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『滝沢家訪問往来人名録』
(ここでは『翻刻滝沢家訪問往来人名録』(柴田光彦編)から浮世絵師等に関するデータを抽出した)
☆ いちが 一峨
◯『滝沢家訪問往来人名録』 下128(天保七年八月七日)
同(丙申(天保七年)八月七日)両国薬研堀 画工 一峨
<鳥取県立博物館 山下 真由美「沖一峨における画風の多様性について」江戸時代後期に江戸の地で活
躍した沖一峨(1796〜1861)は、鳥取藩の御抱え絵師として知られる。一峨は鍛冶橋狩野家の門人で
ありながら、狩野派のみならず、琳派・やまと絵・写生派・文人画など多様な画風を示す作品を多く遺
している=
☆ うたまさ ほくてい 北亭 歌政
◯『滝沢家訪問往来人名録』 上p41(享和二年)
名古屋 北亭歌政ト号 画家 牧登様
〈牧墨僊。歌政初代〉
☆ えいせん けいさい 渓斎 英泉
◯『滝沢家訪問往来人名録』 下p119(文政十二年)
己丑(文政十二年)三月廿一日類焼ニ付 当分芝浜松町三町め家主伊兵衛方同居 画工英泉
同(己丑)四月ヨリ 根津七軒町自身番隣家主利介 画工英泉
(翻刻者・柴田光彦注記森銑三「著作堂を訪うた人々」(昭和九年一月)によれば巻頭に英泉の短簡、
「大坂中屋伊三郎より細工人銅板摺煙草入地此度新製仕候よし、昨日到来仕候に付、御慰に奉御覧ニ入
候。御一笑可被下候、以上。英泉、上」の一通が貼付されているとあるが、今は亡佚してない@R)
☆ がくてい 岳亭
◯『滝沢家訪問往来人名録』 下p113(文政六年正月)
同月(癸未・文政六年)同道初入来
八丁堀 未ノ夏より人形町田所町西例(ママ) 画工楽亭
酉(文政八)ノ年ヨリ小田原町内ぇ転宅のよし
〈この楽亭を岳亭の誤記とみて、とりあえず収録した。「同道」とあるのは前項にある癸未正月廿日入来 小船町廻船問
屋小林氏隠居舎弟 三枝屋勘次郎≠ニある人か〉
☆ くにはま うたがわ 歌川 国濱
◯『滝沢家訪問往来人名録』 下p128(文政七年八月七日)
同(丙申(文政七年)八月七日)神田明神下御台所町 御小人目付也 実名未詳 画名 歌川国濱
〈『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」に歌川国濱は見えない〉
☆ くにまる 国丸
◯『滝沢家訪問往来人名録』 上p59(文化十二年)
日本橋通四丁め橋より左り側木戸より三けんめ 国丸
〈この国丸を歌川国丸と見た〉
☆ くにやす うたがわ 歌川 国安
◯『滝沢家訪問往来人名録』 下p121(文政十三年記事)
己丑(文政十二年)三月類焼後同年夏ヨリ 深川扇橋冨川町百軒長屋 画工 歌川国安
☆ さだかつ うたがわ 歌川 貞勝
◯『滝沢家訪問往来人名録』 下p114(文政七年二月二十七日)
甲申(文政七年)二月廿六日初来訪他行中ニ付不逢 廿七日再来対面ス 水道橋内石河甲斐守殿家臣
国貞弟子のよし 鈴木長次郎 画名 貞勝
☆ さだひで うたがわ 歌川 貞秀
◯『滝沢家訪問往来人名録』 下123(天保四年九月五日)
同(癸巳・天保四年)九月五日 鶴屋喜右衛門同道ニて初テ来訪 亀井戸 画工 歌川貞秀
◯『滝沢家訪問往来人名録』 下131(天保十年五月十五日)
己亥(天保十年)五月十五日初来 亀井戸国貞隣家 歌川貞秀
