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画人伝-明治-日本美術画家全書(にっぽんびじゅつ がかぜんしょ)浮世絵事典
 ☆ 明治三十年(1897)  ◯『日本美術画家全書』上下 田口年信編 石川嘉助 明治三十年九月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(原本は名字の五十音順だが、本HPは画号の五十音順に並びかえた)   〈編者田口年信は、環翠楼主人の序に「田口仙斎浪華画伯也」とあるから、当時大阪在住の芳年門人田口年信と同人である〉    ※◎は不明文字 例(上49/177コマ)は上巻画像のコマ番号   【あ】    安度(あんど)   〝懐月堂 は浮世絵師なり、安慶(ママ)と号し、源七と称す、享保年中の人〟(上138/177コマ)   【い】    一蕙(いっけい)   〝浮田一蕙 は土佐の画人なり。姓は豊臣、内蔵允と称す、初めの名は公信、後可為と改む、京師の人、一    蕙の名最も著る。平居孝経を読み暗誦一字を錯らず、友弟に教るに必ず先づ孝経を先にす。嘗て孝経の図    を作り、之を天朝に献ず。常に門生に謂て曰く、画は小技と雖も半其教に関す、徒に美花錦鳥を画て俗眼    を慰すは我徒に非るなりと。一蕙慷慨にして気節あり、嘉永癸丑米艦の来るや、江戸に在りて其子可成に    謂て曰く、志士国に報するの秋なり、然れども右族巨藩に依頼するに非ざれば心成らずと、乃ち長州藩に    請て可成を其の隊伍に編す、既にして幕府和を講じ米艦去る。一蕙憤に堪へず、毎に画を乞ふ者あれば、    神風夷艦を覆すの図を作り以て之に与ふ。蓋し士気を振作せしめんとするなり。安政甲寅米艦再び来る、    一蕙可成を遣はし其形勢を察せしめ、其地理を図り策する所あらんとす。其年皇城火災あり、一蕙画院の    寄人に班し御屏風を画き褒賞を賜はる。是時に当り外患日々に迫り国事甚だ非なり、乃ち当路者某に因り    時務策一篇を上る、天子之を嘉納す。其の名を問へば則御屏風を画く者なり。五年戊午、幕吏一蕙の父子    を獄に繋ぎ、尋て江戸に押送す。京師の人、池内大学亦た踵(ママ)て至る。一日幕吏同く之を詰す、一蕙義    を執り屈せず。大学吐言曖昧たり。一蕙囚室に還り大に怒りて大学を責て曰く、汝士に非ず、大丈夫寧ろ    海中の鬼となるも、豈に節に屈すべけんや、可成素と大学を友とし◎し、乃ち可成に謂て曰く、汝速に大    学と交友を絶てよ、肯ぜざれば、吾汝と絶ん、君臣の大義を論ずる声、室外に聞ゆ。己未の秋、父子放れ    て京師に帰り、一蕙囚中瘡を病み、遂に癒へずして没す、年六十五、時に安政六年十一月四日なり。可成    後長州侯に禄せられ宮内省出仕と為ると云ふ〟(上63/177コマ)    一嶂(いっしょう)   〝英一嶂 は画家なり、一蝶の門人たり、宝暦十年四月廿八日没す、年七十〟(下79/144コマ)    一川(いっせん)   〝英一川 は英一舟の男なり、家法を守りて戯画を能くせり〟(下79/144コマ)    一蜩(いっちょう)   〝英一蜩 は画家なり、二世一蝶の二男百松、孤雲と号す、後ち源内と改む、父の風を得て戯画を能くせり〟    (下79/144コマ)    一蝶(いっちょう)   〝英一蝶 は画人なり、本氏は多賀、名は安雄、字は君受、幼名は伊三郞、長じて治右衛門又助之進と称す、    一蝶は其の号、又た簑翠翁・牛丸・旧斗堂・一蜂閑人・一閑山人・隣撨庵・鄰濤庵・暁雲・六巣・澗雪・    宝蕉・和央(一に山人応に作る)・雲堂の数号あり、大阪の人、某侯の侍医多賀伯菴の子なり、年十五にし    て父と共に東都に移り、呉服町新道に住す、画を狩野安信に学で狩野信香と称す、或は曰ふ、狩野安雄と    称すと、年久して遂に妙手に至る、人物花鳥を善くす、当時画家に佐玄龍・佐文山あり、俳諧に芭蕉・其    角・嵐雪あり、金工に横谷宗珉あり、通客に紀伊國屋文左衛門あり、皆親睦の友なり、故に画風に自ら俳    興ありて、観る者頤を解くに居る、遠く鳥羽僧正を距るの後ち、戯画は一蝶を祖とすべし、又た俳諧を好    む、書は玄龍に学で之を能し、書画一筆の名図あり、一蝶の画風は斯の如きを以て、或は浮世絵の評を下    す者あるも、其の実は狩野家の正風にして、時々戯画を画くことあるのみ、元禄中仏師村田民部と謀り、    戯に当世百人首一巻を著す、事執政者を誹るに座し、十一年十二月二日、三宅島に謫せられ阿古邑に居す、    時に年四十七、在留十二年間、島中の石土木皮を以て絵具を製し画く、世に之を島一蝶と称し特に賞翫す、    一蝶母に事へて孝、謫居中常に画を母の許に送りて衣食の資に給す、宝永六年九月赦に遇ひて東都の帰る、    年五十八、其の赦に遇ふ時、会々一蝶草花の上に止るを視る、因りて姓を英、名を一蝶と改む、是より其    画益行はる、人となり豪放洒落、嘗て一に奇石の石燈あり、諸侯争ひ之を買はんと欲す、一蝶即ち馳せ往    き、嚢を傾けて之を購ふ、又新茄子を鬻ぐを視る、亦た高価を以て之を買ふ、是に於て毎日火を石燈に点    し茄子を噉ひ、傲然人に謂て曰、此即ち天下第一の歓楽なりと、又隆達節の曲を好み新譜を製する者多し、    朝妻舟及東天白最も世に著る、嘗て妓某の話に拠り女達磨の図を画く、之を女達磨の図の始とす、晩年薙    髪して朝湖又長湖・潮湖と書す、一蝶晩年手ふるへて月を画くにぶん廻しを用ひしが、其さへ思ふ侭なら    ざりしと、故に「おのづからいざよふ月のぶん廻し」の句あり、享保九年正月十八日没す、年七十三、江    戸二本榎承教寺中顕乗院に葬る、法名英受院一蝶日意居士と云ふ〟(下80/144コマ)    一蜂(いっぽう)初代   〝英一蜂 は画家なり、春窓と号す、初代一蝶の門人、名は信勝、長八と称す、画風能く師の格を得て妙な    り、元文二年十一月十一日没す、深川寺町陽岳寺に葬る〟(下79/144コマ)    一蜂(いっぽう)二代   〝英一蜂二代 は江戸の画師なり、初代に継で二世一蜂と称す、天明八年六月十二日没す、築地本願寺中貞    光寺に葬る〟(下79/144コマ)   【う】    歌麿(うたまろ)   〝北川歌麿 は浮世絵の名手なり、紫屋と号し勇助と称す。蔦屋重三郎の家に寓居し、後弁慶橋の傍に住す。    初め鳥山石燕の門に入りて狩野家の画を学ぶ。後浮世絵に移り男女の風俗を画く、又た多く錦絵等を画け    り。嘗て罪ありて獄に繋がれしが、免されて幾もなく没す。生涯俳優の像を画かず曰く、俳優の名を借り    て画名を天下に伝へんとするは鄙なり、我は日本絵師なり浮世画一派を以て、名を耀かすべしと。果して    其の名声布きて海外に及べり〟(上126/177コマ)   【え】    英山(えいざん)   〝菊川英山 は江戸の人、名は俊信、通称為五郎、重九斎と号す。