Top            『続燕石十種』             浮世絵文献資料館
   続燕石十種              か行                  ☆ かつかわは 勝川派   ◯『紙屑籠』③72(三升屋二三治著・天保十五年成立)   (「役者似顔絵師」の項)   〝勝川春章 春章門人春英【九徳斎】 春英門人春亭〟  ☆ かくさい たけうち 武内 確斎 ◯『京摂戯作者考』①339(木村黙老著・成立年未詳)   (「浮世絵師」の項)   〝武内確斎    大坂の人、諱は温、俗称西左衛門、布屋町に住す、篠崎三島老人門人、小説室の八島著述、又、絵本    太閤記、玉藻譚、阿夜可志譚等は、右の確斎作にて、玉山の名を借りしものなりといふ〟   ☆ かねなり あかつき 暁 鐘成   ◯『京摂戯作者考』①331(木村黙老著・成立年未詳) (「戯作者」の項)   〝暁鐘成    浪花の産也、木村氏、名は明啓、俗称弥四郎、暁鐘成は其戯号にして、亦鶏鳴舎と号す、童蒙教訓、 民家必用の雑書、且戯作の書数多く出す、又画に巧なり、因て同画作の書もあり、後に西生郡難波村    慈雲山瑞竜寺【今俗に鉄眼と唱ふる寺なり】門前に住す、後剃髪して、未曾志留坊一禅と号す、戯れ    に、田舎の住居なれば、在職斎南坡とも称す、居宅を手鍋菴と称す、其記あり左に誌す、【嘉永五年    子、還暦の年たるにつき、俗称を晴翁とあらたむ】   手鍋菴之起原     珠光紹鷗が釜を泌らし、売茶の翁が急須を取あつかひし風流もなく、さればとて、一路居士が手     取鍋に雑炊を焚し、大隠にもあらず、唯我は、年来味噌汁を愛するが故に、あばら家の囲炉に自     在の鍵を設け、手鍋を釣て味噌汁を煮、朝な夕なに是を啜りて、太平の御恩沢を悦び、父母の高     恩を思ひ、よきにによ、あしきにによなど、白川侯の御賛ありし、自在鍵に手鍋の図をうつし、     席の上座におきて、我をつゝしむ、世人称て、手鍋菴といふ、過し頃、剃髪して、名を未噌志留     坊一禅と更たむ、其時の戯歌に、 すつてよくにたる未曾志留坊主こそ是やしやくしのすくひならまし    又、近き頃、二千年袖鑑といふ書を著す、万事の起原、神社仏閣の開基、高名の人の年暦等、都て万    事をしる捷径便利の書にて、几辺の重宝となすべし〟   ☆ ぎょくざん おかだ 岡田 玉山   ◯『国字小説通』①302(木村黙老著・成立年未詳)   (「読本繍像之精粗」の項)   〝京摂にて、読本に、口絵、さしゑの細密になりたるは、玉山が絵本太閤記より巧になりし、其頃は寛    政の末なり〟    〈『絵本太閤記』は寛政九~享和二年にかけての刊行〉   ◯『京摂戯作者考』①331(木村黙老著・成立年未詳)   (「岡田玉山」の項)   〝浪華の人、名は尚友、法橋位に叙す、画に巧也、嘗て蒹葭堂と謀て、唐土名勝図絵、北直隷の一部一    編を出す、其精密、賞覧に堪たり、併しながら、婦女子、俗客の愛歓ばざりし故、続きて次編を出さ    ゞりしは、遺憾なりといふべし、又、画本太平記を画作して、大に世に行はれ、四方え名を発したり、    其余、玉藻譚、あやかし物語、室の八島等、戯作数多く出したり、其没年いまだ詳ならず〟   ☆ ぎょくてい いしだ 石田 玉亭   ◯『京摂戯作者考』①336(木村黙老著・成立年未詳)   (「浮世絵師」の項。名前のみ、記述なし)   ☆ ぎょくほう いしだ 石田 玉峰    ◯『京摂戯作者考』①337(木村黙老著・成立年未詳)   (「浮世絵師」の項。