Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
画人伝-明治-新撰日本書画人名辞書(しんせんにほんしょがじんめいじしょ)浮世絵事典
 ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年(1899)三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝岩佐又兵衛 18/218コマ    名は勝重といふ 世に浮世又兵衛と称す 浮世絵の始祖あんり 父荒木摂津守村重自殺するの時 又兵    衛僅かに二歳 乳母に誘(いざな)はれて 越前の岩佐氏に養はる 慶長中土佐光則の門に入りて 大和    絵を学び 遂に一家を風(よう)を為す 其の画く所 皆人物美人遊女白拍子等 遊興の戯画にして 筆    意緻密彩色を厚くし 金泥を用ふ 人其の艶麗を称す 此人後越前侯に仕ふ 遺蹟著名の品は男女少年    風俗の図 春秋遊園の図 春宵秘戯の図等とす 寛永年中没す(扶桑画人伝・皇国名家拾葉・画乗要略    鑑定便覧 名家全書)〟   〝石川豊信 18/218コマ    通称を糠屋七兵衛といふ 秀葩と号す 江戸の人なり 西村重長に学ぶ 男女の風俗を画くに妙なり    天明五年五月廿五日没す 年七十五 浅草黒船町正覚寺に葬る(扶桑画人伝・江戸名家墓所一覧)〟   〝岩瀬京伝 18/218コマ    名は政演 字は伯慶 幼名甚太郎 通称を京屋伝蔵といふ 山東と称す 又葎斎 醒世等の号あり 江    戸の人なり 北尾重政の門人にして浮世絵を画く 此人亦草草紙の戯作に長じ 一時其名を轟かせり    名作多し 文化十三年九月七日没す(扶桑画人伝)   〝池田英泉 18/218コマ    名は義信 俗称善四郎といふ 一筆庵春楼 北豪 渓斎 無名翁等の号あり 初め狩野白桂に師事して    狩野派の画を学び 後一家を為して 浮世絵を画き 遂に名手と称せらる 嘉永元年八月十六日没す    年五十七(燕石十種 扶桑画人伝)〟   〝友禅 18/218コマ    京師の人なり 後加賀金沢に移る 画を巧にして名手と称せらる 此人友禅染を製出す 元禄年中の人    なり(扶桑画人伝)〟   〝石川流宣 19/218コマ    通称を伊左衛門 名を俊之といふ 元禄年中の人にして江戸に住せり 其の画くところ大和耕作画抄    江戸通鑑網目 江戸図等あり〟   〝英一蝶 20/218コマ    名は保雄 字は君受 幼名は伊三郞 長じて治衛門 又助之進と称す 本氏は多賀氏 又簑翠翁 牛丸    旧斗堂 一蜂閑人 隣樵菴 鄰濤庵 暁雲 六巣 澗雪 宝蕉 和央 雲堂等の別号あり 大阪の人な    り 画を狩野安信に学びて狩野信香と称す 人物花鳥を能くす 此人亦戯墨に長ず 観る者絶倒せざる    はなし 遠く鳥羽僧正を距(さ)るの後 戯画は此人を以て祖となすべし 世或ひは此人の画を以て 浮    世絵なりとする者あれども 其の実全く狩野家の正風にして 時に戯画を画けるのみ 元禄中 当世百    人首編著の事に坐し 三宅島に流さる 在留十二年間 島中の木皮石土を以て 絵具を製して画を描く    世之を島一蝶と称し特に賞翫す 後赦されて家に帰る 曾て女達磨の図を画く 之を此図の始めとす     晩年剃髪して朝湖と号す 亦長湖とも書せり 享保九年正月十三日没す 年七十三 江戸二本榎承教寺    中顕乗院葬る 法名英受院一蝶日意居士といふ(近世叢語 続近世畸人伝 扶桑画人伝 今古雅俗石亭    談 鑑定便覧 書画人名詳伝 扶桑要略 俳林小伝 文鳳堂雅簒 墓所一覧 名家全書 日本人名辞書)〟   〝英一蜂 20/218コマ    名は信勝 通称を長八といふ 又春窓と号す 一蝶の義子なり 父の画法を受け 殊に戯画に妙なり    世に之を二代目一蝶と称す 元文二年十一月十一日没す 江戸深川寺町陽岳寺に葬る 法名機外道輪信    士といふ(鑑定便覧 名家全書 扶桑画人伝 墓所一覧)〟   〝英一蜩 20/218コマ    通称源内 初め百松といふ 一蜂の弟なり 画法を其の兄に学びて戯画を能くせり(鑑定便覧 名家全    書 扶桑画人伝)〟   〝英一舟 20/218コマ    名は信種 通称弥三郞といふ 又東窓翁潮窓等の別号あり 一蜂の門人にして 後其の義子と為る 画    法を父に受けて戯画に長ぜり 明和五年正月廿三日没す 年七十一 江戸日本榎承教寺中顕乗院に葬る    (扶桑画人伝 文鳳堂雅簒 鑑定便覧 江戸名家墓所一覧 名家全書)〟   〝英一嶂 21/218コマ    一蝶の門人なり 宝暦十年四月廿八日没す 年七十(鑑定便覧)〟   〝長谷川雪旦 22/218コマ    名は宗秀といふ 巌岳斎 一陽菴等の号あり 江戸の人なり 法橋に叙せらる 此家累代長谷川を唱へ    雪舟の画風を慕ふ 雪旦に至りて 殊に其の風を能くし 世に称せらる 後江戸名所図会を画き 名声    忽ち一時に顕はれ 人以て当時の大家となす 天保十四年正月二十八日没す 年六十六(香亭画談 石    亭画談 扶桑画人伝 書画薈粋)〟   〝長谷川雪堤 22/218コマ    名は宗一といふ 