Top           浮世絵文献資料館            藤岡屋日記Top     
                 『藤岡屋日記』【む】    ☆ むしけん 虫拳    ◯『藤岡屋日記 第十三巻』(藤岡屋由蔵・慶応元年(1865)記)   ◇狐拳・虫拳 ⑬315   〝(十月)狐拳    庄屋をバうまく化かせし狐めを鉄砲持てねらふ狩人                 庄屋    大樹公                 狐     一橋                 狩人    会津        虫拳    大いさ(ママ)なる口で蟇を呑気でもぬらりと側へ寄るなめくじり                 蟇     大樹公                 蛇     関白閣下                 なめくじり 唐津嫡〟    〈大樹公は徳川十四代将軍家茂、一橋は水戸の徳川慶喜、狩人は京都守護職・会津藩主松平容保。関白閣下は史上最後の     関白とされる二条斉敬。唐津嫡は老中・唐津藩主小笠原長行〉    ☆ むぎゆみせ 麦湯見世    ◯『藤岡屋日記 第四巻』p142(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇麦湯見世禁止   〝六月廿四日、当年市中所々ぇ麦湯見世夥敷出し候に付、御差留一件    (中略)    此節夜中往還ぇ麦湯見世差出候者夥敷相増候、何も深更迄罷出、中には、年若成女子を雇、銭を出し湯    汲に致し、涼台にて酒喰を致し候、客と取、如何之義有之、殊に門附と唱、唄・浄瑠璃・三味線を弾候    女子共を呼寄、酒之相手に致し候趣相聞、第一火之元にも拘り、不可然義も有之間、(中略)此上右体    之風聞於有之は無用捨召捕、厳重之咎可申付候(以下略)      まつしろ白な雪の肌へのあつくなり麦湯で夏も凌がれぬしぎ〟    ◯『藤岡屋日記 第五巻』p112(藤岡屋由蔵・嘉永五年(1852)記)   ◇麦湯見世引き払い   〝嘉永五壬子年五月廿五日、市中麦湯見世一件    (嘉永三戌年六月二十四日、居付茶見世以外の往還における麦湯見世の禁止通達)    右之通、去る戌年申渡置候処、追々暑気之時節に相成候に付、居付茶見世之外、猥成麦湯、醴見世抔差    出候者も有之哉にも相聞、此節町々夜番も申付候折柄、火之用心之為、別ての義、市中風俗に不拘様、    弥右申渡之趣無遺失可相守旨、町役人共より無油断可申聞候、尚此上右体之風聞於有之は、急度可及沙           汰候〟    〈「右体之風聞」とは、路上、年若い女を雇って深夜まで酒食を供し、また門付けの唄浄瑠璃・三味線弾く女子供を呼     び寄せて商売すること〉    ☆ むらさきのだいとくじのぶながこうしょうこうず 紫野大徳寺信長公焼香図    ◯『藤岡屋日記 第四巻』(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇絶版・板木没収処分 p115   〝四月廿四日之配りニて、紫野大徳寺信長公焼香図。     照降町蛭子屋仁兵衛板元ニて、芳虎画、大法会之図と大焼香場之図を三枚続きに致し出候処、秀吉束    帯ニて三法師君をいだき出候処の図也、是ニてハ改印六ヶ敷候ニ付、村田佐兵衛へ改ニ出候節ハ三法師    をのぞき秀吉計書て割印を取、跡ニて三法師を書入たり、是ニていよ/\焼香場ニ相成候ニ付、大評判    ニて売れ候ニ付、同月廿八日ニ板元上ゲニ相成候、五月六日落着、絶板也。      三の切能く当たったる猿芝居       南無三法師とみんなあきれる〟    〈板元は、改め名主・村田佐兵衛に、問題になりそうな所を取り除いて差し出し、出版許可をもらう。だが、実際の売     り出しには、削除部分を加えて原画と同じものが配られた。これでは改め名主は防ぎようがない。そんな挙に出る板     元もあったのである。禁じられている「太閤記」ものであるから、おそらく板元も絶版覚悟の出版であったろう。評     判になれば、短期間で大量に売れる。