Top 『明治東京逸聞史』 浮世絵文献資料館
や行 明治東京逸聞史
☆ ゆいち たかはし 高橋 由一
◯「油絵」明治九年(1876) ①p44
〝油絵〈東京日日新聞九・三・二七〉
「矢の倉不動の境内にある油絵の縦覧所へ、高橋由一さんの描いた提灯に釣鐘の大油絵を出したが、実
に近来の名画だと申します。見て来た人の話に、釣鐘の色合ひといひ、提灯の煤けたところの様子など、
いかにも本物がそこにあるようだとのこと。」
本物そっくりに描けば、それが油絵の名画だということになっていたらしい〟
☆ ゆめじ たけひさ 竹久 夢二
◯「夢二画集」明治四十三年(1910) ②p341
〝「夢二画集」〈方寸四三・二〉
石井柏亭が「夢二画集」の「春の巻」「夏の巻」の批評をしている。
「小杉氏の『漫画一年』以来、棄てられた版木に二度の勤めをさせて、かような画集が作られるやうに
なったのは、悪いことではないが、もう少し画を厳選して、印刷を注意して貰ひたい。」
柏亭はそうした希望を述べ、ついで、「夢二氏の画には、田舎から東京へ来てゐる人の普遍的な感情
が公表されてゐるところから、東京に生れて、親の傍らで育った男達と違って、下宿生活してゐる男女
学生に、夢二氏の画が流行するのであらう」といい、「線形など、その技術に至っては、自由といふよ
りも、素人臭くて、幼稚で、且つ蕪雑だといふことが当て嵌まる」と評している。
初期の夢二の画の多分に素人臭い一事は、どのような夢二贔屓の人々も認めざるを得ないだろう。し
かしその後ずんずんよくなったところに、夢二その人があった〟
◯「夢二画集(一)」明治四十四年(1911) ②p374
〝「夢二画集」(一)〈方寸四四・一〉
「夢二画集」の「秋の巻」と「冬の巻」とが評してある。筆者はやはり柏亭であろう。前回同様の丁寧
な批評で、素人画として出発した君は甘い。けれども君は、強い憧憬の情を有する。それでその作品に
は、一種の匂いがある。今までのと較べるとこの二冊には、自然の匂いの強くなっていることを認める。
──評者はそして最後に、「夢二画集は一種の詩情に生きてゐる」としている〟
◯「夢二の絵(二)」明治四十四年(1911) ②p390
〝夢二の絵(二) 〈現代画集(春陽堂編)〉
この年四月に版になった「現代画集」というものの後に、鏑木清方の「小説の挿絵」という談話筆記
が出ているが、その中で清方は、竹久夢二の挿絵を忍めて、独創性のあるのがいい。夢二をまねて、夢
二よりも絵の上手な人はあるけれども、独創的な趣味に於て、遠く夢二に及ばない、といっているのは
さすがだ。夢二の絵を早く認めた人として、清方も挙げられることになる〟
☆ よしいく おちあい 落合 芳幾
◯「しゃれ会」明治二十六年(1893) ①p255
〝しゃれ会 〈東京朝日新聞二六・一〇・二六〉
伊藤専三が会主となり、来月十二日午後一時から、恐れ入谷の鬼子母神こと真源寺の本堂で、しゃれ
会を催す。兼題は、「恐れ入谷の鬼子母神」「どうで有馬の水天宮」「しやれの内のお祖師様」で、当
日すぐに披講して、秀逸の部は額面に記して、鬼子母神の宝前に掲げる。判者は幸堂得知、落合芳幾、
南新二の三人で、当日は落語その他の余興もある。会費一名各五十銭、酒飯が出る。──かようなのん
きな催しをする記事が出ている〟
☆ よしかげ うたがわ 歌川 芳景
◯「滑稽堂」明治三十九年(1906) ②p201
〝滑稽堂 〈太平洋三九・一・一五〉
(上略)
第三回内国勧業博覧会が上野で開かれた時、芳年は「市原野」の保昌と袴垂との絹地に画いて、好評
を得た。滑稽堂では、更にそれを錦絵にして売出した。計画はまんまと当って、その錦絵がまた評判と
なって売れた。それを見た森田勘弥が、その「市原野」を浄瑠璃にし、団十郎の保昌に、菊五郎の袴垂
で上演した。その時滑稽堂では、新富座へ引幕二張を贈った。その二張の一つには、門人の芳宗、芳景
の二人が、袴垂と保昌とを画いた。そこでまたこれが滑稽堂の宣伝となった。
芳年の代表作の「月百姿」も滑稽堂の版で、昔から名所百景などというものはあったけれども、実際
には百枚は揃わなかったのに、滑稽堂では、「月百姿」の百枚を完成させることに骨を折り、芳年が好
んだ弁松の桶弁当を、主人自身で毎日芳年の家へ持参して督促し、やっとのことで、百枚を纏めた。と
