Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
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    ※ 狂歌師は名前で載せた    ☆ あかさかなぬし 赤坂名主    ◯『半日閑話』〔南畝〕⑪374(大田南畝・安永二年(1773)八月記)     〝(安永二年)八月    赤坂名主千太郎辞世    当月の初、赤坂裏伝馬町の名主を勤めたるもの、放埒にて役儀を人に譲り、其身はあたり近き氷川の花    街に徘徊せしが病死せしを、その友達より集りて、日頃かれがすきける事なればとて、祇園囃にて送葬    しけるとぞ。暮六つ半時分の事なりければ、人々立出てみつ。聞伝へて沙汰ありける        千太郎辞世      念仏を申ほどなるとがもなし申さぬほど善根もせず〟    ☆ あきやま げんぞう 秋山 源蔵    ◯『一話一言』〔南畝〕⑬312(大田南畝記・寛政九年(1797)?)   (『謙亭筆記』より引く。天正十年、武田勝頼の供をして討死)   〝辞世 春散て秋山の実はなかりけり〟    ☆ あこうぎし 赤穂義士    ◯『半日閑話』〔南畝〕⑪643(大田南畝・寛政八年(1796)二月二十八日記事)   〝寛政八丙辰年二月廿八日ヨリ芝万松山泉岳寺ニテ日本一開帳有之。其節義士夜討ニ用所武器、辞世等出    版、写置       大石内藏助     あら楽し思ひははるゝ身は捨る浮世の外にかゝる雲なし       大石主税     江戸の地にしばしやすろふ陰もなし君が為とて捨る身なれば       岡野金右衛門     世やいのち咲のりかゝる世や命       小野寺十内     我が罪は人のるたびにさゝりけりなにとあらしに迷ふ山風       堀部安兵衛     仕合や死出の山路も花ざかり       原惣右衛門     品もなくいき過ぎたりと思ひしに今まちえたる老の楽しみ       三村次郎右衛門     雪霜の数に入りけり君が為め       吉田沢右衛門     兼ねてより君と母とに知らせんと人より急ぐ死出の山道       神崎与五郎     思ひ草繁れる野辺の旅枕かり寝の夢は結ざりしを       不破数右衛門     今日ありと心に知りて武士のおはる月日の身こそ辛けれ       大高源吾     待つしばし死出の遅速はあらぬともまづ先かけて道しるべけん       同人     桜咲く茶屋もあらじな死出の旅       富森助右衛門     今日も春恥かしからぬ寝ふし哉       村松三太夫     人はたゞいはぬ色おや惜しむらん浮世の名さへ口なしにして       磯貝十郎左衛門     人の世の道しわかずば遅くとも消ゆる雪にもふと迷ふかな       間瀬久太夫     思ひきや今朝立春にながらへて末の歩みを猶待たんとは       吉田忠左衛門     ながらへて浮き世の春は散けれど御法の花を待は久しさ〟    ☆ あみじょ すいれんの 翠簾 網女    ◯『新古今狂歌集』〔江戸狂歌・第四巻〕元杢網序・寛政六年(1794)刊   〝身まかりける時に  翠簾網女       ふしの粉のふしぬる日よりおはくろのかねてなからん身とはしりにき              金成木      今は世につながぬ糸としら露のわが身をぬける玉のを柳〟  ☆ あやひと ていきんしゃ 庭訓舎 綾人  ◯『見ぬ世の友』巻二 東都掃墓会 明治三十三年(1900)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻1-5 26/55コマ)   〝詞林 名家辞世 其二 絵馬屋額輔稿       庭訓舎綾人 文化十年三月廿三日 本所 東江寺     取おとす器の怪我も即ぼだいわれから出る南無阿弥陀仏〟    ☆ あらし きつさぶろう 嵐 橘三郎    ◯〔早稲田・演博〕死絵   「源三位頼政生涯御名残狂言 嵐橘三郎」   「文政四年巳九月廿七日寅上刻終 顕覚相順璃寛信士 行年五拾三才」「寺ハ小橋浄土宗法蔵院」     辞世〝身の上におもひあはせし五十年いまめのさめし夢の世の中 璃寛〟    ☆ いざん つきのもと 月の本 為山    ◯『名人忌辰録』上巻p36(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊)   〝月の本為山 明治十一年一月十九日歿す、歳七十五。品川本光寺に葬る。法号月本院為山日晴(為山妻    の身まかりし時の狂歌「よの中のさかさまことはきらへども順にいつてはおれがたまらぬ」)〟    ☆ いちかわ くりぞう 市川 栗蔵    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩193(塵哉翁著・嘉永五年(1852)記事)   〝非人辞世    嘉永いつゝのとし文月半、下谷広小路に、四明堂とかやよべる卜者(ボクシヤ)あり、夫が床店(ミセ)の際に、    日を贈りぬる乞食(コツジキ)ありて、名を六と呼、夜は其床の内に寝て朝またきに起出て、店を開らき掃    除して、卜者の来るを待、夜に入店仕舞頃、又朝のごとくに取片付、しかして後に来り臥(フス)事、日々    夜々前の如し、卜者も馴(ナレ)て目をかけしに、或日店のひらかざれば、卜者来りて開きみるに、いつし    か六は絶(タヘ)入て、傍らにめんつう一つあり、其器の裏に一詩を書(カケ)り、      一鉢千家の飯        孤身幾度の秋       空しからざれば還た食はず  楽しみ無ければ亦た憂ひ無し      日々暖かし堤頭の草     風涼し橋下の流      人如(モ)し此の六に問はゞ   明月水中に浮く(がごとしと答へん)〟    ☆ いちかわ だんじゅうろう 市川 団十郎    ◯『十方庵遊歴雑記』二編(釈敬順著・文化十一年(1814)記)  〝市川団十郎家の代々の墳墓   東武芝増上寺常照院 浄土 は、世俗みなアカン堂と称す、爰に火炎地蔵といふを安置して秘仏とす、   又当寺に俳優市川団十郎代々の墳墓あり、元祖柏筵は元禄十七(*年)二月十九日七十一歳にて死せり、   石碑の後に俗名市川団十郎と刻し、右の横に辞世の歌を鍛付たり、左の如し。   (初代市川団十郎)     辞世 終に行みちとはかねて芝海老をはからせ賜へ極楽の升 柏筵七十一歳   (四代目市川団十郎)     辞世 極楽も哥舞の太鼓に明からすいまより西の芝居へぞゆく悟粒   (五代目市川団十郎)     病中吟 福地より無福地へかえる娑婆なれば今しばらくのうき世なりけり花道つらね〟   (『東京掃苔録』所収、五代目の辞世)     辞世 木がらしに雨もつ雲の行へかな   (『東京掃苔録』所収、五代目追悼狂歌)     市川の泡と消えしかこはいかに親とよばれむ玉のひかりも   四方赤良     四夷八荒天地の間にある人のうやまつてまをす君か戒名    六樹園     大きいぞ蓮花のうえへの顔見世に歌舞のぼさつも嘸おどるらん 三陀羅法師〟    ☆ いちかわ だんじゅうろう 初代 市川団十郎    ◯『万歳狂歌集』「哀傷歌」〔江戸狂歌・第一巻〕四方赤良・朱楽菅江編・天明三年(1783)刊   〝辞世  柏筵      つゐにゆく道とはかねて芝ゑびのはからせ給へ極楽のます      柏筵がおきつき所芝のみてらにあればなるべし    柏筵をいたみて  よみ人しらず      しばらくととめてみたれどつがもないかはひのものや死での山道〟    このうたある人のいはく晋子其角かなりと〟    ☆ いちかわ だんじゅうろう 五代目 市川団十郎    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑨58(塵哉翁著・文政十二年(1829)自序)   (文化三年記事)   〝五代目市川白猿、幼名幸蔵、始松本幸四郎、後市川団十郎、又改蝦蔵、寛保改元のとし月日、江戸にお    いて生誕す、宝磨四年戊春、中村勘三郎座へ松本幸蔵とて出る、是はつ舞台也、同年霜月幸四郎と改名、    明和七寅年霜月市川団十郎と改、寛政三亥年蝦蔵と改名、同八辰年霜月、一世一代名残狂言、同十二申    年霜月、元祖団十郎才牛百回忌に付、追善として再勤す、此年市川新之助十歳にして団十郎と改【白猿    七代目是也】市村羽左衛門座舞台にて白猿披露、其后牛島に閑居し、今文化三寅年十月廿九日、齢ひ六    十六成こして、惜べし黄泉におもむく、三縁山中常照院に葬す、辞世の句あり、      ありがたや弥陀の浄土へ冬龍    白狼一世の芸評手がら、あげて数へがたし、焉馬著述の艸紙にくわしけれぱ、こゝにもらしぬ、法号還    誉海木艸遊信士といふ、      極楽は江戸を去る事遠からず十万おくどあゝつがもなひ 杏花園赤良     (以下略。白猿の肖像あり)〟    ☆ いちかわ だんのすけ 市川 団之助    ◯『一話一言』補遺参考編3〔南畝〕⑯215(大田南畝著)   〝戯子市川団之助書置写    (病気を苦に自害せしこと、母等縁者への書き置きあり、省略)      辞世 田の春はきのう也けり冬至梅         文化十四丑十一月 俗名 市川団元倅 市川団之助 三十二歳〟    ☆ いはら さいかく 井原 西鶴    ◯『読老庵日礼』〔鼠璞〕中p138(老樗軒著・文化年間記)   〝西鶴翁小伝    西鶴は井原氏、松寿軒と号す。浪花鎗屋町に住居す。俳諧を梅花翁宗因に学て、出藍の誉れあり。自    ら難波俳林と称す。元禄六癸酉年八月十日没す。行年五十二歳。大坂八丁目寺町誓願寺に葬る。法号    西鶴居士と云。時世の吟あり       人間五十年のきわまり、それさへわれにはあまるに、ましてや      浮世の月見過ごしにけりすへ二年    余甲戌浪花に漫遊して、彼寺に到り、翁の墳墓を拝掃す〟    〈余とは老樗軒。甲戌は文化十一年(1814)〉    ☆ いわもと かんじゅう 岩本 乾什    ◯『三升屋二三治戯場書留』〔燕石〕③11(三升屋二三治著・天保末年成立)   〝竹婦人    河東節浄瑠璃の作者、数多の文作あり、竹婦人、実名を岩本乾什といふ、享保のころ浅草竹門に住し    俳諧師なり、沾洲の門人にて、初名を呉丈といふ、享保児とも号す、上るり文句に名文ありて、能廓    のなさけをのべ、古代のものなれども、いまも世の中に合ふこそふしぎなり、宝暦九年二月十七日没    す。      辞世 雪解や八十年のつくりもの 乾什〟    ☆ うねめ 采女    ◯『名人忌辰録』下巻p2(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝采女 遊女    新吉原京町雁金屋徳右衛門抱散茶。柴又村に生る。浅茅が腹鏡が池に身を投じて死す。寛文九酉年八    月十六日なり。歳廿一。同所出山寺に葬る。     辞世 名をそれといはずともしれ猿沢のあとを鏡が池にうつして〟    ☆ うめわかまる 梅若丸    ◯『一話一言』補遺参考編3〔南畝〕⑯403(大田南畝・文化七年(1810)記)   〝木母寺縁起    文化七庚午年九月朔日、竹垣柳唐、阿曾浪南露、泛舟墨水至木母寺(墨水に泛舟して木母寺に至り)、    観縁起三巻及画三幅(縁起三巻及び画三幅を観る)      たづねきてとはばこたへよみやこ鳥すみだ川原の露と消ぬと    と詠じ給ふ声につゞけて、念仏四五篇となへ、生年十二歳、貞元元年三月十五日おはり給ひぬ〟  ☆ うらずみ おおやの 大屋 裏住  ◯『見ぬ世の友』巻二 東都掃墓会 明治三十三年(1900)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻1-5 26/55コマ)   〝詞林 名家辞世 其二 絵馬屋額輔稿       大屋裏住 文化七年五月十一日 深川法禅寺中南龍院     柿のつよきも老のたのまれずくちての後は石となるもの  ☆ えんちょう さんゆうてい 三遊亭円朝    ◯「円朝逸事」松林若円(三遊亭金馬『塩原多助後日譚』所収 三新堂 明治三十四(1901)年一月刊)    (明治三十三年八月十一日逝去 享年六十二)   〝辞世  聾(みゝし)ひて聞(きゝ)定(さだ)めける露(つゆ)の音(をと)   〈『塩原多助後日譚』の口絵〉   〝(円朝画の達磨像に「山中無暦日」の賛)     眼をとぢて聞さだめけり露の音        三遊亭円朝 自画自賛 鳳斎縮写〟   〈松林若円は耳、三遊亭金馬は目と、辞世の文言が異なっている。円朝の墓所である谷中の全生庵(臨済宗)では「耳しいて    聞きさだめけり露の音」としている〉    ☆ えんば うてい 烏亭 焉馬    △『戯作者撰集』p148(石塚豊芥子編・天保末頃~弘化初年成立、後、嘉永期まで加筆)   〝烏亭焉馬 寛政五    別号桃栗山人柿発斎、狂歌に野見てうなごんすみかねの名あり。