】江戸ノ人、幼ヨリ画癖アリテ其    名キコユ、中頃唐画ヲ主張シ、専ラ一家ヲナシテ世ニナル、門下ニ名アル人多シ、尤富士ヲ画ニ妙ヲ得    タリ、依テ写山楼ト号ス〟    ◯『思ひ出草』〔百花苑〕⑦226(池田定常著・天保三年序)   (「如是観之事」の項)   〝国学乃至衆技緇流を合せ、旧交の人は悉くうせ、唯画家にて谷文晁兄弟、渡邊昂のみ存し〟    〈渡邊昂とは崋山のことか〉    ☆ 天保四年(1833)    ◯『甲子夜話 続編8』巻九十二 p93(松浦静山・天保四年(1833)正月記)   〝林用韜へ初春文通せしとき、其答書に、某の蔵板とて一紙を贈る。展観れば、文晁が書ける蛮船〔諳厄    里察(ママ)〕図なり。世に正二の夜の華例とて用ゆる宝船の換物なるべし。傍に故楽翁老侯の戯歌あり。      此船のよるてふことの夢のまも        わすれぬ御世の宝也けり  楽翁戯題    予〈松浦静山〉これを読み、侯の文武兼備せる耳ならず、一時の戯筆と雖も人心を感ざしむる、其遺徳    追慕念々忘れざるの篤きを思へば、坐(ソゾ)ろに涙を催すに至れり。人亦予が意を知るや否〟      〈林用韜は林述斎の三男で鳥居耀蔵の兄・林檉宇。天保九年には大学頭に就任する。この蛮船とは谷文晁が画いたイギ     リスの帆船図で、そこに松平定信の狂歌が添えてあった。これを林檉宇は、正月二日の初夢の夜、枕の下に敷く宝船     に擬えて松浦静山に贈ったのである〉    ◯「天保四年癸巳日記」③540 十二月十日(『馬琴日記』第三巻)   〝山本宗慎より使札。先月頼置候瀬田問答写し出来、被差越之。且、菱川師宣遊女之像懸幅箱入一幅、代    二百疋のよし。真筆に候はゞ、かひ取申度よしにて、鑑定を乞はる。一覧の処、落款等宜見え候得ども、    卒爾ニ付、尚又、花山・文晁ニも見せ可然旨、申進ズ〟    〈菱川師宣「遊女之像」の掛け軸一幅。二百疋は二千文。約二分の一両。馬琴は真筆と見たようである。念のため渡辺     崋山と谷文晁にも鑑定してもらうよう勧めたのである〉     ☆ 天保五年(1834)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(天保五年刊)    谷文晁画『狂歌尋蹤集』三冊 是真・文晁画 花の屋光枝選〔漆山年表〕    ☆ 天保七年(1836)      ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(天保七年刊)    谷文晁画『東都名家苑』一冊 文晁・法橋雪旦・雪堤〔漆山年表〕     ◯『馬琴書翰集成』④221 天保七年(1836)八月十四日 馬琴、古稀の賀会、於両国万八楼   (絵師の参加者のみ。天保七年十月二十六日、殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-65)④221参照)   〝画工 本画ハ      長谷川雪旦 有坂蹄斎【今ハ本画師になれり】 鈴木有年【病臥ニ付名代】      一蛾 武清 谷文晁【老衰ニ付、幼年の孫女を出せり】 谷文一 南溟      南嶺 渡辺花山    浮世画工ハ      歌川国貞【貞秀等弟子八九人を将て出席ス】 同国直 同国芳 英泉 広重 北渓 柳川重信      此外、高名ならざるものハ略之〟    ◯『【江戸現在】広益諸家人名録』初編「タ部」〔人名録〕②41(天保七年刊)   〝画 写山【名文晁、字文晁、一号画学斎、会日二七】下谷二丁町 谷文晁〟     ☆ 天保八年(1837)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(天保八年刊)    谷文晁画    『百名家書画帖』二冊 文晁七十五翁 雪旦長谷川巌岳斎 可庵武清筆 他 一貫堂蔵板〔漆山年表〕     『日光山志』  五冊 花菱斎北雅筆 可庵武清筆 齢七十二画狂老人卍筆〔漆山年表〕               二世柳川重信 文晁 須原屋伊八他板    ◯「【東都高名】五虎将軍」(著名人番付・天保八年春刊・『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝画家 谷文晁・依田竹谷・春木南湖・大西椿年・喜多武清〟    ☆ 天保九年(1838)     ◯『理斎随筆』①3133〔大成Ⅲ〕(志賀理斎筆・天保九年刊)   〝白拍子の事に付て珍しき一話あり。当時名高き谷文晁が許に、年齢四十歳ばかりの比丘尼壱人、黒羽二    重の小袖の下に白無垢を着し、僕をめし連て来り、文晁に絵をかき給はれと請ひける。文晁外に出行ん    とせし折といひ、ことに終に見知らざるいづかたの人とも名乗らで申入れたる事なれば、忰文一に頼ま    れよとて辞しけるに、尼申けるは、先生の高名なるを承りてこそ態々参りしなり。何とてかく情なくは    おはするぞと、頻りに望けるゆへ、さらばいか様の画を望るゝ哉と申ければ、白拍子の舞をと申、しか    らば名高き静御前鎌倉八幡廻廊にて舞へる処歟と申す。尼の云、左様の事に候はず。わらは事、むかし    より此舞を殊の外好みて舞し事の候得ば、其わらはが舞へる処を描き給はれと申けるゆへ、扨こそ狂女    ならめとて、家内の者迄けうがることに思ひわらひ合て、ものゝ透間より我も/\とうかゞひみるに、    尼は自若として、いさゝかはづるけはひなきまゝに、見るものいよ/\狂女となし、をかしさに絶かね    て、鼠音は外にもれ聞ゆる程なりける。文晁申けるは、そこの舞を好まるゝよし聞ゆれど、其舞給ひし    有様を知らねば、筆するによしなし。一曲舞給はんやと笑ながら言ければ、尼云、しからば舞候はん歟。    (立派に舞って人々を感心せしむる様子の記述、略)扨立あがりて唄ながらに舞かなでしさま、扇の手    といひ、声といひ、節といひ、舞といひ、いづれ耳目を駭かさゞるはなし。しばらくして舞終りけるが、    かの天津かぜ雲のかよひ路吹とぢよ、と読るごとく、今ひとさしと望ぬは無かりける。