Top           浮世絵文献資料館          
                   『街談文々集要』        底本:『【近世庶民生活史料】街談文々集要』石塚豊芥子編・鈴木棠三校訂・三一書房・1993年11月30日刊
 ◯ 文化元年(1804)  『街談文々集要 一』)   ◇「叶福助起原」p11   〝当春より叶福助と号し、頭大きく背短かく、上下を着したる姿を人形に作り、張子又は土にて作り、壱    枚画に摺出し、其外いろ/\のものに准らへ、翫あそぶ事大ニ流行す、後には撫牛の如く、蒲団に乗せ    祭る時は、福徳ますとて、小キ宮に入、願ふ事一ッ成就すれば、蒲団を仕立て、上ル事也。其根元、何    といふ出る処を知らず、唯愚夫愚婦の心にも応ぜざる願立いたしけるこそうたてける、其節の落首に、      ことしよりよい事ばかりかさなりて心のまゝに叶福助〟   〝豊芥按に、此叶福助の人形の起りハ、新吉原京町弐丁目、妓楼大文字屋市兵衛、初メハ河岸見世にて、    追々仕出し、京町弐丁目ぇ移り、大娼家となりぬ、此先祖至て吝惜にて、日々の食物菜(サイ)の物も、下    直なるものを買置、夏の内は南瓜(ボブラ)多く買置、秋迄も総菜にものしけるゆへ、近辺の者、悪口に    唱歌を作り、〽こゝに京町大文じやの大かぼちや其名は市兵衛と申升ス、ほんに誠ニ猿まなこ、ヨイハ    イナ/\/\と、大きなる頭を張ぬき、是を冠り踊り歩行し、此の唱哥大評判になり、大文字屋ハます    /\大繁昌せり【此唱哥、板行ものして売、又踊り姿を紙作りうる也】此節の手遊屋、是ニもとづき、    大頭の人形に上下を着せ、叶福助と名号(ナヅケ)、何まれ願ひを懸け、利益のある時ハ布団ヲ拵え上る事    なり、又上野山下ぇ、頭大きなる男ニ柿色の上下を着せ【年頃十二三也し】叶福助ト云て見物物ニ出し    たり、是等はあたま大キゆへ、㒵を晒して利分を得たり、相良侯は撫牛を信じて出世ありしとて、世の    人是をまなぶ、此二点の玩び物ハ今に廃(スタ)ることなし〟     ◇「太郎祠群参」p12   〝当二月上旬より、浅草新堀、立花侯御下屋敷に鎮座なる太郎稲荷大明神、奇瑞ありて、参詣の群集夥敷、    新堀の川へ丸太を架し、茶見勢を開らきし事其数不知、予七才、父や祖母に誘引(イザナハ)れ度々参詣す、    狂歌ニ、      尋ねゆく人は浅草にゐ堀の深きねがひをみつのともし火  四方山人〟    〈この四方山人は蜀山人(大田南畝)か〉     ◇「司馬甘仏名」p18   〝文化元年甲子二月十九日正八ッ時、司馬甘交死去。    仏名、対雲了喜楽山信士、俗名大伴寛入郎    司馬(芝)全交門人なり、戯作の草ぞうし、道笑すご六、天明六丙午の春新板に出し、其余二三部ある    べし。又自筆の随筆あり、予所蔵す、則門人芝山ノ書、此書芝山所持の書也、写本の筆初ハ、同門芝勲    の書也、通称大蔵八太郎、此人文化二丑五月卒ス、中程所々の助写は、芝山なり、文化元年三月中旬、    甘交死去の後、末を自写畢ヌ、通称名倉友之丞、此人文化四卯十二月卒ス、此書夫より予が元ニ蔵す、    右両人ハ御能狂言師也。      贈司全君門ニ、司馬甘交の故名、二世相続ヲ悦の余り、二代の甘交ニ戯ニ送る、       いと薄まねかん迚も集ひ来んそでなき人も齢にほうけて 海野義雄    トアレバ、二代目甘交ありしや、著述は不見当〟     ◇「揚尾駅仇討」p18   〝文化元甲子三月十三日夜七ッ時、中山道揚尾宿、敵打      討手   武州高麗郡高萩村 田安御領百姓 富五郎 子弐十才      敵    武州川越赤尾村生     無宿  林蔵 廿五才    右武州揚尾宿旅籠屋清右衛門宅にて、討取申候、此所は御代官浅岡彦四郎支配なり、富五郎兄兵左衞門    事、去々享和二戌年、御代官伊奈友之助支配川越大塚野新田にて、林蔵にうたれたりしなり〟     ◇「狂女粧紅粉」p19   〝狂女ハ、いづくのもの、何れに住む事をしらざれども、世人、仙岱狂女と称す、眼前見る処、凡そ二十    年来容色変ぜず、一囊を負ひ、木履を着て聯歩す、暫も髪を乱し衣装を蔽(ヤブ)る事なく、朝に櫛梳り    夕に粧ふ、着る処のもの、或時ハ紅、あるときは白、ふりたりといへども綴を引く事なく、署に涼しき    を着、寒にあたゝかなるを重ぬ、荒年にも飢ず、水旱の労なく、三界を家とし、所住きはめず汚を座せ    ず、強て乞事なく、夫婦の家にして物をとらするに、男の手より曾てうけず、妻女の手よりあたふる時    ハ、袖に納め、銭あれバ蘭麝をもとめ、脂粉を買ふ、中島の枸杞煉下むらの油求めうれバ、さはりなき    簷外(ノキシタ)に寄て形ち作る、冬は負喧(フケン)しえ糸針をもて衣装をつくる。嗚呼、麻姑仙女清しといへ    ども、爪(ヒナタホコリ)とらざれバ見ぐるし、毛女剃らざれバ毛深し、絵にかける小町、もゝとせの姿ハつゞ    れをさげ畚を持り、何ぞ縫ざるや、何ぞ食器をあらはにもてるや、此女は一囊の中に調度の満てると見    へて、食するに器をあらわさず、いくばく年を経て顔色常に同じ、蜂腰かゞまず、俤のはかりて年のこ    と歎ずる色なし、遊歴する所、日をかさぬる事なく、市中に遊ぶかと見れバ、田家にあり、是地仙とい    ふべからむ、あまりの不思議なるに、其姿を写して賛あらん事を思ふ。      容驕仙岱女 寿数且無知 疑自蓬莱到 紅顔似昔時            敬忠      ねをたへてうきと岱もしらぬうき草のさそはぬ水に身をまかすらん     真柴翁      烟管為笄花作粧 幾年来往鬂猶香 不知嫗玩人間否 但見人間愛嫗狂  土衣平仲      狂女とも見へず柳の風静                        清雅      梅の雪是や仙女の身だしなみ                      篤興      俤のかはら撫子野石竹いつまで草の花のかんざい           筆の先黒       観仙岱狂女遊路傍                          東元      雲帯衣装華作簪 年中隠跡路頭臨 是非膏薬徳平類 卓爾仙台狂女心       蝶の来て狂ふ仙女が髪の上                       貢橘      水仙や年を経ても花の艶                        徳賀       折て挿せ月のかつらをかんざしに                    木釜〟    ◇「太閤記廃板」p29   〝一 文化元甲子五月十六日絵本太閤記板元大阪玉山画同錦画絵双紙      絶板被仰渡           申渡    絵草紙問屋                                   行事共                                 年番名主共      絵草紙類の義ニ付度々町触申渡候趣有之処、今以以何成品商売いたし不埒の至りニ付、今般吟味の      上夫々咎申付候      以来右の通り可相心得候    一 壱枚絵、草双紙類天正の頃以来の武者等名前を顕シ書候儀は勿論、紋所、合印、名前等紛敷認候義      決て致間敷候    一 壱枚絵に和歌之類并景色の地名、其外の詞書一切認メ間敷候    一 彩色摺いたし候義絵本双紙等近来多く相見え不埒ニ候 以来絵本双紙等墨計ニて板行いたし、彩色      を加え候儀無用ニ候    右の通り相心得、其外前々触申渡趣堅く相守商売いたし行事共ノ入念可相改候。     此絶板申付候外ニも右申渡遣候分行事共相糺、早々絶板いたし、以来等閑の義無之様可致候    若於相背ハ絵草紙取上ケ、絶板申付其品ニ寄厳しく咎可申付候            子五月      此節絶板の品々    絵本太閤記 法橋玉山筆 一編十二冊ヅヾ七編迄出板     此書大に行ハる。夫にならひて今年江戸表ニて黄表紙ニ出板ス    太閤記筆の聯(ツラナリ)【鉦巵荘英作 勝川春亭画 城普請迄 寛政十一未年三冊】    太々太平記【虚空山人作 藤蘭徳画 五冊 柴田攻迄 享和三亥】    化物太平記【十返舎一九作自画 化物見立太閤記 久よし蜂すか蛇かつぱ】    太閤記宝永板【画工近藤助五郎、清春なり 巻末ニ此度歌川豊国筆ニて再板致候趣なりしか相止ム】    右玉山の太閤記、巻中の差画を所々擢て錦画三枚つゞき或ハ二枚、壱枚画に出板、画師ハ勝川春亭・歌    川豊国・喜多川哥麿、上梓の内太閤、五妻と花見遊覧の図、うた麿画ニて至極の出来也、大坂板元へ被    仰渡候は、右太閤記の中より抜出し錦画ニ出る分も不残御取上之上、画工ハ手鎖、板元ハ十五貫文ヅヽ    過料被仰付之。         「賤ヶ嶽七本槍高名之図」石上筆 (模写あり)           絵本太閤記絶板ノ話    寛政中の頃、難波の画人法橋玉山なる人、絵本太閤記初編十巻板本、大に世にもてはやし、年をかさね    て七編迄出せり。江戸にも流布し、義太夫浄瑠りにも作り、いにしへ源平の武者を評する如く、子供迄    勇士の名を覚て、合戦の噺なとしけり、享和三亥年、一枚絵紅ずりに、長篠武功七枚つゞきなど出せり。    然ルに浮世絵師哥麿といふ者、此時代の武者に婦人を添て彩色の一枚絵をだ出せり。     太閤御前へ、石田、児子髷にて、目見への手をとり給ふ処、長柄の侍女袖をおおひたる形、加藤清正     甲冑酒、妾の片はらニ朝鮮の妓婦三弦ヒキ舞たる形。    是より絵屋板本絵師御吟味ニ相成り、夫々に御咎めに逢ひ候て、絶板ニ相成候よし、其節の被仰渡、左    の通。    