Top              『新燕石十種』            浮世絵文献資料館
   新燕石十種               は行                 ☆ はるのぶ すずき 鈴木 春信    ◯『翟巣漫筆』④附録「随筆雑記の写本叢書(一)」p7(斎藤月岑書留・明治二年記)   〝(鈴木春信の一枚絵)うへ木うり なりひら橋なり平 華涼しミづきはだてに家橘ばた〟   (斎藤月岑の注)   〝類考に春信、歌舞伎を画かざるといへり、然るに如此図あり〟   ◯『百戯述略』④226(斎藤月岑著・明治十一年成立)  〝明和の頃、鈴木春信より一変いたし、彫刻入念、彩色の返数も相増し、専ら流行いたし〟    ◯ 同上 ④227   〝(彩色摺に関する記述)明和中、鈴木春信の時、紅、丹、藍、緑、紫、浅黄、薄墨等の彩色摺有、奉書 の紙へダウスを引、見事にて、彫刻も格別入念たり”    ☆ はるまち こいかわ 恋川 春町    ◯『伊波伝毛乃記』⑥121(無名子(曲亭馬琴)著・文政二年十二月十五日脱稿)   〝草冊子に滑稽を尽せしは、明和中、喜三二、春町が、金々先生栄花の夢、及高慢斎行脚日記、これ其嚆    矢なる者なり、喜三二に亜(つぎ)ては、恋川春町、俗名を忘れたり、こは小石川なる松平丹後侯の留守    居なりき、(中略)天明の末、喜三二が文武二道万石篩、春町が鸚鵡返し文武の二道【こは万石篩の後    編なり、其明年出たり】三和が天下一面鏡の梅鉢等の草冊子、大(イタ)く行てたれども、頗禁忌に触るゝ    をもて、命有て絶板せらる、(中略)是よりの後、喜三二は草冊子の作をせずなりぬ、(中略)春町は    其明年みまかれり〟    〈『金々先生栄花夢』春町作・画・安永四年刊。『高慢斎行脚日記』春町作・画・安永五年刊。『文武二     道万石通』喜三二作・喜多川行麿画・天明八年刊。『鸚鵡返文武二道』春町作・北尾政美画・寛政元年     刊。『天下一面鏡梅鉢』三和作・栄松斎長喜画・寛政元年刊。春町は寛政元年七月七日歿〉     ☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重    ◯『翟巣漫筆』①附録「随筆雑記の写本叢書(一)」p7(斎藤月岑書留・弘化四年記)   〝山の端にかたふく迄はかたふけむよにおもしろき月の盃 游清     右一立斎広重子烟包へ、本間游清子書付られし歌也〟   ◯『百戯述略』④226(斎藤月岑著・明治十一年成立)   〝豊春の門人豊広が弟子に、一立斎広重【近藤十兵衛】是は、山水、名処、一枚絵に画出し、世に被行申 候〟    ☆ ぶせい きた 喜多 武清    ◯『翟巣漫筆』②附録「随筆雑記の写本叢書(二)」p7(斎藤月岑書留)   (喜多武清、安政三年十二月廿日逝去、辞世・戒名)   〝来てみれハ二本榎の面白き話相手は雪周一蝶    洞玄院幽誉可庵武清居士〟    ◯『写山楼之記』⑤52(野村文紹著・明治十五年成立)   (谷文晁門人)   〝喜多武清 【安政三年歿、八十一、号可菴、笑翁、字子順、五清堂、八丁堀住、平民】         【男武一、二男武一、号探斎】       門人【武金、武景、京水】〟    ☆ ぶんちょう たに 谷 文晁    ◯『寐ぬ夜のすさび』(片山賢著)   ◇「文晁の銅印」の項 ⑦229(文政五年二月下旬記)   〝(文政五年二月廿日ころ、片山賢、画印の彫刻を依頼せんと白馬台の幹斎を訪う、幹斎曰く)画師文晁    がよく用ふる所の印に、(一字印字不能)かくの如くなるあり、是はかれが庭の土中よりほり出したる    印なりとぞ、銅印にて、至てふるきものにて、雅なりければ、己が印となしぬ。