Top         『明治東京逸聞史』         浮世絵文献資料館
                      は行              明治東京逸聞史    ☆ はいばら 榛原    ◯「榛原」明治三十四年(1901) ②p67   〝榛原〈東京名物志(松本道別著)〉    「東京名物志」の文房具の部には、榛原をその一項として取上げ、同店の販売品目二十余種を載せてい    るが、その中に「美術絵葉書」とあるのが注目せられる。三十四年には、絵葉書の流行は、まだその初    期だったのであるが、早くも榛原では、「美術絵葉書」というを発売している。     この絵葉書は、前項の文禄堂でも、また発行している〟    ☆ はくてい いしい 石井 柏亭    ◯「柏亭のスケッチ」明治四十一年(1908) ②p294   〝柏亭のスケッチ〈読売新聞四一・一〇・二〉     石井柏亭が、「従吾所見」と題して、スケッチを連載している中に、今見てもいいのがある。縁日に    店を出すかみさんや、和装で束髪の頭をしたビヤホールの娘などが画かれている。「パナマ洗ひ」と題    して、洗った帽子の干してあるのを画いたのなど、この人らしい詩情がある。「淋しき停車場」では、    待合のベンチに郵便配達が一人かけて、カバンの中から葉書を二三取出して、点検している。「よゝぎ」    の駅名が横書きになっているので、代々木駅ということが分る。当時の代々木駅辺の寂しさが思いやら    れる〟    ◯「夢二画集」明治四十三年(1910) ②p341   〝「夢二画集」〈方寸四三・二〉     石井柏亭が「夢二画集」の「春の巻」「夏の巻」の批評をしている。    「小杉氏の『漫画一年』以来、棄てられた版木に二度の勤めをさせて、かような画集が作られるやうに    なったのは、悪いことではないが、もう少し画を厳選して、印刷を注意して貰ひたい。」     柏亭はそうした希望を述べ、ついで、「夢二氏の画には、田舎から東京へ来てゐる人の普遍的な感情    が公表されてゐるところから、東京に生れて、親の傍らで育った男達と違って、下宿生活してゐる男女    学生に、夢二氏の画が流行するのであらう」といい、「線形など、その技術に至っては、自由といふよ    りも、素人臭くて、幼稚で、且つ蕪雑だといふことが当て嵌まる」と評している。     初期の夢二の画の多分に素人臭い一事は、どのような夢二贔屓の人々も認めざるを得ないだろう。し    かしその後ずんずんよくなったところに、夢二その人があった〟    ◯「東京十二景」明治四十三年(1910) ②p359   〝「東京十二景」〈白樺四三・一〇〉     右の琅玕洞の広告は、次の号にも出て居り、それには「十月以降のプログラム」の中に、「石井柏亭    氏『東京十二景』其二『柳ばし』発売」という一項が加わっている。     この「東京十二景」は、木版手摺の新しい錦絵で、出来のよいものであるが、ついに十二枚が揃わず    に打切られてしまった〟    ◯「写真展覧会」明治四十三年(1910) ②p365   〝写真展覧会 〈読売新聞四三・三・二〇〉     東京写真研究会の第一回展覧会が開かれたのを、石井柏亭が評して、その中に人間の生活と交渉ある    風景を写したよい写真のないのを不満としている。この不満は、今日の風景写真の多くにも当てはまり    そうである。しかしながら、この頃から芸術的な写真をいうものが、次第に考えられるようになったと    見られそうである〟    ◯「東京十二景(二)」明治四十三年(1910) ②p366   〝石井柏亭の新しい錦絵「東京十二景」は浮世絵師の画く美人画から離れて、然もわが国の錦絵のよさを    生した新版画で、女にあしらうに、小さく囲んだ風景を以てしている。今から見ても気持のよいもので    あるが、惜しいことに、全部が揃わずに打切られてしまった。その「十二景」の紹介を、塔影という人    がしている。