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☆ ひろしげ 広重 四代浮世絵師名一覧
〔嘉永2年(1849) ~ 大正14年(1925)2月4日・77歳〕
 △『絵本江戸風俗往来』p285(菊池貴一郎著・明治三十八年刊)   〔平凡社 東洋文庫版・鈴木棠三解説〕   〝〈遠藤金太郎氏の『広重絵日記』より〉「広重は定火消同心の子に生まれ二十七歳まで定火消同心でい    たのだから、火事の錦絵を描いていそうなものだが、一枚もない。当時火事の絵は発禁だから出版しな    い。よく消防展覧会に、広重落款の火事絵巻物が出ている。それを広重筆と思う人があるが、あれは四    代広重の菊池貴一郎氏の筆。四代広重は火事が好きで、その絵が得意だった」(中略)      遠藤氏はまた、従来初代広重のものとされていた印譜の多くは三代広重のものであること、それらは四    代の菊池家に残されたものであることなどをも記されている〟     〝付記〈以下、五世広重・菊池寅三翁からの聞き書き〉    四世広重、菊池貴一郎こそは寅三翁の実父で、大正十四年二月四日に七十七歳をもって長逝した。立斎    院広重良義居士という。逆算して嘉永二年の生れである。(中略)    さて、翁が示された過去帳には「生粋の江戸ッ子にして徳川家人の家に生れ、通称貴一郎、幼より書画    を好み、書は御家流、画は菊池容斎翁の風を学び、後浮世絵に入ル。広重の名を襲ひ、四世となる」と    しるされてある。(中略)    三代目(自称二代)広重も死んだ後の或る日、貴一郎は浅草へ行ったついでに東岳寺(台東区浅草松山    町七三番地)に初代広重の墓があるのを思い出しお参りした。以後あの方面へ行くたびにおまいりして    は、寺男に心づけを与えて墓の番を頼んだ。当時広重の墓は無縁になっていたので、住職は寺男からこ    の事を聞くと、貴一郎が墓参に来たところをとらえて、昔広重の世話をして縁故があるのだからぜひ名    跡を継いでほしいと頼みこむ。そんないきさつがあって、単に代目(ダイメ)を継ぐだけならば、というこ    とで四代広重になったわけだという。    その年代は明治の末か、大正のごく初めのことであると記憶して居られた。従って筆者〈鈴木棠三〉が    『絵本風俗往来』の成った時期にすでに四代広重だったかのように推測していたのは誤りであった〟    ◯『狂歌人名辞書』p188(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝歌川広重(四代)、初代門人、淡園、又、芦の葉山人と号す、通称菊池貴一郎、三世広重未亡人と談合    して四世を襲ぐ、大正十四年二月四日歿す、年七十八、白金三光町興福寺に葬る〟    △『増訂浮世絵』p270(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝三代広重の没後、その画系は全く絶えたが、曩に三代の未亡人、清水晴風氏等相図りて、予て安藤家と    親しかつた菊地貴一郎翁を推して四代広重とした。菊地氏は書道指南などに従事して居たが、もとは版    画を製作し、武者絵などを多く画いた人である。大正四年、余の編纂にかゝる「木版浮世絵大家画集」    を京橋渡辺木版画舗より出版した節、その画題は翁の筆になつたのである〟