文字はかれも読み得ず    とぞ、いと興あることなり、とかたれり〟     ◇「文晁」の項 ⑦233(文政五年七月二日記事)   〝七月二日、旧家に遊ぶ、画談、大人曰、今文晁専ら探幽以上の和画を愛すと、是かれが高尚一変せしな    らん、思ふに、今高尚なるもの、其古きを愛すれど、其なす所の画は甚器用なり、これ真の高尚にあら    ず、源鱗いへる事あり、今専ら古きを尚び、米芾、董其昌などを愛するもの多し、是たゞ漢国を愛する    のみ、真の古雅なるものは、此国の古しへにあり、日本三筆の中、二王に似たるあり、と華人のいへる    など是なり、必しもから国にのみ癖することなかるべしと、誠に確論なり、文晁も、元明などの古き所    は、かきて/\かきつくし、終にこの国の古しへに高きありなどゝ心づきて、今専ら是をなすならん、    かれが修行は論ずべからず、元は画の器用なる事をなして、終にこゝを見やぶりて今の所をなす、其高    きことまことに尚ぶべし、しかれども、今画をならふもの、文晁の真似をなしては、其儘和画をならふ    がごとし、論るに足らず、是をなすものは、誠に文晁一人にとゞまるべし、といへり、又曰、汝今より    心をつけて、名利の二つのものを忘るべからず、しかれども、汝に文晁が才なく、文晁が修行なく、文    晁が勇なし、三つのものみなかく、是名を求るとも及ぶべからず、しからば、利を求むるにしかず、名    を欲して能はずんば、利を得て富貴なる事をおもへ、其利を得んことを欲せば、人の不意に出す所の鷹    よく画く歟、或ひは美人を真の美人に画くか、この二つなるべし、是甚つたなく卑き計のごとくなれど    も、その中に高みあり、もし其真の美人の類を画かば、画をなすものは甚だ笑はん、俗者必ずよろこば    ん、よし画師に笑はるゝ共、笑はゞわらへ、俗によろこばれて、利を得て富貴なる、是も又こゝろよか    らずや、といへり〟    〈源鱗は書家・沢田東江のことか〉     ◇「文晁」の項 ⑦244(文政六年三月十一日記事)   〝文政六年三月十一日、きのふ、雲渓【名永年、村田氏、通名正助、小石川たんす町に住す】不忍弁天の    別当にて、書画の会を開しき、余も其席につらなる、ある人文晁に画をたのみしに、折ふし、ゑのぐつ    きて座右にあらざりければ、側にありし杯盤の煮肴の汁にて、うす赤き水隈をとりぬ、頼める人これを    得て甚だよみし、誠に奇にして雅なりなどのゝしりき、さすがの文晁なれども、あまり洒落にすぎたり    といふべし、これをよろこぶ人の心は我はしらず〟    ◯『睡余操瓢』⑦附録「随筆雑記の写本叢書(七)」p6(明治三年頃・斎藤月岑書留)   〝通三丁目ことぶきの額      文晁画、富士に波     山路雲間没    長門介景樹    絶々に雲間よりこそ見えにけれ山路の末やミねの俤     辛酉正月廿八日一件〟    〈この辛酉は文久元年か〉   ◯『睡余操瓢』⑧附録「随筆雑記の写本叢書(八)」p6 (明治三年頃、斎藤月岑書留)    「小松 文晁筆」   〝子日する野辺に小松の大臣はいまも賢者のためしにそひく 蜀山人〟    「文晁筆 舟帆遠山」   〝新川に下戸のたてたる蔵もなしミんな上戸のはらへ入船 蜀山人〟   「文晁の画る蝶の扇へ」   〝今はやる人の書たる絵扇を蝶々しつかにこしへさしこむ 蜀山人〟     この扇に三馬の詠を請う“今はやる蝶々しつかをかゝれては~     この頃蝶々しづかにさしこめこりゃ又なしかいといへるうたはやれり〟  「文晁筆 蜆子讃」   〝維此蜆子魚悔為用別不怪一堕落僧 南畝〟    (文化末の南畝揮毫、斎藤月岑の父親の書留)    ◯『写山楼之記』⑤49(野村文紹著・明治十五年成立)   〝谷文晁翁は、幼稚より加藤文麗の門に入、【北山寒巌、又号馬文圭、旧幕与力、下谷与力町住】画道を    学び、追々上達に至り、画風を脱し、宋、明、又は土佐に依り独立す、芳名海外までも轟く、往年二七    の稽古日には、仕出し屋の料理にて、楼上には、筆売玉宝堂主人、定式筆墨をひさぐ、正月十二日発会、    十二月十二日納会には、柳橋なる芸技四五名雇入、九月九日は生誕日なれば、楽人数名雇、音楽催し、    芸技も雇、来客社中も集り、盛大の宴なり、往年、日本橋なる魚河岸懇意より、生魚壱車【俗に大八車    といふ】贈りし事あり、其節の贈り状近年まで存在、一見せしことあり、【高玄対、狩野光定に学ぶ、    従三輪執斎修王氏学、又就笠原雪渓学詩】    寛政の頃、桑名侯【松平越中守】伊豆、相模、武蔵順廻之節、随行被命、各地真景写取、公余探勝と号    ふ、多巻にて、当今も旧桑名侯之所蔵也、【其節拝領物写】     寛政五年三月十日、越中守、豆州、相州筋浦々廻村之節、差添被遣候に付、賜白銀三枚     文政四年三月、水野出羽守へ差出伝来書           狩野如川周信門弟、加藤文麗門弟                      谷 文晁     唐絵教方も惣て探幽法印学古之向より取来、古土佐大和絵をも相用認、惣て探幽斎已来之教方になら     ひ、唐画の儀、古画にならひ候て、法ごと其外諸流古来より立候、巨勢、土佐、宅間、住吉、曽我、     二階堂、柴法眼、雪舟、近世南蘋流、光悦、光琳之類に至候ても、流儀立候家には相学、奥儀を尽し、     上古の画風を本立に致、下流に至候ても捨不申、執心仕候を第一に致候事       三月八日                                 谷 文晁    享和年間、自筆肖像清朝へ贈る、清朝人劉墟原讃を添、返却あり、    中年まで酒を禁じ、後年殊之外酒をたしみ、日々朝より酒宴始、夜に入迄もたへず、来客に進めもし、    いなむ者は大に不興なり、ゆゑに、新川の酒印にも、(文晁の印)と印せる樽も出来たり、    其頃、田安侯、桑名侯へ隔日出頭なし、帰宅後迄も認物なす、夜業終れば、青楼仲の町なる森田屋にて    全盛に遊び、其儘夜中帰宅なす、翌日は早朝より認物あり、其頃の口ずさみなりとて、     吉原に花を咲せて早帰り    天保十年九月一日、七十七賀宴、両国なる万八楼にて催す、当日来客、午後に至ては、錐を立つ地なき    程にて、席上揮毫も酒宴も出来ず、各々楼上に立たる儘なるゆゑに、近ぺんなる亀清を借受たり、     当日は肴は何程か聞もらせしが、酒は六樽半明きたり、    著述     松島名所図会、漂客奇賞、画学大全、画学集説、歴代名公画譜四冊、十八学士、武学大全、     君臣図像三冊、本朝画讃【毎年出版】、画学叢書、集古十種【桑名侯蔵版】、     日本名山図譜三冊【北畠茂兵衛蔵板】    宝暦十三年九月九日生、    下谷二長町住居、楼上より不二山眺望よし、故に写山楼の号あり    天保十一年十二月十四日病て卒す、行年七十八、浅草五台山源空寺葬、     本立院生誉一如法眼文阿文晁居士    時世、     ながき世を化おふせたるふる狸尾さきなみせそ山の端の月       (以下「谷氏系図」省略)       文晁【谷文五郎、旧田安藩、下谷二長町住、名文晁、字文晁、号写山楼、画学斎、画禅居、初文朝、        又師陵、一如居士、無二庵、蜨叟】       文晁妻 幹々【林氏、文一郎妻於宣母、号翠蘭、寛政十一年七月廿三日歿、源空寺葬】      養男 文一郎【旧田安藩、文政元年三月八日卒、三十二、号痴斎、実家医師利充某】         