Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ しずかた おおの 大野 静方 浮世絵師名一覧
〔明治15年(1882)1月25日 ~ 昭和19年(1944)9月14日・62歳〕
 ※「近代書誌・近代画像データベース」(国文学研究資料館)  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯「月岡芳年翁之碑」明治三十一年五月 芳年七回忌 向島百花園に建立   〝年方門人 大野静方〟  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第七回 日本絵画協会展 明治三十二年三月開催 於上野公園旧博覧会跡第五号館)    大野静方 吉野の雪 二等褒状 ・高倉の宮  ◯『東京専門書画大家一覧表』番付 東京(市橋安吉編集・出版 明治三十二年六月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝南北各派画 大野静方 深川〟  ☆ 明治三十三年(1900)  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第八回 日本絵画協会展 明治三十三年四月開催 於上野公園旧博覧会跡第五号館)    大野静方 吉凶  ◯『こしかたの記』(鏑木清方著・原本昭和三十六年刊・底本昭和五十二年〔中公文庫〕)   ◇「傘谷から京橋へ」p130(明治三十三年記事)   〝 浮世絵の出ではあるが、師の年方が日常歴史画を主として画いた関係もあったろうが、この年の八月    に先生の宅で開かれた研究会では、輝方が「知盛入水」静方が「伊賀の局」私も「劉備」「仁徳天皇」    他に画題を不明ながら寛方の歴史画がある。寛方は後に美術院に属した荒井寛方なので、その歴史画は    不明ながら、私や輝方がこれに筆を染めているのも一つには時世であろう、容斎派の盛りの頃から歴史    画が日本画の主流と見られる傾向を示したのが、日清戦争の済んだ後はその擡頭は一層目立って、歴史    画、歴史小説の流行を促した。代表的は出版者であった博文館では歴史関係の出版は少年ものにも及ん    でいた。「読売新聞」は歴史画題を募って、日本美術院がこの課題制作を採り上げた。街頭にはまた    「われとにかくになるならば、世を尊氏の代となりて」の歌声が続けられていた〟  ☆ 明治三十四年(1901)  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第十回 日本絵画協会展 明治三十四年三月開催 於上野公園旧博覧会跡第五号館)    大野静方 婚礼 一等褒状 ・霜  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第十一回 日本絵画協会展 明治三十四年十月開催 於上野公園旧博覧会跡第五号館)    大野静方 木村重成 二等  ☆ 明治三十五年(1902)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十五年刊)    静方画『教育小説』金港堂(8月)     「松ヶ谷村」大石霧山  挿絵 輝方 「尼法師」竹田仰天子 挿絵 輝方     「人の哀」 徳田秋声  挿絵 輝方 「白菊記」山岸荷葉  挿絵 寛方     「郷先生」 田村松魚  挿絵 静方 「玉霰」 柳川春葉  挿絵 静方     「初霜」  幸田露伴  挿絵 寛方  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第十三回 日本絵画協会展 明治三十五年十月開催 於谷中初音町日本美術院)    大野静方 月夜  ☆ 明治四十年(1907)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治四十年刊)    静方画『帰郷記』口絵・装幀 静方 堀内新泉 成功雑誌社(6月)    〈刊年月は41年刊5版奥付による〉  ☆ 明治四十一年(1908)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治四十一年刊)    静方画『全力の人』口絵・装幀 静方「オ」印 堀内新泉 東亜堂書房(前後編 6月)  ☆ 明治四十二年(1909)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治四十二年刊)    静方画『逆境の勇士』口絵・表紙 静方 堀内新泉 成功雑誌社(1月)  ☆ 明治四十四年(1911)  ◯『現代全国画家録』(平田三兎編 丹青書房 明治四十四年四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝秋菊 大野静方  東京 浮世派 風俗〟   