Top         『明治東京逸聞史』         浮世絵文献資料館
                      さ行              明治東京逸聞史    ☆ さいごうせい 西郷星  ◯「西郷星」明治十年(1877) ①p52     〝西郷星(三)〈日本その日/\(モース著)〉     西南役には、多くの錦絵が作られて、絵草紙屋の店頭を飾った。モースは、道行く人々と共に立止っ    て、それらの錦絵を見た。そして西郷隆盛は、反逆した大将であるのに、日本人は皆彼を敬慕している    といい、彼れは他の士官と共にハラキリをしたのに、昨今特別に強い光を放っている火星の中に、彼れ    がいると信ずる〟    ☆ しこう いまむら 今村 紫紅  ◯「文部省展覧会」大正元年(1912) ②p435   〝文部省展覧会 〈太陽大正元・一二〉     十月十三日に、魯庵は文部省展覧会を見て、その感想を述べている。    「第一科、第二科を通じて、横山大観氏の『瀟湘八景』が、嶄然として抽んでてゐた。氏の将来はます    ます大きさうだ。この画をせめて二三週間座右に置いて、毎日眺めて見たい。いやになつていまふか、    ますます感服して来るか、横山君の画は、実に研究ものだ。」    「今村紫紅氏の『近江八景』は、頗る面白く思つた。これが日本画のポスト・アンプレッショニストで    あらう。余の如き貧乏人が(貸してくれる人があつたら)、借金して買ひたくなつたのは、この中の二    三枚であつた。今村紫紅といふ人は、どういふ人か。実はこれまで知らなかつたが、新しい話の分る人    らしい。」〟    ☆ しずかた おおの 大野 静方  ◯「後記」②p447(森銑三「後記」昭和四十四年六月)   〝 大野静方さんは、「日本及日本人」の表紙画、裏絵その他を何十年にも亘って、一人で描きつづけた    画家であるが、その大野さんが或時、「日本及日本人」が来ると、埋草の六号記事だけを読みますと、    同誌の記者にいわれたという。それを聞いて、私は思わず噴(フキ)出した。     主要記事は措いて問わず、頁の余白を埋める六号活字の短文だけを見るなどというは、編輯者にとっ    て、おおよそ頼りない読者といわなくてはなるまい。しかし「日本及日本人」の埋草そのものを考える    と、一概に大野さんは笑われない。同誌の埋草の作製には三田村鳶魚翁が当り、山中共古、林若樹、三    村竹清などの歴々が、手稿を寄せてそれを助け、更に南方熊楠などという特異の学者も、随時に中間入    りをせられた。だからそれらの埋草は、他誌には見られぬ異色のあるものだったのであり、「日本及日    本人」の埋草は、同誌の特色の一つを成していたと、はっきりいうことが出来る。主要記事を無視した    というのはとにかくとして、その埋草の記事を喜んだ大野さんには、大野さん独自の読み方があったと    いってもいい〟    ☆ しゃしんせいはん 写真製版  ◯「小川写真製版所」明治三十四年(1901) ②p68   〝小川写真製版所〈東京名物志(松本道別著)〉     小川写真製版所は、写真の撮影と、製版と、印刷との三つを兼ねて、技術に於て群を抜いている。殊    にその製版は、実に東洋での鼻祖であり、わが国の印刷界に一大革新をもたらし、その銅版に依って、    出版物は面目を一新するに至った。そして小川氏は昂然として斯界に雄視して居り、人はその価格の貴    いことをいわずして、ただその技術の優秀を称する。     小川一真は、もと武州忍の藩士だったのであるが、アメリカに渡って写真術を研鑽したので、しばし    ば宮中にも出入して、皇族方の撮影もしているし、宮内省の命に依り、宝物取調委員に随行して、全国    諸寺社の宝物を撮影した。美術雑誌「国華」にもまた関係した。明治二十七年以後、京橋日吉町に写真    製版所を開き、写真銅版を始めて今日に至っている〟    ☆ しゃらく 写楽  ◯「写楽の錦絵」明治三十四年(1901) ②p32   〝写楽の錦絵〈読売新聞三四・二・一五〉     居外閑人こと飯島虚心が「写楽の雲母絵(キラエ)」という一文を寄せている。     日本の錦絵も、西洋人が欲しがるのは主として美人画で、役者の似顔絵の方は気がなかったのである    が、写楽だけは例外で、争うて購うものだから、以前は一二円だったその絵が、今では十四五円にもな    って居り、それでも入手が困難とせられる、などとしてある。