Top              『新燕石十種』            浮世絵文献資料館
   新燕石十種               か行                  ☆ かざん わたなべ 渡辺 崋山    ◯『兎園小説余録』⑥393(曲亭馬琴編・文政十年記)   (「大空武左衛門」記事)   〝当時(文政十年夏)この武左衛門を、林祭酒の見そなはさんとて、八代州河の第に招かせ給ひし折り、吾    友渡辺花山もまゐりて、その末席にあり、則蘭鏡を照らして、武左衛門が全身を図したる画幅あり、亡友    文宝携来て予に観せしかば、予は又そを文宝に模写せしめて、一幅を蔵めたり、この肖像は蘭法により、    二面の水晶鏡を掛照らして、写したるものなれば、一毫も差錯あることなし、錦絵に搨り出せしは、似ざ    るもの多かり、さばれ、件の肖像は、大幅なれば、掛る処なし〟    ◯『写山楼之記』⑤49(野村文紹著・明治十五年成立)   (谷文晁門人)   〝渡辺崋山 【天保十二年十月十一日歿、四十九、字伯登、号禅楽堂、名定静、称全登、男小華、旧田原          藩、門人素堂】    ☆ かねなり あかつきの 暁 鐘成    ◯『浪華百事談』(著者未詳・明治二十八年頃成立)   ◇「著述者暁鐘成の宅并事跡」②200   〝暁鐘成は、文政、天保の頃より、浪花に於て有名なる戯作の一大家たり、姓は木村、名は明啓、俗称は    知らず、著作の名は、鶏明舎暁鐘成、又、狂歌の名を鹿廼舎真萩といへり、浪花の人、旅籠町通り西横    ぼりの西、醸造家の息なるよし、一畸人にして、其始め狂歌を専らに楽しみし由、【其師は誰か聞ず】    後には戯作をなせり、余幼年の頃【天保中】既に心斎橋筋博労町通りに北の方西側に卜す、【心斎橋博    労町西北角は、書林岡田河内屋茂兵衛宅にて、其北隣なりしかと思へり】其居宅異風の構へにて、表口    は僅かに二間半か三間ばかりにして左に図する如く、床を高くつくり、すべて檜を以て御殿のさまに模    し造り、翠簾をかけ、高麗べりの畳をしき、庭はしき瓦をたゝみ、其奥の方には枝折門を造り、南の方    の壁は築地の如くになし、上の口には階をつくり、高欄をつけて、真鍮にてつくる葱宝珠をつけたり、    (編者注、居宅の図あり)而して南都の名産と称し、名所になぞらへたる田麩、みそ、菓子などを自製    して、おの/\報条をそへて売り、将此ごろ、世人有職ものゝ呼びし、京都禁裏境町御門の外に住せる    福井又四郎がつくれる、白木づくりに菊又は高尚なる画をゑがきたる色紙かけ、短冊かけ、冠台、柳ば    こ、五節句のかざり物、遠山台などのたぐゐ、又土にて製せる神代器の模造抔もうられ、浪花中に類な    き一奇のものなりしが、天保十三年徳川氏改革、民家質素倹約の令ありし時、御殿づくりを官より咎め    て、破毀せしめたり〟        ◇「豆茶店并浮世亭」②274   〝瑞竜寺の表門より壱丁東に、南へ通ずる路あり、其西南角に、むかし豆茶店といへるもの有りしとぞ、    余幼年の頃 天保 、名のみ残りて茶店はなく、暁鐘成翁が寓居にて、其南の方に路次ありて、其奥の    方には庭もあり、小座しき抔も後人の建しものあり、豆茶店ありしは、いつの頃のことなる歟、又、其    名昔のことなれば、炒まめを売るよりの名か、或ひは白大豆の炒たるを、茶に入れしものを豆茶といへ    れば、それを客に出せしものか、知れず、余が少年の頃には、暁翁の寓の傍らの路次の内にて、浮世亭    と号て、茶店を初めぬ、此茶店は、何品も一種の価壱分五厘とせり、そは、茶料も、菓子も、酒一瓶も、    酒肴一皿も、すべて右の価なり、これ浮世壱分五厘をいふ、古き語によりての趣向なり、暫時にてやめ    たり〟    ☆ きょうすい いわせ 岩瀬 京水    ◯『翟巣漫筆』③附録「随筆雑記の写本叢書(三)」p8(斎藤月岑書留・慶応三年三月記)   