☆ 享保九年(1724)
◯『独寝』〔燕石〕③105(柳沢淇園著・享保九年序)
〝又、浮世絵にて英一蝶などよし、奥村政信、鳥井清信、羽川珍重、懐月堂などあれども、絵の名人とい
ふたは、西川祐信より外なし、西川祐信はうき世絵の聖手なり〟
〈序の享保九年は岩波書店の「日本古典文学大系」『近世随想集』所収の「ひとりね」に拠る〉
☆ 享保十九年(1734)
○『本朝世事談綺』(菊岡沾涼著・享保十九年刊)〔大成Ⅱ〕⑫ p521
〝浮世絵 江戸菱川吉兵衛と云人書はじむ。其後古山新九郎、此流を学ぶ、現在は懐月堂、奥村正信等な
り〟
☆ 享和二年(1802)
○『浮世絵類考追考』(山東京伝・享和二年十月記)(Top「文献資料」の「浮世絵類考(寛政)」所収)
〝懐月堂 享保中人、世事談の内、姓名つばらならず。今おり/\その絵を見るに、懐月堂とのみあり〟
〈「世事談」とは上掲『本朝世事談綺』〉
◯『花街漫録』〔大成Ⅰ〕⑨317(西村貘庵編・文政八年序)
「奥州之図 日本戯画懐月堂安度図之 花明園蔵」(模写あり)
〝このうつし絵は寛文の頃茗荷や奥州といへる遊女のすがたにて、懐月堂【元和中浅草に住ひしける人に
て御府内浮世画師のはじめ也】といふ人の筆也。(以下略)〟
〈「御府内」とはいわゆる「朱引き内」と呼ばれるもので江戸市域をいう。『花街漫録正誤』は〝元和中の人にて御府
内浮世絵師の始とは何を以ていふぞ、滅法界と云も程のあるもの也。この人は奥村正信らと同時にて、享保の末に行
はれたり〟としている。「花明園」は未詳〉
◯『無名翁随筆』〔燕石〕③294(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)
〝懐月堂【浅草諏訪町居住ス】
俗称源七、号安慶、
宝永、正徳四年の比、三月、奥女中江島殿一件にて、生島新五郎遠流の時、共に暫伊豆の大島に謫居す
と云、木挽町山村座欠所となりしは此時なり、享保中の人、世事談に見ゆ、姓名つばらならず、いまお
り/\其絵を見るに懐月堂とのみあり【以上、類考追考】〟
〈安度が連座した絵島生島事件は正徳四年(1714)。「安慶」は「安度」の誤記か。「以上、類考追考」とあるから、英
泉は山東京伝の考証をそのまま引用したのである〉
◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)
(( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)
〝懐月堂 浅草諏訪町に居住す
俗称〈岡崎〉源七 号 安慶 〈曳尾庵云、我衣に、懐月堂末葉度秀〈イ慶秀か〉あり。月岑蔵懐
月堂末葉安知の女絵あり〉
宝永正徳の頃の人、世事談に見ゆ。姓名詳かならず。いまおほく其絵を見るに、懐月堂とのみあり(以
上類考ノ追考)〟
〈『無名翁随筆』(渓斎英泉著。別名『続浮世絵類考』)にはあった江島生島の記事を削除。江島は大奥の女中なので、
町名主斎藤月岑はお上を憚って削除したのだろう〉
◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1367(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)
〝懐月室(ママ) 号安度、称源七、正徳中行はる、武江年表
[署名]「日本戯画懐月堂安度図之」[署名]「安度」(朱文方郭内印) 寛文頃、茗荷屋奥州像
元和中、浅草に住しける人にて、御府内浮世絵師のはじめなり。花街漫録
(補)[署名]「懐月堂図之」[印章]「戯画安度」(白文方印)〟
〈西村藐庵の『花街漫録』は文政八年(1825)刊〉
◯『扶桑名画伝』写本(堀直格著 嘉永七年(1854)序)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇懐月堂安度([31]巻十之五 雑家 43/108コマ)
〝安度
姓しられず 岡沢氏 名は安度 江戸に住し 宮川長春の画風をゑかく 元文頃の人なり
「画家人名略」【二左】云 岡沢安度 元文宝暦の比まで行るゝ人と云 江戸人 宮川長春の画様を(ママ)
つきて画けり〟
◯『花街漫録正誤』〔新燕石〕④191(喜多村筠庭著・成立年未詳)
〝奥州之図、このうつし絵は、寛文の頃、茗荷屋奥州といへる遊女のすがたにて、懐月堂【元和中浅草に
住ひしける人にて、御府内浮世絵師のはじめなり】といふ人の筆也云々、(中略)(筆者注、挿絵に
「奥州之図」「花明園蔵」「日本戯画懐月堂安度図之」とあり)
〔正誤〕懐月堂ヲ元和中ノ人ニテ、御府内浮世絵師ノ始トハ何ヲ以テイフゾ、滅法界云モ程ノアルモノ
也、コノ人ハ奥村正信ラト同時ニテ、享保ノ末ニ行ハレタリ、板本ハナク、濃ク彩リタル女画往々ア