本所相生町五丁目に住居し、もとは大    工の棟梁なり。俗称和泉屋和助、性は中村、名は英祝といふ。又談洲楼といへり。戯作の古老にして、    安永天明寛政年間まで、一枚摺、洒落本、又は浄るりの作あり。且、久しく廃れたる落し咄を再興し、    戯場に遊びて狂言の作を補助す。草そうしを著作せしは寛政五年を初めとするか。文政五壬午年六月二    日、病て卒す。行年八十才。北本所表町牛宝山最勝寺葬す。天台宗     法号 三楽院寿徳焉馬居士     辞世 思ひきやかたみの花を今ぞしる◯る◯の敷島の道    〈『戯作六家撰』を参照した。辞世の◯の部分は『戯作六家撰』も『東京掃苔録』も不明になっている〉    ☆ おおたに とくじ 大谷 徳治    ◯『街談文々集要』p94(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (「文化四年(1805)」記事「戯子徳治終」)   〝戯子大谷徳治、俳名馬十、道化方の名人なり、当七月十七日、上方ニおゐて死去す、戒名     徽徳俊芸信士【文化四丁卯年七月十七日】(紋所あり)     辞世 やま兀其ひにも身代りほしき切子哉     (贔屓連中が配った摺物にある追善句・過去の評判記記事あり、略)        (大谷徳次の肖像の模写あり、その中に「国政画」の落款。式亭三馬の画賛あり)     腹筋をよる/\度のしのび寐るにうき名は高くあらハれてポイ  式亭三馬〟    ☆ おおばいきょ 大梅居    ◯『藤岡屋日記 第二巻』②194(藤岡屋由蔵・天保十二年(1841)記)   〝丑年五月廿九日    俳人大梅居卒 七十歳      辞世 七十やあやめの中の枯尾花    浅草寺修善院ニ葬す。    深川長慶寺ニ碑在、門人卓郎建立。    始北山門人にして、梅外又克徒詩を善くし、後道彦が門ニ入て俳諧嗜ム、浅草御蔵前の富商小島屋酉之    助と云、家衰て後、元大工町ニ居し、房斎と号して菓子を商ふ、孤山・剰庵等の号あり〟    ☆ おかもち てがらの 手柄 岡持    ◯『我おもしろ』〔江戸狂歌・第十巻〕平沢太寄編・蜀山人序(文化十一年・1814)   (手柄岡持(朋誠堂喜三二・文化十年没)の狂歌集)   〝辞世三首 寿七十九歳      つひの身の瀬となりぬれば飛鳥川あすより淵とかはるべきかは      死たふて死ぬにはあらねどおとしには御不足なしと人やいふらん      狂歌よむうちは手からの岡もちによまぬたんては日柄のほたもち    〈岡持は享保二十年(1735)生。七十九歳は没年の文化十年(1813)にあたる。朝日日本歴史人物事典の解説によると、     『我おもしろ』は文化十一年の刊行とある〉    ◯『零砕雑筆』〔続大成〕④216(中根香亭著・成立年未詳)   〝手柄岡持の辞世      狂歌よむうちは手柄の岡持もよまぬだんでは日がらの牡丹餅〟    ☆ おざわ ろあん 小沢 芦庵    ◯『仮名世説』〔南畝〕⑩554(杏花園蜀山(大田南畝)編・文政八年(1825)刊)   〝〔雅量〕小沢芦庵は都人にて和歌をよくせり。      言理正しければ深遠の意もかくれず     山川のふちのさゞれもかぞふべくみゆるは水のすべば也けり      言理正しからねば浅近の意もあらはれず    享和元年辛酉七月十二日うせたりしに、平臥のまゝを次の間にうつせし時のうた、     波の上をゆく心して磯近くになりにけらしな松の音きこゆ〟    ☆ おちよ はんべい お千代 半兵衛    ◯『万歳狂歌集』「哀傷歌」〔江戸狂歌・第一巻〕四方赤良・朱楽菅江編・天明三年(1783)刊   〝辞世  八百屋半兵衛      はる/\と浜松風にもまれきて涙にしづむざゞんざの声        おちよ      いにしへをすてはや義理も思ふまじくちてもきえぬ名こそおしけれ    此うた青梅つはりざかりといへる浄瑠璃の本に見えたり〟    〈おちよ半兵衛は、紀海音作『青梅撰食盛』寛保元年初演〉    ◯『俗耳鼓吹』〔南畝〕⑩20(惰農子(大田南畝)著・天明初年)   〝紀海音が作に、青梅選食盛(ツハリサカリ)といふあり。おちよ半兵衛の元祖なるべし。おちよ半兵衛の名を忌    しにや。お長半平とありて、板行の本に、うめ木したる様に見ゆ。故に末の方ところ/\におちよとあ    りて、お長と直さぬ所も間々みえ侍る     (中略)    道行のうちにお長半平が辞世をのせたり     〽はる/\と浜松風にもまれきて涙にしづむざゞんざの声    半平     〽いにしへを捨ばや義理も思ふまじ朽てもきへぬ名こそおしけれ お長〟    ☆ おにぼうず 鬼坊主    ◯『椎の実筆』〔百花苑〕⑪156(蜂屋椎園記)   (文化二年(1805)の記事)   〝兇賊鬼坊主    寛政、文化の間、世に聞へし鬼坊主といふ兇賊ハその出処江戸八丁堀辺のよし。元来早業水練を得たる    者故、海坊主をいひしを、鬼坊主と訛れるにや。かれ手下の小賊を従へて遠国迄も横行して財宝を奪せ    けり。此事公にきこへて、追々小賊らハ捕へ獲れども、かれハ捕へられずして打過しに、天網いかでの    がれ、文化元年、伊勢あのゝ津にて終に生捕れつ。小賊二人とひとしく鳥籠にをし入れられて、江戸へ    ひきわたされつ。同二年七月五日刑戮せらる。其日屠所のミちすがら、折違の高札場にて辞世の狂歌よ    めるよし、口碑に伝りし。      武蔵野の国にはびこる花あざみけふの暑さに花もしほるゝ  鬼坊主           (イに、はびこりたりし鬼あざみ)      浄頗梨の鏡にうつる紙のぼりけふの噂ハ天下一面      手下某      嬉しやなけふは冥途のたび立に坊主はなくえ鬼が先達    同    かゝる兇賊の辞世の歌よみし事、いと憐むべし〟    ☆ おのえ きくごろう 尾上 菊五郎 三代目    ◯『藤岡屋日記 第三巻』③491(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   ◇尾上菊五郎逝去   〝閏四月廿四日    尾上菊五郎事、大川橋蔵義、先達て上坂致し居候処に、今度病気に付、江戸表なつかしく、何卒出府仕    り度存じ立、病中ながら大坂出立仕候処に、旅中にて病ひ重りて、遠州掛川宿の旅宿に於て今日死去致    し候、行年六十六歳、珍らしき銘人也、然るに、一生涯覚へ得たる処の怪談蝦蟇の妖術にてのたり出し、    雲を起して江戸へ一飛に致す事もならずや、さぞかし一念がこはだ小平次の幽霊となつて、どろ/\ど    ろにて下りつらん。     法号 正定衆釈菊芳梅観信士   江戸山谷一向宗東派 妙徳山広楽寺    但し、掛川宿にて火葬に致し、白骨は江戸表へ持来る也。     辞世 水勢を留んとすれば流れけり    大川橋蔵     大海を渡りし術も尽はてゝ大井川さへ渡られもせず   遅道〟
    「尾上菊之丞」(死絵)(豊国三代)画     (東京都立中央図書館・貴重資料画像データベース)    ☆ おのえ きくごろう 尾上 菊五郎 四代目    ◯『藤岡屋日記 第九巻』p316(藤岡屋由蔵・万延元年(1860)記)   〝万延元申年六月廿八日     尾上菊五郎病死之事      釈菊憧梅碩(健カ)信士  猿若町二町目 四代目 尾上菊五郎 俳名、紅芹舎梅婦 五十三        辞世 数珠をおくおふぎも夏の名残哉      釈妙蝶貞現信女     同人妻  てう 四十九    菊五郎、摂州浪花の産にして、中村歌六の門弟にて、初名中村辰蔵と言、又中村歌蝶と改め、天保二卯    年九月、三代目尾上菊五郎養子と成、尾上栄三郎と改め、家号音羽屋、俳名栄枝、同年十一月市村座に    て出勤す、是江戸初舞台なり、弘化三年正月、尾上梅幸と改め、安政三卯年九月、尾上菊五郎と改名し、    大坂より下り、同六未年養子中村延雀へ梅幸を譲り、梅婦と改るなり、然処、当万延申六月大暑之時候    に当り伏る処に、妻てう義、平常睦じく看病致し居り候処、今廿八日暮六ツ時、菊五郎息引取候に付、    てう義愁傷致し、水にて口をしめし、自分も漱ひ致し、湯呑にて水一盃のみて、其儘打伏し候に付、側    に附居候女ども、是は看病のつかれ可成と介抱致し候処に、睡るが如く息たへ死し候よし。右に付、    両人を浅草にて火葬に致し、一ツ棺に入れ、白浅黄の無垢二枚かけて、今戸一向宗広楽寺へ一所に葬な    り〟
    「尾上菊五郎」死絵三代目歌川豊国画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)    ☆ かいばら えきけん 貝原 益軒    ◯『著作堂雑記』229/275(曲亭馬琴・文政九年(1826)記)   〝貝原篤信身まかり時によめる     辞世 こしかたは一夜ばかりのこゝちして八十ばかりの夢を見しかな〟    ☆ かくし うめのや 梅屋 鶴子    ◯『名人忌辰録』下巻p3(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝梅屋鶴子 鶴寿    通称宝田又兵衛、後左助、一号鶴芝之。慶応元丑年正月十一日歿す、歳六十三。     辞世 つまづくがさいご此世のいとまごひひま行く駒におくりおほかみ  ☆ がくすけ えまやの 絵馬屋 額輔 初代  ◯『見ぬ世の友』巻二 東都掃墓会 明治三十三年(1900)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻1-5 26/55コマ)   〝詞林 名家辞世 其二 絵馬屋額輔稿       初代 絵馬屋額輔 嘉永七年正月廿七日 芝 證誠寺     あさ衣のみで来ませとよばれけり馳走はしらず黄泉の客  ☆ がくすけ えまやの 絵馬屋 額輔 四世  ◯『見ぬ世の友』巻十二 東都掃墓会 明治三十四年(1900)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻6-13 56/76コマ)   〝四世絵馬屋額輔     辞世 四十年夢も見果てぬつゆにゆく是よ浮世の終り初旅〟    ☆ かしくぼう かしく坊    ◯『仮名世説』〔南畝〕⑩552(杏花園蜀山(大田南畝)編・文政八年(1825)刊)   〝〔雅量〕元禄、宝永の比、相州にかしく坊といひし者あり。常に駿河に行て富士の風景をのみ楽しむ。    臨終に一首の歌あり、      ふじの雪とけて硯の墨衣かしくは筆のをはりなりけり    げにも生涯富士を愛したりとしられぬ〟    ☆ かつようさんじん しょうじ 葛葉山人 正二    △『戯作者撰集』p269(石塚豊芥子編・天保末頃~弘化初年成立、後、嘉永期まで加筆)   〝葛葉山人正二 男篠田順蔵と云    戯場の狂言作者にて、初め篠田金治といひ、此後、二代目並木五瓶と改名し、ほどなく没ぬ。寺は下谷    池之端。     戒名 並木舎葛葉居士【文政二年乙卯年七月七日卒す】    又、梅柳山木母寺境内に辞世の碑あり        秋や今清しと桐の一葉ちる二代目並木五瓶 葛葉山人    菩提所并梅若地内二ヶ所の碑は、狂歌堂真顔、山東京山、歌川豊国三大人世話人となられ、勘化帳へ各    狂文を筆して江戸中に配り、無程成就せしとぞ〟  ☆ かとう ますみ 三世 一寸見 河東  ◯『見ぬ世の友』巻一 東都掃墓会 明治三十三年(1900)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻1-5 19/55コマ)   〝詞林 名家辞世 其一 山口豊山稿       三世 一寸見河東 延享二年七月廿一日 向島長命寺     極楽の道も明るし梅さくら〟     ☆ かわじ としあきら 川路 聖謨    ◯『零砕雑筆』〔続大成〕④226(中根香亭著・成立年未詳)   〝川路聖謨の辞世      雪に折るゝ松となるとも武士のこの手がしはのふたおもてすな    川路氏は幕府の名臣にて、久しく国事に尽力せしは人の能く知る所なり。是は戊辰の乱江戸城引き渡し    の夜、邸宅にて自殺したる時の歌なり。【すなといふ言棄、他人に告ぐるる意となるに似たり】〟    ◯『名人忌辰録』上巻p23(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝川路左衞門尉 聖謨    明治元辰年三月十五日、将軍の大政奉還に憤る所有て、拳銃を以て自殺す、年七十二。     辞世 雪に折るゝ松となるとも武士のこのてかしはのふたおもてすな    池の端七軒町大正寺に葬る。    川路聖謨は富士見御宝蔵番内藤吉兵衛長子、故有て御徒組川路氏を嗣ぐ、初め弥吉と称し、後三右衛門    と改む。