Top          浮世絵文献資料館           
                   『甲子夜話』          底本:『甲子夜話』  1~6 松浦静山著・中村幸彦、中野三敏校訂                      東洋文庫・平凡社・昭和52年(1977)~53年刊          『甲子夜話続篇』1~8 松浦静山著・中村幸彦、中野三敏校訂                      東洋文庫・平凡社・1979~81年刊          『甲子夜話三編』1~6 松浦静山著・中村幸彦、中野三敏校訂                      東洋文庫・平凡社・1982~88年刊     〈『甲子夜話』は正続各百巻、後編七十八巻。平戸藩主松浦清(静山)著。文政四年(1821)十一月十七日の    「甲子」の日から書き始められ、天保十二年(1841)六月二十九日の死亡の日まで書き記された。但し、浮    世絵関係の記事はほんの僅かである。浮世絵師は雛屋立圃・宮川長春・鍬形蕙斎(北尾政美)・歌川豊国・    歌川国貞・鳥居清安のみ。しかも浮世絵それ自体に興味があって取り上げたわけではなく、見世物などの関    連で取り上げられたり、考証史料の中に名があったりと、附属的な扱いである。以下の資料は「浮世絵総覧」    「個別絵師」及び「浮世絵事典」の各項目に収録している〉      〈 〉は本HPの私注    ☆ おのの こまち 小野 小町    ◯『甲子夜話3』巻之四十九 p310(文政七年(1824)記)   〝或人宴席にて古歌を言ふ。出書を聞かざりし。    布留へもまうでけるとき、僧正遍昭の石上寺に行ひすと聞て、よみてつかはしける          小野小町      石(イソ)のかみ旅ねをすればまたさむしわれにかさなん苔の衣を         僧正遍昭      世をいとふ苔の衣はたゞひとへかさねばうとしいざふたりねん    この頃の風調、今吟じても感浅からぬなり〟    ☆ かございく 籠細工    ◯『甲子夜話1』巻之十四 p237(文政五年(1822)記)   〝此四五年前ばかり、大阪より下りたる籠細工の名人と呼るゝもの、様々の物を目籠に組立、其大なるは    丈を超るに至る。浅草、両国橋辺等の観物場に羅列して殊の外流行り、貴賤老弱この籠細工の見せ物を    見ざるもの無し。近頃かく迄流行りたるを見せ物と無しと云ことなりき。其とき近藤正斎が云しは、籠    細工は流行る筈なり。外を取繕(ツクロヒ)たる計にて、内は空虚何も無し。今の世の人才皆この籠細工なり    と。是又知言なり〟    〈当時の人材を籠細工に喩えた、近藤正斎(重蔵)の警句に、松浦静山も我が意を得たりと思ったのだ。何やら「江戸     っ子は皐月の鯉の吹き流し」(口先ばかりではらわたはなし)に似た譬喩である〉    ☆ かわらばん 瓦版    ◯『甲子夜話1』巻之十五 p262(文政五年(1822)記)   〝先年浪華にて蒹葭堂を訪しとき、版刻の一小紙を見る。主人曰、これは大阪御陣のとき御陣場の辺を売    あるき、従軍の卒買求しものよと云ふ。今山王神社の祭礼に市陌を売あるく、番付と云ふものゝ類なり。    僅歳月二百年余にて、時風の違ふこと此版本を以ても想べし。これは平野、堺などを専ら売歩(ウリアルキ)    しと云ふ。もと大小二幅ありと聞く。今印出のものは小幅の方なり。大なるは久世三四郎の家に伝(ツタフ)    と云ふ。先年其人に問たれど、答も無て過ぬ。    この図は予曾て蒹葭の所蔵を摸し置たりしを失(ウシナヒ)たり。今年或人より其小幅を獲たり。絵様始に異    ならず。但二所に黒版のものあり。原本には一は大御所様とあり。一は将軍様と書きたり。神祖と台廟    とを申すゆゑ、摸刻にはこれを避たるなるべし。    〈「大坂安部之合戦之図」摸造図あり〉〟    〈この「大坂安部之合戦之図」は現存する最古の瓦版とされている〉     ☆ かんかんおどり かんかん踊り    ◯『甲子夜話1』巻之九 p160(文政五年(1822)記)   〝去年比よりかん/\踊と云て、小児の戯舞するありて、都下に周遍す。其章唐音(タウイン)を伝へたりと云    ことなり。坊間版刻して売弘む。今其図并歌謡を左に載す。    「かん/\のきうのれんす。きうはきうれんす。きうはきうれん/\。さんちよならへ。さァいほう。     にいくわんさん。いんひいたい/\。やんあァろ。