又梅紅 松斎等の号あり 江戸の人にして雪旦の子なり 画法を父に学びて 雲谷風    の画を善くす 筆力頗る妙絶にして父に劣らず 明治十五年三月十五日没す(扶桑画人伝)〟   〝羽川冲信 25/218コマ    珍重と称す 通称太田弁五郎といふ 本姓は真中氏 江戸の人なり 後三同と号ず 鳥居清信に学びて    浮世絵を画く 宝暦四年七月廿二日没す(浮世絵類考 扶桑画人伝 墓所一覧)〟   〝速水恒章 25/218コマ    通称は彦三郞といふ 春暁斎と号す 平安の人なり 浮世絵を画くに 其の人物殆ど真に逼り 生るが    如し 故に其の名世に顕はる 文政六年七月十日没す(鑑定便覧 名家全書)亥   〝西村重長 27/218コマ    元祖鳥居清信の門人なり 後に石川豊信と称せりといふ 然れども秀葩とは同名異人なり 浮世絵を画    きて名なり 又多く俳優の図を画ける(扶桑画人伝)〟   〝西川祐信 27/218コマ    名は祐助 通称右京といふ 後今の名に改む 自得斎 文華堂等の号あり 京師の人なり 初め狩野永    納に学びて 狩野派の画を画く 後変じて浮世絵をがき 名を一時に挙ぐ 此人最も春宵秘戯の図、婦    女戯れの図 宮女の図 俳優の図等を画くに長じ 山水鳥獣の如きは一段下れり 宝暦元年没す 年七    十四(燕石十種 扶桑画人伝 鑑定便覧 画乗要略 名家全書)〟   〝西村中和 27/218コマ    字は士達といふ 梅渓と号す 此の人自ら大和画師と称して 世に名あり 其の画最も人物に長じ 且    つ名所の図を写すに妙を得たり 後年法橋に叙せらる 文政年中没す(鑑定便覧 名家全書)〟   〝耳鳥斎 27/218コマ    通称を松屋平三郞といふ 大阪の人なり 此の人鳥羽僧正及び古澗和尚等の蹟を慕ひ 其の画風を折衷    して戯画を描く 遂に之を以て一家を為し 名声当代に鳴る 寛政中の人なり(新撰書画一覧)〟   〝細田栄之 29/218コマ    名は時富といふ 鳥文斎と号す 江戸の人にして 幕府の臣なり 本所割下水に住居す 浮世絵を画き    て世に名あり 殊に美人を画くに妙を得て 人に称せらる 其の画風上品にして雅韻あり 当時伝播し    て珍重す 天明寛政年間の人なり(扶桑画人伝 燕石十種)〟   〝細田栄理 29/218コマ    栄之の門人なり 浮世絵を巧にして称せらる 又錦絵をも画けり(扶桑画人伝)〟   〝細田栄昌 29/218コマ    栄之の門人なり 師の画風を守りて浮世絵を画く 又錦絵多し(扶桑画人伝)〟   〝北洲 29/218コマ    大阪の人なり 春好斎と号す 浮世絵及び俳優の図を画きて 文政年間に鳴る(新撰書画一覧)〟   〝鳥居清信 42/218コマ    通称を庄兵衛といふ 江戸難波町に住す 初め菱川風の画法を学ぶ 後其の風を一変して一家を為し    大いに俚俗に賞嘆せらる 世に所謂江戸絵と称するものは此の人より始まれり 又草双紙等の板下絵を    画くに巧みにして 世に称せらる 鳥居風の画とは此の人を以て元祖となす 又劇場の看板を画き 爾    来累世皆鳥居風を画を以て描くに至れり 元禄享保年間の人なり(扶桑画人伝 鳥居系譜 燕石十種)〟     〝鳥居清倍 42/218コマ     世に大和絵師と称す 江戸の人なり 清信の画風を学びて最も工(たくみ)なり(鳥居家譜 燕石十種    扶桑画人伝)〟   〝鳥居清信 42/218コマ    庄兵衛清信の玄孫にして鳥居派第三世なり 初め清満と称し 後今の名に改む 家風を嗣ぎて之を能く    せり(扶桑画人伝 燕石十種)〟   〝鳥居清満 42/218コマ     通称は半三といふ 清倍の男なり 家風を嗣ぎて 劇場の看板、江戸絵、及び草双紙の板下絵等を画け    り(鳥居家譜 扶桑画人伝 燕石十種)〟   〝鳥居清峰 42/218コマ    清満の孫なり 後名を二世清満と改む 江戸の人なり 和泉町に住す 実は清満の女婿某の子なり 鳥    居派第五世と称す 画を関清長に学びて之を能くし 劇場の看板 江戸絵を画けり(燕石十種 扶桑画    人伝)〟   〝富川房信 42/218コマ    通称は山本九左衛門といふ 吟雪と号す 江戸大伝馬町三丁目に住す 浮世絵を画けり(扶桑画人伝)〟   〝等琳 43/218コマ    堤氏なり 一格を出し 雪舟風の浮世絵を画く筆力絶妙にして 名工と称せり 安永天明年中の人なり    (燕石十種)〟   〝等琳 43/218コマ    初め秋月と号す 三世の人なり 画法雪舟の風に類せざれども 筆意自(おのづか)ら逸格の力ありて     世に鳴る門人頗る多し 画く所浮世絵に止まれり(燕石十種)〟   〝女龍 46/218コマ    山崎氏の女なり 享保年中の人なり 江戸に住す 浮世絵を画きて名あり(扶桑画人伝)〟   〝岡田玉山 49/218コマ    名は尚 字は友といふ 大阪の人なり 月岡雪鼎に師事し 後一家を為す 最も人物・山水・花鳥を画    くに妙を得たり 文化九年没す 年七十六(扶桑画人伝 鑑定便覧 名家全書)〟   〝小川笠翁 51/218コマ    名は宗宇 通称平助といふ 又破立 卯観子等の号あり 