名前のみ、記述なし)    ☆ きよしげ とりい 鳥居 清重   ◯『式亭雑記』①70(式亭三馬記・文化八年四月一日)   〝元祖 清信 男二代目 清倍 三代目 清満 四代目 清長 清満の門人     清重というものは、清信門人     清経といふものは、清満門人、    清長と同盟なり〟    ☆ きよつね とりい 鳥居 清経   ◯『式亭雑記』①70(式亭三馬記・文化八年四月一日)   〝元祖 清信 男二代目 清倍 三代目 清満 四代目 清長 清満の門人     清重というものは、清信門人     清経といふものは、清満門人、    清長と同盟なり〟2   ◯『国字小説通』①302(木村黙老著・嘉永二年序)   (「草双紙画之精粗」の項)   〝草双紙のゑ、以前の享保より宝暦の頃迄は、富川吟雪、鳥居清経などいふ画工の絵は、如何にも麁画    にて、鳥居の銀杏足とて、人物手足のかき様、別に一流の画がき方にて、其上、全体の画風、総て省    筆をなして、文字のかき入もすくなく、至つて麁なる物なりし〟     ☆ きよなが とりい 鳥居 清長   ◯『式亭雑記』①70(文化八年四月一日)   〝元祖 清信 男二代目 清倍 三代目 清満 四代目 清長 清満の門人(中略)    清経といふものは、清満門人    清長と同盟なり、    清信の家は今和泉町ぬひはくやなり、清信の孫鳥居清峰、これ則ぬひはく屋の男、清長門人なり、存    在、おなじ和泉町に住る、鳥居清元といふ画工は、清満門人なれども、晩年の弟子故、後に清長に随    従す、存在、清長は本材木町新肴馬に住り、家主にて、鳥居市兵衛清長、予と懇意〟   ◯『反故籠』②170(万象亭(森島中良)著、文化年中前半)   (「江戸絵」の項)   〝春信歿後、礒田湖竜、清満が門人清長に至て、いよ/\、色ざし、摺やうともに盛になれり〟   ◯『紙屑籠』③89(三升屋二三治著・天保十五年成立)   〝鳥居清長の咄   鳥居代々歌舞伎看板の絵は、元祖清信の筆意を以て、今に残す、また、看板の紙をまにあいの紙に用    ひたるは、土絵の具ゆへ、土と土とによく合ふ故、工風せしものなり、その上芝居の急物ゆへ、すみ    筆を当て、わるい所を直すには、其墨の上へ、ごふんのぐといふものを入る、【ぐといふはたんの事、    ごふにまぜれば桃いろとなる、外の色でもぐと云なり】下地ごふんゆへ、墨のいろきゆる、その処を    墨筆を入て書なほす、見るまへでかわくものなり、うら打唐紙などにては、此ぐといふもの張らぬも    のゆへに、土と土との絵の具と紙故、きれいに出来て、仕事よく見せたる工風、元祖の働きなり、又、    目玉大きく書、反たる刀、脇差の書よふは、極つよく見せたる筆法の衣紋、筆数少しにして丸く形ち    を画しは、上へあげて下から見た時には、至てよく見ゆるといふ故に、此一流は、浮世絵師、家の御    絵師などには、中々及ぶところにあらず、江戸に限り、京、大坂にて真似をするもの一人もなし、恐    入たるかんしんの一流、と咄に聞き及ぶ〟   ◯『国字小説通』①302(木村黙老著・嘉永二年序)   (「草双紙画之精粗」の項)   〝安永、天明の頃に至り、鳥居清長、北尾重政等より、追々絵様細かに成り、書入も段々密になりたれ    共、其頃までは、人物の眼目、つき目とて(図)如斯ゑがきしに、文化の比、歌川豊国が俳優の似顔    に画がき初しより、(図)如斯目に画がく事に成たり〟    ☆ きよのぶ とりい 鳥居 清信   ◯『反故籠』②169(万象亭(森島中良)著・文化年中前半)   (「江戸絵」の項)   〝享保の比の江戸絵と称するもの、浅草御門同朋町和泉屋権四郎、通塩町奥村源六郎【画名を懐月堂文    