Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ きよさだ とりい 鳥居 清貞A浮世絵師名一覧
(歌川芳郷〈よしさと〉参照)
〔弘化1年(1844)8月 ~ 明治34年(1901)2月14日・58歳〕
 ☆ 明治十六年(1883)  ◯『随縁聞記』三村竹清著(『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇「戊寅第四」(『集古会誌』昭和十三年第四号)   〝湯島天神の額堂に、明治十六年四月春木座興行に市川右団次が演じた天拝山の絵馬がある、左方に椽に    「古今稀成大入春木座帳元阪野久次郎」款記に「鳥井長八筆男清忠修復」とあるが、原画が紙本である    ため 今はそれすら破損して更に修理を要する程になつてゐる 物は新らしいが 神社の方でも保存法    を講じてもらひたいものである〟    〈この清忠は四代目。鳥居長八は清忠の父の清貞(明治34年没)。清貞が明治16年に画いた絵馬の修復を、実子の清忠が     おこなったのだが、その時期は不明〉  ☆ 明治二十五年(1892)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十五年刊)    清貞画    『伊東祐親義心録』口絵のみ 清貞「鳥居」印 伊東橋塘 滑稽堂 (5月)    『英雄続菊水』  口絵のみ 清貞     伊藤橋塘 伊東専三(8月)  ☆ 明治三十年(1897)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十年刊)    鳥居清貞画    「江戸芝居年中行事」二十五番 目録口上1・行事絵24図 吟光 鳥居清貞画 長谷川寿美(1-9月)    〈原題『大江戸しばゐねんぢうぎやうじ』〉  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(91/103コマ)   〝鳥居清貞【明治元年~三十年 1868-1898】    斎藤氏、通称長八、蝶蜂と号う、六世清満の門弟にて、現今劇場明治座の奥役を勤む〟  ☆ 明治三十三年(1900)  ◯『読売新聞』(明治33年9月27日)   〝大江戸芝居年中行事の錦絵 南伝馬町の長谷川絵双紙店より 先年より引続き題号の如き錦絵刊行し来    りしが 今廿五番揃ひたる折 恰(あたか)も今度の明治座興行の寿(ことぶき)狂言に演ずる古例なども    あるよりして 今回更に再板して発売したり〟    〈錦絵「大江戸芝居年中行事」の初版は明治30年刊〉  ☆ 明治三十四年(1901)  ◯『東京掃苔録』(藤波和子著・昭和十五年(1840)四月序 八木書店 昭和48年版)   〝下谷区 妙顕寺(池之端七軒町四九)    鳥居清貞(画家)名斎藤松次郎、通称鳥屋長八。初め国芳の門に入り、国芳没後、清満に従ひ清貞と改    む。明治三十四年二月十四日歿。年五十八。顕徳院清貞日果居士〟  ☆ 没後資料  ◯『浮世絵』第十八号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「鳥居清貞小伝」兼子伴雨子   〝 清貞は通称長八、幼名を松次郎と云つた、姓は斎藤であるが本姓は渡辺氏である、寿永堂主人、蝶蜂    の戯号がある 弘化二年神田小川町に生れ、長じて同明神前西町質商越前屋の養子となつたが、其の業    を厭ふの説なりしかば、養父も遂には志しの奪ふべからざるを知つて、清貞が望みの如く、井草国芳の    門に入らしめた、時に十三歳である、而して雅号を芳郷と呼んだ。     後に二世清満の社中に転じて、専ら鳥居派を修めて居ると、一日清満とは深交の間柄である豊国が来    訪して閑談のすゑ、話は芳郷が画才に敏なるに移り、清満は頭の一字、豊国は前名国貞の貞を与へ、合    して清貞の画号を贈られた 慶応三年 神田旅龍町小鳥商斎藤氏の長女と結婚して、四代目長行と改名    して、暫くは四海波穏かに平凡の月日を送るうち、時世は王政復古となり、稼業の得意たりし在京の諸    大小名は本国へ帰郷すると云ふ状態に、忽ち職を失ふ困難に陥つたが、幾干(いくばく)ならずして高木、    高浜の両人が日本橋久松町へ喜昇座(現今明治座の前身也)を建設せんとする計画に会し用ゐられ、座    方の奥役を任ぜられたが、事を処するに当つて明快な処から、抽んでられて重要の置位(ちゐ)をしめ、    以後太夫元も幾度か変り、座名も喜昇座から、久松、千歳、明治と改称されたが、清貞は依然として奥    役を勤めて居た 傍ら同座の絵本番付を描いた。     明治十三年八月、喜昇座は木の香高く美々しく新築はされたが、此の時代劇界には覇王守田勘弥があ    つて、一流の名優は新富座に網羅されて居るので、喜昇座の初開場は勢ひ亜流の俳優を集めて興行する    より外に途がなかつた、勘弥に交渉して一流の俳優を借入れやうとすれば、法外の給金を請求すると云    ふ有様に、座方の人々は持余し、さりとて幸先きを祝ふ舞台開きの興行を、二流どころで明けるのはと、    一同鳩首して大困難の体であつたが、独り清貞のみは成算があつた。     清貞の腹案は斯(か)うである。即ち都下に俳優を求めず、遠く大阪に俳優を求めた、当時江戸の出身    でありながら滞阪修業中の市川九蔵(故人団蔵)、助高屋高助(今の宗十郎の父也)の両人に、中村翫雀、    同伝五郎、尾上多賀之丞、老巧なる尾上多見蔵以下数十名を上京さして、花々しく初開場をなし、満都    の人気を集注した、又た一年(ひととせ)五代目菊五郎と守田勘弥とのあひだに意志の疎通をかいた事が    あつた 早速清貞は菊五郎を訪問して久松座へ出勤の約を整へ、地方へ巡業中の九蔵を呼び席(よ)せて、    盲(めくら)長屋、御金蔵破り、鵜飼燎(うがひのかゞやき)等釣籠(つるべ)打ちに興行して、開場毎に大    入客止の盛況を呈したので、新富座に対抗する衆寡敵せざるの文字を、恰も無盾(むじゆん)せしめた感    がある。されば勘弥は己(おのれ)の秀吉に設令(たとへ)、清貞を評して「憎さも憎し本多忠勝よ」と云    つた位である。     何故に清貞は斯道の人となりながら、看板番付に筆を採らなかつたかと云ふと、六代目清満の家計が    豊かでなかつた為め、清貞は是れを憚かつて揮毫しなかつたのみか、屡々(しば/\)先師の徳を慕つて    内助した事もある、五代目清満の妻は謝する辞(ことば)がないとて清信、清峰等の画名を贈つたが、憗    (なま)じに故人の高名を継いで瀆(けが)さんよりは、清貞の名がけつく気楽だと称して終身名乗らなか    つた、陰に陽に同派の為めには尽して新作(かきおろし)の狂言の上場さるゝ毎(ごと)には、六代目清満    から相談も受け 時には補筆をした事も少くなかつた、明治三十四年二月十四日、日本橋蛎殻町の自宅    で病没した〟  ◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)   (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)   〝清貞 国芳門、芳郷と号す、後に鳥居二世清満門人となり、清貞と改む、本姓渡邊氏、俗称斎藤長八、    蝶蜂と号す、明治三十四年二月十四日没、五十八歳〟