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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ けいほ たかだ 高田 敬輔
浮世絵師名一覧
〔延宝2年(1674) ~ 宝暦5年(1765)・82歳〕
☆ 正徳四年(1714)
◯「日本古典籍総合目録」
(正徳元年刊)
◇浄土
高田敬輔画
『選択集十六章之図』一軸
〈法然著『選択本願念仏集』の絵解き〉
☆ 没後資料
☆ 文化元年(享和四年・1804)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(文化元年刊)
高田敬輔画
『敬輔画譜』四冊 高田敬輔画 日渓谷伯脩編著 林宇兵衛板 ☆ 文政二年(1819) ◯『増補和漢書画一覧』(聚文堂主人編 聚文堂版 文政二年刊)
(早稲田大学図書館・古典藉総合データベース)
〝
敬甫
(ケイホ) 高田氏、号竹隠斎、叙法眼位。江州日野人、初狩野氏ニ学ブ、後チ一家ヲ成ス。宝暦中没、八十。門人 月岡雪鼎有リ、名昌信。妓女及春画ニ工ナリ。天明六年大坂ニ終ル〟 ☆ 文政七年(1824) ◯『近世逸人画史』(無帛散人(岡田老樗軒)著・文政七年以前成稿・『日本画論大観』中) 〝
高田敬輔
江州日野杉の上の人なり、製茶をもて活業とす。幼にして絵事を好めり、因て水口侯に仕ふ、 侯狩野永真をして是が師たらしむ、後壮歳におよび故里に帰省して愈此業をつとむ、善画の聞えあり、 富峰及び鮎魚鯉魚等の画は人の珍玩する所なり、後浄福寺の古礀和尚に就き、大に画法を学べり、竹陰 斎・眉間毫翁の数号あり。男を三径といふ、父に継ぎて家声をおとさず〟 ☆ 天保三年(1832) ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中) 〝
高田敬甫
、竹隠と号す、近江の人。初め狩野氏に学び、後、古礀を師とす。人物を善す。規傚
〈マネ〉
を 事とせず、独り性霊を抒ぶ。揮灑横逸、壮年京摂に遊び、最も名を知らる。呉俊明と一時の領袖となる。 宝暦中に歿す、歳八十 柴田義董曰く「敬甫俊明、略々轍を同くす。世に称して異幟を建つると為す。然れども余を以て之を 観れば、未だ全く時習を脱せず、猶ほ狩野氏の余波を汲むがごとし。況や復た田野に齷齪、自ら以て 足れりと為すなり。若し此の輩の人をして身を大都会に居ることを得さしめば、山楽友松等と駕を方 (ナラ)べて衡を争はん、惜ひかな」と〟
(原漢文)
☆ 嘉永四年(1851) ◯『古画備考』二十六「名画十四 自享保」中p1065(朝岡興禎編・嘉永四年三月廿八日起筆) 〝
高田敬甫
号竹隠、近江人、初学狩野氏、後師古澗、善人物、不事規倣、独抒性霊、揮灑横逸、壮年遊 京摂最知名、與呉浚明為一時領袖、宝暦中歿、歳八十、 柴田義董曰、敬甫、浚明、略同轍也、世称為建異幟、然以余観之、未全脱時習、猶汲狩野氏之余波、 況復齷齪於田野、自以為足也、若使此輩人得身居大都会、與山楽友松等、方駕而争衡、惜哉、
画乗要略
