Top 『随筆百花園』浮世絵文献資料館
随筆百花園 は行☆ はるまち こいかわ 恋川 春町 ◯『よしの冊子』⑧294(水野為長著・天明七年~寛政五年記事) 〝あふむがへしの草双紙は松平豊前守殿作共申し、豊前守作成が夫を春町に託せられし共申、又豊前殿小 石川の春日町に上屋敷御ざ候故、俳名を春町とも申候由のさたに御座候〟〈『鸚鵡返文武二道』について、曲亭馬琴は 〝鸚鵡返シ文武二道【北尾重美画、天明九年正月出ッ、三冊物、蔦屋重三郎 板)】、いよ/\ます/\行れて、こも亦大半紙搨りの袋入にして、二三月頃まて市中を賣あるきたり。【流行此前 後二編に勝るものなし】當時世の風聞に右の草紙の事につきて白川侯へめされしに、春町病臥にて辭して參らす〟 と 『近世物之本江戸作者部類』に記している。春町の逝去はこの年の七月七日のことである。自殺ともいわれている。 松平豊後守は不審。春町の仕えた小島藩主は松平丹後守か。いずれにせよ、主君の作かとも噂されたのであれば、責 任を取ったとも考えられる〉☆ ぶせい きた 喜多 武清 ◯『懐寶日礼 三』(小宮山楓軒記・文化九年) ◇武清画山本北山肖像 ③53 〝山本信有、病中ニ画人文晁、武清両人ニ託シテ、己レガ像ヲ作ラシム。云ク、予ハ文武両全ノ人ナリ。 其意ヲ画クベシト。武清ガ図ニ、小具足シテ床几ニ拠リ、鑓ヲ横タヘ、其旁ニハ書籍散乱シテアルヲ画 ケリトゾ、癡漢笑ベシ。信有、去月死”〈山本信有北山は文化九年五月十八日逝去。北山は武清のこの画を見てどう思ったのであろうか〉 ◇北山肖像画 ③64 〝武清北山ノ肖像ヲ印刻シテ、三百銭ニ売ル、北山門人怒リテ、其板を奪ヒ絶交ス〟☆ ぶんちょう たに 谷 文晁 ◯『壬子東下霞害掌録』④76(頼春水記・寛政四年) (頼春水、江戸滞在中の記事) 〝谷文五郎一家風流、其父ハ麓谷ト云詩人、ソノ妻林氏其妹舜媖ミナ畫ヲヨクス。ソノ書画楼ヲ写山楼ト 云。近来白川侯手書シ玉ヘリ〟 ◯『霞関掌録 一』④188(頼春水記・享和二年) (頼春水、江戸滞在中、十月十五日記事) 〝倉成ガ米沢ノ五色洞ニ得タル盆石ヲ栗山先生ノ後赤壁ノ宴集ニ携至リシヲ、直ニ奪ヒ取テ盆ニカザリ、 小赤壁ト名テ衆客ト愛玩シテ楽シメルコト甚シ。主人ノ意高爽明潔仰グベク愛スベシ。善卿ハ憮然タル ニ似タリ。主人コレヲ文晁ニ命ジテ其石ノ髣髴ヲ写サセ、且七言長篇ヲ賦シテ贈レリ。其詩傑作ト云ベ シ。白川侯マタ文晁ニ命ジテ鶴ト月ト画キ、ソノ間ニ月白風清ノ四字ヲ隷書シテ旭峯題ストシテ栗山翁 ニ玉ハリシモノニヤ、善卿ガ家ニアリ〟〈「倉成」は中津藩教授、倉成子成(字善卿)。「栗山」は儒官・柴野栗山。「白川侯」は松平定信。「後赤壁」とは蘇 東坡の「後赤壁賦」に擬した船遊びで、七月十六日の「赤壁遊」を受けて行われた〉 ◯『霞関掌録 二』(頼春水記・享和二~三年) ◇(頼春水、江戸滞在中、享和二年暮の記事か)④190 〝山崎闇齋画像白川侯ニアリシヲ谷文晁摹セリ〟 ◇(頼春水、江戸滞在中、享和二年暮の記事か)④198 〝尾張家ノ外山ノ荘ハその広大ヲ極メラレタルモノナリ。