文晁真に感心し    て、頓に筆とりて画きあたへしかば、謝儀としてしろがねをおくり、住居名をば堅く申さで、厚く礼を    述てかへりしとなり〟    ☆ 天保十一年(1840)    ◯『著作堂雑記』242/275(曲亭馬琴・天保十一年(1840)記)   〝天保十一年庚子冬十一月、谷文晁病死、七十八歳なるべし、田安御画師にて、近来第一の名画なり、養    子文一も画匠なりしに、早く死したり、実子文二は画下手にて行はれず、文一の子後の文一は、佐竹の    画師にて同居す、此文一画才ありて世評宜し、予文晁と相識久ければ、記してもて遺亡に備ふ〟    ◯『増訂武江年表』2p95(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「天保十一年」)   〝十二月十四日、画人谷文晁卒す(号写山楼、又画学斎、薙髪して文阿弥と云ふ。浅草源空寺に葬す)。     筠庭云ふ、養子文一上手なりしが早く死し、文晁も身まかりて、文二画もよくなりしかど、一度もと     の宅引払ひさまよひしが、又もとの二丁町に家作りて住みけるに、これも不幸にして昨嘉永三年没し     たりとぞ。残りしものは借財と三つになる子ばかりとぞきく、惜しむべし。文一が子ありしが如何な     りしか〟    ☆ 天保十二年(1841)     ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』)   ◇合巻(天保十二年刊)※角書は省略    谷文晁画『児雷也豪傑譚』二編(画)香蝶楼国貞(著)美図垣笑顔 和泉屋市兵衛板〔東大〕                 袋画工 魚屋北渓 国貞 広重 谷文晁    ☆ 没後資料      ◯『馬琴書翰集成』⑤301 天保十二年(1841)四月十九日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-85)   〝屋代殿死去年月、彼屋敷へ聞ニ遣し候所、当春壬正月十八日死去の由ニ御座候。今ニ御届ヶハ被致ず、    内々可成存候。家とくハ七八才の義曾孫ニ候や、或ハ二郎と云第二の義孫ニ候や。そこらの事ハ未聞ず    候へども、跡ハ衰候半と存候。名画谷文晁、旧冬十一月死去の由ニ御座候。七十八才歟と覚候。実子文    二ハ、画へたニて行れず候。義孫後の文一ハ画上手ニて、評判宜敷候。なれども今までの如くニハあら    ず衰候半と存候。名画の後ハ皆衰候事、古今同様かと存候〟    〈屋代弘賢は、三月朔日付、殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-79)参照。谷文晁の逝去については〝天保十一年十二     月十四日病て卒す、行年七十八、浅草五台山源空寺葬、本立院生誉一如法眼文阿文晁居士、辞世、ながき世を化おほ     せたるふる狸尾さきなみせそ山の端の月〟とあり。(『写山楼之記』「新燕石十種」第五巻所収p50)〉    ◯『椎の実筆』〔百花苑〕⑪421(蜂屋椎園著・嘉永年間記)   (文書は天保十三年正月のもの)   〝谷文晁勤書        【御近習番頭取次席/奥詰御絵師】谷楽山 寅八十     高百五拾俵 内【五拾俵三人扶持/金拾両】持高              外銀三枚    (頭注)此楽山ノ號ハ、文晁没後イマダ内々ナル時、将軍家御他界文恭院殿と謚奉ルニヨリ、文ノ字ヲ    憚リ、姑ク楽山ト號セシ也。父谷十次郎、御普請奉行相勤候節被召出。    私儀、天明八申年四月九日、従部屋住被召出、奥詰見習被仰付、勤之内、高五人扶持被下置候旨、於御    家老衆詰所前御廊下、蜷川相模守御出座、嶋村惣左衛門殿、間宮帯刀殿侍座、相模守被仰渡。寛政二年    戌年十二月七日、勤之内高拾人扶持被成下候旨、於御家老衆詰所前御廊下、蜷川相模殿御出座、嶋村惣    左衛門殿、間宮帯刀殿侍座、相模守殿被仰渡。同四子年三月廿四日、越中守殿附被仰付、高百俵被成下    候旨、於御家老衆詰所目御廊下、蜷川相模守御出座、杉浦猪兵衛殿、東條権太夫殿侍座、相模守殿被仰    渡。同九年九月朔日、高百俵五人扶持ニ被成下候旨、於奥溜、佐野豊前守殿御出座、中嶋伝右衛門伝、    万年七郎左衛門殿侍座、豊前守殿被仰渡。同十一年未年四月廿四日、出精相勤候ニ付、御近習番格被仰    付、高百五拾俵被成下候旨、於御囲炉裏之間、松平伊勢守殿御出座、東條権太夫殿、中沢舎人殿侍座、    伊勢守殿被仰渡。文化六巳年九月、父十次郎病死仕、同年十二月十六日、父跡式無相違被下置候旨、於    御囲炉裏之間、石谷周防守殿御出座、笹本彦太郎殿、境野六左衛門殿侍座、、周防守殿被仰渡。同八未    年十一月六日、数年出精相勤候ニ付、奥之番次席被仰付候旨、於奥留、嶋村惣左衛門殿被仰渡。同九申    年四月十日、楽翁殿、此度御隠居被成候ニ付、御附御免、八丁堀より被仰立も有之候間、格式只今迄之    通ニ而、奥詰被仰付、是迄御附無滞出精相勤候間、年々銀三枚宛被下置候旨、於御囲炉裏之間、山本伊    豫守殿御出座、境野六左衛門殿、秋間東兵衛殿侍座、伊豫守殿被仰渡。文政二卯年四月十五日、於御前、    頭役助被仰付、畢而高外銀共取来之通被下、奥兼被仰付候旨、於表溜、柳沢佐渡守殿御出座、中沢舎人    殿、内藤新十郎殿侍座、佐渡守被仰渡。御絵御用是迄之通被仰付候旨、於土圭之間、牧備後守殿御出座、    竹中半十郎殿、野間又三郎殿侍座、備後守殿被仰渡。席之儀は御近習番頭取次席被仰付、田付鐵五郎、    遠坂庄司上の可相心得旨、於奥留、中沢舎人殿被仰渡、即日剃髪被仰付。天保四巳年十一月十八日、老    年罷成候ニ付、御絵御用宅ニ而相認、御用之節は格別、平日は壹ヶ月壹度宛可罷出旨、於奥留、小泉理兵    衛殿被仰渡。同七申年八月廿一日、大納言様御願之通、御勤向御用捨被仰出、唯今迄被懸候御賄料其儘、    右衛門督様エ被為進候旨被仰出。翌廿二日御附人御附切、御抱入之者共、唯今迄之通被為附候旨、松平    和泉守殿被仰渡候段、於御囲炉裏之間、牧丹波守殿御出座、竹中織部殿、高橋次大夫殿侍座、丹波守殿    被仰渡。同十亥年三月廿六日、中納言様尾州家御相続被仰出、御跡は、群之助様エ御領知其儘被為進候    旨、被仰出、同廿八日、唯今迄之通被為附候旨、水野越前守殿被仰渡候段、於御囲炉裏之間、朝倉播磨    守殿御出座、小泉理兵衛殿、桜井藤四郎殿侍座、播磨守殿被仰渡、當寅年迄御奉公、都合五十五ヶ年相    勤申候。右之通御座候以上。     正月          谷楽山    右谷文晁勤書ハ、山本義辰遺蔵反故中ニ獲タリ〟    〈「當寅年」は天保十三年にあたる〉    ☆ 天保年間(1830~1843)     ◯『無可有郷』〔百花苑〕⑦404(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立)   (「画の工夫」の項、天保三~九年の記事)   〝近頃文晁翁席上にて画を請ふもの多く、煩に堪へずとて、硯蓋の蓮根に墨を湿しつゝ、扇面に印し、落    款して與へしを喜びて持帰りし人あり。