Top           浮世絵文献資料館          曲亭馬琴Top
               「曲亭馬琴資料」「天保五年(1834)」  ◯ 正月 二日『馬琴日記』第四巻 ④8   〝作者部類、自分二丁、稿之〟    〈「作者部類」は『近世物之本江戸作者部類』。高松藩家老・木村黙老の依頼で昨年十二月二日起筆。「赤本 作者部」(草双紙)     から始まって「洒落本作者部」「中本作者部」(滑稽本)そして「読本作者部」の自分の項目まで書き継いできた〉    ◯ 正月 三日『馬琴日記』第四巻 ④8   〝予、作者部類中巻、自分之内、二丁餘、稿之〟     ◯ 正月 四日『馬琴日記』第四巻 ④9   〝予、作者部類二の巻、自分の処、壱丁餘、稿之。三十三丁め迄也〟    ◯ 正月 五日『馬琴日記』第四巻 ④9   〝鶴屋喜右衛門代、為年始、如例扇箱持参いたし候よし。旧冬、喜右衛門死去、未及葬式といへども、(四字    虫喰い)遠慮いたし、過日、宗伯、年礼不申入、此義、清右衛門、幸便ニつたへ申遣し畢ぬ〟     〝芝泉市より使札。金瓶梅三集、ことの外評判宜く、多くうれ候ニ付、製本不間合、こまり候よし、初編・二    編上紙ずり、ふくろ入ニ直し候よしニて、右弐ふくろ、被贈之。且、あと作之事たのミ来ル。請取返翰遣ス。    且、旧冬、国貞行金瓶梅一包、間ちがひ、此方へ参候事、右二部ももらひ受可申間、代料幸便ニ被申越候    様、泉市へ申遣ス〟    〈『新編金瓶梅』三集は故歌川国安のあとを引き継いだ国貞画の合巻。芝の和泉屋市兵衛板。昨年末の二十五日の売り出し当日、     国貞の方に行くべき『新編金瓶梅』が間違って馬琴の方にきていることを連絡したのである〉     〝予、作者部類、二の巻末迄、今夕大抵稿し畢。この巻、本文三十五丁有之〟        ◯ 正月 六日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第三巻・書翰番号-36)   ◇ ③148   〝『俠客伝』三集、旧臘うり出し候つもりの処、職人処々仕事おち合、とにかく埒明かね、去十二月中のう    り出しニ成かね候。尤、あまりおし詰候て発販も不宜よし。何分松の内之うり出しニ致し度よしニて、丁    平大あせり、やう/\昨五日ニうり出し申候〟    〈丁子屋平兵衛は『開巻驚奇俠客伝』の年内出版を目指したが、結局できずに終わった。同日付、小津桂窓     宛書簡(番号37)にも同じ記事あり。なお大坂での発売は江戸より早く正月二日の由(二月十八日付、殿村篠斎宛書簡(番     号41)〉     ◇ ③150   〝(昨年十二月中)彼『作者部類』ニとりかゝり候。これも、年内チヨイと書終り可申存候処、存之外手お    もく成り、旧臘やう/\一冊稿し申候。扨当春、昨日迄ニ、二ノ巻書終り候。一巻四十丁程づゝ有之。十    一行細書ニて、四巻ならでハ全部いたしがたく候。大抵、よミ本一部稿し候程の筆かずニ御座候。此分、    不残稿し候ニは、正月下旬か、二月ニ入申候てハ、果しがたく候。これは自分のなくさミ故、左様ニも日    を費しがたく、昨日迄ニて当分思ひ捨、七くさ過より、『八犬伝』ニ取かゝり候つもりニ御座候〟     〈「自分のなぐさみ」ゆえお金にならない『近世物の本江戸作者部類』の執筆が、本業の「八犬伝」にしわ    寄せを及ぼし始めたのである〉    ◯ 正月 七日『馬琴日記』第四巻 ④11   〝予、作者部類一・二のもくろく并ニ補遺分二三丁、稿之〟    〈「増補分」とは「赤本作者部」の「自是而下係于補遺」以下の記事。蓬莱山人帰橋から文宝亭あたりまで書き進めたか〉    ◯ 正月七日『近世物之本江戸作者部類』p24   (識語)   〝この書に録する作者画工になほ現在の者多くあり。しかれども親しきを資けて疎きをなミせず。されバその    略伝毎に敢筆を曲ざれば、褒貶の詞はなきこと得ざる也。これは是遺忘に備ん為にして、人に見すべきもの    ならねば、只是初稿のまゝなるを、やがて秘麗にうち蔵めて、紙魚のすみかにならんことを惜まず。蓋稗官    小説は鄙㕝也。名を好むものゝなす所、是を児戯の冊子とす。後に伝ふべきものにあらす。さバれ和漢の大    才子佳作能文あるときはハ、後にあらせじと欲するとも、必好事者流の為に、をさ/\その名を称せらる彼    泛々の作者の如きハ、後世誰かこれを知るべき。そを憐れまずは、いかにしてこの筆すさミに及んや。寔に    要なき秘録なれども、百とせの後、己にひとしき好㕝のものゝ見ることあらバ、こも亦得がたき珍書として、    後の游戯三昧を相警るよすがとならバ、写し伝るも可ならん歟。或は俗子の手に落て醤を覆ふも亦可なり     天保五年甲午の春む月七くさはやすあした 蟹行散山蚊身田の龍脣崛に稿す〟    ◯ 正月 八日『馬琴日記』第四巻 ④11   〝作者部類、残り二冊稿し候てハ、八犬伝九輯成延引候間、部類ハ先づ二冊ニてさし置、追々手透之節、又稿    し候つもり。依之、出来分二冊、先ヅ製本いたし候様、今朝、宗伯へ申付おく〟    〈「八犬伝」九輯の延引を避けるため後回しにした『近世物之本江戸作者部類』の〝残り二冊〟とは「読本作者部下」「浄瑠璃江     戸作者部」(以上巻三)、「近世浮世画江戸画工部」「赤本読本浄瑠璃本江戸筆工部」「明和以来劂人小録」(以上巻四)であ     った。巻四は附録で画工、筆工、彫工の部である〉    ◯ 正月 九日『馬琴日記』第四巻 ④12   〝俠客伝二集校本并ニ江戸作者部類前編ニ冊、宗伯、製本畢〟    ◯ 正月 十日『馬琴日記』第四巻 ④13   〝予、作者部類稿本二冊校正、今夜四時前、悞脱補写し畢〟      ◯ 正月十二日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第三巻・書翰番号-38)③156   〝旧冬ちよと得貴意候『近世物の本江戸作者部類』、十二月上旬よりとりかゝり、両三日前まで、二巻稿し    候。      第一  赤本作者部          洒落本作者部      第二  よミ本作者部上    までニ御座候。第三巻よみ本作者部下・浄瑠璃作者部、第四巻画工部・筆工部・彫工略説ニて全部ニ候へ    ども、あと二巻綴り終り候ニハ、二月ニも及び候。左いたし候てハ、二月ニも及び候。左いたし候てハ、    『八犬伝』いよ/\後れ候故、まづ二巻ニて思ひ捨、昨日製本いたさせ候。(一行不明)未全の書ニへ共、    はやく御めにかけたく存候事ニ御座候〟    〈『近世物の本江戸作者部類』の構想が思いのほかふくらんだものと見え、草双紙・洒落本・読本の作者だけでなく、浄瑠璃作者     ・画工・筆工・彫工にまで及ぼうとしたのである。しかし先回りして云えば、本業の稿本執筆に忙殺されて、「作者部類」は二     巻で中断してしまう。あるいは予想以上に難航して手に余ったのかもしれない〉    ◯ 正月 十三日『馬琴日記』第四巻 ④15   〝鈴木右(ママ)源二事、画工柳川重信、為年礼、来ル。礼服也〟    〈この柳川重信は二代。柳川重山。馬琴の日記では重政(重正)として昨年出る〉    ◯ 正月十五日『馬琴日記』第四巻 ④16   〝(長子・宗伯を以て)根ぎし鈴木右(ママ)源二事、柳川重信へ年始答礼申入、とし玉二包づゝ、遣之〟     〝地主杉浦老母来ル。