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画人伝-明治-香亭雅談(かていがだん)浮世絵事典
   ☆ 明治十九年(1886)  ◯『香亭雅談』上下 中根淑編集・出版 明治十九年七月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ※原文は返り点のみの漢文、書き下し文および半角(~)の読みや意味は本HPが施したもの。送りかな等の過ちにご示教を願う    河鍋暁斎(上 24/40コマ)   〝渡辺温 無尽蔵主人と号す、予向同して下谷西巷の某家を◎、時に無尽子『伊蘇普寓言』を訳述し、惺    惺暁斎をして其の画を作さしむ、暁斎僅かに二三紙を写して、遷延月に渉る、無尽子屡々其の家に往き    之を責めんとするも、多くは在らざるなり、一夕暁斎酔ひて来たりて曰く「我が為に酒を買はん、我且    つ散楽を奏さん」と、既にして(間もなく)且つ飲み且つ舞ひ、泥爛して昏睡す、無尽子其の酒の醒むる    を俟つて、以て宿諾を責めんと欲す、旦(あした)に至り之を視るに、被窩枵然として人無し、乃ち歎き    て曰く「意(おも)はざる、籠禽の還脱とは」〟※◎は(厲から草冠を取り除いたもの    〈『伊蘇普寓言(イソップモノガタリ)』は明治6年4・12月刊。従ってこの挿絵は明治5-6年頃のものと思われる。「被窩枵然無人」とは     もぬけの殻といった意味か〉   〈以下の三エピソードは浅草寺に奉納された扁額に関するのの〉    高嵩谷(上 29/40コマ)   〝屠龍翁嵩谷、画を佐脇嵩之に学ぶ。嵩之は英一蜨の門人なり。江都の大姓三井氏、額を浅草観世音に献    げんと欲して、嵩谷をして其の画を作さしむ、嵩谷先ず稿本を写す、日々之を竿頭に懸け、仰ぎ観て晷    (かげ)を移す、以て其の意に称(かな)はざるものを改む、歳を踰えて初めて成る、即ち今存する所の源    三位怪獣を射る図是なり。或は謂ふ、嵩谷稿を草する時、獣已(すで)に成り、懸けて之を観る、毛細辨    つべからず、乃ち更に麤(粗)筆を執り、軽軽として掃き去り、再び懸けて之を観る、始めて尨茸(ふさ    ふさ)の状に見ゆ、図中の三位、黒帽蒼袍、弓矢を挟みて立つ、猪隼太戎装怪獣を搏(う)ち、騎りて之    を刺す、怪獣猿頭狸身、而して蛇尾と為る、蛇首を昂げ舌を吐きて顧視す、或は謔句を作りて云ふ、猪    之隼太(ヰノハヤタ)為尾噛頭(シッポニアタマヲクヒツカレ)と〟    〈浅草観音堂に奉納された嵩谷画「頼政猪早太鵺退治の図」のエピソード〉    菊池容斎(上 30/40コマ)   〝慈悲閣の中、菊池容斎画く所の堀河夜戦の額、亦人の称する所なり、御厩(おんまや)氏手は弧を張り、    目は敵に注ぐ、意気体勢偕(とも)に妙、況や衣褶弓剣諸什器においてをや、皆当時の制にして、一つと    して無稽の筆無し、聞く容斎初めて稿を作すに、御厩氏の左右の手、皆外向く、既にして(その後)心安    からず、往きて弓に弦する者を観、遂に其の右手を改め内向きにす、其の用心の深きこと常に此の如し〟     (30/40コマ)    〈これも浅草寺へ奉納された容斎の絵馬「堀河夜討図」に関するエピソード。画稿の段階で、御厩(オンマヤ)喜三太の右手の向     きに不安を覚えた容斎は、直ちに弦を張る様子を実見して画き直したというのである〉    高嵩渓(上 30/40コマ)   〝(慈悲)閣中、更に大額有り、散楽猩々舞を写す、高嵩渓の製する所なり。一梨園の説に曰く「図中の人    物、姿勢服章皆可なり、其れ議(はか)るべきは便面のみ、此の図、猩々乱舞を為し、平素舞ふものと同    じからず、乱舞の時、執る所の便面、数圏を連写す、中に花卉を画くを例と為す、是独り然らず、即ち    其の小疵なり」と、知らず果然か否かを〟    〈享和3年(1803)浅草寺に寄進された嵩渓画「猩々舞の図」に関するエピソード。ある芸人がこれを評して、容姿装束すべ     て申し分ない、が、ただ一つ中啓(扇面)の模様が例と異なり玉に疵だと言ったとか。しかし編者・中根淑はこの見解に対     して果たしてそうかと疑問を呈している〉    長谷川雪旦(下 5/53コマ)   〝文政中、斎藤月岑東都名所図会を稿す、長谷川雪旦其の図を草し、月岑と雪旦及び同志一二人と、日々    諸名勝を探り、僧寺及び故家に就きて、其の事跡を質し、聞に従ひ録に従ふ、独り雪旦或いは坐し或い    は立ち、出入徘徊して、其の真景を摹す、後本所羅漢寺に至り、以謂(おもへ)らく、許多(あまた)の仏    像蒼卒に(慌ただしく)写し畢(お)はるべからずと、因りて僧に乞て、堂中に投宿す、夜半眠り醒め、首    を昂(あ)げ灯を挑(かか)ぐるに、明暗中、忽ち五百の応真(らかん)、臂(うで)を攘(はら)ひ足を翹(あ)    げ、形勢獰悪、引き去らんと欲するが如きを見る、雪旦悸(おそ)れて被(掻い巻き)を蒙(かぶり)りて屛    息し(身を縮めて)、以て天明を遅(ま)つ、後毎(つね)に此を言ひ以て笑いの資となす。    