是も工夫といえども、前の人々(筆者注、狩野探幽・北斎等)    に比すれば甚だ劣れり<ママ>見ゆ〟     ◯『江戸文人寿命付』初編〔人名録〕②335(畑銀雞編・嘉永二年刊)   〝谷文晁 海内に其名とゞろく写山楼三国一の富士の名人 三都一 大極上々吉 寿千載 下谷二丁目〟    ◯『反古のうらがき』〔鼠璞〕中85(鈴木桃野著・嘉永三年記)   〝大雅堂、文晁、応挙ナドノ画ハ偽シ易シ。椿山ノ画ニ至テハ、天真爛漫ニ企及スベカラズ。夫サヘ近時    偽物オボタヾシクアリテ、庸凡ハミナアザムカルヽ也。予鑑裁ニ暗シトイヘドモ、椿山ノ画ニ至ツテハ、    暗中模索スルモ失ハジ〟    ☆ 嘉永三年(1850)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(嘉永三年刊)    谷文晁画    『義士肖像賛詞』文晁 北渓〔「葵」「岡」印〕蹄斎〔「北」「馬」印」秀旭斎蘭暎〔「政直」印〕〔漆山年表〕            法橋雪旦画〔「長谷川」印〕武清筆〔「可庵」印〕後素園写国直 柳川重信他筆    ☆ 嘉永四年(1850)以降    ◯『古画備考』三十上「近世」中p1246(朝岡興禎編・嘉永四年四月二日起筆)
    「丹青競行司」(相撲見立て絵師番付)      ◯『古画備考』三十上「近世二」中p1249(朝岡興禎編・嘉永四年四月二日起筆)   〝谷文晁 字文晁、号写山楼、又号画学斎、初師加藤某、後出入宋元諸家、山水不事規倣、自率胸臆、揮    灑縦横、雲烟浮動之態、自然現筆端、膏潤秀逸、自出機軸、與他尸祝元格者異矣、誠豪哉、兼長青緑山    山水、結構緊密、設色古雅、殆與明人争席、人物花禽、有一種風致、及晩年技益超邁、義子文一、善山    水花鳥、惜早世、実子文二、長山水、沖澹潤沢、又工人物花鳥、嶄然見頭角、有馬孟熙者、多儲元明摸    本、蓋於谷氏為先輩、梅泉曰、或云、写山楼父子姉妹、皆深留意於絵事、蓋其父鹿谷好学工詩以風流雅    事終生涯、其教子又随所好耶、至写山楼、遂以絵事興家、兄弟姉妹、擅名於芸林、可謂盛事矣、画乗要略    台道宿上田翁家、為題谷文晁画芝海図、東遊回首廿年余、鴻爪春泥跡有無、何料周防千里外、忽看芝海    暁晴図【山陽詩鈔】    文晁ハ最初加藤文麗ニ画を学、其後渡邊又蔵【邊英後改玄対】ニ随身シテ、久ク其画法ヲ学、其後雲峯    ヲ媒介トシテ、鈴木芙蓉ヲ師トシテ、山水等ヲ学、然ル内ニ、漸ク世ニ弘ク行ハル、文晁芙蓉ノ画ヲ学    ビシコロ、桐隠モ同ク芙蓉ニ学バレシカ、他ノ門人、画ノ清書一枚、漸ク書テ持来ルニ、文晁ハ三枚、    或ハ五枚モ画テ携来り、直シヲ乞ケルヲ、桐隠深ク感歎シ、吾党ノ不及コト遠シ、遂ニハ大家トナルべ    シト、申サレシガ、果シテ高名ノ画家トナレリ、    当時ニテハ、絵ノ償ヲ定テ被書候故、評判悪シキナリ、去年中予面会ノ時、写山ノ話ニ抱一君ナド、高    謝ナラデハ、漫リニ書不被申、予ハ如此需ニ応ジ候抔ト被申候、追々流行ノ上、薄謝ノ者モ有之、隙費    ノコト有之ト見ユ、聞エハ如何ナレドモ、又尤ノコト也、    鴬邨、写山、鵬斎ノ三画譜、和泉屋庄三郎方ニテ、板ニ致候儀ハ、元来麹塢カ思付ニテ、彼レ上方へ参    候時、仕入候て、持行候所、一向売レ不申、持帰リ候由、江戸ニテハ、少シハウレ可申由、其内写山ノ    譜、殊ニアシク、鵬斎ヨロシキ由、三帖ニテ、一分二朱ニテ候由、其後泉金(頭注、泉金ハ和泉屋金右    衛門トイヘル書肆也)話、麹塢ノ存付ニ非ズ、私ト本庄ト申合也【文化八ノ話、辛未七月聞】     [署名]「芠晁谷正書」[印章]「(二字未詳)之印」「(一字未詳)朝」    天保十一年十二月十四日、文晁卒、薙髪シテ文阿弥ト云、浅草源空寺ニ葬、武江年表    谷文晁、嘗為関其寧、写真、適有黒宮生者来、谷挙以示之、生於関素未識面、却後数日、詩人会増上一    子院、関先在座、生忽憶前者谷所図、認関通姓名、且陳其由、彼此大笑、後谷聞之、貽生以詩云、衣巾    瀟洒愜清癯、頬上三毛得似無、敢比伝神戴文進、金陵当日索人図、此壬子夏中事也、追録以存嘉話、載    事見五雑爼、辛未五山堂詩話     (補)[署名]「文晁(一字未詳)」     (補)[署名]「壬子正月 文晁」(*「文政四也」の添え書きがあるが、この壬子は寛政四年であろう)     (補)[署名]「享龢二年 正月吉日 文晁」[印章]「刻字未詳」(朱文丸印)     (補)[署名]「文晁」[印章]「画學齋」(朱文瓢箪印)     (補)[署名]「七十七叟文晁」[印章]「祝(二字未詳)画(二字未詳)」(朱文方印)〟    ◯『在臆話記』〔百花苑〕(岡鹿門談話・明治四十年成立)   ◇「第一集」①38(嘉永五年頃か)   (「書画会」の項)   〝(聖堂罹災後、書生寮再営の時、寮則を定める。その条中に)書画会ニ望ムヲ禁ズ。其所以ハ、三博士、    学制ヲ宋学ニ一定ス。他ハ異学ト唱ヘ、諸藩モ此ヲ以テ学制ト為スニ至ル。山本北山、亀田鵬斎、此事    ニ大不平、且ツ朱学ニ非ラザレバ、禄仕登用ノ途モ塞ガリ、第一糊口ニ窮スルヲ以テ、五山、詩仏、菱    湖、文晁、主唱者ト為リ、知名ノ詩文人、書画ノ名家ヲ集メ、書画会ヲ万八楼ニ開キ、翰墨席ヲ設ケ、    娼妓酒ヲ行ヒ、揮寫ヲ求ムル好事者、士庶貴賤、雑客千百人ヲ会集、満都ヲ狂奔スルニ至ル。然ルニコ    レヲ文雅盛事トカ、書画風流トカ、四方ノ游学書生ヲ誤ル細少ナラズ。故ニ此條規ヲ掲ゲ、此書画会者    流ヲ下町派ト唱ヘ、之ヲ賤ミ興ニ齢セザル事ニ定メ、此條規ヲ設ケタリ〟    〈所謂「寛政異学の禁」が書画会の発端である由。この書画会は寛政四年正月十七日の開催である。「大田南畝全集」     の項目参照。この日の席画は『二水七画画巻』としてまとめられ、それに、文化七年四月、大田南畝(遠桜山人・杏     花園の署名)が識語を記している。青雲の志を抱いて聖堂に入学した書生にとって、江戸の書画会は学問の妨げだと     する考えも、幕末にはあったのである〉     ◇「第三集」②31   〝三都骨董店ニ山陽、竹田、文晁ノ書画ノ堆積同様ナルニ呆レ〟    〈仙台藩士・岡鹿門の幕末の見聞。