同人妹柳新、その師柳潮の代筆ニ画キ候よし。横物牡丹(四字不明)一幅持参。宗伯ニ    見せ可申存候よし。宗伯他行中ニ付、予、一覧。是よりあたご円福寺へ持参のよしニて、帰去〟    〈柳新とその師の柳潮、絵師のようであるが、いずれも未詳〉    ◯ 正月十六日『馬琴日記』第四巻 ④16   〝(鶴屋)喜右衛門葬式、来ル廿五日ニいたし候よし也。◯勇助事、蔦や十(ママ)三郎、去年五月中死去。右婿    養子ハいせや勘右衛門妻の従弟のよし。身上不如意ニ付、昨年浅草寺うらのかたへ逼塞いたし候よし〟    〈天明~寛政期にかけて歌麿・写楽を世に出した先代の蔦屋重三郎の全盛期に、一時期とはいえ世話になった馬琴である、二代目     の死をこんなにも遅く知ることになるとは、ずいぶん疎遠になってしまったものである〉    ◯ 正月廿四日『馬琴日記』第四巻 ④24   〝(木村黙老)所望ニ付、自(ママ)代古写そうし三綴、外ニ合巻赤本事始三冊・作者部類稿本二冊、是ハ秘書也。    右貸進ズ〟    〈合巻『赤本事始』は文政七年刊。「作者部類」の稿本二冊はようやく木村黙老の許に、他見を許さぬ「秘書」として渡った〉     ◯ 正月廿五日『馬琴日記』第四巻 ④25   〝宗伯、浅草本法寺ぇ罷越ス。今日、鶴屋喜右衛門送葬ニ付、予名代也。(中略)弔問者千許人のよし。別ニ    隣寺の坐敷をかり受、引わけ候よし也〟    ◯ 正月廿八日『馬琴日記』第四巻 ④27   〝(宗伯)麹町壱町め御城詰三宅内、渡部(ママ)登方へ年礼ニ立寄候処、登他行のよしニ付、口状申置〟    〈渡部登は渡辺崋山〉      〝(表具師万吉へ)金壱分弐朱のつもりニ相定メ、本居宣長・村田春海・加藤千蔭手簡三通、本居自讃賛肖像    一幅、わたし遣ス〟    〈この「本居宣長肖像」は故柳川重信初代が模写したもの。天保三年九月九日記事参照〉    ◯ 二月 二日『馬琴日記』第四巻 ④30   〝木村亘より使札。(中略)過日かし遣し候、ちぐささうし四綴、被返之。并ニ作者部類一の巻、被返之。所    望に付、鑑古抄六冊の内、二冊かし遣ス〟    〈「一の巻」は「赤本作者部」(草双紙)「洒落本作者部」(小本)「中本作者部」(滑稽本)を所収する〉     ◯ 二月 三日『馬琴日記』第四巻 ④30   〝作者部類補遺の分、四五丁、稿之〟    ◯ 二月 四日『馬琴日記』第四巻 ④31   〝予、作者部類一の巻、増補分七丁・もくろく弐丁、稿之畢〟    ◯ 二月 十日『馬琴日記』第四巻 ④35   〝木村亘より使札。(中略)西村重信古錦画一枚、被贈之。(中略)江戸作者部類一の巻、鑑古抄三より六迄    貸遣ス〟    〈西村重信の「古錦画」とあるが、この重信が西村孫三郎重信だとすると漆絵・紅絵時代の絵師であるから「錦画」は不審。この     「江戸作者部類一の巻」は二月三~四日に成った増補分だろう〉    ◯ 二月十七日『馬琴日記』第四巻 ④42   〝予、今朝より、右の眼中不例、少々痛有之。右眼一向に見えず候間、宗伯ニ様体申聞、自今日、洗薬用之〟    〈この日から、右眼の症状と治療に関する記事が増える〉      ◯ 二月十八日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第三巻・書翰番号-41)③177   〝『江戸作者部類』弐冊稿本、是ハ極秘書ニ候得ども、知音方ハ格別之事故、早春黙老へかし置候。野生稿本    ハ、あまり細字ニて、且はりけし、書直し候処も多く有之、久しく蔵弆ニ成がたく候間、今少し大字ニいた    し、黙老自筆に写させ、その本を以、筆工ニ書せ候節ニ、相談いたし度候。同人よりかへり次第、御めにか    け可申候〟    〈こんどは「江戸作者部類」の写本制作に煩わされる。馬琴の原稿は、細字でしかも貼り消し書き直し等も多く、蔵書にするには     ふさわしくないので、木村黙老に大字の写本をつくってもらい、それをもとに筆工に清書させて副本を作ろうという予定であっ     た〉    ◯ 二月十九日『馬琴日記』第四巻 ④42   〝谷文二、京都より帰り、京より写し来候、清の康煕中翻刻中将姫縁起之事、被申越。この書、文化中、佐野    東洲の唐本を蔵弆ニ付、借覧いたし候事抔、返事に申遣し畢〟    〈佐野東洲は、文化三年の大火で焼失する前の日本橋大通りを活写した絵巻、『熈代勝覧』の題字を書いたことで知られる書家〉    ◯ 三月 二日『馬琴日記』第四巻 ④52   〝木村亘より使札。白石叢書十四之巻并ニ江戸作者部類二冊、被返之〟      〝大橋右源二来ル。飼籠鳥十三・十四・十五・十六、合弐冊、写し出来、持参。(中略)飼籠鳥、未写本かり    よせ候迄、江戸作者部類少々写し、見せ候様、示談いたし、壱の巻原本一冊、有合のみのがみ八枚、わたし    遣ス〟    〈大橋右源二は馬琴が写本を依頼する筆耕グループのひとりで、『滝沢家訪問往来人名簿』に〝巳(天保四年)以来、昌平橋内、     戸田殿家臣、部屋住〟とある。『飼籠鳥』は水戸藩医佐藤成裕著の鳥類書。全二十巻で文化五年の自序を有する。馬琴は昨年末     十二月から高松藩家老・木村黙老より同本を借り、この大橋による謄写を始める。正月十一日に一巻が出来きて以来、順次行わ     れ三月二十一日には完了する。この日は第十七巻以下が馬琴の許になかったため、次の写本が届くまでの間、これまた黙老から     返ってきたばかりの馬琴稿本「江戸作者部類」の書写を頼んだのである。なお『近世物之本江戸作者部類』の諸本については木     村三四吾編『近世物之本江戸作者部類』(八木書店・昭和63年刊)所収の同氏解題に詳しい考証が載っている〉    ◯ 三月 三日『馬琴日記』第四巻 ④53   〝山本宗洪殿より使札。写本洞房語園四冊、被返之。右うつし出来のよしニて、新製本見せらる。并ニ、先比、    御同人ぇ頼置候、浮世画類考一冊、浅草雁金やより、代五匁五分のよしニて、見せらる。尤高料也。類考ハ    とめ置き、語園新本ハ直ニ返却ス。筆料、頭書とも、一丁二文づゝのよし、此方筆工より下直ニ付、已後た    のミ申度よし、申遣ス〟    〈山本宗洪は宗伯が就いた医師啓春院の嗣子で書籍愛好家。前名宗慎。正月廿六日に改名していた。この雁金屋所有の「浮世画類     考一冊」とはどの系統の写本であろうか。雁金屋は大田南畝の『一話一言』を所蔵しているから、あるいは大田南畝の『浮世絵     類考』の可能性も考えられるのだが……。(天保四年(1833)十月八日記事に〝一話一言全本、かりがねやよりとりよせ、かし本     と条目引合せ候(云々)〝とある)さて馬琴が「浮世画類考」の斡旋を山本宗洪に依頼したのは『近世物之本江戸作者部類』の     附録「近世浮世画江戸画工部」の準備のためと思われる〉     〝戸田内大嶋(ママ)右源二方へ、類考原本、料紙差添、手簡を以、急ニ写しくれ候様、申遣ス〟    〈大嶋は大橋と同人。なぜ馬琴が両様の呼称を用いるのか未詳。早速、馬琴は「類考原本」の写本作成を依頼した〉    ◯ 三月 五日『馬琴日記』第四巻 ④54   〝大橋右源二より、舎弟を以、一昨日頼置候、類考一冊、写し出来、右原本差添、并ニ江戸作者部類、写し手    見せ差添、右原本とも、被差越之。