Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ げんげんどう 玄々堂 二代浮世絵師名一覧
(銅版画家)
 ◯「集古会」第八十四回 明治四十四年(1911)九月 於青柳亭(『集古会誌』辛亥巻五 大正2年4月刊)   ◇課題 維新前の銅板    林若樹(出品者)     二代玄々堂緑山、龍山觹 小形銅版画   一冊      浪華北久宝寺三丁目京屋弥兵衛蔵とありて 銅版画の傍に一々価を記せり 見本と見ゆ      一枚の価高きは七十二文 普通は四十八文なり     二代玄々堂松本緑山觹 銅版画 一帖     玄々堂緑山並岡田春燈斎銅版画 一冊〟    山口松香 京都(出品者)二代玄々堂緑山銅販 極細書画便覧 二面    清水晴風(出品者)二代玄々堂緑山版 江戸絵図額 一枚  ◯『浮世絵師伝』p66(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝玄々堂 二代    【生】天保八年(1837)   【歿】明治卅六年(1903)十月卅一日-六十七    【画系】初代玄々堂の長男  【作画期】弘化~明治    松本氏、幼名民弥(また亀之助)、後ち松田姓に改め、名に敦知(また敦朝)、俗称弥太郎、緑山と号    し、蘭香亭・清泉堂などの別号あり、父の教へを受けて夙に十一歳より銅版画を製作し、爾後絶えず其    の技を進め、京都名所を画きたるもののみにても実に夥しき数に上れり、其他諸国名所及び地図なども    あり。其の細密なるものに至つては、七分四方の中に「千字文」(安政元年版)を刻みし例もあり。維    新に際しては太政官札印刷の命をし、遷都と共に東京に移住して、太政官札及び民部省札の外、郵便切    手などに至るまで、銅版印刷の事は一切彼に命ぜられしかば、数年ならずして巨富を致し、彼が日本橋    呉服町の邸宅の如きは頗る宏壮を極めしものなりしと云ふ。然るに、漸次海外より熟練したる技師の渡    来するあり、且つ精巧なる印刷機械の輸入さるゝ等にて、彼はいつしか昔日の声誉を失ひしが、併し多    年の経験に基きて民間に於ける印刷会社などを組織し、銅版と共に石版印刷をも営業とするに至りき。    墓所青山共同墓地、後ち京都東山霊山に改葬す〟    〈『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」は収録せず〉