◯『男色大鑑』巻五(井原西鶴作・貞享四年(1687)刊)〔「日本名著全集」『西鶴名作集上』〕
(「思ひの焼付は火打石売」)
〝承応元年秋(中略)ひとりの仰せられけるは、川原の野郎若衆きゝしばかりにて見ぬことぞかし。せめ
ては其姿ありのまゝ移せよと、浮世絵(うきよゑ)の名人花田内匠(はなたたくみ)といへる者。美筆
をつくしける〟
◯『羅月菴国書漫抄』〔大成Ⅰ〕④143(尾崎雅嘉著・成立年未詳)
〝花田内匠
同上(『男色大鑑』)巻之上、ひとりの仰せられけるは、川原の野郎若衆きゝしばかりにてみぬ事ぞか
し、せめてはその姿ありのまゝに移せよと、浮世絵の名人花田内匠といへるもの、美筆をつくしける。
是承応元年の事にいふなり〟
△『嬉遊笑覧』巻三「書画」(喜多村筠庭著・文政十三年自序)
〝其頃(岩佐又兵衛と同時期)まぎらはしき画あり、是は内匠といふ者の絵なり。専ら浮世絵をかきたる
上手なり。西鶴が〔大鑑〕にも承応元年のことをいへる処に、浮世絵の名人花田内匠といへる者美筆を
尽しけるとあり〟
〈西鶴の「大鑑」とは貞享四年(1687)刊の『男色大鑑』。五巻「思ひの焼付は火打石売」に、承応元年(1652)の秋の
こととして、〝川原の野郎若衆きゝしばかりにて見ぬことぞかし。せめては其姿ありのまゝ移せよと、浮世絵(うき
よゑ)の名人花田内匠(はなたたくみ)といへる者。美筆をつくしける〟とある。この浮世絵師・花田内匠とは「当
世」の「時好にかなえるさま」を写す名人・花田内匠という意味であろう。だが、この花田内匠は、当時は浮世絵師
と称えられながらも、岩佐又兵衛や菱川師宣のように、のちに江戸で開花する浮世絵の祖先と見なされることはなか
った〉
◯『誹家大系譜』〔人名録〕③193(生川春明編・天保九年四月刊)
(巻末「生川春明近刻書目」として)
〝浮世絵師系譜 一巻 此書は花田内匠、吉田半兵衛、菱川師宣のたぐひ、三都に名高きをふるきとなく
今の世といはずこと/\くあらはす、又先哲の書どもに考えられたる岩佐又平といふ人、ふるきものに
たしかなる証なし、こは延宝天和のころ京師丸太町西洞院に住せし浮世絵師又兵衛がことなるべし。是
らの事も此書につまひらかなり〟
☆ 明治以降
◯『日本美術画家人名詳伝』上p47(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)
〝花田内匠
西鶴ガ大鑑ニモ承応元年ノ事ヲイヘル條ニ、浮世画ノ名人花田内匠トイヘル者美筆ヲ尽シ云々トアリ、
然レバ内匠ハ承応年中ノ絵師ニシテ、当時世ニ其名アリシモノト思ハル(嬉遊笑覧)〟
◯『浮世絵師便覧』p216(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)
〝内匠(タクミ) 花田氏、岩佐又兵衛と同時、戯遊笑覧に出つ〟
◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年(1898)刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(17/103コマ)
〝花田内匠【慶長元~十九年 1596-1614】岩佐又兵衛と同時代の人、其名『嬉遊笑覧』に見えたり〟
◯『浮世絵年表』p23(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)
「承応年間」(1652~1655)
〝花田内匠なる者ありて、浮世絵を能くし、画風岩佐又兵衛に似たりといふも、伝記詳ならず〟
◯『浮世絵師伝』p117(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝内匠
【生】 【歿】 【画系】 【作画期】承応
花田氏、西鶴の『男色大鑑』巻五に「承応元年秋の夜云々、浮世絵の名人花田内匠といへる者美筆を尽
しける云々」とあり、或は仮作の人名か〟