類考筆料百廿四文、并ニ飼籠鳥十七・十八、合本一冊、料紙差添、右使    へ渡し遣す、作者部類手見せ并右原本は、此方へとめおく〟    〈雁金屋所蔵の「浮世絵類考」から大橋筆写の馬琴所蔵本が生まれたことになるが、この本の行方はどうなったのであろうか。     「江戸作者部類」の写本の方は「手見せ」すなわち試写を取るほど慎重を期していた〉      ◯ 三月 七日『馬琴日記』第四巻 ④56   〝(清右衛門に用事あり来訪を待つ)右は山本宗洪殿より、過日、被為見候、画者類考、あまり高直に付、返    却可致ため也。(しかし清右衛門至らぬゆえ)右浮世画類考写本一冊、宗伯へわたし、宗洪殿へ返却し畢。    宗洪殿対面。右写本請取られ、幸便次第、雁がねやへ返し可申旨、被申候よし〟    ◯ 三月十七日『馬琴日記』第四巻 ④63   〝柳亭種彦事、小普請衆高屋彦四郎と云、下谷おかち丁御先手組やしき地面借用住居、拝領やしきハ、本所木    下町薬師の辺也と云。高弐二百俵小十人の家也〟    〈文政十二年以来、歌川国貞と組んだ種彦の合巻『偐紫田舎源氏』が毎年刊行されている〉    ◯ 三月十九日『馬琴日記』第四巻 ④64   〝木村亘より使札。(中略)江戸作者部類の内、春町・たね彦・林屋正蔵等の事、誤有之ニ付、補文別紙ニ認    遣ス〟    〈馬琴は木村黙老の手元にある写本(所謂「大字本」馬琴は「新写本」と呼ぶ)の訂正を求めたのである〉     〝表具師万吉来ル。正月中、申付置候、本居宣長肖像・同手簡二幅、右表具出来、右表具代廿四匁、(以下略)〟    〈この「本居宣長肖像」は故柳川重信初代が模写したもの。天保三年九月九日記事参照〉    ◯ 三月廿一日『馬琴日記』第四巻 ④65   〝大橋右源二来ル。予、対面。飼籠鳥十七より廿終迄、合本二冊、写し出来。原本共持参。右筆料金弐朱、遣    之。(中略)且、江戸作者部類稿本一の巻、料紙差添、わたし遣ス〟    〈馬琴稿本の謄写、所謂「大橋筆小字本」制作の始まりである〉    ◯ 三月廿二日『馬琴日記』第四巻 ④68   〝俠客伝四輯五の巻残りさし画、柳川へ催促之事、丁子やへ伝言、たのみ遣す〟    〈この「柳川」は柳川重信二代〉    ◯ 三月廿四日『馬琴日記』第四巻 ④68   〝木村亘より使札。昨日、清右衛門を以、飼籠鳥・汝南圃史、返却之処、他出のよしニて、右返翰也。塩尻    【一より三迄】三冊・江戸作者部類新写本二冊・浮世画考(ママ)かりとぢ小冊壱、被借(ママ)之。受取返翰、    遣之〟    〈『近世物之本江戸作者部類』(木村三四吾編・八木書店・昭和63年刊)の解題は「被借(ママ)之」を「被貸之」の誤記としている。     この「江戸作者部類新写本」とは木村黙老側が書写した所謂「大字本」のこと。馬琴の細字稿本から黙老の作成によって大字写     本が生まれたのである。さて木村黙老の「浮世画考」とはどんな内容のものであろうか。由良哲次編『総校日本浮世絵類考』     (画文堂・昭和54年刊)によると、神宮文庫には二種類の「浮世絵類考」があり、いずれも木村黙老編『聞くままの記』の所収     になるもので、第十六巻の方が「浮世絵師考」であり、第四九巻の方が「浮世絵考証」であるという。このうち第十六巻の「浮     世絵師考」には〝文政辛巳南呂初旬風山漁者筆印〟(文政辛巳は同四年(1821))とある由で「風山本」と呼ばれている。しかも     それは〝著作堂(馬琴のこと)翁曰く〟で始まるとのこと。すると馬琴が見たのはこの「風山本」と考えられよう。一方、第四     九巻の方はどうか。この「浮世絵考証」は〝享和二年壬戌冬十月近藤正斎〟とあるもので「浮世絵類考」の原初形態を最もとど     めるものとされるのだが、馬琴は見たであろうか。馬琴は黙老の『聞くままの記』を借りて写していることは確かだが「浮世絵     考証」を見たという確証はない。(神宮文庫「浮世絵類考」は前記『総校日本浮世絵類考』に影印があり、本HPでもその翻刻     を載せている)     ともあれ、三月三日、山本宗洪が仲介した雁金屋所蔵の「浮世画類考」書写といい、馬琴の「浮世絵類考」に対する強いこだわ     りは、すべて『近世物之本江戸作者部類』の附録「近世浮世画江戸画工部」を念頭に置いたものと考えられよう。ところで、文     政末から天保二年にかけて馬琴日記に頻りに登場していた渓斎英泉には天保四年(1843)の序をもつ『無名翁随筆』(続浮世絵類     考)があるのだが、不思議なことにこれへの言及がないのである。馬琴はその存在をしらなかったのであろうか。興味深い謎で     ある〉    ◯ 三月廿七日『馬琴日記』第四巻 ④72   〝四谷中村や勝五郎并ニ赤坂画工北渓来ル。(中略)北渓ハ、すし一折持参。かねて被頼候武者絵本の下画、    やうやう三枚出来、わく紙とも持参。予、眼病の趣申聞、うけ取おく〟    〈昨年十月二十五日参照〉      〝過日、(木村)黙老より見せられ候、浮世考(ママ)別本、謄写。但し、用事有之に付、八丁め迄、写之。    尚、五六丁残る〟    〈木村黙老より見せられた「浮世考(ママ)別本」は全部で十三~四丁である〉    ◯ 三月廿八日『馬琴日記』第四巻 ④73   〝昨日うつしかけ候浮世画考(ママ)、九丁目より、又写之〟      〝浮世絵考うつしかけ候内、三丁半、写之。十二丁のうら迄也。増補有之ニ付、原本より多し〟    〈「浮世画考」と昨日の「浮世考(ママ)別本」は同一と思われるが、なぜ別本と書いたのであろうか。ともあれ、それに「増補」が     ついているらしい〉     ◯ 三月廿九日『馬琴日記』第四巻 ④74   〝予、増補浮世画師考、十六丁終迄、謄写し畢〟    〈この「増補浮世画師考」は「浮世画考」を増補したものだろうが、この本の正式名がよく分からない。四月朔には「近世画師考」     とも呼んでいる。増補分も入れて十六丁ほどの小冊子である〉    ◯ 四月 朔日『馬琴日記』第四巻 ④75   〝丁子や平兵衛より、使を以、俠客伝四輯残りさし画、五の巻の三壱丁、重信より出来、見せらる〟       〝木村亘ぇ届物、近世画師考一綴・本朝水滸伝後編評・俠客伝二輯評二冊、是は返却もの也〟    ◯ 四月 三日『馬琴日記』第四巻 ④76   〝大嶋右源二来ル。予、対面。江戸作者部類一の巻写し出来、原本共持参。右筆料、金一朱、遺之〟    〈「大橋筆小字本」一の巻が馬琴自筆稿本とともに馬琴の許に戻った〉     ◯ 四月 五日『馬琴日記』第四巻 ④77   〝根岸左源二事、画工柳川重信来ル。手みやげ持参。予、対面。八犬伝九輯壱の巻、さし画の壱一枚、外に、     同さし画の弐下画一枚持参、見せらる〟    〈言わずもがなであるが、これは二代目重信(旧名重山・馬琴の日記では重正(政)と記す)〉     〝木村黙老書写、江戸近世作者部類一の巻校訂、宗伯に申付、今日終日ニて、校閲し畢〟    〈この「江戸近世作者部類」一の巻は所謂「黙老筆大字本第一冊」〉    ◯ 四月 六日『馬琴日記』第四巻 ④78   〝黙老写本、作者部類一の巻、宗伯校訂畢〟    〈「黙老筆大字本第一冊」〉     ◯ 四月十六日『馬琴日記』第四巻 ④85   〝丁子や平兵衛、程なく来ル。頼置候浄るり本とかく揃かね候よしニて、又一冊持参、過刻のともに十一冊也    此内、いろはぐら・三組盃、不用也〟    〈先に使いを以て丁子屋は馬琴に一冊届けていた。