はいうものの最後に残った二三枚は、芳年が精神的に罹ったために、彩色の出来ていなかったのを、門
人の年方に図り、年方が代ってそのことに当って、ついにこれを完成した。そこまで漕ぎつける主人の
苦心は、容易なことではなかったので、芳年の歿後には、更にその建碑のことその他に就いても、よく
世話をした。
「月百姿」が芳年の作品たることはいうまでもないが、その背後には滑稽堂の主人があり、更に主人の
背後には、その師で博覧強記の人だった桂花園桂花がいて案を授けたのだった。芳年一人の力で、「月
百姿」の百番が成ったのではない〟
☆ よしとし つきおか 月岡 芳年
◯「滑稽堂」明治三十九年(1906) ②p201
〝滑稽堂〈太平洋三九・一・一五〉
同じく「東京一の絵双紙屋」と題して、室町の滑稽堂のことが書いてある。
先生の滑稽堂五笑は、俳諧を善くした。伝来の呉服商をやめ、絵双紙に転じて、錦絵の出版を始めた。
そして衰退期にあった錦絵の復興に力を尽した。月岡芳年などは、この滑稽堂の薬籠中の人となって、
専心版下を画いた。
当時の画料は、三番続きで五円だったのを、十円与えた。それで芳年は、滑稽堂の版下といえば、全
力を挙げてかかった。
第三回内国勧業博覧会が上野で開かれた時、芳年は「市原野」の保昌と袴垂との絹地に画いて、好評
を得た。滑稽堂では、更にそれを錦絵にして売出した。計画はまんまと当って、その錦絵がまた評判と
なって売れた。それを見た森田勘弥が、その「市原野」を浄瑠璃にし、団十郎の保昌に、菊五郎の袴垂
で上演した。その時滑稽堂では、新富座へ引幕二張を贈った。その二張の一つには、門人の芳宗、芳景
の二人が、袴垂と保昌とを画いた。そこでまたこれが滑稽堂の宣伝となった。
芳年の代表作の「月百姿」も滑稽堂の版で、昔から名所百景などというものはあったけれども、実際
には百枚は揃わなかったのに、滑稽堂では、「月百姿」の百枚を完成させることに骨を折り、芳年が好
んだ弁松の桶弁当を、主人自身で毎日芳年の家へ持参して督促し、やっとのことで、百枚を纏めた。と
はいうものの最後に残った二三枚は、芳年が精神的に罹ったために、彩色の出来ていなかったのを、門
人の年方に図り、年方が代ってそのことに当って、ついにこれを完成した。そこまで漕ぎつける主人の
苦心は、容易なことではなかったので、芳年の歿後には、更にその建碑のことその他に就いても、よく
世話をした。
「月百姿」が芳年の作品たることはいうまでもないが、その背後には滑稽堂の主人があり、更に主人の
背後には、その師で博覧強記の人だった桂花園桂花がいて案を授けたのだった。芳年一人の力で、「月
百姿」の百番が成ったのではない〟
☆ よしまつ ごせだ 五姓田 義松
◯「義松の油絵」明治十五年年(1883) ①p102
〝義松の油絵〈明治奇人伝(岡大次郎編)〉
五姓田芳柳の子の義松は、油絵を父に学び、横浜在住の英人ワグマンにも就いた。十八の歳に内務省
の画図掛を拝命したが、出頭した第一日からいやになって、即日辞してしまった。明治十三年の夏、ド
イツに渡って、いよいよ研鑽するところがあり、技では出藍の誉ありとせられる。
奇人伝の「五姓田義松」の項に、かようにある。義松とその作品に就いては、石井柏亭著「日本絵画
三代志」中にも記すところがある〟
☆ よしむね うたがわ 歌川 芳宗 二代
◯「滑稽堂」明治三十九年(1906) ②p201
〝滑稽堂 〈太平洋三九・一・一五〉
(上略)
第三回内国勧業博覧会が上野で開かれた時、芳年は「市原野」の保昌と袴垂との絹地に画いて、好評
を得た。滑稽堂では、更にそれを錦絵にして売出した。計画はまんまと当って、その錦絵がまた評判と
なって売れた。それを見た森田勘弥が、その「市原野」を浄瑠璃にし、団十郎の保昌に、菊五郎の袴垂
で上演した。その時滑稽堂では、新富座へ引幕二張を贈った。その二張の一つには、門人の芳宗、芳景
の二人が、袴垂と保昌とを画いた。そこでまたこれが滑稽堂の宣伝となった。(後略)〟
☆ よしわらさいけん 吉原細見
◯「吉原細見」明治二十七年(1884) ①p259
〝吉原細見〈東京朝日新聞二七・四・二五〉
「改まりました吉原細見、これが発行所は仲之町の広瀬源之助」
かような短い記事が出ている。旧幕時代から引続いて、吉原の細見というものが、まだ出て居り、新
聞ではそれに紹介の労を取っている〟