Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ まとら おおいし 大石 真虎浮世絵師名一覧
〔寛政4年(1792) ~ 天保4年(1833)4月14日・42歳〕
 ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』〔国書DB〕:「国書データベース」  ☆ 文化二年(1805)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕   ◇絵本(文化二年刊)    大石真虎画『麁画早手本』三冊 大石真虎画歟 河内屋喜兵衛板    ☆ 文政十年(1827)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕   ◇絵本(文政十年刊)    大石真虎画    『酔墨帖』一帖 抱一・春暁斎・豊彦・景文・孔寅・文晁・真虎・皓月永春・公長他            七十五翁六樹園序    ☆ 文政十一年(1828)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕   ◇絵本(文政十一年刊)    大石真虎画『麁画国風』二冊 画師大石真虎 森川竹窓序 河内屋喜兵衛板    ☆ 文政十二年(1829)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕   ◇絵本(文政十二年刊)    大石真虎画『神事行燈』初編 一冊 大石真虎図 紅梅園板    ☆ 天保三年(1832)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕   ◇絵本(天保三年刊)    大石真虎画    『百人一首一夕話』九冊 大石信虎図 尾崎雅言著 敦賀屋九兵衛板    『麁画百物』   二冊 画工大石真虎画 敦賀屋九兵衛板    ☆ 天保四年(1833)    ◯「往来物年表」〔国書DB〕(天保四年刊)    大石真虎画『女小学教草』奥付「画工 大石真虎」文海堂主人序 敦賀屋九兵衛      天保四年十二月再刊 大坂 享保十年刻成 宝暦十三年五月新刊 嘉永五年六月四刊    ☆ 没後資料    ☆ 天保十三年(1842)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕   ◇絵本(天保十三年刊)    大石真虎画『厳島図会』十冊 大石真虎 藍江他画 厳島神庫蔵板    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)     〝大石真虎     百人一首一夕話〈ひとよばなし〉  神事行燈     厳島名所図会(尤よし)〟     ☆ 嘉永五年(1852)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕   ◇絵本(嘉永五年刊)    大石真虎画『女小学教草』一冊 画工大石真虎 敦賀屋九兵衛板   ◯『京摂戯作者考』〔続燕石〕①339(木村黙老著・成立年未詳)   (浮世絵師の項)   〝大石真虎 尾州の人〟    ◯『古今墨跡鑒定便覧』「画家之部」〔人名録〕④246(川喜多真一郎編・安政二年春刊)   〝大石真虎【尾張ノ人、専ラ皇朝ノ古画ヲ摸シ、殊人物調度ヲ写ス事ヲ善クシテ、其時代ヲ想像セラル、    実ニ一家ノ画風タリ】〟    [印章]「年魚市郡故郷」・「真虎」・「浪越之地故郷」    ◯『本朝古今新増書画便覧』「シ之部」〔人名録〕④364(河津山白原他編・文化十五年原刻、文久二年増補)   〝真虎(シンコウ)【大石氏、尾張人、皇朝ノ古画ヲ摸シ故実ニ委ク一家ヲナス】〟    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)  ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪236(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝大石真虎    百人一首一夕話 厳島名所図会 神事行燈〟  ☆ 明治十四年(1881)  ◯『新撰書画一覧』(伴源平編 