谷文晁ヲ召シテ、五月ヨリ十月ニ至リ其図ヤヽ ナルト云フ。栗山先生ソノ跋アリ。其粉本ヲカリ吾公庫ニ一副本ヲ写シ得ラレタリ〟 ◯『懐寶日礼 十四』③279(小宮山楓軒記・文政四年) 〝友部正介曰、鵬齋義士ノ碑ヲ銘セルハ、其人ヲ慕ヒテノコトニアラズ。初メ、鵬齋、多紀安長ノ碑ニ銘 セルニ、コレヲ摺シテ売ルモノアリテ、利ヲ得タリ。サレド、官醫ノ墳ナレバ、コレヲ摺ルコト頗ル難 シ。故ニ泉岳寺ノ僧ニ談ジテ、義士ノ碑ヲ建テ、コレヲ搨シテ売ランコトヲ謀リシナリ。然ルニ、其碑 鵬齋ノ宅ニテ刻成リシ時、門人等多クコレヲ搨シテ知己ニ與ヘシユヘニ、殆ド江戸ニ遍クナリテ、摺売 ヲ謀リシモノ、利ヲ得ルコトアタハズ。彼是ト云コトアリシユヘニ、鵬齋怒リテ、其碑ヲ砕カント云ヘ ルヲ、文晁聞テ、其碑ヲ請受テ、品川ノ海ニ投ズ。サレド潮涸ルゝトキハ、碑アラハル。殆ド瘞鶴ノ銘 ノ如シト、潮来村尚一郎来リ話セリ〟 ◯『思ひ出草』⑦226(池田定常著・天保三年序) (「如是観之事」の項) 〝国学乃至衆技緇流を合せ、旧交の人は悉くうせ、唯画家にて谷文晁兄弟、渡邊昂のみ存し〟〈渡邊昂とは崋山のことか〉 ◯『閑談数刻』⑫237(著者未詳・「明治九年六月」の記あり) (「亀田鵬斎」記事) 〝(鵬斎)先生大に酒を好みて一樽づゝ台所にありて、客にも出入のものにも下男下女にも飲ませ、醉の さむる事はなし。 泰平の我は瑞也醉たをれ 駐春亭亭にて書画会有し時、文晁、酒樽と本の画を書し中に先生の賛を幸次郎願ひければ、 仮の世を仮の世なりと仇にすな仮の世ばかり己が世なれば けふものぶべし翌日も呑べし と書て被下しを三幅対になしたり。【今にあり】〟〈「駐春亭」は『武江年表』「享和年間記事」に〝下谷龍泉寺町の駐春亭、文化年中より盛なり〟とある。「幸次郎」 はその田川屋駐春亭の子息〉 ◯『無可有郷』⑦404(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立) (「画の工夫」の項、天保三~九年の記事) 〝近頃文晁翁席上にて画を請ふもの多く、煩に堪へずとて、硯蓋の蓮根に墨を湿しつゝ、扇面に印し、落 款して與へしを喜びて持帰りし人あり。是も工夫といえども、前の人々(筆者注、狩野探幽・北斎等) に比すれば甚だ劣れり(ママ)見ゆ〟 ◯『椎の実筆』⑪421(蜂屋椎園著・天保十三年) (文書は天保十三年正月のもの) 〝谷文晁勤書 【御近習番頭取次席/奥詰御絵師】谷楽山 寅八十 高百五拾俵 内【五拾俵三人扶持/金拾両】持高 外銀三枚 (頭注)此楽山ノ號ハ、文晁没後イマダ内々ナル時、将軍家御他界文恭院殿と謚奉ルニヨリ、文ノ字ヲ 憚リ、姑ク楽山ト號セシ也。父谷十次郎、御普請奉行相勤候節被召出。 私儀、天明八申年四月九日、従部屋住被召出、奥詰見習被仰付、勤之内、高五人扶持被下置候旨、於御 家老衆詰所前御廊下、蜷川相模守御出座、嶋村惣左衛門殿、間宮帯刀殿侍座、相模守被仰渡。