☆ 明治以降(1868~)
◯『南越絵画共進会出品目録』(杉元平六著 南越勧美会 明治二十四年五月刊)
(第一回南越絵画共進会 五月十四日~同二十一日開催 会場:福井市)
〝第二館 古画部 花月楼
第一席
執金剛図 岩佐勝重筆 国島氏蔵
達磨図 同上 魚住氏蔵
第三席
和漢美人図屏風 伝曰岩佐勝重筆〟
◯『浮世絵師便覧』p212(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)
〝勝重(カツシゲ)岩佐又兵衛の名〟
◯『読売新聞』明治30年(1897)2月15日記事)
〝浮世絵師追考(三)如来
岩佐源兵衛勝重(二代)
勝重は又兵衛の嫡子也、父の業を継いで家声を堕さず、光通公(忠昌公嫡子、越前松平家四世也)月俸
を賜ふ、寛文中福井城鶴之間及び杉戸を画く、延宝元年癸丑二月二十日卒す〟
◯『浮世絵備考』梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年(1898)刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)(18/103コマ)
〝岩佐源兵衛【寛文元~十二年 1661-1672】
(以下『讀賣新聞月曜附録』に拠るとして、上掲『読売新聞』明治30年2月15日記事をほぼそのまま引く)〟
◯『日本帝国美術略史稿』帝国博物館編 農商務省 明治三十四年(1901)七月刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)※半角カッコ( ~ )は本HPが施した補記
〝第三章 徳川氏幕政時代 第三節 絵画 浮世絵派
岩佐勝重(166/225コマ)
通称を源兵衛と云ふ。又兵衛の子なりと云ふ。当時の風俗を写し曲(つぶ)さに其の妙を極む。越前侯為
に月俸を賜ふ。寛文年中福井城鶴の間椙戸に画くと云ふ〟
◯『浮世絵画集』第一~三輯(田中増蔵編 聚精堂 明治44年(1911)~大正2年(1913)刊)
「徳川時代婦人風俗及服飾器具展覧会」目録〔4月3日~4月30日 東京帝室博物館〕
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇『浮世絵画集』第一輯(明治四十四年(1911)七月刊)
(絵師) (画題) (制作年代) (所蔵者)
〝岩佐勝重 「風俗図」 万治寛文頃 谷森真男〟
☆ 昭和以降(1926~)
◯『浮世絵師伝』p25 井上和雄著・昭和六年(1931)刊
〝勝重
【生】慶長八年(1603)頃 【歿】延寶元年(1673)二月二十日-七十一?
【画系】勝以の子 【作画期】寛永~寛文
勝以の子、岩佐氏、俗称源兵衛、画を父に学び、時勢粧を画くに巧みなりき、而して、其が作品(肉筆)
には稀に「勝重」の印章を押せるのみにして、落款を施せるものは殆ど無し、(口絵第一図参照)され
ど、流石に父勝以の後を継ぎし彼なれば、筆力構図等非凡にして、よく土佐本流の画格を具へ彼が歿年
は既に判明し居れども年齢は未詳なり、併し、彼の肖像及画風等より想像すれば、慶長八年即ち勝以二
十六歳の頃に出生せしものにはあらざるか、仮りに其の年より起算すれば、慶長元年には二十二、慶安
四年父の歿時には四十九、而して彼の歿時延宝元年には七十一歳に相当せり。尚ほ、彼が浮世風俗を真
面目に画きし期間は、他の画家の例と比較しても、凡そ二十五歳以後五十歳住までの間なりしが如し。
浮世絵備考より転写〟
◯『浮世絵年表』p38(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)
「延宝元年(九月二十一日改元)癸丑」(1673)
〝二月二十日岩佐勝重歿す。蓋し行年不明なり。(勝重は、又兵衛勝以の子にして、越前福井に生る、通
称源兵衛、画を父に学びたるも、やゝ父に劣れり〟
<福井県立美術館の平成17年度「新収蔵品紹介」によると、勝重は又兵衛の長男で福井藩御用絵師(延宝元年(1673)没)>