Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ しょうえん いけだ 池田(榊原)蕉園浮世絵師名一覧
〔明治18年(1885)5月13日 ~ 大正6年(1917)12月1日・33歳〕
 ※「近代書誌・近代画像データベース」(国文学研究資料館)  ☆ 明治三十六年(1903)  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第十四回 日本絵画協会展 明治三十六年四月開催 於上野公園旧博覧会跡第五号館)    寺崎広業 王陽明      銀章    池田輝方 江戸時代の猿若町 銅章    池田(榊原)蕉園 つみ草    尾形月耕 群盲評象・旅僧    梶田半古 鷲・朧夜    水野年方 熊沢蕃山  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第十五回 日本絵画協会展 明治三十六年十月開催 於谷中初音町日本美術院)    寺崎広業 山水 銀章 ・冬・海辺・美人・仏御前    梶田半古 豊年 銀章    池田(榊原)蕉園 夕暮    尾形月耕 年の暮・富士に双鶴・元禄美人・鼠の婚礼    鏑木清方 秋宵    水野年方 少女  ☆ 明治三十七年(1904)  ◯『こしかたの記』(鏑木清方著・原本昭和三十六年刊・底本昭和五十二年〔中公文庫〕)   ◇「烏合会」p219(明治三十七年十一月、第十回、烏合会記事)   〝 蕉園のものは、夕闇が迫る秋の庭に小猫を抱いて立つ娘が、ちょうど作者の年頃で、背景の夜の萩に    は輝方の助筆が冴えて著しかったのが、あたりに明るい話題を投げた。明治十九年五月、神田小川町に    生れた。岩倉鉄道学校に教授だった榊原浩逸氏の女、三十四年に年方門に入る〟     ◇「烏合会」p220   〝 創立以来の有力な同志であり、同門の親友輝方が、我々の列を去ったことにまだ言及する折がなかっ    た。彼の一身上に思いがけぬ変化が起って、友人達も温かい気持ちで待っていた蕉園との結婚も、どう    なることか解らず、一時彼の消息は杳(ヨウ)として伝わらなくなった。ハッキリした日時を記憶しないが    三十七年頃であったろう。蕉園の出品もそれぎり望めなくなったのは是非がない〟    ☆ 明治四十年(1907)  ◯『東京勧業博覧会美術館出品図録』(東京府篇 審美書院 明治四十年四月刊)   (東京勧業博覧会 3月20日~7月31日・於上野公園)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝日本画之部    尾竹竹坡 一指       尾竹国観  てがら噺    梶田半古 乳海       鏑木清方  嫁ぐ人    歌川国峰 男舞       久保田金僊 妙音天    山田敬中 雪山暮色     松本楓湖  長年奉帝    寺崎広業 王摩詰      荒井寛方  片岡山    榊原蕉園 我のたま・花の蔭 坂巻耕魚  奥山閣    桐谷洗鱗 てう/\〟  ☆ 明治四十一年(1908)  ◯『日本書画名覧』番付 東京(樋口傳編集 書画骨董雑誌社出版 明治四十一年三月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)    〈「古人浮世絵各派」以外は主な画家のみ収録。都県名は省略〉   〝近代閨秀画家    榊原蕉園 柏森薫渓 野口小蓮 河崎蘭香 上村松園〟  ☆ 明治四十二年(1909)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治四十二年刊)    蕉園画『柳筥』口絵・装幀 蕉園 泉鏡花 春陽堂(4月)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕   「少女年中行事双六」蕉園画 巖谷小波案 博文館 明治42年1月 ⑤③H-22-3-15  ◯『明治東京逸聞史』②p326「催促髷」明治四十二年(森銑三著・昭和44年(1969)刊)   〝催促髷 〈読売新聞四二・一二・八〉    「催促髷」という新しい言葉が、今閨秀画家の間にはやっている。