寛政二年 戌年十二月七日、勤之内高拾人扶持被成下候旨、於御家老衆詰所前御廊下、蜷川相模殿御出座、嶋村惣 左衛門殿、間宮帯刀殿侍座、相模守殿被仰渡。同四子年三月廿四日、越中守殿附被仰付、高百俵被成下 候旨、於御家老衆詰所目御廊下、蜷川相模守御出座、杉浦猪兵衛殿、東條権太夫殿侍座、相模守殿被仰 渡。同九年九月朔日、高百俵五人扶持ニ被成下候旨、於奥溜、佐野豊前守殿御出座、中嶋伝右衛門伝、 万年七郎左衛門殿侍座、豊前守殿被仰渡。同十一年未年四月廿四日、出精相勤候ニ付、御近習番格被仰 付、高百五拾俵被成下候旨、於御囲炉裏之間、松平伊勢守殿御出座、東條権太夫殿、中沢舎人殿侍座、 伊勢守殿被仰渡。文化六巳年九月、父十次郎病死仕、同年十二月十六日、父跡式無相違被下置候旨、於 御囲炉裏之間、石谷周防守殿御出座、笹本彦太郎殿、境野六左衛門殿侍座、、周防守殿被仰渡。同八未 年十一月六日、数年出精相勤候ニ付、奥之番次席被仰付候旨、於奥留、嶋村惣左衛門殿被仰渡。同九申 年四月十日、楽翁殿、此度御隠居被成候ニ付、御附御免、八丁堀より被仰立も有之候間、格式只今迄之 通ニ而、奥詰被仰付、是迄御附無滞出精相勤候間、年々銀三枚宛被下置候旨、於御囲炉裏之間、山本伊 豫守殿御出座、境野六左衛門殿、秋間東兵衛殿侍座、伊豫守殿被仰渡。文政二卯年四月十五日、於御前、 頭役助被仰付、畢而高外銀共取来之通被下、奥兼被仰付候旨、於表溜、柳沢佐渡守殿御出座、中沢舎人 殿、内藤新十郎殿侍座、佐渡守被仰渡。御絵御用是迄之通被仰付候旨、於土圭之間、牧備後守殿御出座、 竹中半十郎殿、野間又三郎殿侍座、備後守殿被仰渡。席之儀は御近習番頭取次席被仰付、田付鐵五郎、 遠坂庄司上の可相心得旨、於奥留、中沢舎人殿被仰渡、即日剃髪被仰付。天保四巳年十一月十八日、老 年罷成候ニ付、御絵御用宅ニ而相認、御用之節は格別、平日は壹ヶ月壹度宛可罷出旨、於奥留、小泉理兵 衛殿被仰渡。同七申年八月廿一日、大納言様御願之通、御勤向御用捨被仰出、唯今迄被懸候御賄料其儘、 右衛門督様エ被為進候旨被仰出。翌廿二日御附人御附切、御抱入之者共、唯今迄之通被為附候旨、松平 和泉守殿被仰渡候段、於御囲炉裏之間、牧丹波守殿御出座、竹中織部殿、高橋次大夫殿侍座、丹波守殿 被仰渡。同十亥年三月廿六日、中納言様尾州家御相続被仰出、御跡は、群之助様エ御領知其儘被為進候 旨、被仰出、同廿八日、唯今迄之通被為附候旨、水野越前守殿被仰渡候段、於御囲炉裏之間、朝倉播磨 守殿御出座、小泉理兵衛殿、桜井藤四郎殿侍座、播磨守殿被仰渡、當寅年迄御奉公、都合五十五ヶ年相 勤申候。右之通御座候以上。 正月 谷楽山 右谷文晁勤書ハ、山本義辰遺蔵反故中ニ獲タリ〟〈「當寅年」は天保十三年にあたる〉 ◯『在臆話記』(岡鹿門談話・明治四十年成立) ◇「第一集」①38(嘉永五年頃か) (「書画会」の項) 〝(聖堂罹災後、書生寮再営の時、寮則を定める。