〈この二つの記事、同人と思うのだが、ともに初て来訪とあるのは不審〉
☆ しげのぶ やながわ 柳川 重信 二代
◯『滝沢家訪問往来人名録』 下p125(天保六年四月頃)
前々より相識 根岸中村御玄関番鈴木忠次郎養子重信婿養嗣 鈴木佐源次事 二代目 柳川重信
〈初代重信が根岸中村住の鈴木忠次カの養子であること、そして二代目がやはり初代重信の養子であることが分かる〉
☆ しゅんぎょうさい はやみ 速水 春暁斎
◯『滝沢家訪問往来人名録』 上p43(享和二年)
享和二年戌より 京都 室町四条下ル鶏鉾町 画家 速水春暁斎殿
〈馬琴が名古屋・京・大坂方面を旅行したのは享和二年五月九日〜八月二十四日〉
☆ しんさい りゅうりゅうきょ 柳々居 辰斎
◯『滝沢家訪問往来人名録』 上p52(文化七年三月十八日)
庚午(文化七年)春処々発会覚 三月十八日 両国河内や 辰斎
〈出席を示す◯印がないから、辰斎の画会には出席していない〉
☆ せっけい くすもと 楠本 雪渓
◯『滝沢家訪問往来人名録』 下p130(天保九年十月十一日)
戊戌(天保九年)冬十月十一日 太郎入門 覚重同道紹介 市谷本村町藤州御画師宋紫石跡 楠本雪
渓 同万里
〈この楠本雪渓は宋紫岡。初代雪渓・宋紫石の孫で二代雪渓・宋紫山の子。嘉永三年(1850)没。画風は沈南蘋派で花鳥画を
得意とした。尾張藩の御用絵師。太郎は馬琴の孫。父親は宗伯だが、天保六年に亡くなっていた。覚重は馬琴の女婿で絵
師でもある渥見覚重(画名・赫州)。覚重は宋紫岡の父である宋紫山に画を習ったのかもしれない。市谷本村町藤州御
画師≠フ「藤州」は不審。「尾州」の間違いではないのか。尾張藩邸(戸山屋敷)は市谷にあったからだ〉
☆ せったん はせがわ 長谷川 雪旦
◯『滝沢家訪問往来人名録』
◇上p58(文化十一年)
本郷六丁め伊豆蔵先よこ町日かけ町 絵師 長谷川雪旦
◇下128(天保七年八月七日)
同(丙申(天保七年)八月七日)右同所(下谷三枚橋辺)長谷川雪旦
☆ せんきつ 仙橘
◯『滝沢家訪問往来人名録』 下p117(文政十年九月四日)
丁亥(文政十年)九月四日初テ来ル 山下御門外筑波町河岸通り紺屋ト酒やの間の裏ニて 筆工書
本屋 丸屋吉右衛門 弟 仙橘
〈馬琴の日記には専ら筆工として出てくる。渓斎英泉の『無名翁随筆』には、英泉門人・紫領斎泉橘中本多ク、画作ヲ出
セリ≠ニある〉
☆ たいと かつしか 葛飾 戴斗 二代
◯『滝沢家訪問往来人名録』
◇下121(文政十三年六月二十日)
庚寅(文政十三年))六月廿日地主杉浦より紹介 大暑中ニ付未面 麹町天神前京極飛騨守殿家臣
北斎門人之よし 近藤伴右衛門 画名 葛飾戴斗
◇下123(天保四年十一月六日)
巳(天保四年)十一月六日 口状書持参 是より前杉浦氏継母紹介ス来面 麹町天神前 京極飛騨守殿
家臣 画名後ノ北斎戴斗 近藤伴右衛門
☆ ちはる たかしま 高島 千春
◯『滝沢家訪問往来人名録』 上p60(文化十三年十月二十四日)
京都不知仁也 子(文化十三年)十月廿四日来不逢 高島千春
〈高島千春の江戸移住はこの年・文化十三年の四月。半年ほどして馬琴を訪ねたのであるが、会えなかった。馬琴は、確か
な紹介者がいれば別だが、原則として未知の人には会おうとしなかった〉
☆ とよひろ うたがわ 歌川 豊広
◯『滝沢家訪問往来人名録』 上p48(享和三年頃?)