始め父英二に業を学べり。幼より北渓の    画法を慕ひ、北斎の画をかけり。哥麿没故して後、自立して哥麿の画風に似せて一家をなし、板刻の美人    画を出せり。大に世に行れたり。豊国春扇と並び立て、浮世美人絵中興一家の祖なり〟(上125/177コマ)    英之(えいし)   〝英之女 は画家佐脇嵩雪の女なり。画法を父に受けて能くす。寛政三年六月三日没す、浅山(ママ)誓願寺中    称名院に葬る〟(上69/177コマ)   〝佐脇英之【佐脇氏自ら修して佐とす】 は江戸の画家なり、嵩雪の女、寛政三年六月三日没す、浅草誓願    寺中称名院に葬す〟(上164/177コマ)    栄之(えいし)   〝細田栄之 は徳川幕府の家人なり、浮世絵を能くし鳥文斎と号す、名は時富、江戸の人、本所割下水に住    す、画風上品にして特に美人を画くに巧なり、蜀山人の賛詞を画中に書する物、往々世上の伝播す、天明    寛政の人なり〟(下96/144コマ)    栄昌(えいしょう)   〝細田栄昌 は浮世絵師なり、栄之の門人〟(下96/144コマ)    英泉(えいせん)   〝池田英泉 は有名の浮世絵師なり。俗称善四郎、名は善信、一筆庵、国春楼、北豪経斎(ママ)、无名翁の号    あり。初め狩野白桂の門に入りて画法を学び、後一格を出して浮世絵を画けり、嘉永元年八月十六日没す、    年五十七〟(上52/177コマ)   〝一筆庵英泉 は江戸の画家なり。名は義信、字は混聲、渓斎と号す、又無名翁と号す、通称は池田善次郎、    嘉永元年七月廿三日没す、年五十九、又小説を著す〟(上58/177コマ)   〝渓斎 は姓は池田、江戸の画家なり、名は英泉、字は混声、渓斎は其の号、又無名翁、一筆庵の号あり〟    (上143/177コマ)    〈没年と享年が異なる英泉や三重登録の無名翁、なぜこんなことになったのか不審である〉    栄理(えいり)   〝細田栄理 は浮世絵師なり、栄之の門人〟(下96/144コマ)   【か】    歌舞伎堂(かぶきどう)   〝歌舞伎堂 は本と浮世絵師なり、歌舞伎役者の似顔を画く、然れども行はれざるを以て後廃止せり〟    (上119/177コマ)    関牛(かんぎゅう)   〝蔀関牛 は画人なり、関月の男、名は徳風、字は子偃、関牛は其の号、天保中の人〟(上168/177コマ)    関牛(かんげつ)   〝蔀関月 は画人なり、名は徳基、字は子温、関月は其の号、又荑楊斎と号す、通称原二【◯一に阮に作る】    大阪の人、月岡雪鼎を師として画法を学ぶ、後又和漢も画法を学びて人物山水に長じ、遂に一家を作す、    其の画く所甚だ風致あり、又詩書を能くす、法橋に叙せらる、著す所伊勢参宮名所図絵及び山海名所図絵    あり、寛政九年十月廿一日没す、年五十一〟(上168/177コマ)   【き】    丘山(きゅうざん)   〝岳亭丘山 は江戸の狂師(ママ)なり。斧吉と称す、又定岡と号す。狂歌を窓廼叢竹の学び、画を堤秋栄・葛    飾北斎に学ぶ。又小説を善くして戯著あり〟(上79/177コマ)    〈この丘山、なぜか岳亭春信の名でも立項されている〉    玉山(ぎょくざん)   〝岡田玉山 は画人なり、名は尚友、字は子徳、大阪の人、画を月岡雪鼎に学びて、人物山水花鳥を巧みに    す、後ち一家をなせり、絵本太閤記の図を作る、又和漢名所の図を画きて筆才あり、文化九年没、年七十    六〟(下132/144コマ)    清長(きよなが)   〝鳥井(ママ)清長 は鳥居派第七世の画家なり【一に四世に作る】、新助と称す【一に市兵衛に作る】鳥居清    満門人にして画を能くし江戸に住す、清満の実子大和絵を好まざるを以て、清満清長に托して三歌舞妓の    絵看板を画かしむ、鳥居派の風は其の初、菱川流と大同小異なりしが、清長に至りて大に一変す、又錦絵    等に工なり、文化中没す〟(下66/144コマ)    清信(きよのぶ)初代   〝鳥居清信初代 は鳥居派風の元祖なり、庄兵衛と称し、江戸難波町に住す、初め菱川風の画を学び、後一    変して遂に一家をなす、常に江戸歌舞伎劇場の看板を画く、爾来今日に至るまで劇場の画図を画くに、皆    鳥居風を以てす、又当時江戸絵と称して一枚絵の絵を発行す、又草双紙の版下絵を巧みにす、元禄享保年    間の人〟(下66/144コマ)    清春(きよはる)   〝近藤清春 は浮世画師なり、助五郎と称す、江戸の人、鳥居清信の門人にして、当時風俗の人物、美人・    遊女等の画を能くす、又草双紙の板下を画く、又吉原細見記、江戸歌舞伎狂言の本等に【俗に所謂金平本    赤本の類】自ら書画を筆して多く開板せり、又始て泥画を画く、正徳享保年中の人〟(上155/177コマ)    清倍(きよます)   〝鳥居清倍 は鳥居派第三世の画家なり、初め清満後清信と改む、通称半三、清倍の男、家風を守りて画を    能くす、江戸歌舞伎の絵看板及び一枚摺の江戸絵、又草双紙の板下を画けり、その後、清満と名(ママ)くる、    鳥居派の画家数人ありと云ふ〟(下66/144コマ)   〝鳥居清倍 は鳥居派の画家なり、江戸の人、初代清信の画風を学びて之を能くす、世に大和絵師と称す〟    (66/144コマ)    〈同人か別人かあるいは単なる誤記か、いずれであろうか〉    清峰(きよみね)   〝鳥居清峰 は鳥居派第八世【一に五世に作る】の画家なり、清満の孫、後名を二世清満と改む、江戸和泉    町に住す、実は清満の女婿、縫箔師某の男、清長の門に入りて鳥居派の画を学び、江戸三歌舞伎の絵看板    及び番付、絵草紙等を画けり、文化文政中の人〟(下66/144コマ)   〝清定(きよさだ)は鳥居派の大和絵師なり、鳥居清長の門に入りて、俳優の似顔或は劇場の看板を画けり〟   〝清重(きよしげ)は鳥居派の大和絵師にして、鳥居清信の門人なり、俳優の似顔或は劇場の看板を画けり〟   〝清忠(きよただ)は鳥居派の大和絵師なり、鳥居清信の門に入りて、俳優の似顔或は劇場の看板を画けり〟   〝清次(きよつぐ)は鳥居派の大和絵師にして、鳥居清長の門人なり、俳優〟   〝清経(きよつね)は鳥居派の画家なり、清満の門人大三郎と称す〟    〝清時(きよとき)は鳥居派の大和絵師なり、鳥居清長の門に入りて、俳優の似顔或は劇場の看板を画けり〟   〝清久(きよひさ)は鳥居派の大和絵師なり、鳥居清長の門に入りて、俳優の似顔或は劇場の看板を画けり〟    〝清広(きよひろ)は鳥居派の大和絵師にして、鳥居清信の門人なり、俳優の似顔或は劇場の看板を画けり〟   〝清政(きよまさ)は鳥居派の大和絵師にして、鳥居清長の門に入りて、俳優の似顔或は劇場の看板を画けり〟   〝清之(きよゆき)は鳥居派の大和絵師也、鳥居清長の門に入りて、俳優の似顔或は劇場の看板を画けり〟    (以上清定~清之まで、上131-135/177コマ)   【く】    国貞(くにさだ)初代 豊国三代   〝角田国貞 は浮世絵師なり、香蝶楼、一雄斎、樹園、又英一蝶と号す、通称は庄蔵【一に庄五郎に作る】    江戸の人、本所五ッ目渡船場の辺に住す、故に又五渡亭の号あり、後ち亀戸に移る、画法を倉橋豊国に学    びて其の技大に進む、天保十五年二月師名を継ぎて一陽斎豊国と改む、世に二世豊国と云ふ、柳亭種彦作    の田舎源氏の図を作る、是より名大に著はる、元治元年十二月十五日没す、年七十九、江戸亀戸光成寺に    墓あり(燕石十種、扶桑画人)〟(下42/144コマ)   〝歌川国貞 は浮世絵師なり。