Top           浮世絵文献資料館            藤岡屋日記Top                  『藤岡屋日記』【ひ】    ☆ ひがしやまさくらぞうし 東山桜荘子  ◯『藤岡屋日記 第六巻』(藤岡屋由蔵・安政二年(1855)記)   ◇「東山桜荘子」錦絵 p594   〝市村座夏狂言、六十五日目ニ而八月七日相仕舞候処、大坂表より尾上梅幸、菊五郎と改名致、板東彦三    郎同道ニ而罷下り候ニ付、当秋狂言之義は先年小団次大当り致し候、佐倉宗吾狂言相催し候由、作者ニ    而も咄し候哉、未ダ狂言興行中ニ絵双紙屋共是を目論見、錦絵出板趣向致し、彦三郎佐倉宗吾、菊次郎    女房おミねの役割ニて、子わかれ之段二枚続、藤菱出板致し、渡し場之処、船頭甚兵衛、関三、悪党八    佐衛門、浅尾与六ニて二枚続、神明前丸清出板、幽霊の処、同所丸甚ニて出板致、右三番売出し候処、    小団次、延命院の御察斗ニて当分書狂言御差止ニ相成候故、錦絵一向ニ売れず、跡ニも所々ニて同断之    絵廿番も仕込候得共、先は暫らく見合せ/\。       小団次も書狂言を留られて         是からあたまかくばかりなり〟    〈四世市川小団次が浅倉当吾役を演じで大当たりを取った「東山桜荘子」は嘉永四年(1851)の上演。「延命院の御察     斗」、延命院といえば、女犯で死罪となった下谷延命院の僧侶日道の事件が有名だが、これは享和三年(1803)のこ     と、御察斗はお咎めという意味であろうが、小団次との関係はよくわからない。結局「東山桜荘子」は上演されな     かった。幻の錦絵、板元の先回り出版は空振りに終わったのである〉    ☆ ひがんざくら 彼岸桜   ◯『藤岡屋日記 第四巻』p85(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇彼岸桜    〝二月十九日、上野山、此節彼岸ざくら半開の盛りにて、見物群集致すなり〟    ☆ ひけし 火消し   ◯『藤岡屋日記 第二巻』p179(藤岡屋由蔵・天保十二年(1841)記)   ◇町火消し、よ組・わ組仲直り    〝三月廿五日、神田明神境内伊勢嘉にて、よ組・わ組中直り〟    ☆ ひのもとげんじゅうのおふれ 火の元厳重のお触れ  ◯『藤岡屋日記 第五巻』(藤岡屋由蔵・嘉永五年(1852)記)   ◇火の元厳重のお触れ p16   (正月十五日、北町奉行、市中名主に「火之元厳重の御触」通達、また「火之元之掟」を掲示する)   〝火之元厳重の御触を読聞せる処の図    火之元厳重の掟書を張出、諸人に知らしむる処の図      鉄棒の音かまびすし     (「御触書」と「火之元之掟」の文面、略)    右火之元御触書板行に致し売歩行候処、正月廿三日、売子二人被召捕也。    板元は亀島町鉄弥也、然に云取宜敷、二月六日落着に、板木御取上げにて相済候。     (この御触れを諷刺する「落咄し」「火の元百人一首」等の狂文・狂歌・狂詩・川柳等あり、略)〟    ☆ ひゃっきやこう 百鬼夜行  ◯『藤岡屋日記 第四巻』p429(藤岡屋由蔵・嘉永四年(1851)記)   ◇大蜘蛛百鬼夜行絵番付      〝七月廿五日取上ゲ、大蜘蛛百鬼夜行絵之番付之事     神田鍛冶町二丁目太田屋左吉板元ニて売出し、盆前ニ配り候処、今日御手入ニて残らず御取上ゲ也。       こりもせず又蜘蛛の巣に引かゝり         取揚られるめには太田や      右番附は、袋ニ上ニ蜘蛛が巣を懸ケし処を書、正面ニ碁盤ニ大将の刀掛、紫のふくさをかけ在、燭     台を立、碁もならべ有之、化物評判記ニ在。      番附ハ、      昔々在た土佐絵の巻物ニ碁、今ハ野暮百気夜興、化物評判記さへ箱根の先ニもなき。       