めんこんほほらてしんかんさん。もへもんとはい     ゝ。ひいはう/\    「てつこうにいくはんさん。きんちうめしいなァ。ちうらい。ひやうつふほうしいらァさんぱァ。ちい     さいさんぱんひいちいさいもへもんとはいゝひいはう/\    然に壬午の春二月、市長停止の事を闔都に触る。是よりして止む。その文に曰。    一、唐人踊之儀、此度厳敷停止被仰付候に付、子供に至迄かん/\おどり哥抔決而申間鋪候。且辻商人、     飴売、壱枚摺、絵草子抔にも、右唐人并うた抔持流行候者有之ば、其所留置町所聞糺早早可訴出候事     右之通被仰渡候間、町内限り可相触候以上    後に聞けば、長崎にては古くありし事の由。其辞意は淫褻を極めたることなりとぞ。近頃崎の賤民、罪    ありてその地を放逐せられしもの、浪華に抵(イタ)り、活計に苦しみ、唐人のかん/\踊りと云ことをし    て、一時に人の笑楽となりしとかや。然れども左まで流行と云ほどのことは無りしが、いかなることに    や東都に伝へて、人々其趣意をも弁へず、猥りにもてはやして盛に流行し、遂に禁ぜられるゝに至れり。    又聞く。蛮人の来れるに因て〔三月恒例の紅毛来貢なり〕、淫詞、外国人の聞べきこと何かゞ憚べしと    て、市長この触を出せしと云〟    〈壬午は文政五年。オランダ人の江戸参府は例年三月に行われていた。江戸町奉行のかんかん踊りの禁止令は、猥褻な     歌詞をオランダ人に聞かせまいとして出されたというのである〉    ☆ ぎやまんざいく ギヤマン細工    ◯『甲子夜話 三編3』巻二十九(天保七年(1836)五月記)   (三月上旬より浅草寺奥山にてギヤマン細工「阿蘭陀誘参(ユサン)船」見世物興行。船長十二間半、巾三間    余。細工人、硝子・楠木富右衛門、人形・竹田縫之輔)    ☆ きよやす とりい 鳥居 清安    ◯『甲子夜話 続編7』巻八十五 p243(天保三年(1833)記)   (三月十一日より五十日間、京都の方広寺では、仮堂を建設して大仏殿開帳。そのとき出版された「大仏    殿之絵図」の落款に〝鳥居清安筆(印)〟とあり)     ☆ くにさだ うたがわ 歌川 国貞    ◯『甲子夜話 三編2』巻十八 p84(天保六年(1835)閏七月記)   (松浦静山、絵師を遣わし、赤髪の兄弟、猩寿・猩美の肖像を写さしむ)   〝嚮(サキ)に人を遣はして赤髪童を写させたるとき、返(カヘリ)告るには、我より先に画工国貞〔世に謂ふ浮    世絵かきなり。江都の市中に住す〕来りゐて、かの童の真を写す。これは町奉行なるが、窃(ヒソカ)に命    じて、町年寄の手より肖像を描て呈覧すと。定めし是は輪門水府などの覧(ミ)らるべきに就ての、下地    なるべし。又頃日、坊間にこの童の形を錦絵に搨(スリ)いだせる有り。国貞の画なり。然れば官呈の下絵    を、かゝる開版には為しならん。されぱ後世に伝へて益あるに非ざれども、又かの童の真面目、且赤髪    の状、眉毛も同色なるは、斯図その真を得たるべし。因て前図ありと雛ども、迺(スナハチ)再び次に移謄す〟    〈歌川国貞の写生は町奉行の命によるものとのこと。松浦静山はこれを「輪門水府」がこの兄弟を呼び寄せるための準     備であろうと見ていた。いわゆる下見の代わりである。輪門は輪王寺宮(寛永寺門跡)であろうか。水府は水戸斉昭     を指すのであろう。それにしても町奉行はなぜ国貞に命じたのであろうか。「輪門水府」のような貴人に供する肖像     とあれば、それ相応の本絵師、町絵師の起用があってもよさそうなものである。しかし町奉行はそうしなかった。で     は町奉行は国貞の技倆を高く評価して直々に命じたのであろうか。どうもそんなにことは単純でもなさそうである。     「町年寄の手より」とあるから、その起用に町役人の筆頭である町年寄が関与しているのは間違いない。おそらく国     貞を推薦したのは町年寄なのである。幕臣側からみれば下々のことは下々の手で行わせたのである。この距離感、つ     まり町年寄を通して間接統治するところから生ずる武家と町方の距離感は、平戸藩主・松浦静山の次のようなことば     にも表れている。「世に謂ふ浮世絵かき」。国貞の起用は見世物に等しいこの兄弟に見合ったものと考えるべきなの     かもしれない。