狩野風の画を能くし 自(おのづか)ら一格あ    りて 常工と同じからず 最も趣きあり 傍ら漆器の製作に妙を得たり 世(よ)之を笠立細工と称して    甚だ珍重す 又芭蕉翁の門に入りて 俳諧に巧みなり 延享四年六月三日没す 八十四(扶桑画人伝     俳林小伝)〟   〝高嵩谷 77/218コマ    名は一雄といふ 又屠龍斎と号す 江戸の人なり 佐脇嵩之の門に画法を研究し 悉く其の深奥を得た    り 嘗て頼政鵺(ぬえ)を射るの図を 浅草観音堂に掲ぐ 堤等琳其の技を競はんと欲し 韓信胯下を出    るの図を掲げ自ら誇る 然れども世人嵩谷を重んじて等琳を軽ろんず 此の人画く所の山水・人物・花    草・鳥獣皆共に絶妙なり 且つ設色水墨両(ふたつ)ながら之を能くし 麁密自在にして到らざる所なし    就中(なかんづく)武者絵に至りては 最も其の妙を極め 古土佐及び探幽の画法を追慕し 之に英一蝶    の画風を加へて 一種の風韻奇骨あり 一蝶の画風一たび衰微せりと雖(いへど)も 此の人に至りて     亦其の盛を見るを得たり 文化元年八月二十三日没す 年七十五 浅草新堀西福寺に葬る(扶桑画人伝    古今雅俗石亭画談 名家全書 続諸家人物志 鑑定便覧)〟   〝勝川薪水 82/218コマ    宮川春水の男なり 江戸本白銀町に住す 父の教を受けて画法を研究し 大和絵の名家と称せらる。寛    保年間の人なり(扶桑画人伝)〟   〝勝川春章 82/218コマ    俗称は祐助といふ 旭朗斎・酉爾等の号あり 宮川春水の門人にして 江戸人形町に住す 人呼んで壺    屋といふ 浮世絵を工(たくみ)にして世に聞ゆ 寛政四月十二月八日没す 浅草西福寺に葬る(扶桑画    人伝 燕石十種 江戸名家墓所一覧)〟   〝勝川春好 82/218コマ    春章に師事して浮世絵を巧(たくみ)にし 世に称せらる 江戸長谷川町に住す 安永年間の人なり(扶    桑画人伝)〟   〝葛飾北斎 82/218コマ    初め時太郎と称し 後鐵二郎と改む 名は春朗 後宗理と改む 辰政・雪信・戴斗・卍老人・群馬亭等    の別号あり 江戸本所の人なり 後其の号を門人に譲りて 葛飾翁為一といふ 初め勝川春章に師事し    て画法を学び 頗る其の趣きを得たり 後其の画格の野鄙なるを 卑しみ先哲の遺蹟を追慕し 刻苦し    て一格を出し 当時の名家と称せらる 筆力壮健 勢ひ紙端に躍り 観る者をして額手驚嘆せしむ 其    の技 実に応挙・文晁に劣らず 然れども浮世絵より変化し来れるの故を以て 世人稍之を賤しむ 其    の画く所の宮殿・楼閣・有職・衣冠の人物 山水・草花・鳥獣皆共に真に逼り 設色・淡彩・水墨・粗    密 一つとして能くせざる所なし 遺蹟の尤も著名なるものは 朝鮮征伐の図の屏風・狐の嫁入行列の    図等なり 後世此の人の遺蹟を追慕するもの多し 誠に稀世の名工といふべし 嘉永二年四月十三日没    す 年九十 江戸浅草八軒寺町誓教寺に葬る 法名を南照院言誉北斎信士といふ(扶桑画人伝 燕石十    種 名家全書 浮世絵類考 鑑定便覧)〟   〝川枝豊信 83/218コマ    京師の人なり 浮世絵を能くして世に名あり 享保年中の人なり(扶桑画人伝)〟   〝楫取魚彦 83/218コマ    伊能氏 又稲生と書す 初の名は景良 通称を茂右衛門といふ青藍と号す 又茅生菴の別号あり 寒葉    斎綾袋に師事して画法を学び 世に称せらる 最も梅花及び鯉魚の図を画くに妙を得たり 観る者歎賞    せざるはなし 又加茂真淵の門に入り 古学を極め奥旨を得たり 門人二百余人に達す 酒井侯 奥平    侯 戸田侯等礼を厚ふして延聘す 上野法親王又之れを寵す 天明三年三月二十三日没す 年六十(三    十六家集 諸家人物志 画乗要略 鑑定便覧〟   〝加藤鄰松 84/218コマ    名は茂銀といふ 幕府の与力なり 狩野栄川に師事して画を学び 頗る之を能くす 文鹿(ろく)・円乗    と共に三巨手と称せられ 名当世に馳す 貴紳常に招致して画かしむ(今古雅俗石亭画談)〟   〝加藤文麗 84/218コマ    名は泰郁といふ 予斎と号す 従五位下に叙し 伊予守に任ず 江戸の人なり 狩野正風の画を学びて    頗る世に称せらる 天明二年三月五日没す(画乗要略 鑑定便覧 墓所一覧 名家全書)〟   〝川鍋暁(ぎようママ)斎 84/218コマ    名は如空といふ 初め狂斎と号す 画款多く 惺々暁斎と書す 下総に生る 狩野洞伯に師事し 深く    研究して名声あり 又鳥羽僧正の筆意を慕ひ 動(ややも)すれば戯画を筆作す 明治二十二年四月二十    六日没す 年五十九 谷中瑞林寺の塔頭正行院に葬る(香亭手稿)〟   〝橘守国 89/218コマ    通称総兵衛といふ 又有税と称す 素軒と号す 大阪の人なり 鶴沢探山に師事して狩野派の画法を研    究し 頗る其の風致を得たり 嘗て数種の画本を著述して 世に称せらる 寛延元年没す 年七十(扶    桑画人伝 鑑定便覧 名家全書 続本朝画史)〟   〝橘保国 90/218コマ     守国の男にして 大阪の人なり 父に就きて画法を研究し 之を能くす 