文化九年十六歳の時、始て支配勘定留役助ケに出勤、夫より寺社奉行調役、後御勘定組頭の時、    二百俵と成、又同吟味役となり、小普請奉行に進み、左衞門尉と称す。奈良奉行に転じ、大坂町奉行と    なり五百石を給ふ、其後御勘定奉行、後西丸御留守居となり隠居す)〟    ☆ かんこう あけら 朱楽 菅江    △『戯作者撰集』p65(石塚豊芥子編・天保末頃~弘化初年成立、後、嘉永期まで加筆)   〝朱楽菅江 大久保廿騎町    山崎氏、名景貫、字道甫、淮南堂と号す。通称郷助、東都幕府先鋒の士たり。大久保に住す。始め漢学    及和歌を内山淳時に学ぶ、後、夷曲を以て人に知らるゝ。    寛政十二戊申(ママ)年十二月十二日卒す、青山久保町青原禅寺、葬る。    法号 運光院泰安道父居士      元文五申年十月廿四日出生     辞世 執着の心や娑婆に残るらんよしのゝ桜さらしなの月〟    ☆ きいつ けい 慶 紀逸    ◯『万歳狂歌集』「哀傷歌」〔江戸狂歌・第一巻〕四方赤良・朱楽菅江編・天明三年(1783)刊   〝辞世  慶紀逸      この年ではじめてお目にかゝるとはみだにむかひて申わけなし〟    ◯『増訂武江年表』1p167(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (宝暦十一年(1761)記事)   〝五月、俳諧師慶紀逸卒す。六十八歳。谷中竜泉寺に葬す。     辞世 此の年で始めておめにかかるとは弥陀に向ひて申しわけなし  ☆ きぎょく きぎょくどう 亀玉堂 亀玉  ◯『見ぬ世の友』巻二 東都掃墓会 明治三十三年(1900)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻1-5 26/55コマ)   〝詞林 名家辞世 其二 絵馬屋額輔稿       亀玉堂亀玉 安政五年八月八日 原宿村 長安寺      かのくにへみやげといふはほかになし銭六文に六字名号〟    ☆ きぎん きたむら 北村 季吟    ◯『一話一言』巻25〔南畝〕⑬464(文化四年(1807)十月記)   〝北村季吟墓    北村季吟の墓は池の端正慶寺にあり。     再昌院法印季吟先生      花もみつ郭公をもまち出つこの世の後の世思ふ事なき     宝永二乙酉年六月十五日八十二歳卒〟    ◯『十方庵遊歴雑記』二編(釈敬順著・文化十一年(1814)記)   (「正慶寺中北村季吟翁の墳墓」)   〝(辞世)花もみつほとゝきすをもまちいでつこの世後の世思ふ事なき     宝永二乙酉年六月十五日 八十二歳卒〟    ☆ きの かいおん 紀 海音    ◯『万歳狂歌集』「哀傷歌」〔江戸狂歌・第一巻〕四方赤良・朱楽菅江編・天明三年(1783)刊   〝兄由縁斎貞柳が書おける置土産といへる集のはじめに  紀海音     辞世  しるしらぬ人を狂歌に笑はせしその返報にないてたまはれ〟    ☆ きぶん 亀文    ◯『零砕雑筆』〔続大成〕④222(中根香亭著・成立年未詳)   〝亀文が終焉の文    武州高麗郡飯野村の薬舗亀屋文左衞門なる者、世人略して亀文と呼ぶ。此の人妙々奇談の作者なるが、    誰人か写し取り、後江戸にて板行せしに、初めの程は当人も知らざりきとぞ。左に挙ぐるは其の終焉    の時の文なり     終に行く道中筋は、初旅の如らぬ事故、万事宜しくと兼ねて御頼み申し置きしが、此の度例の如     く御来迎下さるべき旨は、有りがたく存じ候へども、維摩居士の室には、あらぬ手狭のすまひ相     成るべく候はゞ、此方より勝手次第に常に御心やすく仕り候ふ。地蔵菩薩を案内として、推参仕     りたく侯ふ。此の儀御聞き済みなくば拠なし。南無阿弥陀仏〟    ☆ きりつ えいじつあん 永日菴 其律    ◯『名人忌辰録』下巻p5(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝久野其律 兀斎    尾州の人、通称与四郎、号永日庵、家号橘屋。松尾流茶人。狂歌は油烟斎門。宝暦十年十月十七日歿す、    歳四十七。     辞世 魂飛でいづれへさると尋ねたらおらも知らぬで事は済むなり〟    ☆ きんらんさい 金蘭斎    ◯『読老庵日礼』〔鼠璞〕中p132(老樗軒著・文化年間記)   〝金蘭斎時世      東山の花見しも、此春をかぎりか。西山の月みるも、      これかかぎりか。 さても死にともないことぢや    金蘭斎は出羽秋田佐竹侯の藩、小鴨三竹の子なり。幼少にして京都に遊学す。遂に京に教授す。先生、    名は忠祐、号蘭斎、又福庵。【金氏は母方の族なり】〟    ◯『仮名世説』〔南畝〕⑩563(杏花園蜀山(大田南畝)編・文政八年(1825)刊)   〝〔任誕補〕金蘭斎は羽州秋田の産にして、鴨三竹といひし人の子也。幼少にして京師に遊学し、つひに    京に教授す。名は忠祐、福庵と号す。金氏は母方の族なりといへり。     辞世 東山の花見しも此春をかぎりか 西山の月みるもこのゆふべかぎりか        さても死にともない事ぢや〟    ☆ くれたけ まどの 窓の呉竹    ◯『名人忌辰録』下巻p8(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝窓の呉竹 青峨堂    多田氏、称千次郎、野菜商、青山熊野横町に住す。文政七申年十一月廿二日歿す、歳八十二。青山智覚    院に葬る。文化十年秋十九才なる娘を先だてゝよめる「死んだ子の年を十九とかぞふれば親指ばかり    のこるかなしさ」     辞世 詩も歌も達者な時に読ておけとても辞世は出来ぬ死ぎは  ☆ くろうし おおきどの 大木戸 黒牛  ◯『見ぬ世の友』巻二 東都掃墓会 明治三十三年(1900)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻1-5 26/55コマ)   〝詞林 名家辞世 其二 絵馬屋額輔稿       大木戸黒牛 天明六年三月廿二日 浅草 幸龍寺     生てゐる内は何かと神ほとけ聖もいかひ世話でぼざつた〟    ☆ けい きいつ 慶 紀逸    ◯『万歳狂歌集』「哀傷歌」〔日本名著全集「狂文狂歌集」〕四方赤良・朱楽菅江編・天明三年(1783)刊   〝辞世  この年てはじめてお目にかゝるとはみだにむかひて申わけなし〟    ☆ けいじゅ かがわ 香川 景樹    ◯『名人忌辰録』上巻p24(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝香川景樹    黄中義子、因州鳥取人。本姓荒井氏、従五位下。肥後守。号桂園、又東塢亭。天保十四卯年三月晦日歿    す、歳七十四。同寺に葬る。     辞世 ひとすぢに命まつまの春の日はいよ/\ながきものにぞありける  ☆ げんぎょ ばいそてい 梅素亭 玄魚  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(82/103コマ)   〝梅素玄魚【万延一年間 1860】    宮城氏、通称喜三郞、一に梅素亭と号す、浮世絵師にあらざれども、書画の板下を善くし、燈籠の画を    かけり、頗る好劇の癖ありて、団十郎老爺と戯号し、六二連の幹事をなしたり、浅草黒船町に住みしが、    火災に遇ひて、両国吉川町に寓居せり、明治十三年二月病に罹りて没す、享年六十四、時世の狂歌に、     何時に迎が来てもこゝろよく 南無阿弥陀仏六時ごろなり〟    ☆ げんげんいち たけうち 竹内 玄々一    ◯『名人忌辰録』上巻p33(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊)   〝竹内玄々一 竹窓    号有無軒、後勾当。俳家奇人談の編者。播州高野人。文化元子年八月廿五日歿す、歳八十三。谷中長久    寺に葬る。     辞世 朝かほやしぼめは又の朝ぼらけ〟    ☆ こじき 乞食    ◯『藤岡屋日記 第一巻』①193(藤岡屋由蔵・文化十三年(1816)記)   〝此頃乞丐の女、辞世に     漸出非人界 今日帰天上 (漸く非人界を出 今日天上に帰る)     去破衣簑笠 浮暁寺門前 (破衣簑笠を去り 暁寺門前に浮く)      蚊をいとひ犬に喰るゝ骸かな〟    ☆ ごちょう 五町    ◯『名人忌辰録』上巻p26(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝交五町 娯遊    質渡世伊勢屋の某の子俗称磯八、吉原の幇間即ち男芸者の始なり。役者の身振をなし、亦落語も上手な    り。寛政七卯年四月二日歿す、歳五十。下谷坂本村英信寺に葬る。法名高顕院名誉寿楽五町居士。     辞世 卯の花も道は迷はじ西の宿〟    ☆ こにし らいざん 小西 来山    ◯『浪華百事談』〔新燕石〕②268(著者未詳・明治年代成立)   〝来山は小西氏、十万堂又湛々翁といふ、俳諧師、泉州堺の人、前川由平の門人、浪花に住す、後も事故    ありて、浪花の南今宮村に幽栖す、人と為り曠達不拘、ひとへに酒を好む、享保年中に没す、談林風中    興の開山にて、無類の達人といふ     時世 来山は生れたとがで死ぬるなり夫で恨も何もかもなし〟    ☆ さの ぜんざえもん 佐野 善左衞門    ◯『諸家随筆集』〔鼠璞〕上109(茶町子随筆)   〝天明四年辰四月三日、佐野善左衞門殿     辞世 卯の花の盛を捨て死出の旅山時鳥道しるべせよ    〈佐野善左衞門政言は、天明四年三月二十四日、時めく老中・田沼意次の嗣子で若年寄の田沼意知を江戸城内で殺害し、     同四月三日、切腹を命じられた〉    ☆ さけずき 酒好き    ◯『十方庵遊歴雑記』二編(釈敬順著・文化十一年(1814)記)   (著者、寛政九年三月、浪花千日で一見した酒好の墓碑)   〝能々の酒好にや病中の吟と見え、妻女の返歌までを鍛付置たり、又一興といはんか      われ死なば備前の土になしてたべ徳利となりて永くさかへん        つれ合の女房返し      望なら墓前の土になしもせんもし鉛播(スリバチ)になつたときには〟    ☆ さだまる きの 紀 定丸    △『戯作者撰集』p97(石塚豊芥子編・天保末頃~弘化初年成立、後、嘉永期まで加筆)   (天明四年の項)   〝紀定丸 公藩    初号野原雲輔、俗称吉見儀助、牛込豆腐内屋敷に住居、狂歌を詠じて其名高し、草双紙の作は天明四辰    同五巳両年のみ二三部あり     辞世 狂歌師もけふかあすかの身となりぬ紀の定丸もさだめなき世(に?)    ◯『名人忌辰録』上巻p29(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝吉見定丸 紀ノ定丸    通称吉見儀助、名義方、幕臣。狂歌仲間に入て、始め野原雲介と云ふ。天保十二丑年正月十六日歿す。    歳八十三。本郷元町三念寺に葬る。昇進院平生日勤敏翁。     辞世 狂歌師もけふかあすかとなりにけり紀の定丸もさだめなき世に    〈紀定丸は蜀山人(大田南畝・四方赤良〉の甥〉    ☆ さわむら そうじゅうろう 沢村 宗十郎 四代    ◯『街談文々集要』(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   〝文化九年壬申十一月廿九日、四代目瀬川路考死去、生年卅一才、法号、循定院環誉光阿禅昇居士    【初中村千之助ト云、桐座若太夫、後瀬川菊之助、後ニ路之助、夫より路考】    同十二月八日、四代目沢村訥子死去、生年二十九才、法号、善覚院達誉了玄居士    【初メ沢村源之助三代目訥子実子】    路考、寺ハ本所押上大雲寺、宗十郎ハ浅草誓願寺にて、両人葬礼の見物大群集、僅ニ十日の日隔て、西    方極楽浄土に赴く、追善の錦絵一枚摺・二枚続、江戸諸名家の書入【狂文狂歌】数多出板す、当時娘・    女中連ひゐき多き両人の事故、大にしきを求めんと絵屋の前押号/\、市の如し、其外三芝居惣役者、    手向追善の発句を売歩行、往還ニかまびすし。     辞世 寒ぎくに一霜つらきあした哉路考        雪道や跡へ引るゝ逆わらじ 訥子     (追善の戯作として式亭三馬作『地獄極楽道中記』の序を引く。略)〟