後ち豊国と改む、蓋し其師名を冒すなり、一陽斎と号す画は歌川派を宗とし    錦絵を以て著はる、常に好みて宮娃閨秀婉媚妍麗の態を写す、曽て亀戸菅廟の門前に住す、会々人の託を    受け婦人賊に遇ふの図を製せんとす、意匠未だ動かず、一夕外に出て久しくして反らず、其の婦坐して竢    つ、夜将に半ならんとす、盗あり戸を排きて入る、婦踏跙狼狽為す所を知らず、既にして盗面を露はし、    徐ろに云ふ、恐るゝ勿れと、婦睇を定めて之を視れば、即ち其の夫なり、復た驚いて泣く、明に至り豊国    遂に図を作りて之を遣る、図様巧妙、其の人大に◎び厚く瓊瑶の報を作す、蓋し古人心を用ゆるの極、往    々是くの如き者あり、著はす所役者似顔早稽古本あり、書中院子肖像を写し、捷法を載す、其の説、古人    の写照法とと事前契合すと云ふ〟(下138/144コマ)    〈『役者似顔早稽古』は文化14年(1817)序、院子とは役者のこと。この盗賊騒ぎの挿話は『香亭雅談』(中根淑著・明治19年     (1886)刊)に出ているもので、田口年信はそのまま引いている。本HP国貞の項、明治19年記事参照〉    国貞(くにさだ)二代   〝国政二代目国貞 は浮世絵師なり、角田国貞の門人にして、師、名を豊国と改む後ち国政亦国貞と改む、    世に二世国貞と云ふ〟(上137/177コマ)    国長(くになが)   〝歌川国長 は浮世絵師なり、通称梅千之助、一雲斎と号す、江戸新橋金六町に住す、画法を豊国に学び、    草双紙の絵並に錦絵を能くす、人と為り遊芸を好みて音曲に妙を得たり、桜川甚幸交はり深しと云ふ、文    政中没す、年四十余〟(下138/144コマ)    国政(くにまさ)   〝歌川国政 は浮世絵師なり。甚助と称し一寿斎と号す。元奥州会津の染戸なり、後江戸に出て倉橋豊国に    学びて浮世絵を能くす。其の俳優の肖像の如きは実に飛動せんとするが如し。寛政年中の人〟    (上64/177コマ)    国芳(くによし)   〝歌川国芳 は浮世絵師なり、通称孫三郞、一勇斎と号す、歌川豊国の門に学び、師と俱に錦絵を以て著は    る、其の猛将健卒及び千軍万馬、縦横奔馳の状を写すが如き、当時称して無双と為す、嘉永中東都名娼の    真を写して印行す、都人争ひて之を需め、声華甚だ高し、一日大族某国芳を携へ、江西川口楼に宴し、水    神白鬚等の諸勝を図せしむ、国芳先づ小紙を膝上に展べ、景に対して匇々釣摸す、一妓あり其の画工たる    を知らず、傍らより之を嘲りて曰く、子も亦絵事を知るかと、国芳顧みて曰く、咄這の豊面老婆。吾れ他    日汝が為の其の醜を写さんと、妓解せず之を婢に問ふ、婢曰く 之れ画人国芳君なり、妓吃驚し地に伏し    て謝す、闔坐憫笑す、国芳晩年に江東牛王祠前に住す、今ま三囲社畔に其の碑あり〟    〈この一妓の挿話は上掲国貞の項と同様、明治19年刊『香亭雅談』をそのまま引用したもの〉   【け】    蕙斎(けいさい)   〝鍬彦(ママ)蕙斎 は江戸の画人なり、初の名は政美後紹真と改む、蕙斎は其の号、又杉皐と号す、通称三四    郎。画を谷文晁に学び、山水人物花鳥細画を能くす、殊に圭区勝景の図を写すに工みなり、文政七年三月    没す〟(上137/177コマ)〈正しくは鍬形〉        敬甫(けいほ)   〝高田敬甫【甫又輔に作る】は画人なり、近江日野の人、薬種を業とす、後ち絵事によりて法眼に叙す【或    は曰く、豊前の大目となる】と竹隠と号す、画を狩野氏及び僧古礀に学びて一家を成す、登龍門の図の如    きは鯉の全身を飛泉の中に写し、墨の濃淡を以て隠暎を間に眎す、尤も工夫を加ふと云ふべし、壮歳京摂    の間に遊び、大に名を得て呉俊明と一時の領袖たり、又仏書を好み其の事に精しく殊に仏像を画く、敬甫    眉間に疣ありて白毫を生ず、故に画名眉間毫翁の字を用ふ、性温雅にして専ら山水勝地を愛す、宝暦中没    す、年八十余〟(下28/144)   【こ】    孔寅(こういん)   〝長山孔寅 は四条風の画家なり、字は子亮、紅園と号す、又五嶺、牧斎の号あり、孔寅は其名、出羽秋田    の人、大阪に住す、松村月渓の門に入りて、人物花鳥を能くせり〟(下71/144コマ)    江漢(こうかん)   〝司馬江漢 は有名の(ママ)洋画家なり、名は峻、字は君岡(ママ)、春波楼と号す、初恋川春町に学び二世春信    と号し、又谷文晁に学ぶ、江漢の時、洋画未だ開けず、蘭人僅かに外科医法を伝ふるのみ、独り江漢始め    て長崎に至り、洋画を学び油画及び銅板の画を製す、其の花押洋字を用ふ、始めて銅刻を以て天球全図及    び東都八景の図を製す、後世洋画の盛なる、実に江漢を以て率先者となすなり、江漢嘗て事故ありて偽り    死せりとなし、去りて芝某町に潜居す、一日某途上に於て江漢の後脊を見て、追て其名を呼ぶ、江漢足を    逸して走る、追ふ者益々呼びて接近甚だ迫る、江漢首を回し目を張て叱して曰く、死人豈言を吐かんやと、    再び顧みずして復走ると云ふ、文政元年十月廿一日没す、年七十二、著す所春波楼画譜、和蘭奇工あり〟    (168/177コマ)    湖龍斎(こりゅうさい)   〝磯田湖龍斎 は浮世絵師なり。庄兵衛と称す。江戸小川町土屋家の浪人、後ち両国薬研堀に住す。浮世絵    を画き、法橋に叙す。然れども巧みならずと云ふ〟(上56/177コマ)   【さ】    貞秀(さだひで)   〝橋本貞秀 は和画家なり、名は嫌玉蘭斎と号す〟(下78/144コマ)    〈この記述は明治28年刊『鑑定必携日本画人伝』の「橋本貞秀 名ハ嫌玉、和画ニ妙ナリ」と同じである。したがって年信も単     にそれに拠ったまでなのかもしれない。しかし「嫌」の字に貞秀の画業や人物像に敬意を払うような働きがあるとは思えない。     にもかかわらずそのまま引用しているのであるから、意図的であることは明らかである。