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☆ くにかめ うたがわ 歌川 国花女浮世絵師名一覧
〔文化7年(1810) ~ 明治4年(1871)2月18日・62歳〕
 ☆ 文政十一年(1828)    ◯『浮世絵師歌川列伝』「一世歌川豊国伝」p101(飯島虚心著・明治二十七年、新聞「小日本」に寄稿)   (文政十一年八月、初代歌川豊国追悼の筆塚を建立。表に狂歌堂真顔の撰文、背面に当時の門人名あり)   〝碑の背面に、地本問屋仲間中、団扇屋仲間中、歌川総社中、碑営連名とありて、国政、国長、国満、国貞、    国安、国丸、国次、国照、国直、国芳、国信、国忠、国種、国勝、国虎、国兼、国武、国宗、国彦、国幸、    国綱、国花、国為、国宅、国英、国景、国近(以下略)〟    〈「国花」とあるのが国花女。なお、飯島虚心の『浮世絵便覧』はこの「国花」を「くにはな」と読んでいる〉    ☆ 没後資料    ◯「歌川豊国の娘」(三田村焉魚著『中央史壇』大正十年十月号(『三田村焉魚全集』17巻p283))   〝そのと豊国との間には、ただこのきんという娘が一人あっただけである。きんは七歳の文化十三年に、    下谷御成道(今の黒門町)の石川家へ御奉公に出た。御奉公に上ったとはいうものの、幼年のことだか    ら、乳母が付いておったという。当時の風習で、幼年者が大名の奧向へお茶小姓といって奉公したもの    である。勿論民間から突入するのではない。いずれもその藩の家来達の娘が、御愛嬌に奧方のお側へ出    ているのであったが、豊国の娘は例のお茶小姓ではなくお画具(えのぐ)ときという名目であった。    〈「その」は豊国の妻で西村三次郎の娘。以下、伊勢亀山六万石城主、石川主殿頭(トノモノカミ)総佐(フサスケ)が、きんの父で     ある歌川豊国から画業を習い、歌川国広と名乗った由の記事が続く。本HP豊国の項参照〉      きん女は十歳といふから、文政二年以来、父豊国の手本によって画を習った。無論御成町の石川邸で稽    古しておったのである。現在深川の伊川氏に保存されている豊国の与えたお手本と、きん女のお清書と    は驚くべき画才を示している。一々のお清書に対して、豊国は丁寧に批語を書き加えた。「見事に出来    申候」また「今少し薄墨を濃く致し度候」あるいは「上り極上々吉、見事に出来申候、少しも直しなく    候」もしくは「上り、古今よろしく出来候、何卒此末も此通りにお書き可被下候」などという塩梅であ    った。そのうちの一枚の清書は、きん女の十二歳頃のものと思われる。男舞の極彩色、右傍に浪を描き、    「彩色のな見(ミ)のもよふばかり今一ぺん書べし、手がるに書べし、此の方は今度書べし」、左傍に御    幣を画いて「ごへいのぼふまつすぐに書べし」と加筆したのは豊国である。この批語が他人行儀らしく    見えるけれども、自分に娘でも、石川家にいるのであるから、誰に見せてもいいよう、言葉を注意して    あるのらしい。瀬川菊之丞と関三十郎の似顔絵は、錦絵として刊行されたものである。それには「豊国    門人十一歳きん女画」と明記してもある通り、文政三年に描いたのである。習い始めてわずかに二年、    いくらのお手伝いがあったのかしれないが、男舞のお清書と見較べて、とにかく以上な能力をもってい    たことはたしかであろう。    この錦絵も、御成道の屋敷で、きん女が描いたものである。これも出版する時に、親父は「豊国女十一    歳きん女」と署名させようとした。しかるに本人は、門弟衆と同じように豊国門人と何故書かせないの    かと言って、ついに豊国女とせずに、豊国門人と書いて刊行してしまったということである。このきん    女が十二の時に、父から国花女(くにかめ)と画号を貰った。    〈豊国没後の文政十一年に建立された柳島妙見境内の「豊国筆塚碑」に、初代豊国門人「国花女」として記名されてい     る由の記事あり。また豊国没後妻そのは粕壁の木綿商植村平兵衛と再婚という〉      きん女も市ヶ谷田町の菓子店大黒屋渡辺伊兵衛と結婚して、やがて大黒屋の嗣子金兵衛を頭に、梅女ま    で七人の子の母となったのであるが、きん女が結婚する時分には、父豊国(倉橋)の家は絶えていた。    祖父の西宮三次郎は、豊国よりも一年先きへ物故したから、二度目の父植村平兵衛が婚主になったとい    う。きん女の国花女は、いつ御成道の石川邸から下って、槇町の家にいたのか。父の没後は全く画筆を    抛って、また丹青に従事することもなく、特に大黒屋に嫁しては商家の婦として、なかなか画などを描    いていられるものでない。惜しいものだが、天分を暴殄(ボウテン)してしまわざるを得ぬ。(中略)    滝沢馬琴が「後の為の記」に     歌川豊国は一男一女あり、女子は陰(カク)し子なりければ、生涯父と不通なり、男子は彫工になりたる     が、放蕩にて住所不定なり、因て弟子を夫婦養嗣したり、これを後の豊国といふ、画はいたく劣れり    と書いたのを尊重したい。一男というのが直次郎で、一女というのはいうまでもなくきん女である。    (中略)    二代目が死んで十年も過ぎて、国貞が国芳と激しく名声を争った末に、師匠の実子というので、国貞が    きん女に接近して、襲名の口実を得た。それまでは弟子達の間にも言い出されずにいたらしい。初めて    出版する錦絵に豊国女と書かなかったのも、二代目が門人扱いにしたのも、その女との関係が関係だけ    に、公然と初代豊国の娘だというのに、都合がよくなかったのであろう〟    〈国花女は初代豊国の実子であったが、いわゆる婚外子である。きん女が、実父豊国の勧めがあったにもかかわらず、     「豊国女」の署名を用いず「豊国門人」としたのは、その自覚の表れなのかもしれない〉    ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(65/103コマ)   〝歌川国花女【文政元~十二年 1818-1829】初代豊国の門弟、其の伝詳ならず〟  ◯『浮世絵師伝』p49(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝国花女(カメ)   【生】文化七年(1810)  【歿】明治四年(1871)二月十八日-六十二   【画系】初代豊国の女   【作画期】    名はきん(後に小金)年甫めて十歳(文政二年)の頃より、父豊国に就て正式に習画す、十一歳にして    其の処女作たる役者絵を上梓せり、此頃まで落款には「きん女画」としたりしが、幾ばくもなくして父    より一鳥斎国花女の号を与へられたり。後ち十七歳の時(文政九年)即ち父の歿せし翌年に、市ヶ谷田    町なる菓子商渡辺伊兵衛方へ嫁ぎたれば、作画も自づから廃止したりしならむが、文政十一年の瘞筆之    碑には依然として「国花女」の号を列ねたり。(文学博士坪内雄藏氏の研究に拠る) 墓所青山南町二    丁目龍泉寺〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
   「歌川系図」〝豊国(一世)門人 国花女〟    △『増訂浮世絵』p261(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝歌川国花女    豊国の娘で国かめといふ。名は小きんとて七歳の頃から絵を画いて、伊勢の亀山城主石川氏に仕へて、    絵具溶きをしたといふことである。この石川氏は豊国の弟子で、国広といふた。国花女また国歌女とも    かいて居る。一鳥斎と号した〟