江州日野杉の上の人なり、製薬を以て活業とす、幼少にして、画事を好めり、因て水口侯に仕ふ、侯狩 野永真をして、是が師たらしむ、壮盛に及て、故里に帰省して、此業愈つとむ、善画の聞えあり、其写 す所、富士峰及鮎魚、鯉魚等を珍玩とす、後浄福寺古澗和尚に、大画の法を学べり、竹隠斎、眉間毫翁 の数号あり、男を三径といふ、よく父の志をつぎて、家聲を墜さず【逸人画史】 叙法眼、宝暦中歿年八十一【書画一覧】 或画書に、眉間毫珪甫が水飲猩々、浪に鯉、馬渡高雲の達摩【名高キ画ノ事ヲ云所ニ、如此出セリ】 山水双幅、画於武陽旅寓、湖東竹隠斎眉間毫法眼敬輔画 [署名]「画於武陽旅寓 湖東竹隠斎眉間毫翁 法眼敬輔画」 [印章]「眉間毫翁」(朱文長方印)「竹敬輔印」(朱文方印) 鯉の滝登 【竹隠斎、眉間毫翁敬輔】 [署名]「眉間毫翁法眼敬輔 時年七十有八画」 [印章]「眉間毫」(朱文長方印)「法眼敬輔」(朱文方印)〟 ◯『古画備考』三十上「近世二」中p1246(朝岡興禎編・嘉永四年四月二日起筆)
「丹青競行司」(相撲見立て絵師番付)
☆ 嘉永五年(1852) ◯『椎の実筆』〔百花苑〕⑪396(蜂屋椎園著) (写本『近世名家書画談』(安西雲煙著・天保元年~嘉永五年記)を、蜂屋椎園が嘉永六年頃入手して清 書したもの) 〝
高田敬輔
眉間毫翁と称す。近江日野売薬店の子也。産業に疎く、わかきより御室ノ御所ニ奉仕して、 たゞ画を好ミ、其頃浄福寺古澗和尚、画ニ長じられしかば、従ひ学ぶ。しかも和尚、おのれハ其家にあ らず、且綵色にくらし、狩野家によりて極綵色を伝ふべしとて、紹介して狩野氏に学しむ。されバ、し ばらく其家風を画くといへ共、終に一家をなせり。人物の形状、亦墨黒なる趣など、頗古澗に似て、又 墨の濃淡をもて密画をなすハ、其工夫ニ出たりとぞ。登龍門の鯉を画くニ、鯉の全身を飛泉ニすかして ミせたるが、墨色をもて分つ趣など、奇也と云。水中の占魚(アユ)ハ得意にして、あまた書り。後法眼ニ 叙す〟 ☆ 安政二年(1855) ◯『古今墨跡鑒定便覧』「画家之部」〔人名録〕④212(川喜多真一郎編・安政二年春刊) 〝
高田敬輔
【名ハ隆久、初メ徳右衛門、後敬輔ト称ス、近江ノ人ニ学ヒ、後古カン(石編+間)ヲ師トス、 人物ヲ善クス、後豊前大目トナリ、又法眼ニ叙ス、宝暦五年歿ス、年八十二】〟 〔印章〕「敬輔之印」 ☆ 文久二年(1862) ◯『本朝古今新増書画便覧』「ケ之部」〔人名録〕④343(河津山白原他編・文化十五年原刻、文久二年増補) 〝敬甫【高田氏、号竹陰斎、法眼ニ叙ス、初メ画ヲ狩野家ニ学ビ、後ニ一家ヲ成ス、宝暦中ニ没ス、八十 歳、元江洲日野(一字不詳)店、又画ヲ呉俊明ニ学ブ】〟 ☆ 刊年未詳(幕末) ◯「本朝近世画工鑑」(番付 刊年未詳)〔番付集成 上〕 (四段目 東) 〝大関 文化 月渓呉春 関脇 安永 無名大雅 小結 延享 望玉蟾 前頭 宝暦 高田敬甫 同 宝暦 渡辺始興 同 天保 谷文晁〟 ☆ 明治十四年(1881) ◯『第二回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治14年刊) (第二回 観古美術会 5月1日~6月30日 浅草海禅寺)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇第二号(明治十四年五月序) 〝
高田敬輔
鮎画 一幅(出品者)杉山雞児〟 ◯『新撰書画一覧』(伴源平編 赤志忠雅堂 明治十四年五月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝
高田敬輔
