Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ ぶんちょう いっぴつさい 一筆斎 文調浮世絵師名一覧
〔生没年未詳〕
 ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』〔目録DB〕  :「日本古典籍総合目録」   〔小咄〕  :『江戸小咄辞典』      〔噺本〕    :『噺本体系』   〔狂歌書目〕:『狂歌書目集成』      〔国文研・艶本〕:「艶本資料データベース」   『浮世草子考証年表-宝永以降』長谷川強著   「江戸顔見世番付諸板一覧」『近世文芸 研究と評論』34-36号   『稗史提要藁本』比志島文軒(漣水散人)編   『黄表紙總覧』前編 棚橋正博著・日本書誌学大系48   『洒落本大成』1-29巻・補巻 中央公論社    ◎は表示不能文字  ☆ 宝暦五年(1755)    ◯『浮世草子考証年表-宝永以降』(宝暦五年刊)   『栄花遊二代男』横本 五巻五冊    板元 玩月堂堀野屋 小倉仁兵衛板 刊記「宝暦五乙亥のとし正月吉日」   (「年表」は「二之巻一の挿絵、布袋の掛物に「文調画」とあり、即ち一筆斎文調の画なり」とする)
   『栄花遊二代男』挿画 文調画(東京大学附属図書館「電子版 霞亭文庫」)    ☆ 宝暦十年(1760)    ◯「日本古典籍総合目録」(宝暦十年)   ◇黒本 青本    一筆斎文調画『二代政宗』    ☆ 明和元年(宝暦十四年・1764)    ◯『浮世草子考証年表-宝永以降』(宝暦十四年刊)   『梅桜一対奴』半紙本 五巻五冊 泉花堂三蝶作 宝暦十四年(1764)正月刊    序 「于時 宝暦十四申の初春 東武 南梅枝門人 泉花堂述」    署名「守文調画」(巻之五挿画)    刊記「泉花堂蔵板 売弘所 東叡山下竹町 花屋久次郎」    ☆ 明和七年(1770)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(明和七年刊)    一筆斎文調画『絵本舞台扇』彩色 三巻 勝川春章画 文調画〔一筆斎〕雁金屋伊兵衛板    ◯『役者裏彩色』明和七年刊役者評判記(八文字屋八左衞門著・『歌舞伎評判記集成』第二期十巻p31)   〝若女形之部    見立浮世絵師に寄ル左のごとし   【いわくあり開口】山下金作   森田座  何をされてもわつさりとする春信  〈鈴木春信〉    上上吉     吾妻藤蔵   市村座  武道にはちと角があつてよい菱川  〈菱川師宣〉    上上吉     中村喜代三郎 同座   どふみても上方風でござる西川   〈西川祐信〉    上上半白吉   中村松江   中村座  思ひのたけをかいてやりたい一筆斎 〈一筆斎文調〉    上上白吉    尾上松助   市村座  此たびはとかくひいきと鳥居    〈鳥居清満か〉    上上半白吉   瀬川七蔵   中村座  瀬川の流れをくんだ勝川      〈勝川春章〉    上上半白吉   山下京之助  森田座  風俗はてもやさしひ歌川      〈歌川豊春〉    上白上     尾上民蔵   市村座  うつくしひ君にこがれて北尾    〈北尾重政〉    上上      嵐小式部   森田座  いろ事にかけては心を奥村〟    〈奥村政信〉    ☆ 明和年間(1764~1772)    ◯『売飴土平伝』〔南畝〕①385(明和六年三月刊)  (「阿仙阿藤優劣の弁」お藤の美貌を)   〝雑劇(キョウゲン)趣を写し、錦画世に伝ふ。春信も幾たびか筆を投げ、文調も面(カホ)を肖(ニ)せ難し〟    〈文調の評判は似顔絵にあったようだ。春信の項参照〉    ◯『明和誌』〔鼠璞〕中193(青山白峰著・宝暦~文政記事)   〝明和頃役者似顔の一枚絵はじめて出る。一目にてたれと分り候やう書ことなり。画は、勝川春章、文調    といふ両人なり〟    〈一枚絵ではないが、春章と文調の競作で役者似顔絵の『絵本舞台扇』が出版されたのは、明和七年(1770)のこと〉