リ、下手ナル画ナリ、上ニ出タル菱川ノ印アル画モ、コレガ筆ト見ユ〟
〈〔正誤〕の前文が『花街漫録』の本文。〔正誤〕以下が喜多村筠庭の批評。「下手ナル画ナリ~」は懐月堂を指すの
ではなく、原本から模写した『花街漫録』所収の插画のこと〉
◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪200(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
〝宝永、正徳の頃の人、俗称岡沢源七、号安慶、浅草諏訪町に居住す。其絵を見るに、懐月堂とのみあり〟
◯「本朝近世画工鑑」(番付 刊年未詳)〔番付集成 上〕
(世話人)
〝享保 西川祐信 同 菱川師宣 寛文 懐月堂 享保 宮川長春
享和 竹原信繁 天保 長谷川雪旦〟
〈近世絵師の番付に懐月堂が登場するのはこれが初が〉
☆ 明治以降(1868~)
◯『日本美術画家人名詳伝』下p318(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)
〝懐月堂
浮世絵師ナリ、安慶ト号シ、源七ト称ス、享保年中ノ人〟
◯『古代浮世絵買入必携』p14(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)
〝懐月堂安慶(*ママ)
本名 源七 号〔空欄〕 師匠の名〔空欄〕 年代 凡百八十九年前後
女絵髪の結ひ方 第四図 (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)
絵の種類 一枚絵、絵本、肉筆
備考 〔空欄〕〟
◯『時代品展覧会出品目録』第一~六 京都版(大沢敬之編 村上勘兵衛 明治二十八年(1895)六~九月)
(時代品展覧会 3月25日~7月17日 御苑内博覧会館)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝「第一」【徳川時代】浮世絵画派(49/310コマ)
一 風俗美人図 初代懐月堂筆 上野理一君蔵 大阪市東区〟
〝「第五」徳川時代浮世絵画派之部(244/310コマ)
一 享保頃俳優図 一幅 伝岡沢懐月堂筆 藤田伝三郞君蔵 大阪市東区
一 享保時代婦人図 一幅 懐月堂安度筆 高嶺秀夫君蔵 東京市小石川区
一 享保頃遊女ノ図 一幅 岡沢懐月堂筆 上野光君蔵 東京市麹町区
一 風前美人図 一幅 懐月堂安度筆 高嶺秀夫君蔵 東京市小石川区〟
〝「第六」徳川時代浮世画派(267/310コマ)
一 享保頃俳優図 一幅 懐月堂筆 藤田伝三郞君蔵 大阪市東区
紙本着色ニシテ享保時代俳優ノ様ヲ画キタルモノナルベク浮世画派中一種ノ趣味ヲ存セリ。懐月堂ハ
姓ヲ岡沢ト云ヒ 安慶ト称ス。妙手ノ聞ヘアリト雖モ其画蹟多カラズ。享保年中ノ人ニシテ年代凡百
八十年〟
◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年(1898)刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(23/103コマ)
〝懐月堂安度【宝永元~七年 1704-1710】
岡沢氏、一に岡崎氏、通称源七、安度、また安慶と号す、浅草諏訪町に住みて、善く浮世絵を画けり、
その美人絵には、日本戯画懐月堂末葉度繁図之、また懐月堂安度図之とも書けり、懐月堂と称せしもの
数人ありし歟、なほ考ふべし〟
◯『浮世絵画集』第一~三輯(田中増蔵編 聚精堂 明治44年(1911)~大正2年(1913)刊)
「徳川時代婦人風俗及服飾器具展覧会」目録〔4月3日~4月30日 東京帝室博物館〕
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇『浮世絵画集』第一輯(明治四十四年(1911)七月刊)
(絵師) (画題) (制作年代) (所蔵者)
〝懐月堂安度 「婦女図」 元禄正徳頃 九鬼周造
懐月堂安度 「婦女図」 元禄頃 高嶺俊夫〟
◇『浮世絵画集』第二輯(明治四十五年(1912)五月刊)
〝懐月堂安度 「芸妓」 元禄正徳頃 九鬼周造
懐月堂安度 「婦女」 元禄正徳頃 高嶺俊夫〟
◇『浮世絵画集』第三輯(大正二年(1913)五月刊)
〝懐月堂安度 「婦女」 元禄正徳頃 東京帝室博物館〟
☆ 大正以降(1912~)
◯『名家墓所襍録』化蝶菴編 成立年未詳
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝懐月堂 元禄八年三月十一日 花川戸 九品寺 通称源六〟
〈通称から懐月堂安度と見たが、作画期が合わず、元禄は誤記か〉
◯『罹災美術品目録』(大正十二年九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)