此の人専ら著書中の画を画き    世に其の名を知らる(扶桑画人伝 名家全書 鑑定便覧)〟   〝高田敬輔 90/218コマ    名は隆久といふ 俗称を徳右衛門といふ 江州日野の人なり 豊前国の大目(だいさかん)となる 又画    を能くするを以て法眼に叙せらる 竹隠斎と号す 此の人眉間に疣ありて白毫を生す 故に又眉間毫翁    と号す 初め狩野永敬に師事して画法を研究し 又僧古礀に従ひて刻苦励精し 且つ和漢の古画を探求    し 彼此相量りて一格を創し 大成して妙手となり 呉俊明と共に一代の泰斗を称せらる 曽我蕭白後    年此の人の筆意を伝へたり 此の人水墨の人物を画くに 其の筆勢気骨稜々として 頗る趣味風韻あり    就中龍門登鯉の図の如きは 鯉魚の全体を飛泉の中に写し 墨色の濃淡を以て隠映を明かす 人皆工夫    の密到にして運筆の絶妙なるを歎美せざるはなし 又仏道に精しく仏画を画くに妙を得たり 宝暦五年    没す 年八十三(扶桑画人伝 今古雅俗石亭画談 名家全書 和漢書画覧要 画乗要略 鑑定便覧)〟   〝建部凌岱 90/218コマ    名は孟喬 初め凉袋と号す 又綾太 綾足 吸露庵等の数号あり 陸奥の人なり 画を能くして世に称    せらる 初め故ありて 京師東福寺の僧となり 唱首座となる 後江戸に来り 髪を蓄へ図画俳歌を以    て業となす 門に入りて遊ぶもの雲の如し 当時加茂真淵国学を以て 名声天下に鳴る 凌岱妻をして    真淵に従学せしめ 己れ亦た因りて其の説を聞くを得たり 是より後俳歌を鄙しみ始め 片歌を唱ふ     自ら称して片歌中興の祖といふ 乃ち右大臣花山公に請ひて 片歌道守の四字を書せしめ 之を居室に    楣間に掲ぐ 此の人慧敏にして逸気あり 猖狂無頼一世を玩弄す 某侯嘗て三百金を賜ひて画を長崎の    熊代熊斐に学ばしむ 凌岱其の金を以て狎妓を落籍し去て 長崎に遊ぶ 居ること六年にして帰る 侯    乃ち其の画を徴す 凌岱之を上(たてまつ)る 其の状一団塊の如きもの 唯紙上にあるのみ 曰く 之    芋魁なりと 遂に不敬を以て黜(しりぞ)けらる 安永三年東国に遊び 武蔵国熊谷に没す 時に三月十    八日なり 年五十三(近世叢語 続近世畸人伝 鑑定便覧 俳家畸人談 画乗要略 近代名家著述目録)〟   〝田中訥言 91/218コマ    名は痴 字は虎頭 大孝斎と号す 尾張の人にして京師に住せり 法橋に叙せらる 嘗て藤原信実の画    幅を一見して大に之を歎賞し 是れより深く専ら古蹟を探尋し 大成して天下妙手と称せられ 名声海    内を動かす 古画の格に詳(つまびらか)なる 此の人の右に出るもの 未だ嘗て是なしといふ 其の画    く所 山水・花鳥・人物・草虫 皆絶妙ならざるはなく 殊に有職の図を筆作するに堪能にして 衣冠    の人物及び宮殿等の如きにいたりては 各当時の風を捜索討究し 毫も杜撰の画を作らず 博捜なるこ    と実に凡工の及ぶ能はざる所にして 最も後人の亀鑑となすべきもの多し 此の人画風土佐より出たり    然れども毎画活動ありて 稍一格の体を備へ自づから 一家の風致あり 人皆愛翫して珍品となす 晩    に盲目となる 乃ち自死せんと欲し数日食せず 遂に舌を噛みて死す 時に文政六年三月二十一日なり    (今古雅俗石亭画談 名家全書 扶桑画人伝 鑑定便覧)〟   〝高嶋千春 91/218コマ    大阪に住す 後東都に移る 此の人画風土佐家より出て 能画にして世ひ称せらる 安政六年十一月十    二日没す 年八十三(扶桑画人伝)〟   〝竹原春朝 95/218コマ    名は信繁といふ 浮世絵を画くに妙なり 山城国・大和国の名所図会を多く画きて刻本し 其の名世に    著はれたり(扶桑画人伝 燕石十種 鑑定便覧 名家全書)〟   〝竹原春泉 95/218コマ    春朝の男なり 父に就きて画法を学び 浮世絵に長ず 多く名所図会を画きて称せらる(扶桑画人伝)〟   〝宗理 125/218コマ    姓氏詳(つまびらか)ならず 俵屋と号す 初め住吉広守に師事して画法を研究し 大に之を能くす 後    尾形光琳の画風を喜び一家を為す 世称して名手となす 明和安永年間の人なり(扶桑画人伝)〟   〝宗理 125/218コマ    俵屋宗理の蹟を嗣て二代目宗理と称す 江戸浅草に住す 浮世絵を能くし 亦狂歌に工(たくみ)なり     後寛政十年の頃かつしか北斎の号を嗣ぎて 二世北斎と称す(扶桑画人伝)〟   〝宗理 125/218コマ    初の名は宗二といふ 二代目宗理の蹟を嗣ぎて 三代目俵屋宗理といふ 浮世絵を能くす 後号を改た    めて菱川宗理と称す(扶桑画人伝)〟   〝月岡雪鼎 127/218コマ    名は昌信 俗称丹下といふ 本姓は木田 信天翁と号す 近江の人なり 大阪に住す 初め高田敬輔に    師事して画法を研究し 深く其の技に達す 後倭画漢画の古蹟を追慕し 自から一家の格を出して 当    時の名工と称せらる 法橋に任ず 此の人邦俗・美人を描くに長じ 設色緻密にして 艶麗比なし 見    るもの歎賞せざるはんし 又人物・魚類の図を能くす 円山応挙此の人の図を模倣して 遂に妙手に至    