Top              『大田南畝全集』            浮世絵文献資料館
   大田南畝全集               か行                    ☆ かしんさい 花信斎 ◎ 〔?~寛政九年(1797)〕    ◯『徳和歌後万歳集 巻十一』①32(天明三年詠)  〝何がしの大守、下着にもろ人の狂歌をかヽしめて狂歌衣と名づけ給ひしに、その衣のそびらに花信斎が    筆して猿をかきたるをみて  誹諧の猿の小蓑もこの比は狂歌衣をほしげなり〟    〈花信斎は三輪花信斎。『江都諸名家墓所一覧』(文化十五年刊)に「三輪在栄、号花信斎」。『東京掃苔録』に〝名     在栄、狩野家の門に入り、猿を画くに妙を得たりといふ〟絵師である。寛政九年四月二十七日没。「何がしの大守」     は未詳〉    ☆ かぶきどう 歌舞伎堂 〔生没年未詳〕     ◯『浮世絵考証』⑱447(寛政十二年五月以前記)  〝歌舞伎堂  役者似顔のみかきたれど甚しくなければ、半年斗にておこなわれず〟    〈南畝の記事に「歌舞伎堂」とあるのみで「艶鏡」の名は見えない。なお歌舞伎堂は狂言作者・中村重助の画工名だと     する説がある。そうだとすると狂名を歌舞伎の工と称する人で、南畝とは面識があった。天明三年五月頃、南畝の方     から面会を乞うと、重助は恐縮したか自ら南畝宅に来て逆に狂歌の入門を乞う、南畝も入門を許した。後日南畝も重     助宅を訪問し、庭を言祝ぐ狂歌を贈っている。表徳を故一という。(以上『巴人集』②408参照)また「判取帳」に     も「へっつい河岸住」の「きやうかよもの門人」として名を連ねている。しかし南畝の中村重助記事はこれだけのよ     うで、歌舞伎堂艶鏡と結び付くような記述は見当たらない〉   ☆ きゅうき 宮喜〔未詳〕    ◯「杏園稗史目録」⑲486(文政二年明記)   (文政二己卯年、南畝の「収得書籍」として)  〝「吾妻曲狂歌文庫」五十人一首 天明 宮喜所画〟    〈『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛編・四方赤良板下・天明六年刊・蔦屋板)の狂歌師肖像は北尾政演(山東京伝)画とさ     れる。「宮喜所画」とは誤記か。南畝もこの狂歌本には関係しているのであるから不審である。宮喜は未詳。それに     してもこの狂歌本を文政二年に至るまで所蔵していなかったには驚く〉   ☆ (きょせん) おおくぼ 大久保(巨川)〔享保七年(1722)~安永六年(1777)〕    ◯『金曾木』⑩309(文化六年十二月記)  〝明和の初、旗下の士大久保氏、飯田町薬屋小松屋三右衛門等と大小のすり物をなして、大小の会をなせ しよりその事盛になり、明和二年より鈴木春信吾妻錦絵といふをゑがきはじめて紅絵の風一変す〟    〈明和二年、南畝は十七才。この大小摺り物会のことは後年の伝聞であろう。南畝は鈴木春信とは明和三年十月から交     渉が始まり、小松屋三右衛門百亀は安永頃から南畝の記録に出始めるからだ。しかし巨川と思われる旗本大久保氏と     は面識がないようで、記事もこれだけのようだ。なお南畝の記述に「巨川」の名は見えない〉   ☆ きよつね とりい 鳥居清経 〔生没年未詳〕    ◯『浮世絵考証』⑱441(寛政十二年五月以前記)  〝鳥居清信弟子〟〝一枚絵草双紙をかけり〟    〈この「一枚絵」は紅摺の一枚絵〉    ◯『一話一言 補遺参考編一』⑯104(文化八年五月二日明記)   (「雲茶会」二集。