当局の手の入る頃には売り抜けて、板木の方は用済みという計算なのであろう〉    ☆ むらた さへい 村田 佐兵衛    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p554(藤岡屋由蔵・弘化二年(1845)記)   〝弘化二年秋の末、巣鴨・小石川・染井・駒込・千駄木・谷中辺、植木屋造り菊出来、見物之諸人群衆致    すなり。(中略)    菊の番付、九月十六日より売出し廿二軒、九月末には板元六十軒計也、向島の菊の番付四文とて売歩行    也、今年の菊、都合にては八十軒も出来之由、右番付も絵双紙懸り名主村田佐兵衛、浜野宇十郎へ願出、    割印出て板元百軒の命も出来しとの事成〟    〈村田佐兵衛は、絵双紙懸り名主(改め名主)〉    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p131(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)   〝閻魔の目を抜候錦絵一件    未ノ三月六日夜、四ッ谷新宿大宗寺閻魔の目玉を盗賊抜取候次第、大評判ニて、右之絵を色々出板致し、    名主之改も不致売出し候処、大評判ニ相成売れ候ニ付、懸り名主より手入致し、四月廿五日、同廿六日、    右板元七軒呼出し御吟味有之、同廿七ニ右絵卸候せり并小売致候絵双紙屋九軒御呼出し、御吟味有之、    五月二日、懸り名主村田佐兵衛より右之画書、颯与(察斗)有之。     南御番所御懸りニて口書ニ相成、八月十六日落着。       過料三〆文ヅヽ        板元七人                      世利三人                  絵草紙屋       同断               小売     但し、右之内麹町平川天神絵双紙屋京屋ニてハ、閻魔の画五枚売し計ニて三〆文の過料也。     板行彫ニて橋本町彫元ハ過料三〆文、当人過料三〆文、家主三〆文、組合三〆文、都合九〆文上ル也。〟    〈「颯与(察斗)有之」とは「察度有之」か。察度は咎め・非難の意味〉    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p245(藤岡屋由蔵・嘉永元年(1848)記)     〝嘉永元申年九月出板  右大将頼朝卿富士の牧(巻)狩之図 三枚続之絵出板之事    抑建久四年、右大将頼朝卿富士之牧狩は、日本三大壮(挙脱カ)と世に云伝へ、其後代々の大将軍御狩有    し処ニ、御当代に至りては近き小金が原にて御鹿狩有之候処、来酉の年御鹿狩仰出され、去年中より広    き原中に大き成山二つ築立、此所へ御床机を居させ給ひ、三十里四方の猪鹿を追込せ、右の山より見お    ろし上覧有之との評判也、右ニ付、御鹿狩まがい、頼朝卿富士の牧狩之図三枚続き、馬喰町二丁目久助    店絵双紙渡世山口藤兵衛板元にて、画師貞秀ニて、右懸り名主村田佐兵衛へ改割印願候処、早速相済出    板致し、凡五千枚通も摺込、九月廿四日より江戸中を配り候処ニ、全く小金の図ニて富士山を遠く書て    筑波山と見せ、男躰女躰の形を少々ぎざ/\と付、又咄しの通りの原中に新しき出来山を築立、其ぐる    りに竹矢来を結廻し、猪鹿のたぐひを中ぇ追込ミ、右山の上に仮家を建て、此所より上覧之図、三枚続    ニて七十二文に売出し候処、大当り大評判なり。然ルニ古来より富士の牧(巻)狩之図ニは、仁田四郎が    猛獣を仕留し処を正面ニ出し、脇に頼朝卿馬上ニて、口取ニ御所の五郎丸が大長刀を小脇ニかい込、赤    き頬がまへにてつゝ立居ざれバ、子供迄も是を富士の牧狩といわず、是ハいか程の名画にても向島の景    色と(を)書に、三めぐりの鳥居のあたまがなけれバ、諸人是を向島の景なりといわざるが如し。