それにしても、両者は師匠筋こそ違     うとはいえ同じ歌川派である(貞秀は初代国貞の弟子で年信は国芳の孫弟子にあたる)、年信はなぜこの貞秀を国貞・国芳と     同様に浮世絵師と呼ばなかったのであろうか〉   【し】    重長(しげのぶ)   〝西村重長 は大和絵師なり、初代清信の門に入りて鳥居派の画を学び、浮世画及び俳優の図を能くせり、    後に石川豊信と曰ふ〟(下71/144コマ)    重政(しげまさ)   〝北尾紅翠 は浮世絵師なり、兼て書を能くす、名は重政、左助と称す、紅翠は其の号、一に花藍斎と号す、    本姓は北畠氏、江戸の人、壮年の頃鳥居風の画を作り、板下に妙なり、近来江戸書肆絵双紙問屋蔵板の庭    訓或は往来物百人一首法帖の類は書画共に多く紅翠の手に係る〟    〈江戸の書物問屋や地本問屋が出版する庭訓往来・百人一首・法帖類の板下用書画の第一人者が重政であった〉    写楽(しゃらく)   〝写楽 は車(ママ)周斎と号す【一説に東洲斎に作る】江戸八丁堀に住す、歌舞伎役者の似顔を画くを以て業    とす、然れども其の技巧ならず、一両年にして廃止す〟(下3/144コマ)    秋山(しゅうざん)   〝桜井秋山 は画人なり、名は雪傑、字は桂月、雪関(ママ)の女にして江戸の人、画を父に学び山水人物等を    能す、尤も高壁巨障を画くに工みなり、世人称して丈夫も一歩を譲るべしと云ふ、或人曰く、秋山容貌甚    だ醜しと雖ども、其の丹青の技に矜り自ら見る甚だ高し、曾て一宴中酒酣なる時秋山曰く、海内実に我に    配すべき男あるなしと、傍人率爾に曰く、海内亦君が如き醜婦を娶るべき男あるなからるべし、匹(ママ)無    きを以て忠(ママ)と為すなかれと、秋山大に愧づ〟(上162/177コマ)      珠雀斎(しゅじゃくさい)   〝珠雀斎 は浮世絵師なり、姓氏未だ詳ならず、特に俳優の肖像を巧みにす〟(下4/144コマ)    春英(しゅんえい)   〝春英 一に九徳斎と号す、浮世絵を能す、勝川春章の門人にして俳優似顔に妙を得たり〟(下5/144コマ)    春暁斎(しゅんぎょうさい)   〝速水恒章 は平安の画家なり、春暁斎と号す、通称は彦三郞、浮世絵を以て其名世に高し、尤も人物を画    くに真に至る、文政六年七月十日没す〟(下82/144コマ)    春好(しゅんこう)   〝勝川春好 は浮世絵師なり。春章の弟子にして、師と等しく似顔を写すに妙なり。江戸長谷川町に住す。    安永年中の人なり〟(上82/177コマ)    春章(しゅんしょう)   〝勝川春章 は浮世絵師なり。一の氏は宮川、旭朗斎又た西爾と号す、俗称は祐助。浮世絵を画き、又書を    能くす。歌舞妓俳優の肖像及び五人男の画を善くす、又武者画に巧なり。初人形町林屋七右衛門の家に寄    食す時、貧にして名印なし、林屋の受領印を以て之れに代ふ、印文壺の中に林の字あり、故を以て、人春    章を呼て壺屋と曰ひ、弟子の春好を小壺と曰ふ。寛政四年十二月八日没す、浅草西福寺に葬る〟    (上82/177コマ)    春水(しゅんすい)   〝宮川春水 は大和絵師なり、長春の男、藤四郎と称す、父の業を受けて大和絵を能くす、父の筆意に似た    り勝川氏と改め、爾来勝川と唱ふる大和絵は此人より始まる、後ち江戸芳町に住す、元文年中の人〟    (106/144コマ)    春泉(しゅんせん)   〝竹原春泉 は浮世絵師なり、春朝の男、画法を父に学びて名所図絵等を画けり〟(下32/144コマ)    春潮(しゅんちょう)   〝春潮 は浮世絵師なり、後名を俊朝と改め吉左堂と号す、通称吉左衛門、初め錦画を画くに筆意能く鳥居    清長に似たり、又草双紙板下を画く、後浮世絵を廃止す、文政年中の人〟(下5/144コマ)    春朝斎(しゅんちょうさい)   〝竹原春朝斎 は京師の画人なり、秋里籬蒿(ママ)と深く交り五畿内及諸国之名勝図絵の刻本を多く出せり、    【三馬按、春朝斎の男に春泉斎あり、継で名所図絵を画く】杏花園蔵浮世絵類考の附録は、本白銀町一丁    目縫箔屋・笹屋新七郎(ママ)邦教書とあり、甚だ杜撰の物なり、只だ画道に熱心の人にて心覚えに見聞せし    ことを記したるものと見ゆ〟(下32/144コマ)    〈籬蒿は籬島、新七郎は新七が正しい。【三馬按~】の部分は、笹屋邦教編「古今大和絵浮世絵始系」の竹原春朝斎記事に対す     る式亭三馬の按記。(「古今大和絵浮世絵始系」は杏花園(大田南畝)編集・所蔵の『浮世絵類考』に収録されている)田口年     信が笹屋の記述を「甚だ杜撰」としたのは、『伊勢名所図会』の画工を春朝斎とする笹屋の記事に対して、三馬が「伊勢名所     図会ハ、月岡丹下門人、法橋関月ガ筆ナリ」と訂正したことを踏まえたもの〉    俊満(しゅんまん)   〝窪俊満 は戯作者なり、狂歌を善くし尚左堂と号す、通称安兵衛戯作の名を南陀伽紫蘭と曰ふ、江戸亀井    町に住す。著書四五種あり、世に行なはる、又北尾重政、勝川春章に就て浮世絵を学ぶ、常に狂歌の画の    みを画く、左筆なり〟(上137/177コマ)    薪水(しんすい)   〝勝川薪水 は浮世絵師なり。春水の男、父の業を受けて浮世絵を能くす。江戸白銀町に住す。寛保年中の    人なり〟(上82/177コマ)   【す】    嵩谷(すうこく)   〝高嵩谷 は画人なり。名は雄、嵩谷は其の号、又屠龍翁と号す。一蝶の門人佐嵩に就きて学ぶ。当時出藍    の称あり。最も山水に長ず。曾て頼政恠物を射る図を画き、之を浅草観音堂の楣間に懸け、潜に群集の中    に紛れ入りて、其の品評するを聞くに、一人あり曰ふ 平家物語に猪の早太九力ぞ刺したりけるとあり、    今ま此画力を閃かして高く頭上を過く、本文に合せざるに似たりと、嵩谷素より本書を見ずして漫然図を    作る、故に慙悔して遂に是を削り改む。堤等琳画を以て自負す、曾て韓信胯下を出る図を写し、又是れを    同所に掲げ、嵩谷の画額に比較す、然れども世人嵩谷を重んじて等琳を軽んずと云ふ。