この浄瑠璃本集めは『近世物之本江戸作者部類』第三巻に所収予定の「浄瑠璃     江戸作者部」に対するものであろうか〉    ◯ 四月十八日『馬琴日記』第四巻 ④87     〝大嶋右源二来ル。予、対面。作者部類小字の方、二之巻写し出来、原本共持参。右筆料三百廿文、遣之。并    ニ、同書黙老本、大字の方、一の巻料紙五十七枚添、わたし遣ス〟    〈馬琴自筆の稿本二冊を謄写した「大橋筆小字本」二冊が完成。今度は馬琴自筆稿本から木村黙老自らが書写した「黙老筆大字本     第一冊」の書写を大橋右源二に依頼したのである〉    ◯ 四月廿三日『馬琴日記』第四巻 ④91   〝宗伯、木村黙老方ニて出来の江戸作者部類写本、校訂、尤誤脱多く、ひま入候よし也〟    〈これは木村黙老自身の書写ではなく別人による書写本、所謂「黙老方筆大字本第二冊」に相当するもの。誤脱多く、校訂に手間     取ることになる〉    ◯ 四月廿四日『馬琴日記』第四巻 ④92   〝(丁子屋平兵衛方より使いの者、八犬伝九輯壱の巻、重信の挿画持参)一覧の処、道節乗馬ハ、前に出候仁    田山晋五の馬ニ候処、毛いろちがひ候間、不宜、前のごとく黒馬にいたし候様、付札いたし、右使ぇわたし    遣ス。使之もの、直ニ根岸重信方へ罷越、直させ可申旨、伝言。重信、左右のわけ書我注、細不見候哉、ふ    のみ込にて、かやうの間違、度々有之。右使之者、昼前、重信方より直させ来ル。一覧の上、右画写本、筆    工とも二丁、使ぇわたし畢。定正馬も、くろく画キ候故、敵味方黒馬ニてわからず、不宜候得ども、今さら    せんかたなし。今の重信、画才なし〟    〈騎馬にて犬山道節が扇谷定正を追撃する場面。「品革の原に道節定正を赶ふ」とある。この「画才なし」の非難は、作者の意に     対する配慮が足りないということか〉      ◯ 四月廿五日『馬琴日記』第四巻 ④92   〝予、過日、丁子やよりかりよせ候浄留理(ママ)本、作者・板元・年月等、十冊抄録畢。其後、塩尻三の巻抄録    畢。今日、両眼とも不出来ニて、左眼もかすミ、筆硯不如意也〟    〈この「浄留理(ママ)本」抄録も『近世物之本江戸作者部類』の三巻に予定している「浄瑠璃江戸作者部」への準備と思われる。     『塩尻』は天野信景の随筆〉    ◯ 四月廿六日『馬琴日記』第四巻 ④93   〝木村黙老方ニて写し出来の江戸作者分類二の巻、再校、終日にして、三十二丁、校之。尚、十九丁残ル。悪    写本ニ付、宗伯校訂いたさせ候へども、尚、不行届ニ付、予、再校ス。夜ニ入、今日木村氏より被貸候聞ま    ゝの記一冊披見〟    〈「黙老方筆大字本第二冊」の校訂は難航の様子。木村黙老の随筆『聞くまゝの記』は三月十九日に十一の巻を黙老に返却してい     る〉     ◯ 四月廿七日『馬琴日記』第四巻 ④94   〝予、先達而、木村黙老方ニて写し出来の江戸作者部類校訂、塗抹悉雌黄、八時過校し畢〟    〈二の巻(「黙老方筆大字本第二冊」)の方は「塗抹悉雌黄」、塗りつぶして悉く書き直さねばならないほど劣悪な写本のようで     ある〉    ◯ 四月廿八日『馬琴日記』第四巻 ④95   〝大嶋右源二ニ写させ候江戸作者部類壱の巻校合、今夕五時半比稿し畢〟    〈これは「大橋筆小字本」の一の巻。伊勢松坂の殿村篠斎に送るための最後の校合作業である〉      ◯ 四月廿九日『馬琴日記』第四巻 ④96   〝大嶋右源二ニ写させ候江戸作者部類、弐の巻校合畢。此書松坂殿村佐六ニ被頼候ニ付、写させ可遣ため也〟    〈これは「大橋筆小字本」の二の巻。この日校合を終えた小字本は、五月二日、一の巻と会わせて二冊、伊勢松坂の殿村篠斎(佐     六)に送られた〉     ◯ 五月 朔日『馬琴日記』第四巻 ④96   〝大嶋右源ニ来ル。予、対面。作者部類大本の方、壱の巻、并ニ、本朝水滸伝後編黙老評、右二様写し出来、    原本共持参。右筆料三百(一字不明)拾文、遣之。尚又、同書大本の方、弐之巻、料紙差添、渡し遣ス〟    〈木村黙老が馬琴の小字稿本から大字に写した所謂「黙老筆大字第一冊」を、今度は馬琴側が写本化するのである。この日まずそ     の一の巻、所謂「大橋筆馬琴本」一の巻が出来上がった〉        ◯ 五月二日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第三巻・書翰番号-45)③192   〝(『江戸作者部類』)黙老自筆ニて大本ニ写、大きく出来候ハヾ、そを原本にして、写させ上ゲ可申候旨、    先便御約束いたし候処、先日黙老子より写し出来(破損箇所)ニ付、一覧候処、(切断箇所)    一の巻ハ黙老自筆故、宜候へ共、弐の巻ハ外人ニ写させ、悞脱ハいふもさら也。一向ニ字体も整ハず、用立    かね候故、大ニ望を失ひ申候。彼人、書籍ハ好キニて、折々書を購ひ入候ども、悞写抔ニかまハぬ人ニ御座    候。いかにすまし候哉、こゝろ得がたく存候事、毎度御座候。さればにや、『作者部類』、右様之悪筆工ニ    写させ候ても、よく見もせずに被差越候事と察し申候。他本ハともかくも、右『部類』ハ、いまだ全書なら    ず、他見ハゆるしがたき書に候へ共、同好の友人故、副本にもなれかしと存、黙老自筆ニて云々と申遣候処、    右之仕合故、実に腹も立候程之事ニ御座候。依之、とてもかくても、黙老方ニて写し候ハ、用立かね候間、    やはり拙稿本を以、極細密に写させ候。野生方ニて写させ候筆工ハ、手迹ハ不宜候得ども、はかやりを旨と    せず、律儀によくよめ候様ニ写し候故、筆料を例よりよけい出し、写させ候故、尤よりしく出来申候。一昨    日・昨日、両日校訂いたし候処、大あやまりも無之候。板下にしてもよき処、よほど見え(破損・切断箇所)    桂窓子も一本御蔵弆可被成下候ハヾ、早々可被仰越候。その内ニは、大字のかた、原本ニ成候様、手入行届    可申候間、大字のかたを以、此筆工に写させ、上ゲ可申候〟    〈細字原稿を木村黙老の手で大字写本にしてもらおうという、少々虫の良い馬琴の目論見が早くも頓挫した。一巻は黙老自身の手     跡でよろしいのだが、二巻の方は別人の手になるもので、誤脱はあるし字体も整わないので、このままでは役に立たない代物で     あった。そこでやむを得ず、細字原稿を筆工に写させてものをともかく送ろうということになった〉     〝黙老方ニて出来の弐之巻、忰ニ校訂させ、十日斗かゝり、おし返し二度直させ候へども、いまだ行とゞき不    申候。依之、野生引とり、三日かゝり、子供の清書を直し候ごとく、片はしより朱くいたし候故、反故同様    ニ成候間、右直しを以、此方筆工ぇ写させ、黙老ニ進物ニいたし可申存、今朝、例之筆者参り候間、写しニ    出し置申候。写し参り候ハヾ、又校合いたし、それを又写させ候ハヾ、善本ニ成り可申候。もし、今一本、    御入用ニ候ハヾ、大字のかた、筆料も少しハ安く出来候間、写させ上たく、右之通りニほね折申候〟    〈木村黙老の許からきた大字本の二巻の方はこのままでは使えないので馬琴の嫡子宗伯に校訂させた。よほどひどい写本とみえて、     子供の清書を直すように片端から朱を入れたため、反故同様になってしまった〉         〝四冊ニてハ、あまり大巻に成候故、三ノ上・三ノ下、四ノ上・四ノ下と、あと四冊にいたし、全部六冊のつ    もりニ御座候。来早春休ミの内つゞり申度、今より心がけ罷在候也。