然ルニ    頼光の土蜘蛛の怪も、一つ眼の秀(禿)が茶を持出ると見越入道ハ御定りの画也、然ルを先年国芳が趣向    にて百鬼夜行を書出して大評判を取、いやが上にも欲にハ留どもなき故に、とゞのつまりハ高橋も高見    ニて見物とは行ずしてからき目に逢ひ、これ当世せちがらき世の人気ニて、兎角ニむつかしかろと思ふ    物でなければ売れぬ代世界、右之画の脇に正銘の富士の牧狩ニて、仁田の四郎猛獣なげ出せし極く勢ひ    のよき絵がつるして有ても、これは一向うれず、これ    (歌詞)二たんより三だんのよきが、一たんに勝利を得、外の問屋ハ四たんだ踏でくやしがるといへど     も、五だん故に割印いでず、山口にて六だんめにしゝ打たむくいも成らず、七の段の様に六ヶ敷事も     なく、すら/\と銭もふけ、七珍万宝は蔵之内に充満し、下着には八反八丈を差錺り、九だんと巻て     呑あかし、そんな十だんを言なとしやれ、山口の山が当りて、口に美食をあまんじ、くばりの丸やも     丸でもふけ、いつ迄も此通りに売れて、伊三郎とと(ママ)いる小金処が大金を設(儲)けしハ、これふじ     の幸ひならんか。          小金とはいへども大金設けしは              ふじに当りし山口のよさ      川柳点に                  富士を筑波に書し故ニ          ふたつなき山を二つににせて書き           原中ニ新きに山出来けれバ          原中にこがねをかけてやまが出来              右牧狩之絵、最初五千枚通り摺込候処、益々評判宜敷故ニ、又/\三千枚通り摺込、都合八千枚通りて、    二万四千枚摺込候処、余りニ大評判故ニ、上より御察度ハ無之候得共、改名主村田佐兵衛、取計を以、十    一月十日ニ右板下をけづらせけり。             あらためがむらだと人がわるくいゝ〟    〈この頃の落首に〝来年は小金が原で御鹿狩まづ手はじめに江戸でねこがり〟(『藤岡屋日記』三巻p223)という句     がある。これは、この頃また息を吹き返してきた深川両国などの岡場所に、天保十三年三月の摘発以来、久しぶりに     手入れ(猫狩り。猫とは岡場所の娼婦をさす)があったこと、そして、来年には将軍家慶が小金原で大がかりな鹿狩     りを催すという巷間の評判を取り上げて詠み込んだものである。その鹿狩りを当て込んだ錦絵「富士の裾野巻狩之図」     が九月二十四日出版された。今まで「富士の巻狩り」といえば、仁田四郎が猪に逆さに跨って仕留める図柄が定番で     あった、しかし今は「兎角にむつかしかろと思ふ物でなければ売れぬ」世の中である。そこで「むつかしく」みせる     ために一計を案じた。富士を大きく画いているものの、男体女体を小さくぎざ/\と画いて筑波に擬え、噂の通り大     きな築山を配したのである。この趣向が小金原の鹿狩りを連想させるのは当然で、板元山口の狙いは当たった。しか     しその評判が逆に心配の種になった。お上のお咎めもないのに、累が自分に及ぶことを恐れたのか、改めの懸かり名     主・村田佐兵衛は板木を削らせたのである。ところで「あらためがむらだと人がわるくいゝ」とは、どういう意味な     のであろうか。村田佐兵衛の改めにはむらがある、後々咎められそうなものまで通しておきながら、すぐに撤回する     という悪口であろうか〉
   「富士の裾野巻狩之図」 玉蘭斎貞秀画(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p457(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   〝当春錦絵の出板、当りハ    一 伊勢太神宮御遷宮之図、  三枚ツヾき、   藤慶板。    一 木下清洲城普請之図、   三枚続、     山本平吉。    一 羽柴中国引返し尼崎図、  足利尊氏ニ書、  同人。    一 姉川合戦真柄十郎左ヱ門討死、是を粟津合戦今井四郎ニ書。    