文晁、頼山陽・田能村竹田に並ぶ人気であったか〉    ☆ 安政元年(嘉永七年・1854)    ◯『諸国廻歴日録』〔百花苑〕⑬252(牟田高惇著・嘉永七年四月十九日)    (佐賀藩士・牟田高惇の剣法諸国修行日記より)   〝(筆者注、上総国成田の荒海宿にて飯岡郷の大河という武士より)米庵書、并文晁の画石摺にして壹枚    被呉候〟    ☆ 安政二年(1855)    ◯『古今墨跡鑒定便覧』「画家之部」〔人名録〕④238(川喜多真一郎編・安政二年春刊)   〝谷文晁【名ハ文晁、字ハ文晁、写山楼ト号シ、又画学斎ト号ス、江戸ノ人、初メ加藤某ヲ師トシ、後宋    元ノ諸名家ノ古蹟ヲ摸法シ、遂自ラ一家ヲ成ス、画法敢テ規矩ニノミ不拘、自然ノ筆端機軸ヲ出ス、因    テ大イニ称誉シ、其名海内ニ振ヒ、当時其画ヲ争ヒ求ムモノ門ニ絶ズト、東都ニシテ近世昌ンナルノ最    第一ト云ベシ、天保十一年十二月十四日】〟    〔署名〕「文晁」    〔印章〕「文晁画印」・「画学斎」・「無二」・「蜨叟」・「晁」    ◯『歴世女装考』〔大成Ⅰ〕⑥267(山東京山著・安政二年刊)   「結髪(カミアゲ)したる髪の形状の考」考証   〝写山翁〔割註 文晁翁〕には宋画の摸本あるべしと尋ね問けるに果して示されたる摸本を写しおきたる    を略してこゝに出す〟    (模写図に)   〝宋人李戴筆・絹幅(キヌヂのルビ以下同じ)落疑(ナガキ)あり、画院家の鑑識もありて真跡とぞ。全図は此美    人の松下に立て手に団扇を持、牡丹花下に猫蝶を捕へたるを視る侍女一人あり。小童二人一人は猫を指    (ユビサ)す、一人手を挙て笑ふ著色(サイシキ)建幅(タテモノ) 寫山楼摸本〟    ☆ 安政三年(1856)    ◯『蒹葭堂雑録』〔大成Ⅰ〕⑭39(暁晴翁撰・安政三年序)  〝南都弘仁寺の什物に、小野篁朝臣像 空海筆、弘法大師像 小野篁筆、二幅あり。俗に互の御影といふ。    文晁大和紀行云、寺僧云、此像を写せば忽毫渋目苦しみて死すと。古来より写せし人なしといふ。予云、    此像何の為に作らん哉。後世に伝んが為に絵きしなり。今已に模糊せり。百年の後には愈損じて全形を    見る事あたはず。乃ち一本を写して寄附すべし。然る時は此像を絵きし人の意を永くつぐなり。いかで    か死すべけんと申すければ、寺僧もうなづきて許して写させけり。乃ち写して一本を寄附し、一本を携    へかへる云々。此像を文晁子の写し得たる事は、今も尚南都の人の言伝へて美談とせり”    〈文晁が松平定信の命を受け、『集古十種』の編纂のため門人喜多武清らを連れて西上したのは、寛政八年のこと〉    ☆ 文久二年(1862)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(文久二年刊)    谷文晁画『文晁画譜』初二編 谷文晁画 岩本忠蔵板〔漆山年表〕       ◯『本朝古今新増書画便覧』「フ之部」〔人名録〕④346(河津山白原他編・文化十五年原刻、文久二年増補)   〝文晁【谷氏、字ハ(空白)号ハ写山楼、又画学斎ト号ス、江戸ノ人、青縁山水ニ長ス、人物花禽又一種    アリ、画名一時ニ高シ、天保十二年二月十四日ニ卒ス、七十八】〟    ☆ 明治三年(1870)       ◯『睡余操瓢』⑦附録「随筆雑記の写本叢書(七)」〔新燕石〕(明治三年頃・斎藤月岑書留)   ◇p6   〝通三丁目ことぶきの額      文晁画、富士に波     山路雲間没    長門介景樹    絶々に雲間よりこそ見えにけれ山路の末やミねの俤     辛酉正月廿八日一件〟     〈この辛酉は文久元年か〉     ◇p8   〝文晁筆 蜆子讃     維此蜆子 魚悔為用 別不大怪 一随落僧   南畝印〟    ◯『睡余操瓢』⑧附録「随筆雑記の写本叢書(八)」〔新燕石〕p6 (明治三年頃、斎藤月岑書留)    「小松 文晁筆」   〝子日する野辺に小松の大臣はいまも賢者のためしにそひく 蜀山人〟
   「文晁筆 舟帆遠山」   〝新川に下戸のたてたる蔵もなしミんな上戸のはらへ入船 蜀山人〟
  「文晁の画る蝶の扇へ」   〝今はやる人の書たる絵扇を蝶々しつかにこしへさしこむ 蜀山人〟     この扇に三馬の詠を請う“今はやる蝶々しつかをかゝれては~     この頃蝶々しづかにさしこめこりゃ又なしかいといへるうたはやれり〟
 「文晁筆 蜆子讃」   〝維此蜆子魚悔為用別不怪一堕落僧 南畝〟    (文化末の南畝揮毫、斎藤月岑の父親の書留)  ☆ 明治九年(1876)     ◯『閑談数刻』〔百花苑〕⑫237(著者未詳・「明治九年六月」の記あり)    (「亀田鵬斎」記事)   〝(鵬斎)先生大に酒を好みて一樽づゝ台所にありて、客にも出入のものにも下男下女にも飲ませ、醉の    さむる事はなし。     泰平の我は瑞也醉たをれ    駐春亭亭にて書画会有し時、文晁、酒樽と本の画を書し中に先生の賛を幸次郎願ひければ、     仮の世を仮の世なりと仇にすな仮の世ばかり己が世なれば     けふものぶべし翌日も呑べし    と書て被下しを三幅対になしたり。【今にあり】〟    〈「駐春亭」は『武江年表』「享和年間記事」に〝下谷龍泉寺町の駐春亭、文化年中より盛なり〟とある。「幸次郎」     はその田川屋駐春亭の子息〉  ☆ 明治十三年(1881)    ◯ 観古美術会(第一回)〔4月1日~5月30日 上野公園〕   『観古美術会出品目録』第1-9号 竜池会編 有隣堂 明治14年刊(国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十三年三月序)   〝谷文晁 公余探勝之図 一幅(出品者)松平定教〟   ◇第三号(明治十三年四月序)   〝谷文晁 山水之図   一幅(出品者)山高信離〟   ◇第五号(明治十三年四月序)   〝谷文晁 弁財天之像 鎌倉相承院什物模シ 一幅(出品者)栗山善四郎〟   ◇第七号(明治十三年五月序)   〝谷文晁 蘆花明月之図 一幅(出品者)大川通久〟   ◇第八号(明治十三年五月序)    谷文晁 田子ノ浦之図 一幅(出品者)佐竹永湖        文章星之図  一幅(出品者)大竹昌徳  ☆ 明治十四年(1881)  ◯ 第二回 観古美術会〔5月1日~6月30日 浅草海禅寺〕   『第二回観古美術会出品目録』竜池会編 有隣堂 明治14年刊(国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十四年五月序)   