此間、浄るり本も、十冊あまりかりよ    せ、抄録いたし置候得ども、遠キ物ハ本無之、揃ひかね候。いかで、当冬迄ニ揃ひ候様、祈り申候。浄るり    本すら、遠キ物ハ手ニ入かね候。苦心、御察し可被下候。『浮世画類考』もからうじて弐本とり出し候故、    画工ハ大てい遺漏有之まじく候。評書抔とちがひ、実ニ一朝の著述にハ無之候〟    〈三巻以降の執筆準備はしていた。十冊あまり抄録したという「浄るり本」とはどのようなものであったのだろうか。また「から     うじて弐本」取り出した『浮世画類考』とはどの系統のものであったのか、未詳である〉    ◯ 五月 三日『馬琴日記』第四巻 ④99   〝丁子やぇ遣し候、表紙代金壱分弐朱并ニ同人ぇ返却の浄瑠理(ママ)本十一冊、(明日届けるよう)清右衛門に    わたしおく〟    〈「浄瑠璃本」の作者・板元・年月等を抄録し終えたか〉      ◯ 五月 九日『馬琴日記』第四巻 ④105   〝画工重信方五才に成候小児、疱瘡にて、八犬伝九輯延引のよし。是より根岸へ罷越候よし也〟    ◯ 五月 十日『馬琴日記』第四巻 ④105   〝大嶋右源ニ来ル。予、対面。江戸作者部類二の巻写し出来、原本とも持参、右筆料弐百三十七文、渡之〟    〈校訂に手間取った「黙老方筆大字本第二冊」を書写した「大橋筆馬琴本」の二の巻が出来上がる。これで馬琴自筆の「小字稿本」     二冊と、その写本二冊(殿村篠斎に送ったもの)、馬琴の「小字稿本」を木村黙老側が大字化した「黙老筆大字第一冊」と「黙     老方筆大字本第二冊」の二冊、及びその写本である「大橋筆馬琴本」二冊、合計四種八冊の「近世物之本江戸作者部類」が出現     したのである〉      ◯ 五月十一日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第三巻・書翰番号-47)③204   〝『近世江戸作者部類』、未全の書ニは無之候へ共、当春中、篠斎子はやく見被申度よし被申越、貴兄と御両    人仰合、一本写させ候様御頼ニ付、去ル二日、右写本、篠斎子へさし出候。(略)原本尤細字ニ付、筆料高    直ニ御座候間、其御地ニて、あのごとく、細字ニよくよめ候様書キ候筆工御座候ハヾ、一本御写させ、御蔵    弆被成候様奉存候。もし御地ニ細字書無之候ハヾ、高料ニても宜候ハヾ、写させ上ゲ可申候。尤、黙老子へ    かし候て、黙老子方ニて、見うつしニ写させ候二の巻、以之外悞脱多く、一向ニ用立かね候間、悉く雌黄を    施し、大抵直し候へバ、黙老の写本ハ反故ニ成候間、此方ニて写させ候を、    引かへニ同人ニ遣し可申存、拙方の筆工に写させ候処、少々ハ宜く成候得ども、下地の悪本を直し候て写さ    せ候物故、細字のかたよりおとり申候。もし、当地ニて写し、御たのミも可被成思召候ハヾ、いづれニても    可被仰下候。早々写させ上ゲ候とも、手前の扣本ニ写させ置候大字のかた、ふり替、御ゆづり申候とも可致    候〟    〈「雌黄を施す」とは添削すること〉     ◯ 五月十七日『馬琴日記』第四巻 ④112   〝大嶋右源二来ル。予、対面。聞まゝの記十二、写し出来、原本持参。(中略)江戸作者部類二の巻、原本・    写本二冊并ニ料紙差添、わたし遣ス〟    〈木村三四吾氏によると、この「江戸作者部類」は「大字本」二の巻で、校正の結果さんざん汚して反故同様にしてしまったもの     への代償として、黙老に与えるための写本作成だとする〉    ◯ 五月晦日『馬琴日記』第四巻 ④122   〝予、木村黙老へ遣し候江戸作者部類二の巻、校訂、其後又、黙老謄写いたし候、同書二の巻校訂、終日也〟    〈五月十七日に依頼した二の巻の写本の校訂である、これが「大橋筆大字本」であろうか〉    ◯ 六月 二日『馬琴日記』第四巻 ④123   〝宗伯ニ申付、黙老方へ遣し候江戸作者部類二の巻、写し直し一冊、製本出し、并ニ同書一之巻、てんぐ帖へ    写され候分四十八枚間紙入、これ又仕立直し候様、申付、右料紙差添、二冊わたしおく。夕方、右製本二冊    出来。てんぐ帖もめ、たちかね、こまり候よし也。請取おく〟    〈五月晦日に校訂した「大橋筆大字本」と「黙老筆大字第一冊」を製本した〉    ◯ 六月 三日『馬琴日記』第四巻 ④124   〝木村黙老へ、江戸作者部類、為可遣、長文手簡一通認おく。今朝より、昼後書畢。其後、右江戸作者部類、    脱文書入、三本とも同断〟    ◯ 六月 四日『馬琴日記』第四巻 ④124   〝木村亘ぇ返済の写本、聞まゝの記十二の巻一冊、塩尻【五より七迄】四冊、江戸作者部類二冊、外ニ、同書    二の巻一冊、此方ニて写し直させ、製本いたさせ候もの一冊、共ニ八冊、(中略)清右衛門ニわたし、今明    日中、木村氏ぇ持参、請取書とり可申旨、申付おく。右作者部類二の巻、木村方ニて、別人に写させ候ハ、    悞脱多く、一向に用立かね候趣、先月中度々校訂いたし候ニ付、反故同様ニ成候。依之、筆工大嶋右源二ニ    写し直させ、表紙は元のひやうしを用ひ、今般遣之〟    〈この日馬琴が黙老に返却した写本は三本。「黙老筆大字第一冊」(一の巻、黙老の自筆本)・「黙老方筆大字第二冊」(二の巻、     黙老が藩中の別人に写させたもので、誤脱多く校訂の結果反故同様になった写本)・「大橋筆大字本(二の巻、前記二の巻の反     故同様写本を校訂し、大嶋(大橋)に写し直させたもの)」。これで木村黙老との『物之本江戸作者部類』の遣り取りは一段落     である〉      ◯ 六月 七日『馬琴日記』第四巻 ④127   〝丁子屋平兵衛同道ニて、大坂書林河内や茂兵衛来ル。予、対面。(中略)水滸後画伝、被頼之。八犬伝十二    冊書畢次第、可創旨、及約束。丁子やも又、扇面・看板稿之事、催促せらる〟    〈天保三年六月二十三日参照。天保四年の日記には「水滸後画伝」の記事はない。約二年ぶりに復活したのである〉    ◯ 六月 九日『馬琴日記』第四巻 ④129   〝(丁子屋の使い)根岸重信子へ罷越候間、御画稿出来候はゞ、御渡し被下候様、申之。未出来趣、申遣す〟    ◯ 六月十二日『馬琴日記』第四巻 ④132   〝大坂河内や茂兵衛、丁子や平兵衛同道ニて来ル。(中略)来ル十六日出立のよしニて、暇乞の為也。水滸後    伝ハあとへ廻し、当年、俠客伝五輯願候趣、被頼之。并、丁子や、美少年録四編も願候趣、平兵衛、申之。    いづれ八犬伝不残稿し畢候上、当冬比より取かゝり可申、申聞おく。且、雪丸作、よみ本序文之趣、丁平    (丁子屋)、尚又被頼候得ども、序文の義ハ、一同断候て、不書候趣、かねて申聞候通り、出来かね候よし、    断りおく〟    〈河内屋と丁子屋は「水滸後画伝」を後まわしにして、「俠客伝」の五輯と「美少年録」の四編とそれぞれの続編を優先させたの     である。ただそれも八犬伝の九輯が終了してから取りかかるというのである。また「序文」をめぐって、まだ綱引きが行われて     いる。雪丸の依頼も執拗だが馬琴も頑として受け付けない。これは雪丸自身の頼みというより、版元・丁子屋のもくろみでなの     だろう〉    ◯ 六月 廿日『馬琴日記』第四巻 ④138   〝根岸鈴木左源二事、画工柳川重信、来訪。予、対面。(中略)昨朝申遣し候俠客伝四集、とびらニ画キ候異    獣の写真見度よし、申ニ付、則、取出し、席上ニて、写させ畢。