   『絵本舞台扇』勝川春章・一筆斎文調画(国立国会図書館デジタルコレクション)    ☆ 安永五年(1776)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安永五年刊)    一筆斎文調画『末摘花』二編一冊 文調画 あさくさ似実軒序 星運堂板    〈「文調画」の署名がある「あさくさ似実軒」序の二編は天明三年の刊行。安永五年の初編の画工は二編のように署名がない     から判然としないが、挿絵の小間物屋の行商の背負い荷物に「小間物品々 雪仙画」とあり、この雪仙の挿絵と考えられる〉    ☆ 安永七年(1778)    ◯『黄表紙總覧』前編(安永七年刊)    文調画『三歳繰珠数暫』署名「湖龍画・文調画」「肝釈坊戯作」板元不明    〈肝釈坊に「焉馬」の印あり。すなわち烏亭焉馬の戯作。備考、文調の黄表紙は本作のみとする〉    ☆ 安永九年(1780)    ◯『狂言絵本年代順目録』(漆山又四郎(天童)著)   ◇芝居番付(安永九年刊)    五月 市村座「女伊達浪花帷子」不記名・文調風    ☆ 安永年間(1772~1780)    ◯『洒落本大成』第十四巻(安永年間刊)    文調画『性売往来』署名「文調画」根柄金内著〈解題は安永末から天明にかけての出版とする〉      ◯「艶本年表」(安永年間刊)    一筆斎文調画『三十六歌仙』色摺 小判 二十二図 安永末年頃〔日文研・艶本〕〔白倉〕    (白倉注「小錦三十六枚組物か、文調画としては、竪中判、横中判の各一点の組物がある」)    ☆ 天明三年(1783)  ◯『末摘花』二編 似実軒編(『誹風末摘花』岡田甫編・第一出版社・昭和二十七年刊)    一筆斎文調画 署名「文調画」  ☆ 刊年未詳  ◯「往来物年表」(本HP・Top)〔国書DB〕    一筆斎文調画『名物往来文宝蔵』見返し「文調図画」村田治郎兵衛 江戸中期     ☆ 没後資料    ☆ 寛政十二年(1800)    ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕⑱444(寛政十二年五月以前記)   〝一筆斎文調(以下朱筆)門人岸文笑(以下二行割書き)【絵冊子ニ此名アリ/狂歌士頭光】〟    男女風俗、歌舞伎役者画ともにつたなき方なり〟    〈「狂歌師頭光」は細字二行の朱註記事で岸文笑に関する注記である〉    ◯『古今大和絵浮世絵始系』(笹屋邦教編・寛政十二年五月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)   〝一 役者似顔上手 一筆斎 文調      二代目八百蔵似顔上手 亀井町〟    ☆ 享和二年(1802)    △『稗史億説年代記』(式亭三馬作・享和二年)〔「日本名著全集」『黄表紙二十五種』所収〕   〝草双紙の画工に限らず、一枚絵の名ある画工、新古共に載する。尤も当時の人は直弟(ヂキデシ)又一流あ    るを出して末流(マタデシ)の分はこゝに省く。但、次第不同なり。但し西川祐信は京都の部故、追て後編    に委しくすべし    倭絵巧(やまとゑしの)名尽(なづくし)     昔絵は奥村鈴木富川や湖龍石川鳥居絵まで 清長に北尾勝川歌川と麿に北斎これは当世      文調  (他の絵師は省略)〟
   『稗史億説年代記』式亭三馬自画作(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)        〝青本 草双紙いよ/\洒落る事を専一とする。当世風体此時より始まる    袋入 袋入本始まる。茶表紙に細き外題。袋入にして青板とは別板なり    画工 柳(ママ)文調、役者似顔の元祖、勝川春章に続いて似顔画を書く    〈「春章に続いて似顔画を書く」とあるから、一筆斎文調の誤記であろう。次項もそうだが、「画工」とあるものの、     このあたりから、三馬は青本の画工というより、当時活躍した浮世絵師を取り上げているように思う〉    同  鈴木春信、湖龍斎、女絵の一枚絵一流なり。柱隠し女絵本はやる〟    〈三馬は別のところで「昔より青本の画をかゝざる人の名」を十三人の浮世絵師をあげているが、春信も湖龍斎もそれ     に入っている。従ってこの「画工」は、この青本当時の絵師として春信や湖龍斎をあげたものと思われる〉     〝昔より青本の画をかゝざる人の名    奥村   鈴木春信  石川豊信  文調    湖龍斎  勝川春章  春好    春潮    春林   春山    春鶴    春常 【勝川門人数多あり】    歌川豊春 【此外にも洩れたる画者多かるべし。