◯「読売新聞」(明治24年(1891)7月27日付)
〝豊原国周飄然と去って行く所を知らず
芳年と対して浮世絵師の二柱と囃されたる豊原国周翁は 奇行多き人にて 五十余年間に八十七回居を
転じたるが如きは 何人も知る所の事実なり 翁が八十五回目の居(浅草小島町)に在りし時 門人外
山周政なるもの師に事(つか)ふること最も篤し 後翁深川冬木町に転じ また去って下谷金杉村に転寓
したるが 数日前何思ひけん 匇々(そう/\)行李を整へ家財を挙げて周政に与へ 予之より天下を周
遊す 汝また憂ふる勿(なか)れと 飄然去って行く所をしらず〟
◯『明治東京逸聞史』②p182「羽子板」明治三十八年(1905)(森銑三著・昭和44年(1969)刊)
〝羽子板 〈東京朝日新聞三八・一二・二五〉
「羽子板の市況」という記事を載せているが、羽子板の押絵にも、時代の変遷がある。明治十六七年ま
では、押絵も平たく板に附いたのが喜ばれたが、十九年頃から次第に変って、盛上ったのが歓迎せられ
るようになった。顔絵師も、国周が去って、周政(後に国延)となったなどとしてある。国周、周延等
の浮世絵師は、錦絵の外に、羽子板の顔をも画いたのである〟
〈「国周が去って」とあるが、豊原国周は明治三十三年(1900)没。周政が押絵の顔絵師第一人者になるのはその国周
没後という意味であろうか〉