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            「曲亭馬琴資料」「文化年間(1804~1817)」
 ※例(第六巻・書翰番号-来5)⑥218:『馬琴書翰集成』第六巻 来簡(馬琴宛)書翰番号5 六巻p218
   (第一巻・書翰番号-6) ①7 :『馬琴書翰集成』第一巻 馬琴書翰番号6     一巻p7
 ☆ 文化元年(1804)
  ◯ 文化元年(1804)九月末日 馬琴宛・奇々羅金鶏(第六巻・書翰番号-来5)⑥218
   (貼紙)
  〝「奇々良金鶏【原上州館林侯医官、後所々流浪。文化元年初秋(ママ)来簡】」〟
   (表書「馬琴先生 金鶏事 赤松魯斎」
  〝別後三年不接鳳眉、敢て一字をだも不奉、恋々情不尽筆神候。愈御清福、奉欣抃候。僕も近頃訳合有之、
   又々止事ヲ不得、人間中へ出現いたし、本丁一丁目鈴木越後の側へ出申候。扨、いろ/\御噺も御座候。
   何卒下町辺御序の節、一寸御尋申上候。不遠得尊顔申度候。不佞ハ不得止事閉戸、一向ニ親方もちニて、
   他行なりかね候。偏光来奉願上候。頓首 末秋尽〟
 
 ☆ 文化二年(1805)
   データなし
 
 ☆ 文化三年(1806)〕
 ◯ 文化三年(1806)正月二十三日 馬琴宛・北尾蕙斎(第六巻・書翰番号-来7)⑥219
   (貼紙)
  〝「北尾蕙斎【越後家の画師。浜町ヘツツイ河岸住。文化三年来簡】」
   (表書「馬琴様 蕙斎」)
   新春之御慶、重畳申納候。弥御安泰被成御超歳、大慶奉存候。然ば、爾来は御疎遠ニ打過申候。御不沙汰、
   御免可被下候。扨は、此御方貴君ニ御知人ニ相成度、私毎度御心易事被存、御頼被成候。御出合可被下候。
   拝奉願候。其内以参御礼可申上候。右御頼申上度、早々如此ニ御座候。以上 正月三日〟
   〈書簡内容は知人の紹介状〉
 
 ☆ 文化四年(1807)〕
 ◯ 文化四年十二月十四日 馬琴宛・山東京伝(第六巻・書簡番号-来8)⑥220
   (貼紙)
  〝「山東京伝文化四年十二月来簡」
   (表書「曲亭先生 京伝」)
   (時候の挨拶、馬琴の歳暮に対する返礼、略)先日御咄申上候「作者番附」之儀、昨夜焉馬・三馬参り、
    絶板いたさせ度と申候ニ付、私・京山一同ニ右板元へ参り、板木けづらせ、摺本不残受取、きりさき申
    候。右ニ付、和談取あつかひ候御座候て、摺本紙代として、金三分遣し申候。右金子、当時渡世ニ仕候
    作者・画工へ割付、壱人づゝ出し申候。貴君之分者寄合之席ニ鶴屋金助殿をられ、立かへ出され申候間、
    御ついでの節、鶴金へ銀五匁御かへし被遣可被下候。為念、きりさき候ばん附、御目ニ懸申候。万々拝
    顔、取込乱筆御免可被下候。頓首      十二月廿四日〟
 