その起りは榊原蕉園女史で、女史が    島田髷に結ったのをおばさん達が見て、ゆりちゃんの催促髷といったのが始めだという。    「文壇はなしのたね」に、かように見えている〟    ☆ 明治四十三年(1910)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治四十三年刊)    蕉園画『白鷺』口絵 蕉園 泉鏡花 春陽堂(2月)〈2ページ大色摺口絵〉  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治四十三年刊)    蕉園画『少女スケッチ』口絵・表紙 蕉園 沼田笠峰 博文館(5月)     ◯『こしかたの記』(鏑木清方著・原本昭和三十六年刊・底本昭和五十二年〔中公文庫〕)   ◇「文展開設(二)」p250(第四回文展)   〝 最も心を惹いたものとして、「供燈」(菊池契月画、二等賞)の次に「秋のしらべ」「冬のまとゐ」    六曲一雙の榊原蕉園がある。今、その折の画冊を披いて見ても、古い私の印象がさのみ謬っていないこ    とを知るのである。蕉園は文展に、「もの詣で」「やよひ」「宴(ウタゲ)の暇(ヒマ)」と続けて出ている。    唐輪風に髪をとりあげた女が、勾欄に肱(ヒジ)を懸けて、半開の扇に拍子を取りながら、うたげのひま    に唱歌(ショウガ)するのに、花紛々と散りかかる。三等賞であったが、世評も高く、識者も認めた。出品    としては小さい方でも、今語ろうとする四回の屏風絵ともども、代表作と伝えらるべき佳品である。    「秋のしらべ」は女三人に女(メ)のわらわ一人。琵琶を弾くもの。身を横たえて音色に聞き惚れ眠りに    誘われる上臈(ジョウロウ)に、襠(ウチカケ)を着せかける切禿。横笛を手にしたまま耳を澄ますもあり、中央    に秋の灯が置かれている。唐輪、名古屋帯などに見て江戸初期の末でもあろうか。    「冬のまとゐ」は六人の人物で、うちの四人が歌留多あそびに耽ける。そのなかの若衆かとも見える年    若なのの母か姉かと思われるのが、炬燵から身を乗り出して、かるたの手を覗き込む。なおその炬燵に    は猫を抱く女児がある。中期元禄と見てよかろう。二つとも一蝶を想わせるのであったが、当時、松園    と比べて、塁を摩するとも、これに勝(マサ)るとも、とりどりの批評はあったが、美女の品定めに女ざか    り、娘盛りの優劣を論ずるに似て、それは見る人の好きずきというの他はあるまい。この二人はともか    くも美人画と称するジャンルを等しく代表する同時代の珍しい女流作家として長く尊重さるべきである。    ただ松園は優れた技巧を有って長寿を保ち、従って作品も多かったのに比し、蕉園は天稟の質に恵まれ    ながら惜しくも早世で、然も優秀な作品も悉くその所在を明らかにしない。画家の凡ては作品に繋(カカ)    っているのに、それが失われたのでは千秋の恨事である。今日明治以降の作品が展観される折も多く、    私も屡々相談に与(アズカ)るが、その都度(ツド)蕉園の文展初期に示した優秀作の行方が捜査の手掛かり    もないままに年を経ているのを懐悒(イキドオ)ろしくさえ思(オボ)ゆるのである。     輝方と蕉園のことは前にも記してあるが、この二人が漸く結婚したのは四十四年のことであった。四    十五年の正月三日に新婚の夫婦はうちつれて私どもを訪れた。その日であったか、時を措いてか、私た    ち四人で撮った写真がある。     大正期の初めには共に文展の中堅として、夫婦揃っての活躍が話題になったが、人生は儘ならぬと云    おうか、蕉園の作品に示された意気の充実は、却って婚前に認められるのに徴して、作者の環境の芸術    の及ぼす複雑な作用について、私はいつも深く考えさせられる。     