Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ しんすい いとう 伊東 深水浮世絵師名一覧
〔明治31年(1898)2月4日 ~ 昭和47年(1972)5月8日・74歳〕
 ☆ 明治四十四年(1911)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治四十四年刊)    深水画『後の武男』口絵のみ 探水 海の人 日新堂(6月)    〈戸籍上の生年(明治31年)でいうと13歳、下掲、井上和雄によると、実際は明治29年(1896)の生まれというから、実年     齢でいうと15歳の作ということになる〉  ☆ 大正四年(1915)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正四年刊)    深水画『あはゆき』口絵のみ 伊東深水 今泉砕巌 太平堂(5月)    〈2ページ大折込口絵 刊年月は大正15年4版奥付〉  ☆ 大正五年(1916)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正五年刊)    深水画『虚栄の女』口絵のみ 深水 森田草平 春陽堂(11月)〈2ページ大折込口絵〉  ☆ 大正六年(1917)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正六年刊)    深水画『ゆく春』挿絵・表紙 伊藤(ママ)深水 長田幹彦 玄文社(12月)  ☆ 大正八年(1919)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正八年刊)    深水画    『女の生命』挿絵 深水・装幀 夢二 菊池幽芳 玄文社(前後編 1・2月)    『霊鐘』  口絵 清方 深水・装幀 非水 小杉天外 実業之日本社(前編 9月)〈後編9年8月刊〉  ☆ 大正九年(1920)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正九年刊)    深水画『しぐれ唄』挿絵・装幀 深水 長田幹彦 玄文社(10月)  ☆ 大正十年(1921)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正十年刊)    深水画『ゆく春』口絵のみ 深水 長田幹彦 玄文社(9月)  ☆ 大正十一年(1922)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正十一年刊)    深水画『夕雲』挿絵 深水 長田幹彦 玄文社(4月)  ☆ 大正十三年(1924)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正十三年刊)    深水画『医師の悩み』口絵のみ 深水 河合峻策 著者出版(5月)  ☆ 昭和三年(1928)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(昭和三年刊)    深水画『現代長篇小説全集』新潮社        4「中村武羅夫篇」口絵・挿絵 伊東深水 寺島紫明(7月)        13「久米正雄篇」 口絵・挿絵 大橋月皎 伊東深水(10月)  ☆ 昭和六年(1931)  ◯『浮世絵師伝』p102(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝深水    【生】明治二十九年(1896)  現存    【画系】清方門人      【作画期】大正~昭和    伊東氏、本名は一(ハジメ)。明治二十九年(戸籍は二ヶ年後れて三十一年二月四日届出)深川区西森下    町に生れ、十三の時東京印刷会社へ職工として入社し、其内監督に画の巧妙なるを認められ、石版部の    図案課の助手に廻された、此図案課には結城素明、西村青帰氏を初め美校出の秀才が多く集まつて居た。    社内であらゆる参考図書を見学し、帰宅すると夜は実業補習学校(氏は其前家計の都合にて小学校三年    で退学した)に通学し、昼夜熱心に勉強し、画技の上達を課長に認められ、秋田課長は鏑木清方氏と同    じく年方の門下であつた関係から、秋田氏の紹介で当時浜町に居住せる清方画伯の門に入り、明治四十    五年三月当時文展に次ぐ巽画会へ「のどか」と云ふ画を出品して初入選、翌年の会へ「無果花のかげ」    を出品して一等褒状を受け、日本美術院再興第一回展覧会に「桟敷の女」非常の厳選を凌いで入選し、    招待日に笹川臨風氏が其れを売約した、大正四年文部省第九回展覧会へ「十六の女」、半玉が炬燵に倚    り掛れる表情、其の絵は当時の新聞紙上に十八の男が十六の女を描いたとの記事が掲載された、翌年再    び日本美術院第三回展覧会へ「乳しぼる家」、此図は氏が大島へ渡り旅行中写生したる牛舎の図、氏の    眼に映ずるものは美人に限らず、僧侶、渡し守、労働者、動物、自然の風光、舞台のシーン等は何れも    氏の製作欲を満たすものである。    大正十一年平和博覧会へ「指」と云ふ画題にて透屋の着物、指を見て膝掛けて居る丸髷の美人、場中第    一の好評にて銀賞を受く、大正十三年帝国美術院第五回展には「おしろい」二曲一双、十同年には「昼    さがり」二幅対、十五年「女五人」六曲屏風、昭和二年の八回には「羽子の音」を出品して特選、三年    「雪の夜」、続いて四年の第十回展には「秋晴」晴れたる天に秋草の背景、現代の美女、二人連れにて    歩行の図、特選首席の栄譽を担ひ、続いて推薦された(永久無鑑査)、五年の十一回には「浮島」清流    のほとり渓谷の噴出場に好みする数人の裸女、以上は氏が美術界に乗出した大略である。    浮世絵には肉筆と木版画がある、古今の浮世絵を比較すると肉筆に巧みなる者は(元禄以前は別)版画    は少ない、然し氏の作画は肉筆の外、新聞雑誌の挿絵、独立した木版画にも筆を揮ひ、大正五年より    「対鏡」を処女作として美人風景等大正十二年(大震火災)迄約四十図、目下「現代美人集」と題する    高級版画に技巧を揮はれて居る、渡辺版書店で出版した氏の版画も春信、清長、歌麿等優れたる昔の版    画が缺乏したる際、唯一の後継美術版画であらう。氏の住宅は府下大井町南浜川より池上の本門寺境内    へ新築の宅へ移転された〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
   「歌川系図」〝鏑木清方門人 伊東深水〟