赤志忠雅堂 明治十四年五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝大石真虎 尾張ノ人、皇国ノ古画ヲ摸シ、故実ニ委ク、画風一家ヲナス〟  ☆ 明治十九年(1886)    ◯『香亭雅談』下p38(中根淑著・明治十九年刊)   〝大石真虎、尾州人、来りて江都に住す、画は土佐氏より出て別に一面を開く、嘗て多く古画巻を閲して、    一一諸臆に留む、故に其の史伝故実を写し、皆拠る所有り、人と為り疎宕、酒失あり、一夕客と深川小    華楼に宴し、酔に乗じて喧闘し、障戸を破り莚席ヲ翻掀す、余激比隣を動かし、事遠近に伝ふ、是に於    て大に懼れ、浪華に奔り、非を悔ひ過ちを改め、一意に絵事を攻(オ)さむ、百人一首一夕話図、当時作    る所なり、蓋し酒を使ひて人と鬭(タタカ)ふ、風雅を傷(ソコナ)ふこと多し、然し此の一失有りて、彼の一    長有り、真虎の如きは葑菲として之を論ずべきなり〟    〈「葑菲」とは長所の意味。原漢文〉  ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『明治廿一年美術展覧会出品目録』1-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治21年4~6月刊)   (日本美術協会美術展覧会 4月10日~5月31日 上野公園列品館)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「古製品 第一~四号」   〝大石真虎 大内裏図 一巻(出品者)川崎千虎〟  ◯「読売新聞」(明治21年5月31日付)   〝大石真虎の伝 第三回 饗庭篁村    (前略)大石真虎は『百人一首一夕話』の挿絵にても人の知る上手なれど 小成に安んぜず図案の新し    くして正しからんことを考へ 常に我が書く画が我が気に入らず書ては 破りて捨つること多かりしと    江戸に行はれずして京都へ上り 或日比叡山に上りしが 古戦記録類に山法師が事を企つる條に 袈裟    を以て頭面(かしら)を包むことあり 我れ法師武者など画かん折には知らで協(かな)はぬ事なりと(袈    裟包みに関する記事あり 省略)進み登りて其事を乞へども 法師等は其の状(さま)のいやしきと 年    の若きを見て嘲り笑ひ 汝ぢ何者なればさる鳥滸(おこ)の事は云ふぞ 袈裟包みの事を聞て何にかする    といふ 僕(やつがれ)は尾張の国の者にて画匠(ゑのたくみ)なりと答ふれど 衆徒は承引(うけひか)ず    汝は絵師といふ人柄ならず 仕過(しすご)しの抜参りか 勘当の伯母便りならんといよ/\嘲る 法師    として左様に人を罵り玉ふは何事ぞ 疑ひ玉はゞ絵を書て見せ申さんといへば 夫は面白い いざ書け    画をよくせば包みやうを教へんと 紙筆を出し与へたれば 真虎は快よく筆を揮ひたるに 衆徒はいた    く先の言(ことば)を謝して 望みの如く袈裟にて覆面(ふくめん)する事を教へたりと(後年名古屋へ帰    り もとの師たりし渡邊清に逢ひ 世の絵師皆な 袈裟覆面(づゝみ)の事を知らず 角(かく)頭巾被り    しやうに書く事の可笑さよ 今その仕やうを君に伝授せんと 二人の法師を画きて委しく教へたりとぞ)    此旅の次手(ついで)にやありけん 長崎まで至り同地にしばらく止(とどま)りしが 絵を業とせしか    又は絵は売ぞして幇間の如きことして餬口せしか 同地にありての日記の如きものあれど みだりがは    しき節多ければ爰に略す また大坂に遊び後に安芸の厳島へ渡り 大連(おほむらじ)の古印を納めし事    あり 厳島絵馬鑑の表紙裏を書しも かゝる因(ちなみ)ありてなるべし 名古屋に帰へりまた大坂に出    (い)でなど 常住の所なかりしは此人の一癖ならん    大坂にありしころ(幇間をせしといふ頃か)吉田屋に蔵する夕霧の文を美しく板に摺りて 発句など添    へ百五十回忌の追福として 雅客(みやび)たちにおくる者あり 真虎おもへらく 夕霧のみ追福の業あ    りて 其沙汰伊左衛門に及ばざるは不公平なり 男権拡張の為め(などゝ筋張つた事は其頃は云はず)    我伊左衛門の追福を営まんと 青中といふ悪紙へ自画と追善の句を摺りて配りしが いと面白しと 愛    (めで)たる人もありしと     曲亭馬琴の『蓑笠雨談』に「七月晦日大坂下寺町 浄国寺へ夕霧が墓見にゆけり(中略)花岳芳春信     の六字を刻し 両の脇には延宝六戊午正月六日 俗名あふぎや夕ぎりと 彫入云々」とあるによりて     算ふれば百五十回忌は文政十年にあたれり 真虎このとき三十六歳なり〟  ☆ 明治二十四年(1891)   ◯『古今名家新撰書画一覧』番付(樋口正三郎編集・出版 明治二十四年十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝和画諸流 無論時代(第三番手グループ)    (筆頭)東京 大石真虎 河鍋暁斎     東京 歌川国松〟  ☆ 明治二十五年(1892)  ◯『日本美術画家人名詳伝』上p126(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝大石真虎    尾州ノ人ニシテ江戸ニ住ス、画ハ土佐派ニ出テ一面ヲ開ク、嘗テ多ク古画巻ヲ閲シテ一々諸レヲ臆ニ留    ム故ニ其典ナラザルカ故史事ヲ写ス、皆ナ拠ル処アリ、人ト為リ疎宕ニシテ酒失アリ、一夕客ト深川小    華楼ニ宴シ、酔ニ乗ジテ喧闘シ、障子ヲ破リ莚席ヲ翻掀シ余激比隣ヲ動カシ、事遠近ニ伝フ、是ニ於テ    大ニ懼レ、大坂ニ奔リテ非ヲ悔ヒ過チヲ改メ、一意ニ絵事ヲ収サム、百人一首一夕話図ハ当時作ル処ノ    物ナリ(香亭雑談)〟    ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『浮世絵師便覧』p225(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝真虎(マトラ) 名古屋の人、渡邊周渓門人、後に剃髪せり、俗称順平、大石氏、天保四年死、四十二〟    ☆ 明治二十七年(1894)  ◯『名人忌辰録』上巻p20(関根只誠著・明治二十七年刊)   〝大石真虎 鞆屋    尾州名古屋の人。幼名小泉門吉、後大石門太、又衞門七と改む。天保四巳年四月十四日歿す、歳四十二。    名古屋大頂真福寺に葬る〟    ☆ 明治二十九年(1896)  ◯『名家画譜』上中下 金港堂(12月)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝上巻 目録 故大石真寅「仁田四郎入洞穴」〟  ☆ 明治三十年(1897)  ◯『古今名家印譜古今美術家鑑書画名家一覧』番付 京都    (木村重三郎著・清水幾之助出版 明治三十年六月刊)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   〝近代国画名家〈故人と現存とを分けている〉    ※Ⅰ~Ⅳは字が大きさの順。(絵師名)は同一グループ内の別格絵師。    〈故人の部は字の大きさでⅠ~Ⅳに分類。(絵師名)はそのグループ内の別格絵師〉    Ⅰ(狩野探幽・土佐光起・円山応挙)酒井抱一 渡辺崋山  伊藤若沖    Ⅱ(谷文晁 ・英一蝶 ・葛飾北斎)田中訥言 長谷川雪旦    Ⅲ(尾形光琳・菊池容斎・曽我蕭白)岡田玉山 司馬江漢  浮田一蕙 月岡雪鼎 高嵩谷      蔀関月    Ⅳ 大石真虎 河辺暁斎 上田公長 柴田是真 長山孔寅 英一蜻  英一蜂 佐脇嵩之      高田敬甫 西川祐信 橘守国  嵩渓宣信 英一舟  葛飾為斎〟    〈江戸時代を代表する絵師としての格付けである〉  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(71/103コマ)   〝大石真虎【文政元~十二年 1818-1829】    通称順平、名古屋の人にて、渡辺周渓の門弟となり、板本数部を画けりとぞ、真虎は浮世絵師ならねど    画名一世を轟かし、其の行為の奇異にして滑稽なる、人お頤(おとがい)を解くもの多し、天保四年没す、    享年四十二    (板本リスト三作 書名省略)〟  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(143/218コマ)   〝大石真虎    尾張の人にしえ 江戸に住せり 土佐風の画を学び研究して一家の格を出だし 気骨稜々として 趣味    深し 嘗て百人一首一夕話図を作りて 誉に称せらる 此の人多く古画巻を閲みし 一々之れを臆に留    む 故に其の画皆拠る処あり 天性疎宕にして 物に拘はらず 酒失ありて 往々過ちを生ず 後悔恨    して浪華に去るといふ(香亭雅談 名家全書 鑑定便覧)〟  ◯『浮世画人伝』p139(関根黙庵著・明治三十二年五月刊)   〝大石真虎(ルビおほいししんこ)    大石真虎、幼時は小泉門吉、壮年の頃大石小門太、後ちに衞門七、また寿太郎と改名せり。