雪旦、碁伎拙劣、然し嗜好甚だ深く、毎に門人に勧む、画を以てせずして碁を以て人と局に対す、寝食    偕(とも)に廃す、或は客の門に踵(いた)る有れば、則ち家人を顧みて、大呼して曰く、賓(客)に謝せ、    雪旦在せずと、而れども其の声、早已(すでに)に客の耳辺に達す〟    〈『江戸名所図絵』に載せるため五百羅漢寺を訪れた時のエピソード。腰を据えて写生しようと投宿したのはよいが、夜半、     次々に浮かびあがる五百羅漢の奇怪な姿にすっかり怖気づいて、朝までじっとしていたというのである。雪旦の囲碁好き     は相当なものだったらしい。が「碁伎拙劣」とあるから、謂わば「下手の横好き」の類なのだろう〉    歌川豊国三代(初代国貞)(下 19/53コマ)   〝一陽斎国貞、後豊国と改む、其師の名を冒すなり、画は歌川派を宗とし、鏤版画を以て著はる、常に好    みて宮娃閨秀、婉媚妍麗の態を写す、嘗て亀戸菅廟門前に住す、会(たまたま)人の託を受け、婦人の賊    に遇ふ図を製せんとす、意匠未だ動かざるに、一夕外出して、久しく反らず、其の婦坐して俟つ、夜将    に参(ママ)半にならんとす、盗有り戸を排して入る、婦䠖跙(歩けず)狼狽して、為す所を知らず、既にし    て(間もなく)盗、面を露(あら)わし、徐(おもむろ)に曰く、懼るる勿れ懼るる勿れ、婦睇を廻らし(横    目で)之を視れば、即ち其の夫なり、復た驚きて泣く、明に至り、豊国遂に図を作りて之を遺(おく)る、    図様巧妙、其の人大に懌(よろこ)び、厚く瓊瑶の報(むくい)を作す。蓋し古人、心を用うるの極、往々    是の若(ごと)き者有り、然れども此れ所謂、一無るべからざるに二有るべからざるの事なり。    予向(さき)に其の著す所の似顔早稽古一本を獲る、院子の肖像を写す捷法を載す、其の説故人の写照法    と自然と契合す、嗚呼(ああ)、豊国画人中の呉王なり、中国衣冠の俗に非ずと雖も、「未遽」夷狄を以    て之を貶めるべからず〟〈「未遽」は訓読できなかったところ〉    〈国貞は婦人が賊に出くわす場面の絵を画くよう依頼を受けた。すると、国貞は夜中自ら盗賊のふりをして自宅に押し入っ     た。妻の狼狽する様子を見て作画しようという目論見である。『役者似顔早稽古』は文化14年(1817)の序。院子の肖像と     は役者似顔絵。評者は豊国を南蛮の呉王とする、では中華(中原)の王に相当するものは何なのであろうか〉    歌川国芳(下 20/53コマ)   〝一勇斎国芳、故歌川豊国門人なり、国貞と俱に鏤版画を以て著はる。其の猛将健卒及び千軍万馬の縦横    奔馳の状を写すこと、当時称して無双とす、嘉永中東都名娼の真を写して印行す、都人争ひて之を需め、    声華甚だ高し、一日某大族、国芳を携へ江西の川口楼に宴し、水神白髭等の諸勝を図せしむ。国芳先づ    小紙を膝上に展べ、景に対して匇匇(忙しく)鉤摸す、一妓有り、其の画工たるを知らず、傍らより此を    調(あざけ)りて曰く、子も亦絵事を知るかと、国芳顧て曰く、咄這豊面老婆、吾れ他日「不為汝掩其醜」(注)    妓未だ喩(さと)らず、之を婢に問ふ、婢曰く、是画人国芳君なりと、妓吃驚して、地に伏し謝を致す、    闔坐(満座)姍笑(嘲笑)す、国芳晩節江東牛王祠前に住す、今三囲社畔ニ其ノ伝碑アリ〟    (注)「汝が為に其の醜を写さん」(明治25年刊『日本美術画家人名詳伝』はこう判読している)    〈中根自身の頭注によると「豊面」とはお多福の由であるが、「咄這」がよく分からない〉    葛飾北斎(下 45/53コマ)   〝古より画人の寿域を躋(のぼ)る者、指僂(かが)むに暇あらず、而して其の上寿に達する者、彼に在りて    は黄公望、我に於ては北斎翁是なり、翁年八十八にして、彩色通を著はす、題言に言有り、吾将に九十    にして画格を変じ、百歳にして此の道を改めんとす、其の矍鑠(かくしゃく)想見すべし、人と為り犖落    (卓犖=突出)、人の羈束(束縛)を受けず、嘗て馬琴と水滸伝画を作す、馬琴は謹厳詳密、議多く諧(と    との)はず、遂に豊国をして己を代えしむ、又酒を飲み財を糜(へら)し、貧自ずから聊かならず、乃ち    其の名を質として金を借る、因て卍老人と号す、翁は画品甚だ高からずと雖も、宇内万象、見るに随ひ    て手をいれざるなし、其の健筆、古来稀に見る所なり、著はす所の北斎漫画、西洋画人の称する所と為    る〟    〈馬琴と北斎が関係した水滸伝とは読本『新編水滸画伝』初編(前帙文化2年刊・後帙文化4年刊)のみ。二編(文政11年)以降     北斎は担当を続けるが、馬琴は手を引き高井蘭山に代わる。豊国との関係は不明〉