 ☆ 文化五年(1808)〕
 ◯ 文化五年刊「江戸戯作画工新作者附」断片(第六巻・書翰番号-来130)⑥322
   (文化四年十二月十四日、山東京伝の馬琴宛書翰参照(『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-来8))
   (貼紙「文化四年卯十二月、京橋辺の貸本屋藤六とやらんいふ者、作者・画工の番附を彫刻して専ら鬻ぎ
   しを絶板させ、摺たるを悉く切りさきたるを、一二葉この来簡に附けて継ぎ合せ、爰に載せおきつ」)
   〈辰春(文化五年)板元東邑閣から売り出される予定だった「番付」の分明ならざる断片が⑥322に載っている〉
 ◯ 文化五年九月二十日(『著作堂雑記』211/275)
  〝去る九月二十日【文化五年】蔦屋重三郎より文通之写
     合巻作風心得之事
   一 男女共兇悪の事
   一 同奇病を煩ひ、身中より火抔燃出、右に付怪異之事
   一 悪婦強力の事
   一 女并幼年者盗賊筋の事
   一 人の首抔飛廻り候事
   一 葬礼の体
   一 水腐の死骸
   一 天災之事
   一 異鳥異獣の図
    右之外、蛇抔身体手足へ巻付居候類、一切【この間不明】、夫婦の契約致し、後に親子兄妹等の由相知
    れ候類、都て当時に拘り候類は不宜候由、御懸り役頭より、名主山口庄左衛門殿被申聞候に付、右之趣
    仲ヶ間申合、以来右体の作出版致間敷旨取極置候間、御心得にも相成可申哉と、此段御案内申上候
    九月二十日       蔦重
     著作堂様〟
    〈この蔦屋重三郎は二代目。絵入読本等の改め担当名主が地本問屋へ通達した合巻の禁忌事項である〉
 
 ☆ 文化六年(1809)〕
 ◯ 文化六年十二月十七日 宗伯宛・金子金陵(第六巻・書翰番号-来131)⑥322
   (貼紙「金子金陵【号董九如。文化六年宗伯へ来簡】」)
   (表書「琴嶺様 金陵」)
  〝  外ニ画帖壱枚上候。
   愈御安全、奉寿候。然バ、先達而御約束候巻物の画十五枚出来候間、上候。御うけ取可被下候。猶御目懸
   候時可申候。以上
     十二月十七日〟
   〈馬琴の長子宗伯(琴嶺)は文化六年当時十三才。金子金陵の許で画業を修めていた頃の書翰であろう〉
 
 ☆ 文化七年(1810)〕
 ◯ 文化七年(1810)正月十二日 『滝沢家訪問往来人名録』上p52
  〝(庚午(文化七年)春処々発会覚 ◯印ハ出席)◯正月十二日 居宅 文晁〟
   〈下谷の文晁宅で行われた発会。馬琴は出席〉
 ◯ 文化七年(1810)正月十六日 『滝沢家訪問往来人名録』上p52
  〝庚午(文化七年)春処々発会覚 ◯印ハ出席  ◯正月十六日 両国三河や 北斎〟
   〈両国三河屋での北斎画会。馬琴は出席〉
 ◯ 文化七年(1810)二月二日 『滝沢家訪問往来人名録』上p52
  〝庚午(文化七年)春処々発会覚 ◯印ハ出席 ◯二月二日画会 百川楼 喜多武清〟
   〈日本橋浮世小路にあった高級料亭・百川楼を会場とした喜多武清の画会。馬琴は出席した〉
 ◯ 文化七年(1810)二月十二日 『滝沢家訪問往来人名録』上p52
  〝庚午(文化七年)春処々発会覚 ◯印ハ出席 ◯ 二月十二日【浅草巴や】北馬 小河町火消やしき
   ニて 脇田半右衛門〟
   〈「小河町火消やしきニて 脇田半右衛門」は貼紙から誤って混入したもの。浅草巴屋において行われた北馬の画会。馬琴は出席した〉
 ◯ 文化七年(1810)三月十八日 『滝沢家訪問往来人名録』上p52
  〝庚午(文化七年)春処々発会覚 三月十八日 両国河内や 辰斎〟
   〈出席を示す◯印がないから、辰斎の画会には出席していない〉
 