文化元年八月廿三    日没す、年七十五著す所、楽尺(ママ)斎画譜・屠龍百富士図等あり〟(上76/177コマ)    〈楽尺斎は楽只斎の誤記か〉    嵩之(すうし)   〝佐脇嵩之【佐脇氏自ら修して佐とす】 は江戸の画人なり、一水と号す、嵩之は其の名、初の名道賢、字    は子嶽、東宿、杲々観、中岳堂、一翠斎、幽篁亭の号あり、甚内と称す【一に甚蔵に作る】江戸の人、英    一蝶の門に入り画法を学びて一家を成す、此に及びて狩野家の画意遠く変じて浮世に近し、明和九年七月    三日没す、年六十六、浅草誓願寺中称名院に葬る〟(上164/177コマ)    嵩雪(すうせつ)   〝佐脇嵩雪【佐脇氏自ら修して佐とす】 は江戸の画人なり、嵩之の男、字は貫多、中兵斎(ママ)と号す、通    称は倉治、嵩雪は其の名、画法を父に学びて能く荷風を画けり、文化元年十一月二十二日没す〟    (上164/177コマ)    祐信(すけのぶ)   〝西川祐信 は西川派の浮世絵師なり、京師の人、初の名は祐助、右京と称す、自得斎又文華堂の号あり、    画を狩野永納に学ぶ、遂に変じて浮世絵師となる、最も長ずる所は春宵秘戯の図、官女の図、俳優の図な    り、山水鳥獣之に次ぐ、宝暦元年没す、年七十四、著す所画本多し、嘗て春画を画て罪を蒙ると云ふ〟    (71/144コマ)   【せ】    雪館(せっかん)   〝桜井雪館 は画人なり山興と号す、江戸の人、画法雪舟より出で多く人物を画く、筆力強健にして大に活    動あり、然れども猶圭角あるを免れず、識者之を短とす、寛政二年二月廿一日没す、七十四歳、江戸深川    霊岸寺に葬り、碑を房州鋸山日本寺に建つ〟(上162/177コマ)    雪渓(せっけい)   〝月岡雪渓 は画人なり、雪鼎の二男、江州の人、父の画風を学びて能くせり、法橋に叙せらる(扶桑画人伝)〟    (下42/144コマ)      雪斎(せっさい)   〝月岡雪斎 は画人なり、江州の人、雪鼎の長男にして父の画風を学び、法橋に叙せらる(扶桑画人伝)〟    (下42/144コマ)    雪岑(せっしん)   〝福王雪岑 は画人なり、名は盛勝、雪岑は其の号、又白鳳軒と云ふ、通称は茂右エ門、初め英一蝶の画風    を学び、後ち土佐風を慕ひて能及び狂言の図を巧みにす、毎画彩色緻密にして上品なり、其の遺蹟世に散    在す、然れども山水花鳥及び水墨の画は未だ之を見ず、天明五年三月十八日没す、深川浄深寺に葬る〟    (89/144コマ)    雪鼎(せってい)   〝月岡雪鼎 は有名の画人なり、本姓は本田、名は昌信、雪鼎は其号、又信天翁と号す、俗称は丹下、江州    の人、大阪に住し、画法を高田敬輔に学びて大に研究し、又和漢の画法を慕ひて後ち変す、画く所邦俗の    美人を巧にす、又好みて春宵秘戯の図を作り、設色緻密にして透明なる者は人心を動かすに足る、又人物    の魚類の画を巧にす、応挙と雖ども此図に傚ひて、遂に人物動物を能せりと云ふ、故に当時に名あり、又    春画に於ては古今未発の妙趣を画て現今に至るまで、人之を称す、法橋に叙せらる、天保六年十二月没す、    年七十七(鑑定便覧、扶桑画人伝、燕石十種、画乗要略)〟(下42/144コマ)    雪堤(せってい)   〝長谷川雪堤 は江戸の画人なり、名は宗一、雪堤は其の号、又梅紅松斎の号あり、雪旦の子、父に学で同    じく長谷川雲谷風の画を能くす、筆力父に劣らず、明治十五年三月十五日没す〟(下78/144コマ)   【そ】    宗理(そうり)初代   〝俵屋宗理 初代 は画人なり、姓氏詳ならず、俵屋と号す、初め住吉広守に学び、後ち尾形光琳の画風を    能くし、光琳も均しく青日の号を唱ふ、没年詳ならず、明和安永間の人〟(下37/144コマ)    宗理(そうり)二代   〝俵屋宗理 二世 は浮世絵師なり、初の名は宗二、俵屋宗理の後を嗣で二世宗理と曰ふ、後寛政十年の頃、    葛飾北斎の号を継て二世北斎と改む、江戸浅草に住す、狂歌摺物の絵に工みなり〟(下37/144コマ)    宗理(そうり)三代   〝俵屋宗理 三世 は浮世絵師なり、三代目宗理を嗣ぐ、初の名は宗二、後俵屋を改めて菱川宗理と云ふ〟    (下37/144コマ)   【ち】    千春(ちはる)   〝高島千春 は土佐流の画人なり、初め大阪に住し、後ち東都に来り、土佐守の画風を慕ひて能く其風を得    たり、安政六年十一月十二日没す、年八十三〟(下28/144)    長春(ちょうしゅん)   〝宮川長春 は大和絵の名手なり、江戸の人、元禄享保年間に当りて大和絵を能くす、画く所菱川師宣と同    じく土佐の画風を好み、岩佐又兵衛の図に依りて、当時風俗の人物男女遊宴趣きを写し出すこと妙なり、    師宣に続きて世人之を愛玩す、筆意正に岩佐の画風あり、師宣と同じく落款に日本絵宮川長春とあり、日    本絵を好む人、特に之を愛す、子孫氏を勝川と改め、亦大和絵に名を得たり〟(下106/144コマ)    珍重(ちんちょう)   〝羽川珍重 は浮世絵師なり、本姓は真中、通称を大田弁五郎と曰ふ、武州埼玉郡の人、画を鳥居清信に学    び、劇場絵本及び吉原細見記の挿し絵等を画けり、沖信と号し三同と号す、宝暦四年七月廿二日没す〟     (77/144コマ)   【と】    等琳(とうりん)初代   〝等琳初代 は堤氏、雪舟の画裔と称す、一家の画風を立てゝ雪舟流の町画工を興せり、安永天明の頃より    此の画風市中に行はれて幟画、祭礼の燈籠は此の画風を撰べり、筆力勝れて妙手なり、摺物団扇張交の板    刻あり〟(下50/144コマ)    等琳(とうりん)二代   〝等琳二代 は初代等琳に学びて其業を能くせり〟(下50/144コマ)    等琳(とうりん)三代   〝等琳三代 二代等琳の門人なり、初め秋月と称す、等琳の名を継ぐに及びて、浅草寺に韓信の額を寄附せ    り、雪舟の画法に似ずと雖も貌色骨法一派の筆力あり、門人甚だ多し、絵馬屋職人、幟画職人、提灯屋職    人等総て画を用ふ〟(下50/144コマ)    〈江戸市中の寺社には絵馬が、また祭礼・開帳等の野外行事には幟絵・燈籠絵・提灯絵などが付きものであったが、堤派はそれ     らの作画を専ら担っていたようである〉    訥言(とつげん)   〝田中訥言 は平安の画家なり、名は痴、字は虎頭、大考斎と号す、法橋に叙す、尾張の人、平安に住す、    嘗て藤原信実の画軸を見て、これを摸し研究して其格を得、古画の風致を得たり、古画に詳なること此人    の右に出る者なし、因て世頗る称誉して其画を珍とす、殊に衣冠の人物宮殿の図に妙手なり、訥言常に云    ふ、我若し明を失せば則ち死すべしと、晩年に至りて盲人となる、訥言資性剛直清廉、一も言を食むなし、    而して盲目となる人是を危ぶむ、訥言言に背かず死なんと欲して食を断つこと数日、命未だ尽きず、遂に    自ら舌を噛みて死す、人之を哀む、時に文政六年三月二十一日なり、門人渡邊清・浮田一蕙是を両翼とす〟    (下34/144コマ)    友房(ともふさ)   〝菱川友房 は大和絵師なり、画法を菱川師宣に学びて能く師に似たり、然れども筆意は師に下れり〟    (下86/144コマ)    豊国(とよくに)初代   〝倉橋豊国 は人形師なり、兼て浮世画を以て名あり、五郎兵衛の男、一陽斎と号す、通称熊八【一に熊吉    に作る】江戸芝神明町辺に住し、人形を作るに妙を得たり。性画を嗜み歌川豊春を師とし浮世絵を学ぶ、    故に亦歌川氏とす。後諸家を折衷し、邦俗の美人又俳優の有像を写し出すに妙なり。当世出藍の称ありて、    近年浮世絵師中の名手なり、文政八年正月七日没す、年五十七【一に五十三】、三田聖坂弘運寺に葬る、    法名を実彩麗毫と云ふ〟(上138/177コマ)    豊信(とよのぶ)   〝石川豊信 は旅宿屋の主人なり。