Top 浮世絵文献資料館 曲亭馬琴Top
「曲亭馬琴資料」「文政十年(1827)」
◯ 正月廿七日『馬琴日記』第一巻 ①39
〝日本橋名張や竹芳・尾張町英泉・芝神明前泉市、片門前豊広・かゞ町ミのや甚三郎・すきやがし真顔方
へ、為年始祝儀として(ママ)罷越候処、甚三郎・真顔は他行のよし、泉市も同断、(以下略)〟
〈この日、年始と祝儀のために廻ったのは、浮世絵師の渓斎英泉・歌川豊広、狂歌師の鹿津部真顔、板元
の和泉屋市兵衛、美濃屋甚三郎。名張屋竹芳は未詳。馬琴はこの春、読本『南総里見八見伝』六輯(板
元・美濃屋)と合巻『金毘羅船利生纜』四編(板元・泉市)を英泉の挿画で、読本『朝夷巡島記』六編
(板元・須原屋茂兵衛)を豊広画で出版していた〉
◯ 二月 三日『馬琴日記』第一巻 ①42
〝端午のかけ物画稿あやめ兜の図、画之。昼時、稿し了る〟
◯ 二月 九日『馬琴日記』第一巻 ①45
〝宗伯ヲ以、尾張町英泉方へ、端午かけ物料あやめ兜の図画稿壱枚、うら打唐紙、并ニ絵の具代等、もた
せ遣ス。八時比出宅、薄暮帰宅。但、武具訓蒙図会一ノ巻、英泉へかし遣ス〟
〈宗伯は嫡男。馬琴は英泉に端午の節句用掛軸「あやめ兜」の絵を依頼したのである。『武具訓蒙図会』に拠
って兜の図柄を指示したものであろうか。『武具訓蒙図会』は未詳。あるいは貞享元(1684)年・湯浅得之
編『武具訓蒙図彙』のことであろうか〉
◯ 二月十六日『馬琴日記』第一巻 ①49
〝(宗伯)尾張(ママ)英泉方へ罷越、あやめ兜の絵之事申談じ〟
◯ 三月 四日『馬琴日記』第一巻 ①62
〝本庄松坂丁平林文次郎、嶋岡権六同道ニて、来訪。年始祝儀のおくれ也。平林ハ、如例、肴代百疋持参。
予、風邪ニ付、不逢〟
〈本所松坂町には馬琴作・北斎画『椿説弓張月』の板元・平林庄五郎がある。文次郎はその縁者か。嶋岡
権六は馬琴の門人、節亭琴驢(岡山鳥)〉
◯ 三月 十日『馬琴日記』第一巻 ①65
〝(土御門殿訪問の帰路)渡辺登・田口久吾方へも立寄〟
〈渡辺登が崋山。馬琴の嫡子宗伯と同じく画家金子金陵の門人。その縁で馬琴とも親しい。馬琴が山王社地内に陰陽師
・土御門(春親か)を訪問したのは、六日に使者を以て、新著の目録を求められていたからである。十二日には『南
総里見八犬伝』六編の校本と『傾城水滸伝』三編の稿本を貸し出している。田口久吾は未詳〉
〈2010年1月4日、田口久吾の御子孫・田口重久氏からメールをいただきました。それによりますと、馬琴の妹きく(菊)
が田口久吾の妻であった由。つまり田口久吾(田口重久氏は田口久吾精一と記す)は馬琴の義弟ということになる。
田口家は九段の俎橋付近の堀留に住居し、家紋は剣梅鉢。菩提寺は白山の梅栄山竜泉寺とのことでした。以上追記し、
併せてご示教くださった田口重久氏にお礼申し上げます〉
〈2010年1月23・24日、田口重久氏から連絡があり、精一は久吾の実子であるから上記の「田口久吾精一」を「田口久吾」
に訂正してほしいとのことでした。また、田口家には久吾が二人おり、馬琴の妹・菊を妻に迎えたのが久吾政勝、そし
てその二人の間に生まれたのが久吾政重の由です。家系図によりますと、久吾政勝の没年は1815年とありますから文化
十二年、菊のほうは推定で1837?とありますから天保八年頃です。すると文政十年(1827)の時点では、菊女は存命中だ
が、義弟政勝のほうは既に鬼籍に入っていたわけで、田口家は久吾政重の代になっていたことになります。なお、久吾
政重は天保12年5月没 (1841)。そしてその実子精一は明治31年7月没 (1898)の由です。以上重ねてのご示教、感謝申し
上げます〉
◯ 三月十一日『馬琴日記』第一巻 ①65