追て加之】〟    ◯『一筆斎文調』(「早稲田大学演劇博物館所蔵 芝居絵図録1」・1991年刊)   〝一筆斎守氏文調子は、石川幸元叟を師として倭画をよくし、又みづから浮世絵を好て、わざをぎの人の    面を写す事きはめて妙なり。そのかみ奥村、鳥居などが丹画、漆画といひしも、紅粉ゑに押移たる世に    守氏生れ出て、あらたにきめ出しといふことを工夫し、奉書にすりしより、さながら戯場の舞台にある    をみるが如し。百吐、一瓢かたち芸ともいかで此筆には及べきと思はる。栢莚が後の五粒盛なる比は、    是をよく肖せたれば、実に木場の親玉歟、筆の親玉歟とわきがたきまでにて、暫の篠塚がゆるぎ出す御    神輿には足利の足を空にして迯るかと思はれ、景清が清水のさつたを信仰するせりふには、右幕下のな    さけもをのづからしらるゝあり。慶子が所作の手のこまやかなるも画中にみゆ。かゝる妙手なりしも、    己が号の一筆を残して七とせ先、黄なる泉におもむき、今は釈尊閻王の似顔かく仏画師となりぬるぞか    なしき。扨こたみその未亡人の刀自、門葉の文康、舟調など聞ゆる人々追福のいとなみせんとて、楊柳    橋辺の万発楼に水無月十二日を卜し、知己の名だゝる画家を請し席画を催し、諸君子をねぎらひ、且は    墨水の流に暑をさけ、かはほりの風のまにまに文調が噂なし玉はらば、大乗妙典のくりきにもまさらま    しと、催主のもとめに応じてしるすことゝなりぬ                                            尚左堂俊満      かきのこす筆の似顔の七へん化早かはりなるきのふけふかな〟
   (摺物の上部には、当日の席画に参加したであろう絵師の絵があって、それぞれに以下の署名が入っている)    「豊廣画・堤孫二筆・豊国画・春秀蝶・寿香亭目吉筆・画狂人北斎画・歌麿筆・雪旦・春英画」
   〈この摺物は文調の七回忌に出されたものだが、年記がないので年代が分からない。それでも北斎が「画狂人」を名乗     っていることから、ある程度推定が可能のようで、『浮世絵大事典』の項目「一筆斎文調」は「享和元年~二年(1801     ~02)頃のもの」としている。そしてまた文調の没年をも「寛政八~十年(1796~98)」と推定している。この七回     忌は六月十二日(文調の忌日か)柳橋の書画会場として有名な料亭、万八楼で行われた。この俊満の摺物から、文調の     姓が守、師が石川幸元、文康・舟調は文調の門弟であることが分かる〉    〈島田筑波の「浮世絵雑考」(日本書誌学大系49『島田筑波集』上巻)を対照して、上掲追善文の空白箇所等を改めた。     2017/12/10追記〉     ☆ 文化初年(1804~)   ◯『反故籠』〔続燕石〕②170(万象亭(森島中良)著、文化年中前半)   (「江戸絵」の項)   〝(筆者注、春信の錦絵登場)引続て、一筆斎文調、勝川春章、似顔の役者絵を錦摺にして出す、是をき めといふ〟    ☆ 文化五年(1808)    ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年補記)   〔「浮世絵類考論究10」北小路健著『萌春』207号所収〕   〝一筆斎文調【桑楊庵、頭光 亀井町住】    男女風俗、歌舞伎役者画ともにつたなきかたなり。されど二代目八百蔵の似顔を能くし、板下を多く画け    り〟    〈二行割書きの【桑楊庵、頭光 亀井町住】は、大田南畝の『浮世絵考証』では岸文笑の記事に付いていたのだが、石     川雅望はなぜか、一筆斎文調に付けている。「男女風俗」以下の記事は南畝のものと笹屋邦教編の『古今大和絵浮世     絵始系』の記事をそのまま使っている〉    ☆ 文化八年(1811)    ◯『一話一言 補遺参考編一』〔南畝〕⑯110(文化八年五月二日明記)  (「雲茶会 二集」(凡例参照)に老樗庵主人の出品として)   〝大谷十町似顔 文調筆一片〟    〈文化八年で明和期の文調画は珍重すべき作品になっていたのか〉    ☆ 文化十三年(1816)    ◯「杏園稗史目録」〔南畝〕⑲485(文化十三年明記)  (この年の南畝の収得書目として〉  〝舞台扇 三冊 明和七年庚寅 春章 文調画〟    〈『絵本舞台扇』を入手したのは出版後四十六年の後であった。