一 絵双紙類の義ニ付、度々町触申渡之趣在之処、今以如何敷品売買致候段、不埒之至ニ付、今般吟味      の上、夫々咎申付候、以来左之通、可相心得候    一 壱枚絵・草双紙類、天正の頃已来之武者等名前を顕し画候義は勿論、紋字・合印・名前等紛敷認候      儀、決て致間敷候    一 壱枚絵に、和歌の類、并景色之絵、地名又ハ角力取、歌舞伎役者・遊女之名等ハ格別、其外詞書一      切認間敷候    一 彩色摺の絵本・双紙、近来多く相見へ、不埒ニ候、以来絵本・双紙墨斗ニて板行可致候       文化元甲子五月十七日    右ニ付、太閤記も絶板の由、全く浮世ゑしが申口故ニや、惜むべき事也〟    〈「日本古典籍総合目録」によると、竹内確斎著・岡田玉山画『絵本太閤記』は寛政九年(1797)~享和二年(1802)に     かけての出版。つまり、歌麿たちの「太閤記」が出版される文化元年以前、大坂での「太閤記」ものの出版は禁制で     はなかったのである。(これは大坂という土地がらが影響しているのだろうか。大坂町奉行は看過してきたのである。     しかし寛政九年、もし玉山画『絵本太閤記』が江戸で出版されたら、江戸町奉行は摘発しなかっただろうか。やはり     処罰されたように思うのだが……。江戸だからこそ問題視されたともいえる)ともあれ、「太閤記」ものが江戸で評     判になるや否や画工・板元ともども処罰され、そのとばっちりが大坂出版の『絵本太閤記』に及んだのである。その     因となった作品を見ておくと、荘英作・勝川春亭画『太閤記筆の連』は寛政十一年刊。虚空山人作・藤蘭徳(蘭徳斎     春童)画『太々太平記』は天明八年(1788)刊とあり、『街談文々集要』がいう享和三年(1803)のものは見当たらな     い。『絵本太閤記』の評判にあやかって、この年、再版本を出したものとも考えられる。十返舎一九作・画『化物太     平記』は享和四年(1804)(文化元年)の刊行。さて最後、宝永板、近藤助五郎清春画の「太閤記」とあるのが、よく     分からない。東北大学附属図書館・狩野文庫の目録に、近藤清春画『太閤軍記 壹之巻』なるものがあるが、あるい     はそれを言うのであろうか。しかし、そのあとに続く、歌川豊国初代の記事「再板致候趣なりしが相止む」の意味も、     それ以上に分かりずらい。清春の「太閤記」を下敷きに、豊国が新趣向で再板するという意味なのであろうか。結局     のところ、企画倒れになってしまったようであるが、それならば「此節絶板の品々」に名を連ねるのは不自然ではな     いのか。春亭と一九の「太閤記」ものが名を連ねるのは分かるが、藤蘭徳と清春の「太閤記」ものがどうして入って     いるのか、よく分からない。ともあれ、以上が草双紙の絶版。     次に錦絵の方だが、勝川春亭のは未詳。豊国の錦絵は、この記事に言及はないが、『増訂武江年表』の〔筠補〕(喜     多村筠庭の補注)を参照すると、絶板に処せられたのは「豊国大錦絵に明智本能寺を囲む処」の絵柄らしい。また、     『筆禍史』の宮武外骨は、関根金四郎編の『浮世画人伝』を引いて「豊国等の描きしは、太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図     にして」とする。「豊国等」とあるから「太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図」が必ずしも、豊国画とも断定できないのだが。     参考までに言うと、『街談文々集要』には「賤ヶ嶽七本槍高名之図」という挿絵があり、これには「石上筆」とある。     さて、歌麿だが、『街談文々集要』は「太閤五妻と花見遊覧の図」をあげ、「絵本太閤記絶板ノ話」のところでは     「太閤御前へ石田児子髷ニて目見への手をとり給ふ處、長柄の侍女袖をおおひたる形、加藤清正甲冑酒の片ハら朝鮮     の妓婦三弦ヒキ舞たる形」の絵をあげる。(「絵本太閤記絶板ノ話」は『摂陽奇観』の記事と内容がほぼ同じである     から、『街談文々集要』の石塚豊芥子が、大坂から来た『摂陽奇観』の記事を書き留めたのかもしれない)ともあれ、     『街談文々集要』の歌麿画「太閤五妻と花見遊覧の図」(これは宮武外骨著『筆禍史』の「太閤五妻洛東遊覧之図」     に同定できよう)が絶版になったことは確かである。問題は「太閤記絶板ノ話」の記事の方にある。これは二つの錦     絵を取り上げたものと考えられる。すなわち「太閤御前へ、石田、児子髷ニて目見への手をとり給ふ処、長柄の侍女     袖をおおひたる形」の錦絵と「加藤清正甲冑酒、妾の片ハらニ朝鮮の妓婦三弦ヒキ舞たる形」の錦絵と。「太閤記絶     板ノ話」の記事にも、そのもとになった『摂陽奇観』にも「太閤五妻と花見遊覧の図」の画題はないが、前者の「太     閤御前へ、石田、児子髷ニて目見への手をとり給ふ処、長柄の侍女袖をおおひたる形」こそ、その絵柄からして「太     閤五妻と花見遊覧の図」に相当するのではないか。すると、歌麿が手鎖に遭ったのは複数の「太閤記」ものというこ     となるのだが、実際のところはどうだろうか。なお、後者の方「加藤清正甲冑酒、妾の片ハらニ朝鮮の妓婦三弦ヒキ     舞たる形」の画題は未詳。現存するものがあるかどうかも定かではない。     いづれにせよ、この「太閤記」一件で「壱枚絵・草双紙類、天正の頃已来之武者等名前を顕し画候義は勿論、紋字・     合印・名前等紛敷認候儀、決て致間敷候」という禁制は、出版界に重くのしかかってゆくことになったのである〉
    「太閤五妻洛東遊覧之図」三枚組左 三枚組中 三枚組右 歌麿筆(東京国立博物館所蔵)     『絵本太閤記』 法橋玉山画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)     『化物太閤記』 十返舎一九作・画〔『筆禍史』所収〕     ◇「倡妓采女墳」p21   〝文化元甲子六月、浅茅ヶ原鏡ヶ池ニ、傾城采女碑建      采女塚    寛文の比、新吉原雁がね屋の遊女采女がもとに、ひそかにかよふ客ありけるを、其家の長、かたくいま    しめて近づけざりしかば、その客思ひの切なるに堪ず、采女が格子窓のもとに来りて自害せり、采女そ    の志を哀ミ、ある夜家をしのび出て、浅茅ヶ原のわたり鏡ヶ池に身を沈めぬ、時に年十七にして、此里    の美人なりしとぞ、かたへの松に小袖をかけて短冊を付けたり。      名をそれとしらずともしれさる沢のあとをかゞみが池にしづめば    そのなきがらを埋しところ、采女塚とてありしに、寛政八のとし、わが兄牛門の如水子、札に書しるし    て建置しが、それさへ失ぬれば、こたび兄の志を継て、石ぶみにゑり置ものならし。      文化元年甲子六月                       駿河加島郡 石川正寿建      (以下、碑陰の文あり、略)〟     ◇「寿支干四度」p25   〝文化元甲子四月廿日より、堺町狂言座中村勘三郎芝居、起原は寛永元甲子なり【貞享元甲子/延享元年    甲子】此の度四度目の支干に相当り、年暦一百八十有一年永続の寿として、元祖勘三郎道順被勤し狂言    ノ内、猿若・太平綱引・新発太鼓・門松、右狂言三ヶ日の間興行の由ヲ摺物にものして、江戸中ぇ配る、    又元祖より伝来の宝物を舞台におゐて披露す、此口上は代々市川団十郎相述る、当時五代目市川蝦蔵    【俳名白猿】隠居致し居、七代目団十郎いまだ幼年といへ共、御披露の口上相勤、又座頭板東三津五郎    罷出、とも/\口上を述る、引幕柿色、寿と云文字白上り、紋処舞鶴、鼠色の仕立、寛永元甲子歳、中    橋ニおゐて始て芝居興行、当文化元甲子年迄、及百八十一年。         (舞台で披露された元祖猿若勘三郎拝領の品の記事あり、略)          寿きや十一代の家ざくら         十一代目勘三郎      うちつゞく家を継穂や花の枝            明石       賀章      茂山をいくつ越けんほとゝぎす           三升      わざおぎの本卦がへりや辻が華           白猿    右すり物に載せし句なり〟     ◇「於松ヶ端敵討」p33   (文化元年十月廿六日、讃岐の松ヶ端にて、高畠勘右衛門伜、安蔵(廿一才)、父の敵・江崎三蔵を討つ)    ◯ 文化二年(1805)    『街談文々集要 二』   ◇「侠者争角觝」p41   〝文化二乙丑二月上旬より、芝神明社ニおゐて、勧進大相撲興行あり、追々日数取上ゲ、十六日ニハ八日    目と相成り、十日の内一番の見物事にて、早朝よりの群集、桟鋪も追込も、押合へし合、人の波打、大    入なり、然る所水引といふ角力と、鴟の者と口論を相初メ、双方立合、争ふことゆへ、見物の人々大騒    ぎニ相成しが、鴟の者ハ其場を立去り、仲間の者一統呼集め、火事場支度に身拵へして、鳶口・階子・    得もの/\携へて、エイ/\声して角力場へ押来り、先ヅ木戸を打こわし、此物音に見物の人々さわぎ    立、右往左往に散乱す、鴟の者大勢込入、乱妨しけるを四ッ車大八ト云力士、桟敷ニ掛ヶ有りし三間階    子をおつとり、りう/\と振廻し、大勢ひの中へ打て入、力にまかせて打倒す、水引も自分より起りし    喧嘩ゆへ、四ッ車に怪我させじと、命のかぎりにはたらきて、鳶の者を門より外へ追出し、又々門前に    