雲茶店主量山の出品)  〝古障子に得たり     附り下総八幡不知之標題黒表紙【稗史作者四方赤人/画工鳥居清経】    此本古板の草双子に標題を新にかへたるもの也。中に作者呉増左とあり〟    〈『改訂日本小説書目年表』によると『下総国八幡不知』は天明三年刊、作者画工名なし。この本の古板に相当するも     の未詳。なお古板の「作者呉増左」には同小説年表の安永七~八年に黄表紙の作品がある。不審なのは「稗史作者四     方赤人」なる人。南畝が「四方のあか人」と称したは明和十年の「江戸二色」の序に例があるが、「稗史作者四方赤     人」が南畝かどうか、関係は未詳。またこの書が珍書画会である「雲茶会」になぜ出品されたのかもよく分らない。     「雲茶会」は凡例参照〉   ☆ きよとも とりい 鳥居清朝 〔生没年未詳〕    ◯『瑣々千巻』⑩349(文化八年四月記)   〝鎌倉(虫)五代記 七巻、卯ノ正月吉日 通油町藤田忠兵衛板。    【第一】鶴岡東日記【かまくらのゆらい/西行法師の事】 画工鳥居清朝     (本文、略)    〝蜀山云、此書古きものヽ様に見ゆれど、此文によりてみれば、宝永以後に作れる書也〟    〈『鶴岡東日記』文中に、大仏殿は「宝永六年」(1709)の成就という記述あり、南畝の注記もこれに拠った。『瑣々千     巻』は凡例参照〉   ☆ きよなが とりい 鳥居清長 〔宝暦二年(1752)~文化十二年(1815)〕    ◯『菊寿草』⑦227・239(安永十年一月刊)  〝絵師之部 鳥居清長〟    〈またこの年出版の黄表紙「化物世継鉢木」(伊庭可笑作)に対する南畝の評判に〝さすがは鳥居をこした絵師、清長     さん出来ました〟とある。ただ〝鳥居をこした〟の意味が判然としない。画風が鳥居から春信・重政風に変わったこ     とを言うのか、あるいは後出のように、鳥居派には紅摺絵の印象が強いから、錦絵で登場した清長をそう言ったもの     か〉    ◯『岡目八目』⑦262(天明二年一月刊)  〝画工之部 鳥居清長〟    ◯『浮世絵考証』⑱441(寛政十二年五月以前記)  〝鳥居清信門人 清長は俗称新助、近頃錦絵彩色の名手なり〟    〈南畝は清長とは面識はないようだ〉   ☆ きよのぶ とりい 鳥居清信 〔寛文四年(1664)~享保十四年(1729)〕    ◯『浮世絵考証』⑱441(寛政十二年五月以前記)  〝鳥居庄兵衛【元禄十年の板、好色大福帳五冊/絵師の名なり】  鳥居清信【庄兵衛は元祖清信俗称也。鳥居/庄兵衛清信と書たる絵本おほし】  弟子同清満 同 同清倍  同 同清経 同 同清長  鳥居清信は江戸絵の祖といふべし。はじめは菱川のごとき昔絵の風俗なりしが、中比より絵風を書かへ    しなり。此のち絵風さまざまに変化せしかども江戸歌舞伎の絵看板は鳥居風に画く事也〟   ◯『一話一言 補遺参考編一』⑯9 (文化八年四月二日明記)  (「雲茶会」初集。海棠園(佐々木万彦)出品) 〝丹絵二枚 竹ぬき五郎 草ずり引 鳥居清信画〟    〈文化年間、鳥居清信画の丹絵は既に珍品になっていたようだ〉   ◯「識語集」⑲725(年月日未詳)  (松月堂不角選の『色の染衣』に南畝の識語)  〝蜀山按、貞享四年丁卯歳也。大和絵師庄兵衛者鳥居庄兵衛清信也。蓋書林削貞享四字及大和絵師以下字    而作新版也。今以異本訂正。