兼て浮世絵を能くす、秀葩と号す、江戸の人、小伝馬町に住す、通称糠    屋七兵衛、西村重長に就て浮世絵を学ぶ。常に花街又は酒楼に遊び、其の風を熟視して画く故に、男女の    風俗を画す。又た紅絵一枚摺の絵本等を画けり、天明五年五月廿五日没す、年七十五、浅草黒船町正覚寺    に葬る〟(上55/177コマ)    豊春(とよはる)   〝歌川豊春 は浮世絵師なり。一龍斎と号す、通名但馬屋庄三郞、倉橋豊国の師なり。江戸芝三島町に住す    俳優の肖像を画く。文化中の人、没する年七十余〟(上64/177コマ)   〝豊春【歌川豊春を参観すべし】 は庄三郞と称し、一龍斎と号す、家名は歌川、江戸の産なり、始め芝三    島町に住し、後ち日本橋に住し、落髪して赤坂田町に住す、豊春流行の風俗を画き、遂に一家をなす、又    操芝居の看板を画く、彩色に委し、寛政中頃日光山廟修復の節、彼地職人頭を勤めしとぞ、此人浮世絵妙    手なり、浮世絵とて横にかきし錦絵など多し、類考に近来浮世絵を錦絵に多く出せり、宝暦の頃のうき世    絵に勝れりと草双紙の類は多くかゝず、弟子に高名の者多し、就中豊春(ママ)、豊広、豊久、豊丸、雪麿    【画を止め作者となる名高し】美麿【後北尾重政となり小川と改め、歌川となり北尾と改む】式麿、秀麿    【二代目】、歌麿【恋川春町と云し人なり、画を能くす故歌麿が妻に入ませし人なり、文化より天保の頃    の人】等最も顕はる、安永より天明寛政享和文化に行はる、享年七十余〟(下65/144コマ)    豊広(とよひろ)   〝歌川豊広 は浮世絵師なり。一柳斎【一に一◎斎】と号す、通称藤次郎、江戸芝片門前町に住す、歌川豊    春の門人にして一派をなす。寛政の末より草双紙の絵を画く、又一枚摺の絵又は墨絵等あり。文化十一年    没す〟(上64/177コマ)   〝豊広【歌川豊広を参観すべし】 は藤次郎と称し、一龍斎と号す、家名は歌川、始め豊春の門人なり、常    に儀太夫節を好み、三味線を楽む、尤も妙手なり、後ち一家の画風をなし、筆意雪舟或は明画の趣あれど    も、元より土佐狩野の画風を学ぶ、草筆の墨絵を板行して張交画とす、尤妙手なり、草双紙敵討続物、此    人より始る、初代南仙笑楚満人作なり、世に行る読本数十部を画く、画の筆力奇功は恐らく同時の画工に    並ぶものなけん、殊に彩色に妙なり、門人多し、歌川豊広【生涯役者画をかゝず、浮世絵師と云ふべし、    豊清【俗称は金蔵、画を善す、早世す、可惜、錦画草双紙本一二あり】、広昌【駿洲沼津宿大平某、錦絵    に三◎あり】、広重【八代洲河岸住武士、近(ママ)藤徳太郎、文政の末より天保まで画く、錦絵双紙多し】    広恒、広政等最も顕はる、寛政の末より文政十一年の頃に至るまで行はる、江戸の人なり〟(下66/144コマ)   【な】    魚彦(なひこ)   〝楫取魚彦 は伊能氏にして、下総楫取郡の人なり、また稲生と書くは伊能と音訓通ずるが故なり。初の名    は景良、後魚彦と改む、通称を茂右衛門と云ふ。父は景栄、母は土子氏。魚彦六歳の時、父景栄没し、後    母に養育をうけて成長す。幼きより読書筆札を好み、また丹青の法を寒葉斎綾(ママ)岱に学び、兼て俳諧を    好み、頗る之を善くす、号を青藍といふ。年長ずるに及びて益々丹青の妙所に至り、法を古に索め姿形を    目前の写精にとりて、自ら一家の風をなせり。就中梅と鯉魚を写すに深く意を用ゐ、庭前に数株の梅を栽    ゑ、また平生許多の鯉魚を小池に放ちて其形勢を熟視す、故に人大に賞して頻りに其の画を索む。会々、    加茂縣居江戸にありて、昌んに古学を唱へ普ねく有志の士を誘ふ。魚彦其の門に入り、日夜古学を修め、    特に万葉集を貴び、頻りに古言の奥旨を究む。其の平生詠ずる所の歌に少しも後世の言を雑へず、好みて    上古の調を貴む。而して新意往々其の間に発す。明和二年家を子景◎に譲りて、自ら江戸に出て其の居を    茅生菴と号す。六年十月、真淵没す、後魚彦に従ひて学ぶ者益々多く、既に二百人に余れり。特に酒井侯    奥平侯戸田侯等、礼をを厚くして廷聘し、奥平侯は俸米若干を賜ふ。また上野の法親王寵遇甚だ渥し。天    明三年三月二十三日病で没す、年六十。後ち門人千賀真恒、同友と相議して魚彦の遺稿を輯め、橋場の宗    禅寺境内に埋み、碑を建て之を茅生塚と称す。其の碑今は廃れてなしと云ふ〟(上86/177コマ)   【は】    春信(はるのぶ)鈴木   〝鈴木春信 は浮世絵師の能手なり、湖龍斎と号し西村重長の門に学ぶ、明和の初め吾妻錦画を画き出す、    是れ錦画の始めなり、嘗て江戸谷中笠森稲荷の前なる茶屋・鍵箭の娘仙女、浅草の楊弓店・柳屋仁平次の    娘藤女の二像を錦絵に摺出して、当時人の称誉を得、然れども歌舞伎役者の絵を画かずして曰く、我は大    和絵師なり、何ぞ河原者【俳優を云ふ】の像を画くに堪ゑんやと、終身之を画かずと云ふ、著す所画本多    し〟(下10/144コマ)    春信(はるのぶ)岳亭   〝春信 は浮世絵師なり、名は定岡、岳亭又八島と号す、俗称斧吉、江戸の人、魚屋北渓の門人となり、狂    歌摺物・草双紙・読本等を画けり〟(下86/144コマ)   【ひ】    百亀(ひゃっき)   〝小松屋白(ママ)亀 は薬野の主人なり、兼て浮世絵を能くす、三右衛門と称す、江戸の人、飯田町に住す。    西川祐信の画法に倣ひて多く秘戯の図を画けり、又板下の絵をも画く、特に新年略暦、◎画の板下は此人    の手に成るもの多し、明和年中の人〟(上154/177コマ)    広重(ひろしげ)    〝安藤広重 は浮世絵の画人なり。幕府防火同心某の子、名は元長、広重は其の号、又一立斎と号す、通称    十兵衛、後ち徳兵衛と改む。江戸中橋大鋸町に住す。初画法を岡島林斎に学ぶ、後歌川豊広の門に入りて    浮世絵を修む。景色の画に巧なり。安政五年九月六日没す、年六十二〟(上49/177コマ)   【ふ】    房信(ふさのぶ)   〝富川房信 は本と絵草紙店の主人なり、家衰へて浮世絵師となり、山本九左衛門と称し、吟雪と号す、江    戸大伝馬町三丁目に住す〟(下65/144コマ)    武清(ぶせい)    〝喜多子慎 は江戸の画人なり、名は武清、子慎は其の字、可庵と号す、又五清鶴翁の別号あり。少より画    を好みて谷文晁に従ひて学ぶ、壮歳の頃已に一派を成す、名声籍甚来りて画を乞ふもの門に満つ。又た同    社諸友を会して古画を鑑定し、以て其の真偽を◎ず、此の如きもの数十年殆ど虚日なし、而して其の尤も    佳なるものは和漢に論なく、必ず摸して蓄蔵す、安政三年十二月廿日没す、年八十一〟(上127/177コマ)    文朝(ぶんちょう)   〝柳文朝 は浮世絵師なり、初め狩野流を学び、後ち文調の門に入りて俳優肖像を画くに巧なり、江戸通油    町住せり、儀太夫節の曲を好み朝太夫の門に入る〟(下117/144コマ)     文麗(ぶんれい)   〝加藤文麗 は江戸の画家なり。