〝画工国丸来ル。右ハ、来ル廿日、両国万八楼ニて書画会致し候ニ付、出席たのミ、口上申おき、六哥仙
すり物壱枚さしおき、帰去〟
〈三月二十日の記事参照。馬琴は宗伯を代理に立て歌川国丸の書画会に出席させている〉
◯ 三月十三日『馬琴日記』第一巻 ①67
〝画工岳亭来ル。予、対面。近日上京のよしニて、扇面五本染筆たのまれ、燈下ニ認、遣之。且、去年中
被頼候嶋の勘十郎の伝、認置候分、遣之。甚長談義にて、四時過帰去〟
〈岳亭は岳亭春信(のち定岡〉。『原色浮世絵大百科事典』第二巻は岳亭の上京を文政一年~三年(1818
~20)および天保二年~三年(1831~32)とするが、文政十年(1827)の上京もあったことになる。出
発は三月二十一日であった。八島五岳(岳亭)編『百家琦行伝』(天保六年自序)所収の「嶋の勘十郎」
の伝記は馬琴の原稿に拠ったのである〉
◯ 三月十六日『馬琴日記』第一巻 ①69
〝今日、文晁も(山王社地土御門家旅宿へ)被招候而、文二同道、席画有之候よし也〟
〈谷文晁、文二父子が土御門(春親か)の山王社内宿舎に招かれておこなった席画である〉
◯ 三月廿日『馬琴日記』第一巻 ①71
〝(宗伯)両国柳橋万八楼国丸書画会ニ罷越、夕(ムシ二字不明)時比、帰宅〟
◯ 三月廿一日『馬琴日記』第一巻 ①72
〝画工岳亭来ル。上京、今日只今より発足のよし。過日約束之たんざく十五枚、認くれ候様、被申之。即
座に染筆。奇応丸包一、為餞別、遣之。早々帰去〟
◯ 三月廿二日『馬琴日記』第一巻 ①73
〝画工英泉来ル、二月中たのミ置候あやめ兜の画本出来、持参。且、国貞雑(ムシ二字不明)之事、勧解
被申述。右之意味合、予も申述おく。其後、帰去〟
〝画工国貞来ル。右ハ、国貞忰孝貞名弘書画会、来る(ムシ二字不明)日万八にて催候よし、すり物持参。
宗伯罷出、挨拶いたし、廿七日ハ無(ムシ二字不明)ムキ有之ニ付、出席いたしがたき旨、断おく。
(ムシ二字不明)帰去〟
〈歌川国貞の忰、孝貞の名弘書画会は文政十(1827)年三月二十七日、両国柳橋万八楼での開催であった。
馬琴は英泉には直接会っているが、国貞とは対面していない。自ら注文したものを受け取るのと、相手の
依頼を受けるとの違いなのかもしれないが、〉
◯ 三月廿七日『馬琴日記』第一巻 ①76
〝多七ヲ以、国貞忰孝貞名弘会祝儀一包、両国万八方へもたせ遣ス〟
〈三月廿二日記事にあるように、馬琴、宗伯父子は出席せず。祝儀を送り届けている。多七は未詳、日雇
人足か〉
◯ 四月廿三日『馬琴日記』第一巻 ①91
〝杉浦清太郎、無拠方より被頼候よしニて、春画折本持参、賛たのミ候旨、被申之。宗伯、対面。右春画
類ハ、壮年より手にとり候事も無之、況、賛抔之義ハかたく御断申候旨、及断〟
〈謹厳剛直な馬琴に相応しいエピソードである。拠んどころない方の依頼とあるが、馬琴に春画の賛を頼
むとは見当違いなのか、それとも逆に希少価値を狙ったものか。兎園会の会員である大郷信斎は、翌文
政十一年の春、次のような記事を書いている。〝新板の春画 寛政年間、白川拾遺執政の時は、厳しく
春画の類を禁ぜらる。之に依り都下に売者なし。三十余年を経て、いつしか其禁ゆるみけるにや、近世
年毎に増長し、大小の錦画はいふに及ばず、今春抔は、別紙の如き新奇の摺物、画本流行す〟(『道聴
塗説』第廿三編『鼠璞十種』中巻所収)禁制の緩みが馬琴に及んだというべきか〉
◯ 五月 五日『馬琴日記』第一巻 ①100
〝覚重たのミの大雅堂書画真偽鑑定の為、文晁方へも出がけに立寄候積りニ出宅。不及其義、八半時比帰
宅〟
〈覚重とは馬琴の女婿、渥美覚重。画号赫州。馬琴宅の杉戸絵を画いたり馬琴の依頼で古書画の模写を行
っている。戸田因幡守の家臣。大雅堂の書画には贋作も多いとされる。馬琴は谷文晁の鑑定眼を高く買