文二 【旧田安藩、実長男、文化九年生、嘉永三年五月十一日歿、三十九】                  門人、次第不同    喜多武清 【安政三年歿、八十一、号可菴、笑翁、字子順、五清堂、八丁堀住、平民】         【男武一、二男武一、号探斎】       門人【武金、武景、京水】    酒井抱一 【初文晁門人【雨華庵、根岸住、号文詮、継男道一】       門人【鈴木其一、男守一、池田孤村、花村抱山、守村抱儀、田中抱二】     渡辺崋山 【天保十二年十月十一日歿、四十九、字伯登、号禅楽堂、名定静、称全登、男小華、旧田原藩          門人素堂】    高久靄崖 【継男隆古、両国住】     門人椿椿山【称忠太、旧幕鎗同心、天保十四年歿、門人野口幽谷】    根本愚州 【字成、旧二本松藩、名溥器】    菊池文海 【旧幕藩鎗同心、四谷鮫ヶ橋住、号子哲、石神窟、称喜十郎】    粟津文三 【旧膳所藩、八町堀住、号嘉、又集長堂】    目賀田文信【旧幕天守番頭、後開成所頭取、号画仙窟、名守蔭、称帯刀、初称兵衛、芥庵兄】    川島文尊 【称酒樽、旧幕奥坊主絵番、名宣昌、祖先家康公より拝領依頼、代々号酒樽】    西番口文英【字英雲、同断絵番、番長住、名同号、竹軒、実性、松安、旧宅八町堀福本】    袴田文基 【旧浜松藩、称十平】    直井文盟 【旧幕藩】    高橋文馨 【旧幕藩、与三郎舎弟、下谷住、称達五郎】    高川文荃 【旧松本藩、武蔵所沢産、初称平蔵、実性三上】   松原文忠 【旧松江藩】    富塚雲根 【旧幕藩、旧海軍所取調役、称順作】    大関文謙 【旧幕藩代官手代、称隆之助、又栄次郎、越後人】    舟津文淵 【武蔵沼田村住、号栄庵、農、称徳右衛門、初久五郎】    藤木文嶼 【旧高田藩、下谷池之端住、称佐助】    辻内文福 【旧幕大工棟梁、下谷池之端住、称近江、初宗次郎、実家広舗伊賀者、岩下称十郎男】    星野文良 【旧桑名藩、八丁堀住】男文良【称善助、号夾軒】    海沼文方 【名貞、字水石、称鋼之助、又友平、号雲梯、又梅隠居士】    大野文佑 【伊勢国桑名住】    佐藤玄覧 【名長、字思成、称源助、号素琴堂】    石丸三亭 【旧幕藩学問所勤番、後曲江門人】    増田象江 【旧本庄藩、初称小島鉄蔵、明治廿四年冬出京、実に五十年にて面会なす】    町田文桂     河内半蔵 【武蔵国竹之塚村農】    田沢豊次郎【旧幕藩士】    山本文豕 【旧一橋藩、字義胤、称十次郎】    岡田文錦 【同上】    尾手晁菜 【旧佐倉藩、八町掘住、称啓次】    酒井文成 【越後人、農、号紫竹斎、称松蔵】    田代永陵 【上総国神官、称太一郎】    柳沢文真 【信濃国ノ仁】    青野文定 【旧幕藩表坊主、伝斎舎弟、下谷住、号得之、夜継庵、定次郎、旧夜雪庵門】    大西椿年 【字大寿、旧幕藩蔵手代、称行之助、号楚南、浅草蔵前住、門人川上冬涯、関根孔年】    依田竹谷 【字叔年、名瑾、号凌寒、雲道人、同藩、男竹村】    松本交山 【深川二軒茶屋住、男一山、男亀岳】    鏑木雲潭 【字三吉、市川米庵舎弟、男雲洞】    佐竹永海 【旧彦根藩、両国若松町、字岡村、号愛雪、天水翁、九成堂、門人松本楓湖、福田永斎、          養男永湖、門人佐竹永邨】    相沢石湖 【旧一橋藩、下谷長者町住、武蔵岩槻産、男文石、門人鈴木我古、栗山石宝】    目賀田芥庵【旧清水藩、初称鎌三郎、又庄兵衛、名守道、号文村、望岳楼、文信弟、浅草住、明治十三          年四月廿七日歿、門人岸光景、小林清景、大矢木雨香、大矢木也香】    大岡雲峰 