上記の他に蕉園作品の主なものには、      「ねがひ」   大正二年、第七回文展      「灯ともし頃」  同三年、第八回文展      「かへり路」   同四年、第九回文展      「こぞのけふ」  同五年、第十回文展     かくして大正六年、蕉園の新作に接する機は永久に失われた〟  ☆ 明治四十四年(1911)  ◯『現代全国画家録』(平田三兎編 丹青書房 明治四十四年四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝桜 榊原蕉園  東京 浮世派 風俗〟   〝潤筆価格標準(価格 原文は漢数字)     類別   区分 価格    区分 価格     桜之部  精  15円以上 疎  8円以上    右潤筆価格ハ絹本尺五(幅壹尺五寸/丈四尺)ヲ度トシ精疎二様ノ概価ヲ表示シタ    ルモノニシテ、額面屏風其他極彩色ノ密画ハ此ノ限リニアラズ〟    〈本HP「浮世絵事典」【う】「浮世絵師人名録 明治編」参照〉  ☆ 大正元年(明治四十五年・1912)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正元年刊)    蕉園画『薔薇園』口絵 池田蕉園・装幀 「ミノル」 村田天籟 日吉堂(4月)〈2ページ大折込口絵〉  ◯『大日本画家名鑑』大正二年度改正 現代之部(前田鐘次郎編 東洋画館 大正元年12月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「一流」の部   〝池田蕉園 東京 上野桜木町〟  ☆ 大正二年(1913)  ◯『大日本当代画伯名鑑』(田辺貞次郞編集・出版 日月社 大正二年七月刊)   (大正二年五月調べ 画家住所録)(国立国会図書館デジタルコレクション)   〝閨秀各派 池田蕉園 東京 下谷中根岸九〇〟   ◯『大日本絵画著名大見立』番付 名古屋(仙田半助編集・出版 大正二年十一月刊)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   (東方)   〝前頭  池田蕉園 東京市下谷中根岸九〇   (西方)   〝前頭  池田輝方 東京市下谷中根岸    前頭  鏑木清方 東京市日本橋区浜町〟  ◯『読売新聞』(大正2年7月13日)   〝浮世絵の蕉園 -明治美人伝(十八)-長谷川時雨     浮世絵の名家蕉園、池田ゆり子を花にたとへたならば、其風姿(すがた)は鹿の子百合の、風にも露    にも恥らうて、稍うなだれて打ちそむいた優しさと、匂はしさとがある。今こそ輝方画伯の新妻とよ    ばれ、幼き児に母とよばれてはあれど、三年ほどまへ、笹の小笹の、根岸の薮小路、鴬横町に住居の    ころは、絵筆をかんでは吐息つき、愛猫(ねこ)を抱いては思ひにうなだれがちの顎(おとがい)をうず    め、牡丹のくづれる夕べなど、仇にふけゆく春の怨みに、紅涙をかくす人であつたのである。     恋のゆり子は、今こそ思ひかなひて、皐月晴れの曇もない、すが/\しい空のやうな日をおくつて    ゐれど、さうなるまでの夫婦(ふたり)の間(なか)には、浮世絵に描残してもおけるやうな、あはれな    恋物語りがあつた。     輝方も蕉園も、同門に鏑木清方といふ名家を出した、故水野年方の秘蔵弟子であつた。夫婦は師の    前に打並び、紫よ紅(くれない)よと、色濃き絵の具をとくうちに、紫はくれなゐに、紅はむらさきに    色うつりて、言はねど語らねど、互に心を染し不言の誓ひは、状かくよりはうつろはぬ誠と誓ひあつ    てゐた。戒めても/\若き心をそゞろに狂ふもの、人の目は影を追ふと知りつゝ、根岸の細道を小薮    の露に袖摺りながら、日毎、夕ぐれごとに百合の花の恥かしと、打そむく面影を眺めに男は訪れゆき、    今日は此絵巻の模様の配置(くばり)やう、翌日は田舎源氏のさし絵の苦心、さては江戸ぶり都ぶりと、    互いに好む絵のことにかこつけて、語るを楽みに、逢ふよすがとしてゐた。     それもしばし、もどかしと焦心(あせ)つて、茶屋町の酒の憂きを払ふやうになつた男の心を、さう    とは酌まぬ仲人の為に、結ばる縁も其侭(まま)となつて、男は猶更酒に浸り、うなだれがちの百合の    花は、一しほ頭(かしら)おも気(げ)に、露しげき憂き目をおくつて、心やりには一心一念に、恋人が    激(はげ)ませし絵筆を命と、其人のさゝやきを思出(おもいで)ては絹をのべ、導かれ、手をとられる    やうな夢心地に絵筆に縋り、丹青の業(わざ)に、思ひの色をこめてゐたのであつた。     