☆ 明治二十一年(1888)
<八月 象の曲芸 東京日本橋中洲>
◯「見世物興行年表」(ブログ)
「大象(曲芸の図)」錦絵二枚続 署名「梅堂小国政画」福田熊次郎板
<十一月 曲馬(ウヲージーア)両国回向院>
◯「見世物興行年表」(ブログ)
「墺国ウヲジアー大曲馬」錦絵三枚続 署名「梅堂小国政筆」出版人林吉蔵
☆ 明治二十二年(1889)
◯「おもちゃ絵年表」〔本HP・Top〕
梅堂小国政画
「伊太利亜国チャリネ世界第一大曲馬遊覧之図」「梅堂子国政画」福田熊次郎 明治22年 ⑥
(折変わり絵:画面中央部分が五通りに変わる)
☆ 明治二十五年(1892)
◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十五年刊)
小国政画『歴史叢画』小国政「梅堂」印 牧金之助(12月)
◯「双六年表」〔本HP・Top〕
「幼稚園教育遊双六」「小国政画」板元未詳 明治25年 ⑥〈署名は袋にあり〉
☆ 明治二十六年(1893)
◯「双六年表」〔本HP・Top〕
小国政画
「福島中佐単騎旅行双禄」 「梅堂小国政画」牧金之助 明治26年1月 ⑨
「福島中佐郡司大尉海陸競争双六」「小国政作」版元未詳 明治26年11月 ⑦
「福島中佐道中寿語録」 梅堂小国政 竹内伴良 明治26年 ⑪
<正月 生人形(安本亀八)浅草公園開運館>
◯「見世物興行年表」(ブログ)
梅堂小国政画
「一世一代 鹿児島戦争実説」摺物 署名「梅堂小国政筆」版元未詳
「鹿児島戦争活人形」 錦絵三枚続 署名「梅堂小国政画」沢久次郎版
◯『浮世絵師便覧』p226(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)
〝小国政(クニマサ)
梅堂と号す、◯明治〟
☆ 明治二十七年(1894)
◯『読売新聞』(明治27年8月28日)
〝日清戦争の錦絵 此程又々日本橋区本銀町二丁目井上方より 清親の「清兵自ら広乙号を焼て遁走する図」及び
小国延(ママ)「朝鮮京城之小戦」と題する二版を発行せり〟〈小国延(ママ)は小国政が正しい〉
◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十七年刊)
小国政画
『朝鮮日清憤戦記』口絵・挿絵 小国政 編者不詳 長谷川園吉(8月)12丁
『日清戦争実記』 挿絵・表紙 小国政 菅谷与吉 日吉堂(10月)
『日清戦争実記』 口絵・挿絵・表紙 小国政 菅谷与吉 日吉堂(12月)
〈挿絵は10月本も12月本も同じ〉
◯「双六年表」〔本HP・Top〕
「大日本全勝双六」小国政 牧金之助 明治27年 ⑪
☆ 明治二十八年(1895)
◯「双六年表」〔本HP・Top〕
小国政画
「四季阿曽比幼稚寿語録」小国政 森元順三郎 明治28年 ⑪
「台湾戦争寿語録」 梅堂筆 版元未詳 明治28年11月 ⑦
「松徳葵賑大奥双六」 「小国政」福田初次郎 明治28年12月 ②
◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十八年刊)
小国政画『日清戦争記』口絵・挿絵 小国政 鉄骨将軍 日吉堂(2月)
☆ 明治二十九年(1896)
◯「画家小国政の奇癖」(『読売新聞』明治29年(1896)4月7-8日付記事)
※半角(~)は原文のよみがな。原文はすべてよみがな付き
〝小(こ)国政は歌川派の奇人と知られたる梅堂国政の子にて、日清戦争絵数百番を出してより名声頓に高
まり、其師国周翁も、我がなき後に歌川派の遺鉢を伝ふべき者は小国政を置て他に望ある人物もなしと
て、常に之を励ましけるが、性来奇癖に富みて身持兎角放埒なれば、昨年来戦争画にて儲けたる千円近
くの金は大方遊里に使果して、国周翁の食客となりけるが、以為(おもへら)く、我名を画壇に挙たるは
全く戦争絵なれば、戦死軍人の精霊及び画祖の菩提を弔はんとて、髪を剃りこぼち鼠の衣に朴歯の下駄
を穿き、錫杖をつき笠をかぶりて、諸所の霊場を巡り、豊信、豊国抔(など)の墓へも参詣せり。頃しも
去年の葉月の中半、雨は車軸と降頻る中を、法師姿の小(せう)国政、只独り吾妻橋を浅草の方へと打渡
けるに、両杖に縋りたる老人、ずぶ濡れなりて難儀の体なるを見て、いと不憫に思ひ、若干(いくら)か
恵みや遣らんと懐を探りたれど、一文の持合せも無(なか)りければ、其の住所を問しに、待乳山の先な
る木賃宿に泊り居れりと答ふ。奇癖ある小国政は夫より直に我が父の家へ赴き、残りの衣類を質ひ入れ
て、之を背負ひ、夜に入りて待乳山の先なる木賃宿と云ふを的(あて)に尋ね行しも、夜の事とて知れざ
れば、画工仲間の野口橘園といへるが、当時衣食に窮して投宿せる木賃宿の浅草町に在るを便りて問合
すれば、橘園は小国政が法師姿に風呂敷包背負たるを見て、必定(やつぱり)女ゆゑ失策(しくじり)ての
欠落ちと思ひ、兎に角こゝへ泊りて一ト思案すべしと、親切に言ふもをかしく、実は云々(しかじか)と