る 以て雪鼎の技量を卜すべし 又春宵秘儀の図の如きは 古今未発の妙趣を顕はし 稀世の名家と称    せらる 天保六年十二月没せり 年七十七(扶桑画人伝 燕石十種 画乗要略 鑑定便覧 名家全書)〟   〝月岡雪斎 127/218コマ    雪鼎の長男なり 法橋に叙せらる 父の教を受けて画を能くせり(扶桑画人伝)〟   〝長山孔寅 129/218コマ    字は子亮といふ 紅園・五嶺・牧斎等の号あり 出羽国秋田の人なり 大阪に住す 呉春に師事して画    を学び 殊に人物・花鳥を画くに妙を得たり(扶桑画人伝 画乗要略 鑑定便覧 名家全書)〟   〝浮田一蕙 136/218コマ    本姓は豊臣氏 初の名は公信 後可為(かゐ)と改む 通称内蔵允といふ 京師の人なり 嘗て東都隅田    川に住し 昔男精舎といふ 浮田秀家の裔なり 画を好み田中訥言に師事し 又古土佐の遺蹟を摸写し    且つ自ら工夫して 一新意を加へ大成して妙工と称せらる 当時訥言に次て名声海内に振ふ 又和歌を    好み且つ冷泉為家の書風を学び世に名あり 嘗て孝経の図を作りて 天朝に献ず 安政甲寅の年 書院    の寄人の班し 御屏風を描き賞あり 此の人慷慨にして気節あり 是時に當り 米艦渡来し海内騒然た    り 一蕙深く慨嘆し毎(つね)に画を乞ふものあれば 神風夷艦を覆(くつか)へすの図を作りて 之れに    与ふ 又嘗て時務策一篇を朝廷に上(たてま)つる 安政五年獄に繋がる 己未放たれて 京師に帰る     安政六年十一月四日没す 年六十五(新編先哲叢談 古今雅俗石亭画談 扶桑画人伝 愛国叢談画人伝)〟   〝歌川豊春 136/218コマ    通称但馬屋庄三郞といふ 一龍斎と号す 江戸三島町に住す 浮世絵を能くして世に称せらる 寛政年    中の人なり(扶桑画人伝 燕石十種)〟   〝歌川豊国 136/218コマ    倉橋氏 通称を熊八といふ 一陽斎と号す 五郎兵衛の男なり 江戸芝神明町に住す 歌川豊春に師事    して画法を研究し 頗る浮世絵を能くす 最も邦俗の美人及び俳優の似顔を描くに妙を得て 当世に称    誉せらる 蓋し浮世絵師中に於る 屈指の一名家なり 此の人亦人形を作るに巧(たくみ)にして 時に    名あり 乃ち之れを以て業となす 文政八年正月七日没す 年五十七 三田聖坂弘蓮寺に葬る 法名を    実彩麗毫といふ(扶桑画人伝)〟   〝歌川国貞 136/218コマ    通称庄蔵といふ 五渡亭・香蝶楼の号あり 江戸本所五ツ目に住す 後亀戸に移る 一陽斎豊国に師事    して画法を研究し 頗る上達して世に称せらる 天保十五年二月師の名を継ぎて 一陽斎豊国と改む    世に所謂二代目豊国は是れなり 此の人最も宮娃閨秀の図を描くに妙を得たり 其の図華麗にして 婉    媚妍麗の態動くが如し 或る人曾て国貞をして 婦人賊に遇ふの図を画かしむ 国貞之れを諾す 然れ    ども意匠未だ成らず 則はち一夕自ら盗の風を為し 窃かに己れあ家に入る 其の妻以て真◎となし    駭胎して為す所を知らず 狼狽の状備(つぶさ)に顕(あらは)る 国貞仍て其の態を写す 図様巧妙其の    人甚だ喜ぶ 其の画に熱心なること 概ね此の如し 元治元年十二月十五日没せり 年七十九 江戸亀    戸光成寺に葬る(扶桑画人伝 香亭雅談)〟   〝歌川国政 137/218コマ    五渡亭国貞に師事して 浮世絵を研究し 師改名の後 号を贈られて国貞と改む 世に之れを二代目国    貞といふ 此の人最も俳優の肖像を描くに妙を得たり 世名手と称す(扶桑画人伝 燕石十種)〟   〝歌川国芳 137/218コマ    通称を孫三郞といふ 一勇斎と号す 初代豊国に師事して 浮世絵を研究し 出藍の譽れあり 晩年江    東牛王祠前に住す 此の人最も武者絵に長じ 人物奔馳の状真に逼りて 身其の場に在るが如し 当時    称して無双の妙工と称す 又美人を描くに長ぜり 文久元年三月四日没す 年六十五 法名を深修院法    山信士といふ三囲祠畔に碑あり(扶桑画人伝 香亭雅談)〟      〝歌川広重 137/218コマ    名は元長といふ 一立斎と号す 俗称十兵衛 後徳兵衛と改む 安藤氏の男にして 江戸の人なり 中    橋に住す 初め岡島林斎に師事して 画法を研究し 後歌川豊広に就きて 益々励精し 当時の名工と    称せらる 此の人最も景色の図を画くに妙を得たり 安政五年九月六日没す 年六十二(扶桑画人伝)〟   〝歌川豊広 137/218コマ    通称藤次郞といふ 一柳斎と号す 江戸芝片門前町に住す 豊春に師事して画法を研究し浮世絵の名工    と称せらる 寛政年中の人なり(扶桑画人伝 燕石十種)〟   〝歌川国政 137/218コマ    通称甚助といふ 一寿斎と号す 奥州会津の人にして 江戸に住せり 豊国に師事して画法を研究し    浮世絵の名工となる 寛政年中の人にして 二代目国貞とは同名異人なり(扶桑画人伝 燕石十種)〟   〝歌川国長 137/218コマ    通称を梅千之助(うめせんのすけ)といふ 江戸新橋金六町に住せり 一雲斎と号す 豊国に就きて浮世    絵を研究し 世に称せらる 又音曲に長ぜり 