Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ しんろてい 振鷺亭浮世絵師名一覧
〔 ? ~ 文化12年(1813)11月23日・享年未詳〕
 ※〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」 〔中本型読本〕:「中本型読本書目年表稿」  ☆ 寛政三年(1791)    ◯「咄本年表」〔目録DB〕(寛政三年刊)    振鷺亭画『振鷺亭噺日記』振鷺亭作・画    ☆ 寛政五年(1793)    ◯『四方の巴流』〔江戸狂歌・第四巻〕狂歌堂真顔編・寛政五年刊(推定)   〝勘定の外に春迄引残り注連縄に吹風ぞさむけき〟    ☆ 寛政六年(1794)      ◯「読本年表」〔中本型読本〕(寛政六年刊)    振鷺亭画?『教訓いろは酔故傳』振鷺亭画カ・作    ☆ 寛政七年(1795)    ◯『四方の巴流』〔江戸狂歌・第四巻〕狂歌堂鹿津部真顔編・寛政七年刊   (四方赤良(後の蜀山人)が狂歌堂鹿津部真顔に古今伝授めかして判者をゆずるを寿ぐ狂歌集の詠)   〝音にきく名なしの雉子の声ならん柏手ひゝく杜の朝風  振鷺亭〟    ☆ 寛政十年(1798)    ◯「読本年表」〔中本型読本〕(寛政十年刊)    振鷺亭画?『風俗本町別女傳』振鷺主人画カ・作    ☆ 寛政年間(1789~1800)    ◯「日本古典籍総合目録」〈画工名をあげる作品〉    振鷺亭画『翁曽我』  自作 『見通三世相』 自作    〈『洒落本大成』は画工名を特定せず。二作ともに寛政七年成稿、同八年の出板かとする〉    関東米画『客衆一華表』自作 『玉の牒』自作    〈『洒落本大成』は画工名を特定せず。『客衆一華表』は寛政十二年頃までの刊行。『玉の牒』は寛政年間刊。なお関     東米は振鷺亭の別号とされる。〉    ☆ 享和年間(1801~1803)    ◯『増訂武江年表』2p26(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「享和年間記事」)   〝筠庭云ふ、(当時江戸の戯作者、山東京伝・曲亭馬琴・式亭三馬・六樹園飯盛・小枝繁・感和亭鬼武、    十返舎一九作の批評記事中に)振鷺亭は清長が弟子にて画をかきたり。狂人にて趣向具せず〟    ☆ 文化三年(1806)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇滑稽本(文化三年刊)    振鷺亭画『鳴子瓜』一冊 振鷺亭画・作    ◯『江戸小咄辞典』「所収書目改題」(武藤禎夫編・昭和五二年・一二版)   ◇咄本(文化三年刊)    振鷺亭画『振鷺亭噺日記』自作・自画    ☆ 文化十年(1813)    ◯『馬琴書翰集成』⑥323「文化十年刊作者画工番付断片」(第六巻・書翰番号-来133)
   「文化十年刊作者画工番付断片」    〈書き入れによると、三馬がこの番付を入手したのは文化十年如月(二月)のこと。振鷺亭は作者の部に出ている〉    ☆ 没後資料    ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   「日本橋 古人・戯作者」〝振鷺亭 本船町 家主 与兵衛 後大師河原塩浜(ニ住)〟    ◯『物之本江戸作者部類』(曲亭馬琴著・天保五年(1834)成立)   ◇「赤本作者部」p81   〝振鷺亭    この作者ハ寛政の初より文化のなかば過るまで、読本洒落本中本の作多くあり。只臭草紙ハ作らざりし    に、文化九年の春、新板の臭草紙【十二月晦日(ヒクラシ)五郎/六月朔日(ウリワリ)九郎】四月(ウツキ)八日譚    (モノカタリ)【国直画/鶴屋板】といふ三冊物の作あるを見出したり。この余もある歟。詳ならねども臭草    紙ハ得たる所あらず。小伝は洒落本作者の部、及読本作者の部に在り、合し見るべし〟    〈「日本古典籍総合目録」合巻『四月八日譚』は文化九年(1812)刊〉       ◇「洒落本作者部」p101   〝振鷺亭    濱町のほとり久松町なる大間の家主某甲が子也。【実名を忘れたり】頗(る)才子にて些(チトのルビ)は文    字もありければ、性として戯作を好みたり。寛政のはじめ洒落本を禁せられたる後も、なほその利をお    もふ書賈等行事の検正(アラタメ)を受ずして、私にかの小冊を印行せしもの尠からず。この時に当りて、振    鷺亭が新作の洒落本は、日本橋四日市なる書賈上総屋利兵衛上総屋忠助【利兵衛に仕へて分家せしもの    也】等多く印形したり。その中に深川神酒ノ口といふ小冊は深川の洒落也と聞にき。この余も宣淫の作    あり。そは書名を忘れたり。