〝谷文晁 墨画富士半襖 二枚(出品者)寺井新八        富士山図   一幅(出品者)新村七蔵        山水     二幅(出品者)水野忠敬        山水     一幅(出品者)知即庵〟   ◇第二号(明治十四年五月序)   〝谷文晁 韋太天図   一幅(出品者)井上竹蔵        史皇画    一幅(出品者)杉浦桂        楓林図    一幅(出品者)大竹昌蔵        龍画     一幅(出品者)甲斐五十吉〟    ◇第三号(明治十四年五月序)   〝谷文晁 天保九如図  一幅(出品者)野村与七郎   ◇第四号(明治十四年五月序)   〝谷文晁  錦城書画  一幅(出品者)飯塚年整        崋山画賛   二幅(出品者)村松彦七        龍鯉画    一幅(出品者)長島常三郎        山水     一幅(出品者)中沢千蔵        田植図    一幅(出品者)蜂須賀与平    ☆ 明治十五年(1882)    ◯ 第三回 観古美術会〔4月1日~5月31日 浅草本願寺〕   『第三回観古美術会出品目録』竜池会編 有隣堂 明治15年4月序(国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十五年四月)   〝谷文晁 春日水屋天王神景(空欄)(出品者)吉見寛        草花金鶏図   一幅(出品者)竹原左右        蘆鳥図     一幅(出品者)鶴岡善吉        波図      一幅(出品者)佐藤信熙〟   ◇第二号(明治十五年四月序)   〝谷文晁 喬壑慶雲図   一幅(出品者)入江慎行        富士図扇面   一幅(出品者)国冨吉信        郭子儀画    一幅(出品者)杉本嘉兵衛        百蝶図     一幅(出品者)池田伊久        鍾馗図     一幅(出品者)新井半十郎        山水      一幅(出品者)埼玉県横田好学        龍図      一幅(出品者)野村高明        文晁画     一幅(出品者)宇田川金蔵        文晁筆     三幅(出品者)矢沢充幸〟   ◇第三号(明治十五年四月序)   〝谷文晁 清凉寺釈迦画  一幅(出品者)吉沢雪庵        不動図     一幅(出品者)井上竹逸        山水      一幅(出品者)鴨下義復        文晁画     一幅(出品者)寺田潤三〟   ◇第四号(明治十五年四月序)   〝谷文晁 文晁 詩仏 台嶺合筆 一幅(出品者)加藤政重        白衣観音像   一幅(出品者)吉川忠貞        雪山釈迦図   一幅(出品者)清川寛        鍾馗画     一幅(出品者)飯野既明        菜蝶図     一幅(出品者)香川勝広        群馬図     一幅(出品者)佐竹義理        山水      一幅(出品者)長尾景弼〟   ◇第五号(明治十五年四月序)   〝谷文晁 雪月花図賛司直 三連(出品者)伊井正七郎        漁父図     一幅(出品者)三條実美        山水      双幅(出品者)山高信離〟  ◯『写山楼之記』〔新燕石〕⑤49(野村文紹著・明治十五年成立)   〝谷文晁翁は、幼稚より加藤文麗の門に入、【北山寒巌、又号馬文圭、旧幕与力、下谷与力町住】画道を    学び、追々上達に至り、画風を脱し、宋、明、又は土佐に依り独立す、芳名海外までも轟く、往年二七    の稽古日には、仕出し屋の料理にて、楼上には、筆売玉宝堂主人、定式筆墨をひさぐ、正月十二日発会、    十二月十二日納会には、柳橋なる芸技四五名雇入、九月九日は生誕日なれば、楽人数名雇、音楽催し、    芸技も雇、来客社中も集り、盛大の宴なり、往年、日本橋なる魚河岸懇意より、生魚壱車【俗に大八車    といふ】贈りし事あり、其節の贈り状近年まで存在、一見せしことあり、【高玄対、狩野光定に学ぶ、    従三輪執斎修王氏学、又就笠原雪渓学詩】    寛政の頃、桑名侯【松平越中守】伊豆、相模、武蔵順廻之節、随行被命、各地真景写取、公余探勝と号    ふ、多巻にて、当今も旧桑名侯之所蔵也、【其節拝領物写】     寛政五年三月十日、越中守、豆州、相州筋浦々廻村之節、差添被遣候に付、賜白銀三枚     文政四年三月、水野出羽守へ差出伝来書           狩野如川周信門弟、加藤文麗門弟                      谷 文晁     唐絵教方も惣て探幽法印学古之向より取来、古土佐大和絵をも相用認、惣て探幽斎已来之教方になら     ひ、唐画の儀、古画にならひ候て、法ごと其外諸流古来より立候、巨勢、土佐、宅間、住吉、曽我、     二階堂、柴法眼、雪舟、近世南蘋流、光悦、光琳之類に至候ても、流儀立候家には相学、奥儀を尽し、     上古の画風を本立に致、下流に至候ても捨不申、執心仕候を第一に致候事       三月八日                                 谷 文晁    享和年間、自筆肖像清朝へ贈る、清朝人劉墟原讃を添、返却あり、    中年まで酒を禁じ、後年殊之外酒をたしみ、日々朝より酒宴始、夜に入迄もたへず、来客に進めもし、    いなむ者は大に不興なり、ゆゑに、新川の酒印にも、(文晁の印)と印せる樽も出来たり、    其頃、田安侯、桑名侯へ隔日出頭なし、帰宅後迄も認物なす、夜業終れば、青楼仲の町なる森田屋にて    全盛に遊び、其儘夜中帰宅なす、翌日は早朝より認物あり、其頃の口ずさみなりとて、     吉原に花を咲せて早帰り    天保十年九月一日、七十七賀宴、両国なる万八楼にて催す、当日来客、午後に至ては、錐を立つ地なき    程にて、席上揮毫も酒宴も出来ず、各々楼上に立たる儘なるゆゑに、近ぺんなる亀清を借受たり、     当日は肴は何程か聞もらせしが、酒は六樽半明きたり、    著述     松島名所図会、漂客奇賞、画学大全、画学集説、歴代名公画譜四冊、十八学士、武学大全、     君臣図像三冊、本朝画讃【毎年出版】、画学叢書、集古十種【桑名侯蔵版】、     日本名山図譜三冊【北畠茂兵衛蔵板】    宝暦十三年九月九日生、    下谷二長町住居、楼上より不二山眺望よし、故に写山楼の号あり    天保十一年十二月十四日病て卒す、行年七十八、浅草五台山源空寺葬、     本立院生誉一如法眼文阿文晁居士    時世、     ながき世を化おふせたるふる狸尾さきなみせそ山の端の月         (以下「谷氏系図」および「門人」あり。