無論、浮世絵師の中で、国貞は肖像画の第一人者であるという評価があって、それを認める幕臣たち     もいたに違いないであろうが、町方(浮世)のことは町方(浮世)を題材とする浮世絵師にという思考回路が厳然と     してあっての起用と考えられよう〉    ☆ けいさい くわがた 鍬形 蕙斎(北尾政美参照)    ◯『甲子夜話1』巻之十二 p213(文政五年(1822)記)   〝白川老侯所蔵の画軸少からざる中に、職人尽絵詞あり。これ古昔より所伝の職人には非ず。皆近世の風    俗を画けるなり。詞がき上巻は四方赤良(ヨモノアカラ)〔太(ママ)田七左衞門。今年七十四〕、中巻は喜三二    〔羽州秋田の臣、平沢平角。既歿す〕、下巻は京伝〔京橋の商、京屋伝蔵。鄙俗の著述多し。亦亡ず〕。    皆故時の旨を尋て今世の情をつくし、最絶作なり。又画も壱是れ侯貴より庶人に至る。士農工商、僧巫    男女、老幼娼優、其余雑技悉く挙げざるなし。奇態百出、変幻如神、草体にして真に迫る。妙手信(マコト)    に目撃して道存するもの也。画者を蕙斎と記す。老侯に其人を問に、松平越後守の臣、氏は鍬形、神田    の玉池に宅すと、今存亡いかん。昔の絵巻物の後の證となるは、皆其時俗を有のまゝに書伝ふるを以て    也。今の時俗を後に示すは、此巻軸を捨て外にあるべきや。老侯の牛溲馬勃敗鼓の皮まで収め貯へらる    ゝ雅量は、いかにも不凡なることなり〟    〈松浦清山は世俗を写し取った蕙斎画「近世職人尽絵詞」を高く評価するとともに、これを所蔵する白川老侯(松平定     臣)を、「牛溲馬勃敗鼓の皮(役に立たないものの喩え)」を妙薬に変えてしまう名医に擬えて、世俗のものを後世     に伝えようとする非凡な雅量を讃えているのである〉    ☆ こびと 小人    ◯『甲子夜話1』巻之十八 p318(文政五年(1821)記)   〝壬午の秋、両国橋の北畔に観せ物あり。短人なり。予乃(スナハチ)人を遣(ツカハシ)て見せしむ。返て曰。長(タ    ケ)一尺八寸。年三十六と云。芸州の産なり。顔色柔和にして豊肥。言語怜悧にして、足は猿の如く手の    用をなし、頭背胸腹尽く足を以て摩す〔又両手両足に扇を執て靡靡として回はす。華形をなして見ごと    なりと云〕腰骨なきゆゑ行歩すること能はず。因て小箯(ベン)を造て乗せて往来すと云ふ。〈以下、略〉〟    〈『甲子夜話2』巻之二十二(p63)に錦絵になった肖像を模写した図あり〉    ☆ さんのうまつり 山王祭    ◯『甲子夜話1』巻之十一 p194(文政五年(1822)記)   〝隔年六月十五日の山王祭はいつも賑はしく、一国之人皆狂ふがごとしとは此時なるべし。今年四五歳計    りの女児を、父母撫愛の余り祭礼の中に加えへ、百花を飾たる籃輿に、錦繍雑色を交へたる蒲団を幾重    も敷き、其外種々の物もて荘飾し、児に美服を襲着(カサネキ)せ、蒲団の中に坐せしめ、終日街衢を通行せ    しむ。父母喜び且つ相言て曰、吾児人観てさぞ賞すべしと。三四日同じやうにして出行く。祭の前日に    至り、途中にて食を与ん迚立寄りて見れば、いつか息絶たり。炎暑の時重衣して熱中に晒しける故、蒸    死せしなり。父母の愚、推(オシ)知るべし。〈中略〉    其地の長どもよく/\愚者を暁(サトラ)しめ、異変なきやうにすべきことなり。尤歎ずべきは、軽賤の者    祭礼用意の衣服等の料に支(ツカ)ゆるとて、妻娘を妓に売こと頗る有と聞く。かゝる風俗を見捨置くは、    町役人の罪と謂ふべし〟    ☆ しゅせん 酒戦    ◯『甲子夜話1』巻之十一 p189(文政五年(1822)記)   〝世に不益のことの多かるも、天の異行なるべし。聞たるは忘れ易く、棄たるは得難がたし。無用のもの    のものも再視んと欲するときは由なし。過にし頃人の贈りし文あり。     文化十二年十月廿一日、千住宿壱丁目中屋六右衛門 六十賀酒戦    伊勢屋言慶  吉原町にすむ。六十二歳。三升五合余のむ    大阪屋長兵衛 馬喰町に住。四十余。四升余をのむ    市兵衛    千住掃部宿住。万寿無量杯にて三杯のむ。この杯は一升五合入    松勘     千住人。五合のいつくしま杯、七合盛の鎌倉杯、九合盛の江島杯、一升五合の万寿無量           杯、二升五合の緑毛亀、三升の丹頂鶴にてこと/\くのめり    左兵衛    下野小山人。七升五合のむ    大野屋茂兵衛 新吉原中の町大野屋熊次郎が父。小盞数杯のゝち万寿無量杯にてのむ    蔵前正太   浅草御蔵前森田屋出入左官。三升飲    石屋市兵衛  千住掃部宿の人。万寿無量杯にてのむ    大門長次   新吉原住。