◯『浮世絵師便覧』p213(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)
〝勝以(ルビなし)一説に又兵衛の弟、一説に又兵衛、◯寛永〟
◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年(1898)刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(17/103コマ)
〝土佐勝以【慶長元~十九年 1596-1614】
姓氏詳ならず、京都の人、土佐の画風を学びて、戯画に巧みなり、『職人尽歌合』の図を画けり〟
◯『浮世絵画集』第一~三輯(田中増蔵編 聚精堂 明治44年(1911)~大正2年(1913)刊)
「徳川時代婦人風俗及服飾器具展覧会」目録〔4月3日~4月30日 東京帝室博物館〕
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇『浮世絵画集』第一輯(明治四十四年(1911)七月刊)
(絵師) (画題) (制作年代) (所蔵者)
〝岩佐勝以 「月夜図」 寛永頃 高橋捨六〟
◯「浮世絵漫録(一)」桑原羊次郎(『浮世絵』第十八号 大正五年(1916)十一月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝(明治四十二年十月十七日、小石川関口町の本間耕曹を訪問して観た北斎ほかの作品リスト)
本間氏蔵の浮世絵 但し本間翁没後他に散逸せしやに聞く
無款「風俗美人屏風」例によりて岩佐勝以の筆との伝来なれども、京都の新仕込み物なり
◯『浮世絵師伝』p26(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝勝以
【生】天正六年(1578) 【歿】慶安四年(1651)六月廿二日-七十四
【画系】土佐光則門人 【作画期】元和~慶安
藤原姓、岩佐氏、俗称又兵衛、又は荒木摂津守村重といひ、夙に織田信長に仕へて寵を受く、功により
て摂州伊丹の城主と成りしが、天正七年十一月、信長に背くことありて其の城を攻略せられ、隠遁して
中国辺を流浪したりといひ、或は城中に於て自殺したりきとも伝へらる、其の時勝以年僅かに二歳、乳
母と共に逃れて京都西本願寺の末寺に寄寓し、世を憚りて岩佐氏を称す、これ母方の氏なりといひ、又
乳母の氏なりとの説あり。
勝以成長の後、織田信雄に仕へしが、幾ばくもなくして之れを辞し、越前福井に流寓して、こゝに初め
て作画に従事することゝなれり、惟ふに元和、寛永年間の事なるべく、当時彼の画技に堪能なること遠
近に宣伝されしが、偶ま將軍家の召に応じて江戸に赴き、種々用命を蒙る所あり、爾来久しく江戸に滞
留して、益々作画に努力する所ありしに、不図老病を発して再び起つ能はざることを悟り、記念に自書
像を作りて妻子の許に迭りし後、遂に其の儘江戸の地に長逝せり。これより曩に、福井藩主は彼が技能
を愛するの余り、其が妻子を郷里に留めさせて、以て再び彼の帰郷せむことを切望したりしと云ふ。彼
の画系は京都の土佐光則の門に入りて、大和絵を学び當時の風俗、新樣の姿勢を写し、遂に一家を成す
に至れり。また父摂津守の家士たりし、重郷、俗称久藏、後に内膳、画号を一翁と称する狩野松栄に就
て学びしと云ふ説もあり。
武州川越の喜多院内東照宮に現存さる三十六歌仙の絵街中一図の裏面に「寛永十七年六月十七日、絵師
土佐光信末流、岩佐又兵衛尉勝以図」と朱書きしおるに由りて、土佐派の画風を習ひしこと明かなり、
彼は浮世絵の初期時代に直面し、巧に時俗を描写したるのみならず、徳川初期に江戸へ招かれて作画し
たる爲め、彼を所謂浮世絵の始祖と喧傳せられたのであらう。而して彼の作品として世に伝へられるも
のゝ内、浮世絵人物には殆ど無落款にて、僅か美濃紙位の横判(中にはスアマ形に裁切りたるものあり)
にて時代の風俗を描きしもの、諸所に分散したるものを合計しても八枚位、其画面には勝以の印章のみ
捺印しあり、其地上代の人物及び唐人物などの図には「勝以」「碧勝宮図」等の印を用ゐたり、これ蓋
し、彼が壮年時代には、種々の事情によりて落款印章等を現さず、壮年以後晩年に亘りて、多く前記の
如き画印を用ゐしものと思はる、従つて、浮世人物の図などの無落款の傑作品は、概して壮年時代の筆
に成りしものと推定するを得べし。
自画像(武岡豊太氏藏)〟