〝京山か男、岩瀬梅作、号京水、蒔絵を業とし画をもなしけるが、丁卯三月頃不斗狂を発して自ら縊れて    死しける由〟    ☆ きよなが とりい 鳥居 清長    ◯『百戯述略』④226(斎藤月岑著・明治十一年成立)   〝寛政頃、鳥居清長巧者にて、専に行れ、歌川豊春、喜多川歌麻呂等も多分に画出し、勝川春章は歌舞伎 役者肖像を画き出し、門人多く、一枚絵多分に画き、世に被行申候、又其頃、東州斎写楽と申ものも、 似顔絵を画始候へども、格別行れ不申候〟    ◯ 同上 ④227   〝(彩色摺について)寛政の頃、鳥居清長工夫いたし、あひさびの帷子に緋の襦袢透通り候処、又、蚊帳、  綟子張の団扇には、竪横の板木二枚に分ち候抔、次第に巧みに相成、今は十七八遍にも及び申候〟      ☆ きよのぶ とりい 鳥居 清信    ◯『続飛鳥川』①29(著者未詳・成立年未詳)   〝寛延、宝暦の頃、文化の頃まで売物。元日に番付売、初狂言、正月二日始る、番付題代六文、一枚絵草 紙うり、うるし画、うき絵、金平本、赤本、糊入ずり、鳥居清信筆、其外、奥村、石川”  ◯『元吉原の記』②312(曲亭馬琴著・文政八年の識語あり)   〝菱川師宣、鳥居清信、及予が旧族羽川珍重等が画きしは、みな今の吉原になりての画図なれば、元吉原 の考にはえうなし〟元和、寛永のころまで、江戸はなほしかるべき浮世絵師のなかりし故也〟    ☆ きよはる こんどう 近藤 清春    ◯『於路加於比』①322(柳亭種秀著・成立年未詳)   〝目付絵    享保十二丁未正月吉日、はんもと山本九左衛門”    (六丁に)“画工近藤助五郎清春筆とあり、此画工、当時の物の本あまたかけり〟    ◯『歌舞伎十八番考』④168(石塚豊芥子・嘉永元年序)   (「嬲」の項)   〝『金之揮』【享保十三戊申正月板、通り塩町板元奥村源六、近藤清春筆】〟   (挿絵に〝【同年の七月十五日】【甲賀三郎鬼神退治】一心五界王〟)    ☆ くにかね うたがわ 歌川 国兼    ◯『見世物雑志』〔新燕石〕⑤333(小寺玉晁著・文政十一年記事)   〝九月七日より(名古屋)清寿院入口にて、江戸三人兄弟といへる者来て、浮世ばなし景事をなす。大評    判よろし、絵番附名前書を売、        (番付と挿絵あり、略)        絵番附は、京都浮世絵師歌川国兼といへる者にしたためさせ申候由〟    ☆ くにさだ うたがわ 歌川 国貞    ◯『伊波伝毛乃記』⑥132(無名子(曲亭馬琴)著・文政二年十二月十五日脱稿)   〝(山東京伝、文化十三年九月七日)四更の比竟に没しぬ、時に年五十六、(中略)明日未の時、両国橋    辺回向院無縁寺に葬送す、法名智誉京伝信士【イ法名弁誉知海】この日柩を送るもの、蜀山人、狂歌堂    真顔、静廬、針金、烏亭焉馬、曲亭馬琴、及北尾紅翠斎、歌川豊国、勝川春亭、歌川豊清、歌川国貞等、    凡する者百余人なり〟     ◯『百戯述略』④226(斎藤月岑著・明治十一年成立)   〝歌川豊国は豊春門人に御座候処、享和、文化の頃より、春章の風を一変いたし、歌舞伎の肖像を画き出 し、文化の頃より天保の頃迄、絵入読本、一枚絵、多分に画、後年筆も上達仕候へども風韻無之、門人 国貞も同様にて、歌舞伎役者、当世の婦女の姿をば巧者にて、久く世に被行候〟    ◯『睡余操瓢』⑧附録「随筆雑記の写本叢書(八)」p7(斎藤月岑書留・明治三年頃記)   〝金波楼にありし国貞画雛助小六似顔    三月の雛助にまた小六月いかなる春と冬ややへにけん 蜀山人〟    ☆ くになが うたがわ 歌川 国長    ◯『百戯述略』④227(斎藤月岑著・明治十一年成立)  〝(切組燈籠画)文化以来、豊国が弟子、国長、豊久の両人、格別に工夫いたし、伊予奉書一枚切の錦絵 に、五枚続、六枚続など申、燈籠絵出板いたし申候〟    ☆ くによし うたがわ 歌川 国芳    ◯『五月雨草紙』③59(栗本鋤雲著・慶応四年七月成立)   (天保十四年記事)   