当春太閤記の絵多く出候ハ、去年八月蔦吉板元にて今川・北条との富士川合戦、伊藤日向守首実検の図、    中浦猿之助と書、村田左兵衛の改ニて出たり、此絵ハ首が切て有故に不吉なりとて、余り当らず候得共、    是が太閤記の絵の最早ニて、当年ハ色々出しなり、又夜の梅の絵も、去年の正月蔦吉の板ニて夜の梅、    三枚続出て大当り也、夫故に当春ハ夜の梅の墨絵三枚ツゞき凡十番計出たり、是皆々はづれなり。      太閤記の画多く出板致けれバ       小田がいに摺出しけり太閤記         羽柴しまでも売れて豊とミ       夜るの梅昼は売れなひものと見へ〟   〈「太閤記」に取材した錦絵の出始めは嘉永元年(1848)の「富士川合戦」からという。宮武外骨の『筆禍史』によれば、    「太閤記」は受難が続き、古くは元禄十一年(1698)に絶版処分があり、文化元年(1804)には、岡田玉山の『絵本太閤    記』と草双紙武者絵が絶版処分に遭っていた。この時は画工にも累が及んで、喜多川歌麿・歌川豊国・勝川春亭・同春    英・喜多川月麿・十返舎一九等が吟味のうえ手鎖五十日の刑に服していた。今回の「太閤記」ものは、少しは緩んでき    たとはいえ、天保の改革の記憶が生々しい時世での出版である。天正以後の武者名を顕す事はもちろん、紋所合印名前    等紛らわしいものも禁じられていることは十分承知のはずだ。しかし幾分か安心できる材料はあった。前年、村田自身    が改めをして出版を認めた「富士の裾野巻狩之図」、これは将軍の鹿狩りを当て込んだもので、かなりリスクは高かっ    たものの、お上のお咎めはなかった。ただ評判よろしきを得て大量に出まわるようになると、危険を感じたか、自主規    制して板木を削らせた。おそらく改革の余波が自主規制を促したのであろう。今度も、定石通りというか、お上を憚っ    て木下藤吉郎を中浦猿之助に替えて「富士川合戦」を出版してみた。しかし杞憂であったか、出版差し止め等の処分を    受けることはなかった。この頃の村田佐兵衛の改めには、一種の観測気球を揚げているような気味があって、どの程度    の当て込み或いは見立てならお咎めがないかという、判じ物の目安を常に探っているような感がある。むろん地本問屋    の意向を汲んでいるのであろう〉        「伊勢御遷宮之図」 玉蘭斎貞秀画 (神奈川県立歴史博物館「貞秀の初期作品」より)
   「木下清洲城普請之図」 一勇斎国芳画 (「森宮古美術*古美術もりみや」)
   「夜の梅」 渓斎英泉画 (「森宮古美術*古美術もりみや」)  ◯『藤岡屋日記 第三巻』p475(藤岡屋由蔵・嘉永二年記)   〝嘉永二己酉年      翁稲荷、新宿の老婆、於竹、三人拳の画出るなり。    板元麹町湯島亀有町代地治兵衛店、酒井屋平助ニ而、芳虎が画也、但し右拳の絵は前ニ出せる処の図の    如くにして、名主村田左兵衛・米良太一郎の改割印出候へ共、はんじものにて、翁いなり、三途川の姥    婆さまハ別ニ替りし事も無之候へ共、馬込が下女のお竹女が根結の下ゲ髪にてうちかけ姿なり、是は当    時のきゝものにてはぶりの宜敷、御本丸御年寄姉小路殿なりと言い出せしより大評判ニ相成候故、上よ    り御手入れの無之内、掛り名主より右板をけづらせけり、尤是迄ニ出候処之絵、新宿の姥婆さま廿四番    出、外ニ本が二通り出ルなり、お竹の画凡十四五番出るなり、然ル処今度お竹のかいどりの画ニて六ヶ    敷相成、名主共相談致し、是より神仏の画ハ一向ニ改メ出スまじと相談致し、毎月廿五日大寄合之上ニ    て割印出すべしと相談相極メ候、今度又々閏四月八日の配りニて、板元桧物町茂兵衛店沢屋幸吉、道外    武者御代の君餅と言表題にて、外ニ作者有之と相見へ、御好ニ付、画師一猛斎芳虎ト書、発句に、         君が代とつきかためたる春のもち       大将の武者四人ニて餅搗之図     一 具足を着し餅搗の姿、はいだてに瓜ノ内ニ内の花の紋付、是ハ信長也。     一 同具足ニてこねどりの姿、はいだてに桔梗の紋ちらし、是ハ光秀也、白き衣ニて鉢巻致すなり、       弓・小手にも何れも定紋付有之。     一 同具足ニて餅をのして居る姿ハ、くゝり猿の付たる錦の陣羽織を着し、面体ハ猿なり、是は大(太)       閤秀吉なり。     