其頃の百合子よ、万年娘と嘲(そし)られても、何日(いつ)も島田髷に取上げさせ、両の袂や襟さき    に枝垂れ桜の好みの染の紫羽織、麻の葉鹿の子をしぼらせた古(むかし)もやうの小袖、見るからに初    々しく、何処(どこ)までも初恋になやむ乙女のさま、見る人に、すこしは訳知るものに、その心中の    いた/\しさに涙ぐませたのであつた。さうした心のいたみと優しさが、今の代に似るものもない、    美人絵を描く一人の人につくりあげたのである。     むかし西の京に染屋の娘、浮世紺屋の名代女(もの)にて、姿にお春(しゆん)と名に立つたもの、祇    園町を日傘に顔かくして通りかゝつたを、四條の芝居の吉弥が見染めてあとをつけさせ、一丈二尺の    大幅帯、くけめのすみに鉛のしづをかけて、お春の帯の結びやうを舞台にもちひ、吉弥結びの名を残    したといふ、姿のお春は柳のすがた、この浮世絵の蕉園、恋の百合子は心の姿のしほらしさ、顔かた    ちより幾層か生れまさり、心のにほひのゆかしい女である〟  ☆ 大正三年(1914)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(大正三年刊)    蕉園画『相合傘』口絵 池田輝方 同蕉園合作・装幀 橋口五葉 泉鏡花 鳳鳴社(7月)〈2ページ大色摺折込口絵〉  ◯『読売新聞』(大正3年11月1日)   〝よみうり抄    池田輝方氏 及び蕉園女史はこの程府下田端東台四七七に移転したる由〟  ☆ 大正五年(1916)  ◯『【大正五年度/現代日本画】帝国絵画番附』番付(編集者・出版元記載なし 大正五年刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)    ※は閨秀画家【 】は流派( )は長所    (受賞)は文展第1回(明治40年・1807)~第9回(大正4年・1915)までの受賞歴   〝文展作家   (三等賞格)    池田蕉園【浮世】(美人)府下田端東台四七九(受賞 三等:第1-6回・9回 褒状:8回 入選:7回)    〈三等賞格では他に荒井寛方・鈴木華邨・尾形月耕が入る〉  ☆ 大正六年(1917)(十二月一日逝去 三十三歳)  ◯『読売新聞』(大正6年12月2日)   〝蕉園女史 宿痾の肺患できのふ逝去す    昨年十二月、ふと感冒にかゝられたのが原因となり、肋膜より肺患を併発して、府下瀧の川田端四七    九のお宅に、夫君輝方画伯の手篤き看護を受け専ら静養中であられた閨秀画家池田蕉園女史は、この    十一月半より病勢とみに進み、昨今は危篤を伝へられて居ましたところ、時雨わびしう降りまさる昨    一日午前十一時遂に眠るが如く逝かれました。女史は本名を百合子と呼ばれ 榊原浩逸氏の長女とし    て、神田区錦町に生れ、富士見小学校卒業ののち女子学院に学ばれ、越えて十六の時、故水野年方画    伯の門に入り 次いで川合玉堂画伯に師事し    夙に天才の誉高く、文部省天覧会には第一回より出品していつも入選されぬことなく、特選一回三等    賞五回を得、その他東京勧業博覧会美術及び工芸展覧会大正博覧館等にて賞牌をうけられたことは殆    んど数知れず、京都の上村松園女史と共に閨秀画家中の双璧と称せられ、お心ばえも又温順に非常に    愛情に富んで居られた方でありました。    輝方氏に嫁せられたのは明治四十四年七月、輝之(六つ)と呼ぶ可愛いお子さんもあられますのに春秋    に富む三十三歳を一期として逝かれたのは惜しみても猶余りあることであります。因みに女史の葬儀    は四日午後一時、途中葬列を廃して谷中斎場に於て仏式を以て営まれるとのことです〟   〝風俗美人画が最もお得意  大野静方氏談    女史及び女史の夫君輝方氏と同じく年方画伯の門にが学ばれたる大野静方氏は愁はしげに語られるや    う    「女史は家庭的の極(ごく)優しい方でしたが、矢張りどんな時でも絵筆は放された事のない位に熱心     でした。