蜀山人〟    〈南畝の「大和絵師庄兵衛」を鳥居清信とする説に従うと、清信の作画期は元禄以前の貞享四年(1687) に溯ることに     なる。しかし『原色浮世絵大百科事典』(第二巻「浮世絵師人名」)はこれを否定している〉    ◯『遊戯三昧』②564(年月日なし)  〝鳥居清信役者画考 鈴木政房記〟    〈『遊戯三昧』は諸家の狂文を、南畝が集めて収録したもの。全集の解説によると、その中に鈴木政房の記す「鳥居清     信役者画考」があるという。本文は編者未見〉   ☆ きよはる こんどう 近藤清春 〔生没年未詳〕    ◯『浮世絵考証』⑱442(寛政十二年五月以前記)  〝近藤助五郎清春  赤本、金平本などにあり。正徳、享保の頃なり〟    ◯『瑣々千巻』⑩331・332(文化八年四月八日)  〝いせ物語 画工近藤清春【土佐上るり本のごとき本也】〟   〝どうけうき世はなし      かる口もみじ傘 画工近藤助五郎清春筆    きげん直してけち/\わらひ     もと石町 いがや板〟    〈『国書総目録』によると、「いせ物語」は享保十四年(1729)刊、「かる口もみじ傘」の方は元禄年間刊とある。ただ     し「かる口もみじ傘」の画工名は記載なし〉   ☆ きよます とりい 鳥居清倍 〔生没年未詳〕    ◯『浮世絵考証』⑱441(寛政十二年五月以前記)  〝鳥居清信弟子〟〝一枚絵、草双紙をかけり〟    〈この「一枚絵」も紅摺の一枚絵の意味。次項も同様〉   ☆ きよみつ とりい 鳥居清満 〔享保二十年(1735)~天明五年(1785)〕    ◯『浮世絵考証』⑱441(寛政十二年五月以前記)   〝鳥居清信弟子 一枚絵、草双紙をかけり〟    〈『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師人名」によると、初代清満は鳥居清倍の弟子とされる〉   ☆ くにさだ うたがわ 歌川国貞 ◎〔天明六年(1786)~元治元年(1864)〕     ◯「書簡 202」⑲259(文化九年八月四日付)  (牛込御門外薬屋、亀屋勘兵衛(壺天主人)宛)   〝只今画工国貞来談候間、席画をたのみ罷在候〟    〈この席画は実現したのであろうが、その後の消息記事は見当たらない〉    ◯『かくれ里の記』①318(天保七年刊)    〈鳥文斎栄之の古図を模写し、香蝶楼国貞の名で挿絵。栄之の項参照〉   ☆ くにのぶ 国信 〔生没年未詳〕    ◯『岡目八目』⑦262(天明二年一月刊)    〈天明二年正月刊の黄表紙「画工之部」に名あり。『改訂日本小説書目年表』黄表紙の部に岸田杜芳作『擲打鼻上野』     の画工に二行書きにして【勝春山・国信】とあり。同一人物か別人か未詳。なお広瀬朝光氏の翻刻『稗史提要』(黄     表紙の出版年表。本ホームページ「燕石十種」凡例に書誌あり)には同作品の画工を国信とする。また上記小説年表     の「出版年代未詳部」に『菊水之巻』なる作品があり、画工「仲国信」とあり。この関係も未詳。国信の名は両年表     ともこの年の前後には見えない〉   ☆ くにまさ 国政 〔安永二年(1773)?~文化七年(1810)〕    ◯『浮世絵考証』⑱445(寛政十二年五月以前記)  〝国政(以下朱筆)中山富三郎似皃ヲ画テヨリ板下ヲ画く。歌舞伎役者の似顔をうつす事をよくす〟   ☆ けいさい くわがた 鍬形蕙斎 ◎ 〔明和元年(1764)~文政七年(1827)〕    (北尾政美の名で出ているものは〟まさよし〟の項に一括した)    ◯『細推物理』⑧386(享和三年八月十四日明記)  〝(南畝の)南隣の中川氏の約におもむく。