【称治兵衛、旧幕藩大御番隠居、四ッ谷住、門人栗本翠庵、小山翠巒、滝和亭、中川大峰、          井川雲章、奥田一渓】    横井文松 【同藩表坊主、称栄藩】    田中文清 【旧館林藩、本所住、称為吉】    横山文堂 【旧吉田藩、下谷池ノ端住、称三助】    田村文秀 【旧浅草三社神官、浅草仲町住、称浅之助】    栗原春斎 【名順英、字叔華、号同、又芳山】    栗原玉堂 【号蘭海楼、旧幕藩、名瑛、字梅村】    木村文貫 【旧幕藩獄屋同心、称万之助、神田住】      矢部文斎 【名武服、字定国、旧幕藩、号同、称十五郎、本所住】    稲田文笠 【名習、字差吉、旧吉田藩、号樫軒、三河国吉田住】    田辺文琦 【名同、字同、号青霞軒】    文海   上野陵雲院中僧【字旭堂】    佐藤梅宇 【名矢、字軒、旧荘内藩、号梅宇】    文圭   【深川住、平民】    文溟      浅尾大嶽 【旧名名古屋藩、名英林、称英助】    羅漢   【越後人】    文洪   【根岸住、平民】    文水       文善   【浅草蔵前住、平民】    文普       文智   【丸山本妙寺、中本堂院主】    文友    文谷    文岳    幽斎    文達    文亀    文圭   【旧上田藩】    椎名文囿女史【称於吉、深川住、平民】    中川文雪女史【称於美濃、平民】    望月文菊女史【称於菊、本郷住、旧幕藩、□妻】    田村文呂女史【浅草三社神官田村八太夫女、於比野】    八十島文雅女史【称於加子、牛込山伏町住、旧幕藩、同姓姉周助長女】    名倉文光女史【旧佐野藩、弥次兵衛妹、称於光】    山本文香女史    文江女史     文二門人 小林文周【亡、名槃、号元史斎、字子磚】          井上文竜     文中門人 豊野文昇【橘町住、亡】          白石氷岩【旧水戸藩、亡】    末弟 野村文紹【祖先以来代々旧幕具足同心、又旧海軍所絵図方、鉄道権中属、寛永年間祖先以来下谷            住、旧御具足町改下車坂町】           【名高明、又号横好、字順、号木風子、台麓、初称子之助、壮右衛門、文蔵男】           【柳眼高橋巳之七早世】           【門人岩崎狙斎、吉原紹全、大久保雄之助、室本次郎、宮永栄、文泉、長峰、東郭、            豊野、文昇、宮田信、上月高野、佐藤セウ、斎藤セイ、稲野】     明治十五年八月     同十八年六月改正、于時七十叟     同十九年三月附録成              或書中抜写    文化二年丑八月、下谷なる谷文五郎、画名文晁【元文麗門人、今唐画師】召仕い下女、毎夜鬼の夢を見    おかさるゝこと、しばらく日数ふれどもやまず、文晁下女にたづねけるは、其方、夜中小便にまいるに、    雪隠へまいらずして、途中にて小便致や、と申ければ、下女雪隠まで参よし申侍る、文晁重て申は、か    くし候へば罰当り候、かくさず申聞すべし、定めて、もちの木の所へ小便致ならん、さ様なるや、とた    づねければ、下女、仰の通、雪隠まではこはく候儘、もちの木の所へ致候、と申、依て、然ば堀見るべ    しとて、早速堀候所、京都二月堂の鬼瓦有之候ゆゑ、取上げあらひきよめ、床の上に置候、下女は其夜    より夢も見ず、おかされずとなり、    文晁翁若年の頃、向島辺の寺に古青亀の石塔有しかば、好古の癖とて持帰りしに、父麓谷見て呵りしか    ば、元来孝心なれば、早々寺の元地へ居置て、住僧に面会なし、右石塔は我等由緒あれば、回向なし被    下とて、回向料差出、帰宅なしけるよし、    