   「瀬川路考」「沢村宗十郎」(死絵)豊国画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)    ☆ さんな とうらい 唐来 三和    △『戯作者撰集』p82(石塚豊芥子編・天保末頃~弘化初年成立、後、嘉永期まで加筆)   〝唐来三和 伊豆亭 号あり、狂歌を蜀山人はかへり(ママ)    本所松井町の妓院和泉屋源蔵といふ。もとは武士なるよし。加藤氏。書肆蔦屋重三郎が弟分になりて、    和泉屋へ入婿せしといふ。没年不知。墓、深川浄心寺にあり。     辞世 かりの世の地水火風をもどすなりこれで五輪のさしひきはなし    〈地水火風に空を加えた五元素が五輪。仏教用語で、万物を構成する基礎となるもの。すなわち、宇宙・自然・五体つ     まり人体を意味する〉    ☆ さんば しきてい 式亭 三馬    △『戯作者撰集』p154(石塚豊芥子編・天保末頃~弘化初年成立、後、嘉永期まで加筆)   〝式亭三馬 寛政六より 本町二丁目 菊地太助と云    本町二丁目西側【文政七年已前は東側なり】居住して家製の薬を鬻て業とす。俗称西宮大助、本性菊地、    名久住といへり。遊戯堂、洒落斎(口編に「匚」の中に「多」)囉哩楼、四季山人、遊戯道人なんとは    旧号なり。近頃、戯作舎、滑稽斎、本町庵の号、専ら呼ぶ。    墨川亭曰    三馬大人は八丈島なる為朝大明神祠官菊地壱岐守が妾腹の男子。剞劂氏にて菊地茂兵衛といへり、安永    四乙未年、浅草田原町三丁目に生る。文政五壬午年閏正月六日、病て卒す。時齢四十八才、深川雲光院    に葬る     法号 歓誉喜楽奏天信士     辞世 善もせず悪もつくらず死る身は地蔵も誉ず焔魔叱らず    〈「燕石十種」二巻所収の『戯作六家撰』を参照して補った〉    ☆ しおうり 塩売り    ◯『諸家随筆集』〔鼠璞〕上108(茶町子随筆)   〝明和六丑どし十月卅日、京都三条大納言伝門前にて、塩売自害いたし候由、右の子細は、近き頃京都に    て塩売候男一人、男ぶりも十人に超へ、としも廿四五と相見候、美服を着し、塩山はかりと呼廻り、洛    中の評判に候処、寺町筋三条大納言殿息女清姫と申、十九歳之由、此姫の方より、或時酢塩売の方へや    うじ指をおくられし其中に、      陸奥へ通ふ心はちがの浦影ゆかしくも月の夕しほ    男もよき伝もや有りけん、かへしに、      冥加なや平(ママ)かゝるはやりうた君は我は吉原(ママ)/\    然る処、十月廿九日夜、彼清姫ひそかに三条の家を忍び出、塩売の宅へ行て有ける。三条にて騒ぎ立、    中にも心得たる家来、少しは存当り候事もや有けん、しほ売之宅ぇ尋ね行し処、はたして姫を見出し、    つれ帰り、塩売には縄をかけ、所へ預け置、姫は家老へ預り申候。翌三十日夜、しほ売抜出、三条殿門    前に来り切腹いたし候由。【大坂者のよし】もらい置候やうじさしを、わきざしのさやにからげ附、其    の中に辞世あり。      すゑとげぬ重き情のつりがねにはかなく消る身こそてふちん〟    ☆ しげつ 指月老人    ◯『玉川砂利』〔南畝〕②297(大田南畝・文化六年(1809)二月記)   〝養光寺指月老人【本年己巳より五十年ばかり前に遷化なり。岩槻の寺にて也。年七十二と云】     遺偈 生死一輪月 去来遍地雪 吾千差人万別 乾坤都無竹節     又  知手舞覚足踏 三世仏起亦倒     参社 しるしらぬ心の本に何かある神と人の直に行道          甲申正月良辰 三光老人書    和尚、養光寺、佐野本光寺、熊谷在曽根西光院の三寺に住せし故、三光老人と称す〟    ☆ じすけ さくらだ 桜田 治助 元祖    ◯『名人忌辰録』下巻p23(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝桜田治助【元祖】左交    通称笠倉善兵衛、幼名治三郎。文化三寅年六月廿七日歿す、歳七十三。下谷わら店法養寺に葬る。法号    黙了院左交日念。     辞世 花清し散ても浮む水のうへ    (左交は濠越二三治(後に菜陽と改)の門弟にして中興名誉の一人なり。宝暦八年、戯場へ出勤せしよ    り五十余年、狂言の作意一変し、殊更二番目世話物に妙を得、又名題小書等至巧なり、世人呼んで桜田    風と云ふ一流を残せり。又浄瑠璃を著すこと百廿余段、何れも佳作なり。殊更狂言せりふ、時好の詞、    或ははやり物などを道具に遣ひ、見物の耳目を悦ばしゝ趣向思い付きなど、俗に芝居通の悦ぶこと尤多    し)〟  ☆ したみち はなの 花 下道  ◯『見ぬ世の友』巻二 東都掃墓会 明治三十三年(1900)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻1-5 26/55コマ)   〝詞林 名家辞世 其二 絵馬屋額輔稿       花の下道 天保六年正月十四日 深川 浄心寺     われは道中双六のさい子をあとにふり捨てゆく〟     ☆ しどうけん ふかい 深井 志道軒    ◯『増訂武江年表』1p176(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「明和二年(1765)」記事)   〝三月七日、講釈師深井志道軒終(オ)ふ(名栄山、号無一堂と云ふ。もとは知足院の僧也。衒艶郎(カゲマ)    に惑溺して財を失ひ、後、浅草花川戸戸沢長屋といふ所に住み、浅草寺境内に於いて軍書を講ず。其の    間に戯言を交へ人をして絶倒せしむ。一座に僧と女あれば、必ず譏る事甚だし。日々多くの銭を得ると    いへども、すべて酒にかへて翌日の蓄へをなさず。在世の日、自ら肖像を画きて梓に上(ノボ)せ、戯言    を書きつけて人に与ふ。「元なし草」と云ふ草紙一冊を著す。今年八十四歳にして終れり。浅草中金剛    院に葬す。一男一女あり。男(ムスコ)を三之介といふ。諢名(アダナ)を志道軒三之助と称しけるとなん。志    道軒が歌とて聞へしは、     辞世 思ふ事あるもうれしき我身さへ心のこまの世につながれて        東よりぬつと生れた月日さへ西へとん/\我もとん/\〟    ◯『十方庵遊歴雑記』二編(釈敬順著・文化十一年(1814)記)   〝舌耕者志道軒が墳墓    浅草観音境内勢至堂金剛院 天台 は矢大臣門前馬町の角東側に有て、姥が家に隣る、当時に志道軒の    墓あり。此坊主は享保年間より明和二年までの間の講釈司(コウシヤクシ)にして、即ち観音仁王門の脇ぬれ仏    の前に、葭簀囲ひし定店に軍書を講ぜり、その頃までは古戦ものがたり、源平盛衰記太平記曾我ものが    たり等と舌耕す、よつて世人太平記よみと称しけり。是は此時分当世の如く講釈司、江戸に沢山あるに    はあらず、元文寛保の頃、瑞龍軒志道軒の徒、公辺へ願ひて今の三河風土記を読むことはなりしとなん、    その頃は世挙て此志道軒を江戸の名物と取はやせり、是江戸にその頃軍儀講談するもの少なきが故なり、    此坊主浅草馬道大長といふ処に住居し、広く大小名へ立入て舌耕す、但し此志道軒おかしき僻ありて、    わ定居の講席へ出家と侍入来れば、必その人の穴をいひ当劘(アテコス)ることを常とし、取分日蓮の徒の穴    をいひて匃訇(ノノシル)こと平生也、又婦人入来ることあれば、拍子おふぎの代りに頭は樫の木、外は節の    込てくびれたる竹にて作り男根を振を(*ママ)振廻し、又はトン/\と扣き女の赤面するを興とせり、そ    の趣、彼が辞世にも見えたり、猶その外高貴の人をも横平に匃訇る事常なれども、彼が例わる口とゆる    して諸客気にも留ざりし、今も志道軒が名を継ぎ舌耕するもの三代におよぶといへども、中々名も発せ    ず、初代とは格外劣れり、文化十一甲戌年にいたりて最早五十年におよぶ、伝えいふ志道軒が肉縁の孫    たるもの、今浅草仲町に住宅し仕立屋して渡世すとなん、辞世及び墳墓左のごとし      わがものとおもふやおかし殿根房いくさのなかに笑ひ声あり      穴を出てあなに入まで世の中にとらん貪着せずにたのしめ      東からぬつと生れて月日さへにしへとん/\われもとん/\     明和二乙酉年三月七日 一無堂栄山大徳〟  ◯『見ぬ世の友』巻三 東都掃墓会 明治三十三年(1900)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻1-5 35/55コマ)   〝詞林 名家辞世 其三 兼子伴雨稿       深井志道軒 明和二年三月七日 浅草寺中金剛院     其まゝに帰るぞ夏のはたか虫〟    ☆ しまもと なかみち 島本 仲道    ◯『名人忌辰録』下巻p31(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝島本仲道 土佐の人、明治廿六年一月二日歿す、青山墓地に葬る。     辞世 いき死の追分坂やほとゝぎす        熱い世に氷と消ゆる命かな〟    ☆ しゅうしき 秋色    ◯『近世奇跡考』〔大成Ⅱ〕⑥330(山東京伝著・文化元年(1804)刊)   〝秋色桜并短冊    秋色は小網町菓子屋のむすめ、幼名を秋といふ。十三歳の時、上野の花見にまかりて、清水観音堂の辺、    井の端にありし、大般若といふ桜を見て      井のはたの桜あぶなし酒の酔    と口ずさみぬ。しかりしより後、その桜を秋色桜といひけるよし(中略)お秋、貞享の頃、其角の門人    となり、秋色といふ。(中略)    秋色は、寒玉といふ者の妻となり、男女あまたの子をうめり。一男俳号を林鳥と云、次男俳号を紫万と    云、ともの俗称詳ならず。孫女を富といへり。    秋色、享保十年乙巳四月十九日申刻身まかりぬ。     辞世 見し夢もさめても色のかきつばた 秋色〟    ☆ しゅうどう 衆道    ◯『増訂武江年表』1p37(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (寛永十七年(1640)記事)   〝此頃何某侯に宮づかへせし伊丹右京といへる美少年(十六歳)、男色の意地によりて、今年四月同藩細    野主膳といふ者を切害したれば、同月それの日主君より命ぜられ、浅草慶養寺に於いて自尽を給ふ。其    の時、右京と男色の契りありし、同藩舟川采女といへる美少年(十八歳)も、爰に来りて倶に自害して    失せけるを、此の頃世のかたりぐさとなりけるとぞ     右京辞世の歌  春は花秋は月にとたはふれてながめし事も夢のまたゆめ     采女辞世の歌  もろともにいさゝは我もこゆるぎのいそぎてこえんしでの山川〟    ◯『墨水消夏録』〔燕石〕②229(蘭洲東秋颿(伊藤蘭洲)著・文化二年(1805)序)   〝慶陽寺    此寺、もと蔵前にあり、いつの頃にか、浅草川の東、今戸に移さる、伊丹右京、舟川采女、男色にて相    対せし事、委しく「もくづものがたり」といふ書に見へたり、    伊丹右京、年十六、辞世のうた>     春ははな秋は月にと戯ふれて眺し事もゆめのまた夢    舟川采女、年十八、辞世のうた     もろともにいさらば我もこゆるぎのいそぎて越ん死出の山路を  ☆ しゅんすい ためなが 為永春水 二世  ◯『内外古今逸話文庫』6編 岸上操編 博文館 明治二十七年刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)    ※ 原文は漢字に振り仮名付き。(かな)は原文の振り仮名   (第十編「洒落」の項)   〝二世為永春水の辞世(350/410コマ)※(かな)は原文の振り仮名    二世為永春水は実名を染崎延房と云て、旧対州の藩士なり、武州北豊島郡三の輪村なる対州の下屋敷に    生る、其著作中最も世人に持囃されしは北雪美談時代鏡なり、去明治十九年九月廿七日享年六十九歳に    て此の世を逝きしが其辞世に      今よりは故郷の空にすむ月をいざやながめて遊びあかさん      皆さんへ扨(さて)いろ/\とお世話さまお先へまゐるはい左様なら    と悟道の意を述べ、また諧謔の世を玩弄したる様なか/\に感心せり(河村直民)〟    ☆ しょうけい みよし 三好 正慶    ◯『浪華百事談』〔新燕石〕②242(著者未詳・明治二十五~八年頃記)   〝正慶尼、若かりし頃より、和歌、俳諧、発句を嗜み、書もまた拙からず、老年に及びて、春を迎へし詠    あり、云く     此年亥極月、思ふよし有て、難波刈谷何がしの許に住る所より、方能往新年迎へんとす、然るに、廿     七八日より病に伏、廿九日は大に悩、亭主繁女かいほうをろそかならねど、くるしさたへがたし、暮     に及て、夜更て丑満の頃にや、繁女、ぞうにを祝ひ給へ、とさま/\祝儀すゝめ給ど、喰ひ難く、時     いかにと問、寅の後と有、され共、悩事甚成は頓て身まかりもやすらん、此家の思はく気の毒ながら、     是非無く観念せる内、鳥の音鐘ひゞくなど聞るに、早としもたち行さま成、ともかく有る身なれば、      鳥鐘の声もをしまぬ年の丈     明近きに冷寒共に募る、くるしさを凌、そのまゝに寝入もやせし歟、いかゞ夢成るべし、広野に至て     晴々と見渡す、今迄の苦さもなくあれば、偖は死けるとぞ、嬉しく、是より何方へ往べしと思ふ内、     幼少なるわらんべどものこゑ、さま/\に聞こゆるに、是何を以てと頭上を見るに、東の窓より太陽     赫々と指し入給うこそ、いまだ死なぬと心付き、本意なさいはんかたなし、      未来歟と思や難波の初日影     既に齢は七十の六も重ねし老が身の、又、存命もものうき、たゞ命終をのみ念じ奉る、つたなき運命     宿業あしく、罪浅からぬぞかなし、娑婆の因縁尽き難く、最悲しかるや、      うしや世に又存命て内歟せん己が身ながら我に恥かし     行年七十六歳       子正月                         三好氏老婆正慶慎曰    これ生涯の絶筆にして、幾日もあらず歿す、文化元年子の春なり、刈谷は、難波むら北の口にて、薬湯    を業とす〟    ☆ しょくさんじん 蜀山人(大田南畝・四方赤良)    △『戯作者考補遺』p29(木村黙老編・弘化二年序)   〝文政六年未四月五日 蜀山人病死     辞世 ほとゝぎすなきつる片身初かつほ春と夏との入相のかね     享年七十五    蜀山人    蜀山人、姓は太(ママ)田、名は覃、字は子耜といふ。