 ☆ 文化八年(1811)・文化九年(1812)〕
   データなし
 ☆ 文化十年(1813)〕
 ◯ 文化十年(1813)正月十六日 歌川豊清宛(第一巻・書翰番号-6)①7
   (宛名「(二字破損)院門前 うた川とよ清様 当用 馬琴」)
  〝入り口うすゞみ入之処、少々愚意ニかなひ申さず候ニ付、又々御面倒奉願候。何とぞ、はり札ニ認候やう
   に、人物ちひさく、少しとほく見せて、かげぼうしの様ニ仕度候。今一ぺん御工夫之上、御したゝめ可被
   下候。此節、板元又々不快のよし。何事も使ニて行とゞき不申、彼是とひまどり候内、うり出しも大きニ
   延引可致と、心痛仕候へども、このまゝニさしおき候も又残念ゆへ、もり下町の便を、直に御宅まで上げ
   候。此人またせ置、何卒即座に御認め、奉願候。以上
     正月十六日                                     馬琴
      うた川 豊清様
            当(願)用〟
   〈豊清は歌川豊広の実子金蔵。寛政十一年(1799)生まれとすると、当時十五才。それにしても、この書簡は
    とても少年に対するものとは思えない。馬琴は当時四十七才、豊清を敬語敬称を遣うに値する一人前の絵
    師として認めているのだ。さて金蔵から豊清への改名だが、参考までに「日本古典籍総合目録」を見ると、
    文化七年刊、東西庵南北作・歌川金蔵画・合巻『筆始日出松』。文化九年、東西庵南北作・豊清画・合巻
    『女合法恋修業者』。曲亭馬琴作・豊清画・読本『糸桜春蝶奇縁』。以上三点に、年代のない歌川豊清画
    『朝鮮人来朝行列図』。これは朝鮮通信使節の江戸入りが文化八年であるから同年の作画と考えられる。
    すると金蔵から豊清への改名は文化七~八年中のことと思われる。なお文化九年以降の収録作品は見あた
    らない。ところで、この文化十年正月の書簡で、豊清に「今一ぺん御工夫」を求めた作品とは何であった
    のだろうか〉
 ◯ 文化十年(1813)三月四日 馬琴宛・菅原洞斎(第六巻・書翰番号-来14)⑥225
   (馬琴朱書貼紙)
  〝「菅原洞斎子、文化十年春日来翰。津軽侯画師也」〟
  〝(前略)先比ハ西原龍より禄御届被成下候「志賀随翁の書」御榻本御投恵被成下、千万忝奉存候。珍蔵仕
   候。(中略)然バ、明五日私宅ニ而、古画鑑定会相催候。御閑暇御操合、御来臨奉願候(御略)〟
 ◯ 文化十年(1813)十月二十四日 馬琴宛・石川大浪(第六巻・書翰番号-来18)⑥227
   (貼紙)
  〝「石川大浪【屋敷本所割下水。文化十年来翰】」〟
  〝愈御多祥、欣喜此事候。扨は此間申上候「関帝画本」取ニ上候。此奴御渡可被下候。頓首
    十月念四日 
    馬琴先醒                              大浪〟
   〈「関帝画本」は『三国志』の美髯公・関羽像に関するものと思われるが、未詳〉
 ◯ 文化十年(1813)「文化十年刊作者画工番付断片」(第六巻・書翰番号-来133)⑥323
   「文化十年刊作者画工番付断片」
 
 ☆ 文化十一年(1814)〕
 ◯ 文化十一年(1814) 『滝沢家訪問往来人名録』上p58
  〝本郷六丁め伊豆蔵先よこ町日かけ町 絵師 長谷川雪旦〟
  
 ☆ 文化十二年(1815)〕
 ◯ 文化十二年(1815) 『滝沢家訪問往来人名録』上p59
  〝日本橋通四丁め橋より左り側木戸より三けんめ 国丸〟〈この国丸を歌川国丸と見た〉
 
 ☆ 文化十三年(1816)〕
 ◯ 文化十三年(1816)十月二十四日 『滝沢家訪問往来人名録』上p60
  〝京都不知仁也 子(文化十三年)十月廿四日来不逢 高島千春〟
   〈高島千春の江戸移住はこの年・文化十三年の四月。半年ほどして馬琴を訪ねたのであるが、会えなかっ
    た。馬琴は、確かな紹介者がいれば別だが、原則として未知の人には会おうとしなかった〉
 ◯ 文化十三年(1816)十二月二十二日 馬琴宛・歌川豊国(第六巻・書翰番号-来25)⑥232
   (貼紙)
  〝「画工歌川豊国 中橋上槇町新道。文化丙子来翰」〟
   (表書「馬琴大人 当用豊国」)
  〝段々月迫仕候。御事あふく抔と御さつし申候。扨又、昨夕方絹地三枚下り申候。御受取可被下候。色々御
   はなしも是有候へ共、いづれ近日参上致申上候。まづは用じのミ、早々頓首 極月廿二日〟
   〈文化丙子は同十三年〉