名は泰都、予斎と号す。従五位下伊予守に叙任す。狩野家の風を学ぶ。天    明二年三月五日没す〟(上85/177コマ)   【ほ】    北斎(ほくさい)   〝葛飾北斎 は有名の画人なり。徳川家鏡師の男中島氏、幼時太郎と称し後鉄二郎と改む。可候・卍老人・    群馬亭の号あり。江戸本所の人、数々居所を変ず。初浮世絵を勝川春章に学び、春朗と号し錦画を描く。    後破門せられて、先哲の遺跡を追慕し、浮世絵を捨てゝ大に画学を修め、遂に一家をなす。俵屋宗理と号    す、其の号を門人に譲りて画狂人北斎辰政と号し、又譲りて雷震と号す、又譲て錦袋舎戴斗と曰ひ、又改    て為一と曰ふ。其の画ゝ所の宮殿楼閣・神社仏寺・有職衣冠の人物、及び山水・草花・鳥獣・狂画に至る    まで、悉く其の真を写す。特に有名のものは狐の嫁入行列・朝鮮征伐の図等なり。筆力健壮にして勢ひ紙    外に溢れ、人をして感嘆せしむ。曾て北斎漫画を著はして世に行はる、外人既に其の数編を購ひ翻刻して    発売すと云ふ。其の画、設色淡彩・水墨粗密共に巧妙にして、其の潔作なるものは円山応挙に似たり、水    墨の粗なるものは谷文晁の水墨画法に類す。近世浮世絵中より出て、一派の画風を為したるものなり。此    人、初浮世絵を学びたるが故に稍々名を下したりと雖も、若し狩野・土佐或は円山・四条等より出て斯く    上達せば、応挙・文晁も及ぶ可らざる所あらんか。現今遺墨を購求する人多し。嘉永二年四月十三日没す、    九十歳、江戸浅草八軒寺町誓教寺に葬る、法名南照院言誉北斎信士と云ふ。著す所の画譜多し〟    (上82/177コマ)   【ま】    又平(またへい)   〝又平 は大津絵の開祖なり、姓氏未だ詳ならず、大津の人、世に大津又平と称す、岩佐又兵衛に対して、    又、俗に二代目又平と呼ぶ、然れ共又兵衛の子孫には非ず、全く別氏なり、又兵衛の風に傚ひて浮世絵を    作り、粗末の彩色を用ゆ、元禄年中仏画を画くを業とし、大津追分の辺りに戯画を筆して、往来の旅人に    鬻ぐ、是れ即ち大津絵の始めなり、鬼の念仏・奴の鎗持・藤娘等の図あり、旅人僻地へ持帰りて尊信する    時は霊験ありと謂ひて、世上一般に流布すと云ふ、又平が奴の鎗持の図に八十八歳又平吉と書したるもの    あるとのことなれば長生したものと見へたり〟(下98/144コマ)    又兵衛(またべえ)   〝岩佐又兵衛 は浮世絵の始祖なり。名は勝重、世に浮世又兵衛と称す、故に此人の画風を称して浮世絵と    云ふ。天正七年、父荒木摂津守村重、織田信長の命にて背き自殺す、時に又兵衛二歳、乳母に誘なはれて    本願寺の支院に隠れ、越前の岩佐氏に育はる、因て其の氏を冒す。慶長年中、京師に出て、土佐光則の門    に入りて大和絵を学び、研究して後ち一家の風を為し、越前侯に仕ふ。其の画く所、当時風俗の人物美人、    或は遊女白拍子等の戯書を作るに巧みなり、其の筆意繊細にして最も濃かなり、彩色を厚くし金銀を用ふ、    人其艶色美麗を称す。或は云ふ、浮世又兵衛とは其名ありて実は其の人なしと、然れども又兵衛の奇画多    く世にあるを見れば、其の人の存するを証す可し。又織田信雄に仕ふと云ひ、土佐光茂の門に入ると云ふ    説もあれども、又兵衛寛永年中に没するを以て観れば、皆誤りならん。現今遺蹟著名の品は男女少年風俗    之図【屏風】、春秋遊園之図【屏風巻物】、春宵秘戯之図【巻物】とす〟(上59/177コマ)    政信(まさのぶ)奥村   〝奥村政信 は書肆なり、兼ねて浮世絵を能くす。初め志道軒と号し、後芳月堂と改む。又丹鳥斎と曰ひ、    源六又は文角と称す。画は鳥居清信【初代】の門人にて江戸通塩町に住す。能く邦俗の浮世絵を画き、多    く草双紙等を発行せり。又初めて紅画を画く、当時上手と云ふ。享保年中の人〟(上71/177コマ)    政信(まさのぶ)菱川   〝菱川政信 は大和絵師なり、字は守節、画法を菱川師宣に学びて能く師に似たり〟(下86/144コマ)   【み】    (光信 みつのぶ)   〝長谷川光信 は浮世絵を能くせり〟(下79/144コマ)   【も】    守国(もりくに)   〝橘守国 は狩野派の画家なり、守国は其の名、亦有税と云、後素軒と号す、通称総兵衛、大阪の人、皇朝    の雅史を渉猟し、又た画法を鶴沢探山に学びて其の風致を得たり、本朝画苑・画典通考・画志・写宝袋及    彫刻の画譜を著す、寛延元年没す、年七十〟(下33/144コマ)    師重(もろしげ)   〝古山師重 は大和絵師なり、太郎兵衛と称す、画法を菱川師宣に学ぶ、元禄年刊の人、江戸長谷川町に住    す〟(下94/144コマ)    師永(もろなが)   〝菱川師永 は大和絵師なり、師宣の二男酒造之丞と称す、父に学びて特に彩色に妙なり〟(下86/144コマ)    師宣(もろのぶ)   〝菱川師宣 は大和絵の名手なり、友竹と号す、通称は吉兵衛、房州保田町在の人・菱川吉左衛門の男なり、    世に縫箔師を業とす、若年の頃江戸に移住す、初め縫箔の上絵の絵より始めて、土佐風の画風を好み又岩    佐又兵衛の図を慕ひ、又兵衛に続きて絵の巧手と称せらる、因て画名に日本絵菱川師宣と記す、或は謂ふ    当時狩野常信・英一蝶等世に盛なりしかば、師宣も之に薫染したるを見て自ら狩野派の筆意ありと。正徳    年間没す、年七十、現今遺蹟著名の品は花見之図・演劇之図・花街之図・四季游山の図・船遊之図・春宵    秘戯之図【以上は屏風巻物懸物等にあり】又板本の雑書数巻とす、英一蝶が四季絵跋に「房州の菱川師宣    といふ者江府に出で梓にをこしこぞつて風流の目を悦ばしむ、此道予が学ぶ所にあらずといへども若かり    し時云云、岩佐菱川が上にたゝん事を思ひてはしなき浮名のねざし残りて、はづかしの森のしげきことぐ    さともなれり」〟(下86/144コマ)    師房(もろふさ)   〝菱川師房 は大和絵師なり、師宣の長男吉兵衛と称す、画法を父に学びて大和絵を能くす、後ち業を染物    師に転ずと〟(下86/144コマ)    師政(もろまさ)   〝古山師政 は大和絵師なり、師宣の男、文志と称す、画法を菱川師宣に学ぶ、然れ共此人より菱川の画風    を失ふ、享保年間の人、江戸両国米沢町に住す〟(下94/144コマ)   【や】    保国(やすくに)   〝橘保国 は狩野派の画家なり、守国の男、大坂の人、画法を父に学び専ら図絵を画けり〟(下33/144コマ)   【ゆ】    友禅(ゆうぜん)   〝友禅 は有名なる染工なり。京師の人、後ち加州金沢に移る。専ら職業を研究して遂に一家の風を興す。    所謂る友禅染、是なり。