俗称直次郎、後に七左衞門と改む。南畝又は杏花園、    或は遠桜山人と号す。大旗下の士にて、礫川太田姫稲荷祠前に住す。博識多才の人なり。狂歌の名は四    方(ヨモ)の赤良(アカラ)、狂詩の葉は寝惚(ネボケ)先生といふ。中古以来の狂詩歌、此人に到つて一変せり。    古風の狂詩は押韻も不慥にて、まして平仄などはたださざりしに、翁押韻を正しくし平仄も分ちて、種    々の妙句を出せり(以下略)〟    ◯『藤岡屋日記 第一巻』p312(藤岡屋由蔵記)   〝文政六癸未年四月六日 大田南畝翁卒、七拾五、名覃、通称直次郎、後改七左衞門、狂歌をよくし、初    号四方赤良と云、蜀山人、遠桜山人、杏花園、寝惚先生の数号あり、戯作の書数十部あり、世の知る所    なり、白山本然(ママ)寺葬す、先生自ら戒名を、杏華園心逸日休居士と考へ置きしとなり。     右は三月廿八日の作なりと、又辞世の句とて、     醉世(スイセイ)将(ト)夢死(ムシ) 七十五居諸(ヰショ)     有酒市鋪(シホ)近(チカシ)   盤餐(バンサン)平目魚(ヒモクギヨ)     時鳥鳴つる方身初鰹春と夏との入相のかね〟    ◯「序跋等拾遺」〔南畝〕⑱652   〝南畝絶筆     即席    宿雨収朝気 新晴蕩日華 露乾紅躑躅 風動紫藤花    泉石違愈病 烟霞奈抱痾 閑居無事意 自似臥巌阿     又     醉世将夢死 七十五居諸 有酒市脯近 盤飱比目魚    うかりつるながめもはれておのが名の春もかすみてともにゆくらん    おぼつかな藤さく山のよぶこ鳥    時鳥鳴つる方身初鰹春と夏との入相のかね〟    ☆ しろひと やまのての 山手 白人    ◯『甲子夜話2』巻之四十二 p144(松浦静山著・文政六年(1823)記)   〝今の奥右筆組頭、布施蔵之丞〔胤毅〕の父は、弥二郎と云て、留役に終りしとなり。繁劇なる吏務の中    にて和歌を好み、冷泉家の門人たり。没せし年は春より病悩なりしが、七月の比殆ど危篤に迫しとき、    辞世とて、      なき魂の数にはいりて中々にうき秋風の身にぞしみぬる    とよみしが、又暫く快く、遂に八月に至り没しぬ。    其時戯の狂歌に      乾坤の外とよりこれをうちみれば火打箱にもたらぬ天つち    何(イ)かにも豪励の気象なりけり〟    〈幕府勘定留役・布施弥二郎胤致は狂名山手白人。天明七年八月七日、五十一才没。元木阿弥・智恵内子・朱楽・唐衣     橘洲・四方赤良(大田南畝)などと共に狂歌六歌仙の一人と称される〉    ☆ しんじゅう 心中    ◯『椎の実筆』〔百花苑〕⑪372(蜂屋椎園著・嘉永六年(1853)記)   〝本所慈眼寺情死の墓【鶴賀浄るりの浦里時次郎】    本所木倉猿江慈眼寺【日蓮宗】ニ情死の墳墓あり     意実浄貞信士 廿一才 俗名 伊之助     心誠妙貞信女 廿四才    美吉野    明和六己丑七月三日としるし有、側ニ辞世の歌あり。     ひとり来てふたりつれ立二世の道ひとつはちすに請る露の身     川たけの流るゝ身をもせき留て二世の契りを結ぶ嬉しさ    鶴賀の浄瑠璃に作りし浦里時次郎の墓の由。近頃火災によつて新に建かえしものゝやうに思はる。歌舞    伎役者市川団十郎、板東秀佳、嵐亀之丞等の寄進の備物、鶴賀の太夫どもの名簿等ミゆ。     右は嘉永六年七月廿六日、内藤桜嶽子一観せられしとて示さる〟    ◯『藤岡屋日記 第九巻』⑨417(藤岡屋由蔵・万延元年(1860)記)   〝十月廿二日    根岸宮様御隠殿前芝原ニて、心中有之。      茶紺竪縞結城木綿 男二十五六才      縞縮緬小袖下着  女三十一二才    男、女の咽を突、自分も咽を突、上ニなり、両人顔を合せいだき合死ス      此世でハ無理な願ひの金杉で早く冥土で抱て根岸と      少しでも身を御隠殿芝草の枯野へ急ぐ旅の冬空〟    ☆ せいろ きた 北 静蘆    △『戯作者撰集』p308(石塚豊芥子編・天保末頃~弘化初年成立、後、嘉永期まで加筆)   〝静蘆 【俗称三右衛門/菅原氏】屋根師 狂名網の破損針金     嘉永元戊申三月廿九日終 八十有四 芝天徳寺地中教受院     高岳院円照信士     辞世 にわかるゝをかなしくもまた父母にあふとうれしき〟    ☆ せんざん 七世 沾山    ◯『寐ものがたり』〔続大成〕⑪24(鼠渓著・安政三年(1856)序)   〝沾山墓は、麻布六本木、光専寺 浄土宗 にあり。    高サ壱尺七八寸位の硯なり。図のごとし。    左リ脇に、仁誉越山智海居士 嘉永四 辛亥 年十一月十一日    背面ニ 五行左の文あり、    合歓堂七世沾山は北越魚沼郡の産にして位法眼に叙し連哥漢和を学び俳諧の奥義に至りしは是泰平国恩    の徳沢を蒙りし物なるべし    右脇に、      極楽に百とせ住し終りには小松野石と化して千代経ん    此石、小松とやらいふ石のよし、彫工は石斎なり〟    ☆ せんたろう 千太郎    ◯『半日閑話』巻十二〔南畝〕⑪375(大田南畝・安永二年(1773)八月記)   〝八月 赤坂名主千太郎辞世    当月の初、赤坂裏伝馬町の名主(五兵衛忰千太郎)を勤めたるもの、放埒にて役義を人に譲り、其の身    はあたり近き氷川の花街に徘徊せしが病死せしと、その友達より集りて、日頃かれがすきける事なれば    とて、祇園囃にて送葬しけるとぞ。暮六つ半時分の事なりければ、人々立出てみつ。聞伝へて沙汰あり    ける     辞世 念仏を申ほどなるとがもなし申さぬ程の善根もせず〟    ☆ だいげん 大玄和尚  ◯『丁丑掌記』〔南畝〕別48(大田南畝・文化十四年(1817)八月四日明記)   〝目黒新寺を長泉院といふ     高峯山長泉院大玄寺    長泉院は大玄大僧正の遺命にて千如上人開基也。大玄僧正の辞世     辞世 七十七年夢忽覚帰西天 無碍光明裏瞻仰弥陀也        八十まて久しくかりしかりの世をかへして今はにしへゆくなり〟    ☆ たかお 高尾    ◯『瀬田問答』〔南畝〕⑰377(大田南畝著・寛政二年(1790)頃か)   〝新吉原三浦屋遊女高尾、六代ほどもつゞき候哉。初代よりの伝いかゞ。    高尾が伝は、能ク原武太夫盛和委敷候へき、伝へ請候筈にて終に不果、残念に候。浅草山谷寺町春慶院    に転誉妙身と有之碑、万治己亥十二月五日と切りて、     辞世 さむ風にもろくもくつる紅葉哉    と有り。塔の屋根に(紋の図あり)此紋切り附たる四面塔の碑は全ク初代の高尾に候。是を土手の道哲    歟(原文、与+欠)似せ碑を造り、二代目高尾と称し人を欺しを、不吟味にて江戸砂子に二代目高尾と    記し候なり〟    〈これは大田南畝の質問に瀬名貞雄が答えたもの。原武太夫は幕臣で御留守居番与力。三絃の名だたる名人で観流斎原     富と称す。南畝は原富に明和元年、歌の師・内山賀邸宅で出会っている〉    ☆ たかすけ すけたかや    ◯『藤岡屋日記 第五巻』⑤452(藤岡屋由蔵・嘉永六年(1853)記)   ◇助高屋高助死絵    〝(十二月廿二日、二代目助高屋高助の葬送記事あり、略)     右高助義、霜月三日ニ名古屋ニ而病気発し、去十五日ニ病死致候処、三日病気付候節、江戸へ知らせ    来り候ニ付、其日より追善売歩行候よし、右追善ニは、       磐正院高賀俳翁信士【助高屋高助/行年五十三】     名残り狂言、忠臣蔵ニて、大星由良之助之役。         辞世        如月や西へ/\へと行千鳥     右追善絵、板元湯嶋円満寺前板木屋太吉、三番出候、外ニ由良之助切腹之処出候得共、是ハ板元知れ    ず。     右追善絵、残らず霜月十九日ニ配り、同廿一日ニ懸り名主鈴木市郎右衛門取上ル也。     右追善絵取上ゲニ相成候ニ付、古き狂言ニて改書候絵を三番出す也、刈萱道心高野山之段二番、川津    三郎赤沢山之段一番出ル也、是ハ構ひなし〟  ☆ たからだ じゅすけ 宝田 寿助  ◯『見ぬ世の友』巻二 東都掃墓会 明治三十三年(1900)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻1-5 26/55コマ)   〝詞林 名家辞世 其五 山口豊山       宝田寿助 天保九年二月十九日 本所法性寺     それ辞世さる程にまた是まではむかしの人の口真似をして  ☆ たくあん 沢庵    ◯『十方庵遊歴雑記』二編(釈敬順著・文化十一年(1814)記)   (「東海禅寺万年石并鐘の銘」所収)   〝沢庵の墳墓は丸き石をすえ置て、世上の釈門の墓とは大に異なり、これ遺言なりといひ伝ふ、曾て辞世    の狂歌あり      大根のものゝふなれど沢庵もおしつけられてしほ/\とする〟    ☆ たけもと こしたゆう 竹本 越太夫    ◯『名人忌辰録』上巻p34(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝竹本越太夫 為声     大坂の人、元祖越太夫門人、初名要太夫、天明四年江戸に下り世に愛せられ富饒の身と成り、居付地主    となれり。文政元年八月三日歿す、歳五十七。本所柳島法成寺に葬る。法号本立院善開日寿。     辞世 浪華より大江戸に下りて早三十五年の今、門葉の繁る事ありがたく何か思ひ残さん        御当地の恵みにふしもかれにけり扇拍子のうち納めかな〟    ☆ だいばい こじま 小島 大梅    ◯『名人忌辰録』上巻p29(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝大梅居大梅    通称小島酉之助、号梅外、下野人。天保十二丑年五月廿九日歿す、歳七十。浅草寺地中修善院に葬る。     辞世 七十やあやめの中の枯尾花〟    ☆ たけふじん 竹婦人    ◯『三升屋二三治戯場書留』〔燕石〕③24(三升屋二三治著・天保末成立)   〝竹婦人    河東節浄瑠璃の作者、数多の文作あり、竹婦人、実名を岩本乾什といふ、享保の頃浅草竹門に住し、俳    諧師なり、沾洲の門人にて、初名を呉丈といふ、享保児とも号す、上るり文句に名文ありて、能廓のな    さけをのべ、古代のものなれども、いまも世の中に合ふこそふしぎなり、宝暦九年二月十七日没す     辞世 雪解や八十年のつくりもの〟    ☆ たにぶんちょう 谷 文晁  ◯『写山楼之記』〔新燕石〕⑤50(野村文紹記・明治十五年脱稿)   〝宝暦十三年九月九日生、下谷長町住居、楼上より不二眺望よし、故に写山楼の号あり、    天保十一年十二月十四日病て卒す、行年七十八、浅草五台山源空寺葬、       本立院生誉一如法眼文阿文晁居士     辞世 ながき世を化おふせたるふる狸尾さきなみせそ山の端の月〟    ☆ たねひこ りゅうてい 柳亭 種彦    △『戯作者撰集』p236(石塚豊芥子編・天保末頃~弘化初年成立、後、嘉永期まで加筆)   〝柳亭種彦 文化八辛未    浅草堀田原【始は下谷組屋しき】俗称高屋彦四郎とて、食禄二百石の知行せらる公藩也。本、氏を横手    といひ、原は甲州の士也。姓源、名知久、愛雀軒と号す。文政五年の春、自ら足薪翁となづく、初〈数    文字文空白〉門に入て漢画を学ぶと云。俳諧の古調を好み、又近年流行の川柳が俳風を嗜て秀吟多し。    又偐紫楼の号あるは田舎源氏大に世に行れ、戯れに如斯あるか。于時天保十三壬寅年七月十八日、卒去    し給へり。行年六十才、赤坂一ツ木平河山浄土寺に葬す。     法号 芳寛院殿勇誉心禅居士     辞世 ちるものに定る秋の柳かな     【源氏の人々のうせ給ひしもおほかた秋なりとありて】        我も秋六十帖を名残りかな    〈「文化八辛未」とあるのは草双紙(合巻)の初筆。読本は文化三年から〉    ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・天保十三年(1842)記)   ◇柳亭種彦逝去 p284   〝七月十九日    戯作者柳亭高谷(屋)種彦卒。    称彦四郎、号薪翁(足薪)、赤坂浄土寺ニ葬。      辞世 散るものに極る秋の柳かな