水一升、醤油一升、酢一升を三味線にて拍子をとらせ口鼓をうちのむ    茂三     馬喰町人屋。三十一。緑毛亀をかたぶけつくす    鮒屋与兵衛  千住掃部宿人。三十四五。小盞数杯の上、緑毛亀をつくす    天満屋五朗左衞門 千住掃部宿人。三四升のむ    をいく    酌取の女。江島、鎌倉などにて終日のむ。    をふん    同上    天満屋みよ女 天満屋五朗左衞門妻。万寿無量杯かたぶけ酔たる色なし    菊屋をすみ  千住人。緑毛亀にてのむ。    料理人太助  終日茶盌などにてのむ。はてに丹頂鶴をつくす    会津の旅人河田 江島よりはじめて、緑毛亀にいたるまで五杯を飲みつくし、丹頂鶴をのこす    鵬斎詩并序    千寿中六、今茲に六十。自ら初度の筵を啓き、大いに都下飲士に会ふ。皆一時の海竜也。各一    飲一斗、或は四五斗を傾る者有り。太平の盛事と謂つべし。古人酔人を以て太平の瑞と為す。    宜なる哉。其の座に在りて親く之を観る。時に文化十二年乙亥冬十月廿一日也。     海竜群飲珠を争ふに似たり  雙手擎来五湖を傾く、     是伯倫七賢の侶にあらずんば 定て応に李白八仙の徒なるべし    かの地黄坊樽次と池上何がしと酒のたゝかひせしは慶安二年の事になん。ことしは千寿のわた    り中六ぬし、六十の賀に酒戦をもよほせしをきゝて      よろこびのやすきといへる年の名を本卦がへりの酒にこそくめ    酒戦の日の床にかゝげし掛幅は南畝が書なり      犬居目礼古仏座礼失求之千寿野〟    〈松平定信と寛政の改革を推進した松浦静山にすれば、この酒戦は不益・無用のものだが、しかし天の奇行とでもいう     べきものであり、無視するには忍びないというのだろう〉    ☆ しょうふ 娼婦    ◯『甲子夜話 三編5』巻六十一 p176(天保十年(1739)記)  〝諸国売女の方言   ◯下総 船橋      ・八兵衛(ハチベイ)   ◯武州 川越 ・這込(ハイコミ)   ◯中仙道【桶川宿熊谷宿】・から尻      ◯上野 高崎 ・おしくら    ◯上野 妙義      ・からさし     ◯下総 銚子 ・提重(サゲヂユウ)   ◯相州 小田原     ・貘【当時飯盛トナル】金蒔絵・銀蒔絵【蓋、一歩二朱の別を謂なり】   ◯信濃【松本信濃】   ・針箱(ハリバコ)    ◯同国 飯田 ・二百蔵(ニヒヤクザウ)   ◯越前 敦賀      ・干瓢       ◯越中 富山 ・紅蕈(ベニタケ)    ◯越後 糸魚川     ・二百三文         高田 ・さわり        長岡      ・鼈(スッポン)・おは女(メ)   柏崎 ・のゝ子        出雲崎     ・鍋(ナベ)          三条 ・土台石          寺泊      ・手枕           新潟 ・【かるしり・ごけとも云】         新発田     ・蛮瓜(カボチヤ)    ◯加賀 金沢 ・当しやう   ◯能登 七々尾     ・二八       ◯佐渡    ・水銀(ミズカネ)   ◯出羽【庄内酒田】   ・おこも上・のれん下・:なべ下       米沢  ・半棒(ハンボウ)おけさとも云  ◯同国 秋田 ・菜葉(ナノハ)   ◯陸奥 会津      ・印刷       ◯同国 津軽 ・【けんぼう・さんぶつ】    ◯同国 松前      ・がのじ      ◯同国 南部 ・おしやらく   ◯房州【小湊舟方】 ・【おてんげん・うし】 ◯【伊豆相模】両国とも・うしと云   ◯尾張 名古屋     ・百花(モカ)     ◯伊勢路   ・おじやれ     ◯勢州 鳥羽      ・はしかね         櫛田 ・出女房   ◯近江 彦根      ・そうぶつ         八幡 ・畑菜(ハタケナ)    ◯丹後 宮津      ・糸繰(イトクリ)    ◯因幡 米子 ・綿繰(ワタクリ)〟       ☆ しろひと やまのての 山手 白人    ◯『甲子夜話2』巻之四十二 p144(文政六年(1823)記)   〝今の奥右筆組頭、布施蔵之丞〔胤毅〕の父は、弥二郎と云て、留役に終りしとなり。繁劇なる吏務の中    にて和歌を好み、冷泉家の門人たり。没せし年は春より病悩なりしが、七月の比殆ど危篤に迫しとき、    辞世とて、      なき魂の数にはいりて中々にうき秋風の身にぞしみぬる    とよみしが、又暫く快く、遂に八月に至り没しぬ。    