角政信といふ、地本問屋なり】など板にて、元祖鳥居清信が絵を、西の内の紙へ摺、煎じ蘇木、黄汁、    膠黒に藍蝋にてざつと彩色、砂箔を振ひたる【或は藍を吹く】ものなり、【此彩色する者多き中、深    川洲先に住める老婆至て上手なりし、と蔦屋重三郎が母かたりき】神明前の江見屋【今は博労町へ転    宅】といへる絵草紙屋に、其比の役者絵【海老蔵、山中平九郎などなり】の板、近年まで有しなり、    夫より後、清信色摺の紅絵を工夫し、紅、藍紙、黄汁、の三色を板に、以て売出せし所、余り華美な    る物なりとて、差留られしが、幾程もなくゆるされぬ、宝暦の頃まで、皆是なり〟     ◯『式亭雑記』①70(式亭三馬記・文化八年四月一日)   〝(雑司谷鬼子母神)本堂左の方なる稲荷の社【地主神のよし】正面より右の方に、中村吉兵衛が奉納    したりし丹前狂言の額あり、絵師は元祖鳥居清信の筆、    (模写絵に〝正徳六歳丙申五月五日 鳥居清信〔清信の印〕〟〝願主中村吉兵衛〟とあり)    中村吉兵衛は、正徳の頃、上上吉の位付にて、だうけ形の上手なり、異名を二朱判吉兵衛と呼びて、    後年役者を廃て、たいこもちとなりしよし、今の世にいふ江戸神ミといふものいなるべし、    (「大尽舞」のこと及び歌詞あり、中略)    鳥居庄兵衛清信は、当時鳥居清長の元祖なり、      元祖清信 男二代目清倍 三代目清満       四代目清長 清満の門人  清重といふものは、清信門人       清経といふものは、清満門人、 清長と同盟なり、    清信の家は、今和泉町ぬひはくやなり、清信の孫鳥居清峰、これ則ぬひはく屋の男、清長門人なり、     存在、おなじ和泉町に住る鳥居清元といふ画工は、清満門人なれども、晩年の弟子故、後に清長に 随従す、存在、清長は本材木町新肴場に在り、家主にて、鳥居市兵衛清長、予と懇意〟   ◯『画証録』①52(喜多村信節著・天保十年序)   〝絵の看板、もとはなし、鳥居庄兵衛清信より始る、是は元禄より享保の人なり〟   ☆ きよはる ひしかわ 菱川 清春   ◯『京摂戯作者考』①337(木村黙老著・成立年未詳)   (「青陽斎菱川清春」の項)   〝京師の人、医師村何某の男、幼名国太郎、後、国助と更む、初、上田公長門人、今時紀州若山に移住 す、更めて小野広隆と号す〟   ☆ きよひろ とりい 鳥居 清広   ◯『反故籠』②169(万象亭(森島中良)著、)   (「江戸絵」の項)   〝宝暦の頃まで、皆是(筆者注、三色の紅摺絵)なり、其比の画工は、清信が子の清倍、門人清広、 石川秀信、富川房信などなり〟   ☆ きよます とりい 鳥居 清倍   ◯『反故籠』②169(万象亭(森島中良)著、文化年中前半)   (「江戸絵」の項)   〝宝暦の頃まで、皆是(筆者注、三色の紅摺絵)なり、其比の画工は、清信が子の清倍、門人清広、 石川秀信、富川房信などなり〟   ☆ きよみね とりい 鳥居 清峰   ◯『式亭雑記』①71(式亭三馬記・文化八年四月一日)   〝〈元祖〉清信の家は、今和泉町ぬいはくやなり、清信の孫鳥居清峰、これ則ぬいはく屋の男、清長門 人なり、存在〟   ◯『山東京伝一代記』②424(山東京山著・成立年未詳)  “此絵草紙(筆者注、文化七年刊『糸桜本朝文粋』京伝作)の画者清峰は、元禄の始より、浮世絵なら    びに四芝居の絵看板をゑがき始たる、元祖鳥居庄兵衛清信、其子二代目清信、其子三代目清満の孫に    て、清長の門人也【中略】当時五世清満是なり、此草紙、上紙摺三冊に仕立、表紙キラに而、丹絵、    