鞆舎は其号    なり。寛政四年、尾州名古屋門前町に生る。父は医師にして、小泉隆助と云ふ。氏を大石と改めしは、    小泉家は、大石良雄の後なるを以てなりと云ふ。真虎、初め画を月樵に学び、樵谷と号したりしが、其    後有職故実を研究し、渡邊清に就きて学べり。これよりして真虎と称せり。其画風は諸家を参照して、    別に一機軸を出(イダ)し、頗(*スコブ)る風韻の尚(*トウト)ぶべきもの多し。麁画(ソガ)国風、麁画百物、    神事行燈、百人一首一夕話等の挿画は、皆其非凡なる画才を顕はせり。殊に百人一首一夕話の挿画の如    きは、洽(*アマネ)く人口に膾炙して、希有の傑作たり。これによりて、真虎が有職故実を百端検討せし苦    心を見るべし。真虎、或年、松平楽翁公の命により、舞楽の木偶に模様を施せしことありしと云ふ。後    ち去りて京阪以西の地方を遊歴し、或日、京都比叡山に上り、古戦記録に、山法師が一朝事あるの時に、    袈裟を以て頭を包むことあり、蓋し法師武者を画かん時、知らで協(カナ)はぬ事なりとて、袈裟包みの    事をそこの法師等に乞ひ、尋ぬれども、真虎が容子(ヨウス)の卑しげなるを見て、法師等は鼻の先にてあ    しらひ、剰(アマツ)さへ嘲り笑うて、其包みかたを教ふべき様(ヨウ)も見えざりけり。真虎は只管(ヒタスラ)乞    うて止まざりければ、法師等口を揃へて、汝(*ナンジ)烏滸(*オコ)なる事を云ふものかな、そも袈裟包み    の事を聞きて何をかなす、汝は何国の誰れなるぞと云ふ。真虎答へて、我れは尾張の国の画人、大石真    虎と云へるものなり。法師武者の絵を画かん折、袈裟包みの事、知らで協はぬ事なり。願ふは其法を知    らせ給へと云ふ。法師等云へるは、汝画人ならば其証拠に一筆画きて見よやとて、筆紙を与へければ、    真虎大に打喜び、比叡山頭、黒雲烟を生じ、点々横斜、見事に揮毫しければ、法師等も感に堪へ、前言    の麁忽(ソコツ)を謝し、袈裟包みの事、最(イ)と精しく教へけり。真虎其後、法師武者を画き、其教へられ    し如くに、袈裟包みを施し見るに、其画真に迫れりと云ふ。之を要するに、真虎が猥(ミダリ)に先人の画    法を踏襲せず、自ら其実際に就きて、新趣向を案出して、絵画の神髄を得る、大率(*オオヨソ)此の類なり、    世に真虎は、浮世絵師にあらずと云ふ人もあれども、深く北斎の画風を慕ひ、北斎其儘(ソノママ)の画をも    のせし事あれば、其浮世絵師たるや疑ひなし。真虎、天性粗放磊落にして、殊に機智に富み、其行為の    奇異にしてをかしき事、実に其比類(ヒルイ)を見ざるなり。其一例を挙れば、真虎の知れる菓子屋の夫婦、    常に喧嘩口論を事とし、殺せ、打て、なぐるぞ抔(ナド)の声喧(カシマ)しく、近家の迷惑云はん方なし。知    れる人々、仲裁の煩に堪へず、後ちには其儘になし置きたり。今日(コンニチ)しも例の夫婦喧嘩始まり、夫    は棒を振り上げ、妻は口を尖らせ、形勢頗(*スコブ)る面白くなりけり。人ありて之を真虎に告ぐ。真虎    急ぎて菓子屋に到り、見れば、今や喧嘩の最中にて、頑是(*ガンゼ)なき近辺の子供等や面白がり、連は    其前に立塞(*フサガ)りて、見物してけり。真虎其中を割つて入り。夫婦の方は見向きもやらず、そろ/\    菓子箱の方に進み行き、中に入たる菓子を遠慮なく掴み出し、群(*ムラガ)る子供の中にバラリ/\と投    げければ、子供等は嬉しき事に思ひ、茲(*ココ)に/\と、両手を拡げて争ひ拾ひけり。此方(コチラ)の火    花を散して揉合ふ夫婦、この体を見て仰天し、喧嘩の手を止めて、こは何事ぞと真虎をなじれば、真虎    平然として答へて曰く、御夫婦は、只今まで殺せ殺すとの掛声にて、劇(*ハゲ)しき喧嘩、見ればお子供    衆もなき様子、御両人御死去の跡に、此の菓子のみ残りても無益の事なり。