この記念すべき作品の存在を、南畝はずっと気に留め     ていたのであろう〉    ☆ 文政二年(1819)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政二年刊)    一筆斎文調画    『絵本舞台扇』三冊 勝川春章画 文調画 鶴屋喜右衛門他板              浪速狂画堂蘆洲画 同嫚戯堂暁鐘成編 摂陽西隺孫東隺序              〈初版は明和七年〉    ☆ 天保四年(1833)   ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③295(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝一筆斎文調【(空白)年中ノ人】     俗称(空白)、住居亀井町、狂歌師頭光なり    文調は、男女流行の風俗を画き、あるひは役者画もかけり、拙き方なれども、板下画に出たり 類考    類考附録に曰、文朝は役者画の上手、二代目八百蔵の顔をよく似せたる、とあり〟    〈「狂歌師頭光なり」としたのは何に起因するのであろうか。上出『浮世絵考証』の細字二行の朱注記事が写本で伝わ     ってゆく過程で、いつの間にか岸文笑に対する注ではなく、文調に関する記事となっていったのではあるまいか。と     もあれ、この文調・頭光同人説は、後出のように、斎藤月岑の『増補浮世絵類考』から明治の『浮世絵画人伝』にま     で引き継がれてゆく〉    ☆ 天保十一年(1840)    ◯『古今雑談思出草紙』〔大成Ⅲ〕④97(東随舎著・天保十一年序)   〝安永年中、一筆斎文調といふものこそ、芝居役者の似顔といふものを書出したり。名誉の筆勢、能其顔    色かたちまでを写せしなり〟    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   〝一筆斎文調 (空白)年中の人     俗称(空白)住居 亀井町、狂歌師 頭光(ツフリノヒカル)門人 岸文笑    文調は、男女風俗の流行を画き、あるひは役者画も〈多く〉かけり。拙き方なれども、板下画〔に〕出た    〈せ〕り。(類考)    類考附録に云、文朝は役者画の上手、二代目八百蔵の㒵をよく似せ〔て〕〈たり〉とあり。    月岑按るに女絵は鈴木春信が画風を似せたり。奉書四ッ切の絵あり〟    ☆ 嘉永三年(1830)  ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1392(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝文調 号一筆斎、住亀井町、二代目八百蔵似貌上手、明和比人       男女風俗、歌舞伎役者画ともに拙きかたなり【浮世絵類考】    佳気園云、なる程少し拙き所あれども、春章の方、世間にて多く用ひし故に、似貌画をやめ尋常の浮世    絵を画し様子也【同書】
   画本舞台扇二冊、役者似貌、春章文調寄合書、文調印[印章]「守氏」(朱文方印)    跋ニ文調の発句あり云、ゑの事は素顔を後ぞ不二の春〟    〈文政七年(1824)刊の『茶席挿花集』に佳気園(柿園)著・岩崎常正(灌園)画・芳亭野人編とあるが、この佳気園     と同人であろうか〉    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪204(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝一筆斎文調    亀井町に住す。狂歌をよくして名を頭光といふ。男女風俗の流行を画き、又役者画は上手にて二代目八 百蔵の貌をよく似せたり。門人に岸文笑といふ有り〟    ☆ 明治年間(1868~1911)    ◯『扶桑画人伝』巻之四(古筆了仲編 阪昌員・明治十七年(1884)八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝文調    姓氏、詳ナラズ、名ハ文調、一筆斎ト号ス。