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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ ぼくが ごめいろう 五明楼 墨河
浮世絵師名一覧
〔延享1年(1744) ~ 寛政13年(1801)1月11日・58歳〕
☆ 天明三年(1783) ◯『巴人集』〔南畝〕(四方赤良詠) ◇天明三年一月七日詠 ②390 〝 むつき七日、五明楼にあそびて人々歌よみけるに、八日はねの日なればけふもとゞまり給へかしと、 あるじのきこへければよめる きのふからよそにねの日のまつなればけふはひと先うちへひかまし 五明楼のあるじたはれうたの名をこひ侍りしかば、棟上高見と名づくるとて 家の風もとより夏をむね上のたかみに見せやはるのひ扇 おなじく家童子〔朱書。棟上高見が妻〕を、赤じみの衣紋とよび侍りければ たはれ歌よめども/\あかじみの衣紋をけふのきそはじめ哉〟
〈天明狂歌の大御所・四方赤良は、この日、吉原妓楼扇屋の主人墨河には棟上高見の狂名を与え、そしてその妻・稲城 には赤染衣紋と命名した。棟上高見の名は『徒然草』の「家の作やうは夏をむねとすべし」を踏まえ、扇屋にちなん で桧扇を添えて祝福した。また、赤染衣紋の方にはこれも新年の行事である「着衣始(きそはじ)め」を詠み込んで 言祝いだ。この日は正月七日、所謂七草、そして明日は子の日、小松引きの行事に当たっていた。墨河はそれにこと よせて、今宵も是非にとどまれと催促したのであったが、赤良は、家では待っていようから、きょうのところは引く とことわったのである。さて、その折の棟上高見の誘いの狂歌が残っておるので示しておく〉
〝 むつきなぬかの夜、四方赤良・朱楽漢江・加保茶元成・蔦唐丸などとぶらひ来ませしに、 雪さへふれ出せば 棟上高見 蝶ととび千鳥とふれる淡雪のこよひはとまれ七くさのはに〟
〈出典は『徳和歌後万歳集』(四方赤良編・天明五年刊)。淡雪を蝶と千鳥に見立てたのは、春の曾我狂言では兄弟の 衣裳が蝶と千鳥の模様と決まっていたから、正月にふさわしものとして詠み込んだのである。そしてその蝶に向かっ て七草の葉にとまれと呼びかけて趣向としたのである。朱楽菅江は赤良と並ぶ天明狂歌の領袖。加保茶元成は墨河と 同じく吉原の妓楼・大文字屋の主人。蔦唐丸は吉原細見の版元でもある蔦屋重三郎〉
◯『徳和後万載集』〔南畝〕①25(天明三年一月七・八日) 〝むつき七日、五明楼にあそびて人々歌よみけるに、八日はねの日なればけふもとどまり給へかしと、あ るじのきこへければよめる きのふからよそにねの日のまつなればけふはひと先うちへひかまし〟 ◯「南畝集 六」(漢詩番号1141)〔南畝〕③394(天明三年一月十三日賦) 〝 春夜、墨河生を訪ふ 五明楼下幽居を訪ふ 病より起きて清言興疎ならず 誰か識らん春風花柳の巷に 通宵共に一牀の書に対せんとは〟
〈大田南畝は吉原の遊郭・五明楼(扇屋)の主人墨河を訪問し、春宵の一時、世俗を離れて清談の世界に興じたのであ る。自らを東晋の竹林の七賢になぞらえたか。その折、墨河の妻・稲城の画いた「豊干禅師図」を見て、次ぎのよう に詩を賦している。してみると、幽居に会する自分たちを、唐天台の国清寺の三隠(豊干・寒山・拾得)に見立てた か〉
〝 稲毛女の画く豊干禅師の図に題す 長風何処よりか起る 猛虎自ら相馴る 眠り去るも当に夢無なるべし 醒め来たるも亦真ならず〟
〈絵柄は、豊干禅師が虎と共に眠っているところであろう〉
◯『巴人集』〔南畝〕②392(天明三年二月八日、四方赤良詠) 〝 はるのよ五明楼棟上高見がもとにて、あげ屋のくらちか、蔦のから丸など物語し侍りしに、 そばいでゝのち、おぼろ豆腐をすゝめければ 御馳走の御そばにはらもはるの夜は朧豆腐にしくものぞなき 返し 棟上高見 不馳走をそばから丸のとりなしにおぼろは春の夜のものとしれ〟 ☆ 天明四年(1784) ◯「南畝集 六」(漢詩番号1177)〔南畝〕③407(天明四年三月中旬賦) 〝 春夜、北里に遊んで墨河生を憶ふ 墨水舟に乗りて去る 留連酔うて未だ還らず 君を思ふも見るべからず 春月花間に隠れる〟
☆ 没後資料
◯『蛛の糸巻』〔燕石〕②281(山東京山著・弘化三年(1845)序) 〝(天明期、吉原)江戸町一丁目扇屋宇右衛門、
墨河
と号す、つまをいなげとて、夫婦とも、歌も書も千 陰門人にて、天明中の成家なりき、亡兄(山東京伝)したしかりしゆゑ、二人がたんざくなど、今猶家 に残れり、墨河が親はちひさき倡なりしに、墨河にいたりて大家となしゝとぞ、天明の頃、初代花扇東 江の門人なり、千蔭も東江も、天明中の名家なれば、これが門人となしたるは、墨河が一ツのはかり事 なるべし、しかおもふよしは、墨河がはからひにて、一ヶ月に一度づゝをいらんと称せらるゝ者へ、客 の多少により、品に位を付て褒美をとらす、しかるに、滝川が客の数花扇におとりたる事おほかりけれ ば、そのゝちの時、位よき品をわざと滝川方へもたせやり【花扇は表ざしき、滝川は裏ざしき、三間づ ゝなり】ふたゝび軽き品なるをもたせやり、つかひにいはするやう、今のはおもてざしきへ参るのなり しをまちがへしとて、よき品は花扇にへもちさりければ、滝川心に不足して憤発し、つとめに精を出し ければ、両妓一双の珠光をなしゝとぞ、是亡兄が目睫の話なり、おもふに、かゝる才量ありしゆゑ家を 起しつらん、墨河一代は盛なりしに、親骨をれしのち、今扇の風ありやなしや〟 ◯『浮世絵師伝』p182(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝墨河 【生】延享元年(1744) 【歿】寛政十三年(1801)一月十一日-五十八 【画系】 【作画期】寛政 鈴木氏、扇屋字右衛門と称し、吉原江戸町二丁目の妓楼の主人なり。和歌を加藤千蔭に学び、また俳句 をよくせり、画は北尾派風の肉筆美人図ありて、落款には此の号を用ゐたり〟 ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立) (「吉原」相印「古人・狂歌師」) 〝高見 棟上。江戸町壱丁目。扇屋宇右衛門〟 △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序) 「世田谷区」常福寺 〝本名鈴木宇右衛門。吉原妓楼扇屋の主人。和歌を千蔭に、狂歌を蜀山人に学び、狂名を棟上高見といふ。 享和元年一月十一日歿。年五十八。得行墨河竹日種信士〟
〈大田南畝が蜀山人を名乗るのは享和二年(1802)頃から、従って正確に言えば「四方赤良に学び」である〉