っているのだろう〉
◯ 五月十二日『馬琴日記』第一巻 ①104
〝西村屋与八より使礼。過日約束いたし候合巻稿本二冊、国貞方よりとりかへし、被差越之。請取、返書
遣之〟
〈この西村屋与八板、合巻稿本とは何であろうか。国貞の許にある馬琴自身の稿本を取り戻すというので
あるから、国貞は挿絵をまだ画いていなのだろう。馬琴はその続きを執筆するために稿本を取り戻した
のであろうか〉
◯ 六月十一日『馬琴日記』第一巻 ①119
〝今日、五雲箋百枚、おみちへ遣ス。是は英泉よりおくられしもの也〟
〈五雲箋は最高級の雁皮紙。おみちは後に失明する馬琴の代筆をした嫡男宗伯の妻の路(みち)。この三
月二十七日に結婚式をあげたばかりである〉
◯ 閏六月廿日『馬琴日記』第一巻 ①138
〝英泉来ル。時候見舞也。無程帰去〟
(閏六月十七日、以下九月廿三日まで、宗伯代筆)
◯ 閏六月廿一日『馬琴日記』第一巻 ①138
〝いづみや市兵衛、御病中為見舞、切酢片木折持参。今日、英泉方にて御病気之趣承り候由、申之〟
◯ 七月十六日『馬琴日記』第一巻 ①152
〝昨日関より指越候朱子墨本之代三匁、并ニ、売残り候朱子墨本三枚、大雅堂之山水壱枚、預り置候画、
覚重ぇ、今夜、不残渡シ了〟
〈関とは関忠蔵か。覚重は渥美覚重。五月五日、大雅堂の真贋鑑定を頼みに来た人である〉
◯ 八月 六日『馬琴日記』第一巻 ①170
(馬琴、明日の床上の祝。病気見舞いに訪れた人々に対して赤飯による返礼の記事あり。浮世絵師として
は唯一英泉の名があがる。版元は『南総里見八犬伝』の美濃屋甚三郎と『金毘羅船利生纜』の泉屋市兵衛)
◯ 八月 十日『馬琴日記』第一巻 ①172
〝英泉来る。御床上げ為御祝儀、醤油切手持参〟
〈英泉の馬琴に対する病気見舞い等の心遣いは浮世絵師の中ではきわだっている〉
◯ 八月廿日『馬琴日記』第一巻 ①176
〝大坂屋半蔵来ル。昨日英泉方ぇ罷越、委細談候由。且、英泉ぇ貸被遣候石魂録前編持参、返ル〟
〈石魂録とは『松浦佐用媛石魂録』。前編は文化五(1808)年、歌川豊広画、板元鶴屋喜右衛門で刊行。
後編は来春文政十一(1828)年正月出版、英泉画、大坂屋半蔵はその板元である〉
◯ 九月 二日『馬琴日記』第一巻 ①182
〝蜀山人来ル。過日御床上ゲ之節遣候赤飯之礼也。大空武左衛門写真大図、被為見。渡辺登写候をすき写
候由。一枚写シ呉候様、被為成御頼。則、紙・画之具料として、南鐐壱片被遣之〟
〈「大空武左衛門写真大図」(渡辺崋山原画)の透き写しを持参したこの蜀山人は亀屋文宝。馬琴はその
文宝に南鐐一片(八分の一両)でさらに模写を頼んだのである。九月二十六日、文宝はこの模写を馬琴
に届けている。ところでこの図について、天保四年(1833)正月、馬琴自身は『兎園小説余録』の中で
次のように書き残している〉
「文政十年丁亥夏五月、江戸に来ぬる大男、大空武左衛門は、熊本侯の領分肥後州益城郡矢部庄田所村
なる農民の子也、今茲二十有五歳になりぬ、身の長左の如し、
一、身長七尺三分〔傍注、イ、寸〕 一、掌一尺
一、跖一尺一寸五分 一、身の重さ三十二貫目
一、衣類着丈け五尺一寸 一、身幅前九寸、後一尺、
一、袖一尺五寸五分 一、肩行二尺二寸五分
全身痩形にて頭小さく、帯より下いと長く見ゆ、右武左衛門は熊本老侯御供にて、当丁亥五月十一日、
江戸屋敷ぇ来着、当時巷街説には、牛をまたぎしにより、牛股と号するなどいへりしは、虚説也、大
空の号は、大坂にて相撲取等が願出しかば、侯より賜ふといふ、是実説也、武左衛門が父母并兄弟は、
尋常の身の長ヶ也とぞ、父は既に歿して、今は母のみあり、生来温柔にて小心也、力量はいまだため