て闘争ニ及し所、鳶の者の内大勢、商家の屋根ニ上り、瓦をめくり雨のふる如く打付し、其瓦四ッ車の    眉間ニ当り血流るゝもいとわず、大勢を打ちらしける、殊に角力うちにても大兵ニして、色白美男なり    し、此疵癒へても面部に其跡ハ残れり【其後文化四卯とし、牛込神楽坂牡丹やしき/稽古角力の節、予    叔父の方へ度々来りし】     (中略)     文化二乙丑年ん二月吉辰(当二月五日より於芝神明宮社内 晴天十日勧進大相撲興行)    東の方                 西の方     大関   丸亀  平石 七右衛門    大関   雲州  雷電 為右衛門     関脇   江戸  柏 戸 宗 五 郎    関脇   同   千田川 吉五郎     小結  久留米  荒 馬 源 弥    小結   南府  錦木 塚右衛門     前頭   庄内  大 綱 七 郎 治    前頭   雲州  鳴 滝 文 太 夫     前頭  久留米  揚羽 空右衛門 前頭   同   佐渡嶽津右衛門     前頭   白川  音羽山峰右衛門    前頭   因州  山 颪 源 吉     前頭   秋田  四 ッ 車 大 八    前頭   同   荒 岩 亀 之 助     前頭   羽州  大童山 文五郎    前頭   南府  階  玉右衛門〟     ◇「富山捕怪魚」p46   〝文化二乙丑五月、越中富山領、放条津【イニ余潟浜共あり】四形の浜ぇ渡ル海、一日に二三度ヅヽ出テ、    海ヲ荒し其浦々漁一向無之、其上此魚の出ル浜村、火災有之よし、御領主ぇ訴、依之鉄炮数多被仰付、    打留ル、ウナル声三十余町程、聞ユルト云々。     惣丈三丈五尺、顔三尺、髪一丈四尺、脇鰭六尺余、背薄赤、腹ハ火の如し。     (中略、人魚の図あり)    此図ハ、或人のもとより写したるを、爰に模写す、彩色摺にして街を売歩行しハ、此図とハ大同小異に    して、面は般若の如く、鰭ひ唐草の如き紋有、横腹左右に眼三ヅヽあり、文宝亭曰、予が向ふの家、松    屋ぇ佐渡国より折々来る僧あり、此僧の物語にハ、佐渡にては折々漁師に網にかゝり上る事なれ共、此    魚をとれバ漁なしとて、自然とれたる時は、飯をくハせ酒を呑せて放ちやるよし、尤彼国にて人魚と称    するものハ、長三尺も有て、人の面ニ似て、髪の毛もすこし有よし、人語弁(ワキマ)へて、うけ答へくら    ゐハするよし、此僧の物語なりとて、松屋隠居円養来りてかたりたるゝ、筆にまかす、随筆に見へたり。    加州侯御屋敷にてハ、一向沙汰もなく、甚虚説なるよしト云々、此後神蛇姫ト云あり、是等の焼直しな    るべし〟     ◇「松本米三死絵」p53   〝文化二乙丑年六月十一日、松本よね三死去〔添え書き「実子松本八十八」〕【俳名文車、家名松鶴屋、    松本小次郎養子、実ハ四代目吉沢あや子】    法号 浄誉取妙文車居士【行年廿八才、深川本誓寺乗性院】    一陽主人の画庵を訪ふに、文車の追善の為にとて、この肖像を写す、予そのかたハらにありて、そが辞    世の発句をかいつくる事になん。      まハりあいがけふは無常の風車      文車    或人の需に応じて            曲亭馬琴〟    〈「一陽主人」とは歌川豊国初代か。その豊国画く初代松本米三の肖像を見ながら、曲亭馬琴が文車に替わって辞世を     詠じ「死絵」を制作したのであろう〉    ◯ 文化三年(1806)    『街談文々集要 三』   ◇「都婦商錦絵」p67   〝文化三丙寅五月、糀町平川町三丁目に、池田といへる錦画売見世出たり、娘は十七八歳ニて、其の名を    さとゝいふ、容義うるハしくして、衣類甚だ異様なり、緋ぢりめんの下帯ニ、縫などして着し、はなや    かに粧ふて、見世ニ出て商ひをする、此母も同さまにて、ともに見世ニて手伝ふて居る、錦画を求る人、    又往来の人も立どまり、見世先キ群集して、恰市のごとし、江戸中殊の外なる評ばんニて、天神の縁日    など夕方よりやすみたり、此池田親子三人の者ハ、皆上方者なり、去る丑年の頃より、京橋銀座三丁目    ニ見世を出しける、此節も上方女なれば、皆珍しく人々群集せしが、当三月四日類焼後、糀町へ引移り    し也、此後神田新石町ぇ引越し、其後いかゞなりしや〟    ◯ 文化四年(1807)    『街談文々集要 四』   ◇「孔平鎮樹魂」p79   〝文化四丁卯春、葺屋町市村座普請出来にて、二月五日初る【去る十一月十三日夜ふきや町河岸より出火】    狂言ハ去歳の顔見世狂言を其儘に興行す。然る処、此度大梁に用し棟の木ハ、麻布笄ばし、長谷寺山内    の樹にて、道法も近く、すぐれて早く出来しけり、此木、夜な/\叫(ウメ)きければ、芝居夜番のもの恐    れて、さま/\加持などしけるに、其しるしも見得ず、爰に天愚孔平と云老人ぇ瀬川路暁【三代目瀬川    菊之丞門弟、初め板東千代之助、其後中村十蔵門弟となり、中村千之助と改名、後仙女養子トなり、四    代目路孝也】にしか/\の事ありと物語りければ、孔平筆をとりて、四言一章の詩を賦シ、是を棟木に    張り置べしと、渡されし故、早速大梁へはらせけるに、其事追々うすらぎ、無程止(ヤミ)しと云々、其詩、      隠々啼哭 無益招魂 殷云佐戯 尚享蘋繁       右鳩谷天愚孔平平信敏    此人は雲州の家士の隠居にて、鳩谷三人ト云々、石摺の札を江戸中は勿論、近在所々の神社仏閣(ママ)張    る、是を千社参りト号す、二十余年休することなし、是一畸人といふべし〟     ◇「不動尊開扉」p80   〝文化四手卯二月廿二日、快晴、幸手宿不動尊、回向院にて開帳着、講中と号する者、幟を持、鈴・鐸・    杖・螺貝の類、凡人数千人余、行列ハ先供大念仏ニて、六七町程つゞく、其跡装束の山伏数十人、二行    ニ列す、其跡に黒塗に箔置たる斧をかつぎたる山伏二十余人、螺貝を吹く山伏八九人、次に厨子、神宝    等、其跡不動院乗輿、伊達道具二本、打物、供養の山伏大勢、中にハ異形の出立もあり、又壱人乗輿、    其人数幾千といふ事なし、近来是迄賑わしき開帳の江戸入りなし。    右開帳に大護摩と号し、竹矢来の内に火を起し、山伏大勢火焔の上を素足ニて渡り、是前代未聞の事と    て、見物群集し押合、弥が上ニ重り、或ハ開帳場の屋根ぇ上り、乱妨夥敷、武家方の老女此ために踏殺    さるゝ、依之右火わたりの事、御吟味になり、暫開帳相止ム。     (以下「不動院行列略図」等、略)〟     ◇「大女見世物」p82   〝文化四丁卯二月比より、品川橋向ふ鶴屋といへる旅籠屋ニ、稀代の飯盛女出たり、出生は上総国小金村、    百姓新七娘つた、当卯二十三歳、身の丈六尺弐寸、此大妓を見んと、昼夜客のたへ間なく、鶴屋は給金    安く抱しうへ、大に繁昌せし故、大ニ利潤を得たり、此妓、後ニ大女淀滝と名乗、江戸中所々ぇ力持の    見勢物に出たり、予も十二月十七日、浅草新寺町柳稲荷向ふ中茶屋といふニて、愚父の肩にのせられ見    物す、最初、口上罷出、口上を述、大女淀滝義、支度仕升る内、樽の曲持御覧ニ入るよしを申、足にて    いろ/\の曲持をなす、此男ハ四十六七ニ相見へ、至て小兵なり、扨大女ハ舞台の左り【正面向ひ】の    方五尺余りの屏風の内ニて、化粧を仕舞、衣装を着替る、其節右の口上云の男、四斗樽にのりて衣紋を    揃へなどするさま、小兵にて格別大女に見ぇよし、夫より舞台ニ出て、見物に時宜する、其人体格好に    応じ、面部も面長ニて十人並の婦、舞台には米俵・釣かね石・碁盤などならべあり、を持。     (碁盤にて火を消す処の図および手形の図あり)    大女淀滝手形、手跡も拙なからず、扇面ニ書しを見し事あり〟     ◇「戯子徳治終」p94   〝戯子大谷徳治、俳名馬十、道化方の名人なり、当七月十七日、上方ニおゐて死去す、戒名     徽徳俊芸信士【文化四丁卯年七月十七日】(紋所あり)     辞世 やまひにも身代りほしき切子哉     (贔屓連中が配った摺物にある追善句・過去の評判記記事あり、略)        (大谷徳次の肖像の模写あり、その中に「国政画」の落款。式亭三馬の画賛あり)     腹筋をよる/\度のしのび寐るにうき名は高くあらハれてポイ  式亭三馬〟     ◇「奇難変利益」p107   〝文化四丁卯六月、四ッ谷牛頭天王影祭り、御仮屋付、氏子町内にて大造物出来、近年無之大評判、所謂    ヶ所、左之通り。     塩町三丁目北側  足柄山にて山姥金時ヲ育る処、狭山絶景、間口五軒奥行十間余     同弐丁目     南国橋を二階へ造り、張抜、下ハ橋下にて水上祇園丸ト云船有之、軽業見せ物の              作りもの、中州の遠見景よし     伝馬町三丁目   吾妻下り業平、馬乗、其外仕丁人形、富士の景よし     御仮屋横町    蜃気楼竜宮     たんす町     浜田侯御やしき御座敷、老女岩ふじ、中老おのへ、其外侍女大ぜい     坂町       鞍馬山僧正坊、牛若丸、子天狗大勢、岩石を畳ム     法蔵寺横町    鯉の滝昇     千日谷      近江八景     鮫ヶはし中町   くらま山     鮫ヶ橋上町    道成寺人形作り物    同廿一日御帰宮の節、唐人虎ヲ引、婚礼の道中、高尾の踊屋台但豊後節、万度十二本、何れも三人持位    也〟    ◯ 文化五年(1808)    『街談文々集要 五』   ◇「麹町年番祭」   〝当年ハ山王御祭礼歳番、糀町廿余年ぶりにて、彼大象の造り物を出ス、子供角力、手踊屋台ハ千本桜道    行、静御前・狐忠信、其外ねり子みな/\、千本桜ニ見立しなり、是中村座千本の大当りなりし故、夫    に準(ナゾラ)へし仕組なり。(以下略)〟     ◇「三朝夏大当」   〝文化五戊辰六月八日より、市村座ニおゐて、尾上松助【元祖菊五郎弟子/三代目菊五郎父なり】小幡小    平治の狂言ト、播州皿屋敷の狂言、一チ日替ニ相勤、こはだ小平次大当り【後ニ皿屋敷ノ興行なし】    此小はだ小平次の狂言ハ、山東京伝著述、絵入読本『安積沼物語』、歌舞伎狂言ニ仕組し也、大名題は、    『彩入御伽艸紙』(以下、配役あり、略)    (興行中、小平次の霊に取り憑かれた尾上松助病気になり、伜栄三郎代役を務め評判を得る。     閏六月二日、回向院にて小平次の施餓鬼修行、三座の役者残らず参詣。江戸の人々群集す)       此施餓鬼見ニまかりて、      おす人ハ引きもきらずのすしなれやけふのせがきのこはだ小平次   蜀山人    (松助死亡を報ずる「読売」の記事、「小幡小平次伝」あり、略)〟    〈三朝は尾上松助の俳名。回向院での施餓鬼は芝居の前景気を煽るために松助達が仕組んだパフォーマンス〉
