◯『古今大和絵浮世絵始系』(笹屋邦教編・寛政十二年(1800)五月写)
(本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)
「鳥居派系図」
◯『無名翁随筆』〔燕石〕③292(池田義信(渓斎英泉)著・天保四(1833)年成立)
「鳥居清信系譜」〝(清長門人)清政【幸四郎、富十郎、宗十郎似面をよくす】〟
◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)
「鳥居清信系譜」〝(清長門人)清政 (アキ)代メ幸四郎、富十郎、宗十郎ノ似㒵ヲヨクス 天明比〟
◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」p中1380(朝岡興禎編・嘉永三年(1850)四月十七日起筆)
「鳥居清信系譜」〝清信門弟(ママ) 清政 幸四郎、富十郎、宗十郎〟
◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪193(竜田舎秋錦編・慶応四年(1868)成立)
「鳥居清信系譜」〝(鳥居清長門人)清政〟
☆ 明治以降(1868~)
◯『浮世絵師便覧』p231(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)
〝清政(マサ) 清長門人、◯寛政〟
◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(42/103コマ)
〝鳥居清政【寛政元年~十二年 1789-1800】鳥居清長の門弟、其の伝詳ならず〟
◯『浮世画人伝』p24(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)
「鳥居清信系譜」〝清政 清長門人、幸四郎宗十郎富十郎ノ肖像ニ長ズ〟
◯『浮世絵』第弐拾(20)号「浮世絵漫録(三)」(大正六年(1917)刊)
「小林文七氏の浮世絵」桑原羊次郎著(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝鳥居清政とせし者あり〟
〈小林文七所蔵の肉筆落款。下掲『罹災美術品目録』「寛闊者図」の落款か〉
◯『罹災美術品目録』(大正十二年(1923)九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)
(国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)
◇小林亮一所蔵 鳥居清政「寛闊者図」〈小林文七嗣子〉
◯『浮世絵師伝』p41(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝清政
【生】安永六年(1777) 【歿】 【画系】清長の男 【作画期】寛政
鳥居を称す、画を父に学びて美人画を能くせり、初め父の衣鉢を継ぐべき準備として修技せしものなら
んが、寛政七年、清峯の入門に際し、父の意に従ひて断然画技を棄てたり、作画期の短かかりし爲めか、
作品の数甚だ尠し。(口絵第卅七図参照)
(校正中、清政の参考画入手したるに拠り追記す)
紙本横幅の掛物にて、傘を持ち頭巾を冠り、風に吹かれながら河岸を歩く女の足へ、凧の糸が絡み付き
たるを、肌脱ぎの男児が眺めて居る図で、落款には清長実子-関清政と、下の印には関氏之章とあり、
尚ほ河岸燈籠の紙地へ「天明六年三月吉日」と書入れあり、画風は清長の特長を採り、風に吹かれたる
動作は清長の柱絵にあるのと酷似して居る、天明六年とすると彼が十歳の時に描いた作である。尤も此
外雲母摺の背色で娘道成寺の半身大判には清長忰-鳥居清政画とありて、実子とか忰とか肩書きを付け
る事を思考すると、其頃には学校は無く、父の傍で画を見たり描いたりすることが唯一の楽みであると
思ふ、十歳にて大人並の画を描いた事は浮世絵師中で早熟の画家である〟
△『増訂浮世絵』p140(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)
〝鳥居清政
清政は鳥居清長の実子であつて、相当早くから父清長に就いて、画技を学んで、版画も出版してゐた。
清満の没後、鳥居の家業たる芝居看板絵を一時、代筆した豊春が、天明六年の顔見世狂言の際、不慣れ
なために、名題役者を書き漏した事件から、劇場側の懇望もだし難く、恰もその年、清満の女婿松屋の
家に一男を挙げ、庄之助と名づけた。此の庄之助成長の後、鳥居家を継がせることゝし、自分は中嗣養
子となつて、爾来老師の孫庄之助の養育に全力を注いだ。乃で他日画系上の紛争を避けるために、その
事定まるや、断然吾が子清政の画技を全く廃させた。その時、清政は二十歳だつたといふ。清政の作で、
大錦判に高島おひさの大顔を画き、背色を黄摺にしたものゝ如き、描線も相当に強く、姿も美はしく、
配色の上品であり、可なりな伎倆を有した人と思はれる〟