男女ノ風俗及ビ歌舞妓役者絵等ヲ画ガク、然レドモ巧ナラ    ズ、後チ法橋ニ叙シ、浮世絵ヲ廃止ス〟  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)   〝明和 一筆斎文調    明和安永頃の人、当時の風俗を美麗に写す〟    ◯『日本美術画家人名詳伝』p20(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)   〝一筆斎文調    名ハ頭光、東京人、狂歌ヲ能シ、男女ノ風俗役者画ヲ画ク、時代未詳〟    ◯『古代浮世絵買入必携』p19(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)   〝守文調    本名〔空欄〕  号 一筆斎  師匠の名〔空欄〕  年代 凡百年前より百廿十迄    女絵髪の結ひ方 第五図 (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    絵の種類 並判、中判、小判、細江、絵本、肉筆    備考  〔空欄〕〟    ◯『浮世絵師便覧』p226(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝文調(テウ)    一筆斎と号す、石川幸元門人、岸氏、名は誠之、俗称宇右衛門、寛政八年死〟    〈飯島虚心のこの記述には頭光の文字は見当たらないが、「岸氏、名は誠之、俗称宇右衛門、寛政八年死」は明らかに     岸文笑(頭光)のものである。つまり虚心は文調と頭光とを混同している〉    ◯『読売新聞』記事(小林文七主催「浮世絵歴史展覧会」明治30年(1897)1月18日-2月10日)   ◇1月20日記事   〝陳列中優逸にして 一幅百円以上三百余円の品    (第八十七番)湖龍文調春章合筆 あつさしらずの図〟〈「番」は陳列番号〉   ◇1月27日記事   〝浮世絵歴史展覧会の外人の評    仏人ゴンス氏    骨法の建(けん)なる意気の迫れる点線 挙げて神に入れるもの 勝川春章に若(し)くはなし 嘗て一筆    斎文調に倣ひ共に舞台扇を写す 文調をして愕然たらしめ 又北尾重政と美人合を作るや 重政をして    暗に己(おのれ)が運筆の硬きを覚らしめきと云ふ 春章なかりせば浮世絵は風采に乏しきものたるの誹    りを免れざりしならん 春章は真に浮世絵界の一英傑なり〟  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(34/103コマ)   〝守文調【明和元~八年 1764-1771】    岸氏、名は誠之、通称卯右衛門、一筆斎と号す、壮年のときより、頭の兀げて赤く光れるをもて、つふ    りの光と戯名し、桑楊庵と号して狂歌を詠みしが、後に蜀山人より巴人亭の号を贈られ、狂歌四天王の    一人と称せらる、画を石川幸元に学びて、多く俳優の似顔絵を画けり、寛政八年四月十二日没す、遺骸    は駒込瑞泰寺に葬る、法号恕真斎徳誉素光居士    (本伝は『狂歌作者部類』『狂歌年代記』『奴師労之』『増補浮世絵類考』等に拠る)〟    ◯『新撰日本書画人名辞書』下(画家門 青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(163/218コマ)   〝文調    一筆斎と号す 初め俳優及び男女風俗の図を画く 後法橋に叙せらる 是より後 又浮世絵を描かず    (扶桑画人伝)〟  ◯『浮世画人伝』p54(関根黙庵著・明治三十二年(1899)五月刊)   〝一筆斎文調(ルビいつぴつさいぶんてう)    一筆斎文調は江戸の人、本所亀沢町に住めり、斎藤月岑が随筆『蜘之糸巻拾遺』に宝暦年中より、歌舞    伎役者を画き創るもの、文調、続きて勝川春章、春好、春英等なりとあり、されば俳優の似顔を画きし    は文調を以て嚆矢とす。文調の画艶麗にして能く其当時の風俗を写せり、俳優の似顔にては二代目中車    (市川八百蔵)を画くに最も妙を得、殆ど真にせまりて口を開き、物云はんとするの風情ありきとぞ。    