Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ いっけい はなぶさ 英 一珪浮世絵師名一覧
〔 ? ~ 天保14年(1843)11月21日・96(85)歳〕
 ☆ 文化六年(1809)
 ◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   ◇「文化六年」2p41   〝七月、深川宜雲寺に英一蝶の筆塚を築き碑を立つる(市野光彦文を選し、英一珪これを建つる。これは    一蝶寓居の所也し故なり)〟    ☆ 文化年間(1804~1818)
 ◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   ◇「文化年間記事」2p57   〝画 狩野伊川院法印、同晴川院法印、同素川彰信、抱一君、谷文晁、同文一、依田竹谷、英一珪、長谷    川雪旦、鈴木南嶺、大岡雲峯、春木南湖。筠庭云ふ、竹谷などを出して雨潭を出さず。其の外も猶あり〟    ☆ 文化十一年(1814)
 ◯『十方庵遊歴雑記』二編(釈敬順著・文化十一年(1814)記)   (麻布二本榎承教寺地中顕乗院、英一蝶の墓に関する記事)   〝英覚院妙艶信女 寛政六年五月二日    英寿院一珪日仙信士(朱字)    英維院一暁信士  (朱字)    石(ママ)のごとく石碑三本ならび建たり、此内逆朱に刻置し一珪といふは、今芝の土橋に住居して、右一    蝶の裔孫となん〟    〈石碑三本とは、この一珪の墓の他に、一舟・一川・一蝶の墓二基をいう。逆朱とは逆修の朱の意味で、生前、自らの     墓石に戒名を朱書して、あらかじめ死後の冥福を祈ることをいう〉  ☆ 文政元年(1818)  ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎 編 文政元年写)   「神田 画家」〝一珪 四代目 英 嵩谷門人 初号 嵩卿ト与(ママ) 於玉ヶ池(空欄)〟    ☆ 天保八年(1837)
 ◯ 肉筆「シカゴ ウエストンコレクション 肉筆浮世絵」    英一珪・香蝶楼国貞画「短冊を結ぶ美人図」絹本一幅    落款「香蝶楼國貞戯画 九十叟英一珪戯筆」印章「弌螮」「信重」    〈一珪は天保十四年没。伝えられる辞世から享年を九十六歳とした。九十歳は天保八年に当たる〉    ☆ 天保十年(1839)
 ◯「傀儡師図」肉筆 掛幅(今西コレクション)    署名「高齢九十二叟 英一珪信重筆」    〈天保十四年、九十六歳没の説に拠って、作画時期を天保十年と推定した〉    ☆ 天保十三年(1842)     ◯『【江戸現在】広益諸家人名録』二編「ハ部」〔人名録〕②67(天保十三年夏刊)   〝画 一珪【名信重、壮窓翁四世孫】本所柳島 英一珪〟    ☆ 天保十四年(1843)(十二月二十一日没 八十余歳)
 ◯『増訂武江年表』2p104(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (天保十四年・1843)   〝十二月二十一日、画人英一珪卒す(八十余歳、二本榎承教寺中顕乗院に葬す)〟    ☆ 年代未詳
 ◯『武江扁額集』(斎藤月岑編・文久二年(1862)自序)   (奉納年未詳。画題記さず。絵柄から「草摺引き」)    落款 〝英一珪筆〟    識語 「京極侯 金毗羅権現社 手水屋に所掛 今なし 幅三尺余」
   武江扁額集「草摺引き」右図英一珪筆 (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    ☆ 没後資料    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)   「高嵩谷所蔵 英氏系図之略」
   英一蝶系譜〝高嵩谷門人 一桂(ママ) 本所徳恩寺橋通住 天保十四年十二月廿一日 八十(一字欠)才ニテ終〟
 ◯『古画備考』四十四「英流」(朝岡興禎編)   ◇「英流」系譜 下p1934   〝(一川)養子 一圭 旧嵩谷門人、今住法恩寺東、天保十一年〔空欄〕月、於柳橋祝八十八賀、    文化六年七月、深川宜雲寺に、英一蝶の筆塚を建る、市野光彦文を選し、英一珪これを建る、これは一    蝶寓居の所なりし故也、    天保十四年十二月廿一日、一珪卒、八十餘歳、二本榎承教寺中顕乗院に葬【共ニ武江年表】
  ◇「英流」系譜 下1935
   英流(英一蝶系譜)一珪 嵩谷門人、師命ニテ、英家再興、天保十四年十一月廿一日歿、九十二〟     ◇「英流」下p1945   〝一蝶肖像二幅あり、    一は英一蜂【初代】画、賛無し、    一は英一舟画、賛あり、辞世と書て、世に伝る所の     まぎらかす浮世のわざの色どりもありとや月のうす墨の空     像はあとにて、紙を継て、一舟が画添しなり、       此二像年月隔りし故か不似、只目の大なると、鼻の大きくて丸き処ばかりは同じ、一舟書たる像は一     圭まで伝りしが、典物に入たるか、売たるか、一蝶の印も不残伝りしを、質に入候て、今は三河町な     る、三文字屋と云へる酒屋い伝へたり    一蝶と、嫡子信勝【長八郎、後に一蝶と号】中あしき様になり、一圭方に伝はりし、一蝶の手紙に其趣    あり、長八郎銚子へ参り度よしに付、火事羽織も□□も遣し可申、別になり候て、家業致度由、是も其    意に任せ可申由の文体之由、家をば後に弟子の一舟を、養子として継たる也、次男の百松は、後に源内    と申、久留米の有馬侯に仕へしとなり、一圭方に一蝶自筆にて、百松御召抱被下候へとの、願書の草稿    ありて、御慰に御召抱られ候様と申事有之〟    〈この記事の直前に「観嵩月老話 文政十年十月廿五日聞之」とあり、一蝶肖像画のことを聞いた日付か〉  ☆ 明治以降(1868~)    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪228(竜田舎秋錦編・慶応四年(1868)成立)   (「歌川豊国 三代」の項)   〝(三代豊国)天保四年より、英一桂〔割註 英一桂は柳しま住、九十六歳にして卒す。