其時戯の狂歌に      乾坤の外とよりこれをうちみれば火打箱にもたらぬ天つち    何(イ)かにも豪励の気象なりけり〟    〈幕府勘定留役・布施弥二郎胤致は狂名山手白人。天明七年八月七日、五十一才没。元木阿弥・智恵内子・朱楽・唐衣     橘洲・四方赤良(大田南畝)などと共に狂歌六歌仙の一人と称される〉    ☆ しんなぞめ 親和染め    ◯『甲子夜話1』巻之十六 p270(文政五年(1822)記)   〝蕉堂の物語に、幼少の頃書家に三井親和〔孫兵衛〕、殊の外世にもてはやされ、王侯大人の邸宅に招か    れざる所もなく、其名一時に高くして、余り流行(ハヤ)るまゝに、酒店妓楼の聯額、神仏の幟の字も、皆    三井の書と云ほどに成り、其果は篆草などを端匹に染出し、衣帯までに用ゆる時世様となれり。その勢    ゆゑ貴家の紋服悉く集り、紺屋にて某家の紋本と云ときは、三井が家に到りて諸家より賜はる所の紋服    を借りて写せしと云。左程のことなれば家貲は富充せしに、何づ方への書通にも全紙を用ゆることなく、    諸方より往来書翰の空白の所を、大小と無く截(キ)り合せ、張り立て、つゞれの如にしたる巻紙を手筒    の常用とせり。(以下、略)〟    〈蕉堂は昌平坂学問所の学頭・林述斎。明和五年(1768)生まれだから、幼少期は安永の頃(1772~1781)にあたる。三     井親和は天明二年(1782)の歿。林述斎はその晩年の親和から書を学んでいる〉     ◯『甲子夜話4』巻之六十一 p242(文政八年(1825)記)   〝親和、三井孫兵衛と称す。庶士なり。又弓術を能くす。深川に住せり。世に深川親和と呼ぶ〟       ☆ たきがわ 滝川    ◯『甲子夜話2』巻之四十四 p194(文政七年(1824)記)   〝浅草の本堂に、吉原町扇屋の遊女滝川が掛けし額あり。最も大にして、厳間(イハマ)より滝落る体を描き、    水に月影の映ずるさまなるに、題歌あり。      ますかゞみ清き流れをよすがにて塵なき空の月ぞやどれる    この額の側らに、尋(ツイ)で吉田町の辻君が小き額を掛けたりと。歌に      あまたある中にもつらき辻ぎみのかほさらしなの水の月影    このことを聞たれば、迺(スナハチ)浅草寺に往し人に聞たるに、この大額、横八尺、竪壱丈二尺もあるべき    が、今は本堂にはなくて、絵馬堂に移したり。年経たるか文字稍剥滅すと。又辻君の額は見へず。小さ    ければ散失せるかと〟    ☆ たるひろい 樽拾い    ◯『甲子夜話5』巻之六十六 p6(文政八年(1825)記)   〝酒家の下男を、世に樽拾と呼ぶ少年は、皆赤黒き衣を着て、同色の前垂を為せり。〈『字書』を引用〉    樽拾の服色は漢の罪人の服色ならずや〟    ☆ ちょうしん みやがわ 宮川 長春    ◯『甲子夜話 続編5』巻六十四 p240(天保二年(1831)七月記)   (七月お盆の頃、女児が歌う「盆歌」に関する記事)   〝かの哥の中に、今日今夜(バン)御大儀でござる。奥じや三味線、中の間じや躍、お台所まで笛太鼓と云    者は、正しく證すべき者あり。これ近古川船のさまを謡へるなり。〈屋形船の縮図あり〉この画者は、    宮川長春なるべし。長春は正徳享保中の人と云へば、今に至て百有余年、稍古昔とす〟    〈松浦静山は、享保頃の盆歌にある「今日今夜御大儀でござる~」の歌詞は当時の屋形船の様子を歌ったものだと、宮     川長春の絵で考証したのである〉    ☆ とうこうりゅう 東江流    ◯『甲子夜話4』巻之六十一 p242(文政八年(1825)記)   〝〈書家・三井親和没後〉夫より東江源鱗〔初め東郊平鱗と云。沢田文次郎と称す〕と云(イフ)書家出(イヅ)    是も予〈松浦静山〉懇意せし者なるが、晋唐の書法を学て一家を成す。この門人最多く、後は吉原町の    名妓花扇と云しもこの書法を以て鳴り、又境町の俳優瀬川菊之丞と云しも亦同じ。是等より東江の名益    々高く、東江織、東江染など専ら世に流行せるが、是も今は絶て〈以下、略〉〟    ☆ とよくに うたがわ 歌川 豊国    ◯『甲子夜話5』巻之八十六 p62(文政二年(1819)記)    (文政元年十月七日の大火に焼失した松浦家所蔵の品目)   〝戯画 一幅    大幅なり。此画は十余年前浴恩園の筵中、その夫人〔加藤氏〕予〈松浦静山〉が先年の旧事どもを尋ら    れて、君嚮(サキ)に豊雛と云へる歌妓を召したること有りと聞く。