同書五之巻、さし画の壱・弐出来、過日、    丁や使ぇわたし候よし、被申之。なれども、此方へ見せず、筆工ニ滞り在之なるべし。同さし画之三も出    来、宿所ニ有之よし也。今日、尚又、俠客伝四集、ふくろ稿、ひやうしもやう稿、外題稿等弐丁、ふくろ    かけ候て、渡し畢。且、右画いそぎ候趣、委曲、示談畢て、帰去〟    〈当時、二代目重信は馬琴作読本『開巻驚奇俠客伝』四集と『南総里見八犬伝』九輯を担当していた。馬琴はなるほど挿画だけで     なく袋や表紙・外題にまで自らの意匠を貫こうとしている〉    ◯ 七月 朔日『馬琴日記』第四巻 ④149   〝(来訪の関忠蔵より聞く)中村仏庵死去の事、尋候処、当午正月七日のよし、火葬ニいたし候処、舎利黒    白一握ほど出候よし。めずらしき事也。享年八十三歳なるべし。中村氏、寺ハ深川霊巌寺也。亀戸町の抱    屋敷に住居したり〟    〈中村仏庵、書家、畳職棟梁。馬琴とは「耽奇会」等を通しての交友。文政十一年二月二十日記事参照〉    ◯ 七月 二日『馬琴日記』第四巻 ④150   〝(丁子屋平兵衛来訪)これより、根岸柳川重信方へ罷越候よしに付、口画直させ候つもり、それ/\不宜処、    伝言いたし候様、及示談〟
  〝画工柳川重信より、丸づけ瓜七十九、被贈之〟    ◯ 七月廿一日『馬琴日記』第四巻 ④165   〝清右衛門来る。申付置候にしき画三枚、つるやにてかひ取、持参。右代銭三十六文、遣之(中略)にしきは、    より朝不二牧狩の処、太郎ほしがり候に附、かひ取、遣之〟    〈地本問屋・鶴屋喜右衛門方で買い求めた錦絵は頼朝富士の牧狩の図柄で馬琴の孫太郎の希望であった。一勇斎国芳画「頼朝公御     狩之図」(三枚続き)とも思われるのであるが。果たしてどうか。また一枚十二文は武者絵一般の値段であろうか〉      ◯ 七月二十一日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第三巻・書翰番号-49)③211   〝北渓画の諸国名所のよこ物にしき画、よくうれ候ニ付、折本ニいたし、うり申度よしニて、右板元中村や勝    五郎といふ者、北渓とゝもニ参り、たのミ候得ども、序文ハかゝぬと一同ニ申断候故、右之わけ合を以断り、    書き不申候〟
     葵岡北渓画「諸国名所 上州三国越不動峠」(山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵)         〈『諸国名所』(横大短冊判)葵岡北渓画・中村屋勝五郎板。馬琴の序文を添えた折本仕立てで売り出そうというのである〉    ◯ 七月廿三日『馬琴日記』第四巻 ④167   〝返魂餘紙へはり入可申物、三四枚とりはがし、并ニ、万吉ニ表紙かけさせ候写本三(冫+食)一覧二冊・中    将姫縁起一・後西遊記評一・塩尻一・浮世画考等、取しらべおく。清右衛門参候ハヾ申付、万吉方へ可遣た    め也〟    〈万吉は表具師。この「浮世画考」は未詳〉    ◯ 八月 六日『馬琴日記』第四巻 ④176   〝(木村黙老へ)作者部類、あやまり有之、直し進じ可申間、写本被遣候様、当六月中申遣候処、其後、その    義も一向返事無之、失念なるべく、とひ候間、其の段も申遣ス〟    〈六月四日、黙老に返却したあとも、馬琴は自身による訂正を申し入れていた。黙老は失念したのか、返事がないので、馬琴は再     度写本を送るよう黙老に依頼したのである〉       〝(淡路藩須本城下、津国屋関右衛門なる町人の書状に)売薬の事并ニ柳里恭の春画本等、ほしく候間、さし    こしくれ候様申来ル。田舎ものニて、此方之様子一向不存、尤非礼の文通、一笑に堪たり。沙汰ニ不及なり〟    〈「柳里恭の春画本」は未詳〉    ◯ 八月 七日『馬琴日記』第四巻 ④177   〝木村亘より使札。作者部類二冊、被指越之。昨日申遣し候。右は久しく失念のよし也〟    〈前日六日の馬琴の要請に、黙老はこの日「作者部類」を二冊寄こした〉     ◯ 八月 九日『馬琴日記』第四巻 ④178   〝作者部類遺漏、その外とも、夕方迄ニ補写し畢。此方蔵弆浄書の二冊ニ黙老写本、共々二通り也。外ニ、稿    本二冊あり。是ハいまだ補写ニいとまあらず〟    〈「作者部類」の訂正作業は引き続く。黙老所蔵の大字本二冊・馬琴所蔵の筆耕大橋による大字本二冊・そして馬琴の小字自筆稿     本二冊が対象である〉    ◯ 八月 十日『馬琴日記』第四巻 ④179   〝予、作者部類稿本へ、正誤書直し、頭書当、悉書入畢〟    〈馬琴自身の小字自筆稿本の校訂が終了した。都合六冊〉    ◯ 八月十七日『馬琴日記』第四巻 ④184   〝大嶋右源二来ル。予、対面。(中略)江戸作者部類二の巻、料紙六十五枚さし添、わたし遣ス。此分、松坂    より被頼候て、写し候故也。写し方示談〟    〈この「江戸作者部類」は伊勢松坂の殿村篠斎の依頼による写本作成である〉    ◯ 八月廿一日『馬琴日記』第四巻 ④186   〝予、今日も気分不快、浮世画類考頭書等ニて、日を消し、夕方より、やうやく、八犬伝九輯大看板、稿之〟    〈この「浮世絵類考」は未詳。三月、木村黙老から借りて写した「浮世絵類考」であろうか〉     ◯ 八月廿九日『馬琴日記』第四巻 ④190   〝大嶋右源次来ル。予、対面。江戸作者部類二の巻、写し出来、原本とも持参。右筆料、三百四文、遺之。尚    又、同書二ノ上、料紙差添、渡之。松坂行入用写本也〟    〈伊勢松坂・殿村篠斎所蔵となる写本、大橋筆大字本の二の巻が出来た〉    ◯ 九月 三日『馬琴日記』第四巻 ④193   〝表具師万吉来ル。予、於書斎、対面。八月上旬申付候、禽鏡巻物、仕立直し、六巻表装出来、六巻持参。右    一式代料、金弐分壱朱わたし遣ス〟    〈『禽鏡』六巻の完成である。東洋文庫蔵本に〝五年秋九月釐為六巻重裱褙畢〟とあり〉      ◯ 九月 九日『馬琴日記』第四巻 ④197   〝写本江戸作者部類、此方蔵本二冊、いせ行二ノ上一冊とも三冊校訂し、黙老蔵本二ノ上も、処々校之〟    〈馬琴所蔵本二冊と二十九日に成った殿村用の写本二の巻一冊、都合の三冊の校訂が終わり、八月七日以来、黙老から預かってい     る黙老所蔵本の二の巻も校訂した〉     ◯ 九月十三日『馬琴日記』第四巻 ④200   〝芝泉見せのものより使札。太郎へ水滸伝人物大にしき画六枚、被贈之〟    〈この「水滸伝」は国芳の「俗水滸伝豪傑百八人」であろうか〉    ◯ 九月十五日『馬琴日記』第四巻 ④201   〝大嶋右源二来ル。予、対面。作者部類壱の巻、原本差添、写しとり候分、持参。右請取、筆料弐百六十四文    の処、金一朱わたし遣ス。百四十八文過也。次の筆料ニて、差引候つもりニて、かしおく。尚又、同書一・    二、右写本を以、うつし候様、示談。料紙ミのがミ二帖と十四枚指添、わたし遣ス。見合せニいたし度よし    申候間、予が蔵本新製の同書二冊。かし遣ス〟    〈伊勢松坂の殿村篠斎から依頼された写本作成「作者部類」の一の巻が出来、これで殿村の分は二冊揃った。加えてまたもうひと     組の写本を大嶋に依頼した。これは小津桂窓の分か。また黙老からかりていた大字本二冊は翌日返却された〉     ◯ 九月十七日『馬琴日記』第四巻 ④203   〝根岸鈴木左源二事、柳川重信来ル。予、対面。八犬伝九輯六之巻、さし画の三壱丁、同書惣もくろくわく写    本出来、見せらる。さし画の武者ちひさく、且、城に塹なし、画ざま不宣候へども、直させ候もきのどく故、    そのまゝ預かりおく。尚又、同人所望ニ付、酔芙蓉三冊の内、一冊、宋の徽宋(ママ)唐犬の図有之処、かし遣    ス〟    〈自ら画稿を作って画工にこと細かな指示を繰り出す馬琴にしては珍しく、諦めというか、これ以上要求しても期待するものはで     きないというか、そんな脱力感を二代目重信に対して抱いているようだ。また馬琴が重信に貸し出した、宋代の徽宗が画いた唐     犬図を載せる「酔芙蓉」とは、鈴木芙蓉画の『画図酔芙蓉』(文化六年(1809)刊)である。下巻に「宋徽宗 乳犬図」として出     ている〉