文政年中没す 年四十余(燕石十種)〟   〝歌川国丸 138/218コマ    一陽斎・吾彩楼・翻蝶庵・龍尾等の号あり 江戸浮世小路に住す 豊国に師事して浮世絵を研究し 世    に行はる 文政年中没せり(燕石十種)〟   〝上原芳豊 138/218コマ    字は北粋 通称兵三といふ 大阪の人なり 浮世絵を能くし世に名あり 且つ和歌を好む 天保嘉永年    中の人なり(新撰書画一覧)〟   〝大岡春卜 142/218コマ    名は愛翼といふ 大阪の人なり 狩野家の画風を慕ひ刻苦して画法に長じ 師を求めずして大家となる    一時名声四方に馳せ 称して当世の妙手となす 法眼に叙せらる 宝暦年中没す 年八十四(扶桑画人    伝 鑑定便覧)〟   〝大津又平 142/218コマ    大津の人なり 岩佐又兵衛に対して 世に之れを二代目又平と称す 然れども又兵衛勝重の子孫に非ず    元禄年中追分に在り 大津絵の開祖にして 仏像を描きて業となす 其の画麁末なる彩色を用ひ 往来    の人に販(ひさ)ぐ 今其の遺蹟 藤娘・奴の鎗持・鬼の念仏等あり 享保年中没せり(扶桑画人伝 浮    世絵類考)〟   〝奥村政信 143/218コマ    通称源六 又文角と号す 初め志導軒と号し 後芳月堂と改め 又丹鳥斎といふ 江戸通塩町に住す    初代鳥居清信の門に入りて浮世絵を学び 邦俗の画を能くす 此の人初めて紅絵を描く 時人皆名工と    称す 享保年間の人なり(燕石十種 扶桑画人伝)〟   〝奥村利信 143/218コマ    邦俗の浮世絵を能くし 世に称誉せらる(扶桑画人伝)〟   〝大石真虎 143/218コマ    尾張の人にしえ 江戸に住せり 土佐風の画を学び研究して一家の格を出だし 気骨稜々として 趣味    深し 嘗て百人一首一夕話図を作りて 誉に称せらる 此の人多く古画巻を閲みし 一々之れを臆に留    む 故に其の画皆拠る処あり 天性疎宕にして 物に拘はらず 酒失ありて 往々過ちを生ず 後悔恨    して浪華に去るといふ(香亭雅談 名家全書 鑑定便覧)〟   〝鍬形蕙斎 146/218コマ    初の名は政美といふ 後紹真と改む 又杉皐と号す 通称を三四郎といふ 江戸の人なり 谷文晁に師    事して画法を研究し 頗る之れを能くし 世い称せらる 就中山水・人物・花鳥を描くに妙を得たり    又名所真景の図に長せり 文政七年三月没せり(扶桑画人伝 鑑定便覧 名家全書)〟   〝窪俊満 146/218コマ    通称を安兵衛といふ 尚左堂と号す 江戸亀井町に住す 北尾重政に師事して浮世絵を研究し 之れを    能くす 後勝川春章に就きて 益々之れを研究す 此の人左手を以て画を描き 趣味最も高し 其の画    皆狂歌摺物のみなり 又好みて戯作を為す 戯名を南陀伽紫蘭といふ 著書四五種あり 世に行はる    (扶桑画人伝 燕石十種)〟   〝懐月堂 146/218コマ    姓氏詳(つまびらか)ならず 通称源七といふ 又安慶と号す 享保年間の人なり 浮世絵を能くして     世に名あり(扶桑画人伝)〟   〝柳川重信 152/218コマ    本姓は鈴木氏 本所柳川町に住するが故に 柳川を以て別氏となす 雷斗と号す 後根岸大塚村に移る    画を好み葛飾北斎に師事す 北斎其の才を愛し 女を以て之れを妻(めあ)はす 此の人刻苦研磋して     其の技に達し 悉く師の画風を得たり 後自ら工夫して一新格を出し 稍其の風を変ず 殊に彩色画に    至りては 全く師の画風と異なれり 又浪華の玉山が筆意を喜び 且つ国貞の浮世絵に倣ふて 之れを    描く 当時重信風と称して頗る愛翫し 大に世に行はる 後又南嵒が草画の筆法を描けり 傍ら人形制    作に名あり 天保三年十一月没す 年五十余(燕石十種)〟   〝松川半山 157/218コマ    大阪の人なり 霞居・翠栄堂等の号あり 桃渓・玉山の画風を慕ひ 且つ諸名家の古蹟を研究す 最も    板下画に名あり 又戯作を為せり(新撰書画一覧)〟   〝福王雪岑 163/218コマ    名は盛勝といふ 通称茂右衛門と称(よ)ぶ 白鳳軒と号す 初め英一蝶の筆意を研究し 技(ぎ)大いに    進る 後土佐派の画風を喜び 深く之れを研究す 其の描く所 濃彩緻密にして 雅致頗る高し 就中    能の図 狂言の図を画くに妙なり 遺蹟世に多し 天明五年三月十八日没す(扶桑画人伝)〟   〝古山師重 163/218コマ    通称太郎兵衛といふ 江戸長谷川町に住せり 菱川師宣に師事して 浮世絵を工(たくみ)にす 元禄年    中の人なり(扶桑画人伝 浮世絵類考)〟   〝古山師政 163/218コマ    通称は文志といふ 師重の男なり 菱川師宣に師事して浮世絵を描く 然れども画風全く其の師と異な    れり 江戸両国米沢町に重す 享保年間の人なり(扶桑画人伝 浮世絵類考 世事談)〟   〝文調 163/218コマ    一筆斎と号す 初め俳優及び男女風俗の図を画く 後法橋に叙せらる 是より後 又浮世絵を描かず    (扶桑画人伝)〟   〝文康 163/218コマ    俗称を安五郎といふ 文調に師事して浮世絵を画けり(扶桑画人伝)〟   