又画に巧みなり、絹本に染物絵を写して、其精密の巧妙なる、他人の及ぶ所に非    ず。元禄年中の人。或は云ふ、友禅は染工にあらずして画僧なり、専ら扇面に花草等を画きて、世の求め    に応ず。婦女弄ひて、其扇を用ふ故に、染工其画を請ひて以て模範となし、一種の染法を発せり、是れ友    禅染の名ある所以なりと、両説未だ孰れが是なるを知らず〟(上51/177コマ)   【よ】    容斎(ようさい)   〝菊池容斎 は有名の画人なり、名は武保、量平と称す、容斎は其の号。其の先は肥後守武時に出づ。武時    十九世の孫を武長と云ふ、江戸に移居して幕府の先手与力となり、子なし、其の弟河原武者の子を養ひて    嗣と為す、即ち武保なり。武保幼にして穎悟、好みて書を読む。年十八にして高田円乗の門に入りて、狩    野派の画を受け、研精力を致して夙夜懈るなし。円乗曰く、画を学ばゝ須らく古法に徹し之を精選し、一    家に泥づむ勿れと。武保服膺す、是に於て広く先哲の遺蹟を研究して、遂に一機軸を出だす。其画く所の    有職衣冠の人物、官女遊女雅俗の人物、山水、草木、鳥獣、虫魚、或は神社仏閣等の画図、悉く真に逼る。    山水に至りては深浅高低の位置全備して、幅中に数里の眺望あり、樹木人家の類は恰も設立するが如くに    して、泰西の油絵に髣髴たり。水中の魚は浮沈の活動あり、水気水烟の景色は観覧の中に消散するかと思    はる。而して其の意筆は狩野探幽、円山応挙、谷文晁三傑の雅趣を抜き、図は有職古土佐の法に倣ふて、    更に新意を出すものものなり。常に人に語て曰く、凡そ物を写すは実に拠らざるを得ず、山水を写さば宜    しく先づ勝景を探討すべし、古人を写さんと欲せば宜しく先づ当時の衣服器玩宮室の制を采るべしと。是    に於て京畿に漫游して、博く古祠旧刹及び閥閲名家蔵むる所の図書器物考証を捜す。此の如くする多年に    して益々精確を加ふ。嘗て吉野に遊び如意論寺に詣りて。後醍醐天皇の陵を拝す、寺僧謂て曰く、聞く、    子は画を善くして南朝忠臣の裔なりと、請ふ、天皇の神像を画かんことを。武保激感して之を諾し、乃ち    復た京師に至り、天皇の◎衣冠を拝観して斎戒すること七日にして、然る後、又た賢輔良弼忠臣列士百余    人の像を作る。可美手命(ウマシマテノミコト)始りて細川頼之に終る、名づけて前賢古実と曰ふ。凡そ十巻、関    白藤公之を孝明天皇に献ず。天皇深く感ずる所あり、既にして和気清麿に神号を追贈せらる。或は曰ふ、    図画の致す所なりと。今上又た其の画を嘉尚し、日本画史の称号を賜ふ。八十八歳の時、奇画を米国博覧    会に出して、賞牌を彼の国に受け、又た同年内国博覧会に於て、名誉記紋の賞牌を賜はる。明治十一年六    月十六日没、年九十一。性至孝にして人倫に厚く、人の親に薄きを見れば怫然として怒り、或は交を絶つ    に至る。人其の侠量を戒むる者あり、因りて以て容斎と号すと云ふ。著す所、前賢故実の外、枕紙七巻、    詩集歌集各一巻あり〟(上125/177コマ)   【り】    雷斗(らいと)   〝柳川雷斗 は江戸の浮世絵師なり、名は重信、本姓鈴木氏、初め本所柳川町に居る故に柳川を以て別氏と    す、後根岸大塚村に移る、画を葛飾北斎の門に学び、其の女を以て妻となし雷斗の名を続ぐ、板刻の密画    に妙なり、能く師の画風を得、後一派の風を出だし、彩色がは大に師風と異なり、浪花の玉山が筆意を慕    ひ、亦国貞の浮世絵に傚ふ、多く草双紙を画き読本をも出せり、草双紙読本共に大に世に行はる、世に之    を重信風と曰ふ、曾て浪華に遊びて大に用ひらる、居こと幾くならずして還る、又南巌が草書の筆法を書    けり、馬琴作の八犬伝の画は雷斗と英泉の筆に掛れり、旁ら人形細工等の制作に奇巧なり、天保三年十一    月没す、年五十余、門人重山続きて其画風を能くせり〟(下114/144コマ)   【り】    鄰松(りんしょう)   〝加藤(ママ)鄰松 は幕府の与力なり。名は茂銀、画を能くす。狩野栄川に従ひて業を受け、名を当時専らに    す。時に文麗円乗と之を専門家外の三巨手と称す。貴客の招致甚だ繁く賜賚甚だ夥し。曾て幼時四五歳の    頃、一の図形を作り中に一画を横に引き、又の字を図形外に写す(図あり 如此の形なり)或人之れを見    て何ぞと問ふ、鄰松答へて鍋蓋を以て鼠を圧へたるなりと。人其の秀才に感ず〟(上85/177コマ)    〈明治17年刊『石亭雅談』および明治28年刊『鑑定必携日本画人伝』が加藤鄰松としているので、田口年信はそれに拠ったので     あろうが、正しくは鈴木〉       龍(りゅう)   〝女龍 は巧に浮世絵を画けり、江戸山崎氏の女、享保中の人(扶桑画人伝)〟(下41/144コマ)   〈田口年信の抱く浮世絵師のイメージは随分独特である。年信が浮世絵師としているのは以下の通り   「浮世絵師」岩佐又兵衛・西川祐信・懐月堂安度・近藤清春・奥村政信・羽川珍重・富川房信・長谷川光信・石川豊信         小松屋百亀・鈴木春信・磯田湖龍斎・北尾重政・柳文朝・俵屋宗理2・宗理3 ・喜多川歌麿・歌舞伎堂         竹原春泉斎・岳亭春信・雷斗(柳川重信)・珠雀斎・龍(女)         勝川派(薪水・春章・春英・春好・春潮)鳥文斎派(栄之・栄昌・栄理)菊川派(英山・英泉)         歌川派(豊春・豊国・豊広・国貞初代・国貞二代・国長・国政・広重・国芳)   不審なのは葛飾北斎の名が見えず、菱川・鳥居の両派もないということ。ではどう呼んでいるのか、便宜上年信の呼称を使ってま   とめてみよう   「画人」高派(嵩谷・嵩之・嵩雪)蕙斎(北尾政美)・宗理初代・北斎    「画家」鳥居派(清長・清倍・清峰)   「大和絵師」菱川派(友房・政信・師永・師宣・師房)古山(師重・師政)         鳥居派(清定以下清之まで10名)宮川派(長春・春水)西村重長   「町画工」堤流(等琳1~3代)   個々の絵師についても現代とズレは大きい     鳥居清長:「錦絵等に工なり」とあるが、他の鳥居派の絵師同様に「画家」と呼ばれるのみで「浮世絵師」ではない。    歌川貞秀:「和画家」こう呼ばれた絵師はいわゆる「浮世絵師」の中では貞秀ただ一人。    東洲斎写楽:「画家」とも「浮世絵師」とも記さず    窪俊満:「浮世絵」を学んだ「戯作者」とする。    竹原春朝斎と春泉斎父子:父春朝斎は「画人」で子の春泉斎は「浮世絵師」とする   大田南畝を起点とする『浮世絵類考』は無名翁(英泉)の「続」や斎藤月岑の「増補」などを経て書き継がれてきたが、菱川・鳥   居の両派は言うまでもなく浮世絵師の本流として位置づけられてきた。それを田口年信はなぜか外してしまった。いったい何を基   準にして勝川・歌川との間に線を引いてしまったのであろうか。