し見たることなしといふ、右は同年の夏六月廿五日、亡友関東陽が柳河侯下谷の邸にて、武左衛門に
面話せし折、見聞のまに/\書つけたるを写すもの也、下に粘する武左衛門が指掌の図は、右の席上
にて紙に印したるを模写す、当時武左衛門が手形也とて、坊売の板せしもの両三枚ありしが、皆これ
とおなじからず、又、武左衛門が肖像の錦画数十種出たり、【手拭にも染出せしもの一二種あり】、
後には春画めきたる猥褻の画さへ摺出せしかば、その筋なる役人より、あなぐり禁じて、みだりがは
しきものならぬも、彼が姿絵は皆絶板せられにけり、当時人口に膾炙して、流行甚だしかりし事想像
(オモヒヤのルビ)るべし、しかれども武左衛門は、只故郷をのみ恋したひて、相撲取にならまく欲せず、
この故に、江戸に至ること久しからず、さらに侯に願ひまつりて、肥後の旧里にかへりゆきにき、
(手形の模写あり)
当時この武左衛門を、林祭酒の見そなはさんとて、八代洲河岸の第に招かせ給ひし折、吾友渡辺花山
もまゐりて、その席末にあり、則蘭鏡を照らして、武左衛門が全身を図したる画幅あり、亡友文宝携
来て予に観せしかば、予は又そを文宝に模写せしめて、一幅を蔵めたり、この肖像は蘭法により、二
面の水晶鏡を掛照らして、写したるものなれば、一毫も差錯あることなし、錦絵に搨り出せしは、似
ざるもの多かり、さばれ、件の肖像は、大幅なれば掛る処なし、今こそあれ、後々には、話柄になる
べきものにしあれば、その概略をしるすになん、(以下略)〟(『新燕石十種』⑥389)
この模写肖像の消息を尋ねていくと、天保三年(1832)十二月二十八日に「(宗伯、関忠蔵方を訪問)
五六年已前(二字ムシ)ニかし置候、大空武左衛門肖像大画幅とり戻し、かき入不被(三字ムシ)画ま
き一巻、ふくさともかり請」とあり、また、翌天保四年正月六日には「関氏より借用之巻物の内。大男
大空武左衛門身長等。兎園余録へ加入。謄写之畢」翌七日にも「旧臘見せられ候大男大空武左衛門画巻
物ふくさともに返却ス」とある。肉筆の大空武左衛門肖像には画幅の他に絵巻もあったようである。一
方巷間に出回った大空武左衛門の錦絵では歌川国安の絵が知られる。英泉の画をあげておく〉
「大空武左衞門肖像」 渡辺花山原画・亀屋文宝模写(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)
渓斎英泉画「大空武左衛門」Ⅰ 渓斎英泉画「大空武左衛門」Ⅱ(山口県立萩美術館・浦上記念館蔵)
◯ 九月 四日『馬琴日記』第一巻 ①183
〝英泉来ル。石魂録壱之巻さし画弐丁写本出来、持参〟
〝英泉近所之貸本屋弟ニて、筆工いたし候者有之、過日鶴喜申上候者ニ御座候。今明日中上り候間、御教
諭、御取立被成下候様、申之〟
〈石魂録とは『松浦佐用媛石魂録』後編。八月廿日参照〉
〝筆工仙吉来る。鰹節一連持参。被為遊御逢、書体一々御教諭、石魂録筆工被仰付候間、節句前後参り候
様、被仰遣〟
〈この仙吉(仙橘)は、八犬伝の第七輯の筆工に筑波仙橘、第八輯に墨田仙橘として出てくる。「滝沢家
訪問往来人名簿」に〝丁亥九月四日初テ来ル 山下御門外筑波町河岸通り紺屋ト酒やの間の裏ニて 筆
工書 本屋 丸屋吉右衛門 弟 仙橘〟とある。また天保四年(1833)成立の英泉著『無名翁随筆』
(別名『続浮世絵類考』)では〝渓斎英泉門人【俗称仙吉、向島、中本多ク、画作ヲ出セリ、筆耕ヲ業
トス】〟と出ている〉
◯ 九月四日『滝沢家訪問往来人名録』下p117
〝丁亥(文政十年)九月四日初テ来ル 山下御門外筑波町河岸通り紺屋ト酒やの間の裏ニて 筆工書 本
屋 丸屋吉右衛門 弟 仙橘〟
◯ 九月六日『馬琴日記』第一巻 ①184
〝山下御門外筑波町筆工仙橘、合巻手見せ持参。則、書かた御教諭。水滸伝五編五・六画写本弐冊、稿本