〝文朝 163/218コマ    文調の門人にして 浮世絵を画けり 此の人又俳優似顔を描くに妙を得たり 当時名手と称せり(扶桑    画人伝)〟   〝福智白瑛 164/218コマ    平安の人なり 八田古秀に就きて画法を研究し 画く所設色美巧にして 愛すべき最も山水を描くに妙    を得たり(画乗要略)〟   〝近藤清春 172/218コマ    通称助五郎といふ 江戸の人なり 鳥居清信に師事して画法を研究し 浮世絵を描く 最も邦俗の人物    ・美人・遊女等の図に巧(たくみ)なり 又初めて泥画を描けり 正徳・享保年中の中なり(浮世絵類考    扶桑画人伝)〟   〝恋川春町 172/218コマ    姓は倉橋氏 通称は寿平といふ 鳥山石燕の門に入りて浮世絵を研究し世に名あり 又戯作を事とし    草双紙の始祖と称せらる 江戸小石川春日町に住するを以て 戯れに恋川春町と称せり 蓋し勝川春章    の名に寄せたるものなり(扶桑画人伝)〟   〝小松屋白亀 174/218コマ    通称三右衛門といふ 江戸の人なり 飯田町に住せり 西川祐信の画法を喜び研究して浮世絵を描く    明和年中の人なり(扶桑画人伝)〟   〝英之女 174/218コマ    佐脇嵩雪の女(むすめ)なり 父の教を受けて画法を研究し 世に称せらる 寛政三年六月三日没せり    浅草誓願時中称名院に葬る(皇朝名画拾遺 扶桑画人伝)〟   〝佐脇嵩之 181/218コマ    初の名は道賢 字は子嶽 通称甚内おいふ 一水・東宿・果々観・中岳堂・一翠斎・幽篁亭等の号あり    江戸の人なり 英一蝶の門に入りて画法を研究し 之れを能くす 彼の狩野派の画法は此人に至りて一    変し 稍浮世画に近けり 明和九年七月三日没す 年六十六 浅草誓願寺中称名院に葬る(扶桑画人伝    文鳳堂雑簒 諸家人物志 鑑定便覧)〟   〝佐脇嵩雪 181/218コマ    字は貫多 通商は倉治といふ 嵩之の男にして江戸の人なり 中岳斎と号す 父の教を受けて画法を研    究し世に名あり 文化元年十一月二十二日没す(諸家人物志 扶桑画人伝)〟   〝桜井雪館 181/218コマ    山興(さんこう)と号す 江戸の人なり 僧雪舟の画風を喜び 研究して其の技大いに進む 描く処筆力    頗る勇健にして活動の勢ひあり 寛政二年二月二十一日没せり 年七十四 法名を春台院山興常翁居士    といふ 江戸深川霊岸寺に葬る(扶桑画人伝 鑑定便覧 画乗要略)〟   〝喜多武清 186/218コマ    字は子慎 幼名を栄之助といふ 可菴と号す 江戸の人なり 谷文晁に師事して画法を修め 技大いに    進む 後狩野探幽の画風を喜び 旧風を一変して世の名あり 此の人最も人物・花鳥を描くに妙を得た    り 安政三年十二月二十日没せり 年八十一(扶桑画人伝 鑑定便覧)〟   〝菊池容斎 187/218コマ    名は武保 通商量平といふ 肥後守菊池武時の後裔にして 徳川幕府の家人たり 性人倫に厚く人の親    に薄きを見れば怫然として怒り 或ひは交を絶つに至る 人其の狭量を戒む 因て容斎と号す 幼にし    て文学に志し画を好む 初め高田円乗に師事して 狩野派の画を学び 後百家の流派に渉猟し 長を取    り短を棄てゝ 自ら一格の新意を創し 名声嘖々として 夙に天下に高し 其の描く所 有職衣冠の人    物・武者・官女・遊女 雅俗の人物・山水・草木・鳥獣・虫・魚 或ひは神社・仏閣等 皆悉く真に逼    りて 勢ひ活動せんと欲す 且つ山水に至りては 深浅・高低・遠近の位置整然として所を得 幅中に    数里の眺望あり 而して又樹木・人家の類に至りては 実際に存立せるに異ならず 其の水中の魚は浮    沈の活動あり 水気・火焔の景色は熟覧の間 自づから消散するが如く 観る者をして驚嘆措く能はざ    らしむ 其の筆意は探幽・応挙・文晁三家の粋を抜き 図は有職古土佐の法に倣ひて 別に新意を出す    誠に近世の名家といふべし 且つ此人の景色の如きは 西洋の油画の如く 本邦人中未だ発明せざる所    なり 嘗て前賢故実を編輯せんと欲し 諸国を歴遊し 遂に大和国に至りて 後醍醐天皇の御像を拝写    す 前賢故実成るの日 之を天覧に供ふ 上感賞して勅語を賜ふ 明治八年一月二日 今上容斎に日本    画士の号を賜ふ 年八十六歳の時 米国博覧会に奇画を出品して賞牌を受く 又内国博覧会より 名誉    竜紋の賞牌を受く 明治十一年六月十六日没せり 年九十一 谷中天王寺新葬地に葬る(扶桑画人伝)〟   〝北尾重政 188/218コマ    通称佐助といふ 紅翠斎・花籃と号す 本姓は北畠氏 江戸の人なり 初め大伝馬町に住し 後根岸に    住す 浮世絵を能くし 最も武者絵に長ぜり 当時の名手と称せらる(扶桑画人伝 燕石十種)〟   〝北川歌麿 188/218コマ    通称勇助といふ 紫屋と号す 江戸弁慶橋に住す 初め鳥山石燕に師事して 狩野風の画法を学び 後    浮世絵に移り 男女の風俗 錦絵及び俳優の像を描く 既にして俳優の名を借りて画名を伝へんとする    の非なるを知り 之れを描かず 自ら曰く 我は日本絵師なり 