☆ 享和元~二年(1801~02)
◯『一筆斎文調』(「早稲田大学演劇博物館所蔵 芝居絵図録1」1991年刊)
〝一筆斎守氏文調子は、石川幸元叟を師として倭画をよくし、又みづから浮世絵を好てわざをぎの人の面
を写す事きはめて妙なり。そのかみ奥村鳥居などが丹画漆画といひしも、紅粉ゑに押移たる、世に守氏
生れ出て、あらたにきめ出しといふことを工夫し、奉書にすりしより、さながら戯場の舞台にあるをみ
るが如し。百吐一瓢かたち芸ともいかで此筆には及べきと思はる。栢莚か後の五粒盛なる比は、是をよ
く肖せたれば、実に木場の親玉が筆の親玉かとわきがたきまでにて、暫の篠塚がゆるぎ出す御神輿には
足利の足を空にして迯るかと思はれ、景清が清水のさつたを信仰するせりふには右幕下のなさけもをの
づからしらる(数字空白)める所作の手のこまやかなるも画中にみゆ。かゝる妙手なりしも己が号の一
筆を残して七とせ先、黄なる泉におもむき今は釈尊閻王の似顔かく仏画師となりぬるぞかなしき。扨こ
たみその未亡人の刀自、門葉の文康舟調など聞ゆる人々追福のいとなみせんとて、楊柳橋辺の万発楼に
水無月十二日を卜し、知己の名だゝる画家を請し席画を催し、諸君子をねぎらひ、且は墨水の流に暑を
さけ、かはほりの風のまにまに文調が噂なし玉はらば、大乗妙典のくりきにもまさらましと催主のもと
めに応じてしるすことゝなりぬ
尚左堂俊満
かきのこす筆の似顔の七へん化早かはりなるきのふけふかな〟
(摺物の上部には、当日の席画に参加したであろう絵師の絵があって、それぞれに次の落款が記されている)
「豊廣画・堤孫二筆・豊国画・春秀蝶・寿香亭目吉筆・画狂人北斎画・歌麿筆・雪旦・春英画」
〈この摺物は文調の七回忌に出られたものだが、年記がないので年代が分からない。それでも北斎が「画狂人」を名乗
っていることから、ある程度推定が可能のようで、『浮世絵大事典』の項目「一筆斎文調」は「享和元年~二年(18
01~02)頃のもの」としている。この七回忌は六月十二日(文調の忌日か)柳橋の料亭、書画会で有名な万八楼で行
われた。この摺物から、文調の姓は守、石川幸元は師、文康・舟調は門人であることが分かる〉
☆ 文政元年(1818)
◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元年~四年)
(本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)
〝三馬按、柳文朝門人ニ文康アリ、俗称安五郎、人呼デ文康安トイフ。老人ニシテ今尚在〟
〈「白楊文庫本」は〝老人ニシテ文政戊寅ノ今尚存在〟とする。「文政戊寅」は文政元年〉
☆ 没後資料(下記『浮世絵師伝』の作画期を参考にして、以下の資料を没後とした)
◯『無名翁随筆』〔燕石〕③295(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)
(「柳文朝」の項)
〝三馬按、柳文朝の門人に文康あり、俗称安五郎、人呼て文康安といふ、老人にして今尚存す【文政元戊
亥年、三馬が書入なり】〟
◯『増補浮世絵類考』(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)
(「柳文朝」の項)
〝三馬按、柳文朝門人に文康あり。俗称安五郎、人呼て文康安といふ。老人にして今尚存す(文政元戊寅
の三馬が書入なり)〟
☆ 明治以降(1868~)
◯『扶桑画人伝』巻之四 古筆了仲編 阪昌員・明治十七年(1884)八月刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝文康 姓氏、詳ナラズ、文康俗称安吾郎。文調ノ門人ニテ浮世絵ヲ画ケリ〟
◯『日本美術画家人名詳伝』下p366(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)
〝文康 安五郎ト称ス、文調ノ門人ニシテ浮世画ヲ画ケリ、文化中ノ人〟
◯『浮世絵師便覧』p226(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)
〝文康(コウ) 柳文朝門人、俗称安五郎、人呼ひて、文康安といふ、錦画、◯寛政〟
◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(50/103コマ)
〝文康【寛政元年~十二年 1789-1800】
通称安五郎、柳文朝の門弟にて、世の人呼びて文康安と(い)へり、錦絵を画きしと云ふ〟
◯『新撰日本書画人名辞書』下(画家門 青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(163/218コマ)
〝文康 俗称を安五郎といふ 文調に師事して浮世絵を画けり(扶桑画人伝)〟
◯『浮世絵師伝』p165(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝文康(カウ)
【生】 【歿】 【画系】文調門人 【作画期】文化
俗称安五郎、人呼びて文康安といふ〟