その条中に)書画会ニ望ムヲ禁ズ。其所以ハ、三博士、 学制ヲ宋学ニ一定ス。他ハ異学ト唱ヘ、諸藩モ此ヲ以テ学制ト為スニ至ル。山本北山、亀田鵬斎、此事 ニ大不平、且ツ朱学ニ非ラザレバ、禄仕登用ノ途モ塞ガリ、第一糊口ニ窮スルヲ以テ、五山、詩仏、菱 湖、文晁、主唱者ト為リ、知名ノ詩文人、書画ノ名家ヲ集メ、書画会ヲ万八楼ニ開キ、翰墨席ヲ設ケ、 娼妓酒ヲ行ヒ、揮寫ヲ求ムル好事者、士庶貴賤、雑客千百人ヲ会集、満都ヲ狂奔スルニ至ル。然ルニコ レヲ文雅盛事トカ、書画風流トカ、四方ノ游学書生ヲ誤ル細少ナラズ。故ニ此條規ヲ掲ゲ、此書画会者 流ヲ下町派ト唱ヘ、之ヲ賤ミ興ニ齢セザル事ニ定メ、此條規ヲ設ケタリ〟〈所謂「寛政異学の禁」が書画会の発端である由。この書画会は寛政四年正月十七日の開催である。「大田南畝全集」 の項目参照。この日の席画は『二水七画画巻』としてまとめられ、それに、文化七年四月、大田南畝(遠桜山人・ 杏花園の署名)が識語を記している。青雲の志を抱いて聖堂に入学した書生にとって、江戸の書画会は学問の妨げ だとする考えも、幕末にはあったのである〉 ◇「第三集」②31 〝三都骨董店ニ山陽、竹田、文晁ノ書画ノ堆積同様ナルニ呆レ〟〈仙台藩士・岡鹿門の幕末の見聞。文晁、頼山陽・田能村竹田に並ぶ人気であったか〉 ◯『諸国廻歴日録』⑬252(牟田高惇著・嘉永七年四月十九日) (佐賀藩士・牟田高惇の剣法諸国修行日記より) 〝(筆者注、上総国成田の荒海宿にて飯岡郷の大河という武士より)米庵書、并文晁の画石摺にして壹枚 被呉候〟☆ ほういつ さかい 酒井 抱一 ◯『閑談数刻』(著者未詳・「明治九年六月」の記あり) ◇(「よし原角町司役山口庄兵衛」記事)⑫230 〝俳名心牛空光洞と云、花街初ての肝煎にて慈悲陰徳の人也。抱一君毎夜よし原へ来給へるに、もし何事 かあるまじかと酒井侯より内々の御頼有て御扶持を下されたるよし。 角町、揚や町、京町壹丁目貳丁目支配也。わづかの金子にて出入事の下らざる時は、庄兵衛自分に金子 を持出し埒明し事度々あり。【風流行せし時煎薬を日々施したる事あり】俳諧は鴬邨君の門にて、文政 之頃は日毎に点取を催ふされ、亀貝【後に晩得】青峨【田村隠居】至言【後に佐知】李岱、能阿【向じ まはせお堂】雛屋、郭中にて上手は平道【此人も古き俳人にて湖十青峨も不及と言れし】魯育【中の町 山口巴や隠居、茅町青峨の父也、点取りの上手也、現阿の兄也】白茅【新甫と云、又日阿と云、海老や 源吉と云し判人也、高名なる人にて至而才子也】正朔【江戸町名主竹しま仁左ヱ門】此外連中来り日々 遊びたり 羽織着ぬ人に人あり夏の月 心牛 句は是のみ覚てをれり。【遊芸何も不為】 和歌を蓮阿に学び、御家流の書をよくして弟子数多あり。養子心水子に家を譲り別宅し、 剃髪して蘇平 と改む〟〈「鴬邨君」が酒井抱一〉 ◇(「抱一上人の御発句集の中に」)⑫231 〝岩倉三位殿不二の山見んとて忍びて吾嬬に下り給ぬとて立よらせ給ふに不計謁見して 上人 岩倉のしのび音もれつ時鳥 御かへし 山寺の青葉がくれのほとゝぎすきく人からに聲ぞそへぬる〟 ◇(「大文字や市兵衛」記事)⑫236 〝大文字や市兵衛【大かぼちや三代目也。