何ぞ世の画工の為す所に倣ふて 卑鄙    の業を為さんやと 遂に浮世絵を以て名を揚げ 遠く海外に及ぶに至れり(燕石十種 扶桑画人伝)〟   〝鳥居清忠 189/218コマ    鳥居清信の門に入りて 鳥居派の浮世絵を能くし俳優の像を描けり(燕石十種 鑑定便覧 扶桑画人伝)〟       〝宮川長春 193/218コマ    元禄享保年間の人なり 江戸に住す 土佐派の画風を慕ひ 岩佐又兵衛の筆意に倣うて 大和絵を能く    す 筆意正に岩佐に髣髴たり 常に当時風俗の人物男女 遊宴の趣きを写し所画絶妙なり 世皆之れを    愛翫し 名声菱川師宣に次ぐ 此の人の落款にも 日本絵宮川長春とあり 子孫氏を勝川と改む(扶桑    画人伝 鑑定便覧 名家全書)〟   〝宮川春水 193/218コマ    通称は藤四郎といふ 長春の男にして 元文年中の人なり 氏を改めて勝川と称す 父の教を受けて大    和絵を能くし 筆意頗る髣髴たり 江戸芳町に住す(扶桑画人伝)〟   〝蔀関月 198/218コマ    名は徳基 字は子温 通称は原二といふ 又荑楊斎と号す 法橋に叙せらる 大阪の人なり 初め月岡    雪鼎に師事して画法を研究し 技大いに進む 後広く和漢の画風を探討し 刻苦して遂に一家を為す     描く所風致ありて 尤も愛すべし 就中人物・山水に工(たくみ)なり 寛政九年十月二十一日没せり    年五十一(扶桑画人伝 続諸家人物志 画乗要略 鑑定便覧)〟   〝蔀関牛 198/218コマ    名は徳風 字は子堰といふ 大阪の人にして関月の男なり 画を能くし 天保年中名声高し(扶桑画人    伝 鑑定便覧)〟   〝司馬江漢 199/218コマ    名は峻 字は君岳といふ 春波楼と号す 初ね谷文晁に師事して画法を研究す 後旧風を一変して洋画    を学び 油絵及び銅販の画を製す 其の花押(くはをう)洋字を用ふ 後世洋画の盛なるは 実に此の人    を以て卒先者となす 文政元年十月二十一日没せり 年七十二(扶桑画人伝 古今雅俗石亭画談 嬉遊    笑覧 鑑定便覧 名家全書)〟   〝秋山女 199/218コマ    姓は桜井氏 名は雪保 字は桂月といふ 江戸の人にして山興の女(むすめ)なり 父に就きて画法を学    び 深く其の趣きを得たり 世之れを称す(扶桑画人伝 鑑定便覧 画乗要略)〟   〝珠雀斎 200/218コマ    姓氏詳(つまびらか)ならず 浮世絵を能くして 世に称せらる 就中俳優の似顔に妙を得たり(扶桑画    人伝)〟   〝春潮 201/218コマ    後の名を俊朝と改む 通称は吉左衛門といふ 吉左堂と号す 浮世絵を能くす 其の鳥居清長の筆意に    髣髴たり 文政年中おの人なり〟   〝下川辺拾水 200/218コマ    京師の人なり 初め狩野派の画法を研究し 後画風を一変して 浮世絵を描く 絵本板刻の物多し 天    明の人なり(燕石十種 扶桑画人伝)〟   〝菱川師宣 203/218コマ    通称吉兵衛といふ 友竹と号す 房州の人なり 壮年にして江戸に来り 土佐の画風を慕ひ 又岩佐又    兵衛の筆意を喜ぶ 爾来研磋して 其の技絶妙に至り 遂に名声を海内に轟かし 又兵衛に亞(つ)ぐの    妙手と称せらる 当時狩野常信 英一蝶等 名を芸林に顓(もつぱら)にす 故に師宣も亦其の風に化せ    られ 頗る狩野派の筆意を帯ぶるに至れり 此の人の落款に 日本絵菱川師宣と書せり 遺蹟の著名な    るものは 春宵秘戯の図 船遊の図 四季遊山の図 花街の図 演劇の図 花見の図等なりとす 正徳    年中没す 年七十(嬉遊笑覧 画乗要略 扶桑画人伝 鑑定便覧 名家全書)〟   〝菱川師房 203/218コマ    通称吉兵衛といふ 師宣の長男なり 父に就きて画を学び之れを能くす(扶桑画人伝)〟   〝菱川師永 203/218コマ    通称酒造之丞といふ 師宣の二男にして 師房の弟なり 父の教を受けて画を能くし 最も彩色に工    (たくみ)なり(扶桑画人伝)〟   〝菱川政信 203/218コマ    字は守節といふ 師宣に学びて 深く其の法を得たり(扶桑画人伝)〟   〝菱川友房 203/218コマ    画法を師宣に学び 筆意髣髴なり 然れども師い及ばざること遠し(扶桑画人伝)〟   〝雛屋立圃 203/218コマ    野々口氏なり 俗称を紅屋庄右衛門といふ 丹州の人なり 浮世絵を能くし世に名あり 又俳諧を松永    貞徳に学び 名声一時に高し 且つ書法を尊朝親王に学び 和歌を烏丸光広に学ぶ 寛文九年九月没す    年七十一(類考追考 俳林小伝 続本朝画史)〟   〝関清長 207/218コマ    通称は新助といふ 鳥居清満の門人なり 浮世絵を能くす 清満の実子浮世絵を描かず 清満即ち清長    をして己れに代りて三劇場の看板を筆作せしむ(扶桑画人伝)〟   〝鈴木春信 212/218コマ    湖龍斎と号す 西村重長の門に入りて画を学ぶ 明和初年吾妻錦絵を画く 之れ錦絵の祖なり 同六年    の頃湯島の浪女・美津女 笹森の仙女 浅草の仙女等の錦絵描きて 世に称せらる 然れども生涯俳優    を描かずといふ(扶桑画人伝)〟