漆絵、紅絵の張外題也、袋は京山の娘の下絵にて、裏に清峰画の彩色摺をものせし也、其工風尤妙な    り、此時節は、読本廃れて、合巻大流行なりし”   ☆ きよもと とりい 鳥居 清元   ◯『式亭雑記』①71(式亭三馬記・文化八年四月一日)   〝和泉町に住る鳥居清元といふ画工は、清満門人なれども、晩年の弟子故、後に清長に随従す、存在〟   ☆ ぎんせつ とみかわ 富川 吟雪   ◯『式亭雑記』①85(式亭三馬記・文化八年四月一九日)(勝川春亭の項参照) 〝山本長兵衛は、富川房信改吟雪の孫也〟    〈山本長兵衛は、この日通油町新道若菜屋という料理屋にて、式亭三馬と勝川春亭の和睦の仲人をした人。式亭三馬     と勝川春亭との確執は春亭の項参照〉   ◯『国字小説通』①302(木村黙老著・嘉永二年序)   (「草双紙画之精粗」の項)  〝草双紙のゑ、以前の享保より宝暦の頃迄は、富川吟雪、鳥居清経などいふ画工の絵は、如何にも麁画 にて、鳥居の銀杏足とて、人物手足のかき様、別に一流の画がき方にて、其上、全体の画風、総て省 筆をなして、文字のかき入もすくなく、至つて麁なる物なりし〟     ☆ きんたろうしゅじん 金太郎主人   ◯『京摂戯作者考』①339(木村黙老著・成立年未詳) (「浮世絵師」の項) 〝大坂の人、京町堀〟   ☆ くにお こうてんさい 皎天斎 国雄   ◯『浪速人傑談』②42(政田義彦著・万延一年後序)   (「画家」の項) 〝挹芳斎国雄は、皎天斎と号し、酢屋平十郎と称す、浪速の人なり、若年より画を好、業を橘守国に受 け、尤写生の画に於て妙を得たり、画帖に挹芳斎画譜あり、世に行はる、亦、澹斎岡公翼の編述せら れし毛詩品物図攷の絵は、此人の描所なり、此人橘守国の高弟にして、近代の名人なりしが、質朴方 正の隠者にして、名を好、利を弋の心すこしもなかりしゆえへ、返て知人すくなし、惜むべし〟    ☆ くさぞうし 草双紙   ◯『国字小説通』①302(木村黙老著・嘉永二年序)   〝 草双紙画之精粗   草双紙のゑ、以前の享保より逑宝暦の頃迄は、富川吟雪、鳥居清経などいふ画工の絵は、如何にも麁画 にて、鳥居の銀杏足とて、人物手足のかき様、別に一流の画がき方にて、其上、全体の画風、総て省 筆をなして、文字のかき入もすくなく、至つて麁なる物なりし、安永、天明の頃に至り、鳥居清長、 北尾重政等より、追々絵様細かに成り、書入も段々密になりたれ共、其頃までは、人物の眼目、つき 目とて(図)如斯ゑがきしに、文化の比、歌川豊国が俳優の似顔に画がき初しより、(図)如斯目に 画がく事に成たり、其余の画、すべて是に準じて知べし、当時は精密の細画にて、書入もいよ/\細 かになり、京摂、田舎も、江戸の草双紙を愛玩するゆゑ、上方の絵双紙は当時はあるかなきかといふ 位なり、草双紙の類にて、古今風を精粗転倒せしは、芝居の絵本なり、京摂も江戸と同じく、いぜん は絵の精しく、書入の文も細かにて、此場は何々の所、と大抵其場の次第をあらかた記し、中には詞 がき迄入れしもあり、江戸にては、天明の頃は、俳優の似顔をうつせしもありしが、京摂、江戸とも、 享和のころより、到つて粗になりて、人の形も体もなさゞる絵にて、紙数をも減じ、唯其役々の替名 と俳優の名而已しるして、其場の訳は更にしるさゞるゆゑ、絵を見るまでにて、何の事歟かわからず、 余の草双紙は、以前は紙数すうなく、絵組、書入も粗なりしが、当時は絵数も次第に数を増し、製本 万事至て精しくなれるに似ず、芝居の絵本は前にいふ如く、当時は到つて粗に成しは、如何の事にや ふしぎなり、     続き絵双紙の出所    読本、画双紙は、誠に児戯の玩物なれども、皆是にも夫夫拠ありて、杜撰のみにもあらず、然るを、    