中ニ百鬼の絵五十計有之、正面ニハ奢と書し玉の人物、鼠色の着物着しふんまたがり、大勢の百      鬼ニ手をとられ、是をとらへ又は喰付、或ハ八方より鑓ニて突懸ん(ママ)候図也、上下ニは右之外題      書有之、左之通り也      実と見へる       忠と見せる      善と見へる       虚の化物        不忠の化物      悪の化もの      倹約と見へる      金持と見へる     貧客と見せる       驕奢之化物       乏(ママ)人の化物    金持の化物      利口と見せる      としまと見せる    新造と見せる       馬鹿の化物       娘の化もの      年増の化物      医者と見へる      女房と見せる     革と見せる       坊主(の脱)化物    妾の化もの      紙烟草入の化物      親父と見せる      米と見せる      若く見せる       息子の化物       さつま芋の化物    親父の化もの      おしやう様と見せる   冬瓜と見せる     鉄瓶と見せて       摺子木の化物      白瓜の化物      土瓶の化物      殿と見せて       山谷と見せる     ふとんと見せる       手玉の化物       色男の化物      ふんどしの化物      火縄と見せる      鴨と見せる      鮒と見せる       麦わらの化物      あひるの化物     こんぶ巻の化物      鰻と見せる       武士と見せる     物識と見せる       あなごの化物      神道者(の脱)化物  生聞の化物      銀と見へる       血汐と見せる     佐兵衛と見せる       鉛の化物        赤綿の化物      猿の化物      お為ごかしニ見せる   不思議ニ見せる           欲の化物        造化の化物    一 右は七月廿五日、板木・絵共不残御取上ゲニ相成候処ニ、直ニ重板出来也。                            八丁堀鍛冶町                                品川屋久助                            本郷四丁目                               丹波屋半兵衛      右二板出来ニて安売致ス也。        生ケ取て丹波やからハいでる筈品川からもいでる化もの〟    ☆ びやぼん ビヤボン  ◯『藤岡屋日記 第一巻』p350(藤岡屋由蔵・文政八年(1825)記)   〝此節(二月頃)世上にて琵琶音といへる鉄にて拵し笛、流行致すなり。     琵琶ぼんと吹は出羽どん/\と金がもの言ふ今の世の中    此節の流行唄に、持揚てさせもしや何の事はないと言事はやるなり    右琵琶音の笛とさせもせと言事、御停止之御触、町中ぇ出るなり〟    ☆ ひろかげ 広景  ◯『藤岡屋日記 第十一巻』(藤岡屋由蔵・文久三年(1863)記)   ◇青物魚軍勢大合戦図    〝亥ノ十一月廿二日暮六ッ時頃 町内道場橋手摺に張有之                                浮世絵師  広蔭(ママ)    此もの義、先達て不容易御時勢之事、魚青物尽しに認め、錦絵に書候を、渡世柄に候得共、其余種々正写、    画等横浜異人共ぇ贈り、猶又此度諸国城絵并両御丸絵図等贈り候事、彼地ぇ遣送候探索方より申来り、其    身分相調候得共、居処不相分、若地面又長屋等に差置候はゞ仕方有之候間、不隠置、早々居町相認、此処    ぇ可張出もの也。若隠置候はゞ、可為同罪者也     十一月廿二日                     皇国有志 連      市中家主中〟    「青物魚軍勢大合戦図」 広景画(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)    〈「青物魚軍勢大合戦図」は改印から安政六年(1859)十月の出版である。板元は辻岡屋文助。前年の夏から秋にかけてコ     レラが猛威を振るったが、この絵はそれを踏まえてコレラにかかりやすい魚と、かかりにくい青物の戦いに擬えるたと     される。