されば何(ド)ふで死ぬるに    極(キ)まりたる御両人、責(セ)めてはまだ気息のある内、追善に代ふるに、此の施しが増しならんと存じ、    余計ながら老婆心を起して御座る。必ずおかまひなさるなと、猶(*ナオ)も菓子を掴み出さんとするにぞ、    夫婦は呆れて物をも得(*エ)云はず、漸く其手を止めさせける。夫婦もこれに懲りて、其後は全く喧嘩口    論を止めたりとぞ。其他真虎の逸事奇談、挙げて数ふ可(*ベカ)らず。精(クワ)しき事は、饗庭篁村氏著    叢竹を見るべし。偖(*サテ)真虎、後年耳を憂ひて聾(ツンボ)となり、また癲狂病を発し、遂に天保四巳年    四月十四日没す。名古屋大須の真福寺に葬す。碑面の銘は大和絵師大石真虎之墓〟    ☆ 明治三十四年(1901)  ◯『名府諸名家墓所一覽』写本(連城亭主人輯 明治三十四年)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝小泉真虎 姓大石 称小門太 天保四巳四月十四日 大須 宝生院〟  ☆ 明治四十二年(1909)  ◯『滑稽百話』(加藤教栄著 文学同志会 明治四十二年十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝大石真虎夫婦喧嘩を仲裁す(65/123コマ)    大石真虎は名古屋の画家なり、其の隣に毎日夫婦喧嘩をなすものありしかば、真虎之れを根絶してやら    んと思ひゐし矢先、又々喧嘩はじまりしと注進するものありしかば、真虎急ぎて菓子屋の前に行き見し    に、近所の小児等群集して山の如し、真虎仲裁すべしとて人を掻きわけて店にあがるより早く、並べあ    る(ママ)つかみて群る小児等に投げ与へければ、夫婦のもの之れを見て、掴み合ひも何処へやら、左右よ    り真虎にすがりて何をなされますと咎むるに、真虎打ち笑ひながら、汝等は今互に殺せ殺せとて喧嘩せ    しが、何方が死んでも一方は下手人として命をとらる、左れば当家も今日限り故、死後の追福をを営ま    んよりは、生前に施行する方よからんと思ひ、汝等に代りて施行したるなり、此の後とても殺せ/\が    始らば又来りて菩提を弔はんとて立ちかへりしかば、夫婦は顔見合せて呆れしが、其の後喧嘩どころか    仲よき夫婦となりたりといふ〟  ☆ 大正年間(1912~1925)  ◯『芸苑一夕話』下巻(市島春城著 早稲田大学出版部 大正十一年(1922)五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(124/236コマ)   ◇四九 大石真虎     版行の詫び證文     大石真虎は、名古屋に隠れもない画家で、後には名声を四方に馳せた。    名古屋の或る町に町代を勤むる、何某と云ふがあつた。此者、身分の町人であるのを厭ひ、町代である    のを幸ひ、士人(さむらひ)気取りで、肩を聳やかして街路狭しと横行し、其の頭髪も士人に倣つて、前    額を狭く剃り明けて大髷に結つたが、真虎が其の近隣に住し、其士風を粧ふを片腹いたく思ひ、何とか    して彼の頭を町人並に剃り拡げて遣りたいものだと、妙な陰謀を企てた。元来此の町代は婿養子で、女    房は対して権力が無かつた。そこで一策を案じ、町代の平生行く髪結床に出かけ、店主に内々云ふには、    「お身達も知つて居る町代某殿は、養子の御身分で、何事も内儀任せだが、旦那は頭剃り方を人並にし    たいと望むで居らるゝけれど、何分内儀が士人風を好まるゝので、旦那も拠(よんどこ)ろなく狭く剃ら    るゝことは、お前承知の通りだ。実は旦那から内々の頼みだが、これから、来らるゝ毎に、次第々々に    剃り拡げて上げて貰ひたい。旦那は内儀に気兼があるから、直と頼み悪(にく)い。事に依ると、外面を    装ふためお前に小言を云ふ様なことがあるかも知れぬが、辛抱して貰ひたい」と云うて、金一分を遣は    し、誠らしく頼むだので、店主も真に受け、それからは、町代が来る毎に少しづゝ剃り拡げ、あゝ遣り    損つたと云うて、お茶を濁して居た。