〝潤筆価格標準(価格 原文は漢数字)     類別   区分 価格    区分 価格     秋菊之部 精  7円以上  疎  4円以上    右潤筆価格ハ絹本尺五(幅壹尺五寸/丈四尺)ヲ度トシ精疎二様ノ概価ヲ表示シタ    ルモノニシテ、額面屏風其他極彩色ノ密画ハ此ノ限リニアラズ〟    〈本HP「浮世絵事典」【う】「浮世絵師人名録 明治編」参照〉  ☆ 刊年未詳(明治)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(刊年未詳)   「当世風俗寿語録」輝方 静方 清方他 秋山加弥 ②  ☆ 大正元年(明治四十五年・1912)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(大正元年刊)    静方画『朶(えだ)』口絵のみ 大野静方 増本河南 福岡書店他(10月)〈2ページ大折込口絵〉  ☆ 大正二年(1913)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正二年刊)    静方画『努力』口絵のみ 大野静方 堀内新泉 東亜堂書房(1月)  ☆ 大正三年(1914)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(大正三年刊)    静方画『誓の巻』口絵のみ 静方 鏡花小史 大盛堂(12月)  ☆ 昭和以降(1926~)    ◯『明治東京逸聞史』②p447「後記」(森銑三著・昭和44年(1969)刊)   〝 大野静方さんは、「日本及日本人」の表紙画、裏絵その他を何十年にも亘って、一人で描きつづけた    画家であるが、その大野さんが或時、「日本及日本人」が来ると、埋草の六号記事だけを読みますと、    同誌の記者にいわれたという。それを聞いて、私は思わず噴(フキ)出した。     主要記事は措いて問わず、頁の余白を埋める六号活字の短文だけを見るなどというは、編輯者にとっ    て、おおよそ頼りない読者といわなくてはなるまい。しかし「日本及日本人」の埋草そのものを考える    と、一概に大野さんは笑われない。同誌の埋草の作製には三田村鳶魚翁が当り、山中共古、林若樹、三    村竹清などの歴々が、手稿を寄せてそれを助け、更に南方熊楠などという特異の学者も、随時に中間入    りをせられた。だからそれらの埋草は、他誌には見られぬ異色のあるものだったのであり、「日本及日    本人」の埋草は、同誌の特色の一つを成していたと、はっきりいうことが出来る。主要記事を無視した    というのはとにかくとして、その埋草の記事を喜んだ大野さんには、大野さん独自の読み方があったと    いってもいい〟      ◯『こしかたの記』(鏑木清方著・原本昭和三十六年刊・底本昭和五十二年〔中公文庫〕)   ◇「口絵華やかなりし頃(二)」p205   〝 昭和十七年に、大東出版社発行の、大東名著選というシリーズに、私の友人大野静方の「浮世絵と版    画」には、木版摺に関して極めて詳細な説明が行われている。それは主として錦絵のために説いたのだ    が、口絵とて全くこれと同じである。     この書は浮世絵発祥以来、その執筆時まで一貫して精密に記録して、その流派人のみならず、風俗を    画く作家も汎(アマネ)く取り上げ、人名の伝わらないものまで多数を収めてあるが、そこに最も特色を認    める。同じく友人山中古洞の「挿絵節用」(昭和十六年、芸艸(ウンソウ)堂発行)と共に、烏合会会員の両    君にこの好著あるのは私にとっても欣ばしい。二書とも、坊間なかなか得難かろうが、好事の人に薦め    たい〟       ◇「烏合会」p216    (烏合会会員)   〝 静方は本名兵三郎、明治十五年、深川木場に生れた。長兄山本松之助氏(笑月)は、「朝日新聞」に    社会部長だったことがある。次兄は今も健在な長谷川如是閑叟で、最も早く私は山本氏と相識った。三    氏の厳父山本金蔵氏が経営された浅草公園の花屋敷に、「やまと新聞社」が主催で百物語の催しがあっ    た時、まだ少年だった私も父に引き添うてその席に列した。文学を好む若主人の松之助氏は、厚手の鳥    の子紙に彩色絵入、筆がきの冊子、大和錦の表紙を附けた二冊揃いの美しいのを私に与えられた。弟の    大野君を同門に迎えたのは、それから四、五年経ってのことである。君は二人の兄の教養を受けたので    あろうが、多分に次兄の感化があるように思われる。「軍人の児女」に次いで「蔭日向」「農婦」など    いずれもデッサンの正確と、力のはいった描線、光の追究へと、それが皮相な洋風画に墜ちないで、新    しいと云うよりむしろクラシックの要素が多分に示されたのである〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
   「歌川系図」〝水野年方門人 大野静方〟