Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ ゆきまる きたがわ 喜多川 行麿浮世絵師名一覧
〔生没年未詳〕
 ☆ 天明三年(1783)    △『狂歌師細見』(平秩東作作・天明三年刊)   (巻末「戯作之部」に続いて)   〝画工之部    哥川 豊春     北尾 重政 同 政演 同 政美    勝川 春章 同 春朗 同 春常 同 春卯 同 春英 同 春暁 同 春山    関  清長      うた麿 行麿〟    △『狂文宝合記』(もとのもく網・平秩東作・竹杖為軽校合、北尾葎斎政演・北尾政美画・天明三年六月刊)   〔天明三年(1783)四月二十五日、両国柳橋河内屋において開催された宝合会の記録。主催は竹杖為軽〕   〝新五左ノ御剱 一名皮柄之御剱  歌麿門人 行麿 家宝〟   (画の説明文)〝新五座の御剱〟   (狂文)〝不浄を嫌ふ昼御座の御剱と事かはり、月に一度の不浄となる女の方から嫌れても、しみしたゝ    るく付廻す厚皮つかの御剱とも申奉り、野暮天神の御正体とあがめ奉るものなり〟    〈「新五左」とは野暮な田舎侍、洒落本では遊女からも冷たくされている。その新五左の剱が「十束(ツカ)の剱」ならぬ     「皮柄の剱」。ところで、この宝合会に出品参加した浮世絵師は、この喜多川行麿のほかに、北尾政演(身軽織輔・     山東京伝)、北尾政美(麦原雄魯智)、窪俊満(一節千杖)、歌麿(筆綾麿)、喜多川行麿。また、浮世絵師ではな     いが、浮世絵を画いた絵師までいれると、恋川春町(酒上不埒)、高嵩松(元の木阿弥)、つむりの光などが参加し     ている〉    ☆ 天明五年(1808)    ◯『黄表紙總覧』前編(天明五年刊)※角書は省略。〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    喜多川行麿画    『鬼崛大通話』  署名「歌麿門人行麿画」「喜三二戯作」蔦屋板    〔向島佐々木物語〕  〔喜多川行麿・朋誠堂喜三二作〕 蔦屋板    ◯「国書データベース」(天明五年刊)   ◇黄表紙    喜多川行麿画『気散次夢物語』行麿画 喜三二作 板元未詳    ☆ 天明八年(1788)    ◯『稗史提要』p373(天明八年刊)   ◇黄表紙    作者の部 喜三二 通笑 京伝 三和 杜芳 春町 石山人 万宝 虚空山人 山東唐洲    画工の部 重政 政演 政美 哥丸 蘭徳 春英 行麿    時評〝此頃の稗史に営中の遺事に擬して作るもの多しといふ。。按に、万石とをし、ひゐきの絵草紙な       ど、其類なるべし。是等は草葬の人のしるべきにあらざれぱ、識者に問て弁ずべし。又袋入に世       直大明神、天下一面鏡撹の梅鉢など有。是等もおなじ趣なるべき歟〟    〈「営中の遺事」つまり幕府の事柄に擬えた黄表紙と見なされたのは『文武二道万石通』朋誠堂喜三二作・喜多川行麿     画。『悦贔負蝦夷押領』恋川春町作・北尾政美画。「是等は草葬の人のしるべきにあらざれぱ、識者に問て弁ずべし」     お上のことは民間人には知り得まいから識者に聞きなさいと、評者・漣水散人(旗本家臣・比志島文軒)はいうのだ     が、そうであろうか〉    ◯『黄表紙總覧』前編(天明八年刊)〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    喜多川行麿画    『文武二道万石通』署名「歌麿門人行麿画」「喜三二作」 蔦屋板    『時代世話二挺鼓』署名「哥麿門人行麿画」「京伝作」  蔦屋板    『六玉川流栄』    〔喜多川行麿画〕 「喜三次戯作」鱗形屋板    ◯『筆禍史』「文武二道万石通」(天明八年・1788)p74(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝朋誠堂喜三二(平沢平格)の著にして、画は喜多川歌麿の門人行麿の筆なり、此書が絶版となりしは、    其序文にも「質勝文野暮也、文勝質高慢也、文質元結人品として、月代青き君子国、五穀の外に挽ぬき    の、おそばさらずの重忠が、智恵の斗枡に謀られし、大小名の不知の山、三国一斗一生の、恥を晒せし    七温泉の垢とけて、三島にあらぬ大磯の化粧水に、しらげすませし文武二道万石通と名けしを云々」と    ある如く、これ天明七年六月、松平越中守定信が幕府の老中となりて、諸政を改革し、文武二道の奨励    をなせし事を諷刺せしものにして、記述は鎌倉時代の事に托しあれども、全篇の主旨は、松平定信の政    策を愚視せしものなりしかば、市民の好評を得て売行盛んなりしが、忽ち絶版の命を受くるに至りしな    り    著者喜三二こと平沢平格は、佐竹藩の留守居にして、多能の人なりしも、此戯作のため、藩主より諭旨    ありて、爾後戯作の筆を絶ちしといふ〟
   『文武二道万石通』 朋誠堂喜三二作・行麿画(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)  ☆ 寛政三年(1791)  ◯「国書データベース」(寛政三年刊)   ◇黄表紙    喜多川行麿画『為朝が回』「行麿」千差万別作 西村板    ☆ 没後資料    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1403(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝行麿 哥麿門人〟    ◯『新増補浮世絵類考』⑪186(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
   「鳥山石燕系譜」〝(喜多川歌麿門人)行麿(名前のみ)〟    ◯『浮世絵師便覧』p233(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝歌麿門人、◯享和〟    ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(52/103コマ)   〝喜多川行麿【享和元~三年 1801-1803】    通称東海林平右衛門、歌麿の門弟にて、小石川水道橋に住めり、文化中没す〟  ◯『浮世絵師伝』p205(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝行麿    【生】  【歿】  【画系】歌麿門人  【作画期】天明    喜多川を称す、天明五年より同八年まで、黄表紙数種に挿画せり〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   「天明八年 戊申」(1788) p146   〝此年、歌麿の門人行麿の画ける青本『文武二道万石通』といへる三冊物絶版の命を受く、朋誠堂喜三二    の作にして版元は蔦屋重三郎なり。これ天明七年六月松平定信(楽翁)が幕府の老中となりて、文武二    道の奨励をなせしを風刺愚弄せしものなりしかば忽ち絶版されしとなり〟    ◯「日本古典籍総合目録」(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    作品数:6点    画号他:喜多川行麿    分 類:黄表紙6    成立年:天明5・8年(5)    〈六点はすべて黄表紙、作者も朋誠堂喜三二と山東京伝のみ。幕政を暗に風刺したとされる天明八年(1788)の喜三二作     『文武二道万石通』は行麿の作画である〉