一枚の定価は二十五銭だったことがそれで分る〟    ◯「パンの会」明治四十三年(1910) ②p367   〝パンの会 〈スバル四三・一二〉     十一月二十日に、瓢箪新道の三州屋でパンの大会の開かれたことが、「スバル」の十二月号の消息欄    に見えている。その大会は、石井柏亭の欧州見学と、長田秀雄、柳敬助の入営との二つの送別会を兼ね    て開かれたので、案内状は木下杢太郎が筆を執ったのだろうか、「物の音の悲しい時になりました」と    いう文句に始まり、「紺の暖簾のにほひもなつかしき、日本橋の真中で開くことにしましたから、何と    ぞ御出席下さい。」と結んでいる。     紺の暖簾などというものが、なつかしがられる時代をなっていた〟     ☆ はくらんかい 博覧会
 ◯「博覧会の噴水」明治十四年(1871) ①p85   〝博覧会の噴水〈驥尾団子一四・三・九〉     第二回内国勧業博覧会が、三月一日から上野公園で開かれた。それには千川水道会社に依って造られ    た噴水器が評判を呼んだ。観る者はそれを、今度の博覧会第一の美観とした。この噴水をも描き添えた    錦絵なども出来ている〟    ☆ はごいた 羽子板
 ◯「羽子板の顔」明治三十六年(1903) ②p106   〝羽子板の顔〈東京朝日新聞三六・一・一〇〉     この間までは、団十郎、菊五郎、左団次、芝翫など、押絵の羽子板を見ても、錦絵を見ても、はっき    り見分けが附いたのに、今の羽子板や錦絵では、若手の役者は見分けが附けかねる。画工の方で、まだ    若手を描き馴れないのであろうが、紋を描き添えて、誰れと分るようにしたのなどもある〟    ◯「羽子板」明治三十八年(1905) ②p182   〝羽子板〈東京朝日新聞三八・一二・二五〉    「羽子板の市況」という記事を載せているが、羽子板の押絵にも、時代の変遷がある。明治十六七年ま    では、押絵も平たく板に附いたのが喜ばれたが、十九年頃から次第に変って、盛上ったのが歓迎せられ    るようになった。顔絵師も、国周が去って、周政(後に周延)となったなどとしてある。国周、周延等    の浮世絵師は、錦絵の外に、羽子板の顔をも画いたのである〟    ☆ はんこ かじた 梶田 半古    ◯「梶田半古の「春宵怨」」明治三十五年(1902) ①p73   〝梶田半古の「春宵怨」〈読売新聞三五・三・三一〉     この年の第十二回絵画共進会に出品して、半古の代表作とせられる「春宵怨」の縮図が、三段抜きで    出ている。清方の手になったのであろうか、それもまた出来がいい。読売新聞の挿絵画家には、半古と    清方との両人がいて、清新な感じのものを、つぎつぎと載せて居り、それに依って、新聞の全体が引立    つ感じがする〟    ☆ はんとりちょう 判取帳    ◯「古本」明治四十年(1907) ②p247   〝古本〈太平洋四〇・二月〉     ついで古本の話が出て居り、最近に蔵書家の間で、山崎美成の「海録」が六十円、蜀山人の「判取帳」    が五十円で、譲り渡しがあったとのことだ、と報じている。     なおその後に、西鶴の「好色一代男」は、時価が三十円内外だとしてあるのなどを見ると、まだまだ    安かったなあ、と思わざるを得ぬ。     右の「判取帳」を入手したのは林若樹で、昭和に入ってから、その帳面は安田文庫に譲られて行き、    同文庫で複製本を作った。その複製本に、林がその伝来を書いている。林から安田へ行った時の直段は、    確か五千円だったと仄聞している〟    ☆ ふせつ なかむら 中村 不折    ◯「雑誌一瞥」明治四十一年(1908) ②p309   〝雑誌一瞥 〈万朝報四二・一・七〉    「雑誌界の春粧」と題して、新年号の雑誌を評した文が出ているが、表装意匠界の問屋は中村不折で、    「帝国文学」「日本及日本人」「太陽」「東亜之光」「ホトトギス」「趣味」と、六部までを描いてい    る。しかし「太陽」の金烏を除いては、悉く鶏の図案である。「総じて面白しとは評しかねる」といっ    ている。     不折の図案の勁くて媚態を伴わぬのはよいとして、時にかたくなで、雅味を欠く。