京町壹丁目家持。南瓜、落髪して宗園と云】抱一上人に画を学 び南瓜と云。(中略)(注、大文字屋の)千束別荘に藁ぶきの人丸堂あり。自在釜をさげ薄茶煎茶を用 ふ。人丸の像は頓阿法師の作なり 抱一上人人丸の画に千かげの賛の碑あり。 父元成、母木綿子歌をよみたればなり。 三月十八日人丸堂にて詩哥連俳諸々の雅人来る。平生の連中はだんご売すし売よめ菜売などにやつして 庵にて商ひをする。座敷には霊宝を人々思ひつきて錺る。(中略) 又ある年貝尽しにて、 染附の徳利茶わん ぶら/\貝 鴬邨君 たばこ入れにきせる筒 わすれ貝 小鸞女君 此外略す 赤良菅江(ママ) 手からの岡持 ねぼけ先生 大やうら住 千かげ 常かげ 跡鳥 鴬邨公 小鸞女【元大文字や遊女賀川と云し】外略す。各和哥発句をさゝぐる〟〈「赤良菅江」は、後に「ねぼけ先生」(四方赤良)とあるから、朱楽菅江の誤記か。菅江は寛政十年没。手柄岡持、 文化十年。四方赤良、文政六年。大屋裏住、文化七年。橘千蔭、文化五年の没である。常かげ(とかげ)、跡鳥は未詳。 「小鸞女君」は⑫237に〝鴬邨君妾〟⑫281に〝後に剃髪して妙華尼と云〟とある人〉 ◇(「鶴屋大淀」記事)⑫246 〝ある人大淀かたへ馴染通ひけるに、鴬邨君も折々遊びに行給へるを、わけありての事成べしと人のうわ さしけるを聞て、 きのふけふ淀の濁や皐月雨 と書して後めにかけたるに、鴬邨君、 淀鯉のまだ味しらずさ月雨 と返しをなし給へるを聞て、大淀、 ぬれ衣を着る身はつらし皐月雨 といゝ訳してうち連、うたぎ舛やにて一盃の笑ひしと也〟〈この大淀は〝京町壹丁目つるや市三郎抱 よび出し 大淀郭中壹人の美女也。眼の涼やかなる事、靨の入る事、聲音の 可愛らしき事すゞ虫の如し。此外申ぶんなし〟⑫246とあり〉 ◇⑫254 〝保が谷の枝道曲れ梅の花 鴬邨公御筆にて此碑を程が谷へ御建被成候。杉田梅林の入り口也 此碑昨年も一指見て参候〟〈「昨年」は未詳。「一指」は田川屋駐春亭の子息幸次郎の法名〉 ◇⑫254 〝【元吉原大俵屋/後菜種屋】木釜、【よし原/額たわらや】朝三の両人は、鴬邨公の其角、嵐雪と評し たり〟 ◇(「十寸見沙洲」記事)⑫254 〝栄川の払子の画に鴬邨君の、 初祖いかに馬の尻尾の蠅はらひ といへる句あるを居間にかけたり〟〈沙洲は八代目十寸見河東、斎藤月岑の『声曲類纂』は文化十四年没とする〉 ◇⑫281~284 〝等覚院前権大僧都文詮暉真 世人 抱一上人と云、誹名 屠龍、狂名 尻焼猿人。 御俗名 酒井栄八郎殿、庭柏子【前出の画に此名あり】 軽挙館、雨華庵【大塚御住居の節】 別名狗禅とも 御住居 大手【御句集に小かねの駒とあり】 本所 椎の木やしき脇、 大音寺前【千束村と云、大もんじやうしろ裏道也】 鳥ごへ紙あらひ橋角 下谷金杉うしろ大塚村鴬邨【初音の里と云、雨華庵是也。