☆ 天保四年(1833)
◯『戯作六家撰』〔燕石〕②92(岩本活東子編)
(五渡亭国貞の項)〝天保四巳年、嵩谷の画裔嵩凌が門に入りて、英一螮とも号す〟
〈国貞の英流への入門は天保四年(1833)、師は高嵩凌であった〉
☆ 天保十五年(1844)
◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)
(「歌川国貞」の項)
〝按るに、近頃国貞英一蝶の画印を用るを度々見たり。五渡亭国貞と画名をかき、花押は(花押にはある
べからず、印歟。本文誤なるべし)英一蝶とあり、いかなる故ある事にや、嵩谷の裔嵩陵の門に入て、
故人の名跡を望むとにや、役者似顔の錦絵には似付かぬ画名を慕し事也(月岑按るに、英〔一珪〕〈嵩
陵〉の門に入て、英一螮といふ印面を見て、此作者一蝶と見違へしにや〟
☆ 没後資料
◯『浮世絵師歌川列伝』「三世豊国伝」p130(飯島虚心著・明治二十七年、新聞「小日本」に寄稿)
〝天保二三年の頃、国貞英一蝶の画風を慕い、終にその裔一珪の門に入りて学び、一螮と称し香蝶楼と
号す。香蝶楼は蓋し一蝶の名の信香の香字と、一蝶の蝶字をとりて号とせしものならん〟
◯『浮世絵師伝』p6(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝一螮 三代豊国、英一珪たりし当時(天保初期)の号〟