鍬形紹真来りて、略画をゑがく。中川修理太夫殿の臣何がし、    郡山の臣何がしなど相客なり〟    〈いわゆる席画のようである。何を画いたか記述なし。また南畝が画賛を行ったかどうかも記述がない〉    ◯『画巻詞書』②510(文化一年三月上旬明記) 〈『游戯三昧』所収。次項巻子本『職人尽絵詞』の南畝詞書の原稿。全集は全文を掲載する〉  〝鍬形紹真蕙斎画也〟  〝文化ときこゆる年のはじめやよひの比 杏花園詞書〟     ◯『職人尽絵詞』②520(文化一年三月上旬明記)    〈松平定信の依頼。鍬形蕙斎画、杏花園詞書。『画巻詞書』とほぼ同文。全集は写真と翻刻を掲載する〉    ◯「書簡 122」⑲266(文化九年十一月十六日付)   〝深川正覚寺橋より南、海福寺前にこいや伊兵衛と申候烟草屋有之候。蕉門杉風子孫にて、夥敷芭蕉、其    角、杉風、支考、許六等之書画所持、平日に人に見せ候事無之、漸当時こいや之旧主より申込、先日致    一見候処、中々短日には見つくされ不申候。いづれも真跡驚目申候。午前より薄暮迄二十四幅見申候。    又々来春日永之節を約し申候。蕙斎、武清など参候て少々図を写し申候。巻物等も数多、杉風隅田川紀    行一巻写取申候。朝湖之朝顔之画に翁之色紙などは誠に奇々妙々〟    〈杉風の子孫、鯉屋伊兵衛の所蔵する蕉門の書画を見る機会は多くはなかったようだ。書簡の主大田南畝と鍬形蕙斎と     喜多武清は、漸く願いが叶って一見したのである。見残したものも多く、来春の再来を約束したというのであるが、     叶ったのであろうか。南畝の記事は見あたらない。「朝湖」は英一蝶〉    ◯「序跋等拾遺」⑱559(文化十一年十月七日明記)    〈鍬形蕙斎画『心機一払』に南畝の序。〝文化甲戌仲冬陽月甲子 蜀山人〟とあり。序文に曰く〝一たび筆を下して心     のごとくならざる事なきもの、今ケイ斎をすてヽたそや〟と。南畝は蕙斎の画業を高く評価している。この絵本は同年     の文化十一年に刊行された。なお『国書総目録・著者別索引』には『心機一掃』とあり〉    ◯『六々集』②210(文化十一年十月七日記)    〈前項の『心機一払』と同文。ただ書名が違うようで〝画意筆先序〟とあり。最初の書名は『画意筆先』だったか。こ     の序に日付書名はない〉    ◯『六々集』②217(文化十一年十一月下旬詠)  〝蕙斎のゑがけるお徳、子の日の松を引所  おたふくのをのが名におふ福引にひくや子の日の松のすり小木〟  〝同じく女三の宮のかたちにて猫をひいてたてり  思ひきや女三の宮の猫背中頬たかくして鼻ひくしとは〟  〝同じく蝙蝠をまねく所     鳥にあらず鼠にあらずおふく女のまねくに来る蝙蝠の福〟    ◯『六々集』②223(文化十二年一月詠)  〝紹真のかける小松に松露のゑに  ひろへどもつきぬ千秋万歳のちはこの玉や松露なるらん〟    ◯『丙子掌記』⑨615(文化十三年十月下旬記)    〈南畝、市川米菴の「丙子秋日拙静写蘭蕙賛」を書写。欄外注に〝【五山致地氏蕙斎蘭蕙図請予賛、賛曰/蓬蒿満廬     隠士不除 蘭蕙当門 何人不除】〟とあり。この菊池五山持参の蘭蕙図の絵師〝地氏蕙斎〟が鍬形蕙斎か、未詳。     また欄外注も南畝の筆と推定されるが、これも未詳。