山東京伝折々参て雑談なし、或時、終夜明たるも不知、雑談なしける内、客来りて、いまだ燈火の有る    はいかなるにや、とたづねしとぞ、且、京伝多弁にはなく、弟京山は話も多かりし由、    二世文一の記、水戸旧藩士立原翠軒かたへ、文一或時参りける時、翠軒曰、今日老公仰には、文一参り    居よし、明日面会なすべしとのことなり、と申聞せしに、翌朝早々江戸へ帰府せり、後に此ことを咄せ    しかば、何ゆゑ御目見えなされずや、と尋ねしに、面倒なれば、早々帰りたり、と云たりし、    或時、因幡国鳥取藩士島田元旦は大伯父なれば、冬の日止宿なせしに、毎々同家の鶏を野狐にとられ、    困るよし咄しければ、さあらば、今夜その野狐をとらへべしとて、まづ馬屋の辺へ出たる鼠を取りて油    にて煮、折ふし大雪ふりければ、庭に高くつもりし雪を、深々と穴をほりて、其穴のくちへ細引をわな    にしかけ、其はしを雪にてうめかくし、椽がわの戸を細く明、ほそ引のはしを持て待たるに、夜半の頃、    一ぢんの風につれ、一疋の狐あらはれ出、頓て雪の穴のほとりをかけまわり、酒宴の席にて狐つりてふ    遊戯のごとく、穴をのぞき、又はかけ廻り、幾度もかけあるき、頓て穴へ首をいれはいりければ、爰ぞ    と細引をひきたり、庭へかけおりしに、早くも逃去たれば、穴の中をうかゞひ見しに、いつか横に穴を    ほり、鼠はなかりけるよし、老狐の智には皆々驚きたり    或時、箱根辺へ二人連にて参りしに、同所は度々通行せしが、画工にて通行なしたくとて、同道人にわ    かれ、一人にて関所へ参りしに、手形なくては通し難し、と改られ、又々同じく願出、三度目には、何    者なるか、と尋ねられしかば、画工なり、と答へければ、何人の門人なりや、と尋ねられしかば、谷文    晁門人文山と答ければ、さあらば画を認むべしとて、扇面を出しければ、椽がわへ腰をもかけず、大地    にかゞみ、安宅の関弁慶がかんじん帳、弁慶は蛸の入道、関所のかざり鉄炮は、いせ海老をならべ認た    り、番人一覧なし、見事なりとて、又々扇子数本認させ、其内番人の家内なるか、障子の内より婦人の    のぞくけわひあり、頓て通るべし、と曰にぞ、立出て、連は近村の家へ泊り居にぞ、右の件にて時刻う    つり、夜に入り、しらぬ田ンぼ道をやう/\尋ね行、困りたるも心がらなりと、あとは笑ひになりしと    ぞ、    同人洋行を久々志願なる所、先年初てアメリカ出張の官吏に付て出帆なし、先支那に上陸なし、彼地の    者におふせつなしけるに、一人の支那人、是が文晁の孫なるか、としたしく曰けるよし、    往年、各関所より、折々文晁方へ使参り、此頃、何々と申者、貴家の門人のよしにて通行なせしが、此    者門人に相違なき哉、と問合せ参りけるよし、    是等のゆゑに、門人の遊れき人へ、門人に相違なしといふ証書を、書与へしこと度々あり、    天保の頃、小唄に「此頃のはやりもの、画師は文晁、詩は五山、料理八百膳、きんぱろう、わたしやひ    ら清がよいわいな」其頃、芸者もつぱら唄ひしなり、    末女ひさなる者、十三四才の頃、よぶに、ぼうず/\と声懸しを、客はふしんなるおもゝちなしければ、    かれが名はひさと申が、ひさ/\とよぶが、声のつゞきあしきゆゑ、かく呼立ると、度々客に話しける、    此婦人至て壮健にて、高名輪毛利家に仕へ、本年七十三の高齢にて、益々すこやかなり、廿七年七月附    録〟    ☆ ほういつ さかい 酒井 抱一    ◯『花街漫録正誤』④181(喜多村筠庭著・成立年未詳)   (「筠庭主人戯記」)   〝此の草紙の書は、抱一上人の風なり、しかれば、画の縮図も、抱一の弟子などなるべし、作者はもとよ    