〝爰に世の中大評判は、浮世絵師国芳なるもの、頼光朝臣の不例の図は、子供遊の双紙にある土蜘蛛の妖 物になぞらへ、当世滅亡せし矢部駿州を始め、諸家の面々より、下々に至りては、株持、地主の損毛、 岡場所、茶屋、小屋、富興行の山師ども、いろ/\さまざまに化けたる姿、如何にも正しく四天王は碁 を囲居たる図なるが、此錦絵を誰か見付出したるか、気がつきたるや、厳敷買上げ、板木は滅却して仕 まいたる由、世に恐るべき人智の機妙にて、聊の絵虚事なりとも、事理を推て勘考する時は、遂に画書 の当人も心付ざる所迄に至なり〟    ☆ けいさい くわがた 鍬形 蕙斎    ◯『睡余操瓢』⑦附録「随筆雑記の写本叢書(七)」p6(明治三年頃・斎藤月岑書留)   〝久保氏蔵河漏製図     抱一上人御讃、鍬形蕙斎画    新蕎麦の給仕はかへる乙鳥かな  屠竜題〟    ☆ けんかどう きむら 木村 蒹葭堂    ◯『百戯述略』④228(斎藤月岑著・明治十一年成立)  “蒹葭堂【木村吉右衛門】が遺稿「唐土名所図会」は、精密に候得共、銅板に有之〟    ☆ げんざぶろう 薪絵師 源三郎    ◯『けんどん争ひ』②78(山崎美成編・文政七~八年論争)   (「けんどん」の名義に関する曲亭馬琴と山崎美成の論争。馬琴、考証するに『人倫訓蒙図彙』を引き)   〝元禄中の風俗、諸商売の図画を書集めたるものなれども、こは京師にて撰述せし俗書にて、蒔絵師源三 郎とかいふものの筆に成れるものなれば、江戸の事は謬伝る事多かり〟    ☆ こうかん しば 司馬 江漢    ◯『翟巣漫筆』③附録「随筆雑記の写本叢書(三)」p7(斎藤月岑書留・慶応元年)   〝八月南なべ丁辺古書画商ひ候家ニ而司馬江漢の画、西王母のかけ物見る、江漢の人物ハめづらし、絹地    粉色なり〟    ☆ ごしゅん まつむら 松村 呉春    ◯『胆大小心録』(上田秋成記・文化六年以前)   ◇⑧79(寛政五年以降)   〝(上田秋成の妻瑚璉尼)はもと京のうまれじやに故、住たいと云ゆへ、まあこゝろみにちよつと知恩院    の前に腰かけて、遊び初めたが、軒向は村瀬嘉右衛門、月渓がよろこんで、出会互いにしきり也、酒は    尼が好故、月子とのみ友だち、豆麩つくしの酒もり、又南ぜん寺の庵をかりて移つたが、こゝもいはく    があつて、東洞院の月渓と同じ長屋住に成たり、ちといはくがあつて、又衣棚の丸太町、そこにも尻が    すはらず、もとの智をんゐんの門前のふくろ町のふくろへはいつていたが、尼がとん死の後は、目が見    えぬやら何じややら(以下略)〟    〈秋成の上京は寛政五年の六月、妻瑚璉尼は寛政九年没。村瀬嘉右衛門は儒者・村瀬栲亭〉      ◇⑧77(寛政七年以降)   〝(円山応挙死後)月渓が亦応挙の真似して、これも宮様の吹挙で、応挙より御上が御気に入て、追々御    用をつとめる中に、腎虚して今に絵がかけぬにきわまつた、其弟子たんとあれど、どれとつても十九文、    月渓は常に云は、くい物の解せぬ者はなんでも上手にならぬ、といふたが、くい物がさまざまと物好が    上手じやあった、つくづくし豆腐殊によし、そういうたが、腎虚で上精下虚の病、屈に落入て、久しぶ    りで見まふたら、不如法のさらし者見るやうになっていた〟    〈応挙は寛政七年没。「十九文」は「十九文店」で売られる十九文均一のような安物という意味。「不如法のさらし者」     とは破戒僧のようだというのだろう〉   ◇⑧86   〝月渓が病ぜひもなし、ただ隠者ていになりて、刀自に飯かしがせ、心はます/\奢りてあしく也、絵は    もとの如くあらずも、高逸にて、価たかくいふともゆるさん、御所の御用、宮様のと云事をやめたらば、    又御用に手のまゝにとあらば、屏障、壁などの大そうなるものはつかまつらんと云て、絹紙の一片に、    筆をかろく、墨がきを専にしてあるは、又一家なるべし、才物なれど俗癖あり、人相家、卜者にあざむ    かれて、ついに叶はずとも、又問は愚のいたり也、をしむべし/\〟