文調また狂歌をよくし、雅号を頭之光と号したりき〟    ◯「集古会」第五十七回 明治三十九年(1906)三月 於青柳亭(『集古会誌』丙午巻之三 明治39年5月)   〝林若樹(出品者)明和年間芝居狂言団扇絵板本 十二枚     筆者は勝川春章一筆斎文調等なり 狂言は歌舞伎年代記等に洩れたるもののみにして 開場の年月     等未だ詳かならず 内文調筆にして明和二年三月三代目坂東彦三郞改名の際の図一枚あり  ☆ 大正年間(1912~1825)    ◯『浮世絵』第六号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「一筆斎文調の絵馬」(5/25コマ)   〝角筈十二社(そう)にある文調の絵馬は中々佳い出来である 巾六尺、丈五尺位で 市村亀蔵・大谷鬼次    ・尾上民蔵、中山富三郞等 八人斗り描いてある、社殿を昇つて内側の左側に納つて居るが 今の保存    法をよくしないと 段々絵の具が剥落しそうで剣呑で仕方がない〟    〈角筈十二社とは角筈村の熊野十二所権現社〉  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)   ◇小林亮一所蔵〈小林文七嗣子〉    湖龍斎、春章、文調合作「美人若衆図」(湖は美人立姿、春は美人坐姿、文は若衆坐姿)  ◯「集古会」第百四十九回 大正十四年(1925)一月(『集古』乙丑第二号 大正14年2月刊)   〝三村清三郞(出品者)一筆斎文調 肉筆 牛童半切 一幅〟  ◯「集古会」第百四十九回 大正十四年(1925)一月(『集古』乙丑第二号 大正14年2月刊)   〝林若樹(出品者)一筆斎文調 細絵 天神 一枚〟  ☆ 昭和年間(1926~1987)    ◯『狂歌人名辞書』p194(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝一筆斎文調、姓柳氏、通称未詳、東都の浮世絵師、石川孝(ママ)元門人にして風俗画、俳優似顏絵を能く    す、文化の末歿す、年七十、文調を狂歌師つぶり光の画名とするは誤り〟    〈狩野快庵は文調とつぶり光を別人とした。それはよいのだが、守とあるべき姓を柳とし、没年を文化末とし、石川幸     元の師名を孝元と記している。何に拠ったのであろうか〉     ◯「日本小説作家人名辞書」p707(山崎麓編『日本小説書目年表』所収、昭和四年(1929)刊)   〝一筆斎文調    柳川氏、一筆斎文調と号し、石川孝(ママ)元門人、江戸の浮世絵家、本所亀沢町に住む。俳優似顔絵に巧    で、特に二世市川中車は得意であった。文化末年歿、年七十。「二代政宗」(宝暦十年〈1760〉刊)の    作者〟    〈「日本古典籍総合目録」『二代政宗』黒本・一筆斎文調画・宝暦十年刊〉    ◯『浮世絵師伝』p166(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝文調    【生】  【歿】  【画系】石川幸元門人  【作画期】明和~安永    守氏、一筆斎(落款には齋を齊とせるもの多し)と号す、美人画と役者絵をよく描けり、彼は春信及び    春章等と時代を同じうし、画風亦両者を折衷せしが如き特徴を有す、即ち春信の抒情的なると、春章の    写実的なるとの中間に位し、其處に彼の本領を発揮したりき、描く所の錦絵甚だ多数に上れるが、殆ど    一枚すら駄作を出さゞりしも、細判のみ多く、役者の名は紋章に拠て判別し得らる。(口絵第二十六図    参照)     彼は錦絵の外に草双紙の挿画にも若干の作を示せり、例へば宝暦十四(明和元)年版の読本『梅桜一対    男』(落款、守文調画)(水谷不倒氏の考証に拠る)、及び安永七年版の黄表紙『【市川五粒】追善記』    上下(上巻は湖龍斎、下巻は文調)、同八年版の黄表紙『三歳繰珠数暫』上下(上巻は湖龍斎、下巻は    文詞)等是れなり、其他年代未詳の『【助六揚巻】二代政宗』といへる黒本もある由なれど、未だ確証    を得ず。彼は斯くの如く湖龍斎と合作せるが、其れ以前に春草とも合作せし例あり、即ち明和七年版の    『絵本舞台扇』(彩色摺)にして、亦彼の傑作の一に数ふべきものなり。     尚ほ、天明元年頃のものとおぼしき肉筆人物画(故小林文七氏蔵)に、春草・湖龍斎・文調三人の合作    あるは、蓋し彼等相互間の親交を窺ふに足らむか。因みに、彼の門人と伝へらるゝ者に岸文笑(狂歌師    頭(ツムリ)の光(ヒカル))あり、往々両者の伝記を混同して、文調一に頭の光などゝするは誤なり。彼と    当時の俳優とは可なり密接の関係ありし事は、如上の作品によつて窺ひ得る所なるが、こゝに珍らしく    も彼の作画せし大絵馬二面、現に角筈十二社に保存されたり、一は無落款なれども宝暦十四(明和元)    年六月に奉納せし市村座「式三番」の図、二は安永二年四月奉納の市村座七俳優の図にして、「一筆斎    文調図」と落款せり。