文晁、文一、文二以外は省略)         文晁【谷文五郎、旧田安藩、下谷二長町住、名文晁、字文晁、号写山楼、画学斎、画禅居、初文朝、        又師陵、一如居士、無二庵、蜨叟】       文晁妻 幹々【林氏、文一郎妻於宣母、号翠蘭、寛政十一年七月廿三日歿、源空寺葬】      養男 文一郎【旧田安藩、文政元年三月八日卒、三十二、号痴斎、実家医師利充某】         文二 【旧田安藩、実長男、文化九年生、嘉永三年五月十一日歿、三十九】               門人、次第不同    喜多武清 【安政三年歿、八十一、号可菴、笑翁、字子順、五清堂、八丁堀住、平民】         【男武一、二男武一、号探斎】       門人【武金、武景、京水】    酒井抱一 【初文晁門人【雨華庵、根岸住、号文詮、継男道一】       門人【鈴木其一、男守一、池田孤村、花村抱山、守村抱儀、田中抱二】     渡辺崋山 【天保十二年十月十一日歿、四十九、字伯登、号禅楽堂、名定静、称全登、男小華、旧田原藩          門人素堂】    高久靄崖 【継男隆古、両国住】     門人椿椿山【称忠太、旧幕鎗同心、天保十四年歿、門人野口幽谷】    根本愚州 【字成、旧二本松藩、名溥器】    菊池文海 【旧幕藩鎗同心、四谷鮫ヶ橋住、号子哲、石神窟、称喜十郎】    粟津文三 【旧膳所藩、八町堀住、号嘉、又集長堂】    目賀田文信【旧幕天守番頭、後開成所頭取、号画仙窟、名守蔭、称帯刀、初称兵衛、芥庵兄】    川島文尊 【称酒樽、旧幕奥坊主絵番、名宣昌、祖先家康公より拝領依頼、代々号酒樽】    西番口文英【字英雲、同断絵番、番長住、名同号、竹軒、実性、松安、旧宅八町堀福本】    袴田文基 【旧浜松藩、称十平】    直井文盟 【旧幕藩】    高橋文馨 【旧幕藩、与三郎舎弟、下谷住、称達五郎】    高川文荃 【旧松本藩、武蔵所沢産、初称平蔵、実性三上】   松原文忠 【旧松江藩】    富塚雲根 【旧幕藩、旧海軍所取調役、称順作】    大関文謙 【旧幕藩代官手代、称隆之助、又栄次郎、越後人】    舟津文淵 【武蔵沼田村住、号栄庵、農、称徳右衛門、初久五郎】    藤木文嶼 【旧高田藩、下谷池之端住、称佐助】    辻内文福 【旧幕大工棟梁、下谷池之端住、称近江、初宗次郎、実家広舗伊賀者、岩下称十郎男】    星野文良 【旧桑名藩、八丁堀住】男文良【称善助、号夾軒】    海沼文方 【名貞、字水石、称鋼之助、又友平、号雲梯、又梅隠居士】    大野文佑 【伊勢国桑名住】    佐藤玄覧 【名長、字思成、称源助、号素琴堂】    石丸三亭 【旧幕藩学問所勤番、後曲江門人】    増田象江 【旧本庄藩、初称小島鉄蔵、明治廿四年冬出京、実に五十年にて面会なす】    町田文桂     河内半蔵 【武蔵国竹之塚村農】    田沢豊次郎【旧幕藩士】    山本文豕 【旧一橋藩、字義胤、称十次郎】    岡田文錦 【同上】    尾手晁菜 【旧佐倉藩、八町掘住、称啓次】    酒井文成 【越後人、農、号紫竹斎、称松蔵】    田代永陵 【上総国神官、称太一郎】    柳沢文真 【信濃国ノ仁】    青野文定 【旧幕藩表坊主、伝斎舎弟、下谷住、号得之、夜継庵、定次郎、旧夜雪庵門】    大西椿年 【字大寿、旧幕藩蔵手代、称行之助、号楚南、浅草蔵前住、門人川上冬涯、関根孔年】    依田竹谷 【字叔年、名瑾、号凌寒、雲道人、同藩、男竹村】    松本交山 【深川二軒茶屋住、男一山、男亀岳】    鏑木雲潭 【字三吉、市川米庵舎弟、男雲洞】    佐竹永海 【旧彦根藩、両国若松町、字岡村、号愛雪、天水翁、九成堂、門人松本楓湖、福田永斎、          養男永湖、門人佐竹永邨】    相沢石湖 【旧一橋藩、下谷長者町住、武蔵岩槻産、男文石、門人鈴木我古、栗山石宝】    目賀田芥庵【旧清水藩、初称鎌三郎、又庄兵衛、名守道、号文村、望岳楼、文信弟、浅草住、明治十三          年四月廿七日歿、門人岸光景、小林清景、大矢木雨香、大矢木也香】    大岡雲峰 【称治兵衛、旧幕藩大御番隠居、四ッ谷住、門人栗本翠庵、小山翠巒、滝和亭、中川大峰、          井川雲章、奥田一渓】    横井文松 【同藩表坊主、称栄藩】    田中文清 【旧館林藩、本所住、称為吉】    横山文堂 【旧吉田藩、下谷池ノ端住、称三助】    田村文秀 【旧浅草三社神官、浅草仲町住、称浅之助】    栗原春斎 【名順英、字叔華、号同、又芳山】    栗原玉堂 【号蘭海楼、旧幕藩、名瑛、字梅村】    木村文貫 【旧幕藩獄屋同心、称万之助、神田住】      矢部文斎 【名武服、字定国、旧幕藩、号同、称十五郎、本所住】    稲田文笠 【名習、字差吉、旧吉田藩、号樫軒、三河国吉田住】    田辺文琦 【名同、字同、号青霞軒】    文海   上野陵雲院中僧【字旭堂】    佐藤梅宇 【名矢、字軒、旧荘内藩、号梅宇】    文圭   【深川住、平民】    文溟      浅尾大嶽 【旧名名古屋藩、名英林、称英助】    羅漢   【越後人】    文洪   【根岸住、平民】    文水       文善   【浅草蔵前住、平民】    文普       文智   【丸山本妙寺、中本堂院主】    文友    文谷    文岳    幽斎    文達    文亀    文圭   【旧上田藩】    椎名文囿女史【称於吉、深川住、平民】    中川文雪女史【称於美濃、平民】    望月文菊女史【称於菊、本郷住、旧幕藩、□妻】    田村文呂女史【浅草三社神官田村八太夫女、於比野】    八十島文雅女史【称於加子、牛込山伏町住、旧幕藩、同姓姉周助長女】    名倉文光女史【旧佐野藩、弥次兵衛妹、称於光】    山本文香女史    文江女史     文二門人 小林文周【亡、名槃、号元史斎、字子磚】          井上文竜     文中門人 豊野文昇【橘町住、亡】          白石氷岩【旧水戸藩、亡】    末弟 野村文紹【祖先以来代々旧幕具足同心、又旧海軍所絵図方、鉄道権中属、寛永年間祖先以来下谷            