(国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)
懐月堂安度(◇は所蔵者)
◇大畑多右衛門「美人図」紙本着色 巾一尺五寸
◇小林亮一 「美人図」四幅〈小林文七嗣子〉
◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)
(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)
〝安度 懐月堂、俗称岡沢源七、宝永、正徳頃の人、花街漫録には元和中、浅草に住ける人。御府浮世絵
師の祖とあり、又古画備考には元禄より少し古しといへり、何れか是なるを知らず、日本戯画、懐月安
度図之と落款す、度種、度秀、度辰等の下字度字を上字とせる画名よりして此等の画師は安度の門人た
るべし、何れも同時代なり〟
◯『狂歌人名辞書』p238(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)
〝懐月堂安度(ヤスノリ)、通称岡沢源七、字は安度、又、安慶、東都浅草諏訪町に住せり、好んで浮世
絵をゑがき其美人画には一種の風致あり、門人多し「花街漫録」には元和中浅草に住せる浮世絵の祖と
記し「古画備考」には元線より少し古しとあり、其作画には日本戯画懐月安度図之と落款す、延宝頃の
人〟
◯『浮世絵師伝』p62(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝懐月堂
【生】 【歿】 【画系】 【作画期】宝永~正徳
岡沢(一に岡崎とす)氏、名は安度(安慶とせるは誤)、俗称源七、別号を翰運子といふ、浅草諏訪町
に住す。画系未だ詳ならざれども、鳥居清信・奥村政信等の画風を参酌して、新たに一派を開きしもの
ゝ如し。描く所の婦女の風俗によりて、作画年代は宝永乃至正徳年間を超えざるものなる事を知るに足
るべく、また彼は正徳四年春奥女中江島の一件に連座し、同年四月蔵前の豪商梅屋善六等と共に伊豆大
島に流謫されし由なれば、其の時を以て一旦作画を中止せしものと見るを得べし。
世に流布せる版画及び肉筆物中に、安知・度繁・度辰・度種・度秀等の落款を有し、いづれも「日本戯
画懐月末葉」の八字を冠したるものあり、画風の特徴、落款の書体等に類似の点多く、遊女のみ描きし
故、或は一人の懐月堂安度が、自家広告の爲に斯く別号を用ゐしものならむとの説あれども、恐らくは
然らず、乃ち一般に伝ふるが如く安度の門人なるべしと思はる。(口絵第八図參照)〟
〈『浮世絵師伝』は「安度」を「やすのり」と読み「ヤ」の項目に入れているが、そこには「懐月堂参照」とある。従
って、上記記事は「かいげつどう」の項目のものである。ただ「歴史的仮名遣い」による表記のため、「カ」ではな
く「ク」の項目に入っている〉
◯『浮世絵年表』p70(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)
「正徳四年 甲午」(1714)
〝三月、懐月堂安慶(俗称源七)伊豆の大島に流刑。蓋し俳優生島新五郎事件によりてなり。同時に木挽
町山村長太夫芝居断絶せり〟
△『増訂浮世絵』p58(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)
〝懐月堂安度
安度は俗称を岡崎源七といつた。浅草蔵前に住んで居たが、同町内で金力もあり権勢も栂屋善六に巧み
に取入り、善六を幕府の御用達にしやるとして、大奥に取り入つた。可なり俗臭の人物であつたと思は
れる。殊に世間で有名なる江島生島の事件に此の源七が関係して、あの醜事件の黒幕となつて働いてゐ
たのである。そうして、安度は遂に大島に流刑に処せられた。然し此の事件によつて、この人の年代の
推定がつく。即ち江島等の処刑が正徳四年であるから、懐月堂安度の製作年代もその年を以て終つて居
たと見るべきである。
懐月堂流の絵は、肉筆絵でも版画でも、一人立ちの遊女か、せい/\小さい禿女が一人附添つてゐるぐ
らゐで、構図としては、単調で、殆ど変化がない。顔立なども一様に懐月堂型であつて、個性は出てゐ
ない。たゞ、着衣の模様には大分苦心したものと見えて、いろ/\面白い意匠を試み、さま/\の変つ
た裲襠を着せてゐる。濃麗華美な譜彩で、人目を惹かうと企てた。衣文の描線の強いのが、此の流の絵
の主なる特色であつて、安度の如きは殊に剛健なる線を用ひて居る。然かも此の強い線が、柔か味ある
女の顔や姿に対して、少しも不調和な漢じを起させないのが、亦此の絵の一特色であつて、懐月堂流の
面白味は正に此処に存するのである〟
〝始祖の安度は版画を作らなかつた〟