添、松浦佐用姫・石魂録後輯稿本二之巻、わく紙添、渡シ、草々認候様被仰付〟
◯ 九月七日『馬琴日記』第一巻 ①185
〝英泉使来ル。過日御約束御座候六樹園訳本排悶録三冊被見せ、銅板煙草入地壱枚、被恵。石魂録さし画
清水舞台之所不安(ママ)内、認兼候間、そのゝ雪拝借之事、頼来ル。則、二之巻壱冊、御貸被遣候〟
〈「六樹園訳本排悶録」とは、清人・孫洙著『排悶録』の原本に六樹園の訳と英泉画を加えた『通俗排悶
録』のこと。翌文政十一年、十二年に刊行される。また馬琴が英泉に貸しておいた「そのゝ雪」とは、
文化四年(1807)刊、馬琴作・北斎画の読本『標注そののゆき』。その板元は角丸屋甚助だったが、ト
ラブルが生じて、馬琴は以後この板元との関係を絶った経緯がある〉
◯ 九月 九日『馬琴日記』第一巻 ①186
〝英平吉来ル。所要は、御翻訳水滸伝、角丸屋より板買請、此節、摺掛候所、板木三十枚程不足ニ付、御
蔵本拝借、彫足シ度由。且、跡之所御翻訳被成下候様、申之。御逢有之、水滸伝二編御貸被遣候〟
〈「御翻訳水滸伝」とは読本『新編水滸画伝』(北斎画、初編上帙・文化二(1805)年刊、同下帙・文化
四年刊)。馬琴はこの出版後、角丸屋とは絶交したため、二編以降の出版は中断状態にあった。英平吉
は角丸屋から板木を買って、再版と二編以下の刊行を企てたのである。しかし馬琴は翻訳を引き受けな
かった。結局、高井蘭山が後を受け、やはり北斎画で、翌十一年(1828)より天保九(1838)年まで逐
次刊行された〉
〝筆工仙橘来ル。傾城水滸伝五編五之巻筆耕出来、書そん有無、問ニ来ル〟
〈合巻『傾城水滸伝』五編の挿画は歌川国安が担当している〉
◯ 九月十一日『馬琴日記』第一巻 ①188
〝去年八月渡辺登ぇ貸候兎園冊、今ニ不返候故、今日御手紙御認、幸便次第人遣様被仰付、催促御手紙、
并、登より入御覧候耳食録、御返被為成候間、(清右衛門へ)両種被為遊御渡候〟
〈兎園冊は九月十三日参照。『耳食録』は清の怪談奇譚集〉
〝画工英泉使来ル。貸遣候そのゝ雪壱冊、返ル。并、石魂録壱之巻末之さし画瀬川采女打るゝ所壱丁、写
本出来、指越候所、人物大きく、不宜候故、認直し候様、返シ遣候〟
◯ 九月十三日『馬琴日記』第一巻 ①189
〝渡辺登より使来ル。兎園別集弐冊、去秋八月貸遣し候所、長々の沙汰無之、昨日、耳食録返シ、催促被
仰遣ニ付、今日、二冊被返、干菓子小折壱、被恵之〟
〈文政八年正月から十二月まで、馬琴は山崎美成、屋代弘賢ら同好諸子と月一回集まって、互いに奇事異
聞を披露し合う会合を持っていた。これを兎園会と称した。『兎園小説』はその記録であるが、渡辺華
山に貸し出した「別集」にはその他、馬琴と美成が絶交するに至った論争「けんどん争」(これは同年
三月の耽奇会が発端)などが収録されている〉
(九月廿四日以下、同月廿七日まで、馬琴自筆記)
◯ 九月廿六日『馬琴日記』第一巻 ①195
〝後の蜀山人来ル。過日頼ミ置候大男大空武左衛門肖像うつし出来、持参〟〈九月二日参照〉
(九月廿八日以下、十二月廿九日まで、宗伯代筆)
◯ 九月廿九日『馬琴日記』第一巻 ①197
〝筆耕書仙橘、石塊録弐之巻十九メ迄筆耕出来、持参。御逢、被為御請取〟
◯ 十月 五日『馬琴日記』第一巻 ①199
〝(「石魂録」の筆工仙橘)三之巻末之さし画直し出来、英泉より指上候趣、持参〟
〈この年以降、仙橘の起用が目立つようになる。もっとも天保三年五月二十七日付には〝仙吉は筆工もあ
しく、且、かのもの近来不届に付、遣はし候事好しからず候へ共、格別急ぎ候はゞ、仙吉へかけ合候様、
及示談〟とあり、八犬伝の筆耕に遅れが出て、板元から仙橘を起用したい旨の打診があったので、仕方