寛政三四年の比より、浅草寺隨身門外なる水茶屋の茶汲みむすめ難波屋喜    多、両国薬研堀なる高島屋のを初として、処々の煎茶店に美女を置く事流行せしかば、振鷺はこの茶店    のおもむけを小冊に綴らんとて、日毎に処々の茶店に憩ひて、多く錢を費す程に、其書いまだ成らず。    官禁ふたゝひ厳重にて、振鷺が用意いたづらになりしとぞ〟    〈「深川神酒ノ口」は未詳。深川を題材として上総屋利兵衛板の洒落本というと、寛政八年(1796)刊の『見通三世相』     とも考えられるのだが。『洒落本大成』第十六巻『見通三世相』解題参照〉     ◇「中本作者部」p109   〝振鷺亭    洒落本を禁ぜられし後、この作者の綴りたる中本多かり。そが中にいろは醉語伝【全本一巻】は、当時    相撲とり九紋龍が日本橋のほとりにて、巾着剪りとかいふ小賊を捉拉ぎたるといふ風聞あるによりて作    れり。部したる物にあらねども、水滸伝に本つくこと、京伝が忠臣水滸伝より前に在り。又◎(モモン)雅    語【一巻】、うしの日待【二卷】あり。◎(モモン)は作者の自製なるべし。傍訓なけれはよみ得がたく、    その義も亦詳ならす。此余成田道中金ノ駒【二巻】、今西行東くだり【二巻】、千社詣【二巻】、この    三種は一九が膝栗毛を剽竊摸擬したり。しかれども花(異本「尤(ケヤ)」)けきあたり作はなかりき〟     ◯『戯作者小伝』〔燕石〕②36(岩本活東子編・安政三年(1856)成立)   〝振鷺亭    猪苅氏、名貞居、通称与兵衛といふ。本船町の家主也、初め浜町に住居す、画は鳥居清長に学ぶ、後年、    流浪して川崎在大師河原に僑居して、手跡指南して業とせしが、沈酔の上、堰に落はまりて没すといふ、    (以下、作品名あり、略)〟    〈『戯作者撰集』に同文あり〉  ☆ 明治以降(1868~)    ◯『日本美術画家人名詳伝』下p480(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)   〝振鷺亭    江戸ノ小説家ナリ、猪苅氏、名ハ貞居、与兵衛ト称ス、画ヲ鳥居清長ニ学ブ、戯著甚ダ多シ、後チ川崎    ニ移リテ画法ヲ教授ス〟    ◯『本朝画家人名辞書』上(狩野寿信編・明治二十六(1893)年刊)   (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    〝振鷺亭 猪狩与兵衛ト称ス、画ヲ鳥居清信ニ学ビ、江戸浜町ニ住ス、文政年中〟    ◯『狂歌人名辞書』p98(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝振鷺亭、名は貞居、通称猪苅与兵衛、東都本船町に住す、初め画を鳥居清長に学び、後ち戯作者となり    て草双紙数部の著あり、晩年落魄し文化十二年十一月廿三日歿す〟     ◯「日本小説作家人名辞書」p768(山崎麓編『日本小説書目年表』所収、昭和四年(1929)刊)   〝振鷺亭    猪狩貞居、通称与兵衛、江戸の人、本船町に住み家主であつた。鳥居清長の門に入り画を学んだ。戯作    を通じて外題に一種の特長を帯び、奇人の性格がある。後年川崎大師河原塩浜に住み手跡の指南をして    ゐた。文化十二年十一月二十三日歿。「翁曾我」(寛政年間刊)「鳴子瓜」(文化三年(1806)刊)の    作者〟    ◯『浮世絵師伝』p103(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝振鷺亭    【生】       【歿】文化十二年(1815)十一月二十三日    【画系】清長門人  【作画期】寛政~文化    猪川氏、名は貞居、俗称与兵衛、浜町(或は本船町)に住し、其の家甚だ富裕なり、戯作をよくし傍ら    浮世絵を描く、而して、其が自作の洒落本などに自から挿画せるものあり。後年落魄して川崎在大師河    原村に移り、手跡指南を以て業とせしが、一日大酔して堰に墜ちて死すと云ふ〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔振鷺亭画版本〕(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    作品数:52点(このうち自作自画は8作品)    画号他:猪苅・貞居・猪刈貞居・振鷺亭・関東米・丁子匂人・振鷺亭主人・振鷺亭貞居・        振鷺亭丁子匂人    分 類:洒落本13・読本13・合巻13・滑稽本7・咄本4・教訓1・評判記1    成立年:寛政1~3・5~8・10年  (10点)(寛政年間合計15点)        寛政享和頃 (1点)        文化2~3・5・7・9~14年(25点)(文化年間合計26点)    〈自作自画は、寛政三年(1791)に1点、寛政年間に4点、寛政享和頃に1点、文化三年(1806)に1点と、寛政期に集     中している〉