其出所を知らずして、読本、絵双紙等の巧拙を謂ものあり、因て、今少し其出所の斯あるといふこと    を、茲に出す事、左のごとし、先第一、当時読本の巨擘たる里見八犬伝は、水滸伝に拠て作りしは、    皆人の知る所なれども、其中にいろ/\、拍案驚奇等種々の小説を、交出せし所もあり、美少年録は    檮杌間評(トウゴツカンヒヨウ)に、倚俠客伝は好逑伝による、其他稲妻表紙の酔ぼだひを模(ウツ)し、自来也    の類書纂要を擬たる如き、枚挙に遑あらず、猿蟹合戦、桃太郎鬼が島渡り、舌切雀、花咲せ爺等の事、    宇治拾遺物語、福富双紙、其外経文の中よりも出たるよしは、さきに著作堂老人が著したる烹雑の記    に審らかなり、いづれも、奨善弾悪の心を含まざるはなし、唯、当時婦女子の専ら嬉び玩ぶ人情本程    悪しきはなし、是は元より其出所とする所も、新内ぶし、歌祭文本、チョンガレ抔いふ卑俗の物より    取出して、男女淫奔、猥褻の事のみを綴りし物なれば、少しも勧懲の意はなく、纔なる小冊子にて、    画工、筆工も多からず拙、作者の骨も折れず、心易く刊行なるゆゑに、本手のなき貸本屋などの糊口    の為に、謾に刊行せし籍なれば、近頃、官禁ありて絶板になりしは、至極の御所置なりと申べし〟    ☆ くにかげ きんぱろう 錦葩楼 国景   ◯『京摂戯作者考』①337(木村黙老著・成立年未詳)   (「浮世絵師」の項。p311に「歌川国景」とあり。名前のみ、記述なし)   ☆ くにさだ うたがわ 歌川 国貞   ◯『式亭雑記』①62(式亭三馬記・文化七年六月)   〝【文化五年】春発市、どもの又平大津土産名画の助太刀八冊もの、【予が著述、国貞画】、十軒店西 村源六板にてうり出せしが、雷太郎にまさりて大あたりなりし、(中略)歌川豊国門人歌川国貞は、 どもの又平の絵ざうし初筆也、此とき大きに評よくて、其翌年よりますます行われて、今一家の浮世 絵師大だてものなれり【本所五ッ目渡し場の際に住居す、則渡し場のあるじ也、俗称庄五郎といふ】 柔和温順の性質なり〟    〈「国書基本DB」は「どもの又平大津土産名画の助太刀」を『【大津土産】吃又平名画助刃』とする。「雷太郎」     は『雷太郎強悪物語』豊国画〉   ◯ 同上 ①67(文化八年三月十二日)(歌川豊国の項参照)    〈両国橋向尾上町中村屋平吉方に式亭三馬の書画会あり、前日からの世話役として、歌川豊国、同国満に続き〝本所     五ッ目 歌川国亭〟とあり〉   ◯ 同上 ①65(文化八年三月廿六)   〝座敷手品する楠生亭英洲が扇子の賛、絵は国貞画、文化八年三月廿六日昼、作文(中略)扇面の絵は、 箱の中より雀の飛出たるかた、石を打て羊とするは、初平仙人のつもり、細工芋をもつて石とするは、 弘法大師の座敷手妻なり、雞卵箱中に入て雀となることは、月令にもいまだきかず、何がしのふり占 は、高野山のやどろくもいまだしるべからず、めくら仙人の術をきはめずして、めあき千人の目を驚 かすは、細工手品の元祖と呼ばれし楠生亭英洲なるべし〟    〈(中略)に“英洲は本所割下水のさき、切みせなどのある近所なり、庭に大木の楠あり、故に楠生亭と呼ぶ、彼は     細工手品の達者なり”の記事あり〉   ◯『異聞雑考』②257(滝沢馬琴・天保六年閏七~八月記事)   (「猩々小僧」髪毛・眉毛・睫の赤い兄弟の記事)   〝当時、歌川国貞が画にて、この兄弟の肖像を板せし錦画出しかば、予も四五枚買とらして、遠方なる 友人がり贈り遣はしたりき〟   ☆ くにしげ きようてい 崎陽亭 国重   ◯『京摂戯作者考』①336(木村黙老著・成立年未詳)  (「浮世絵師」の項。