当時類焼ニ付 西久保【あたこのうしろ 天とく寺先 光明寺の先】泉光寺門番同居 今芝片門前町
豊広
☆ なんめい はるき 春木 南溟
◯『滝沢家訪問往来人名録』 下p127(天保七年七月二十六日)
右同断(丙申(天保七)年)同廿六日訪之
築地増山河内守殿家中 唐画師 南溟
〈春木南溟の父は南湖。春木南湖は『東京掃苔録』に谷文晁と天下の二老と称される≠ニある〉
☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重
◯『滝沢家訪問往来人名録』 下121(文政十三年閏三月七日)
庚寅(文政十三年)閏三月七日来訪 八重洲河岸火消同心隠居安藤鉄蔵事 古人豊広門人 画工広重
☆ ぶせい きた 喜多 武清
◯『滝沢家訪問往来人名録』 上p52(文化七年二月二日)
庚午(文化七年)春処々発会覚 ◯印ハ出席 ◯二月二日画会 百川楼 喜多武清
〈日本橋浮世小路にあった高級料亭・百川楼を会場とした喜多武清の画会。馬琴は出席した〉
☆ ぶんちょう たに 谷 文晁
◯『滝沢家訪問往来人名録』 上p52(文化七年正月十二日)
(庚午(文化七年)春処々発会覚 ◯印ハ出席)◯正月十二日 居宅 文晁
〈下谷の文晁宅で行われた発会。馬琴は出席〉
☆ ほくさい かつしか 葛飾 北斎
◯『滝沢家訪問往来人名録』 上p52(文化七年正月十六日)
庚午(文化七年)春処々発会覚 ◯印ハ出席 ◯正月十六日 両国三河や 北斎
〈両国三河屋での北斎画会。馬琴は出席〉
☆ ほくば ていさい 蹄斎 北馬
◯『滝沢家訪問往来人名録』
◇上p46(享和三年頃?)
下谷ミすち町 北馬子事 有坂五郎八殿
◇上p52(文化七年二月十二日)
庚午(文化七年)春処々発会覚 ◯印ハ出席 ◯ 二月十二日【浅草巴や】北馬 小河町火消やしき
ニて 脇田半右衛門
〈「小河町火消やしきニて 脇田半右衛門」は貼紙から誤って混入したもの。浅草巴屋において行われた北馬の画会。馬琴
は出席した〉
◇下p128(天保七年八月七日)
同(丙申(天保七年)八月七日)同所(下谷、山本緑陰)隣家 蹄斎北馬
☆ ほっけい ととや 魚屋 北渓
◯『滝沢家訪問往来人名録』
◇下p119(文政十二年四月二十九日)
己丑(文政十二年)四月廿九日初来訪 赤坂溜池上桐畑町ニて黒田様前町也 一名麻布職匠町ト云
画工北渓
◇下p120
赤坂溜池桐畑町 画工 北渓
☆ ゆきまる ぼくせんてい 墨川亭 雪麿
◯『滝沢家訪問往来人名録』 下p117(文政十年十月十一日)
丁亥(文政十年)十月十一日初入来英泉紹介 榊原遠江守殿家臣湯嶋七軒町(上)中やしきに在り 雪
麿事 田中源治
(貼紙)
口上 雪麿
先達而画工英泉御宅ぇ罷出候節 御話申上候志賀随翁の手紙為御一覧持参仕候 己(ママ)上
(貼紙・馬琴筆)
随翁手帋伝来 牧野新左衛門ひまご 當時 牧野新介
同 持主ハ 岡嶋但見
榊原遠江守殿家臣 雪丸事 田中源治
〈通常、馬琴は未知の人には面会をしないが、雪麿には英泉の紹介があった。ただ馬琴が英泉を通して雪麿に面会を許した
のは、雪麿に興味があったというより、雪麿が仲介できる志賀随翁の真跡に関心があったからだと思われる。英泉は馬琴
の興味関心のアンテナ役を果たしたのである〉