   「柳亭種彦肖像」国貞画(早稲田大学「古典籍総合データベース」岩本活東子撰『戯作六家撰』)    ☆ たるつぎ(たるあき) 地黄坊樽次(樽明)    ◯『十方庵遊歴雑記』二編(釈敬順著・文化十一年(1814)記)   (小石川祥雲寺の樽明の石碑記事)   〝大酒に高名なりし三浦新之丞樽明の碑あり、此新之丞は小石川富坂下小笠原信濃守の藩中にして、三浦    源右衛門の実父たり、此もの天性酒をこのみ、多く飲に及んでは更に対すべき人なかりしとぞ、依て酒    飲の門弟も数多ありしとかや。(中略)     法号 酒徳院酔翁枕樽居士  延宝八庚申年正月八日歿>     辞世 皆人の路こそかわれ死出の山打越みれば同じ麓路        南三宝多くの酒を飲ほして身は明樽と帰る故郷〟  ◯『続墓所一覧』写本 源氏楼若紫編 成立年未詳   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝地黄坊樽次墓 曹洞宗瑞鳳山祥雲寺    (碑面不動像右ニ)酒徳院酔翁樽枕居士     辞世 みなひとの道こそかはれしでの山 うちこえ見ればおなじふもと路        南三宝あまたのたるを呑ほして身は明たるへかへる故郷    樽次 本名茨木春朔 その先林家門人にして儒医なり酒井家の食禄をうけ鶏声窪に住す〟    ☆ たんたん はんじあん 半時庵 淡々    ◯『読老庵日礼』〔鼠璞〕中p140(老樗軒著・文化年間記)   〝半時庵淡々墓    浪花難波橋瑞竜寺に在り、冢に石二つ、樹一本をうゑる。淡々翁は、従来江戸の産にして、京師六波羅    に寓居す。俳諧を以て鳴る。羅人、竿秋は其門人なり。然れども羅人は擯斥して、貞徳正流に帰す。淡    々、後居を浪花に移して、生涯京の水を飲、敢て浪花の水を不飲、其驕侈此等にて知るべし。浪花江戸    堀五丁目に住居す。其後左海に移る。又浪花に還り、心斎橋筋飾屋町木村氏が座敷にて、病もなく、終    に宝暦十一年十二月二日没す。行年八十八、法号百川長水と云、辞世の句あり、      あさ霜や杖でゑがきし不二の山    此句、存生の時、我辞世たりとて書をかれしが、果たして霜月二日終りぬ〟    ◯『浪華百事談』〔新燕石〕②274(著者未詳・明治二十五~八年頃記)   〝淡々翁が句に     朝霜や杖でえがきしふじの山    此句は何にても我が辞世なりと云おかれしが、果して霜月二日に寂せられき〟    〈忌日は宝暦十一年(1761)十一月二日、八十八歳歿〉    ☆ ちかまつ もんざえもん 近松 門左衞門    ◯『万歳狂歌集』「哀傷歌」〔江戸狂歌・第一巻〕四方赤良・朱楽菅江編・天明三年(1783)刊   〝辞世  近松門左衛門      それ辞世さるほどさてもそのゝちにのこる桜か花しにほはゞ〟    ◯『仮名世説』〔南畝〕⑩552(杏花園蜀山(大田南畝)編・文政八年(1825)刊)   〝〔言語〕近松門左衞門【杉森氏。長門萩の人なり】の文    代々甲冑の家に生れながら、武林を離れ、三槐九卿につかへ、咫尺し奉りて寸爵なく、市井に漂て商売    しらず、隠に似て隠にあらず、賢に似て賢ならず、ものしりに似て何もしらず、世のまがひもの、から    の大和のをしへあるみち/\、伎能、雑芸、滑稽の類まで、しらぬ事なげに口にまかせ、筆にはしらせ、    一生囀りくらし、今はの際にいふべく思ふべき真の一大事は一字半言もな倒惑ごゝろに、心の恥をおほ    ひて七十あまりの光陰、思へばおぼつかなき我世経畢。もし辞世はといふ人あらば、     それ辞世去ほど扨もそのゝちに残る桜が花し匂はゞ      享保九年中冬上旬       入寂名阿耨院穆矣日一具足居士        不俟終焉期 予自記 春秋七十二歳     のこれとは思ふもおろかうづみ火のけぬまあだなる朽木書して〟    ☆ ちよじょ 千代女    ◯『近世奇跡考』〔大成Ⅱ〕⑥330(山東京伝著・文化元年(1804)刊)   「加賀千代尼の伝」   〝千代は、加賀松任の駅福増屋六兵衛といふ者の女なり。いとけなき時より、風雅の志あり。一時俳諧の    句をせしを、父母聞て、さばかりの志あらばとて、行脚の俳人(一説支考門人廬元と云)を家にとゞめ    て学ばせけり。扨十八歳の頃、金沢の福岡某が家に嫁す。其後夫身まかりければ松任にかへり、父の家    にありて、ます/\俳諧をたしみ、廿三歳の時京にのぼり、勢州にいたりて、麦林舎乙由の門人となれ    り。廿七歳の時再び上京す。其後、頭をそりて素園といふ。容㒵美にして言語少く、常に閑寂を好む。    画も又よくす。松任は京へゆきゝの要路なれば、日毎に諸国の旅客に交り、もとむるに応じて、書画を    あたへけるゆゑに、其名、海内にきこえけるとなん。安永四年九月八日寂す。享年七十四。     辞世 月見ても我は此世をかしく哉    金沢専光寺に葬る〟    ☆ つねもち はせんどう 巴扇堂 常持  ◯『見ぬ世の友』巻二 東都掃墓会 明治三十三年(1900)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻1-5 26/55コマ)   〝詞林 名家辞世 其二 絵馬屋額輔稿       巴扇堂常持 文政十一年正月十八日 内藤新宿 西方寺      極楽の浪人者となりぬめりけふはこの世のいとま乞して〟    ☆ どうえい たなか 田中 道栄    ◯『名人忌辰録』上巻p32(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝田中道栄    通称太兵衛、神田弁慶橋に住し、狂歌を嗜めり。文政八酉年二月六日歿す、歳八十。下谷金杉世尊寺に    葬る。     辞世 今迄の業も勤もつきはてゝ嬉しく替るもとの古郷〟    ☆ とよとみ ひでよし 豊臣 秀吉    ◯『半日閑話』〔南畝〕⑪650(大田南畝・年次不明記事)   〝秀吉の辞世    太閤秀吉一首の事    秀吉公聚楽城にして如何思ひ玉ひけん、一首の歌を詠じ玉ふ。      露とをき露ときへぬる我身かな難波の事は夢の世の中    自筆にされて幸藏主を召て預置との儀なり。年経て慶長三年八月十七日、幸藏主を召て、先年預け置し    歌やある、持参れと仰らる。藏主頓て奉りければ、年号月日諱を書せ玉ひ、華押をば書せ玉ひ、今は叶    はじとて其儘置せまし/\けるが、翌日薨じ玉ふ。後世是を太閤御辞世とて、木下家に伝納らる。今木    下肥後守豊臣公定の家にあり〟    ☆ ていとく まつなが 松永 貞徳    ◯『雲錦随筆』〔大成Ⅰ〕③147(暁鐘成著・文久二年(1862)刊)   〝俳諧家譜に云、鼻祖貞徳は松永氏、幼名勝熊、壮歳より薙髪して号を松友と曰、軒を逍遙と名づく、晩    年復髻を束て而して童服を着し、自ら呼で延陀丸と曰、後改めて長頭丸と号す、(中略)    貞徳は承応二年癸巳十一月十五日寿八十三にて歿す。     辞世 露の命きゆる衣の玉くしげ再びうけぬ御法ならなむ  貞徳    城南上鳥羽邑実相寺に葬る、謚して明心居士と号す〟    ☆ ていりゅう たいや 鯛屋 貞柳    ◯『浪華百事談』〔新燕石〕②190(著者未詳・明治二十五~八年頃記)   〝貞柳、姓は永田氏、初め名は良因、後ち言因、一の名信乗と云、通名、初め善八、忠兵衛又忠七と改む、    貞因の男なり、由縁斎、精雲洞、霜露軒、生庵、遍舟子、放曠子、平魚等号せり、別名孝因、不月と云    ふ、享保十九年八月十五日歿す、八十一歳、玉雲斎信海の跡を嗣ぎ、二世と称す、【鳩杖子と号し、又    助栄亭、珍菓亭、長生亭とも云】    貞柳の碑は、天王寺村清水寺の西坂の下にありて、     耳は遠く死るは近く成にけり夢さませとや暁のかね    又、天王寺にてよみし歌に     酒もつよく顔の赤さも公平は四天王寺の花の下かげ    辞世の狂歌は、     百ゐても同じ浮世に同じ花月はまん丸雪は白妙    貞柳翁が柳塚は、天下茶屋村の安養寺の内にあり、墳墓は、高津下寺町浄国寺境内にあるなり〟    ☆ どうけい こばいえん 古梅園 道恵    ◯『万歳狂歌集』「哀傷歌」〔江戸狂歌・第一巻〕四方赤良・朱楽菅江編・天明三年(1783)刊   〝辞世  古梅園道恵      灯明の油煙はおほしゆきて又みだの御国のすみつくりせん〟    ☆ ながしま じゅあみ 長島 寿阿弥    ◯『名人忌辰録』下巻p32(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝寿阿弥雲奝 月所    本姓長島、又江間氏、称五郎作、名秋邦、字爽、又得入。嘉永元申年八月廿九日歿す、歳八十。小石川    伝通院寺中林昌院に葬る。法号東陽院寿阿弥陀仏曇奝和尚、     辞世 孫彦に別るゝことのかなしあもまた父母にあふぞうれしき    (曇奝は始め俗称を真志屋とて神田新石町に住し菓子商(水戸殿御用達)なり、後業を弟に譲り隠居し    戯場を好み、遂に狂言作者宝田寿来が名を受けて二代目戯神仙と云ふ。長唄浄瑠璃の作多し、又儒学を    山本北山に学び、後薙髪して五郎八新発知と呼び、日輪堂に入て僧と成り、寿阿弥と号す、幕府御連歌    の執事を弐拾五年間勤めたり。平常狂人の如く、人号て狂寿といへり。板東秀佳、松本錦升、岩井杜若、    市川三升抔出入して狂言等の相談をなせり。又往来するに身に墨染の衣を着して鉦を前に提げ、銀輪の    花手桶を片手に錫杖を突き、五枚のわらじをはきて鼠木綿の頭巾を冠り、松本幸四郎が身振りをして、    修行に歩行せし事ありと、是は文政の初め頃と云へり。節信云、寿阿弥はまし屋と云ふ菓子屋の二男な    り、五郎作と称す。北山の弟子なりしが、勤学もせず遊山あるきのみせり。戯場を好み田舎抔に出て旅    役者となりし事もあり。一度千葉氏の聟と成り、蒔絵師の株を求めて貰ひしが、気違の様成男とていと    はれて分れたり。歌も詠み文書く事は漢文を読む様成る仮名書きたり併一奇人なり云々)〟    〈節信は風俗考証『嬉遊笑覧』の著者として知られる喜多村筠庭。北山は儒者・山本北山〉    ☆ なかむら うたえもん 中村 歌右衛門 四代目    ◯『藤岡屋日記 第四巻』④46(藤岡屋由蔵・嘉永五年(1852)記)   〝嘉永五壬子年二月十七日      四代目中村歌右衛門死去。     【大極上上吉/給金千両】中村哥右衛門、俳名翫雀。     江戸長谷川町産ニて、藤間勘十郎忰也、幼名吉太郎と云、其後亀三郎と改、森田坐ぇ振付ニ出ル也、    十七歳之時、三代目加賀屋哥右衛門の門弟となり大坂へ上り、中村藤太郎と改メ、又鶴助と改、其後芝    翫となり、文政十亥年江戸中村坐へ下り、其後中村哥右衛門と改名也、然ル処ニ、嘉永二酉年八月、於    市村坐名残狂言致し、師匠中村玉助十三回忌ニ付、上坂致し候処ニ評判宜敷、夫成ニ大坂道頓堀中に芝    居へ出勤致し、当春ハ狂言四海波平清盛と申名題ニて、青砥の善吉を加へ、大切所作事六哥仙、何レも    古めかしき乍事、御蔭を以大入大繁昌仕候、然ル処、二月十三日之頃より腮の下へいささかの腫物出来    候得共、押て罷在候処に、清盛・黒主抔の冠の紐を結び候ニ邪魔ニ成候故、医師ニ相談致し候得ば、腫    物ニ致候へバ出勤も成兼可申と申候ニ付、大入之芝居一日も難相休候間、無是非ちらし薬相用候処、障    り候哉、十五日於芝居、俄ニ病気差重り、療養手当致し候得共不相叶、十七日八ッ時、無常の風ニ誘わ    れて終ニはかなくなりニけり。     俗名中村哥右衛門、法名哥成院翫雀日龍信士、行年[(空白)]、浪花中寺町浄円寺葬。          辞世       如月の空を名残や飛ぶ雀              世の中の芝居を於て二の替り        哥舞のぼさつの樂やせん      〈「死絵」には〝世の中の芝居をすて二の替り歌舞のほさつの乗こみやせん〟とある〉       わざおぎの神とも人のあおぎしを         仏の数に入りてはかなし                         加茂の屋       武蔵野をしきりニ恋しきじの声          川柳       御病死の御入りと極楽へ哥右衛門       哥右衛門回向だんはな三ッ具足       金主ハ往生哥右衛門に入れ仏事〟  ☆ なかむら ぶつあん 中村 仏庵  ◯『馬琴日記』巻四 p149 天保五年(1834)七月朔日付   〝中村仏庵死去の事(中略)当午正月七日のよし。