名前のみ、記述なし)    ☆ くにしげ りゅうせんさい 柳泉斎 国重   ◯『京摂戯作者考』①337(木村黙老著・成立年未詳)   (「浮世絵師」の項。 p311に「歌川国重」とあり。名前のみ、記述なし。)    ☆ くにまさ うたがわ 歌川 国政   ◯『紙屑籠』③72(三升屋二三治著・天保十五年成立)   (「役者似顔絵師 歌川」の項)   〝豊国門人 国政【富三郎、高麗蔵、うちは絵大首の始、二代目国政は役者絵出さず】〟   ☆ くにまさ うたがわ 歌川 国政 二代   ◯『紙屑籠』③72(三升屋二三治著・天保十五年成立)   (「役者似顔絵師 歌川」の項)   〝豊国門人 国政【富三郎、高麗蔵、うちは絵大首の始、二代目国政は役者絵出さず】〟   ☆ くにまる うたがわ 歌川 国丸   ◯『式亭雑記』①82(文化八年四月十二日)   〝今日、歌川国丸子、大坂屋秀八殿手代平兵衛殿を同道、但しちかづきのため也、国丸子は豊国門人、 小田原町二丁目よこ町木戸際質屋の一子〟   ☆ くにみつ うたがわ 歌川 国満   ◯『式亭雑記』①67(式亭三馬記・文化八年三月十二日)(歌川豊国の項参照) 〈両国橋向尾上町中村屋平吉方に式亭三馬の書画会あり、前日からの世話役として、〝中ばしまき町 歌 川豊国、同居 同国満〟とあり〉    ☆ けいさい くわがわ 鍬形 蕙斎 (北尾政美参照)   ◯『反古籠』②172(万象亭(森島中良)著、文化年中前半)   (「橘守国」の項)   〝或豪家に芥子園画賦全帙を蔵む、其比は只一部なりし故、帳中の秘とせしが、守国其家へ親しかりけ れば、請て数頁を模写したるを、古葛籠、京都の何れやらんの街の乾溝に捨有しを、改め見れば、守 国が蔵書印こと/\く印て有ける故、早速呼び出し、引渡されし、と鍬形蕙斎語りき〟   ☆ げっせん 月僊   ◯『金杉日記』③30(山崎美成著・天保九年四月閏十二日) 〝(山崎美成)閏四月十二日、和泉橋のとほりを行けるに、調度あまたなみおけるある棚にありしかけ 物の、したしき友の南畝翁の筆なれば、ゆかしくて打見るに、月僊の酔李白の賛なり、酔眼生花李賀 真 錯称天上謫仙人 若無一斗百篇句 三百年間無用民、とあり、家に帰りても猶そゞろにおぼえ居 たれば、しるしつ〟    〈南畝は大田南畝(蜀山人)。この賛は文化五年五月上旬の七絶「題李謫仙図」(「大田南畝全集」第五巻『南畝集十六』     漢詩番号3168。岩波書店刊)に同じ。但し起句は「酔眼生花賀季真」となっている。「李賀真」は「賀季真」の間違     いか〉   ☆ こういん ながやな 長山 孔寅   ◯『京摂戯作者考』①339(木村黙老著・成立年未詳)   (「浮世絵師」の項)   〝長山孔寅    大坂の人、船場平野町□丁目に住す、画に巧なり、且狂歌を好て、鶴廼屋の群となり、是福庵三条茂 佐彦と号す、随筆の書あり、貪着物語五冊、嘉永二己酉九月廿七日没、時年八十五〟    〈中村真一郎著『木村蒹葭堂のサロン』p530。蒹葭堂との交遊記事あり。大田南畝の死後出版された南畝の詩集『清     好帖』(谷清好彫・賀茂季鷹序、文政七年刊)に挿絵あり〉   ☆ こうゆう そうゆうてい 壮遊亭 藁雄   ◯『京摂戯作者考』①337(木村黙老著・成立年未詳)   (「浮世絵師」の項。名前のみ、記述なし)   ☆ こりゅうさい 湖竜斎   ◯『反故籠』②170(万象亭(森島中良)著、文化年中前半)   (「江戸絵」の項)   〝春信歿後、礒田湖竜、清満が門人清長に至て、いよ/\、色ざし、摺やうともに盛になれり〟