出世作としては第二回技術展覧会に出品した「宴の暇」最後の作は去年の文展に出品した     「去年(こぞ)のけふ」で、風俗美人画を最も得意とされ昨冬は 皇后陛下御前揮毫の栄をさへ荷は     れましたが それ以来病気のため筆を執られませんでした、女史の趣味は演芸で、夫君輝方君が左     団次と寿美蔵を贔屓にされるところから、左団次のかゝる度(たび)毎(ごと)に三度も四度も夫君と     同伴で行かれた位で 病中も輝方に芝居を見て来てそのお話をして下さいと度々云はれたほどでし     た。昏睡状態に陥られる前、輝方君に洩らされた女史の感想は、手篤き夫君の介抱を心から感謝し     て何も思ひ残すことはないと満足して語られ 淋しい笑(ゑみ)をさへ洩らされたとのことです。輝     方君は実際よく看護され 殆んど夜もまんじりと眠られぬ位でした、今死(なく)なられたのは真に     惜しいことですが、名と恋とを遂げて逝(ゆ)かれたことはせめてもの心やりでありませう、女史の     門下には男女合せて六十名余あります」云々〟    ☆ 没後資料  ☆ 大正七年(1918)  ◯『美術界総まくり鵜の目鷹の目』(能勢律 莫水社 大正七年十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝蕉園女史の義侠 72/101コマ    池田蕉園の門下に吉田縫子といふ可愛らしい娘があつた。日頃孝行者との評判で、その親爺は洲崎の    名物男直甲子の主人だが、梅暦の文句のやうに場所に似合はぬ侠気が累を為して、破産の否運に陥つ    た。縫子は大に悲しみ、芸者にでも身を売つて一時の急を救はふと言ひ出したが、そんな真似はさせ    られぬと親爺が承知しないのを聞いた師匠の蕉園女史、良人の輝方画伯と相談の上、半切五百枚を描    いて縫子に与へ、それで負債の目鼻をつけさせることにしたとは、今では女子の義侠を語る逸話とな    つて居る〟  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正七年刊)    蕉園画『木村又蔵』口絵 蕉園・装幀 未詳 一龍斎貞山 博多成象堂(12月)(長編講談文庫21)〈2ページ大折込口絵〉       (巻末広告)「故池田蕉園女史口絵」  ☆ 昭和以降(1926~)  ◯『浮世絵師伝』p99(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝蕉園    【生】明治十八年(1885) 【歿】大正六年(1917)-三十三    【画系】年方門人     【作画期】明治~大正    榊原氏、本名は百合子、大阪に生れ、東京に出でゝ、水野年方及び川合玉堂氏に学ぶ、明治四十年七月、    同門生の池田輝方と結婚して姓を池田と改む、大正元年文部省第六回美術展覧会へ「ひともしごろ」を    出品して褒状を受く、第七回へは「ねがひ」第八回には「中幕のあと」、第九回展には「こぞのけふ」    一対を出品して特選の賞を受く、最後の作である〟    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「男優りの女流画家 晴湖女史から蕉園女史まで」p279   〝年方画伯門下の花形榊原蕉園、同門の秀才池田輝方と恋のローマンス、輝方は木挽町の建具屋棟梁の息    子さん、一方は堂々たる元日鉄の重役、話がもつれて師門を飛ぴだした輝方、地方を回って放浪の旅、    師を始め同門諸子も心配して大骨折の結果、ようやく納まって放浪の旅、師を始め同門諸子も心配して    大骨折の結果、ようやく納まって池田夫人となった蕉園女史、恋は遂げたが不幸にも数年ならずして大    正六年歿、明治最後の花は散った〟    △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「下谷区」谷中墓地   〝池田蕉園(画家)名百合、輝方の妻、水野年方門人。美人画をよくし、当時閨秀画家として盛名を馳す。    大正六年十二月一日歿。年三十三〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
   「歌川系図」〝水野年方門人 池田蕉園〟