此所にて御命終】〟〈「等覚院文詮暉真」が酒井抱一の法号。文政十一年没〉 〝常にすげ笠をかむり、小さき脇ざしをさし、野辺を好せ給ふ。画人、茶人、俳人召連られ、向じま梅や しき菊塢方長浦の辺えも何となく行給ふ 長浦茶店にて子日に 松薪も引けや若菜のゆでかげん 王子へも折々いらせ給ふ。 髷にさす王子みやげや穂に出る (小鸞婦人と以一の句、略)〟〈「菊塢」は佐原菊塢。彼の向島百花園(新梅屋敷)は文化元年の開園〉 〝鴬邨君五六人召連王子へ入らせらるゝ細路にて、向ふよりはなれし馬のかけ来るを、人々のいかゞせん とあはてたる時、鴬邨君先へすゝませ給ひ、皆々おどろきそと、御言葉もおはらざるに、馬のかけ来る を取おさへ給ひ、召飛乗てしづ/\とあゆませ給ふに、口取侍二三人追来り、感心いたし、厚く礼をの べ曳行たり。つれ給ひし人々もあやうき難を逭れ、初めて馬にめしたるを見て、御身からの恥を思ひ、 尊敬いたしける〟
〝景樹大人江都へ下りて、鴬邨君を御尋申せし時、御逢不被成帰りし跡にて、駐春亭まで此手紙を遣し給 ふ。 先刻はわざ/\御尋被下、千万忝候、折ふし取込にて御目にかゝらず候、おし付よし原まで出張仕候 間、夫に御待可被下候。 音羽山音にのみきく君が名をたちなかくしそ五月雨の雲 御なぐさみ御覧に入候、後刻合羽かけにて拝顔万々御物語可申とたのしみ居候。 五月 雨華庵 委細は此ものに尋可被下候 景樹様〟〈歌人香川景樹の江戸滞在は文政元年とされる〉 〝浅草奥山人丸堂は吉原江戸(ママ)二丁目名主西村佐兵衛実父隠居藐庵宗先 哥名 伊村の建られし時、聯に 句を願ひければ 俳諧師等も雲と見るさくらかな 俳諧師らといたされたるは、御身からゆへと人々感心したり〟
〝毎日夕七ツ頃より、僕壹人召連、多分駐春亭え御立寄、御夕飯召あがり、入湯遊ばし、京町大もじやの 裏てよりよし原へ入らせけり。 駐春亭に、御膳、椀、御ゆかた、別にあり〟
〝角町松葉屋【半蔵と云】粧(ヨソホヒ)、京町大もんじや一元(ヒトモト)方え遊びにゆかれけり。ある時大もんじ や笑寿講にて客来り、間狂言を致しけるに、鴬邨公は鼓をうち給へば、がくやへゆきたり。見物をし給 ひたり、二階へゆきたり、あちことと歩行かるゝを見て、一元新造に申つけ、鴬邨君の煙草入を畳のへ りへ一針縫つけさせしをしらず、又々何れへかゆかんと思召、煙草入を取らんと被成しに中/\とれざ るゆへ、そばなる遊女ども皆々大笑被成たり。尻やけの猿人と御自分より名乗られけり〟