一 緋威の鎧を着し、竜頭の兜の姿にて、大将餅を喰て居ル也、是則神君也、右之通り之はんじもの       なるに、懸りの名主是ニ一向ニ心付ズ、村田佐兵衛・米良太一郎より改メ割印を出し、出板致し       候処ニ、右評判故ニ、半日程配り候処ニ、直ニ尻出て、直ニ板けづらせ、配りしを取返しニ相成       候、然ル処、又々是ニもこりず、同十三日の配りニて、割印ハ六ヶ敷と存じ、無印ニて出し候、       板元も印さず、品川の久次郎板元ニて出し候処の、(ママ、原文はここで切れている)     一 翁いなりと新宿の姥姿の相撲取組、翁ヶ嶽ニ三途川、行事粂の平内、年寄仁王・雷神・風神・四       本柱の左右ニ並居ル、相撲ハ皆々当時流行の神仏なり、是ハ当年伊勢太神宮御遷宮ニ付、江戸の       神仏集りて、金龍山境内ニて伊勢奉納の勧進相撲を相始メ候もの趣向ニて、当時流行の神仏ニハ、       成田山・金比羅・柳島妙見・甲子大黒・愛宕羅漢・閻魔・大島水天宮・笠森・堀ノ内・春日・天       王・神明・其外共、釈迦ヶ嶽、是ハ生月也。              成田山 大勇 象頭山 遠近山 築地川 割竹 関ヶ原 筆の海 有馬山 三ッ柏 堀之内       猪王山 柏手 初馬 綿の山 注連縄 翁ヶ嶽 剱ノ山 経ヶ嶽 於竹山 錦画 御神木 三途       川 死出山、行事長守平内、年寄仁王山雷門太夫・大手風北郎・おひねりの紙、お清メ水有、行       事・呼出し奴居ル、見物大勢居ル也。        此画、伊予政一枚摺ニて、袋ニ手遊びの狐・馬・かいどりの姉さまを画、軍配ニ神仏力くらべ       と表題し、外に格別の趣向も無之様子ニ候へ共、取組の内ニ遠近山ニ三ッ柏と画たり、是は両町       奉行の苗字なるべし、割竹ニ猪王山と云しハ御鹿狩なるべし、外ニうたがわしき思入も有之間敷       候得共、右之はんじものニて人の心をまよわせ、色々と判断致し候より此画大評判ニてうれ候処       ニ、是も間もなく絵をつるす事ならず、評判故ニ引込せ仕舞也。         お竹のうちかけ姿を見て         遅道           かいどりを着たで姉御とうやまわれ           三途川の老婆御手入ニ付、           新宿は手がはいれども両国の             かたいお竹はゆびもはいらず           老ひの身の手を入られて恥かしや             閻魔のまへゝなんとせふづか         両国の開帳           お竹さんいもじがきれて御開帳             六十日は丸でふりつび〟
   「流行御利生けん」(翁稲荷、新宿の老婆、於竹、三人拳の画) 道外一猛斎芳虎画     (ウィーン大学東アジア研究所・浮世絵木版画の風刺画データベース)
   「【道外武者】御代の若餅」 一猛斎芳虎画 (早稲田大学・古典籍総合データベース)      〈「流行御利生けん」(翁稲荷、新宿の老婆、於竹、三人拳の画)は、お竹の「下ゲ髪にてうちかけ姿」が大奥の姉小     路を暗示しているのではないかという評判がたち、お上の手入れを恐れて板木を削ったという内容の記事。「道外武     者御代の君餅」の方は、餅を搗くのが織田信長、以下、捏ね取り明智光秀、餅を延ばすのが豊臣秀吉、最後に竜頭の     兜を被って餅を食っているのが徳川家康。神君が一番おいしいところをもっていったと言う寓意は明らかである。当     初、改め名主がその寓意に気がつかず、いったん市中に出まわってしまったのだが、半日ほどして噂が立ち、あわて     て回収にまわったというのである。もっとも、それでおまらず、今度は版元名のない無届け版が出まわったとある。     ところで、二人の改め名主がこの寓意に気づかないということがあろうか。このところお咎めがなかったので心が緩     んだか、当局を試すかのような、かなり露骨な判じ物を通したのである。