     鈴木芙蓉画『画図酔芙蓉』「宋徽宗 乳犬図」(金沢美術工芸大学付属図書館「絵手本DB」)    ◯ 九月廿一日『馬琴日記』第四巻 ④206   〝陳章侯画水滸百八人像の郎英(ママ)讃・胡演題跋、急々写し(以下略)〟
       水滸百八人画像臨本 / 陳洪綬 画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)    ◯ 十月 三日『馬琴日記』第四巻 ④214   〝丁子やより、手代使ヲ以、八犬伝九輯、口画残り一丁、重信より出来、見せらる〟    ◯ 十月 八日『馬琴日記』第四巻 ④218   〝禽鏡六巻、毎巻題書・凡例・跋文等、今夕方迄ニ淨書し畢。夜ニ入、宗伯へ巻納めしむ。一昨日より、三ヶ    日にして、右画巻の箱入、大抵出来〟     〈『禽鏡』は著作堂主人(馬琴)編・渥美赫洲(日記では覚重)画、巻子本の鳥類図鑑である。現在は財団法    人東洋文庫が所蔵している。〝天保五年甲午冬十月初八日著作堂老禿識〟の識語がある〉      ◯ 十月 九日『馬琴日記』第四巻 ④218   〝いづみや市兵衛来る。予、対面。金瓶梅五集下編、画外題、国貞より出来のよしにて、右見せらる〟
  〝(大番与力某の依頼)宮川長春遊女の画かけ物、箱入一幅、持参。右長春ハいつ比の人ニ候哉、右之伝御し    るし可被下、且、箱書付も願候よし、被申之。則、見候処、毛ぬき遊女と題して、甚猥褻の画にて、見るに    不堪もの也。依之、箱書付の事ハ、即座に断、長春略伝ハ、近日認可遣旨、やくそくニ及ぶ。右かけ物、も    ちかへられ候様申候処、(土岐村)元立、今日ハ深川へ罷越候よしニて、宗伯ニあづけ置、帰去〟     〈土岐村元立は馬琴の長男宗伯の妻お路の実父。宮川長春の「毛ぬき遊女」は現存しているのであろうか〉       〝(丁子屋の使いの者)是より、根ぎし重信方へ用事有之、罷越候間、八犬伝、ふくろ、ひょうし等、稿本直    ニ重信子へ可渡候哉のよし申ニ付、勝手次第ニすべき旨申示し、重信方へ持参候よし也。先月十七日、重信    へかし候、酔芙蓉一冊、さいそくいたし、請取、此方へ届くれ候様、右使ぇ申ふくめ、(以下略)〟      〝渥美覚重来ル。(中略)去年十月二日かし置候陳洪綬水滸百八人の画像うら打いたし、巻物にしてかへさる〟
     水滸百八人画像臨本 / 陳洪綬 画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)      〈巻末の馬琴識語に〝明陳洪綬画水滸百八有像、此間好事者相喜而伝写、文化二年、余編訳水滸伝、因使画工北斎弟子某摸写者即     是已、可憾拙工喪原摸面目為不尠矣、且若其名号亦誤写多有、頃者曝書之間、披閲遂校正畢 著作堂老人〟とある。文化二年(1     805)の『新編水滸画伝』を編訳したとき、北斎の弟子・某に模写させものという〉    ◯ 十月十二日『馬琴日記』第四巻 ④221   〝土岐村元立より使札。過日、宗伯へ預おかれ候宮川長春画かけ物、取に来る。則、右かけ物使ぇわたし遣す〟      ◯ 十月十五日『馬琴日記』第四巻 ④223   〝土岐村老尼来る。過日、元立頼候宮川長春考証の催促せらる〟    ◯ 十月十七日『馬琴日記』第四巻 ④224   〝八犬伝九輯、ふくろ・外題・表紙もやう写本出来、見せらる。表紙もやう重信画キ様、不宜候ニ付、尚又、    くはしき注文書そえ、此分画き直させ候様、右手代へ示談いたし、その外は宜候間、筆工金兵衛方へ持参い    たし候様申聞、右不残、わたし遣ス〟      ◯ 十月十八日『馬琴日記』第四巻 ④225   〝榊原李部家臣田中源治事、雪丸来訪。予、対面。同藩牧野新右衛門、享保十三年七十算賀之時、志賀随応歌    かけ物携来て見せらる。右新右衛門孫某書付ニ、随翁年百七十餘と有之。しかれども、随応自筆ニハ、百有    餘歳としるす事、例のごとし。同人懇友梅丸、来訪願候よし、紹介致さる〟    〈墨川亭雪丸は文政十年、十一年に志賀随翁の書簡などを持参していたが、今度は古稀の祝の歌の掛け軸を持参した〉    ◯ 十月 廿日『馬琴日記』第四巻 ④227   〝田中源治事、墨川亭雪丸より使札。過日被約束候、しりうごとといふ印本三冊、被貸之。右受取、回報遣す〟    〈「しりうごと」とは正式には『【皇朝学者妙々奇談】しりうごと』(天保三年序)。当時の国学者に対して「後言(しりうごと)」     つまり批判を加えた書。小山田与清や石川雅望などが槍玉にあがっている〉    ◯ 十月二十日 馬琴宛・墨川亭雪麻呂(『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-来42)⑥42   〝(上略)其節御約束仕候『志里宇ごと』三巻、為持上候。御噺申上候通、梅丸子蔵書に御座候間、随分緩々    を御留置、御一覧可成候。(下略)      神無月廿日       曲亭老先生          墨川亭雪麻呂    〈『志里宇ごと』は「皇朝学者妙々奇談」という角書きをもつ『しりうごと』(天保三年刊)。国学者への「しりうごと(悪口・     陰口)」を連ねたもので、平田篤胤、石川雅望、屋代弘賢などがやり玉にあがっている。『しりうごと』をもたらした墨川亭雪     麻呂とは、馬琴は文政十年に渓斎英泉の紹介で面会して以来、交渉があった。七月二十一日付、殿村篠斎宛書簡(番号49)によ     ると、前年春、雪麻呂は自作の読本『濡燕栖傘雨談』の序文を馬琴に依頼しに来訪したことがあった。馬琴は他作に序文はしな     いという方針を伝え断っている。『濡燕栖傘雨談』は二代重信の画で天保七年(1836)の刊行。梅丸なる人は未詳〉       ◯ 十月廿一日『馬琴日記』第四巻 ④227   〝根岸鈴木左源次事、画工柳川重信より使札。漬菜廿四把、被贈之〟