委く其状を語り給へ。予笑て、何(イカ)    にも言の如し。過し年江都在勤の御允を蒙し頃なりし。今の侍従津軽越州、柳班にて有りしとき、備前    支侯前田信州〔退老して号清閑斎〕と屢々相会して、席の事、御番所のことなど議論し、談畢れば時と    してその少婦を呼て、宴興を助けたりと答へぬ。然るに他日又園の集会に夫人一幀を携(タヅサヘ)〔風流    画工歌川豊国の所描〕、予に示て曰く。是先年侯家の図なりと。予展(ノベ)て視るに、上に予が青年の    肖図し、妾婢数員左右にあり、下に豊雛が姿を描けり。予黙て拝す。時に某閣老坐にあり、戯(タハムレ)に    言ふ。此図珍重せられんこと推察す。速に裱褙を加へられよと。予時に既に隠退。固より憚る所なし。    迺(スナハチ)諾して退き、遂に裱褙し、他日前客の会集ある時を竢(マチ)て、往て宴中にこれを披呈す。坐    席皆嬉観笑楽す。その前、予外函を造り、銘に張九齢が詩を題す。曰      宿昔青雲志 蹉跎白髪年、誰知明鏡裏 形影自相憐    〔河三亥に銘じて書せしむ〕蓋(ケダシ)窃(ヒソカ)に諷意を寓せり。主侯視て粛然たり。思ふに、予が在職    の頃は、侯も亦春秋鼎盛なりしが、旧事に感ぜられしや。是一時の戯と雖ども、灰失するは憾なきに非    ず〟    〈「浴恩園」は松平定信自ら造成した庭園。「豊雛」は富本豊雛。難波屋おきた、高島屋おひさと共に寛政の三美人と     称えられた芸者である。歌麿の錦絵で知られるが、初代豊国もその美貌を写生していたのである。寛政四、五年頃の     作画であろうが、惜しいことに、文政元年、灰燼に帰したのである。箱書の「河三亥」は書家の市川米庵〉    ☆ ねぼけせんせい 寝惚先生(大田南畝・四方赤良・蜀山人)    ◯『甲子夜話2』巻之二十七 p171(文政六年(1823)記)   〝寝惚先生は明和の頃より名高く、世にもてはやされしこと言に及ばす。予も先年鳥越邸に招て面識とな    れり。夫より狂歌など乞(コフ)とて、文通往来すること久し。今茲(ココニ)癸未の四月三日、劇場にその妾    を伴ひゆきたる折から、尾上菊五郎と云(イヘ)る役者、寝惚が安否を問(トヒ)来(キタ)れるに〔このおき菊    五郎、名護屋山三郎と云を扮せし折なり。菊五郎俳名を梅幸と云ふ〕即(スナハチ)狂歌を書て与ふ。      梅幸が名護屋三本傘はふられぬと謂ふためしなるべし    これより夜帰り、常の如くして快語してありしに、翌四日は気宇常ならずと云しが、又快よく、ひらめ    と云魚にて茶漬飯を食し、即事を口号し片紙に書す。      酔生将夢死 七十五居諸      有酒市脯近 盤飱比目魚    是より越て六日、熟睡して起ず。その午後に奄然として楽郊に帰せりと聞く。この人一時狂詩歌の僊な    り〟    ☆ ぶんちょう たに 谷 文晁    ◯『甲子夜話 続編8』巻九十二 p93(天保四年(1833)正月記)   〝林用韜へ初春文通せしとき、其答書に、某の蔵板とて一紙を贈る。展観れば、文晁が書ける蛮船〔諳厄    里察(ママ)〕図なり。世に正二の夜の華例とて用ゆる宝船の換物なるべし。傍に故楽翁老侯の戯歌あり。      此船のよるてふことの夢のまも        わすれぬ御世の宝也けり  楽翁戯題    予〈松浦静山〉これを読み、侯の文武兼備せる耳ならず、一時の戯筆と雖も人心を感ざしむる、其遺徳    追慕念々忘れざるの篤きを思へば、坐(ソゾ)ろに涙を催すに至れり。人亦予が意を知るや否〟      〈林用韜は林述斎の三男で鳥居耀蔵の兄・林檉宇。天保九年には大学頭に就任する。この蛮船とは谷文晁が画いたイギ     リスの帆船図で、そこに松平定信の狂歌が添えてあった。これを林檉宇は、正月二日の初夢の夜、枕の下に敷く宝船     に擬えて松浦静山に贈ったのである〉    ☆ みせもの 見世物    ◯『甲子夜話 続編4』巻四十七 p133(文政十三年(1830)三月記)   〝予〈松浦静山〉両国橋を往来するに、所謂見せ物なる者の看版(カンバン)に、唐子(カラコ)の形なる者三つ。    一は両眼左右に突出たると、一は片眼を扇を以て押出す体、一は唐子の小鼓を撾(ウ)樋つ体を画く。一    日人を遺して見せしむ。返て曰。男子年二十ぱかりと覚しく、髪を剃り唐子頭の如くし、左右に髪をの    こし総角とし、筒袖ぼたんがけの服をし、下は股ひき、上は袖無(ソデナイ)羽織を着、唐子の容を為し、    一帖なる台の上に坐せり。