名ハ隆久、初メ通称徳右衛門、後敬輔、竹陰斎ト号ス、江州ノ人、薬商、画ヲ善シ、法眼ニ 叙ス、宝暦中八十二没ス〟 ☆ 明治十七年(1884) ◯『石亭雅談』〔続大成〕⑨206(竹本石亭著・明治十七年刊) 〝眉間の白毫 高田敬甫 高田敬甫、近江日野の市人也。後絵事によりて法眼に叙す。竹隠と号す。画を狩野氏及び僧古礀に学び て一家を成し、登竜門の図の如きは、鯉の全身を飛泉の中に写し、墨の濃淡を以て隠暎(みへかくれ)を 其間に眎(しめ)す。尤工夫を加ふと云べし。壮歳京摂の間に遊び、大に名を得て、呉俊明と一時の領袖 (かしら)たり。又仏書を好み其事に精しく、殊に仏像を画く、敬甫眉間に疣(いぼ)ありて白毫を生ず。 故に画名眉間白毫翁の字を用ふ。性温雅にして専ら山水勝地を愛す。宝暦中没す。年八十餘〟 ☆ 明治二十三年(1890) ◯「【新撰古今】書画家競」(奈良嘉十郎編 天真堂 江川仙太郎 明治23年6月刊)
(『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊)
) 〝東前頭 安永
高田敬甫
竹隠
(上から四段目。他に本阿弥光悦・住吉具慶・円山応瑞等)
〈位置づけは浮世絵師ではない〉
浮世絵師 歴代大家番付
☆ 明治二十四年(1891) ◯『近世画史』巻二(細川潤次郎著・出版 明治二十四年刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(原文は返り点のみの漢文。書き下し文は本HPのもの。(文字)は本HPの読みや意味)
〝高田敬輔 名隆久、竹隠斎と号す。眉間に疣(いぼ)有り、老いて毛を生ず。因りて眉間毫翁と号す。徳 右衛門と称し、江州日野の薬舗主人なり。幼くして画を好み、長ずるに及びで水口侯に仕ふ。侯之を遣 はして狩野永敬に就けて学ばしむ。壮歳にして致仕し里に帰る。益(ますます)絵事に耽(ふけ)る。僧古 澗を師とし、後ち又参に諸家の法を以てす(諸家の法を参考にした)。尤も人物に長ず。善く鯉を画く。 独り性霊を抒べるに成法に拘はらず相伝ふるのみ。曽我蕭白の縦逸、古人を本(もと)とすと曰ふと雖も、 亦た敬輔の風に傚ふなり。当時呉俊明と名を斉しうす。其れ江都に在りし日、人の為に墨鷹を作して、 名声大起す。因りて法眼に叙位せられ、豊前大目と称し、後ち法印に陞(のぼ)る。宝暦五年没、八十三、 或いは八十一と曰ふ。子三径、亦た画を善くす〟 ☆ 明治二十五年(1892) ◯『日本美術画家人名詳伝』上p239(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊) 〝
高田敬甫
甫又輔ニ作ル、近江日野ノ人、薬種ヲ業トス、後チ画事ニヨリテ法眼ニ叙ス(或ヒハ曰ク、豊前ノ大目 ニナルト)ト(衍字か)竹隠ト号ス、画ヲ狩野氏及ビ古澗ニ学ビテ一家ヲ成ス、登龍門ノ図ノ如キハ、鯉 ノ全身ヲ飛泉ノ中ニ写シ、墨ノ濃淡ヲ以テ隠暎ヲ間ニ眎ス、尤モ工夫ヲ加フト云フベシ、壮歳京摂ノ間 ニ遊ビ大ニ名ヲ得テ、呉俊明ト一時ノ領袖タリ、又仏書ヲ好ミ其事ニ精シク、殊ニ仏像ヲ画ク、敬甫眉 間ニ疣アリテ白毫ヲ生ズ、故ニ画名眉間毫翁ノ字ヲ用フ、性温雅ニシテ専ラ山水勝地ヲ愛ス、宝暦中ニ 歿ス、年八十余(古今雅俗石亭雅談・画乗要略・和漢書画覧要・鑑定便覧)〟 ☆ 明治二十六年(1893) ◯『本朝画家人名辞書』上(狩野寿信編・明治二十六年刊)
(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)
〝
高田敬輔