    「こはだ小平次ぼうこん 同女房 二役 尾上松助・尾上栄三郎」 豊国画     (早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)     ◇「森田座再興」p119   〝木挽町森田座、再興ニ付、板東三津五郎スケ、大名題『時為得花栄森田(トキエシハナサカエモリタ)』第一番目一ノ    谷【熊谷直実さつまの守忠のり】三津五郎【源よし経六弥太】荒五郎【直家あつ盛】勘弥【さがミおい    し】歌川【ミだ六田五平】三八 二ばんめ 葱うり【大日坊八十助二六三ッ五郎】大切 姫小松【しゆ    んかん三ッ五郎有王音吉/おやす歌川亀王勘弥】何れも大出来なり〟
    「忠のり 板東三津五郎」 豊国画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)     ◇「海鹿見世物」p119   〝壬六月十七日より、両国にて海鹿(アシカ)を見せる。六尺斗りの水船ニ入置、其色黒く五尺ばかり、乳の    下に鰭あり、大なる団扇のごとく、至てかたく見ゆ、頭は犬の如く、眼は大きく、尻尾二股ニさけてあ    り、是もひれない、鳴声、豖のごとし、飼ふに小魚を与ふるなり〟     ◇「綿頭巾流行」p130   〝文化五戊辰の冬頃より、頭巾のかわりに綿ぼうしトいふものはやる、形(図あり)かくの如し、船底の    様にて両端細、あたまへ冠り、襟りより廻して前ニて〆る、色ハ黒・萌黄・紺などなり、価ハ弐匁五分    より三匁四五分位迄、其後紋羽ニても拵へ初めしなり。    肩襦袢といふもの流行す、両袖を筒にして乳の当りニて、牡丹〆なり、下品なる物にて、中より以下の    用ゆる物なり。図、左の如し。(図あり)    木綿さらさ抔ニて仕立ル、寒からぬを第一トする也、その頃戯れ哥ニ、      世の中は綿の頭巾に肩襦ばむ下ハひゆれど上はあたゝか〟    ◯ 文化六年(1809)  『街談文々集要 六』   ◇「元日夜焼亡」p132   〝正月元日夜五時頃、日本橋東中通左内町、家ぬし茂兵衛宅より出火、音羽町・青物町近辺・四日市・小    船町・照降町・芳町・甚左衞門町・葺屋町・堺町、此近辺不残、難波町小川橋焼落、浜町山伏井戸辺一    円類焼、元柳ばし辺にて焼止まる。     (中略)    芝居ハ不残類焼す、早速普請に取かゝりし処、只今迄より家根を二尺ひきく、且塗屋にすべきよし被仰    付候ト云々。    当春狂言、市川団十郎【七代目】初工藤の衣装出来しに不残焼失す、当時竪川焉馬方寓居のよし。     (以下略)〟     ◇「時世為変化」p133   〝我衣 五ノ巻 文化六ッの己の巳どし    近来流行する物、小倉の帯、今ニ至て十ヶ年廃らず、染色も紅・鳶、今年より少くなる、島縮緬もうる    さし、黒八丈・七ゝ子じま尤おくれたり、女中の黒裏、あまりドットせず、鼠色勿論おそまきなり、小    紋も今ハ高上になりて、金閣寺の、長楽寺のとて、往古の金襴もよふを、木綿の小紋におく、是を着す    る人、何の故をいふ事を知らず、只其名目を唱るのミ、南部縞、紬しま徳用向とて用ゆれど価貴し、又    二三年以来、地染手拭、大ニ流行して、下り物一向ニ売ず、夫ゆへ地染手拭屋の見世、多く出ル、予幼    年の頃、手拭安売、五十六文夫より六十八文ト、売歩行、或ハ両国橋の上抔ニて、売りし事なり。        寛政の末ニ、山東京伝子著せし忠臣水滸伝といへる、五冊物、絵入読本ニ、通俗水滸伝の如く口絵とい    ふ物を附て、世ニ流布せしより、近来五冊ものゝ大ニ行れて、初春を待兼て、来ル年の冬の初より争ひ    求て視る事はやる。作者は馬琴【滝沢清右衛門】一九【重田】振鷺亭【猪苅】焉馬【大和屋和助】芍薬    亭【本あミ】真顔【北川嘉右衛門】六樹園【ぬりや七兵へ/宿や飯もり】鬼武・小枝繁・三馬・種彦・    京山其外猶あるべし、或ハ中本・小本夥しく、画ハ名におふ豊国・北斎・豊広・国貞、是等其英傑成ル    ものなり、夫に付て、近年初春の草ぞうしも、敵討のミて、七八年已然の晒本一切なし、夫も南杣笑楚    満人といへる者、敵打の趣向を永々しく三冊物を六冊とせしより、此後沢山に売工ミにて、板元の欲心    より、今年ハ九冊物、十二冊とて合冊となしたるものばかり、価は弐百文の上なり、表紙の画ニ彩色を    なす事、甚だ奇麗也、前ニ云五冊物も、多くの作者肺肝を砕くといへ共、京伝・馬琴の右ニ出るものな    し、其中に浮牡丹といへるハ、夏祭の浄るりを工夫して、山東京伝子の戯作なり、正月十九日、年の嘉    儀ニ罷たる折ふし、此本の画をなしたる豊広【名与四郎/芝口門前】其座にあり、京伝子喩して曰ク、    今流行する読本、口絵多きをよしとす、見る人の飽ざる為なり、高上なる事を五分、下賤なる事を五分    とせる事、作意なり、是は上中下共ニト網にし、悦ばしめんためなり、尤撰に彫刻を精密にす、漢字杜    撰ニ仮名をふる事宜しからずと云へり、凡此本の仕立、奇々妙々にして、其画又他の本に比すべからず、    画面の趣向、文面のあやどり、余人の作と同日の談ニあらず、予も甚だ感称してかへりし、後来見る人、    心を止めずんばあるべからずト云々。    右は曳尾庵随筆より抄書して、爰にしるす。     因ニ云、文化七午とし新板、今とし秋売出せし京桜本町文酔トいふ草ぞうし十二冊を、合巻二冊とな     し、錦絵表紙トせり、山東京伝工風して、此已後、外作者の双紙も皆錦画表紙とかハりしなり〟    〈この記事は加藤曳尾庵の随筆『我衣』から引いたもの。「浮牡丹」とあるのは山東京伝作・歌川豊広画の読本『浮牡     丹全伝』で、この文化六年に刊行された〉      ◇「三橋止渡銭」p136   〝文化六己巳歳二月、御触書    永代橋・新大橋・大川橋之儀、是迄請負人有之、往来壱人より渡銭弐文づゝ請取来候所、此度菱垣廻船    積仲間之者共儀、右三橋共、渡銭相止、普請其外共、引受度旨願出候ニ付、吟味之上願之通、引請申付    候間、以来諸人往来之人、渡銭差出候ニ不及候、此旨町中ぇ可触知者也。    右之通、従町御奉行所被仰付候間、町中不洩候様、早々可相触候。      巳二月                                  町年寄役所     当春より渡銭相止ム、尤是迄橋の両方ニ小サキ番屋あり、二人づゝ居ル、御武家はわたし銭不出。    新大橋【長サ凡百間、或百八間、元禄六癸酉年より文化六巳年迄、百十七年ニテ渡銭相止】     (架橋の経緯あり、略)    永代橋【長サ百二十間、或ハ百十間、元禄十一戊寅年より文化六巳年迄百二十年ニシテ相止】     (架橋の経緯あり、略)    大川橋【安永三甲午、俗ニ吾嬬橋ト云、文化六迄三十六年ニシテ渡銭相止】     (架橋の由来あり、略)     ◇「無根桜花咲」p141   〝(二代目蜀山人(文宝亭)随筆より)    文化六年七月、友とち虚白子のもとより、元の木網がかける吉野山苔清水の絵を送りて、此絵よくいで    きたれど、桜の幹枝ばかりかきさして、其後病ひにふしていと心むづかしとて、花をバかき残せしを、    おのれに此花ばかりかきそへよといひおこされしゆへ、盆前のいそがしきを過して、同二十三日、残暑    に汗をぬぐいつゝ、花ばかりかきてやれり、是も又一奇事なるべし。       此頃桜の花の咲たるを     文宝亭      時ならぬ花にも露の玉くしげふたたび春の色をこそミれ〟    〈この年の五月、時ならざるに、桜の花の咲し記事あり。元の木網は高嵩松の画名を持つ。文化八年六月、八十八歳で     亡くなるが、その最晩年の文化六年、嵩松が病に伏して画きのこした花の部分を、虚白子なるひとが、文宝亭に画き     添えるよう依頼したのである。「吉野山苔清水」の絵は未完ながら、嵩松の絶筆であろう。