とりあえずあげておいた〉    ◯『あやめ草』②100(文政五年二月下旬詠)  〝いせ伝のもとより、蕙斎が画がける料理通のさし画の賛をこふ  蝶や夢鶯いかヾ八百善が料理通にてみたやうなかほ〟    〈『料理通』は八百善著、文政五年の刊行。「いせ伝(伊勢伝)」は文化十一年頃から南畝と交遊頻りで、南畝の資料で     は新橋住の書画所蔵家とあり〉    ☆ こういん ながやま 長山 孔寅    ◯『清好帖』⑳350(谷清好自刻刊行・文政七年二月)       〈『清好帖』は、大坂の「彫刻摺物師」谷好清が、南畝死没の翌年、南畝の詩と狂歌をもって一帖とした追福集。加茂     季鷹序・南宮跋・長山孔寅画。「孔寅」と「紅園」の署名を使用している。谷清好の跋によると、南畝にとって、清     好は大坂における「酒の友」ということだが、孔寅と南畝の交渉の有無については不明である〉    ☆ こうかん しば 司馬江漢 ◎ 〔延享四年(1747)~文政元年(1818)〕    ◯「会計私記」⑰36(寛政八年十二月九日)  〝琉球人見物ニ芝片門前セリ屋弥右衛門方エ参、同定吉並佐々木金十郎同道司馬江(一字欠)、大久保酉山エ    参申〟    〈定吉は南畝の嫡子。佐々木金十郎は南畝の娘・幸の夫金兵衛か。同道して司馬江漢宅に立ち寄ったものか。大久保酉     山は考証家。セリ屋弥右衛門は未詳〉    ◯『玉川余波』②123(文化六年一月下旬賦)  〝司馬江漢のかける猿橋の画に  ましらなく名におふはしはあし引の山のかひある国とこそきけ〟    〈文化五年十二月から翌年四月にかけて、南畝は玉川巡視に公務出張。一月二十五日頃、登戸村~宮内村間の宿舎か名     主の家で一見した〉    ◯『一話一言 補遺参考編一』⑯一〇二(文化八年五月二日明記)   (「雲茶会」二集。青山堂の出品)  〝相州鎌倉七里浜図 江漢司馬峻 愛宕山額 大一幅〟    〈以下二項も同じ絵についての記事〉  ◯『南畝集 十八』⑤209(文化八年五月賦)(漢詩番号3518)  〝青山堂観司馬江漢所画鎌倉七里浜図   昔掲城南愛宕廟 今帰郭北青山堂 泰西画法描江島 縮得煙波七里長〟    〈かつては芝の愛宕山権現社に奉納されていたようだ。詩は五月二日の「雲茶会」当日の賦か〉   ◯『一話一言 巻三十六』⑭416(文化八年五月)   〝近頃まで愛宕山にかけてありし絵馬をはりかへ時、青山堂これを得て裱褙して携来〟    (南畝の前項の詩を「杏花園」の名で題し、絵柄を書き留める)    相州鎌倉七里濱図/西洋画士 東都 江漢司馬峻 描写/寛政丙辰夏六月二十四日〟    ◯「南畝文庫蔵書目」⑲387・389  〝紀行 西遊旅譚 一巻 司馬江漢〟(寛政五年刊)  〝外国 和蘭天説 一巻 司馬江漢 (寛政七年刊) 銅板十図 一巻 同上 (刊年不明) 天球図 一巻 同上〟   (寛政八年刊)    〈明和の頃、南畝は平賀源内の許に出入りしていたから、やはり源内と関係のあった江漢とは面識があったかもしれな     い。また後年には近藤重蔵という両者に共通する友人もいた。したがってもっと交渉があっても不思議はない。だが     南畝の江漢記事はほとんどない。もっとも江漢の著作を所蔵しているのだから、南畝の視界に江漢が入っていたとは     言えようか〉   ☆ こりゅうさい 湖竜斎 〔生没年未詳〕    ◯『浮世絵考証』⑱445(寛政十二年五月以前記)  〝湖竜斎 後に法橋となり浮世絵をかヽず    両国橋広小路薬研堀に住せり。是又文調の類也〟    〈「文調の類」という意味は〝男女風俗、歌舞伎役者画ともにつたなき方なり〟である〉