住、旧御具足町改下車坂町】           【名高明、又号横好、字順、号木風子、台麓、初称子之助、壮右衛門、文蔵男】           【柳眼高橋巳之七早世】           【門人岩崎狙斎、吉原紹全、大久保雄之助、室本次郎、宮永栄、文泉、長峰、東郭、            豊野、文昇、宮田信、上月高野、佐藤セウ、斎藤セイ、稲野】     明治十五年八月     同十八年六月改正、于時七十叟     同十九年三月附録成              或書中抜写    文化二年丑八月、下谷なる谷文五郎、画名文晁【元文麗門人、今唐画師】召仕い下女、毎夜鬼の夢を見    おかさるゝこと、しばらく日数ふれどもやまず、文晁下女にたづねけるは、其方、夜中小便にまいるに、    雪隠へまいらずして、途中にて小便致や、と申ければ、下女雪隠まで参よし申侍る、文晁重て申は、か    くし候へば罰当り候、かくさず申聞すべし、定めて、もちの木の所へ小便致ならん、さ様なるや、とた    づねければ、下女、仰の通、雪隠まではこはく候儘、もちの木の所へ致候、と申、依て、然ば堀見るべ    しとて、早速堀候所、京都二月堂の鬼瓦有之候ゆゑ、取上げあらひきよめ、床の上に置候、下女は其夜    より夢も見ず、おかされずとなり、    文晁翁若年の頃、向島辺の寺に古青亀の石塔有しかば、好古の癖とて持帰りしに、父麓谷見て呵りしか    ば、元来孝心なれば、早々寺の元地へ居置て、住僧に面会なし、右石塔は我等由緒あれば、回向なし被    下とて、回向料差出、帰宅なしけるよし、    山東京伝折々参て雑談なし、或時、終夜明たるも不知、雑談なしける内、客来りて、いまだ燈火の有る    はいかなるにや、とたづねしとぞ、且、京伝多弁にはなく、弟京山は話も多かりし由、    二世文一の記、水戸旧藩士立原翠軒かたへ、文一或時参りける時、翠軒曰、今日老公仰には、文一参り    居よし、明日面会なすべしとのことなり、と申聞せしに、翌朝早々江戸へ帰府せり、後に此ことを咄せ    しかば、何ゆゑ御目見えなされずや、と尋ねしに、面倒なれば、早々帰りたり、と云たりし、    或時、因幡国鳥取藩士島田元旦は大伯父なれば、冬の日止宿なせしに、毎々同家の鶏を野狐にとられ、    困るよし咄しければ、さあらば、今夜その野狐をとらへべしとて、まづ馬屋の辺へ出たる鼠を取りて油    にて煮、折ふし大雪ふりければ、庭に高くつもりし雪を、深々と穴をほりて、其穴のくちへ細引をわな    にしかけ、其はしを雪にてうめかくし、椽がわの戸を細く明、ほそ引のはしを持て待たるに、夜半の頃、    一ぢんの風につれ、一疋の狐あらはれ出、頓て雪の穴のほとりをかけまわり、酒宴の席にて狐つりてふ    遊戯のごとく、穴をのぞき、又はかけ廻り、幾度もかけあるき、頓て穴へ首をいれはいりければ、爰ぞ    と細引をひきたり、庭へかけおりしに、早くも逃去たれば、穴の中をうかゞひ見しに、いつか横に穴を    ほり、鼠はなかりけるよし、老狐の智には皆々驚きたり    或時、箱根辺へ二人連にて参りしに、同所は度々通行せしが、画工にて通行なしたくとて、同道人にわ    かれ、一人にて関所へ参りしに、手形なくては通し難し、と改られ、又々同じく願出、三度目には、何    者なるか、と尋ねられしかば、画工なり、と答へければ、何人の門人なりや、と尋ねられしかば、谷文    晁門人文山と答ければ、さあらば画を認むべしとて、扇面を出しければ、椽がわへ腰をもかけず、大地    にかゞみ、安宅の関弁慶がかんじん帳、弁慶は蛸の入道、関所のかざり鉄炮は、いせ海老をならべ認た    り、番人一覧なし、見事なりとて、又々扇子数本認させ、其内番人の家内なるか、障子の内より婦人の    のぞくけわひあり、頓て通るべし、と曰にぞ、立出て、連は近村の家へ泊り居にぞ、右の件にて時刻う    つり、夜に入り、しらぬ田ンぼ道をやう/\尋ね行、困りたるも心がらなりと、あとは笑ひになりしと    ぞ、    同人洋行を久々志願なる所、先年初てアメリカ出張の官吏に付て出帆なし、先支那に上陸なし、彼地の    者におふせつなしけるに、一人の支那人、是が文晁の孫なるか、としたしく曰けるよし、    往年、各関所より、折々文晁方へ使参り、此頃、何々と申者、貴家の門人のよしにて通行なせしが、此    者門人に相違なき哉、と問合せ参りけるよし、    是等のゆゑに、門人の遊れき人へ、門人に相違なしといふ証書を、書与へしこと度々あり、    天保の頃、小唄に「此頃のはやりもの、画師は文晁、詩は五山、料理八百膳、きんぱろう、わたしやひ    ら清がよいわいな」其頃、芸者もつぱら唄ひしなり、    末女ひさなる者、十三四才の頃、よぶに、ぼうず/\と声懸しを、客はふしんなるおもゝちなしければ、    かれが名はひさと申が、ひさ/\とよぶが、声のつゞきあしきゆゑ、かく呼立ると、度々客に話しける、    此婦人至て壮健にて、高名輪毛利家に仕へ、本年七十三の高齢にて、益々すこやかなり、廿七年七月附    録〟    ☆ 明治十六年(1883)   ◯ 第四回 観古美術会〔11月1日~11月30日 日比谷大神宮内〕   『第四回観古美術会出品目録』竜池会編 有隣堂 明治16年刊(国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十六年十一月序)   〝谷文晁 蘆雁枯蓮雁 双幅(出品者)田中四郎左衛門        富士越龍図 一幅(出品者)岡倉覚三        淡彩山水  一幅(出品者)岡倉覚三        蛭子像   一幅(出品者)岡倉覚三〟  ☆ 明治十八年(1885)  ◯ 第六回 観古美術会〔10月1日~10月23日 築地本願寺〕   『第六回観古美術会出品目録』竜池会編 有隣堂 明治18年刊(国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十八年十月序)   〝谷文晁 水墨山水屏風 一幅(出品者)田沢静雲〟   ◇第二号(明治十八年十月序)   〝谷文晁 山水     双幅(出品者)池田章政〟   ◇第三号(明治十八年十月序)   〝谷文晁 青緑山水   一幅(出品者)伴野三司        人物図    一幅(出品者)浜村大◎〝  ☆ 明治十九年(1886)  ◯ 第七回 観古美術会〔5月1日~5月31日 築地本願寺〕   『第七回観古美術会出品目録』竜池会編 有隣堂 明治19年刊(国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十九年月序)   〝谷文晁 山水 賛栗山 一幅(出品者)説田彦助        前後赤壁図  双幅(出品者)亀一山〟   ◇第三号(明治十九年五月序)    谷文晁 八大龍王   一幅(出品者)徳田多助        松竹梅図   三幅(出品者)磯泉太郎〟  ☆ 明治二十七年(1894)  ◯『名人忌辰録』上巻p30(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊)   〝谷文五郎 文晁    麓谷の男、号写山楼、又画学斎、薙髪して文阿弥。