なく承知したが、馬琴の評価は否定的になっている〉
◯ 十月 六日『馬琴日記』第一巻 ①200
〝(飯田町の清右衛門へ、かねてより所望せし屏風貼交ぜ用書画を遣わす)短冊三枚・屋代氏書壱枚・外
山修理権太夫光施卿染筆大色紙紙壱枚・椒芽田楽画曽我五郎少将之図壱枚・琴嶺画信州名産海老之図壱
枚・同駱駝図壱枚・冠山侯之書一行物壱枚・波響画鱒図壱枚・地紙布袋画壱枚・菊盟之書地紙弐枚・
素絢之画扇子壱本・国貞国丸国直寄合書之扇子壱本、合て十五種なり〟
〈屋代氏は屋代弘賢であろうか。外山光施の書。椒芽田楽は名古屋の戯作者で馬琴門人。馬琴の『近世物
之本江戸作者部類』「赤本作者部」には〝尾州名護屋の藪医師にて神谷剛甫といふものなり〟とある。
琴嶺は馬琴の長子宗伯の画号。他に、池田冠山の書、蠣崎波響の画、山口素絢の画、そして国貞・国丸・
国直による寄せ書き。菊盟は未詳。これらを屏風の貼り交ぜ用として、馬琴の女婿である清右衛門に贈
ったのである〉
◯ 十月十日『馬琴日記』第一巻 ①201
〝英平吉使来ル。翻訳水滸画伝闕候所彫立、廿八丁御校合願候趣也。御請取、御返事被遣候〟
〈九月九日参照。英平吉は『新編水滸画伝』の再版にあたって、板木不足の部分については馬琴の所蔵本
をもとに再刻したのである。馬琴はその校合を引き受けた〉
◯ 十月十一日『滝沢家訪問往来人名録』下p117
〝丁亥(文政十年)十月十一日初入来英泉紹介 榊原遠江守殿家臣湯嶋七軒町(上)中やしきに在り 雪
麿事 田中源治〟
(貼紙)
〝口上 雪麿
先達而画工英泉御宅ぇ罷出候節 御話申上候志賀随翁の手紙為御一覧持参仕候 己(ママ)上〟
(貼紙・馬琴筆)
〝随翁手帋伝来 牧野新左衛門ひまご 當時 牧野新介
同 持主ハ 岡嶋但見
榊原遠江守殿家臣 雪丸事 田中源治〟
◯ 十月十四日『馬琴日記』第一巻 ①203
〝画工英泉使来る。石魂録四之巻さし画三丁・五之上同弐枚・五之下同弐丁出来、持参。指置、帰去〟
◯ 十月廿二日『馬琴日記』第一巻 ①207
〝昨夜六時比、仙橘、石魂録三之巻十一丁、筆耕出来、持参〟
◯ 十月廿三日『馬琴日記』第一巻 ①208
〝美濃屋甚三郎来ル。八犬伝五之巻画割、被為成御渡候。柳川方ぇ持参致旨、依申也。無程、帰去〟
〈美濃屋甚三郎は『南総里見八犬伝』の板元。柳川重信が挿画を担当していた〉
◯ 十月廿七日『馬琴日記』第一巻 ①210
〝画工英泉来ル。氷砂糖壱曲、被恵之。八犬伝口絵御注文。御要談数刻、帰去〟
〈この年、英泉も重信と共に『南総里見八犬伝』第七輯の挿絵を担当していた〉
◯ 十一月 三日『馬琴日記』第一巻 ①213
〝美濃屋甚三郎来ル。八犬伝六之上巻・同下巻画割四丁、被為成御渡候。今日、甚三郎不埒之事自慢、申
上候ニ付、被遊御腹立、被為御呵候事ハ、八犬伝七輯第一の御趣向、犬村大角、鮮血明証、父之真偽を
知る事を、芝居ニ取組、狂言ニ致候様、尾上菊五郎ニ勧候由。未開板前、大切之事を不顧、二年之御苦
労を無ニし、戯場より思ひ付しなど被思候事、御心外故也。既ニ当顔見セニ、髑髏ニ鮮血滴り、父を知
る事を、狂言致候由。嘆息之外なし。甚三郎恐入、帰去〟
〈馬琴の立腹は理解出来る。犬村大角がどういう趣向で実の父赤岩一角と出会うのか、それを出版に先立
って読者が知ってしまっては、馬琴、苦心の趣向も水の泡である。それどころか、これではまるで馬琴
の方が芝居から趣向を奪い取ったかのように誤解される恐れすらある。馬琴にとってこれ以上の屈辱は
あるまい。そんな愚を、板元美濃屋は軽率にも犯してしまったのである。ところで、この尾上菊五郎の
芝居は実際に「髑髏ニ鮮血滴り」の趣向取りで興行されたのであろうか。八犬伝では一角の髑髏と大角
の鮮血は実の父子関係であることを認知する趣向として使われている〉