事情を語り、此米銭は其老人へ恵まん為めに携へ来りたる訳ゆゑ、共々宿を調べてくれまじきやと頼め
ば、橘園、之は面白し先々(まづまづ)これへと奥座敷へ上げしはよけれど、木賃宿の事とて大なる蚊帳
の内には、六部巡礼など鮨をつけたる如く枕を並べて打伏せる状(さま)、画にもかゝれぬ風情なり〟
(以上七日記事)
〝小国政の物語を聞たるにや、蚊帳の内より七十才ばかりの老婆ノソ/\と這出で、御出家様には何地(い
づち)へお越しなされまするか、婆は西国巡礼のものでござりますると、憐れみを乞ふが如き風情なるに、
イヤ私(わし)は出家ではない画工(えかき)じやが、実は仔細ありて此米銭をさ(一字欠「る」か)老人へ恵
まんと態々(わざわざ)携へ来りたれど、夜分にて宿所も見当らず、明日と云つても探すに面倒なれば、
御前をその老人と思ひて進じませうと、件の米と銭とを与ふれば、婆は太(いた)く打喜び、就てはこれ
まで緒所の寺抔より賜りし品は一々帳面へ扣へ居りますれば、御面倒ながらこれへ御記しを願ひまする
と、差出す帳面を見れば、表は観音経を貼りて、中には某所某寺白米何合銭何程と明細に記載しあり。
小国政つく/\見終りて、老婆が丹精の程に感じけるが、さりとて僅かばかりの米銭を業々(げふ/\)
しく書記さんは人の見る目も恥かしと、婆に向ひ、私は文字かく事が下手なれば、其代りに絵をかいて
進じませると、カンテラの燈火(ともしび)かきたてゝ、蜜柑の古箱を机にかへ、禿筆(ちびふで)おつ取
り、夫(か)の帳面へ大黒天をかきけるに、傍(かたはら)より橘園が、此先生は絵の名人にて、其かゝれ
し絵一枚三円には大丈夫売れると聞て、老婆忽ち欲心を起し、お序(ついで)ながら、何卒七福人をおか
き下されとねだるに、ヨシ/\と容易(たやす)く受け込み、夜半までかゝり、蚤蚊に責められつゝ漸く
書き上げ、夜の明け方になりて帰りしが、夫より一ヶ月(二字不明)て浅草観音前を通りかゝれば、後よ
りモシ/\(一字不明「和」か)尚さまと呼ぶものあるに、何人かとふり返れば、木賃宿にて逢ひし巡礼の
老婆なり。厚く此間の礼を述れば、小国政、何と思ひしか、終に老婆を伴ひて父の家へ連行き、風呂に
入て飯を食せ、また何程かの銭を与へ、様々待遇(もてなし)て返しけるに、両親始め人々は、小国政が
益々狂気の振舞(ふるまひ)に驚きたりと、斯(かか)る気性の小国政、師匠の家の食客も永くは続かず、
さりとて家にも落着かねば、勘当同様の姿となりて、寄る辺なき浪々の有様を、兼て懇意なる日本橋新
乗物町の鰻屋尾張屋の主人が、之を聞き其見込ある腕前を見抜き、此程我もとへ引取り、四畳半ばかり
なる裏手の隠居所を貸し与へて、此画壇の鳳雛(ほうすう)を養ひ居れりとなん〟(以上八日記事)
☆ 明治二十年代
◯「双六年表」〔本HP・Top〕(明治二十年刊)
「昔はなし桃太郎双六」「梅堂小国政画」沢村屋 明治20年代 ⑨〈年代は推定とある〉
☆ 明治三十一年(1898)
◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年六月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(90/103コマ)
〝梅堂小国政【明治元年~三十年 1868-1898】
梅堂国政の男、豊原国周を師とす、日清戦争画数百番を画きて、一時大に行はる〟
☆ 明治三十二年(1899)
◯「双六年表」〔本HP・Top〕(明治三十二年刊)
「雜居寿語路久」「柳蛙」 森本順三郎 明治32年11月 ②〈柳蛙は梅堂小国政の別号〉
☆ 明治三十七年(1904)
◯「近代書誌・近代画像データベース」(国文学研究資料館・明治三十七年刊)
柳蛙画
「日露戦争電報実記 馬賊満州鉄道ヲ破壊ス」三枚続 柳蛙 福田初次郎(2月)
「第四回の旅順攻撃」三枚続 柳蛙 福田初次郎(3月)
☆ 明治四十四年(1911)
◯『現代全国画家録』(平田三兎編 丹青書房 明治四十四年四月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝李
柴垣鈍舟 東京 浮世派 風俗 小林永興 東京 浮世派 風俗
竹内柳蛙 東京 浮世派 風俗 中島延丸 東京 浮世派 風俗
熊耳耕年 東京 浮世派 風俗 小島冲舟 東京 浮世派 風俗〟
◯『浮世絵師伝』p69(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝小国政
【生】 【歿】 【画系】三代国貞の長男 【作画期】明治
竹内氏、初め父に学びしが、後ち飯島光峨の門に入り、柳蛙と号せり、日清戦争其他の錦絵あり〟
◯「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』p88(樋口弘著・昭和37年改訂増補版)
〝小国政(こくにまさ)
竹内氏、四代国政(三代国貞)の長男。始め父に学び、のち飯島光峨の門に入る。柳蛙とも号した。日
清戦争絵が多い。五代国政とは同人らしい〟