「兎角ニむつかしかろと思ふ物でなければ     売れぬ」(嘉永元年の「右大将頼朝卿富士の巻狩之図」記事)、リスクを負わねば売れないと、覚悟を決めた板元の     要求に、改め名主も抗しきれなかったのであろうか。それにしても、名主といえば、幕府による町方支配の端末組織     である。改めのリスクは高かったはずである〉    ◯『藤岡屋日記 第四巻』p115(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   〝四月廿四日之配りニて、紫野大徳寺信長公焼香図。     照降町蛭子屋仁兵衛板元ニて、芳虎画、大法会之図と大焼香場之図を三枚続きに致し出候処、秀吉束    帯ニて三法師君をいだき出候処の図也、是ニてハ改印六ヶ敷候ニ付、村田佐兵衛へ改ニ出候節ハ三法師    をのぞき秀吉計書て割印を取、跡ニて三法師を書入たり、是ニていよ/\焼香場ニ相成候ニ付、大評判    ニて売れ候ニ付、同月廿八日ニ板元上ゲニ相成候、五月六日落着、絶板也。      三の切能く当たったる猿芝居       南無三法師とみんなあきれる    〈板元は、改め名主・村田佐兵衛に、問題になりそうな所を取り除いて差し出し、出版許可をもらう。だが、実際の売     り出しには、削除部分を加えて原画と同じものが配られた。これでは改め名主は防ぎようがない。そんな挙に出る板     元もあったのである。禁じられている「太閤記」ものであるから、おそらく板元も絶版覚悟の出版であったろう。評     判になれば、短期間で大量に売れる。当局の手の入る頃には売り抜けて、板木の方は用済みという計算なのであろう。     売り出しから手入れまでには時間差がある、板元にとってはこれが勝負時なのである。逆に言えば、この時間差は名     主のさじ加減で伸縮するともいえる。その意味からいうと、改め名主は、やはり際物目当ての板元の生殺与奪権を握     っているのである。ただ名主は権力の端末とはいえ、町方の実情にも十分通じている。天保の改革の町方の窮状を見     てきた名主である。町方に鬱積するストレスも直接肌身に感じていたはずである。時には町方に好意的なさじ加減が     必要だと思ったこともあったに違いない。この頃の板元が、板木没収や絶版処分を覚悟してまで、あえて禁制のもの     に手をだそうとしたのは、「むつかしかろと思ふ物」を好む世相にあわせないと商売にならなかったからだが、他方     では、改め名主のさじ加減に半ば期待できそうな雰囲気があったからではないだろうか。板元にとって改め名主のさ     じ加減とは、売り出しの時間的猶予を与えることに他ならない、つまり販売の黙認を意味する〉           同日の配りニて、馬喰町二丁目山口藤兵衛板、貞秀が画ニて大内合戦之図、大内義弘家臣陶尾張守謀叛    ニて、夜中城中へ火を懸候処、いかにも御本丸焼の通りなりとて評判強く、能く売れ候ニ付、御廻り方    よりの御達しニ有之候哉、五月三日ニ懸り名主村田佐兵衛、板元を呼出し、配り候絵買返しニ相成、板    木取上ゲニ相成候よし、五月六日落着、色板取上ゲ。      能く売れて来たのに風が替つたか       つるした絵まで片付る仕儀    〈当局も見過ごせなくなって、絶版や板木没収の挙に出た。表向き、天正以後の武者名を顕す事はもちろん、紋所合印     名前等紛らわしいものも禁じているのであるから、この嘉永の始めのころ、その気になればいつでも取り締まること     ができるのである。事実、この年、嘉永三年の七月、当局は改めの懸かり名主や絵双紙屋に対して、天正以降云々の     禁制を徹底するよう通達を出しているのである。