◯ 十一月 四日『馬琴日記』第一巻 ①214
〝英屋平吉来ル。水滸画伝御校合被遣候為御礼、かすていら一折持参。先達而御貸被遣候水滸伝之内、此
度彫足候廿八丁抜取、模刻可致所、其儘原本はり入、彫候由。不埒ニ候得共、御堪忍被遣候〟
◯ 十一月 八日『馬琴日記』第一巻 ①216
〝(お路の供の者)英泉方ぇ持参候様、排悶録三冊御返シ被遣、御手紙添、為持被為遣候。(英泉より
「石魂録」の直し、明日には出来る旨の返事あり)〟
◯ 十一月 九日『馬琴日記』第一巻 ①216
〝画工英泉来る。石魂録五丁之下巻さし画壱丁、直し出来、指越〟
◯ 十一月十一日『馬琴日記』第一巻 ①217
〝雪麿事田中源治来ル。先達而、英泉より、志賀随翁真跡所持之人有之、同藩雪麿ト申者持参、入御覧度
旨、私迄頼候間、罷出候ハヾ、御逢被下候様申上候ニ付、今日逢有之〟
〈雪麿は戯作名墨川亭雪麿。「滝沢家訪問往来人名簿」には〝丁亥十月十一日初入来英泉紹介 榊原遠江
守殿家臣湯嶋七軒町(上)中やしきに在り 雪麿事 田中源治〟とあり、ちょうど一ヶ月前に英泉の紹介
で対面したばかりである。雪麿が持参した「志賀随翁真跡」の随翁は、大田南畝の『一話一言』巻四十
九に〝春毎に松のみどりの数そひて千代の末葉のかぎりしられず 藤恕軒志賀氏随応行年百有余歳〝と
書き留められた長寿で有名な人であった〉
◯ 十一月十三日 『馬琴日記』第一巻 ①218
〝(合巻『殺生石後日怪談』(初編、馬琴作・初代豊国画・文政七年刊)の板元山口屋藤兵衛、酒切手持
参して来訪するも、馬琴は会わず)山口屋藤兵衛事、殺生石弐編之義ニ付、不埒之事有之、御著述願候
共、御承引被遊間敷勿論故、追而罷出候節、右酒切手辺候思召なり〟
〈板元山口屋の「不埒之事」は未詳。十二月二日の日記に山口屋藤兵衛来訪〝所要は、殺生石御稿本泉市
より買戻し候由、右御潤筆残り持参〟とある。山口屋が原稿料の支払いを残したまま、馬琴に無断で
「殺生石」の原稿を泉市に譲渡したのかもしれない。同四日には〝殺生石御稿本、巻数四冊ニ被為直候。
此度、山口屋藤兵衛依頼也〟とあり、双方の関係が修復なった様子である。なお、二編の出版は画工が
英泉に代わって文政十二年の刊行である。十二月廿日記事参照〉
◯ 十一月廿三日『馬琴日記』第一巻 ①223
〝(美濃屋甚三郎)柳川写本五之巻さし画三丁出来、此又持参〟
〈柳川は柳川重信。板元美濃屋が持参した挿画は「八犬伝」のもの〉
◯ 十一月二十三日 殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第一巻・書翰番号-39)
◇ ①200
〝廿余年前之拙著『水滸画伝』大阪、久々うり物に出候よし、甚高料に付、うれかね候処、先頃、拙者懇
意之書林英平吉買取候処、廿八丁ホド板紛失、依之、拙者所蔵の『画伝』かしくれ候様申候に付、則か
し遣し候処、断りなシに、ヌキ/\に入用の処ヲとぢ放し、押かぶせぼりにほり立候故、彫刻早速出来
候。然共、印本ヲほりかへし候へば、文字崩れ、よめかね候事故、けしからぬ物に成候処、多く有之、
それヲ校合してくれとて差越候。多用には候へども、三十年来書物かひ入候なじみの書林の事故、否と
も申がたく、あらまし校正いたし候へ共、ほりちらし候事故、よめかね候所は、やはり直り不申、曲り
なりに此節製本、うり出し申候。二編・三編、引つゞき彫刻いたし度に付、著訳いたしくれ候様、頻り
に被申入候へども、少々存寄も有之に付、かたくことわり申候。通俗本ヲひらがなにかゝせ候とも、別
人ぇ頼候ともいたし候様、申談じ置候が、いかゞいたし候哉、いまだにえ切り不申候〟
〈板元・英平吉としては『水滸画伝』の二~三編も、初編同様、馬琴著・北斎画のコンビで出版したいの