火葬にいたし候処、舎利黒白一握ほど出候よし。めづ    らしき事也。享年八十三歳なるべし。中村氏、寺ハ深川霊巌寺也。亀戸町の組屋敷に住居したり〟    ☆ なぬし 名主 某    ◯『椎の実筆』〔百花園〕⑪214(蜂屋椎園著)   〝下町の名ぬし某の辞世のうた     公事訴訟地震雷火事晦日飢饉病ひのなき国へゆく〟    ☆ なみき ごへい 並木 五瓶    ◯『名人忌辰録』上巻p40(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝並木五瓶 並木舎    並木正三門人。初五兵衛、又五平と改む。文化五年辰二月二日歿す、歳六十二。深川霊岸寺地中正覚院    に葬る。法号彩嶽院英藻。     辞世 梅はさく我はちり行くきさらぎや    (大坂道修町の産。辰岡万作の門人なりしが、又並木正三に随従し、始吾八と云ひ、追々立身して一家    をなせり。寛政六年十月、江戸都座に下り五大力の狂言に大当せり。並木と云名より思ひよせ、浅草堂    とも云へり。横店に風薬の振出しの売薬店を出せり。門人の雷次風次といへるものに預け、おのれは高    砂町に住せり。委しきことは略す)〟  ☆ なみき ごへい 並木 五瓶 二世  ◯『見ぬ世の友』巻三 東都掃墓会 明治三十三年(1900)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻1-5 35/55コマ)   〝詞林 名家辞世 其三 兼子伴雨稿       二世 並木五瓶 文政二年七月七日 深川霊巌寺々中正覚院     秋や今清しと桐の一葉ちる〟    ☆ なんこく 南谷    ◯『読老庵日礼』〔鼠璞〕中p142(老樗軒著・文化年間記)   〝僧南谷辞世    僧南谷は、石州吉里の産にして、俗姓佐々木氏、又松下氏を冒す。考を松下左衛門といふ。稚名を勝之    允。松下氏は会津侯の臣也、十一歳にして、遍照心院義洞長老に投じて薙髪す。尤の法儀のみならず、    揮毫に名あり。或人評して曰、慶元以来、此師の書物、徂徠の書を以て、二人並べ称す、此余の書は驢    鳴犬吠といふ。元文元年十月十三日に化す。行年七十四。辞世の偈      陰来則陰、晴来則晴、君家帰去、天朗月清。 夷々子辞世記〟    ☆ なんざん なかがわ 中川 南山    ◯『藤岡屋日記 第一巻』p363(藤岡屋由蔵記・文政八年(1825))   〝酉八月九日    中川由義卒、七十二、源無量南山と号し書をよくす     辞世 ぐちといふ心にこゝろまどはれて有無のわかれを今ぞ知りぬる〟    ◯『名人忌辰録』上巻p38(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝中川由儀 南山    字茂、号不騫斎、又若海。文政八年酉八月九日歿す。歳七十二。浅草唯念寺に葬る。     辞世 愚知といふ心に心まとはれて此世の別れ今ぞしりぬる〟    ☆ にっか 日可    ◯『読老庵日礼』〔鼠璞〕中p143(老樗軒著・文化年間記)   〝僧日可は、俗姓岡田氏、讃州丸亀の産、薙髪して日可と云、宣翁と号す、又竹庵、妙光寺庵等の号あり、    草山元政上人の従弟なり。草山集中に宣翁と称するは、此人なり。寛文元年六月六日遷化す。行年三十    八。竹庵遺稿一巻、世に行はる。和歌及詩、尺牘合刻也。元政上人の考訂する所也、辞世      風煙山水 是我家郷 豈離此土 別求寂光〟    ☆ ばきん きょくてい 曲亭 馬琴    ◯『増訂武江年表』2p113(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「嘉永元年(1848)」記事)   〝十一月六日、曲亭馬琴卒す(八十二歳、名解、号蓑笠、玄同、著作堂等の数号あり。始め滝沢清右衛門    と云ひ、薙髪して篁民といふ。著作の事は世の人普(アマネ)く知る所也。天保中明を失ひて後も猶著作少    なからず。小石川茗荷谷深光寺に葬す。著作堂隠誉蓑笠居士と号す。     辞世 世の中の役をのがれてもとのまゝかへすぞ雨と土の人形〟    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p262(藤岡屋由蔵・嘉永元年(1848)記)   ◇曲亭馬琴逝去   〝十一月六日    曲亭馬琴卒、八十二、名解、号蓑笠・玄同・著作堂等の数号あり、始滝沢清右衛門と云、薙髪して篁民    といふ、著作の事ハ世の人普く知る所なり、天保中明を失ひて後も、猶著作少からず。      小石川茗荷谷源光寺ニ葬。                    著作堂隠誉蓑笠居士         辞世        世の中の役をのがれてミ(も)との儘          かゑすぞ雨と土の人形〟    ☆ はつさぶろう 初三郎    ◯『藤岡屋日記 第八巻』⑧559(藤岡屋由蔵・安政六年(1859)六月記)   〝新乗物町養母殺、引廻し出ル也            新乗物町、佐兵衛店、万吉養子 初三郎 未二十三    此もの義、養母こう非道ニ致し、家業未熟之趣を、夫万吉へ度々讒言申、右を無念ニ存じ、持病之病気    差発り、去年十月四日、養母こうを出刃庖丁ニて切殺し候段、重々不届至極ニ付、引回之上、於浅草、    磔ニ行ふもの也     六月     辞世 三味線の糸より細き我命ひかれつかるゝ天のばちかは    右初三郎儀、霜月十五日、若林出火之節牢抜致し、神田白壁町親宅ニて路銀を貰ひ、出家得道し、命助    り候積りニて、紀州高野山へ赴けり〟    ☆ はるあき たやす 田安 治察    ◯『半日閑話』巻十三〔南畝〕⑪388(大田南畝・安永三年(1774)八月記)   〝八日、田安公逝去、鳴物停止七日、普請三日      御辞世のよし     朝㒵の花一時も千とせふる松の緑もおなじ寿    按、此歌駿台雑話に鈴木氏が松永氏の歌とて〽あさがほの一時も千とせふる松にかはらぬ心ともかな、    とか有、然ば偽なり〟    〈この田安公は田安家二代治察である〉    ☆ はんしろう いわい 岩井 半四郎(杜若)五代目    ◯『藤岡屋日記 第三』③167(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)   〝六月六日    岩井杜若卒、行年七十壱歳、深川寺町法苑山浄心寺ニ葬。     法号、天慈永久日受信士    老木の花の色うすくて、其つとめもなりがたけれど、諸君の御めぐミをちからニ有しが、常なき風ニさ    そはれて、      辞世 御ひいきをちからにもちしかきつばた     (以下、団十郎、歌右衛門等の追善手向句あり、省略)〟    ☆ はんしろう いわい 岩井 半四郎(紫若)七代目    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p510(藤岡屋由蔵・弘化二年(1845)記)   ◇岩井半四郎逝去    〝弘化二乙巳年四月朔日    七代目岩井半四郎紫若卒、四十二歳    瓔晃歓喜紫若日馨信士  深川浄心寺      ぬぎ捨て今日ぞ小袖の別れなか〟    ☆ ひでよし とよとみ 豊臣 秀吉    ◯『半日閑話』巻二十二〔南畝〕⑪650(大田南畝・寛政八年(1796)記)   〝太閤秀吉一首の事    秀吉公聚楽城にして如何思ひ玉ひけん、一首の歌を詠じ玉ふ      露とをき露ときへぬる我身かな難波の事は夢の世の中    自筆にされて幸蔵主を召て預置との儀なり。年経て慶長三年八月十七日幸蔵主を召て先年預け置し歌や    ある、持参れと仰らる。蔵主頓て奉りければ、年号月日諱を書せ玉ひ、華押をば書せ玉ひ、今は叶はじ    と其儘置せまし/\けるが、翌日薨じ玉ふ。後世是を太閤御辞世とて、木下家に伝納らる。今木下肥後    守豊臣公定の家にあり〟       ☆ ひらばやし あつのぶ 平林 惇信    ◯『玉川砂利』〔南畝〕⑨292(大田南畝・文化六年(1809年二月記)   〝平林惇信翁 終に臨て筆をとり、家のふすまにむかひて、峨眉山月半輪秋、影入平羗江水流と書さして、    俯して息絶しとなん、その流に字に墨しみて、一しほ見事なりと、耆山和尚の話〟    ☆ ひらやま しりゅう 平山 子龍    ◯『零砕雑筆』三〔続大成〕④297(中根香亭著・明治以降記)   〝終焉作  平山潜     忽爾降来游他界 俄然陟去応天召 上書北闕論擒戎 撫剣南洋将検標     落々数奇名益高 囂々不遇策弥妙 生涯六十有余年 今日附之一大笑    子龍は文政十一年十二月二十四日を以て没したるが、此の詩は其一日前の作なりといふ〟  ☆ ひろまる あまの 天 広丸  ◯『見ぬ世の友』巻二 東都掃墓会 明治三十三年(1900)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻1-5 26/55コマ)   〝詞林 名家辞世 其二 絵馬屋額輔稿       天広丸 文化六年三月廿八日 麻布 善学寺     こゝろあらば手向てくれよ酒と水銭のある人銭のなき人〟    ☆ ふはく かわかみ 川上 不白    ◯『名人忌辰録』上巻p23(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝川上不白    如心斎門人、号孤峯、又円頓斎、蓮花菴とも云ふ。尤茶技に秀づ。文化四卯年十月四日歿す、歳九十三。    谷中安立寺に葬る。     辞世 借用申地水火風、返上申今月今日、妙々が妙なる法に生れ来て、又妙々が妙に死にゆく〟    ☆ ふるき しだんろう 紫檀楼 古喜    ◯『名人忌辰録』下巻p30(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝紫檀楼古善(ママ)    本姓藤島氏、始紫檀楼古木と云ひ、剃髪して古喜と改む。天保三辰年十月八日歿す、歳六十六。深川亀    島町玄信寺に葬る。法名紫檀楼紫迎浄雲居士。     辞世 六道の辻駕籠に身はのりの道念ぶつ申して極楽へ行く    〈紫檀楼古喜は落語家〉    ☆ ぶんきょう はながさ 花笠 文京    ◯『名人忌辰録』上巻p8(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝花笠魯助 文京    本姓東條氏、琴台の実兄にて、号鈍亭、豊島新造と称す、戯作者なり。万延元申年三月二日歿す、歳七    十六。深川霊巌寺地中に葬る。法号魯鈍齢筆。     辞世 山の端にしら雪と見し花は根にかへりし後のはるの古さと〟    ☆ ぼううん はくりかん 白鯉館 卯雲    ◯『徳和哥後万載集』〔江戸狂歌・第二巻〕四方山人(赤良)編・天明五年(1785)刊   〝辞世  白鯉館卯雲      食へばへるねぶればさむる世中にちとめづらしく死ぬもなぐさみ〟    ☆ ほりきゅう 彫久    ◯『寐ものがたり』〔続大成〕⑪78(鼠渓著・安政三年(1856)序)   〝いとおしや狂句の友たりし彫久も没去(ミマカ)りぬ【安政五年夏より秋にかけてころりといふ病はやる】      辞世 秋寒にきへるわか身は空蝉のおしゐ/\といふも迷か 象工庵    また         糸瓜も死水とりてある月見頃    この病気にて五代目川柳も死し、座禅堂三箱も死し、あら玉も死す    川柳もころり達磨もあら玉もころり/\となき人の数    (彫久、狂句師、西久保青松寺門前、家主・河内屋久七、象牙細工の妙手なり)〟    ☆ まがお しかつべの 鹿津部 真顔    △『戯作者撰集』p89(石塚豊芥子編・天保末頃~弘化初年成立、後、嘉永期まで加筆)   〝恋川好町    恋川春町門人也。数寄屋河岸に居住す。故に春町にならひて屋の字を除き如斯号せり。俳諧歌の宗匠た    り。狂歌堂と号す。寛政年中、鹿杖山人と云て、青本の作あり。初めの狂名、鹿津部真顔と号し、後に    師四方赤良より四方の号を譲られ四方歌垣と俳諧狂歌の名人なり。又茶番を好みて、乗物を段かへし仕    ふ事は此翁より始るといへり。此連中にては好屋翁といへり。俗称を小川嘉兵衛と云、町役人にて汁子    餅【今すきやがし/くじら汁家也】を鬻て業とす。後、此の商家を廃せり。    文政十一年五月、二条家より宗匠号を免許せられ、并、折烏帽子葛袴を玉はる。    文政十二年乙巳六月六日、病て没ぬ、時に、七十七歳。小石川三藐坂極楽水上光円寺に葬る。     