其前に大小鼓(タイコ)二つあり。見る者凡十人にも満れぱ、其者自身大鼓を鳴    し、又自ら出眼(シユツガン)のいわれを唱へ、まづ左眼を出さん迚(トテ)、外眥(マジリ)を指にて推(オセ)ば、    眼忽ち脱(ヌケ)いづ。〔この出たる体は、大鯛の眼を抜きたるよりも大にして、白瞳(シロメ)の所に紅き筋    ひきて見ゆると〕。其形円く、瞼(マブタ)に酸醤(ハウヅキ)〔草実なり〕をつけたる如く見ゆ。夫より又出    たる眼を撫るかと見れぱ、眼入て元の如し。次に右眼を出すと云へぱ、脱出すること前に同じ。これよ    り両眼一同に出さん迚、左右の指にて眥を推せば双目発露せり。是も撫入れ畢て、自ら復(マタ)小鼓(コ    ダイコ)を鳴し見物の者を散ぜしむと。観者又曰。此こと術ありて欺くかと。近く寄りて目をつけて能く    視るに、実にして偽りならず。皆驚かざるは無し。又曰。彼れ眼の出ざる常頗を見れぱ、物を視る半眼    にして開目の状なし。たで日側(メノハタ)凹(クボミ)て、瞳子(クロメ)には白膜(クモリ)かゝり黒み少く、病眼と    も云べき体なり。察するに物を視ては分明ならざるかと覚ゆ。又その眼を推出せしを見るに、甚醜穢に    して見る者厭悪を生ず。又この出処を問へば、遠来に非ずして、言舌江戸の産ならんと云〟    〈静山はどうしても信じられず、官医・桂川甫賢や馬嶋流の眼科医に意見を求めたり、自藩の侍医を両国に遣わして見     聞報告をさせたりしている。結果はというと、蘭方医・桂川はあり得ないと断じ、馬嶋流も医学的には否定して怪術     (マホウ)かとし、侍医は判断に窮したようで「人間片羽(カタハ)の中の、最も怪むべき者乎」と綴っている〉    ☆ よのなかに 世の中に(四方赤良・大田南畝)    ◯『甲子夜話1』巻之二 p26(文政四年(1821)記)   〝白川老侯御補佐の時は、近代の善政と称す。何者か作けん、世に一首の歌を唱(ウタフ)、      どこまでもかゆき所に行とゞく                徳ある君の孫の手なれば    此時、武家の面々へ、尤文武を励されければ、太(ママ)田直次郎〔世に呼て寝惚先生と云。狂歌の名を四    方の赤良と云へり〕といへる御徒士(オカチ)の口ずさみける歌は、      世の中に蚊ほどうるさきものはなし                ぶんぶ(文武)といふて夜もねられず    時人もてはやしければ、組頭聞つけ、御時節を憚(ハバカラ)ざることとて、御徒士頭に申達し、呼出して    尋(タヅネ)ありければ、答申には、何も所存は無御坐候。不斗口ずさみ候迄に候。強て御尋とならば天の    命ずる所なるべしと言ければ咲(ワラヒ)て止けるとぞ〟    ◯『一話一言 補遺参考篇2』〔南畝〕⑯206(大田南畝著・寛政期)   〝(南畝『野翁物語』から三条を抄録。その中に「流行落書之事」として次の行を記す)    此落書は文の道に心あるものゝ作にもあらねば、取べき見所もなしといへども、移り行世のかたり伝る    便りなきにしもあらず。よりてその心をとりてこゝに記しぬ。牛込大田直次郎が戯歌      世の中にか程うるさきものはなしぶんぶといふて身を責るなり      まがりても杓子は物をすくふなりすぐなよふでも潰すすりこぎ      孫の手のかゆひ所へとゞきすぎ足のうらまでかきさがす也    (これに対して、南畝自身はこう弁明している)    是大田ノ戯歌ニアラズ偽作也。大田ノ戯歌ニ時ヲ誹リタル歌ナシ。落書体ヲ詠シハナシ。南畝自記〟    ☆ らくだ 駱駝    ◯『甲子夜話1』(文政五年(1822)記)   ◇「巻之八」p136   〝去年、蘭舶、駱駝を載て崎に来る。夫より此獣東都に来るべしやなど人々云しが、遂に来らず。先年某    侯の邸に集会せしとき、画工某その図を予に示す。今旧紙の中より見出したれば左にしるす。図に小記    を添て曰。享和三癸亥七月長崎沖へ渡来のアメリカ人拾二人、ジヤワ人九十四人、乗組の船積乗せ候馬    の図なり。前足は三節のよし、爪迄は毛の内になり、高さ九尺長さ三間と云。その船交易を請(コヒ)たる    が、禁制の国なればとて允(ユル)されずして還されけり。これ正しく駱駝なるべし。此度にて再度の渡来    なり〟    〈「去年」とは文政四年のこと。享和三年(1803)七月、アメリカ船が積んでいた二瘤駱駝の図あり。画工名はなし〉     ◇「巻之九」p163   〝この三月両国橋を渡んとせしとき、路傍に見せものゝ有るに看版を出す。