、名ハ隆久、敬輔、眉間、毫翁、竹隠斎等ノ号アリ、通称ヲ徳右衛門ト云フ、近江日野ノ人ナ リ、家世々薬舗ヲ業トス、初メ画法ヲ狩野永敬ニ学ビ且ツ古澗ノ風ヲ慕フテ遂ニ一家ヲ成シ、法眼ニ叙 シ、後豊前大目トナル、其筆勢頗ル奇骨アリ、曽我蕭白其意ヲ承グト云フ、宝暦五年歿ス、年八十三〟 ☆ 明治二十七年(1894) ◯『名人忌辰録』上巻p31(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊) 〝
高田敬輔
隆久 初称徳右衛門、近江の人。狩野永敬に学び、後法眼に叙。宝暦五巳年某月日歿、歳八十二(近世逸人画 史に高田敬輔は江州日野杉の上の人也。製薬を以て活業とす。幼にして画事を好めり、因て水口侯に仕 ふ。侯、狩野永真をして是が師たらしむ、後故里に帰省して此業愈つとむ。善画の聞えあり、其写す処 富士峯及鮎魚鯉魚等を珍玩とす。後降福寺古礀和尚に画の法を学べり。竹隠斎眉間毫翁の号あり。男を 三経と云)〟 ☆ 明治三十年(1897) ◯『古今名家印譜古今美術家鑑書画名家一覧』番付 京都 (木村重三郎著・清水幾之助出版 明治三十年六月刊)
(東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)
〝近代国画名家
〈故人と現存とを分けている〉
※Ⅰ~Ⅳは字が大きさの順。(絵師名)は同一グループ内の別格絵師。
〈故人の部は字の大きさでⅠ~Ⅳに分類。(絵師名)はそのグループ内の別格絵師〉
Ⅰ(狩野探幽・土佐光起・円山応挙)酒井抱一 渡辺崋山 伊藤若沖 Ⅱ(谷文晁 ・英一蝶 ・葛飾北斎)田中訥言 長谷川雪旦 Ⅲ(尾形光琳・菊池容斎・曽我蕭白)岡田玉山 司馬江漢 浮田一蕙 月岡雪鼎 高嵩谷 蔀関月 Ⅳ 大石真虎 河辺暁斎 上田公長 柴田是真 長山孔寅 英一蜻 英一蜂 佐脇嵩之
高田敬甫
西川祐信 橘守国 嵩渓宣信 英一舟 葛飾為斎〟
〈江戸時代を代表する絵師としての格付けである〉
☆ 明治三十二年(1899) ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
90/218コマ 〝高田敬輔 名は隆久といふ 俗称を徳右衛門といふ 江州日野の人なり 豊前国の大目(だいさかん)となる 又画 を能くするを以て法眼に叙せらる 竹隠斎と号す 此の人眉間に疣ありて白毫を生す 故に又眉間毫翁 と号す 初め狩野永敬に師事して画法を研究し 又僧古礀に従ひて刻苦励精し 且つ和漢の古画を探求 し 彼此相量りて一格を創し 大成して妙手となり 呉俊明と共に一代の泰斗を称せらる 曽我蕭白後 年此の人の筆意を伝へたり 此の人水墨の人物を画くに 其の筆勢気骨稜々として 頗る趣味風韻あり 就中龍門登鯉の図の如きは 鯉魚の全体を飛泉の中に写し 墨色の濃淡を以て隠映を明かす 人皆工夫 の密到にして運筆の絶妙なるを歎美せざるはなし 又仏道に精しく仏画を画くに妙を得たり 宝暦五年 没す 年八十三(扶桑画人伝 今古雅俗石亭画談 名家全書 和漢書画覧要 画乗要略 鑑定便覧)〟 ☆ 昭和以降(1926~) ◯「集古会」第二百二十八回 昭和十五年十一月
(『集古』辛巳第一号 昭和16年1月刊) 〝三村清三郞(出品者)高田敬甫画 宝船図 一枚〟
◯「日本古典籍総合目録」
(国文学研究資料館)
〔高田敬輔画版本〕
作品数:3点 画号他:高田敬輔 分 類:絵画(画譜)2・浄土(仏画)1 成立年:正徳4年(1点) 享和3年(1点) 文化1年(1点) 『選択集十六章之図』(仏画)正徳四年 『敬輔画譜』享和三年序・文化元年刊 『竹隠画譜』享和三年(『敬輔画譜』参照とあり)