通達文は『藤岡屋日記』嘉永三年七月記事参照〉  ◯『藤岡屋日記 第四巻』(藤岡屋由蔵・嘉永三年記)   ◇懸り名主・絵双紙屋への通達 p158   〝七月十七日、通三丁目寿ぇ絵双紙懸名主八人出席、絵双紙屋へ申渡之一条     去ル丑年御改革、市中取締筋之儀、品々御触被仰渡御座候処、近来都而相弛、何事も徒法ニ成行候哉、    畢竟町役人之心得方相弛候故之義と相聞候旨御沙汰ニ而、此上風俗ニ拘り候義ハ不及申、何ニ不限新工    夫致候品、且無益之義ニ手を込候義ハ勿論、仮令誂候者有之候共、右体之品拵候義は致無用、事之弛ニ    不相成様心付、其当座限ニ不捨置様致世話、此上世評ニ不預、御咎等請候者無之様、心得違之者共ハ教    訓可致旨、先月中両御番所ニ而、各方ぇ被仰渡御坐候由、絵(一字欠)之義ハ前々より之御触被仰渡之趣、    是迄度々異失不仕様御申聞有之、御請書等も差出置候処、近来模様取追々微細ニ相認候故、画料・彫工    ・摺手間等迄差響、自然直段ニも拘、近頃高直之売方致し候者も有之哉、右ハ手を込候と申廉ニ付、勿    論不可然、銘々売捌方を競、利欲ニ泥ミ候より被仰渡ニ相触候義と忘れ候仕成ニ至、万一御察斗(当)請    候節ハ、元仕入損毛而已ニハ無之、品ニ寄、身分之御咎も可有之、錦絵・草双紙・無益之品迄取締方御    世話も被成下、御咎等不請様、兼而被仰論候は御仁恵之至、難有相弁、此上風俗ニ可拘絵柄は勿論、手    を込候注文不仕、篇数其外是迄之御禁制(二字欠)候様、御申論之趣、得と承知仕候、万一心得違仕候    ハヾ、何様ニも可被仰立候間、其印形仕置候、以上     錦絵壱枚摺ニ和歌之類并草花・地名又ハ角力取・歌舞妓役者・遊女等之名前ハ格別、其外之詞書認申    間敷旨、文化子年五月中被仰渡御坐候処、錦絵ニ歌舞妓役者・遊女・女芸者等開板仕間敷旨、天保十三    寅年六月中被仰渡之、已来狂言趣向之絵柄差止候ニ付、手狭ニ相成差支候模様ニ付、女絵而已ニ而は売    捌不宜敷、銘々工夫致、狂画等之上ぇ聊ヅヽ詞書書入候も有之候得共、是迄為差除候而は難渋可仕義と、    差障ニ不相成程之詞書ハ其儘ニ被差置候処、是も売方不宜敷趣ニ付、踊形容之分、御手心を以御改被下    候ニ付、売買之差支も無之、前々より之被仰渡可相守之処、詞書之類も追々長文ニ相認、又は天正已来    之武者紋所・合印・名前等紛敷認候義致間敷之処、是又相弛ミ候哉、武者之伝記認入、右伝記之武者は    源平・応仁之人物名前ニ候得共、内実ハ天正已後之名将・勇士と推察相成候様認成候分多相成、殊ニ人    之家筋・先祖之事相違之義書顕し候義御停止、其子孫より訴出候ハヾ御吟味可有之筈、寛政度被仰渡有    之、仮令天正已前之儀ニ候共、伝記ニハ先祖之系図ニ至り候も有之、御改方御差支ニも相成候間、其者    之勇略等、大略之分ハ格別、家筋微細之書入長文ニ相成候而は、御改メ被成兼候段承知仕、向後右之通    相心得、草稿可差出候〟     〈天保十二(丑)年以来の改革で強化した市中取締に弛みが生じているので、「改め」を行う「懸り名主」と絵草紙屋     に対して、もう一度趣旨を確認し徹底させようという通達である。時の風俗に拘わる絵柄は勿論、彫り・摺りに手間     のかかる高直のもの、そして今まで禁制であったもの、これらを再度禁じたのである。そのうえ万一おとがめを受け     た場合には原材料の損ばかりでなく、身分上の処罰も覚悟せよという圧力まで加えた。文化元年(1804)五月、錦絵・     一枚摺に和歌の類、草花・地名・力士・歌舞伎役者・遊女等の名前を除いて、それ以外の詞書きを禁止。天保十三年     六月、歌舞伎役者・遊女・女芸者の出版を禁止して統制を強化した。商売に差し支えが生じた板元達は銘々工夫して、     詞書き入りの狂画などを出してみたがあまり売れ行きがよくない、それで歌舞伎と言わず「踊形容」として、手心を     加え許可したところ商売が持ち直しのはよいが、今度は、詞書が長くなるなど、また弛み始めた。特に武者絵の弛み     は甚だしく、天正年間以降の武士の紋所・合印・名前等の使用を禁じられているのに、それらと紛らわしいものが出     始め、伝記絵に至っては、表向き源平・応仁時代の名前にして、内実は天正以降の名将・勇士に擬えるのものまで出     回っている。もっと検閲を強化せよというのである。当時『太閤記』を擬えた武者絵が、国芳・貞秀・芳虎等によっ     て画かれている。いうまでもなく、この通知は、こうした出版動向と改め名主の弛みに対する牽制である〉