〝美男にて入らせ給へば、ある新造しきりにしたひ参らせしに、きらはせ給ひしに、雪の日俳諧師鴈々方 にて炬燵にあたり居給ふ所へ、かの新造めしあがり物などあたゝかくして沢山持来り、真実をつくしけ るに、思はず夢を結び給ふて帰り給ふ時、 鰒くふた日はふく喰たこゝろ哉 と、わる紙【よし原にてはすき返しを云】へ矢立もて書て鴈々に見せられわらはせ給ひけると、鴈々よ り承りたり〟〈「駐春亭」は『増訂 武江年表』「享和年間記事」中に〝下谷龍泉寺町の駐春亭、文化年中より盛なり〟と記される 料亭で、山谷の八百善、深川の平清と並び称せられた。「鴈々」は⑫242に〝西瓜【大文字ややりて忰にて巳之助と いふ小間物や素人狂言の上手也、後に俳諧師鴈々と成ル】〟⑫255〝山鴈々(ガン/\)【吉原京町角に住居して、小間 物、扇などを売、尾張や巳之助と云。西瓜と云、貝合と云】〟とある〉 〝一もと、粧ひの後、遊びにゆかれしは、 よび出し 白玉 江戸町弥八玉屋 〃 大淀 京町つるや〟
〝巳の御年ゆへ江のしまへは度々御出被成候。 神奈川羽根沢や泊、翌朝御出立、参詣して又はね沢へ御泊。或年江のしま渡し場までゆきて、遙拝して 帰り給ひし也。【小子も御供致せし事あり】昼休茶店などにて一寸横に成給ふ時の枕には、桐の茶箱を 少し高くこしらへ置、薄茶の跡にて枕にし給ひたり。 茶箱裏書附 宇宙都廬一枕頭 摘録蕉中和尚之句 狗禅蝸 一指所持〟〈「一指」は下谷の料亭、田川屋駐春亭の子息幸次郎〉 〝よし原へ泊り給ふ事は一夜もなく、四ツ時前に御帰り被成ける。與助と申下男、酒んに酔て歩行覚束な き時は與助壹人駕籠へ乗せ、御自身は歩行みて帰り給ふ〟
〝書画、和哥、茶の湯、香道、皷、尺八、河東節【七代目東雲河東、後に田中に住居せし沙洲に御けいこ】〟
〝武芸の中にて、馬術、剣術、刀の目利、能遊ばしたりと云。 尺八の露取の麻へ蜘の巣を染させ、銀にさゝがかにを鋳させ、尻より糸のつくやうにして、笛の中の 露を取給ひしと仰ありたる事、思ひ出したる侭に書〟
〝うごかぬも動くも人のこゝろかなまさしくすめる水の上の月 是は懐紙にて、金五両に売れ申候 久松町脇村(【左注「鴬邨君内弟子】買候て、鴬邨君追善の茶をいたし申候〟
◇(「松葉や粧」記事)⑫294~6 〝和哥発句 鴬邨君〟
〝黒天の被布に裏紫羽二重に金泥計にて、梅の画抱一上人、鵬斎先生賛〟
〝年中着類、上人下画〟
〝抱一上人、宗微、日々来る〟
〝団扇【上人月の画】 庭の面はまだかはかぬにといふ哥。 粧の書にて数多出したる事あり〟
◇(「駐春亭」風呂場の記事)297 〝家根の真中に鵜の焼もの置。 濡て又乾くこころ也。鴬邨君下画〟
〝鶴梅 寒中見舞 鴬邨君初て手拭の下画を遊ばしける〟☆ ほくさい かつしか 葛飾 北斎 ◯『無可有郷』⑦382(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立) (「浮世絵評」の項) 〝予が論ずる所は浮世絵なれば、右の論(画に王道覇道のありしこと)益なしといへども、筆意の説論ぜ ざるべからざるものあり。北斎似をかゝず、あたはざるにあらず。せざるなり。国貞山水花鳥をなさ ず、あたはざるにあらず、是またせざる也。これ王道ならざる故なり。此二人覇気の甚しきもの故、下 してやすきにつく事能はず、おもふまゝに、おのれが長をずる所は各古今一人なり。