だが、馬琴は頑として引き受けない。それほど初編での板元とのトラブルが深刻だったのであろう〉
◇ ①201
〝大男大空武左衛門事、定而御承知と奉存候。右写真の図、写し取申候。これは渡辺登【画名花山】が、
石盤にて蘭人の伝ヲ以、全体ヲうつし取に、図取寸法に相違無之候。拙蔵は、それヲ友人文宝に写させ
候ものに御座候。近来御出府も候はゞ、御めにかけ可申候〟
〈文宝は亀屋文宝。蜀山人自ら認めた蜀山人の偽筆としてしられた人〉
◇ ①201
〝先頃御頼之芙蓉鈴木氏の山水、早速処々へ頼置候へども、今に手に入不申候。芙蓉は拙者も識人に候キ。
彼の仁の画は、骨董などにても一向見うけ不申、いかゞの事にや、すけなく御座候よし。ゆる/\心が
け、手に入候はヾ、早速差登せ可申候〟
〈文政十一年三月二十日付書簡参照〉
◇ ①204
〝『けいせい水滸伝』、はやり候に付、『水滸伝』のにしきゑ百枚出申候。この外、狂歌すり物などにも
女すいこ伝の画多く、髪結床の障子・暖簾などにも『水滸伝』の画をかき候世情に成り候。夫故、通俗
本ヲひらがなに直し候写本の『水滸伝』、処々の貸本屋にてかし候処、此節『水滸伝』の元トをしらぬ
男女、ひたものかりて見候故、写本の『通俗水滸伝』、甚よくかせ候よし也。この人気に候へば、『水
滸画伝』も、引つゞきほり立候はゞ、よく売捌ケ可申候。此節、女の気づよきものを、アレはけいせい
水滸伝じやなどゝ申候。御一笑〟
◯ 十一月廿五日『馬琴日記』第一巻 ①225
〝仙橘、石魂録序・附言、同六之巻末一段半冊、不残筆耕出来、持参。
◯ 十一月廿七日『馬琴日記』第一巻 ①226
〝英泉使札、寒中為見舞、雄鴨壱羽被恵之。石魂録口絵三丁・袋とびら・外題目録わく模様、出来、持参。
使之者根津まで罷越、帰路立寄候節、御返翰并口絵以下、仙橘ぇ筆耕認候様、御書翰添、届候様御示談、
御渡被遣候〟
◯ 十一月廿九日『馬琴日記』第一巻 ①227
〝大坂屋半蔵来ル。石魂録五之上巻御稿本、仙橘方ぇ罷越、請取、持参〟
◯ 十二月 二日 ①229
◇読本『南総里見八犬伝』の挿画
〝美濃屋甚三郎来る。八犬伝七輯四之巻英泉さし画三丁・五之巻重信さし画壱丁出来、持参〟
◇合巻『殺生石後日怪談』の稿本のこと
〝(山口屋藤兵衛)来ル。於座敷、御逢有之。所要は、殺生石御稿本泉市より買戻し候由。右御潤筆残持
参。外ニ、為絹代七百疋、被恵之〟
〈「殺生石」については十一月十三日及び十二月二日記事参照〉
◯ 十二月 四日 ①230
〝殺生石御稿本、巻数四冊ニ被為直候。此度、山口屋藤兵衛依頼也〟
〈合巻『殺生石後日怪談』弐編の稿本である。板元山口屋とは「不埒之事」があって一時執筆を拒否する
という局面までいったが、何とか修復がなったようだ。同月十二日、稿本四冊出来、山口屋に手渡しし
た。十一月十三日と十二月二日の記事参照〉
◯ 十二月 十日『馬琴日記』第一巻 ①232
〝(美濃屋甚三郎「八犬伝」の)柳川画五之巻口絵壱丁等也。いづれも請取置〟
◯ 十二月廿日『馬琴日記』第一巻 ①237
〝(お路を以て、お遣いの帰路)尾張丁英泉ぇ、御書翰被遣。所要は、殺生石さし画注文也。使、昼前帰
来。英泉今日此方ぇ罷越候趣、御返事不来〟
〝英泉来る。為手土産、白砂糖一袋・かも折詰、持参。於御書斎、御逢。殺生石さし画御示談後、薄暮帰
去〟
〈合巻『殺生石後日怪談』の初編は初代豊国画で文政七年の刊行。豊国は文政八年に没しているから、英
泉に画工の仕事が回ってきたのである。「殺生石」の出版経緯については『馬琴日記』第一巻の十一月
十三日の記事参照〉
◯ 十二月廿四日『馬琴日記』第一巻 ①240
〝美濃屋甚三郎、八犬伝七輯表紙・戸びら、五之巻柳川さし画壱丁写本、持参〟