法号 俳諧歌場寿誉福阿真顔     辞世 味く喰ひ暖かく着て何不足七十なゝつ南無阿弥陀仏〟    ☆ まぐさおう うめのや 梅の屋 秣翁    ◯『増訂武江年表』2p201(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「慶応元年(1865)」記事)   〝正月十一日、狂歌師梅の屋秣翁死す(六十二歳、称吉田佐吉、一号鶴寿、神田佐久間町住。    辞世 爪づくがさいご此の世の暇乞ひま行駒の送り狼〟    ☆ またろく 又六    ◯『一話一言』巻1〔南畝〕⑫66(大田南畝・明和八年(1771)記)   〝京の又六辞世     われ死なば備前の国の土となせもしも徳利にならば極楽〟    ☆ まつもと よねぞう 松本 米三    ◯『街談文々集要』p53(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (「文化二(1805)年」記事「松本米三死絵」)   〝文化二乙丑年六月十一日、松本よね三死去〔添え書き「実子松本八十八」〕【俳名文車、家名松鶴屋、    松本小次郎養子、実ハ四代目吉沢あや子】    法号 浄誉取妙文車居士【行年廿八才、深川本誓寺乗性院】    一陽主人の画庵を訪ふに、文車の追善の為にとて、この肖像を写す、予そのかたハらにありて、そが辞    世の発句をかいつくる事になん。      まハりあいがけふは無常の風車      文車    或人の需に応じて            曲亭馬琴〟    〈「一陽主人」とは歌川豊国初代か。その豊国画く初代松本米三の肖像を見ながら、曲亭馬琴が文車に替わって辞世を     詠じ「死絵」を制作したのであろう〉    ☆ むすめ 娘    ◯『諸家随筆集』〔鼠璞〕上108(茶町子随筆)   〝天明三卯年八月のさた、丹波国小野賀村吉左衞門娘【きよ、十六歳】病死之節、       湯かん無用      妄執の心の水は清けれどいづれの水に身をや清めん       経かたびら無用      生れきて身にはひとへも著ざりけりうき世の垢をぬぎて来ぬれば       引導無用      死ぬる身に教なくてもまよふまじ来りし道を直に帰れば  ☆ むらたけ まどの 窓 村竹  ◯『見ぬ世の友』巻二 東都掃墓会 明治三十三年(1900)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻1-5 26/55コマ)   〝詞林 名家辞世 其二 絵馬屋額輔稿       窓村竹 文政七年十一月廿二日 青山智学院     詩も奇も達者の内によんでおけとても辞世は出来ぬ死際〟    ☆ めしもり やどやの 宿屋 飯盛    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p428(藤岡屋由蔵・文政十三年(1830))   〝閏三月廿四日    狂歌師六樹園卒 七十八    石川氏 名雅望と号す、国学に長ず、男を塵外楼清澄といふ、共に狂歌をよくす、父に先達て終れり       せんくつに昔の人は入替りひとつの月をのぞきからくり  飯盛      蛤に口をしつかとはさまれて鴫立かねし秋の夕ぐれ    同〟    ☆ もくあみ もとの 元 木阿弥    ◯『名人忌辰録』下巻p34(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝元ノ木網 珠阿弥    名政雄、通称金子喜三郎、武州松山の人、狂歌師として知られる。文化八未年六月廿八日歿す、歳八十    一。深川正覚寺に葬る。(寛政三亥年五月廿一日、六十一才の時、木阿弥発心して遊行上人の弟子とな    り、珠阿弥と改む。此時、上人「願ひえて御のりの道にけふいりてさぞな心も墨染の袖」珠阿弥「願ひ    えて心もけふはすみそめの袖もなみだも身にぞあまれる」蜀山の筆記に、木網はよき男にして、すみを    ぬきたるあとあり。常に居士衣を着し紫の服紗につゝみし物を背負ひてあるきけり。其頃、本芝弐丁目    に三河屋半兵衛といへる本屋、剃髪して歯を黒く染め青き道服を着たり。色黒くふとりたる男なり。狂    名を浜辺の黒人と呼ぶ。人皆歯までの黒人とあだ名せり。此人狂歌の点をして半紙に摺て出す。板料を    取るを入花といへり。【今の狂歌の点料を入花といふはじめなり】)時の人、木網は兼好を一へん湯が    きたるやうなり、黒人は文覚を油揚にしたるが如しといへり云々。木網、水神の森にてかしらをおろし    ける時、「けふよりは衣を染つ角田川流れ渡りの世をわたらばや」折ふし時鳥の声を聞て「我年もほと    ゝぎ過ぬさらばとててつへんかけて剃こぼつなり」因に云、木網妻俗名みちと云、狂名智恵の内子【文    化四年五月十八日歿】     辞世 六十あまり見はてぬ夢のさむるかと思ふもうつゝ暁の空〟    ☆ もりかた なますの 奈万須 盛方    ◯『半日閑話』巻四〔南畝〕⑪145(大田南畝・寛政三年(1774)記)   〝辞世      奈万須盛方【馬喰町/京屋弥一】     仮の宿てとまごひしてけさははや死出の旅路にたつ馬喰町〟    ☆ もりたけ あらきだ 荒木田 守武
   ◯『読老庵日礼』〔鼠璞〕中p138(老樗軒著・文化年間記)   〝荒木田守武霊社并墓    守武霊社は勢州宇治にあり、宝暦中、千賀金吾太夫、名良珍、俳号土麿と云人、建立する所なり。又守    武の墓は宇治の山に在り、其形五輪なり、余甲戌夏勢遊の砌、拝掃す。守武は天文十八年八月八日卒す。    時世和歌、発句      あさがほにけふも見ゆらんわが世かな      神路山わが来しかたも行末も峯の松風/\     此字青苔にて読めがたし、漸苔剥落して鮮かなる事を得たり〟     〈甲戌は文化十一年〉    ☆ やおや はんべえ 八百屋 半兵衛    ◯『万歳狂歌集』「哀傷歌」〔江戸狂歌・第一巻〕四方赤良・朱楽菅江編・天明三年(1783)刊   〝辞世 八百屋半兵衛      はる/\と浜松風にもまれきて涙にしつむざゝんざの声        おちよ      いにしへをすてはや義理も思ふまじくちてもきえぬ名こそおしけれ    此うた青梅つはりざかりといへる浄瑠璃の本に見えたり〟    ☆ やだ けいさい 矢田 蕙哉    ◯『零砕雑筆』〔続大成〕④209(中根香亭著・成立年未詳)   「蕙哉辞世」   〝向島百花園の中近き頃、鷺流狂言師の矢田蕙哉が辞世の句を石にゑりて立てたり。句がらおもしろし      時世 花暮れぬ我も帰りを急がうずる    ☆ やまおか まつあけ 山岡 俊明    ◯『一話一言』巻五〔南畝〕⑫209(大田南畝記・安永九年(1780)記)   〝山岡明阿    山岡俊明〔傍注初名浚明〕隠居して明阿弥陀仏と呼ぶ、狂名を大蔵千文と称す、安永九年庚子微行して    京都に遊び病死す。時に十月十五日也。江州三井寺は山岡氏の祖道阿弥の墳寺なり。よりて道阿弥の墓    の側に葬るといふ。明阿博学にして尤和文をよくす。所著多し。      (中略)      辞世 もゝとせのなかばも何のうつゝかは思へば蝶の夢さへもなし     寺ハ麻布藪下竜沢寺。梅橋院子亮俊明居士 安永九年庚子冬十月十九日〟    〈『仮名世説』⑩528 にも辞世等、山岡俊明の挿話あり〉    ☆ ゆうじょ 遊女    ◯『椎の実筆』〔百花苑〕⑪156(蜂屋椎園記)   〝新吉原京町俵屋の妓吉野がよめる      きのふけふと思はざりしもはづかしや風に結べる露の此身を    〈年代不明〉    ☆ よふね しらかわ 白川 与布祢    ◯『狂言鶯蛙集』〔江戸狂歌・第二巻〕朱楽漢江編・天明五年(1785)刊   〝辞世の哥とてかねてよみ置侍る  白川与布祢      死ぬまでは人は御世話をかけまくも夫れから先は南無あみだ仏〟  ☆ よねもり はなさきあん 花咲庵 米守  ◯『見ぬ世の友』巻二 東都掃墓会 明治三十三年(1900)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻1-5 26/55コマ)   〝詞林 名家辞世 其二 絵馬屋額輔稿       花咲庵米守 嘉永元年六月十五日 本所 大法寺     子のために苦労する親おやの為苦労する子にいまぞ別るゝ〟    ☆ らいざん こにし 小西 来山    ◯『浪華百事談』〔新燕石〕②267(著者未詳・明治二十五~八年頃記)   〝来山は小西氏、十万堂又湛々翁といふ、俳諧師、泉州堺の人、前川由平の門人、浪花に住す、後ち事故    ありて、浪花の南今宮村に幽栖す、人と為り曠達不拘、ひとへに酒を好む、享保年中に歿す、談林風中    興の開山にて、無類の達人といふ、(以下『近世畸人伝』の挿話記事あり、略)>     辞世 来山は生まれたとがで死ぬるなり夫で恨も何もかもなし〟     ☆ らいじ 来示    ◯『万歳狂歌集』「哀傷歌」〔江戸狂歌・第一巻〕四方赤良・朱楽菅江編・天明三年(1783)刊   〝辞世  来示      あなきたな今はみなみのひがしれて西より外ににげ所なし〟    ☆ らげつあん 蘿月庵    ◯『零砕雑筆』〔続大成〕④209(中根香亭著・成立年未詳)   〝山本権兵衛名は義敬、和歌は斎藤彦麻呂の門人なるが、俳譜を好み蘿月庵銀谷、又は一畝園梅守と号す。    身分は千駄木の鷹匠なり。俳諧或問珍は予が秘蔵の書なるが、此の人の写し置きたるなり。歿年は明か    ならざれども、其の辞世の句は左の如し。      月花に迦久伎破れし紙子哉 【伎もじ疑はし、或は波にてもあらんか】    ☆ ろく 六    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩193(塵哉翁著・嘉永五年(1852)記事)   〝非人辞世    嘉永いつゝのとし文月半、下谷広小路に、四明堂とかやよべる卜者(ボクシヤ)あり、夫が床店(ミセ)の際に、    日を贈りぬる乞食(コツジキ)ありて、名を六と呼、夜は其床の内に寝て朝またきに起出て、店を開らき掃    除して、卜者の来るを待、夜に入店仕舞頃、又朝のごとくに取片付、しかして後に来り臥(フス)事、日々    夜々前の如し、卜者も馴(ナレ)て目をかけしに、或日店のひらかざれば、卜者来りて開きみるに、いつし    か六は絶(タヘ)入て、傍らにめんつう一つあり、其器の裏に一詩を書(カケ)り、      一鉢千家の飯        孤身幾度の秋       空しからざれば還た食はず  楽しみ無ければ亦た憂ひ無し      日々暖かし堤頭の草     風涼し橋下の流      人如(モ)し此の六に問はゞ   明月水中に浮く(がごとしと答へん)〟    ☆ ろこう せがわ 瀬川 路孝 四代    ◯『街談文々集要』(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   〝文化九年壬申十一月廿九日、四代目瀬川路考死去、生年卅一才、法号、循定院環誉光阿禅昇居士    【初中村千之助ト云、桐座若太夫、後瀬川菊之助、後ニ路之助、夫より路考】    同十二月八日、四代目沢村訥子死去、生年二十九才、法号、善覚院達誉了玄居士    【初メ沢村源之助三代目訥子実子】    路考、寺ハ本所押上大雲寺、宗十郎ハ浅草誓願寺にて、両人葬礼の見物大群集、僅ニ十日の日隔て、西    方極楽浄土に赴く、追善の錦絵一枚摺・二枚続、江戸諸名家の書入【狂文狂歌】数多出板す、当時娘・    女中連ひゐき多き両人の事故、大にしきを求めんと絵屋の前押号/\、市の如し、其外三芝居惣役者、    手向追善の発句を売歩行、往還ニかまびすし、亦宗十郎・路孝の辞世の句     寒ぎくに一霜つらきあした哉 路考     雪道や跡へ引るゝ逆わらじ  訥子     (追善の戯作として式亭三馬作『地獄極楽道中記』の序を引く。略)〟
   「瀬川路考」「沢村宗十郎」(死絵)豊国画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)  ☆ わたる まつりの 祭の和樽  ◯『見ぬ世の友』巻十四 東都掃墓会 明治三十四年(1900)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻14-21 6/76コマ)   〝詞林 名家辞世 其五 山口豊山       祭の和樽 天保十一年十月廿日 浅草報恩寺     養生も相叶はずと書かけてそのまゝ顔におし当てなく    ☆ わぶん 倭文    ◯『読老庵日礼』〔鼠璞〕中p138(老樗軒著・文化年間記)   〝倭文は、江戸京橋弓町伊勢屋平右衛門の女也。幼少より加茂真淵に従遊して業を受く、尤和歌及び文辞    に工なり。宝暦二年七月十八日没す、行年二十歳。深川本誓寺に葬る。辞世の詠あり、     比登乃与爾左幾太都古登乃奈加里世婆伎里乃比登播毛千羅受也安羅魔思〟     (ひとのよにさきだつことのなかりせばきりのひとはもちらずやあらまし)