駱駝の貌なり。又板刻して其    状を刷印して売る。曰、亜刺比亜(アラビア)国中、墨加(メカ)之産にして、丈九尺五寸、長さ一丈五尺、足    三つに折るゝ。予、乃(スナハチ)人をもて問しむるに、答ふ。これは去年長崎に渡来の駱駝の体にして、真    物はやがて御当地に来るなりと言たり。因て明日人を遣し視せ使むるに、作り物にて有けるが、その状    を図して帰る。図を視るに恐くは真を摸して造るものならじ。『漢書』西域伝の師古の註に云ふ所は、    脊の上肉鞍隆高封土の若し。俗封牛と呼ぶ。或いは曰く、駝の状馬に似て、頭羊に似る。長項垂耳、蒼    褐黄紫の数色有りと。然るにこの駝形には肉鞍隆高の体もなく、その形も板刻の云ふ所と合はず。前冊    に駝のことを云しがそれ是ならん〟    〈「前冊」とは「巻之八」の記事中のこと、つまり享和三年、アメリカ船が積んでいた駱駝の模写図のことをいうので     あろう。実際の駱駝が江戸の見世物として出るのは文政七年のことであるが、文政五年には早くも駱駝の細工物が見     世物として出たのである。もっともその細工には瘤(『漢書』記事の云う「脊の上肉鞍隆高」)がないから、松浦静     山は享和三年の模図を「是ならん」としたのである〉    ☆ りゅうほ ののぐち 野々口 立圃    ◯『甲子夜話5』巻之七十二 p149(文政二年(1819)記)    (文政元年十月七日の大火に焼失した松浦家所蔵の品目)   〝六歌仙画讃小屏風 一双    是始は安芸国廿日市駅の旅舎某の家に有し者なり。その家海辺に在て、厳島を眺むる勝景の所なり。此    屏風、予〈松浦静山〉東上西下必ずこゝに休宿するを以て、屢々鑑賞す。後その主に請て家蔵と為す。    京人立圃の所画。六歌仙、新六歌仙の像を描きて、上にその詠歌と自讃の発句を題す。画の狂態風逸、    自句も亦奇趣、翫尚すべし。予退隠の後、修繕を加へんと欲し、還て祝奪に遭へり。今其記憶せるを言    ふ。        新歌仙定家卿の画像の讃に      駒とめて袖うちはらふかげもなしさのゝ渡りの雪の夕暮        何とか詞書ありて    立圃      とめて見る駒やじや/\踏む雪のくれ蹈む雪のくれ        又西行法師画像の讃には      天の原おなじ岩戸をいづれども光りことなる秋のよの月        また詞書ありて      太鼓ほどに今宵てれ/\天の月    『名画拾彙』云。野々口立圃、名親重、号松翁。京師人。世に雛屋と称す、貞室に学びて、盛に誹諧の    連歌を唱ふ。画も亦逸趣有り。寛文九年没、歳七十五と。珍しき物なれば惜むべき也〟    ☆ りょうごく 両国納涼    ◯『甲子夜話2』巻之二十四 p91(文政五年(1822)記)   〝世の有様は今と昔とは替るものなり。予十歳頃より十八九ばかり迄は、両国の納涼に往き、或は彼の辺    を通行せしに、川中に泛(ウカベ)る舟いく艘と云数しらず。大は屋形船、小は屋根舟、其余平(ヒラ)た船、    似たり舟抔(ナド)も云ふも数しらず。或は侯家の夫人女伴花の如く、懸燈は珠を連ねたるが如き船数十    艘、この余弦管、闘拳、倡哥、戯舞に非ざるは無し。故に水色燈光に映じて繁盛甚し。この間に往々一    小舟ありて、大なる鼓を置き、節操もなく漫に累撾し、その喧噪云ばかりなし。この舟必ず弦詠、謡曲、    或は倡舞する船の傍に到て鼓を打て大叫す。止ことを得ずして金銭を与へて退かしむ。鼓舟これを受け    乃退て、又隣船の傍に至て然(シ)かす。隣船も亦この如くす。或は金を得ること少なければ退かず。遂    に数金を獲(ウル)に至る。世これをあやかし舟と呼(ヨビ)き。寛政に諸般改正せられてより風俗一変し、    この舟絶てなくなりぬ。今三十余年を過て、世風寛政の頃とも大に違へども、彼舟などは昔にかへるこ    となく、今知人も稀なり。又両国川のさまも、屋形船は稀に二三艘、屋根舟も処処往来すれども、多く    は寂然、僅に弦哥するも有るか無きかなり。たま/\屋形船の懸燈は川水を照せども、多くは無声のみ。    年老たるは悲むべけれども、昔の盛なるを回想するに、かゝる時にも逢しよと思へば、又心中の楽事は    今人に優るべき歟、如何〟    〈松浦静山は宝暦十年(1760)生。その十代といえば安永期(1772~81)に当たるが、これは寛政改革の前、天明期(17     81~89)までの両国辺の光景といえよう〉