其餘名人多しとい へども、みな王覇をかねて而して漸なるゆゑに、何にても出来ると雖も、彼二人長ずるところの如くな らず。世北斎筆意よし国貞形似よしといふ。皆誤りなり。北斎の画ところ山水花鳥人物みな如此、筆者 (ママ)ならざるべからず。是を哥川家にて絵かゝばあしからん。国貞の画く俳優人物、その餘の機械また 如此。筆意ならざるべからず。是を北斎流にて画けばあしゝ、ゆゑに各相容れず、一流を立ること其宜 しきを得たり。然るに柳川重信、哥川国直の徒相混じて用ゆ。愈其至らざるを見る。予その人に為に一 言して迷ひを解かんと欲す。北斎の画を見るときは、人其筆の曲を見てよろこばしむ。繪よふはいかな るものなりとも構ふことなし。人物の形は只奇なるをよしとし、人物鳥獣の形ちも其理なきことをかき て、人を驚かす。何ぞ其人物鳥獣に相似たるを期とせんや。往々鬼魅魍魎を画く、此其長ずる所なり。 其画くところの人物鳥獣生動のもの少しも心ありて働くものなし。みな作り物なり。其働く様はみな北 斎絲を引き心を入て働かすなり。その物々の心にあらず。故に見て奇なり。国貞が絵は、似がほ美人其 餘春本の仕組といへども、皆世人の目にありて、只他人のかゝざるを恨みて居たる所を、其侭画くあり、 たま/\未見ざることを画くといへども、人々心の内にかくあらんと思ひ、夢などにて見るやうなるこ となり。故に見る人其心を忖度されたるに驚きて、筆意などのことに及ぶに暇あらず。然ども筆意無理 多ければ、人人往々其見るに邪魔なるを覚ゆることならん。国貞な<ママ>し。また筆のきゝたる者にあら ずして何ぞや。況や春本は作者の用意を汲取、邪正男女老若此人々の五情を備へざれば本本に當らず。 就中柳亭の芝居がゝりは、狂言の筋のみにあらず、役者の身振りを専らとす。故に役わり其人を得ざれ ば趣向面白からず。国貞其意をしり、此人此役をするときは、如此ならんと、心の思ふ処を計りて画く ゆへに、人みたることもなき古人なども、成程如此ならんと思ふ。これは長ずる所なり。如此論じて而 して後初て平等ならんかし〟〈鈴木桃野は「其筆の曲を見てよろこばしむ。繪よふはいかなるものなりとも構ふことなし」と言い、「みな作り物な り。其働く様はみな北斎絲を引き心を入て働かすなり。その物々の心にあらず」とも言う。つまり北斎の本質は自在 な運筆の妙であり、また写生を超えた作為にあるのだと言えよう。写生してその物自体に宿っているものが自ずと気 韻生動を発現しているのではなく、北斎が絵図に自ら魂を吹き込んでいるというのである〉 ◯『無可有郷』⑦404(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立) (「画の工夫」の項、天保三~九年の記事) 〝先比葛飾北斎翁御上覧の画をかきしとき、鶏尾に藍水を濡し、足に臙脂を濡し、紙上を走らせしかば、 自然と龍田川を成せりといふ。何れも画の工みなるのみならず、工夫もまた常人の及ぶところにあらず〟