(『浮世絵新誌』第十二号に拠る)     因みに、彼の七回忌の追福を営まむとて、窪俊満が文章を綴りし摺物に「扨こたみその未亡人の刀自、    門葉の文康舟調など聞ゆる人々、追福のいとなみせんとて、楊柳橋辺の万発樓に水無月十二日を卜し、    知己の名だゝる画家を讃し席画を催し」云々と云へれば、文康・舟調の両人が彼の門弟たりし事と、彼    が忌辰の六月十二日なりし事とを明かにされ得べし(『浮世絵新誌』第九号所載、島田筑波氏の考証参    照)。さて右の摺物に、彼が高弟たる文笑(寛政八年歿)の名の漏れたるに依りて考ふれば、文笑歿後    間もなき頃、即ち寛政九年或は十年頃に、斯かる追福を営みしものなるべく、されば其が歿年は凡そ寛    政三四年頃と推定され得るが如し〟    〈窪俊満の七回忌の摺物については上出、享和元~二年の記事を参照のこと〉    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「明和七年 庚寅」(1770)p124   〝正月、勝川春章と一筆斎文調の合筆に成れる役者似顔絵本『絵本舞台扇』三巻〟     ◇「寛政八年 丙辰」(1796)p159   〝四月十二日、一筆斎文調歿す。行年七十歳。(文調は初め石川幸元に絵を学び、後石川豊信・鈴木春信    等を私淑し、勝川春章と共に俳優の似顔を画くに妙を得、春章合作の『絵本舞台扇』を画くに至れり。    絵本は多く画かざりしも、細絵の役者似顔絵は春章に匹敵するものゝ如し)〟    〈漆山天童は文調の没年月日を、寛政八年四月十二日・七十歳とする。この寛政八年の没年、実は岸文笑(つむり光)     のものである。天童も文調・つむり光同人説にたって記述したのであろう。ところで大修館の『原色浮世絵大百科事     典』「一筆斎文調」は、文調七回忌の追善摺物から推して、没年を寛政六~八年頃の六月十二日と推定する。一方、     東京堂出版の『浮世絵大事典』「一筆斎文調」の方は、同摺物によりながらも、その没年を「寛政八~十年(1796~     98)」かとする〉    △『増訂浮世絵』p115(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝一筆斎文調    文調は石川幸元といふ狩野派の画人の門人で、出藍の誉高k、後ち浮世絵に転じて、美人絵役者絵を善    くした。美人画は鈴木春信の影響をうけて、甚だよく似て居る。役者絵を画いては、勝川春章と伯仲し、    明和七年春、春章と合作して絵本舞台扇二冊を出版し、非常な名声を博しtあ。而してこの書に於ては、    両人の画いた役者絵は、誠によく似て、何れが文調か、春章かを、区別しにくい程である。実に文調は    美人画と役者とに於て、共に優れた伎倆をもつて居た。その他に花鳥などを画いても、また一種の面白    みを見せて居る。(中略)    文調の作画期は明瞭ではないけれども、明和二年頃から版画に筆をとつたといはれ、明和安永年間にか    けて盛に作つたのである。文調の作も少なからず遺つて居るが、拙作のないのは喜ばしい。(中略)    死んだのは寛政六年といふことである〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔一筆斎文調画版本〕     作品数:4点    画号他:一筆斎文調・守・守文調    分 類:浮世草子2・絵本1・黒本1    成立年:宝暦5・10年(2点)        明和1・7年 (2点)      『栄花遊二代男』(浮世草子・八文字屋自笑作・一筆作文調画・宝暦五年(1755)刊)    『二代政宗』  (黒本          ・一筆斎文調画・宝暦十年(1760)刊)    『梅桜一対奴』 (浮世草子・泉花堂作   ・守文調画  ・明和元年(1764)刊)    『絵本舞台扇』 (歌舞伎 ・勝川春章   ・一筆斎文調画・明和七年(1770)刊)        なお「湖竜斎・文調画」の下記2点を加えると作品数は6点となる。    『三歳繰珠数暫』(黄表紙・肝釈坊(烏亭焉馬)作・湖竜斎/文調画・安永七年(1778)刊)    『市川五粒/追善記』(『三歳操数珠暫』の改題本・安永八年刊)