り、画を書しものも、序を書かゝしたる抱一上人も、画の時代、また近世の画かきの事をも知らず、笑    うべき事甚し〟    ◯『睡余操瓢』⑦附録「随筆雑記の写本叢書(七)」p6(斎藤月岑書留・明治三年頃記)   ◇p6   〝青楼十二月 画巻縮図    この一巻は文政のころ雨花庵上人の御筆にして花明園のあるし【江戸町坊正西村氏】親しく乞ひ奉りし    により、画て与へ給ひしよしして彼家に珍蔵せるを借得て、嘉永五年壬子六月うつし置り、しかれとも    名筆の跡得てこを模す事あたはされは依稀たる疎影をのこせるのミ、よりて犬桜と題せるを、ふたゝひ    縮写してこゝに加へぬ    原本ハ青楼十二月と題せるか安政の地震火事に亡ひたり、惜むへし〟    〈雨花庵上人が酒井抱一。花明園のあるじとは吉原江戸町二丁目名主の西村藐庵〉     ◇p8   〝抱一暉真筆 梅鶯葛屋 付立     のそかるゝ乞食の家も森田屋かほとこすものか梅のはかなさ 蜀山人〟    ◯『睡余操瓢』⑧附録「随筆雑記の写本叢書(八)」p6(明治三年頃・斎藤月岑書留)   〝小松  文晁筆     子の日する野辺に小松の大臣ハいまも賢者のためしにそひく  蜀山人〟     〝文晁筆 船帆遠山     新川に下戸のたてたる蔵もなしミんな上戸のはらへ入船  蜀山人〟      〝文晁の画る蝶の扇へ     今はやる人の書たる絵扇を蝶々しつかにこしへさしこむ  蜀山人    この扇をかさねて式亭三馬へ歌乞しに      今はやる蝶々しつかをかゝれてハ跡に思案も又なしかい  三馬    この頃同様に蝶々しつかにさしこめこりや又なしかといへるうたはやれり〟     ◯『写山楼之記』⑤49(野村文紹著・明治十五年成立)   〝酒井抱一 【初文晁門人【雨華庵、根岸住、号文詮、継男道一】       門人【鈴木其一、男守一、池田孤村、花村抱山、守村抱儀、田中抱二】〟     ☆ ほくさい かつしか 葛飾 北斎   ◯『百戯述略』④226(斎藤月岑著・明治十一年成立)   〝葛飾北斎は、始春章門人にて春朗と申、後菱川宗理が門人と成候由、是は一流をなし、山水、人物草木、 禽獣、虫魚、何にても画き、格別の巧者にて、寛政の比より嘉永まで、年来、読本、草双紙、一枚画、 数多画き、九十歳にて終り申候、其画風何れにも依らず、一流にて一癖有之を嫌ひ、且賤しめ候輩も有 之由に御座候へども、先づ稀成る画者に御座候、其画本「北斎漫画」其外数部、諸国へわたり被行申候、 後年戴斗と改、又為一とも号し申候〟   ◯ 同上 ④227   〝切組燈籠画、西京より下り候が元にて、活洲其外上方の図にて、寛政の末より享和の頃、江戸にて再板 いたし、夫より、蕙斎政美、葛飾北斎の両人、工夫いたし画出し〟    ☆ ほくば ていさい 蹄斎 北馬    ◯『兎園小説別集』⑥293(著作堂(曲亭馬琴)編・文政八年六月記事)   (「松前家走馬の記」の項)   〝(文政八年)六月已後、馬上火炮の稽古、ます/\怠りなきにより、牧士代助立乗をして、百匁玉を放    つことを得たり、老侯(松前道広)よろこびの余り、其図を北馬に画して、板して馬場執心の武家に送    り給ふ程に、予父子(馬琴・宗伯)にも五六枚給はりしかば、屋代(弘賢)翁をはじめ、同行の人にわ    かち与へたり、その蔵板の図を左にてに貼す〟    ☆ ほっけい ととや 魚屋 北渓    ◯『翟巣漫筆』〔新燕石〕④附録「随筆雑記の写本叢書(一)」p6(斎藤月岑書留・明治二年九月十三日記)   〝(九月十三日□(ママ)社前の床見世で見た、北渓の画に六樹園の狂歌を写してある)     吉原のミつのあしたハまりもつくやりはこもつくうそさへもつく   六樹園〟