☆ 文政元年(1818)
◯ 文政元年十二月十八日 鈴木牧之宛 曲亭馬琴書翰(第一巻・書翰番号-19)
◇ ①107
〝不佞ハ例の大小も不仕候。然処、下谷辺の歴々方、御慰ミに被成候御自画のすり物へ、拙句を加入仕候様
被為命候。此貴人、豊国にうき世絵御学び故、豊国より此義申通じられ、豊国代句もまけにしてくれ、そ
して只今直ニ認候様被申候。まづ御下画を拝見いたし候処、窓の内外に美女二人立り、窓の下に梅の花さ
けり。よりて、彼使をしばしまたせおき、
元日はをな子の多きちまた哉 豊国代句
梅一輪窓のひたひや寿陽粧 馬琴
と、あからさまに認メ差上申候。只言下に吐出し候と申ばかり、一向をかしからず候〟
〈この下谷辺の歴々で、豊国に浮世絵を習っている貴人とは誰であろうか。三田村鳶魚の「歌川豊国の娘」によると、豊
国の娘きんが奉公に出た下谷御成道の石川家当主で六万石の伊勢亀山城主、石川主殿頭総佐のようである。〝その殿様
のお道楽は浮世画であって、俳優の似顔などを描かれた。そうして画を豊国に習われ、国広という号さえ持っておられ
た〟とある。(『三田村鳶魚全集』第十七巻所収)通常ならこの手の大小画に揮毫はしないたのだが、相手が歴々の画
とあっては馬琴もさすがに断り切れなかったのである〉
◯「歌川豊国の娘」(三田村焉魚著『中央史壇』大正十年十月号(『三田村焉魚全集』17巻p282))
〝(初代豊国の娘・きん(後の国花女)、文化十三年七歳の時、下谷御成道の石川家に「お画具(エノグ)溶き」
として奉公にあがる)
この石川家は、伊勢亀山の城主で六万石、石川主殿頭(トノモノカミ)遊佐(フサスケ)といわれた。その殿様のお道
楽は浮世画であって、俳優の似顔などを描かれた。そうして画を豊国に習われ、国広という号をさえ持
っておられた。江戸三百年の間n、浮世絵の弟子になったり、俳優の似顔を描いたりした大名は、この
石川主殿頭のほかにはない。無類一品の殿様である。豊国代々の紋章になったあの年の字を丸くした紋
所も、亀山侯の徽章であるのを、殿様が初代に襲用を許したそうだ〟
◯『春城随筆』(市島春城 早稲田大学出版部 大正十五年十二月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
※全角カッコ( ~ )は原文の振り仮名、半角カッコ( ~ )は本HPが施した補記
◇六 一鳳斎国広(24/284コマ)
徳川時代の将軍或は各藩の諸侯の中に画を学んだ人は少からずある、中には極めて上手の域に達して
玄人と云つてもよい人もあつた。しかし此等の画は狩野、土佐に非ざれば文人画風のものであつて、当
時頻りに流行した市井の画、即ち浮世絵を能くする諸侯があつたかどうかは疑問に属して居た、といふ
のは此の浮世絵は今こそ国民的の画だと云はれる迄に持て囃されて居るが、徳川時代に於ては士林が賞
翫するを屑(いさぎよ)しとしなかつたものである、随つて諸侯の如きはかゝる画を学んだり、画いたり
することを憚ったものである。
所が調べてみると、矢張り諸侯の中に此の浮世絵に非常に堪能な人があつたことが分つてきた。それ
は近年歌川豊国百年の追善忌を行つた折の天覧会に、豊国初め其の門人等の多くの作品の中に一諸侯の
物した浮世絵が両三点陳列されてあつた。一鳳斎国広といふのが即ち其れで、師の豊国の国の字を取つ
たものである。ところでこれは何処の大名であるかといふと、伊勢は亀山の城主で、石川日向守と云う
た人だ。身は藩主であつたが、化政時代の風気を潤沢に受けた人であると見えて、三代目の菊五郎に四
つ輪の紋所を与へたり、又師たる豊国の為めに年の字を丸くして紋の形にしたものを作つて其れを授け
たりしたやうな通人で、公務の余暇には好んで浮世絵風の美人や或は役者の似顔絵などを書いたりして
独り悦に入つた。其んな事からして豊国の娘のきんといふ者、是は後に一鳥斎国香女(くにかめ)と云
ふ女画師になつたが、其の者を師との関係から自邸に招き、傍らに置いて絵の具解きなどをさせ、又江
戸へ移つた時は乳母附のまゝ自邸に措いたといふ事である。さて右の展覧会に出た此人の画を見るに、
全く玄人跣足といふ位のもので、美人の立姿を書いたものなどは殆んど師の豊国と見紛ふ許りの出来で
ある。其の画には左の如き賛がしてあつた
似たか似ぬか何れをこれと白波の是や瀬川の間なるらん
◯「梅ヶ枝漫録(一)」伊川梅子(『江戸時代文化』第一巻第六号 昭和二年七月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝豊国の弟子に、お成街道に、石川日向守といふ亀山のお大名がありました。雅号は国広といひました。
そのお方に、歌川の定紋になつてゐる、としまるの紋を貰ひました。その時に、三代目の菊五郎も、四
つ輪の紋を貰ひました。その石川様に、私の母が、七つの折に御奉公にあがりました。御絵の具ときと
いふ名目でした〟
◯『浮世絵師伝』p56(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国広
【生】 【歿】 【画系】初代豊国門人 【作画期】文化~文政
伊勢亀山の城主石川日向守、下谷御成街道の邸に住み、浮世絵を初代豊国に学ぶ、其の關係によりて豊
国の一女きん(国花女)を、七歳の時「お絵具とき」といふ名目にて召抱へしと云ふ。豊国の画印とし
て用ゐし年丸の紋は、此の亀山俟より与へしものなりとぞ。(初代豊国の外孫伊川家の伝へに拠る)〟
◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
「歌川系図」〝豊国(一世)門人 国広〟
△『増訂浮世絵』p261(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)
〝国広
伊勢国亀山の城主石川氏の画名で、豊国の門下である。国広と署名した版画がある。町家の若旦那が、
慰に版画を作つて例はいくらでもあるが、国主大名で版画を作つたものは類がなり。注意すべきもので
ある。なほ国広といふたものに、浪速の人で天満屋といふたものがある。それとは、区別しなければな
らぬ〟