Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ ほくしゅう かつしか 葛飾 北周浮世絵師名一覧
〔生没年未詳〕(雷周〈らいしゅう〉参照)
 ※『黄表紙總覧』棚橋正博著・日本書誌学大系48  ☆ 文化二年(1805)    ◯『黄表紙總覧』後編   ◇黄表紙(文化二年刊)※角書は省略。〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    葛飾北周画    『夜半嵐』    署名「北斎門人北周画」「戯作鬼(キ)たけ」    山口屋板    『鬼武作説話』    〔葛飾北周画・感和亭鬼武作・板下不明〕    『金沢弥二郎』  署名「北斎門人北周画」「曼亭改作者感和亭鬼武」山口屋板    『返咲八重之仇討』署名「北周画」    「戯著鬼武」      岩戸屋板     〈備考、作中の襖画に「東野画」と「北馬画」の絵あり〉      ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇黄表紙(文化二年刊)     葛飾北周画『鬼武作説話』『返咲八重之仇討』『化物世界夜半嵐』『金沢弥二郎回国奇談』    ☆ 文化三年(1806)    ◯『黄表紙總覧』後編(文化三年刊)    葛飾北周画    『他力之焼◎』  前編 署名「北周画」「竹塚東子述」岩戸屋板    『◎討他力之焼◎』後編 署名「北周画」「竹塚東子述」岩戸屋板      ◯「日本古典籍総合目録」(文化三年刊)   ◇黄表紙    葛飾北周画『◎討他力焼継』    ☆ 文化六年(1809)    ◯『江戸小咄辞典』「所収書目改題」(文化六年刊)     北周画『巳になる金』千代春道作    ☆ 文化七年(1810)    ◯『柳亭種彦日記』文化七年   ◇三月廿六日 p148   〝種彦昼頃より北斎子知道子の許(モト)をとふ、(中略)    書画および三味線花の会、なにゝもあれ会となのつきたるハ、ミな法度となるよしきく、又北斎之弟子    北周名をあらためて雷周とかよぶ者、祖母孝行にて銀三枚一せう一人ふち、御ほうびにくだしおかれし    由きく、いまにはじめぬことながらありがたき御代なり、雷周住居ハしんばざいもく丁とをり松屋橋と    かいふかたハら也〟    〈北斎門人、北周、雷周と改名。住居、新場材木町通り。祖母孝行で褒美。四月朔日記事参照〉     ◇四月朔日 p149   〝此頃北斎門人北周改名して雷周といふ者、祖母ぎんに孝行ゆへ、白銀三枚ぎんへ一人ぶちくださる、住    居ハ本材木町七丁目なり、此孝行之次第北斎かたよりたのミ来リ、梅塢主人とゝもにさくをなしけるが、    北斎かたよりとりにきたらず、一九がさくにて先へねがひにいでたる由、これらの故ニや〟    〈北周の雷周改名と祖母孝行で褒美を頂戴したという記事。梅塢は如実道人、荻野梅塢。喜多村筠庭の考証『瓦礫雑考』     (文化十五年(1818)刊)に序を寄せた人。その『瓦礫雑考』(『日本随筆大成』第一期二巻)の解題には「梅塢名は     長、字元亮、号は蛇山病夫とも称した。幕府天守番で、台教に精しく仏教学者として当時名を成していた」とある。     また、文政三年(1820)、平田篤胤の『仙境異聞』によれば、天狗にさらわれて仙境に遊歴したという寅吉の見聞を妄     説として退けた人でもあり、文政八年には名妓玉菊の墓誌『遊女玉菊之墳記』を残している。北斎が依頼した雷周の     孝行次第は、結局、十返舎一九の原稿が先になったようである〉    ☆ 没後資料    ◯『葛飾北斎伝』p327(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年(1893)刊)   (葛飾北斎の門人)〝葛飾北周 江戸の人。姓氏詳ならず〟    ◯『浮世絵師便覧』p206(飯島虚心著・明治二十六年刊)   〝北周(ホクシウ) 葛飾を称す、北斎門人〟  ◯『日本美術画家人名詳伝』補遺(樋口文山編 赤志忠雅堂 明治二十七年(1894)一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝葛飾北周 北斎門人〟  ◯『浮世絵師伝』p178(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝北周    【生】  【歿】  【画系】北斎門人 【作画期】文化~文政    葛飾を称す、金沢氏、俗称弥二郎〟    △『増訂浮世絵』p243(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝北周    葛飾を称す。江戸の人。金沢氏、俗称弥二郎。黄表紙合巻類に画いてゐる。文化二年に感和亭鬼武作の    ものに四種、三年には竹塚東子作の黄表紙に画いて居る。大凡の年代を知ることが出来る〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔葛飾北周画版本〕    作品数:6点    画号他:北周・葛飾北周    分 類:黄表紙5・咄本1    成立年:文化2・3・6年(6点)    〈六点のうち五点が黄表紙、そのうち四点がすべて文化二年(1805)刊で感和亭鬼武の作、もう一点は竹塚東子作で、文     化三年の刊行。雷周名の作品は見当たらない〉