しかしとにかく不    折は、明治の日本人らしい洋画家だったと思う〟    ☆ ほういつ さかい 酒井 抱一    ◯「文録堂」明治三十四年(1901) ②p66   〝文禄堂〈東京名物誌(松本道別著)〉     文禄堂の主人堀野文禄は、京の藁兵衛の名で知られる滑稽文学者であるが、その人が一昨年から出版    業を始め、意匠に体裁に工夫を凝らし、用紙から印刷まで、五分の隙もない、灰汁抜けした本を出して、    「団々珍聞」をして、「凝り屋の総本家」と呼ばしめるに至った。文禄堂の処女出版は「滑稽類纂」で、    それが大いに好評を博した。それについて堀野氏は、「日本五大噺」を版にした。これは馬琴の戯作を    作り替え、桃太郎、花咲爺、舌切雀、猿蟹合戦、かちかち山の五つの話を打ってまろめて一つの話とし    た面白いもので、表装にも、口絵にも、挿絵にも善美が尽してある。     堀野氏が昔話に熱心なことは全くの予想外で、その店は昔話風の装飾で充たしてある。格子戸を開け    て入ると、店の正面には是真が丹青を凝らした桃太郎の絵が掲げてある。月耕その他の昔話の絵の貼交    ぜがあり、それが額にもなっている。左方の楣間に、抱一の筆の「昔噺亭」とした額がある。氏はその    間に在って筆を執り、牙籌にも携わっている。──     こうした特色のある書肆も、十年と続かないで閉店するに至ったのが惜しい。道楽の勝ち過ぎていた    のが禍したのかも知れない。    「滑稽類纂」「日本五大噺」とは、共に堀野文禄その人の編著で、今見てもなつかしい書物となってい    る。その他文禄堂の出版物には、この店一流の凝り方が、それぞれにあって、一つ一つが楽しい書物に    なっているのに感心する〟    ☆ ほくさい かつしか 葛飾 北斎    ◯「錦絵」明治二十三年(1890) ①p182   〝錦絵〈国民新聞二三・五・二一〉     元禄堂主人というのは、内田魯庵であろうか。「古本相場」と題して、江戸時代の文学書の高くなっ    たことを書いている。そしてその中に、「北斎、歌麿の錦絵を、五十銭も一円も出して欲しがる世間な    れば」の一句がある。今から見ると、北斎も歌麿も、まだまだ問題でない。けれども江戸の錦絵が、邦    人にも注意せられるものになろうとしている〟    ☆ ぽんちえ ポンチ絵
 ◯「ポンチ絵」『明治東京逸聞史』明治元年(1868) ①p5   〝ポンチ絵〈江湖新聞慶応四・閏四・七〉     漫画ではなくて、ポンチ絵で育った、明治の少年の私達には、ポンチという言葉に、特別の親しみを    感ずるが、そのポンチ絵のことが、既にこの年の新聞に見えている。     西洋の新聞紙には、ポンチというのがある。これは鳥羽絵風のおかしい絵組に、寓意が持たせてある    ので、日本でいふなら判じ物だ。既に横浜でも、毎月一回このポンチを売出して居り、なかなかおかし    い趣向のものもある。当節では、なかなかおかしい趣向のものもある。当節では、大砲、小銃、それに    船などの手遊びの品が売れて、その外の商売は振るわぬので、それをポンチにして居り、手遊び屋の主    人ばかりが大きく構えて。外の商人達は、その前で泣いているところを描いている。     右がその記事で、それに「西洋の戯画ポンチの図」として、その絵を添えている。玩具屋の亭主の背    後には、汽船や小銃が描かれている。     このポンチの語は、忽ちにして一般化したらしい。十一月には、「月とスッポンチ」という新雑誌が    生れる。何々ポンチという名の子供向きの絵本が、何万何千作られたか、それは調べることも出来まい。    そうしてその流行は、日露戦役頃までに及び、清親などもそれを作っているのであるが、それらのポン    チの絵本は、今はもう見ることも出来ない〟      ◯「自転車」明治十三年(1880) ①p75   〝自転車〈団々珍聞一三・三・一三〉     本年の団珍(マルチン)にも、見るべきものが多い。第百五十一号に「自転車猫の野遊」と題するポンチ絵    が出ている。団珍ではこのポンチ絵を、狂画ともおどけ絵とも呼んでいる。     この頃の自転車は、今と違って、前の輪ばかりが大きくて、後の輪は小さい〟