  〝(丁子屋へ)しりうごと・妙々奇談等本穿鑿いたし、江戸繁盛記共、差越くれ候様、たのミおく〟     〝大嶋右源二来ル。予、対面。作者部類一・二両冊、写し出来。原本、外ニかし置候蔵本とも、両様、被返之〟    〈伊勢松坂の小津桂窓から依頼された「作者部類」写本二冊が出来あがった。『妙々奇談』は二十三日記事参照。『江戸繁盛記』     (寺門静軒著)は天保三年(1832)から刊行されている〉     ◯ 十月廿二日『馬琴日記』第四巻 ④228   〝いせ松坂との村・小津へ遣し候江戸作者部類四冊の内、校訂残り二冊、校之。    〈殿村の二冊は既に校訂済み、前日出来上がってきた小津の分二冊の校訂にとりかかる〉    ◯ 十月廿三日『馬琴日記』第四巻 ④229   〝作者部類追加之文、四通り、手前蔵書・松坂の分二通り・黙老へ遣し之分とも、四通り也。今夕五時過、か    き入畢。夫より、妙々奇談後編上冊・江戸繁記(ママ)二編浴室一段、披閲〟    〈「作者部類」の追加文を、馬琴の手許にある四通りの写本、すなわち馬琴所蔵本・松坂の殿村と小津所蔵本・木村黙老所蔵本に     付け加えたのである。『妙々奇談』は漢学者のあら探しをしてあげつらったもの、文政二年、周滑平著。これは文化十二年の学     者番付騒動に誘因されて生まれたもので、馬琴の関係では谷文晁が謗られいる。十月廿日記事に出てきた『しりうごと』はこの     余波である。ともに「日本随筆大成第三期」十一巻に入っている。本HPでは「浮世絵師総覧」と「日本随筆大成第三期」の文     晁の項目に引用している。馬琴の『妙々奇談』に対する感想は十一月五日の日記にあり「抱腹ニ不堪、冗籍也」と歯牙にもかけ     なかった〉    ◯ 十月廿四日 ④230   〝木村黙老より使札。過日被申越候衆鱗(ママ)図一冊製本出来のよしニて、被貸之。(中略)尚又、お国かぶ伎    図・寛文中俳優図、借覧いたし度よし、被申越候間、右二巻、箱入のまゝ、かし遣ス。此幸便ニ、板倉筆記    ・随得抄録三冊の内、二冊返却ス。并ニ、江戸作者部類の内、追加の分、別紙ニしるし、遣之。彼人の写本    へかき入レ(一字ムシ)せん為也〟    〈このころ馬琴と木村黙老は互いに所蔵する書画の貸借を頻繁に行っている。〉    ◯ 十月廿六日『馬琴日記』第四巻 ④232   〝(馬琴、眼病悪化、細書きが不可能になったため、板元・泉屋市兵衛に合巻『新編金瓶梅』の継続断念を伝    える)然ども、既に表紙外題ほり出来、今日持参仕候処、今さら難儀ニ及び候旨、達而被頼之。去年、此下    帙分潤筆、請取置候ニ付、強ても断がたく、左候ハヾ、筆工ハ、別紙ニ大字ニ書候て可然間、出来の画稿十    丁ハ、画工国貞へ遣し画せ候様、申談じ候処、とびら稿本、明日迄ニ願候よし申ニ付、いづれ明廿七日昼時、    人差越し候様、示談いたし、彫刻出来の外題あづかりおく〟    ◯ 十一月 朔日『馬琴日記』第四巻 ④237   〝(伊勢松坂の殿村・小津宛書状とともに)作者部類二本四冊、外ニ黙老俠客伝三集評一冊(を送る)〟         ◯ 十一月 朔日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第三巻・書翰番号-55)   ◇ ③240   〝かねて得貴意候『江戸作者部類』、大字の方ニて弐本写させ候。八月下旬より、筆工ニわたし置候処、筆工    方故障出来のよしニて及延引、先月中旬、やうやく不残写し終り候。多用中ニハ御座候へども、そのまゝ上    候てハ、誤写心もとなく候間、四冊不残校合いたし候処、果して少々悞写有之候間、白墨ニてぬり直し、補    ひ候故、四冊の校合ニ四日のいとまを費し申候〟    〈大字本の写本『近世物之本江戸作者部類』二巻二冊、篠斎と桂窓の分、計四冊の校合がやっと終わったという連絡〉       〝右『部類』、来春書つぎ候事、心もとなくぞ候。もし初春も引つゞき、『八犬伝』稿し(破損箇所)ニ中休    ミの節、戯作者の部のミ、二冊ばかりも綴りたく、今より心がけ候事ニ御座候。其折ハ、稿本ニて御目にか    け候て、御両君の御校正をうけ、遺漏無之様ニいたし度奉存候〟    〈「作者部類」を来春から再開しょうというのだが、「戯作者の部のミ二冊ばかり綴りたく」と、予定していた浄瑠璃本作者や画     工や筆工や彫工の方まで、取りあげるいとまがなくなっていた。そして結局のところ、戯作者の部を書き足すことさえ断念する     ことになるのである〉        ◇ ③249   〝画工雪旦ハ老人の事ニて、近頃病死いたし候。雪旦子息、細画をよく致し候故、不足の分画せ候よしニ御座    候。右名所図中、めぐろ比翼塚抔、遺漏多く、且町名抔ニ、あやまりも往々有之とて、わろく申候ものも多    く候へども、本ハ追々捌候故、板元三匁直上ゲいたし、今以下ゲ不申よし、平兵衛噂ニ御座候〟    〈雪旦病死は不審。天保七年(1846)八月十四日の馬琴古稀の賀会に長谷川雪旦は出席している。(『馬琴書翰集成』巻四参照)当     時そんな噂でも流れたのであろうか。雪旦は天保十四年(1843)一月二十八日没、享年六十六。雪旦子息は雪堤〉    ◯ 十一月 五日『馬琴日記』第四巻 ④239   〝妙々奇談前編二冊披閲ス。抱腹ニ不堪、冗籍也〟    ◯ 十一月 九日『馬琴日記』第四巻 ④243   〝芝いづみや市兵衛より、手代を以、金瓶梅三集の下、さし画十丁、国貞より出来のよしニて、被差越。然れ    ども、此方案文、不出来候ニ付、出来次第、筆工金兵衛へ可遣旨、并ニ、われ眼病とかく不宜、夜分并ニく    もる日は、一向筆とりかね候趣等、あらまし申遣ス〟    ◯ 十一月十五日『馬琴日記』第四巻 ④248   〝いづみや市兵衛来ル(中略)金瓶梅稿本、折あしく打身等ニて、出来かね候間、当暮出板の間に合(ママ)、き    のどくニ存候へども、しばらく用捨いたし、来冬出板のつもりニいたし可然旨、委曲示談。(中略)并に過    日、国貞より出来の金瓶梅の画ハ、国貞筆に書候も、門人代画なるべく存候事抔、件々示談。泉市、大ニ望    を失ひ、帰去〟    ◯ 十一月十六日『馬琴日記』第四巻 ④249   〝丁子やより、手代使ヲ以、俠客伝校合乞ニ来ル。右之者、根岸重信方へ罷越候よしニて帰去〟    ◯ 十二月 六日『馬琴日記』第四巻 ④263   〝金瓶梅三集の下八の巻、画わり五丁、稿之。是ハ画工国貞へ可遣ため、又一通り正稿の画わりハ未出来〟    〈十一月十五日の記事では、馬琴、『新編金瓶梅』の出版を、眼病のため、今年の暮れから来年冬に延期したい旨伝えて、板元・     泉市を大いに落胆させたのだが、その後働きかけが功を奏したか、原稿の執筆が引き続いている〉      ◯ 十二月十一日『馬琴日記』第四巻 ④266   〝金瓶梅三集下、七之巻画写本五丁、国貞より出来、則、請取、右筆工かき入稿本、明日ハ出来候間、筆工金    兵衛ぇ可遣旨、予、直ニ及示談〟    ◯ 十二月十四日『馬琴日記』第四巻 ④268   〝芝泉市より、手代来ル。金瓶梅三集の下、八の巻画写本、国貞より、今夕出来のよしニて、持参〟    ◯ 十二月 廿日『馬琴日記』第四巻 ④276   〝(土岐村)元立取次、同人地主(大番与力某)頼之宮川長春略譜一通、今日出来に付、元立方へ手簡差添、    右一封にいたし、清右衛門を以、元立方へ遣之〟   〈十月九日記事の「長春略伝」がこの「宮川長春略譜」に相当するのだろうが、内容は未詳〉    ◯ 十二月廿二日 ④277   〝いづミや市兵衛来ル。予、対面。金瓶梅三集の下、四冊まし潤筆、金弐両持参。被渡之。外ニ、同書第四集    八冊潤筆前金八両持参、請取置くれ候様、被申し越。前金之義ハ、万一著述、及延引候節、不宜候間、請取    がたき旨、しば/\辞するといへども、遅速ハ不苦候間、為安心、何分請取くれ候様、被申候間、無是非、    都合金拾両、請取畢〟    〈結局『新編金瓶梅』は、馬琴作・国貞画の組み合わせで、来年の四集はもちろん、その後もほぼ毎年出版され、第十集の弘化     四年まで続くことになるのである〉