辞世に百迄はな    んでもないと思ひしに九十六ではあまり早死〕門に入て英一蹛と号す〟    〈この「英一桂」を「英一珪」と見なした〉  ◯『明治十四年(1881)八月 博物館列品目録 芸術部』(内務省博物局 明治十五年刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第四区 舶載品(18コマ/71)    英一珪画 朝妻船 画扇 一本         耳垢取 画扇 一本〟  ◯『明治廿三年美術展覧会出品目録』3-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治23年4-6月刊)   (日本美術協会美術展覧会 明治23年(1890)3月25日~5月31日 日本美術協会〕   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝英一珪 国貞筆しばらく図 裏面英一珪筆 扇子(出品者)篠原肇〟     浮世画扇子 扇掛共 十本(出品者)帝国博物館      北斎・歌丸・豊国・一珪・国貞・国芳・清信・清長・栄之・嵩谷    ◯『浮世絵師便覧』p241(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝嵩卿(ケイ) 一世嵩谷門人、名は信実、後に友松庵一桂、◯天保〟    ◯『名人忌辰録』上巻p8(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊)   〝英一桂    名信重、北窓翁四世孫。天保十四卯年十二月廿一日歿す、歳八十五。二本榎願乗院に葬る。法号英寿院    一桂日仙      辞世 二三百生きやうとこそおもひしに八十五にて不時の若死〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』「三世豊国伝」p131(飯島虚心著・明治二十七年、新聞「小日本」に寄稿)   〝天保二三年の頃、国貞英一蝶の画風を慕い、終にその裔*一珪の門に入りて学び、一螮と称し香蝶楼と    号す。香蝶楼は蓋し一蝶の名の信香の香字と、一蝶の蝶字をとりて号とせしものならん。     *天保十三年板江戸現在交益諸家人名録二篇に、一珪名は信重、北窓翁四世の孫、本所柳島、英一珪      とあり。(【此の註「小日本」にはなし】)」     按ずるに、英一珪は、一蝶の後にして、名は信重一川の男なり。画法を父に学び本所柳しまに住す     (後に本所林町辺に住せしともいう)。天保十四年十一月没す、年九十六、辞世の句に、百まではな     んでもないと思ひしに、九十六ではあまり早死     又按ずるに、国貞、一蝶の風を学びたれども、其の風少しも筆に入らざるが如し。されど一珪に就き     学びたる頃の草筆の墨画、頗る見るに足るものあり。恰(アタカモ)別人の筆の如し。豊原氏曰く、余が師     英一珪の門に入りし年月詳ならざれども、田舎源氏の七八篇を画きし頃なる由聞き及べり。七八篇を     画きしは天保二三年の頃也〟     〈豊原氏とは豊原国周〉    ◯『浮世画人伝』p17(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)   (「英一蝶系譜」より)
   英一蝶系譜〝一珪 本所法恩寺橋ニ住、天保十四年十二月廿一日歿ス。歳八十六、二本榎顕乗院ニ葬〟    ◯『滑稽百話』(加藤教栄 文学同志会 明治四十二年十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(48/123コマ)   〝不時の若死    英一桂信重、北窓斎一蝶四世の孫なり、八十五歳にして没せしが、其の辞世の歌に     二三百生きやうとこそ思ひしに 八十五にて不時若死〟  ◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)   (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)   〝一珪 英一川の男、名は信重、嵩谷に学ぶと云ふ、天保十四年十二月廿一日没、八十五歳〟    ◯『狂歌人名辞書』p13(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝英一珪、名は信重、一川の男、天保十四年十二月二十日歿す、年八十五〟    ◯『浮世絵師伝』p5(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝一珪    【生】宝暦九年(1759)或は寛延元年(1748)    【歿】天保十四年(1843)十二月廿一日-八十五或は九十六    【画系】一川の男     【作画期】寛政~文化    英氏、名は信重、墓所は芝二本榎承教寺中、顕乗院なるが、辞世に「二三百生きやうとこそ思ひしに八    十五にて不時の若死」と「百までは何でもないとおもひしに九十六ではあまり早死」の二説ありて、未    だ何れとも決定し難し〟    ◯『浮世絵年表』p222(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「天保一四年 癸卯」(1843)p222   〝十二月二十一日、英一珪歿す。(行年八十余歳)〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)    作品数:1点    画号他:英一珪    分 類:和文1    成立年:文政1年    (一点は『北窻翁遺文』(英一蝶の遺文)