虚白は未詳〉     ◇「阿左布造菊」p148   〝(文化六年)九月、阿左布の枝折【菊の番付、竹屋町/一枚ずり、福の内】    麻布雌狸穴 植木屋定五郎 帆かけ船    同所    早川源内庭  十五種【十三種/十三種】つぎわけ【薄紫御召道具/藤亀白八重霞】                 折鶴 白  紅葉の橋 紫白    相模橋向  植木屋彦八  【黄二十山/ウスカハ暫時】月に兎【白黄座アリ】孔雀 帆掛船 黄金岳    白金村   植木屋惣左衞門  亀 獅子 章魚    同報恩寺前 紅葉茶屋    麻布三軒屋 植木屋安五郎 富士 白 茄子 【形大キク】鷹    同所    仕立屋久蔵  車ハ作りものなり                 白波に日の出 紫御所車、屋根ト長柄ハ紫の花、折つる白    同所    植木屋    蘇鉄ニ小菊也、葉ハ釘なり                 雪の松 松の木ニて白菊を拵たる也、石灯籠 紫    外 笄橋  武島氏    花壇種類出来よろし    同所    松平左金吾殿隣 かいばや     花壇菊第一也ト云々       右己巳十月四日一見                 杏花園    四五年以前より麻布にて作り初めしより、年々種類多くなり、一両以来、所々にて作る如く(ママ)など巣    鴨辺にて作りたるハ、庸軒流の生花のすがたに作りたり、根〆など見事ニて、珍敷事共なり、され共大    菊其外共、麻布を始めとす。    文宝云、一昨年麻布にて見し大菊、高サ壱丈六尺あり〟     ◇「芝翫之落書」p148   〝(文化六年)当九月、堺町中村座にて、中村歌右衛門、藤屋伊左衞門の役、大に不出来なれバ、何方ニ    て作りたるか、捨札の趣                           当時中村座相勤 歌右衛門 巳三十五才     此もの儀、先年玉屋新兵衛役相勤候節、手鎖申付候、然る処猶又、当九月中、藤屋伊左衞門の役義相     勤候段、其身ノ不男をもかへりみず、重々不届ニ付、獄門庄兵衛ニ行ふもの也。          巳九月     是ハ先達下りたる節、玉屋新兵衛の狂言ニて、人をあやめ手鎖ニなりたる趣向、当九月伊左衞門の跡     ニて、黒船忠右衛門、助高屋高助・奴の小万、菊之丞・獄門庄兵衛、歌右衛門なれバなり、歌右衛門、     此頃次第ニ評判おとろへたり。     又一書ニ      此者、板東三津五郎のしのぶ売の狂言を盗とり、其上ふじや伊左衞門と改名いたし、多く金銀を遣      ひ捨候談、不届至極ニ付、下同〟     ◇「妙見宮再建」p158   〝(文化六年)十月十五日、深川浄心寺地内有之候七面堂ハ、前の中村歌右衛門建立せしが、大破に及び    候ニ付、当中むら歌右衛門壱人施主にて、新規再建成就し、今日大供養なりとて、中村歌右衛門・関三    十郎、中村東蔵其外、門弟皆々、上下を着し、門内より本堂迄の間左右に矢来を結び、矢来の外へ桟舗    を掛たり、二畳程の一ト間、金二歩ヅヽにて貸したり。    惣供養とて、芝居役者之子供十五童子の衣装にて罷出、ねりくようありしト云々。    深川仲町辺、日本橋、小田原町其外よりも積物数多多せしト云々、正覚寺橋より高橋迄の間、見物の人    大群集なり。     此節歌右衛門の評ばん、芸の善悪に拘わらず、江戸中の人々贔屓したり、江戸にて出世せし近年の上     手なり〟     ◇「当世婦風俗」p162   〝(文化六年)今の女の風俗、大かたは武家・町共、下帯白縮緬の長キ事、甚しきハ眼にもかゝる程也、    或日水道橋外ニて、御殿方の女中三四人連レにて通りけるが、膝より上の短き二布なりけれバ、あるく    度に内股迄折々見ゆるを、折ふし向ふより車力通りかゝりて、ナンボ雑司ヶ谷ぇまハりても、ふりつび    では御免だと、わる口きゝたるもいとおかし、是にて此頃の風俗をしるべし、当春より浅黄ちりめんの    かのこ、大ニはやりける故、木挽町河原崎座におゐて、【三月三日より第弐ばんめ】八百屋おしち百二    十七年忌追善狂言として、お七、岩井半四郎相勤大当り、此節引まハしの時、右のあさぎ鹿の子の振袖    を着して出たるより、猶流行して、娘・老婆迄も、浅草かの子の襦伴の半襟、或ハ袖口にせぬものハな    かりし。     七月十五日より市村座ハ、岩井半四郎出勤、再び八百やお七相勤、大当り〟
    「八百屋お七 岩井半四郎」 豊国画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)       ◇「三朝之改名」p167   〝(文化六年)当顔見世、市村座大名題『貞操花鳥羽恋塚』尾上松助、松録と改名、尾上栄三郎、松助と    改名【忰にて二代目松助】、此節、山東京伝狂歌あり、      子の日する野辺の小松にゆづる名を千代のためしにひゐき連中    三芝居、顔見世の内、第一の大当り、遠藤武者盛遠、松本幸四郎・渡辺左衞門尉亘、板東三津五郎、両    人石段のタテ大評判なり、袈裟御前、岩井半四郎、崇徳院蔵人満久、植木売、松実源朝長、松助【栄三    郎改名】・清盛【しばらくうけ】、義朝の霊、松緑【松助改名】・渋谷金王【しばらく】、猪の早太、    八丁磔、嘉平次、団十郎、余爰ニ略す、歌舞伎年代記ニくわし。    此節二番目狂言招牌一枚、北斎画キたり、中評なり、看板は鳥居ニとゞめたり〟    〈歌舞伎の看板絵といえば、鳥居派の様式がやはり絶対的なようで、北斎をもってしても、評判はいまひとつなのであ     る。文化八年にも看板を画いた記事あり〉     ◇「定価諸品鬻」p168   〝今年秋の頃より、撰取三拾八文ト云物流行し、往還にいろ/\のものをならべて売、橋箱・下駄・櫛・    笄・簪・煙草入・喜世留抔、其外品々あり、大ニ繁昌す、又一ト品十九文ト云もあり。     通弐丁目中程西側横町を、今の十九文横町と字す、当時北角墨師古梅園【已前は東側也、此節ハ通壱     丁目ニ引移ル】南角拾九文なりし、今ハなし、見勢にて代物の言立する丁稚舌の廻りし者ニて甚だ上     手ニ言し、其頃地まわりいたこト云唄はやりて、其内の文句に、此十九文言立の事入てうたひしなり〟    ◯ 文化七年(1810)    『街談文々集要 七~八』   ◇「二孝御褒美」p181   〝(文化七年二月)本材木町七丁目、儀右衛門店、北斎門人雷周事、俗称彦次郎、祖父六兵衛身まかりて    後、祖母きんぇ孝行を尽しぬる事、殊に親切なりければ、此度、公儀より右彦次郎へ、御褒美として銀    三枚、きんぇ生涯一日ニ米五合ヅヽ被下置候段、実に難有事なり【祖母当年七十八才ニなるよし】     此一事は当春二月の事なりしが、右行状板行ニなして都下ヲ売歩行しハ、五月十一日なり。                       板元  田所町地本問屋  つるや金助〟     ◇「両頭之亀拾」p183   〝文化七甲午五月頃、本所金糸堀の人、両頭の亀を拾ひし者あり、一ツハ尻尾の下に首ありてちいさし、    始メ金三両ニ買ハんと云しが、後ニは金十両につけるものもありト云々、或人のはなしに、御先手与力    石川四郎右衛門、扇橋にて拾ひしト云々、後ニはいかゞなりしや、医学館などへ出したきものなり〟     ◇「鮪大漁為山」p210   〝文化七年庚午十二月初メより、夥しくとれ、往古より覚ぇざる大漁なり、日々千弐千本と入船す、大    きなるニて壱貫五百匁位、夫より壱貫弐三百文、小なるハ八九百文位にうりし故に、上州・信州の方ぇ    多く送る、或人云、伊豆浦より銚子浦まで、海上まぐろにて埋たるが如し、当暮都下まぐろを求め、塩    に漬、春遣とす、故に鮭塩引・鱈・塩松魚抔、甚売あしく、是も何もより下価なり、筆まかせに云、     師走の初よりまぐろ多くとれて、本船町新場へ、日々何千本トいふ数しれず、一本代八百文、一貫文     位ニて、甚下直なり、常にハ四貫文位の魚なり、本船町ぇ一日四万本来りし事あり、所々辻に立売夥     敷、近頃はやりのなんでも三十八文に准へて、いく切もならべ置、よりどり三十八文といふ札を出し     て売たり、居酒屋にても四文の豆腐より下直にあたれバ、此頃とうふをくふものなし、世の中一めん     まぐろにて、いかなる家にても正月遣ひニせんとて、塩ニつけ置てかこわぬ所ハなし、かゝる事、是     迄おぼへざるト、八十の翁もかたりき。                                       蜀山人       一日に何万本の大鮪年の尾ひれやふるまハすらん〟    ◯ 文化八年(1811)  『街談文々集要 九』   ◇「所々祝融記」p213   〝(文化八年正月)廿四日、浅草茅町弐丁目より出火、表通は出ず、代地河岸通不残、柳橋料理屋万八楼    類焼す(中略)     柳ばし万屋八郎兵衛は、松平加賀侯御出入之料理茶屋にて、花火御遊覧之節は、玉屋・鍵屋ニ被仰付、     宵よりあげ初メ、夜九ッ過ある(ママ)なり、故に加州侯花火の節は、聞伝て、船も多く出、代地の河岸     向河岸駒止近辺、大群集せり、此節普請金拝借ありし由、此節は一ッ橋様ニも、度々花火の御催シ有     之し〟     ◇「書画限十人」p216   〝文化八辛未四月二日、桜馬場角の雲茶店にて、古書画を集メて鑑定す、いわゆる雅人、左之通り、    蜀山人【寝惚先生、大田直次郎】平々山人【伝通院前、書肆雁がねや清吉】老樗【本郷いせや平四郎】    山東京伝【京ばし銀座二丁め、京屋伝蔵】同京山【京伝弟初覧山】紀東(ママ)石山人【狂名たらいの雨盛    藤井孫三郎】量山【雲茶主人】【亀の子医者彦亀】其外三四輩、席上法度書      古物は二百年以来、品ハ五種にかぎるべし、人ハ十人ニすぐべからず、素見物入べからず。    