☆ 嘉永三年(1850)
◯『藤岡屋日記 第四巻』p135(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)
〝(七月)馬喰町山口藤兵衛板元ニて、四国合戦伊予掾純友謀反船軍焼討之図三枚続き、貞彦画にて出板
致し、七月十一日絵双紙問屋名主八人、通三丁目寿ぇ寄合之節、右之絵を改出し候処に、船軍の躰相い
かにもイギリス軍船の模様に能く似たる故に、先売出しは差扣へ可申之由被申候に付、先は配りは相な
らず候、尤先達て名主改め割印は出居り候。
改めはすみ友なれば伊予のぜふ摺りいだしたら山ぐちを止〟
〈貞彦画「四国合戦伊予掾純友謀反船軍焼討之図」は、名主の改めは済んでいたが、売りだしはならなかった。理由は
画中の船がイギリスの軍船に似ているというものである。なお、この貞彦、『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世
絵師」には見当たらない〉