然る処、いつも/\剃り拡げ、遂には目立つ様になつたので、町    代大いに怒り、なぜいつも剃り拡げるのだと詰つが、店主笑つて相手にならぬので、町代愈々(いよ/\)    怒り、店主も終には実を告げ、大石さんが云々と云ふと、町代始めて真虎の仕業と知り、急に真虎を呼    び寄せ、自分の頭を弄(なぶ)り物にするは、何か怨みでもあつての事かと、さんざんに怒り、真虎より    いろ/\詫びても、なかなか承知せず「汝の如きものは、誤り證文を版にして置くがよい」と罵るを、    真虎もさるもの、家に帰ると、自ら瓦版に證文を彫りつけ、百枚余りも摺つて、仰せの通り、度々失礼    するかも知れぬから、版に摺つて来たと指出した。これには町代も呆れたが、此の事忽ち評判となり、    町代も流石に慚ぢて、それからは謹慎の人となつた〟  ◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)   (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)   〝真虎 本姓小泉氏、幼名門吉、衛門七、小門太、寿太郎等改名す、俗称大石順平、初め張月樵門に入り    し時は、樵谷と号す、後に渡邊清に従学す、別号鞆の舎と云ふ、後剃髪す、名古屋の人、天保四年四月    十四日没、四十二歳〟  ☆ 昭和以降(1926~)  ◯『狂歌人名辞書』p210(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝大石真虎、通称衛門七、又小門太、鞆舎と号す、名古屋の画家、初め月樵に学び、後ち有職故宝を研鑽    し終に画法に一機軸を出す、天保四年四月十二日歿す、年四十二〟    ◯『浮世絵師伝』p192(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝真虎    【生】寛政四年(1792)   【歿】天保四年(1833)四月十四日-四十二    【画系】月樵及び周渓門人   【作画期】文政~天保    名古屋本町通り門前町の医師小泉隆助の二男にして、幼名を門吉といひしが、後ち門太、衛門七・寿太    郎などゝ屡々改称し最後に順平と改む、彼は初め小泉を氏とせしが、其の先大石良雄より出でしとて自    から大石氏に変へしなり、又彼が月樵の門下にありし頃は樵谷と号し、其の後、渡辺清に就て有職故実    を学ぶに及んで、画名を真虎と改めしとぞ。描く所の絵本及び挿画本は、文政十二年版の『神事行燈』    初編、天保四年版の『百人一首一夕話』、其他若干種あり。墓所、名古屋大須の真福寺〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「文政一二年 己丑」(1827)p207   〝四月、大石真虎・歌芳(ママ)・英泉等の画ける『神事行燈』三編〟   〈『神事行燈』の画工「歌芳」は二編を担当した歌川国芳〉     ◇「天保四年 癸巳」(1833)p211   〝四月十四日、尾張の大石真虎歿す。行年四十二歳〟     ◇「天保四年 癸巳」(1833)p211   〝七月、大石真虎の画ける『百人一首一夕話』出版〟     △『増訂浮世絵』p218(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝大石真虎    名古屋の人、時様の風俗をよくし、墨僊と並んで名声を得た。筆力が強い。幼時は小泉門吉、壮年の頃    大石小門太といひ、鞆舎と号した。父は医者であつた。真虎は初め画を月樵に学び、樵谷といふた。そ    の後渡辺清に有職故実を学び、真虎と改む。粗画図風、粗画百物、神事行燈、百人一首一夕話などの挿    絵を画いた。真虎は挿絵も作り、その画風も北斎に似て居る所はあるが、江戸のものとは違ひ、独自の    風格があり、名古屋画壇の錚々たるものとなつた。天保四年四月十四日没し、名古屋大須の真福寺に葬    つた。享年四十二〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔大石真虎画版本〕    作品数:13点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致しません)    画号他:大石真虎    分 類:絵画6・往来物2・図案1・和歌(百人一首)1・伝記1・川柳1・美術1・武具1    成立年:文政11~12年(2点)        天保3~4年  (3点)        明治年間    (1点)