但古板の戯本、草双紙の古き物、器物・浮世絵の古物画も、一口迄ニ限る、其余まじめなる品ハ甚禁ず    べし〟    〈この骨董書画会を主催したのは、大田南畝によれば、書肆青山堂雁金屋清吉(平々山人)(『大田南畝全集』竹垣     柳塘宛書簡・書簡番号166・⑲229)〉     ◇「入墨子御触」p225   〝 一札之事    近年軽キ者、 、総身へ種々之絵又ハ文字等を彫、墨を入、或ハ色入等ニ致し候類も有之由、    右体之義は風俗ニも拘り、殊ニ無疵之総身へ疵付候は、銘々恥入可申義之所、若者共却て伊達と心得候    様、諸人之陰ニてあざけり笑ひ候をも存はからず、近頃ハほり物いたし候者多く相見へ、不宜事ニ候間、    向後手足ハ勿論、総身へほり物致間敷候旨、能々町役人共より申聞、心得違之義無之様、可申諭候、且    又右ほりものいたし遣候者ハ、人之頼ニ任セ候とは乍申、可忌嫌かたを不差構、好ニ随ひほり遣候ハ、    別て不埒之事ニ候、此度吟味之上、夫々咎可申付候間、自今相止候様、町役人共より能々可申聞候〟     ◇「薪水舞台納」p232   〝文化八、七月十五日より、堺町中村座にて、彦三郎 名残、一世一代に、忠臣蔵と手習鑑の一    日がハりにして、彦三郎、由良之助・菅丞相の役を勤、大入大繁昌にて、十日ほどまへより約束なけれ    バ桟敷出来ず、其中にも忠臣蔵ハ長日にて、格別入ハなけれども、菅原の日ハ大入にて、爪もたゝぬほ    どなり(以下略)     (「木風子所蔵」の役者絵の模写あり。画中の題・賛・落款)    (題)「一世一代 菅丞相 板東彦三郎」    (賛)「大入の太鼓につれていかづちの世になりひゞく音羽屋の芸 山東京伝」    (落款)「豊国画」〟
    「かんしやうしやふ 板東彦三郎」豊国画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)     「大ぼし由良之介 板東彦三郎」 豊国画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)     ◇「天民翁書幕」p243   〝辛未霜月、葺屋町市村座ニおゐて、沢村源之助、四代目沢村宗十郎と改名す、小田原町より宗十郎へ贈    りもの、幕壱張、沢村宗十郎丈へ、小田原町よりといへる文字を、詩人天民書しなり、むかしより芝居    の幕などを、かゝる人の書たるといふ事をきかず、めづらしき事なり、去年も当座の顔ミせに看板壱枚    ハ、葛飾北斎が画し也、是も昔より鳥居家にて画き来りしに、時うつりかハれば、いろ/\さま/\に    なりゆくものなり、末々にハ二八そばや・煮うりミせのかんばんなども、諸家某が書て、奸坊の印など    押すやうにもなりゆくべし、筆任セ抄書〟    〈天民は大窪天民。北斎が看板を画いたという記事は文化六年の顔見世の時、文化八年のこの記事では「去年も」とあ     るから、あるいは七年も画いたか。「筆任セ」は文宝亭(二世蜀山人)の書留〉
      「源之助改 沢村宗十郎」 豊国画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)    ◯ 文化九年(1812)    『街談文々集要 十』   ◇「誉歌垣英賀」p256   〝六月廿八日、柳橋大のし屋富八楼上おゐて、琴通舎英賀丈判者披露、狂歌堂・四方・歌垣・真顔先生狂    文を送ル、其祝詞     (琴通舎大人を市川三升の姿八景の所作に準えた狂歌堂の狂文あり。略)    琴通舎英賀翁、豊島街三丁目ヨコ丁、伊世屋伊兵衛裏ニて古着屋ぇ転ず、狂哥をたしミ、又茶番と云戯    れに名高し、度々手柄あり、中ニも西河岸料屋恵比寿庵見世開きニ、御能拝見の趣向大ニ評ばんなりし〟     ◇「新吉原類焼」p262   〝十一月二十一日夜戌ノ刻、非人車善七小屋内より出火、富士南風にて忽ち廓中ぇ飛火、吉原五丁町残ら    ず類焼。(中略)    吉原仮宅、山の宿、聖天町、三谷より外ならず、深川におゐて六ヶ所被仰付、焼シ当座、所々に仮宅し    居たり、赤蔦屋は【柳ばし万八】柳ばしニ居候内、密ニ商売せし事露顕して、手鎖ニなりし、其外今戸    浅草辺ニ居たるもの、内々にてせしなり、其繁昌大方ならず、いづミやといへる小見世ニ、妓十三人に    て一昼夜ニ九十三人客をとる、大文字屋ニ大井といふ女郎は、当時全盛の手取ニて、昼拾壱両、夜十九    両、都合三十両、一昼夜の働きなり、浅草市前ニは引移との評判なり〟     ◇「三紅梓琴始」p262   (市川団之助(三紅)所蔵、六絃琴「梓琴」の図、その落款に「喜多川月麿写」とあり)     ◇「賞一産三女」p265   〝本芝三丁目権兵衛店、薪屋金蔵妻きち、九月廿二日暮時より夜中ぇから、三女子出産、母子健に肥立、    同月廿六日御町奉行根岸肥前守五役宅ニおゐて、銭五十貫文被下置候、誠ニ難有御仁政なり〟     ◇「通笑魂遠行」p268   〝文化九壬申八月廿七日、稗史戯作者通笑終ル。    法名 覚法全心、浅草祝言寺ニ葬ス、行年七十四才     市場氏、名寧一、字子彦、橘雫は其俳号なり、小平次と称す、東都の産にして、通油町に居住す、一     生無妻にして、市中の仙聖たり、好で稗史を作れり、安永年中より寛政年間迄、若干の巻を著述す、     其趣意、専ら教諭を以て旨とす、故に世の人、教訓の通笑ト云々。    墨川亭雪麿大人云、通笑岡附(ママ)塩町ニ住し、表具屋某ト云たるよし、友人著作堂が話なり、名道寧、    字子彦ト云、著述の大旨、世の人の常ニする所の穴を探して、書ニ妙也トいへり。    通笑ハ安永八己亥、奥村源六板にて、其数々酒の癖・かけなし正直咄・大通人穴さがし・かごめ/\籠    中の鳥・桃太郎元服姿・日照雨狐の嫁入・虚言弥次郎、此七番を初舞台として、年々戯作ヲ出し、享和    二壬戌迄、凡廿四ヶ年の間、数百部あり、また勝川春章役者素顔画本の序文を書、俳優すがほの正写し    故、外題を夏の富士(ママ)ものせしとの序文あし、【其後文政年中、歌川国貞、役者素顔出板の節、山東    京山序文、通笑の夏の富士の外題を其まゝ用ひたり】     (天明二年の黄表紙評判記『岡目八目』所収、通笑作『御代参丑詣』に対する記述の写しあり、略)〟     ◇「路孝訥子終」p268   〝文化九年壬申十一月廿九日、四代目瀬川路考死去、生年卅一才、法号、循定院環誉光阿禅昇居士    【初中村千之助ト云、桐座若太夫、後瀬川菊之助、後ニ路之助、夫より路考】    同十二月八日、四代目沢村訥子死去、生年二十九才、法号、善覚院達誉了玄居士    【初メ沢村源之助三代目訥子実子】    路考、寺ハ本所押上大雲寺、宗十郎ハ浅草誓願寺にて、両人葬礼の見物大群集、僅ニ十日の日隔て、西    方極楽浄土に赴く、追善の錦絵一枚摺・二枚続、江戸諸名家の書入【狂文狂歌】数多出板す、当時娘・    女中連ひゐき多き両人の事故、大にしきを求めんと絵屋の前押号/\、市の如し、其外三芝居惣役者、    手向追善の発句を売歩行、往還ニかまびすし、亦宗十郎・路孝の辞世の句      寒ぎくに一霜つらきあした哉  路考      雪道や跡へ引るゝ逆わらじ   訥子     (追善の戯作として式亭三馬作『地獄極楽道中記』の序を引く。略)〟
       「瀬川路考」「沢村宗十郎」(死絵) 豊国画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)     ◇「酒席之戯言」p277    此頃の流行にて、酒席ニて三人打寄りて、    猫と雉子と狐の鳴くらべ    アレきかさんせ/\/\    アレ化しやんせ/\/\    〽ニヤン/\/\フウ/\/\ケン/\/\    ケン/\コン/\コンケンニヤン    のケン/\/\コンニヤンフウケン    コンクワイ/\/\ヲニヤニヤン    ヲケンスココン/\ト    是酒興にて、一座打寄り同音にやはし、戯れ笑ひしもの、酒をとふべる事、拳ト同断なり〟    ◯ 文化十年(1813)  『街談文々集要 十一』   ◇「岡持翁卒去」p284   〝五月二十日、平荷翁没死、深川浄心寺葬フ。行年七十九才、秋田侯の士にて、俗称平沢平格、戯名喜三    次、又亀山人、朋誠堂ト号す、狂哥ニ手柄岡持の名あり、俳諧に月成、狂詩に韓長齢、また天寿といふ、    晩年仕を辞して剃髪して後、苦なき人となりしを戯れて、自ら平荷と名づく、喜三二の戯号ハ、芍薬亭    長根ニ譲らる【是を三橋喜三二ト云】戯作の門人宇三太・亀遊女あり【青本ノ作あり】先生【青本】始    メハめづらしい献立曽我・桃太郎後日ばなし・南たら法師柿の種・女嫌変な豆男・是鱗形屋孫兵衛板ニ    て、初舞台なり、又吉原細見の序文ハ、年々著述なり、此外題年々かわることなかりしに、天明三みづ    のとの卯ノ春、五葉松と表題して今に至る迄かわる事なし【夫迄ハ年々かはり天明二年人松島ト云】      (以下、『五葉松』の序文。蜀山人の追善狂歌あり。略)〟     ◇「森田寿永続」p285   〝文化十癸酉五月、森田座百五十余年相続、寿狂言相勤、五月十三日、江戸町々ぇ摺物を配ル、同廿日よ    り日数五日ノ間、すり物三番叟、寿狂言、仏舎利、鳥居清長画、     (以下、森田勘弥・市川団十郎・板東三津五郎の口上書、略)〟