しかしそればかりでなく、やはり昨年七月、将軍徳川家定の死去以降、一橋派(水戸派)と南紀派(紀伊派)     との間で激しく争われた将軍継嗣争いについても擬えたとされる。例えば、藤顔(冬瓜)は南紀派の井伊直弼、蛸は一     橋派の徳川斉昭であると。この皇国有志が広景を告発したのは、容易成らざる時勢(コレラの蔓延と将軍継嗣問題)を     題材としたこと、そしてそれを横浜の異人に贈ったこと、この二点に拠るのだろう。ただ、よく分からないは、この広     景の錦絵が出版時より四年ものちに、なぜ糾弾されることになったのかだ〉    ☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重 初代  ◯『藤岡屋日記 第五巻』p237(藤岡屋由蔵・嘉永六年(1853)記)   ◇板木没収   〝東海道五十三次、同合之宿、木曾街道、役者三十六哥仙、同十二支、同十二ヶ月、同江戸名所、同東都    会席図絵、其外右之類都合八十両(枚カ)是も同時ニ御手入ニ相成候。    右絵を大奉書へ極上摺ニ致し、極上品ニ而、価壱枚ニ付銀二匁、中品壱匁五分、並壱匁宛ニ売出し大評    判ニ付、掛り名主村松源六より右之板元十六人計、板木を取上ゲられ、於本町亀の尾ニ、絵双紙掛名主    立会ニて、右板木を削り摺絵も取上ゲ裁切候よし。       東海で召連者に出逢しが         皆幽霊できへて行けり     右之如く人気悪しく、奢り増長贅沢致し候、当時の風俗ニ移り候、是を著述〟    〈大奉書を使い極上摺の極上品が一枚銀二匁(機械的に1両=60匁=6500文で換算すると約217文)、中品一枚が一匁     五分(約163文)、並一枚一匁(約108文)とこれもかなり高価。     「東海道五十三次」は誰のどの「東海道五十三次」か未詳。     「同合之宿」も未詳。     「木曾街道」は一勇斎国芳画「木曾街道六十九次」か。     「役者三十六哥仙」は三代豊国画「見立三十六歌仙」か。     「同十二支」は一勇斎国芳画「東都名所見立十二ケ月」か。     「同十二ヶ月」は一勇斎国芳狂画「【身振】十二月」か。     「同江戸名所」は三代豊国画「江戸名所図会」(役者絵)か。     「同東都会席図会」は三代豊国画・初代広重画(コマ絵)「【東都】高名会席尽」か。     以上はすべて嘉永五年の刊行〉       〈ネット上の「江戸時代貨幣年表」によると、嘉永五年の銀・銭相場は1両=64匁=6264文とのこと。すると小売値、     極上品の二匁は195文、中品の一匁五分は147文、並の一匁は98文。「東海道五十三」は嘉永五年の刊年から、三代目     豊国のものと見た。2010/3/16追記〉    「東都高名会席尽 藤屋」 豊国・広重画(国立国会図書館・貴重書画像データベース)    ☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重 三代  ◯『藤岡屋日記 第十五巻』p505(藤岡屋由蔵・慶応二年(1866)記)   ◇戊辰戦争絵   〝辰ノ三月、爰ニ面白咄有之    此節官軍下向大騒ぎ立退ニて、市中絵双紙屋共大銭もふけ、色々の絵出版致し候事、凡三十万余出候ニ付、    三月廿八日御手入有之。      右品荒増之分     子供遊び 子取ろ/\  あわ手道化六歌仙〟    「幼童遊び子をとろ子をとろ」 広重三代戯筆 (東京大学総合研究博物館「ニュースの誕生」展)    「幼童遊び子をとろ子をとろ」二枚組・右図 左図 (東京大学史料編纂所「維新前後諷刺画 一」)    〈戊辰戦争に取材した諷刺画である。慶応四年二月に出版された「幼童遊び子をとろ子をとろ」は、子供たちの着物の意     匠から、右図が薩摩を先頭とする官軍側を、左図が会津・桑名等の幕府側を表しているとされる。また遊びを後ろで見     ている姉さんが皇女和宮で背負っているは田安亀之助、また官軍側最後尾の長松どんは長州で背負っているのが明治天     皇と目されている。「子をとろ」は現代でいう「花いちもんめ」であるが、それで戊辰戦争を擬えたのである〉