ドイツ人のクルトが写楽の最初の発見者    だったのではない。写楽の錦絵は、それ以前から値が出ていたのである。     なお局外閑人は、亡友楢崎海運氏が、嘗て五世白猿の似顔を画いた狂歌の摺物を蔵したことなどをも    書いている。写楽にも、錦絵以外に、そうしたものなどもあったのである〟  ◯「写楽」明治四十三年(1910) ②p368   〝『写楽』〈浮世絵辞典(吉田暎二著)〉     この年、ドイツ人クルトの著「写楽」が刊行せられて、写楽役者絵という、本国の日本でもその芸術    的の価値を認めずにいたものの真価を教えられることとなった。日本で写楽を騒ぐようになったのは、    その後のことで、われわれ日本人としては、恥ずかしい次第であるが、事実は事実として、われわれは    クルトに感謝するところがあって然るべきであろう。寛政の浮世絵師写楽は、降って明治時代に、知己    を欧人に得た〟    ☆ しょうえん さかきばら 榊原 蕉園  ◯「催促髷」明治四十二年(1909) ②p326   〝催促髷〈読売新聞四二・一二・八〉    「催促髷」という新しい言葉が、今閨秀画家の間にはやっている。その起りは榊原蕉園女史で、女史が    島田髷に結ったのをおばさん達が見て、ゆうちゃんの催促髷といったのが始めだという。    「文壇はなしのたね」に、かように見えている〟    ☆ せいこ おくはら 奥原 晴湖  ◯「女の男装」明治三年(1870) ①p14   〝女の男装 〈時事新報四〇・三・一〉     跡見花蹊は、明治三年に、京都から東京へ出て来たのであるが、当時の東京は人の心が殺伐で、美術    品などは顧る人がない。家に伝えた貴重な品々が、大道の蓙の上で、捨売りにされているという有様だ    った。奥原晴湖は、女流画家として名があったが、その風采はというと、刈切りの頭に三尺帯を締め、    その女の弟子までが、皆先生と同じような恰好でいる。それで客にも接するし、絵も画くという風で、    東京市中にも、女らしい女などは、まことに少かったのでした。──花蹊は、「明治初年の女生徒」と    いう題で、かように語っている〟    ☆ せきはんが 石版画  ◯「石版画」明治二十二年(1889) ①p169   〝石版画〈女学雑誌二二・一二・七〉    「絵草紙屋の変遷」という一文を、他雑誌から転載している中に、近来絵草紙の店頭の様子を見ると、    従前とは打って変って、出してあるものの過半は石版画となっている。そして錦絵よりも、この方がよ    く売れて、売れ高の四分の三は、石版画が占めている、云々としてある。江戸時代から人々を喜ばした    錦絵も、石版画に株を奪われようとしていた〟    ☆ ぜしん しばた 柴田 是真  ◯「文録堂」明治三十四年(1901) ②p66   〝文禄堂〈東京名物誌(松本道別著)〉     文禄堂の主人堀野文禄は、京の藁兵衛の名で知られる滑稽文学者であるが、その人が一昨年から出版    業を始め、意匠に体裁に工夫を凝らし、用紙から印刷まで、五分の隙もない、灰汁抜けした本を出して、    「団々珍聞」をして、「凝り屋の総本家」と呼ばしめるに至った。文禄堂の処女出版は「滑稽類纂」で、    それが大いに好評を博した。それについて堀野氏は、「日本五大噺」を版にした。これは馬琴の戯作を    作り替え、桃太郎、花咲爺、舌切雀、猿蟹合戦、かちかち山の五つの話を打ってまろめて一つの話とし    た面白いもので、表装にも、口絵にも、挿絵にも善美が尽してある。     堀野氏が昔話に熱心なことは全くの予想外で、その店は昔話風の装飾で充たしてある。格子戸を開け    て入ると、店の正面には是真が丹青を凝らした桃太郎の絵が掲げてある。月耕その他の昔話の絵の貼交    ぜがあり、それが額にもなっている。左方の楣間に、抱一の筆の「昔噺亭」とした額がある。氏はその    間に在って筆を執り、牙籌にも携わっている。──     こうした特色のある書肆も、十年と続かないで閉店するに至ったのが惜しい。道楽の勝ち過ぎていた    のが禍したのかも知れない。    「滑稽類纂」「日本五大噺」とは、共に堀野文禄その人の編著で、今見てもなつかしい書物となってい    る。その他文禄堂の出版物には、この店一流の凝り方が、それぞれにあって、一つ一つが楽しい書物に    なっているのに感心する〟