  〝(摺物の模写にある賛)    寿狂言仏舎利    清長筆     雞が啼吾嬬の御恵み厚く、鼻祖勘弥発興より、森田の森     枯ずして、あたる酉の年まで既百いそとせあまり相続せし悦びを自ら寿ぐことになん     あまりあり若葉の花の櫓幕      芝雀     紫の御江戸の忍やふたば紫蘇     喜幸     礎のいよ/\堅し苔の花       秀佳     竹の子の又たけの子や何代も     錦升     此幹の曳栄えて夏木立        杜若     茂りてやもゝいそとせの森若葉    三升     橙や花も常盤の茂ミより    黄花庵永機〟     ◇「和蘭象持渡」p291   〝(文化十年六月、オランダ船長崎入港。舶来品のリストあり)    右来舶の内、を初め珍らしき禽獣之類、江戸表へ御伺候処、御差もどしに相成候、是珍禽奇獣不蓄於    国といへる、聖のいましめもありがたし。此節、      めづらしな象(キサ)のさし櫛さし連て寄合町に出る新象      応永ハ初会享保ハうらなれど三会目にハよバぬ新象                              右蜀山人詠     (以下、応永十五年と享保十三年の象舶来の記事あり、略)〟     ◇「三男子御届」   (十一月廿六日、摂州島下郡、西河原村百姓・忠蔵の妻みよ、男子三人出生)     ◇「高砂街出火」p304   〝十一月廿九日夜子刻過、高砂町西側建具屋より出火す、和泉町・堺町・葺屋町大芝居・操芝居不残類焼。     (以下、被災状況を当時の「俳優づくし」の戯文で綴る、略)〟    ◯ 文化十一年(1814)    『街談文々集要 十三』   ◇「造菊看群参」p326   〝当秋、鶏声ヶ窪より巣鴨・染井近辺の植木屋ニて、菊の造り物夥敷出来、都下は勿論、在方の者迄も見    物の群集、本郷追分より駒込の通り押合程の通行なり、此節巣鴨名産菊の栞と表題し、出版せり、此外、     是ハ小本ニて、菊見物の順路をしるし、造り菊の画を書入、その上ニ山東京伝はじめ戯作者連中の狂     歌発句を加ふ。    菊の番附、数板あり、江戸中売歩行、大評判なり    (以下、順路図、発句、山東京伝、式亭三馬、山東京山、七代目三升、立川談洲楼焉馬、徳亭三孝、     時雨庵、曲亭馬琴の狂歌、蜀山人の狂文狂歌「巣鴨の菊」あり、略)〟     ◇「謎々大流行」p333   〝文化十一戌十月頃より、浅草奥山ニおいて謎坊主トいふ者出て、見物より謎をかけさせ、如何なる難題    を申ける(ママ)を、即座に解くの妙あるよしにて、行ハる、普く江戸ニ流布せり、此ものハ奥州二本松の    産にて、名を春雪といふ盲人也、春雪とハ、はやく解るといふ意なり、松井源水【奥山にて独楽廻し枕    の曲名人】是をはかりて、葭簀をもて囲たる小芝居を設く、遠近の人群集して金銭の山をなせり、     (以下、略)〟    ◯ 文化十二年(1815)    『街談文々集要 十四』   ◇「朝㒵奇品会」p350   〝文化の初メより、牽牛花屋敷と唱へて、下谷山下の脇ニありて、朝㒵のかわりもの多くあり、見物群集    す、当年ハます/\はやりて、都下に是を翫ぶもの多し、文政元寅どし、朝㒵水鏡といふ小冊梓行す、    秋水痩菊撰之、序文伊沢蘭軒翁述る、花の異品を数々あらわせり、朝㒵の書、此已前ニも数々あり。      やしなへバ牛の貝ふく頃までも牛ひく花のさかりひさしき  遠桜山人。武江年表ニ見えたり〟     ◇「江戸街測量」p352   〝文化十二乙亥二月三日、芝高輪より二本橋通一丁目まで、町家測量御用にて、天文役衆通行、是ハ十五    ヶ年前より日本国中之里数・高低を測量して、此度江戸ぇ来りしとぞ、町々の木戸より木戸迄の間、藤    蔓にて間数をはかる、尤十間程ヅヽ置てハ、所々へ竹竿を立、此竿のさきへ弊の如き物を付、四五本に    てだん/\十間程づゝに木札を付てあり。    右二月三日初て江戸の町をはかり、是より追々に町々を量る、尤たゞ大通り許りにて、横町などは構な    し〟     ◇「三女子誕生」p356   〝文化十二亥三月五日、讃州小豆島洲崎村にて三ッ子出生ス。    (百姓利右衛門忰清兵衛女房きく)    右者三子出生ニ付、為手当、鳥目五拾貫文被下置〟    ◯ 文化十二年(1815)    『街談文々集要 十五』   ◇「春狂言夷曲」p351   〝市村座当春狂言『増補富士見西行』ト云、浄瑠璃狂言を興行す、吉例の曽我をやすみしハ、如何なる事    迚、江戸中にていろ/\の評ばんせし也、其節、寝惚先生、      百年も寿狂言に曽我なくバ初鰹をもくふな江戸ッ子      そがなくバよからんといふ狂言ハかの給金のかたむらの所為      何事の延喜の金歟京なまり曽我やめてしろ金の猫      嵐して三五の月や梅白し其きさらぎの富士見西行      後藤縫殿助 蜀山人        写絵姫              岩井半四郎      西行も写し絵姫の富士額ひあふげば高きおやま開山        西行法師             嵐三五郎      此春はたび/\雪を増補して山と入来るふじ見西行        豊国が画ける杜若の写絵姫ニ      豊国が写絵姫のうつしゑも及ばぬ筆の毛延寿かな        市川団十郎より、先生へ素焼の土瓶ヲ贈ル      座頭のすやきの土瓶土間桟鋪われぬ/\も何もかまわぬ        松本幸四郎の古手や八郎兵衛      ふる手屋の古きをもつて新らしき大極上の黒い評ばん        蜀山翁へ板東秀佳のもとより、酢を贈しとき      狂言を三津/\おして大入の酢ハ板東一のあじハひ      三津といふ名ハ日本の三ヶ津京大坂にまさる板東〟    〈「豊国が写絵姫のうつしゑも及ばぬ筆の毛延寿かな」の狂歌について、「杜若」は岩井半四郎。「毛延寿」は前漢、     後宮女性の似顔絵画家。彼は、古代中国の四大美人のひとりとされる王昭君を、自分に賄賂をさし出さないという理     由で、わざと醜女に画いた。それがために、王昭君は、漢民族の女性を妻にと申し出た匈奴の嫁として、皇帝より指     名され、西域に送られることになった。そのきっかけをつくったのがこの毛延寿。ただこの狂歌、豊国の岩井半四郎     の似顔絵と後宮の似顔絵師・毛延寿の関係がよく分からない〉
     『増補富士見西行』岩井半四郎・嵐三五郎・市川団十郎 豊国画      (早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)     ◇「河鹿之種類」p383    (「河鹿」の考証。後年の文政年間刊『河鹿考』を引く。さらに、文政八年、常葉居主人なる人、多摩     川で捕獲した「かじか」の写生図あり。その図に関して)    〝かじかは魚なりと云、虫なりと云、鳴と云、鳴かずと云、とり/\争ひあれば、五岳画工に見せ写さ     せ置ぬ。文政八酉の七月、野の舎の主千引。      (模写の落款)五岳老人画、豊(一字未詳)写〟    〈写生させた「野の写の主千引」は国学者の大石千引。写生した「五岳画工」は八島五岳(岳亭定岡)か〉     ◇「千寿催酒戦」p388   〝文化十二乙亥十月廿一日、千住宿中屋六右衛門なるものゝ隠宅ニおゐて、酒合戦といふ事を催す。     是ハ慶安年中にありし、地黄坊樽次、大蛇丸底深と酒戦ありし古例に随ひ、興行せしト云々。    我友、酒席の有様を書して贈らるる、其詞雅ならざれど、註せしまゝを爰に誌るす。    其日中六隠宅入口の門に聯を懸ケ、其書      不許悪客【下戸理屈】入庵門 抱一書 トしるせり    玄関に袴を着せしもの五人、来客にとの位たべ候哉と承り候上にて、切手を相渡し、休息の座敷ぇ通す、    其上ニて酒戦の座ぇ請ず。     大盃、木具合、干肴【カラスミ/花しほ/サラサ梅】、又台【海胆(ウニ)鶉焼鳥】、吸物、鯉【角小口切】    見物所ハ、青竹手摺、毛氈舗有之。     屠竜公子 鵬斎先生 文晁仙聖、其外諸君子     酌人 妓四人    (以下、酒量の記録。酒戦の戯文、亀田鵬斎の「高陽闘飲序」及び蜀山人の「御水鳥記」等を収録。略)〟    〈屠竜公子は絵師・酒井抱一。亀田鵬斎、谷文晁。いわゆる「下谷の三幅対」と呼ばれた雅人たち。この酒戦の様子を     蜀山人は「後水鳥記」という題名で綴っているが、この題名は、慶安元年(1648)に行われた地黄坊樽次と池上太郎右     衛門尉底深との酒戦をもとに、軍記物語のパロディーに仕立てた『水鳥記』にならったもの。「水鳥」とは、漢字の     遊びで、「水(氵=サンズイ)」+「鳥(酉)」、つまり「酒」を意味する〉     ◇「市松染起原」p410   〝『筠庭雑考』巻五、喜多村翁随筆 市松染 紅絵漆絵    延享元年、本町二丁目ニ、寿字越後屋と云呉服店出きぬ、是が安売の引札せし事あり、中略 或老人の    の説ニ、元文頃、あふぎや染などゝひとしく、市松染もはやれりといひしハ、いかゞあるべき、奥村丹    鳥斎が一枚絵に、佐野川市松が呉服物売に出立たる図あり、則寿の字越後屋が小者の体なり【次ニ縮図    あり】石畳【古名霰なり】是を市松ととなへしハ、此時初としらる、又江戸絵錦絵とて、美麗の彩色を    出来はじめハ、この紅絵なり【下略】     按ニ、寿の字越後屋、直安の引札を、町々へ配り、猶また当時若衆方のきゝもの佐の川市松、石畳の     模様を着せ、舞台にて市松模様披露し、錦絵ニまでものして弘メしハ、多く鬻の計策なるべし【今も     まゝあり】     (中略)    『役者年越草』宝暦十一巳年評判記ニ云、     (中略)     御ぞんじの寿越後屋市松染の儀、霜月顔見せより改売ひろめ申候、わけて御ひゐきに思召、御評判遊     シ、忝奉存候、市松染紅摺正名奥村文角政信御召可被下候。     (奥村政信画、佐野川市松の呉服物売りの図、賛と落款)     (賛) 顔見せや札で入こむ呉服店     (落款)正名芳月堂 奥村文角政信正筆 〔瓢簞に丹鳥斎の印〕〟    〈『筠庭雑考』の云う「紅絵」とは現在云うところの「紅摺絵」のこと。越後屋が佐野川市松を起用して市松染の呉服     を弘めたのは、筠庭の考証によると、延享元年(1744)。そして同時に、これを「紅絵」の一枚絵にして、宣伝に一役     買ったのが奥村政信ということのようだ。なおこの『筠庭雑考』の巻五「市松染 紅絵漆絵」は「日本随筆大成」第     二期八巻所収の『筠庭雑考』には見えない〉     ◯ 文化十三年(1816)    『街談文々集要 十六』   ◇「正本製略暦」p413   〝去文化十二亥年、新板草そうし『正本製楽屋続絵』と表題【馬喰町二丁目西村与八板】して、柳亭種彦    先生著述にて、芝居がゝりの作意、大当りなり、此合巻の趣向ニならひ、当春文化十三年丙子歳、略暦    彫刻して、友人ニ配られし、則巻頭ニ出ス〟
