◯『明治人物夜話』「国周とその生活」p240(森銑三著・底本2001年〔岩波文庫本〕)
〈黒文字は国周の発言。灰色文字は森銑三の地の文〉
「さてわたしが始めて世帯を持ったのは、柳島の半四郎横町で、女房はお花というんだったが、その時
分新門(シンモン)の辰五郎が幅を利かして、その子分が二丁目の芝居をてんぼうで見たことから間違いが起
こって、二丁目を荒らした。そこで京橋の清水屋直次郎という板元が、その喧嘩の絵を画いてくれろと
頼みに来たから、わたしは新門の子分を彦三郎、菊五郎、田之助の似顔に見立てて、棒を持ってあばれ
ていると、黒ン坊が向うへ逃げて行くとこを画いて出版さしたところが、新門の方では、子分どもが喧
嘩に負けて、逃げて行くとこだといい出して、大勢でわたしの家を打ちこわしに来るという騒ぎだ。そ
うしてそのついでに、五ッ目の師匠の家も、メチャメチャにこわすというんだから、わたしも驚くし、
師匠も心配した。すると師匠の弟子に、芳艶(ヨシツヤ)というのがあって、これが新門の子分だったから、
わッちが仲裁して見ますッて、骨を折ったので、まアいい塩梅に、それで和解が届いた。
ところがその時分わたしが売出しで……自分の口からそういってはおかしいが、師匠の絵よりいいと
ころがあるなんていう者があったから、このしくじりの過料に、国周という名を師匠に取揚げられてし
まった。それから仕方なしに、わたしは一写斎という名で絵を画いていると、それもならないてンで、
師匠が板元の家を、方々断って歩いた。そうこうする内、篠田仙魚という、後に員彦(カズヒコ)の名を勝
手に名乗った人が仲へ這入ってこられて、ようよう国周の名を返してもらったが、どうも一時は弱った
ね」
芳艶は、藤懸(静也)氏の著『浮世絵』に、国芳門下として、名前だけが出ている。明治六年には、ま
だ健在であった。
篠田仙魚、作名員彦は、二世笠亭仙果となった篠田久次郎であろうか。それならば、『月とスツポン
チ』の発行者である。明治十七年に四十八歳で歿したことが、『狂歌人名辞書』に見えている〟
〈「てんぼう」は「伝法(デンボウ)」芝居関係の隠語で「タダ見」。「五ッ目の師匠」は三代目歌川豊国(国貞)のこ
と。その豊国門人の国周が「師匠の弟子に芳艶というのがあって」という、これだと芳艶は豊国門人になってしま
うのだが、どうなのだろうか。この浅草の大親分・新門辰五郎の子分との騒動、国周が新所帯を構えた頃とある。
参考までにいえば、天保六年(1835)生まれの国周の二十歳は、安政元年(1854)。結婚の正確な年次は分からない
が、一時的に一写斎を名乗ったのもこの頃なのであろう。なお、最初この芳艶を二代目と考えていたが、豊国三代
の没年が元治元年(1864)であること、国周の結婚時期等を勘案すると、慶応二年(1866)没の初代芳艶とするのが適
当だと思う。2011/12/11追記〉