天保十二丑年十二月十四日【表向同日(ママ)二十五日】    歿す、歳七十八。浅草源空寺に葬る〟    ◯『病牀六尺』「七」明治三十五年(1902)五月十日(正岡子規著・底本岩波文庫本)   〝文晁の絵は七福神如意宝珠の如き趣向の俗なるものはいふ迄もなく山水又は聖賢の像の如き絵を描ける    にも尚何処にか多少の俗気を含めり。崋山に至りては女郎雲助の類をさへ描きてしかも筆端に一点の俗    気を存せず。人品の高かりし為にやあらむ。到底文晁輩の及ぶ所に非ず〟    〈存命中を比較すれば谷文晁の方が渡辺崋山より高名であったのだが…。子規は崋山の超俗を高く評価する。人品の高     低は自ずと作品中に現れると子規はいう、つまり画格は画く対象や画く技術から生ずるのではなく画家の品格に由来     すると〉    ◯『零砕雑筆』〔続大成〕④252(中根香亭著・成立年未詳)   〝文晁の狂歌      七十七下からよめど七十七中からよみし時もあつたが    是は柴田是真翁の所蔵にて、短冊に書しあり〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「文化二年 乙丑」(1805)p173   〝此年、谷文晁の『名山図譜』、       抱一・文晁・武清・文一・鏑木雲潭・島田元旦・三好汝圭等の画ける『名花交叢』出版〟    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双六の話 川柳俳句双六」p154   〝狂歌、川柳、俳句などを加えた双六も種々あるが、最も古いのは明和二年版の英一蝶の俳句入「梅尽(ウ    メヅクシ)吉例双六」で、文晃一門合作の俳句入り「江の島文庫」なんて上品なものもある。「狂歌江戸    花見双六」「寿出世双六」(狂歌)「孝不孝振分双六」(川柳)「名所遊帰宅双六」(狂歌)去来庵選の俳    句入り「江戸名所巽双六」という北斎の画品の高い挿画の逸品がある〟     ◇「水浴させた文晃の画 絵具の使い方を知らぬ画」p238   〝青緑山水の得意な文晃なども着色は確かなものであった。故田口米作画伯が文見の寿老人の画幅を愛蔵    していたが、あるとき幼い令息が、件の画幅へ赤インキを垂らした。画伯は直ちに物干しへ持ちだし、    画面へざあざあ水をかけた。門人が驚いて先生大丈夫ですかというと、画伯は「文晃の彩色だからこの    くらいのことは平気だ」としきりに如露(ジヨロ)で水をかける。なるほどインキはほとんど消えたが、胡    粉を塗った鶴の姿も寿老人の彩色もなんら異状がなかった。さすがに文晃だが、これを確信して大切の    画幅を水攻めにした米作画伯の度胸もよい〟    △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「浅草区」源空寺(北清島八一)浄土宗   〝谷文晁(画家)麓谷の男、通称文五郎。初め加藤文麗につき、北山寒巌に宋元の画風を学び、一家を成    して高名を博す。山水、花鳥、人物皆精妙なれど殊に山水を得意とす。古絵目録、日本名所図絵外数種    の著書あり。天保十一年十二月十四日歿。年七十八。本立院殿法眼生誉一如文晁居士。指定史跡〟    ◯『鏑木清方随筆集』「宝船」p25(鏑木清方著・昭和十七年一月記)   〝ただに初夢というだけでなく、今日の時世、いやいや後にいつまでも訓戒になる宝船がある。    それは白河楽翁公(注、松平定信)が谷文晁に外国の軍艦(その頃いわゆる黒船)をかかせて、公自ら    「このふねのよるてふことを夢の間も忘れぬ御世のたからなりけり」と讃したものがあるということで    ある。    時代も新しことであるから今でも残っているのであろうが、私は本に出ていたものしか見ていない。さ    すがに楽翁であり、その趣向にもやはり時代の風潮というか、好尚というか、そんなものが倹約一点張    りのように思われいる公にも滲透してしているのに微笑される。原画がどこかにあるならば複製して、    初夢の宝船を再確認するのもよかろう〟      ◯『明治のおもかげ』p240「喰わせ物」(鴬亭金升著・昭和二十八(1953)年刊)   〝或る家へ切れ切れになった古い絹を持って来た者がある。    「これは文晁(ブンチヨウ)の山水、大したものですが、去る所で御主人が浮気したのに奥さん大立腹(ダイ    リツプク)で、御秘蔵の幅(フク)をこんなに切ってしまいました。それで五十円とは廉(ヤス)いでしょう、う    まく継ぎ合せれば役に立ちます」と言うに、経師屋(キョウジヤ)に命じ巧みに継合せて表装して五十円払    い、百円散在したが、鑑定家に見せると「真赤な贋物(ニセモノ)、十円でもいやだ」    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔谷文晁画版本〕    作品数:81点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:谷文晁・文晁    分 類:絵画37・狂歌7・漢詩6・紀行6・画帖4・書画4・庭園3・地誌2・印章2・植物2・        伝記1・漢学1・祭祀1・書道1・俳諧1・随筆1・戯文1・その他1    成 立:天明7~8年(2点)        寛政5~6・9~11年(10点)        文化1~6・8~9・14年(9点)        文政3~4・8~9・12年(9点)(文政年間合計11点)        天保3~4・6~9・14(9点)
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