    『正本製』 柳亭種彦作・歌川国貞画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)      〈『正本製』の初版は文化十二年(1815)。この画像の『正本製』は天保五年(1834)~七年にかけて売り出された再板本〉     ◇「桐座櫓再興」p432   〝文化十三年丙子三月、葺屋町市村座、久々休座ニて有之候処、去亥年十二月、仮芝居御願申上候者三人、    所謂桐長桐・都座・鳴見善右衛門三人なり、此者共鬮取りにて長桐ニ当り候ト云々、其節羽左衞門方ぇ    掛合之金高、左之通     (以下、家作代金千百両等の金高あり、略)〟     ◇「同虹梁異変」p433   〝(文化十三年五月三日、桐座、芝居の梁を三本修繕して、下谷善竜寺地中本寿院に降魔退散の祈祷を依     頼する)    今朝五ッ時、右僧十人罷越、芝居表口より這入、舞台正面ぇ曼荼羅を懸ケ、備物等仕、法華経千巻陀羅    尼読誦相初候、無程表之方より三本目、舞台上梁より三間半程隔、長サ十二間余、末口壱尺五寸之松梁    一本、中程より折れ、家根坪凡六十坪程落込申候、尤怪我人等も無御座候     (中略)    其頃の夷曲                  遠桜山人      淡島にあらぬいづなの御神木つい梁折といふもおかしき      当らぬ思ひ桐座の是からハ梁さけるほどの大入の里〟      〈「夷曲」は狂歌。「遠桜山人」は蜀山人(大田南畝)がこの頃使用した狂名〉     ◇「凶事多悪日」p435   〝文化十三丙子五月三日夕七時、京町壱丁目家持遊女屋新海老屋吉助地面、藤八店明家より出火、新吉原    町不残焼失、江戸町弐丁め名主佐兵衛役宅残る、下谷竜泉寺町類焼【但文化九申年より五年目】     (中略)     此節 御免被仰付候、仮宅場所    浅草花川戸町 山之宿町 聖天町 田町 新鳥越町 同所今戸町 山川町 金竜山下瓦町 深川永代寺    門前町 仲町 東仲町 山本町 築出し新地〟        ◯ 文化十三年(1816)    『街談文々集要 十六』   ◇「俳優之夷曲」p439   〝当春狂言より中村座・河原崎座興行、市村座は休座なり、弥生狂言、中村座、大名題『梅桜相双紙(ウメ    サクラアヒオイソウシ)』、是菅原天神記の書替にて、菅丞相菊五郎初役にて【判官代ト奴宅内共三やく】天拝    山頂上より向桟敷迄、見物の引しなり、是比叡山法性坊のもとへ飛行之処なり、見物眼を驚かせし事な    り。        此天拝山舞台より向桟敷ぇひかれ行見て  蜀山人      しやちでまく其綱引の天神や二十五間の牛に乗らん    同、河原崎座大名題『局岩藤比翼裲襠(ツボネイハフジヒヨクノウチカケ)』 局岩ふじ 半四郎 中老おのへ 大吉                                 おはつ  粂三郎      第弐ばん目、四代岩井半四郎十七回忌追善狂言、所作事『江戸紫手向七字(エドムラサキテムケノナナモジ)』                          助六七変化        岩井半四郎が七変化ニ、白井権八      助六が此鉢巻ハ小紫ゆかりの人としら井ごん八        小紫のうち掛、縄すだれにハ庭鳥の模様      縄すだれあげ巻てみんくだかけまだきになきて        意休の羽おり、獅子の縫もの      大象のめ程にあぞぶ長はおり獅子の岩井の笠ふかみぐさ        白酒うり      見物の人のやまとや山川の白酒うりに舌と手をうつ        女かつぎ            けんどんの女かつぎハ白酒とになハヾ棒もおれんとぞ思ふ        禿      いわけなき禿々ハたけ高きせいもねすめり年もぬすめり        うしろ面      吉原の俄にかわる奴凧いとめでたくも舞おさめたり     右七首、蜀山人、岩井杜若へ遣ス。         皐月狂言、中村座大名題『時鳥貞婦咄(ホトトギスミサヲバナシ)』     磯貝実右衛門娘深雪、後ニ瞽女朝がほ、沢村田之助・宮城阿曾次郎、後ニ駒沢次郎左衞門、三ッ五郎    是御当地ニて、あさ顔の狂言初ての興行、大当りなり。        沢村田之助、朝顔の役を  蜀山人      村雨の露のひぬまの朝顔の花にむかへばあけぼのゝ山          七月十七日より、中村座『忠臣蔵』幕なし、大道具四十七段がへし 長谷川勘兵衛工夫        市川団十郎【桃井若狭之介、一文字や才兵へ、大星由らの助】      老たるも若狭之助も一文字も二ッ巴も三升大入      あつくともこれも三升の市川ハ二ッ巴のふたつなき芸        三升の由良之助ハ、みな人まだわかしといふを聞て、      大星ハ二十六夜のまつくらにどうぞ四十に二ともなり田や        トよみて、蜀三升と書て送ければ、三升かへし       二十六四十に二度も成田屋ハ三うら大助百六ッのとし        板東三津五郎【加古川本蔵 寺岡平右衛門】      本蔵と平右衛門が又此外にあらばでゝみよ京と大坂      閏八月七日より忠臣蔵の弐番目ニ『国姓爺』【楼門の段、紅なかし】二タまく出せしかバ、        忠臣蔵の大仕懸ケハ長谷川と云道具方の内匠なり、又国姓爺を出しければ、      大入の忠臣蔵の道具より唐土までもこゝろ長谷川      桟敷から紅白粉をながすべし大汗になる女中見物        板東秀佳っ、御将軍甘輝の役を      山里をこえししげさのかんきより五将軍見に又まいりたや    先年秀佳、越の後州よりかへりし時、其国ぶりのうたに、      しげさの御かんき山里こえてもまたみたや    といふ事をうたひ踊しより、世の人もつたへてうたひしなり、其唱歌ハ、      〽しげさ/\の声がする、そのしいゝけさしげさもごかんき山里こへてもまた見たや    トうたひしなり〟
     「かんせう/\ 尾上菊五郎」 豊国画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)      「白井権八 岩井半四郎」   豊国画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)      「岩井半四郎 七役の内 かむろ うしろ面 奴凧」 五渡貞国貞画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)      「みゆき 沢村田之助」    豊国画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)      「由良之助 市川団十郎」   豊国画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)      「寺岡平右衛門 板東三津五郎」豊国画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)      「伍将軍漢輝 板東三津五郎」 豊国画(東京都立中央図書館・貴重資料画像データベース)     ◇「女上るり始」p442   〝文化十三丙子五月廿七日     妙音院声誉芝枡大姉【俗名おでん、後ニ芝枡ト云々、浅草三谷千念寺葬ス】    抑女義太夫ぶしの無類名人といわれし、おでん稽古の初りハ、宝暦四戌年、其頃銀座四丁目に河内太夫    とて老人あり、其弟子なりしが、河内故人となり、夫より舛太夫門人となり、舛太夫事丹後掾と受領す、    故ニ舛の一字をおでんニ譲る、おでんハ芝口出生なるゆへ、芝枡とぞ号しける、三味線も名人也、利兵    衛・政太夫常に申けるは、我等も語る事ハ負もせまじが、此弾方にハ及ずと言しよし、其後隠居して、    弟子舛吉ぇ芝枡を譲りける。誠名人も老衰となりてハ、人々の譏も如何とおしはからるゝ内ニ、隠居せ    しハ、功なり、名とげ身しりぞくなるべし。      老ぬれば麒麟も土場の浄瑠璃といわれぬ先にゆずる名人    辻々のちらしに、芝枡と書ず、壱人と書しハ此人斗、外類なし     (以下、女浄瑠璃の名あり、略)     元祖芝枡おでんト云は、名を木挽町汐留扇や万次郎妹娘おむらト云、芝枡弟子トなり、上るい能かた     り、二代目芝枡ト争ひ、竜虎の勢ひなり、右ニ師匠よりおでんの名をゆづる、是を淫婦の名ヲ得て、     板東秀佳(舟木ノ三ッ五郎)妻トなり、又五代め菊之丞ト不義ありて、終ニ妻トなり、乗物町ニて死     去せり、右おでんノ事、別ニくわしく記す〟